心の病は脳の傷
どうした風の吹き回しか、勤務先病院の理事長からこの本をプレゼントされた。またトンデモ趣味の始まりかと、机の上に2週間ほど置いていたが、読後感でも聞かれると困るので仕方なく読む。まあ、30分ぐらいの我慢ですけれど。
この本は医療ジャーナリストが、独自理論で精神科治療に当たっておられる、松澤大樹医師の理論と実践を紹介する形になっている。松澤氏は東北大学の放射線科教授時代から、高次脳機能の画像診断に従事しておられ、退官後、その経験から自らの精神科治療学を確立して臨床活動を行っているらしい。本の中身を信じるなら、すでに3000名以上の患者さんを治療しておられ、みな「どんどん治って喜んでくれ」ているという。
松澤氏は私より干支二回りほど上であるが、放射線科教授時代には精神科疾患治療はしていなかっただろうから、10年ちょっとの診療期間だと思われ、それからすればかなりの症例数である。それらの患者さんの多くが「どんどん治って」いるなら、それは素晴らしいことであろう。しかし、本をまとめたジャーナリストの姿勢が、現在の医学界では本当に患者のためになる理論や実践は無視されるという決め付けを前提にしていて、あまり客観的な話が出てこないのが難点。
3000人もの患者さんを成功裏に治療していれば、サービス業としての評価が上がるのは必須のはずで、回りの治療機間にしても無視するだけで済むものではないだろう。国際雑誌への論文提出がないのも、査読で無視されるからというような説明だが、査読なしのネット科学雑誌だってあるのだ。画期的なものなのに、無理解を理由に広く発表しないという、いわゆる世に入れられぬ「トンデモ理論」パターンを呈しているのがちょっと気になる。
松澤医師の主張を大雑把にまとめると、精神分裂病やうつ病、躁うつ病は同一疾患であり、アルツハイマー病も基本的には同じものだと言うことに尽きる。そして、それらはMRIで扁桃体の損傷として画像上でも客観的に認められ、さらには血中ドーパミン濃度とセロトニン濃度の異常、その両者のバランスの崩れとして現れると言う。
今までの精神科薬物治療が部分的にしか効果を持たなかったのは、ドーパミン遮断薬やセロトニン再取り込み阻害薬だけを単独で使い、しかもドーパミン、セロトニン量の測定という、客観的指標を持たずに闇雲な増量ばかりやっていたからだ、という主張。松澤医師は基本的に抗精神病薬と抗うつ剤を併用する。それによって、治癒率は目に見えて改善したという。それで、分裂病とうつ病圏、松澤氏のいう「混合型精神病」の改善率はどのくらいだと言うと、治癒と治癒に向かいつつある群が89.9%だという。
このあたりまで読み進んで、いい加減いやになる。まず、この本ではどんな患者さんたちを対象にしているのかが全くわからない。少なくとも、松澤式治療を開始するときには急性期ではないのは間違いなく、行間から読み取れることは、だらだらと大量の薬を飲まされているが、もう一つすっきりしないというような人が対象らしいということ。
こういう例では、無茶な大量使用とか同効剤の無意味な併用をやめ、昔ながらの標準薬物療法に切り替えるだけで、かなりの率で改善が得られるものである。身体疾患をずっと診てきた人は、精神科医というのは訳の判らん事をいう精神病者の話を我慢強く聞き、治りもしないのに長く付き合うのが仕事だと思っている人が多いが、実際はかなりの率で治癒する人々を相手にしているのである。
いわゆる一般病院の外来診療が中心という立場からすれば、私と松澤医師は同じような人々を対象にしていると思うが、数年程度の期間に限れば、その治癒改善率はほとんど同じだと思う。9割は一旦直り、1割がこじれる。ただ、長い期間をとれば、直ったと思っていた人もまた再発することはあるので、完全治癒とは恥ずかしくて言いにくいというだけである。
松澤氏の主張のキモである、分裂病とうつ病群は基本的に同じもので、扁桃体の損傷がその本態だというのは、保留とするしかない。ただ、単一精神病学説というのはそう目新しいものではなく、昔から言われていることではある。特に分裂病と躁うつ病に関しては、同一遺伝子の異常であるという意見がほぼ確立されかけている。
薬物の使い方も、抗精神病薬と抗うつ剤の併用というのは当たり前のことで、そう「独自」でもないんですがねぇ。私はジプレキサとSSRIという組み合わせを、うつ病圏にも分裂病例にもよく使う。軽症例ではスルピリド+三環系かSSRIというのが多い、というかそればっかり。もちろん幻覚妄想例と抑うつ例では配合を変えるのは当然。
扁桃体の損傷について保留せざるを得ないのは、結構、精神科疾患症例の脳MRIは撮っているのだけれど、いまだかって「扁桃体の損傷」という所見に出くわしたことがないからである。なにせ若い人のMRIで所見があることは滅多にないので、何か見つけようと必死になるが、やっぱりないものはない。もちろん、長らく治療を受けて、もしくは治らぬままに経過して歳をとり、ボケが加わってきたというような人に、海馬の萎縮所見を見ることはよくあるけれど。
まあ、松澤医師が推奨する扁桃体をもっとも適切に観察できるような角度でスライスしていないので(その方法に特許をとられたので勝手にやれないそうだ。論文書いてオープンにすべきなんではないですかねぇ)、そのせいで見つからないのだと言われたらそれまで。でも、扁桃体に傷が入っているなら、スライス角度が違っていたって、見えないはずはないと思うけどね。
ドーパミンやセロトニン濃度に関しては全く測定もしていないので、何にもいえない。脳血流関門と言うものがあるので、それらの血中濃度が脳内状況を反映しているのか疑問を感じないでもない。やってみるにしても、保険点数に未収載なので、実費になってしまうし、いわゆる混合診療にならんかが心配。検査だからいいのかな。ただ、そこまでやっても治療法にそう変わりもなく、私の診療結果とそう変わるとも思えない成績が得られるだけなら、無理してみても仕方ないかなと思ってしまう。
そんなわけで、トンデモというには妙な決め付けがあるわけではないが、その結果に関しては、精神科医療の底辺レベルと比較したらそれなりと言う程度のことで、少々御自分の治療成績を過大評価しすぎなんではと思う。扁桃体の傷とか、ドーパミン、セロトニン濃度の変化などは、本当であったらいいなあと心から願うのみ。せめて自分の症例のMRIを、もういっぺん見直してみることにしますか。



2月 24th, 2009 at 6:58 PM
「思考」のすごい力のp245に、
海馬とうつの関係が書いてあるけど、
どう思います?
