3と8を書くと気持ちが悪くなる

近代脳神経科学は、脳機能障害に起因する症候学を、様々な形で蓄積してきた。しかし、それらによって人間活動全般を支える脳機能の全般に関わる障害が捉えきれているとは言えず、なお個々の症状を記載するに止めざるをえない場合も存在する。
我々は古典的神経症機制によるものとも、脳器質的な障害による知覚障害とも判断できない訴えのある症例に接する機会があった。ここにその詳細を提示し、症候論的、病因論的な考察を加えたい。
症例は60歳台前期の男性で、症状を自覚したのは数ヶ月前からである。男性はある製造業生産ラインの管理をしており、一日の仕事を終えた際に報告書を記入する。その際に生産量の数字を記入するのだが、3、5、6、8、9のように、丸みをもつ数字を書こうとすると違和感が出るのを自覚するようになった。
特に、3と8が二つの丸みを持つために違和感が強く、書き込みに躊躇するほどになる。当初、これは報告書書き入れの際だけであったが、次第に銀行や郵便局での伝票の書き入れ、私信に郵便番号を書くときにも出現するようになり、違和感が高まってペンを持つだけで冷や汗が出るようになる。
毎日の仕事で数字を書くことがプレッシャーになり、次第に不眠、不安がつよくなり、時にはそれを意識しただけで不安が強まり、心悸亢進が出現することもあったため、初診に至った。初診時、患者は情緒的な混乱もなく、自らの状態を客観的に述べていた。症状は数字書き込み状況と、それを意識したときに限られ、他の状況で出現することはなかった。
一方で、脳CTでは軽度の萎縮と脳室拡大、広範な脳白質変性が見られ、年齢を考慮してもその変化は病的範囲に入るものであった。しかし、認知機能に関しては自覚的にも他覚的にも、年齢相応の物忘れ程度の症状が見られる程度であった。初診時、これらの「字の丸みに対する違和感」は、先端恐怖などのバリエーションであろうと判断し、恐怖症性不安障害の一型として抗不安剤、少量の抗うつ剤、及び脳血流改善剤の投与を開始した。
不眠や不安傾向、パニック症状の出現などはすぐに収まったものの、「3と8を書くとき気持ち悪くなる」という自覚症状にはあまり変化がなく、数ヶ月後に本人が退職して年金生活に入り、違和感を感じる機会が減ったことを機に、薬物療法を中止し経過観察に止めることとなった。< 論文パロディ風は疲れたのでここまで>
基本的に、自分の診た症例の話は書かないことにしているが、かなり前のことだし、もう時効であろうと思う次第。実はこの症例は、その後数年ほどして認知症状が目立つようになり、かなり短期間に末期状態にいたって死亡したと伝え聞く。
数字の丸みに違和感を感じるというのは、今になってみれば前頭葉症候群の初期症状だったのかな、と思ったりする。数字の形のトリビアルな部分の知覚が、その意味より強く受け止められるという読字機能の崩れを呈していたのかな、などと。
まあ、それに気づいたとしても、打つ手はなかったのだが。一応家族には、CTの所見を説明する際に、脳器質性障害の進行で、今後思いがけない症状進展があるかも知れないという警告はしたが、そう聞かされたって何の役にも立たんわけで。
何よりも残念なのが、これがもうかなり前の話であるということ。今この症例を前にしていたら、地方学会ぐらいに出すために、結構頑張ってデータをまとめたに違いないのだ。もうみんな気付いているように、その際の演題は、当然「世界のナベアツ症候群」である。

