病院へ行こう:番外編その1
9月の終わり、職場に辿り着き、さてこれからまた仕事かと小さなため息が出たとき、娘から電話が入った。たった今、妻の容態が急変した、意識水準が低下し、心室頻拍を起こしていると。
看護婦さんに後を頼み、急いで妻が入院している病院に向かう。いよいよ来るものが来たかという思いと、大手を振って仕事を休める安堵感が混じりあい、なんだか雲の上をふわふわ歩いているような、妙な気分である。
あまり接続のよくない電車を乗り継ぎ、妻の病室に着いたのは連絡を受けて二時間近くたったころであったが、状態は変わっていなかった。呼びかけにも反応はなく、枕元におかれたモニターは振幅の深いサインカーブを呈していて、120から150あたりの心拍数を行き来していた。
「もう対光もないよ」、付き添っていた長女が言う。こちらも何か言ったほうがよかろうと、「リドカインは使っているのかな?」と見当はずれな質問をする。「使ったらそれっきりだろうから、何もしないよ」と、極めて理性的に答えられ、後は黙り込むしかない。
妻は8年ほど前に乳がんになり、自覚症状による発見ではあったものの、リンパ節や他臓器への転移は起こっていない段階だと判定されていた。それでも発症部位が少々面倒な場所であったため、乳房温存はできず、乳房全切除術をうけた。
がん組織はHER2受容体が陰性であったが、ホルモン感受性が高く、術後の再発防止対策もやりやすいのではないかということだった。主治医は乳腺外科ではかなりの症例をこなした専門医だが、あまりアグレッシブな方針をとらない人で、「念のため抗がん剤」とか「念のため放射線」というようなやり方を批判する立場だった。
彼の経験からは、再発率は約3割というところだから、まず一息つけるのではないかと言われるのだが、イチローだって打率が3割で好打者なのだ。それほど安心できる数字だとも思えなかった。
そうした心配をよそに、タモキシフェンという抗エストロゲン製剤の服用だけで、術後は極めて好調であった。しかし、二年半ほどたったころ、例の陰気な3割打者は着実に進塁してきたのである。定期検査で、肺に多発散在性の転移巣が見つかり、タモキシフェンをアロマターゼ製剤に変えたりしたが、今度は肝臓にも同様の多発性転移が出現した。
ホルモン剤ではもう無理だろうという判断で、週に一度の抗がん剤投与が始まる。まず使ったタキソールという薬は、脱毛や爪の脱落という目立つ副作用はあるものの、身体そのものへのダメージが比較的少ないため、外来投与もやりやすい。
それでも併用する抗ヒスタミン剤による眠気やふらつきもあり、電車で長時間通うのもきついということで、普通なら自宅近くに転院ということになるのだろうが、思い切って病院の近くに転居することにした。業界人としては、今受けている治療の質を他の病院に求めるのは無理なのがわかるのである。これは最先端医療が受けられるという意味ではなく、充分な説明と納得が得られ、信頼を寄せられるということだ。
とはいえ、この病院の乳腺部門には信じがたい数の患者が押し寄せていて、必ずしもスムーズとはいえない外来処理管理もあいまって、遠くから来ようが近くに住もうが通院は一仕事であった。部門の責任者である妻の主治医なんか、どう見ても私の4倍は働いていた。はじめに会ったときはそこそこ肥満系であったのに、数年の間にえらく痩せてしまい、これは主治医のほうが先にアウトになるのではないかと、本気で心配したものだった。



10月 30th, 2008 at 1:23 AM
お悔やみ申し上げます。
H山の病院の近くの住人なのですが、夜は意外と海風で冷えますからご自愛下さいね
10月 30th, 2008 at 2:51 AM
全然気付きませんでした。お悔やみ申し上げます。
こういう例は『5年生存率』では生存になってしまうんでしょうか?
10月 30th, 2008 at 6:19 PM
数回好き勝手なコメントを書き残したものです。
こちらのファンだと書くと変ですが,他に申し上げようがありません。
誠に大変であった状況を拝読しておどろきました。
お悔やみ申し上げます。
どうかご自愛下さい。
10月 30th, 2008 at 11:11 PM
>『5年生存率』では生存になってしまうんでしょうか?
もちろんそうなるわけですが、乳がんでは普通、5年でなく10年生存率を採用するらしいので、統計的には予後不良例ということになると思います。
まあ、発見時の状態とか、治療内容とかまったくバラバラなので、どれだけ統計的意味があるのかは怪しいと思いますが。
11月 10th, 2008 at 10:07 PM
はじめに使った抗がん剤はタキソールであったことを思い出し、訂正。
タキソテールはその後。なんでこんなに似たような名前を付けるんでしょうね。間違って投与して、死亡した例もあるというのに。
自分も間違えているんだから世話はないけれど。