2月 24th, 2009 at 9:12 PM
「『思考』のすごい力」のことでしょうか?(こんなところにアフリエイトでゴメン)
読んでいないので判らないけれど、客観的に実証できるものなら、将来「事実」として認められることもあるかもしれませんね。
少なくとも、アマゾンの宣伝文句を現場感覚で見る限りでは、根拠のない個人的信念でしかないように思えます。
もっとも、多くの科学的事実が、そういう信念にこだわった結果確立されたものであるわけですが、正直言って、これに関しては脳科学ブームに乗っかった「たわごと」レベルの雰囲気が漂っているような気がします。
なんであれ、ちゃんとした実証は提唱者がやるべきことで、現場の人間は「道具」として使えるものしか相手に出来ないものです。
3月 3rd, 2009 at 12:51 AM
>身体疾患をずっと診てきた人は、精神科医というのは訳の判らん事をいう精神病者の話を我慢強く聞き、治りもしないのに長く付き合うのが仕事だと思っている人が多いが、実際はかなりの率で治癒する人々を相手にしているのである。
>9割は一旦治り、1割がこじれる。ただ、長い期間をとれば、治ったと思っていた人もまた再発することはあるので、完全治癒とは恥ずかしくて言いにくいというだけである。
長年の体調不良は精神的な側面の影響も大きいと思い、たまに精神科に行ってみたりもするのですが、何かプラスの方向の改善とかアドバイスとかを得られたためしが有りません。
それに、本当に具合が悪くなると予約をしていても行けなくなる事がしばしばなので、予約制の所は通えなくなり(評判のいい所は混んでいるので予約制のところが殆どですよね)、結果治療を中断しなければならなくなります。
9割が一旦直ると言うのは、私にとっては驚くべき数字です。めげずに通うべきなのでしょうね。まあ、そう出来るうちは症状が軽いのでしょうけど・・・。
3月 4th, 2009 at 1:10 PM
9割と言うのは、松澤医師が自称しておられるのと同じようなかなり都合のいい見積もりです。何せ彼は、うつ病と分裂病を区別しないので、仮に一過性うつ状態を沢山見ていれば、完全治癒率は限りなく100%に近づくことになります。
それでも、うつ病圏に限れば、薬物治療を続けながら何とか社会生活から脱落せずに済むというような例を治癒と言っていいなら、回復率は100%に近いとは思いますが。まあ、そこまで漕ぎ着ける前に、自殺されたりする例があるわけで、それはまた薬物療法とは別のテクニックがいるのですが。
卒後数年ぐらいまで、自分の精神科医としての腕前にかなり自惚れる時期があるもので、何せ、標準的診断に基づいてちゃんと薬物治療をやれば(多少の独自屁理屈を伴うことも多い)、分裂病群であっても、みなコロコロ直っていくと感じるのですから。
先輩医師たちはいい加減なことばかりして、こんなに慢性患者を増やしてしまったんだな、精神病に偏見が生まれるのも当然だ、これからは精神科医のアマデウスとして、この業界を根本的に変えてやる、というぐらいの勢い。笑っちゃうが、結構同じ経過をたどる人はいるようです。
そのうち、そんな単純なものではないということは思い知ることになりますがね。松澤医師は、まだその段階に至っていないんだと思います。ネガティブな結果を受け入れることが出来ない、もしくは選択的無関心を決め込めるタイプであるような気もするが。
[追加]ちょっと、上の話とは視点が違う内容で失礼。
以前も何度か中途半端に書いたことがありますが、現在の一般的うつ病治療の問題点は、古典的なメランコリー親和型うつ病の治療方針をディスサイミア系気分変調に適応してしまうことや、双極性障害の診断を誤ることに主な原因があると思っております。
「心の風邪」という妙に楽観的な言葉と、SSRIの過大評価がさらに問題を深めているのではないでしょうか。無理しなければそのうち直るといわれ、仕事もやめ、パキシル飲んですでに数年、話だけは聞いてくれる、なんて治療を受けている難治例とも思えぬ人が結構いるのですが、よく我慢しているものだと思います。こういう方が転医してきてごく一般的な方針に切り替え、改善してやたらに感謝されたりすると、むしろこちらが面食らう。
ドクターショッピングという言葉が変に否定的に語られるのですが、もっと被治療者側が流動的に治療を求めるようにしないと、状況が固定化するばかりではないでしょうかね。それこそ、松澤先生のところにも、難治例がどんどん押し寄せていけば、その治療の検証にもなるだろうし、評価すべき点があれば、世の中に還元される契機になるでしょう。