1956年の反聖火騒動

1956年、メルボルンでオリンピックが開かれたとき、ケアンズからメルボルンまでの聖火リレーが行われた。しかしそのリレーは、幾多の困難な事態の連続だった。
豪雨でずぶ濡れになったり、高温のためにランナーがバテてしまったり、何回か聖火が消えたことすらあった。そして、中継点のシドニーでは、オリンピック史上特筆すべき出来事が起こったのである。
当初、クロスカントリーのチャンピオン、ハリー・ダルトン選手がシドニーでパット・ヒルズ市長に聖火を手渡す予定だった。市長は簡単なスピーチの後、次のランナーに聖火を引き継ぐことになっていた。
3万人の観衆がシドニーの通りに集まり、ダルトン選手の到着を待っていた。新聞記者たちはカメラを抱えて歴史的瞬間を捉えようとしていた。そして、たいまつを高く掲げたランナーが現れた。人々は笑顔でこれを迎え、ランナーに近寄ろうとしたが、護衛の警察官がランナーを取り囲み、混乱は起こらなかった。
護衛警官と一緒にランナーは通りを進み、シドニー市庁舎に入っていった。彼は階段を上り、待機していた市長にたいまつを渡し、市長はうやうやしくそれを受け取り、用意していたスピーチを始めた。
その時、誰かが市長にこう囁いた。「それは聖火ではありません」。市長は自分の持っているものが何であるか、すぐさま理解した。彼が誇らしげに握っているのは、聖火のたいまつではなく、プラムプディングの空缶を打ち付けた椅子の脚で、缶の中では灯油を浸したパンツが油煙を上げていたのである。市長はランナーを捜したが、既に彼は周囲の群集の中に消えていた。
数年後、このニセ聖火ランナーの正体が広く世に知られることになった。彼はバリー・ラーキンという、シドニー大学で獣医学を学ぶ学生だった。彼は学生仲間の8人とこのイタズラを考えたのだった。
その目的は聖火リレーに対する熱狂をからかうためだった。そもそも、聖火リレーが始まったのは、1936年のベルリン・オリンピックで、ナチスの権威を高める目的で発案されたものであったからだ。当初、ラーキンはたいまつを持って走るはずではなかったが、ランナー役の学生が直前になってひるんでしまい、仕方なくネクタイを締めたラーキンが走ることになった、
本物の聖火ランナーは、ラーキンを本物だとおもった群集に阻まれ、到着が遅れていた。警察官に誘導されてようやく進むことが出来た。ラーキンは後にこう語っている。「あんまり騒がしいのでうろたえたよ。フラッシュはどんどん焚かれるしね。ニセのたいまつなのはミエミエなのに、あの騒ぎになったのは本当に不思議だったね。そもそも、市庁舎で自分がどんな風に振る舞えまえば良いか、そればかり考えていたんだ。市長に助けられたと言うところかな。たいまつを渡したらくるりと後ろを向いて、群衆の間を抜けて、市電に乗って大学に帰ったんだ」。
市長はこのイタズラをユーモアと捉えたが、何が起こったかを知った群集はそれでは収まらず、数分後に本物の聖火が到着したときには暴動寸前の事態になった。子供を抱えた女性は恐怖の叫び声を上げ、市長は群集に落ち着くようにと呼びかけたが、ランナーを通すためには警官隊の出動が必要であった。次のランナーが走り出すためには、軍隊のトラックが先導して走路を確保する必要に迫られた。
大学ではラーキンはヒーローと呼ばれ、翌朝の朝食の席ではスタンディング・オベーションで迎えられた。学長は彼のところに歩み寄り、「よくやった、息子よ」と褒め称えたという。
2000年、オリンピックがまたオーストラリアのシドニーで開かれたとき、聖火リレーも再び行われた。新聞はラーキンによる56年のイタズラを紹介し、当局は同じことが起こらぬように入念な準備を重ねた。
聖火リレー順路には警備係が並び、人々から聖火を遠ざけたため、観衆はたいまつも見えなかったと不満を述べた。10代の少年二人がたいまつの奪取を試み、一人の若者が消火器で聖火を消そうとしたが、いずれも失敗しラーキン事件の模倣は成らなかった。<以上こちらよりほぼ全訳;参考(Wikipedia)>
50年前の反聖火行動は、洒落第一でなかなか味がありますな。暴動になりかけた、というのがちょっと頂けないけれど。ネクタイしめた聖火ランナーというところで、判りそうなものだけどね。ラーキン達が危惧し、からかおうとした無意味な熱狂の本質は、ミエミエのイタズラすら見抜けない操作された大衆の怖さなんでしょうな。
今回の北京オリンピックの聖火は来週オーストラリアを回るそうで、マスコミは70代に達したラーキン獣医師に取材を求めているが、彼は昔のいたずらに関しては雄弁ではあるものの、今回の世界各地の反聖火騒動に関しては、政治的過ぎるとしてコメントを拒否している。確かに、ちょっと洒落では済まん相手であるわけで。<参照記事>

