「桜姫」観劇
昨夜は渋谷Bunkamuraのシアターコクーンで、「桜姫」を観劇。先月、宮本亜門の「三文オペラ」でえらくガックリだったので、今回は楽しめるかとかなり期待していた。
結論からいうと、評価はえらく微妙。大体、この芝居が下敷きにしている、歌舞伎「桜姫東文章」に対して、かなり通じていないと話がよく分からない。
たいがいの人は、え?結局どうなったわけ?と、クエスチョンマークをいくつか頭の上に浮かべながら帰宅の途に付いたに違いない。
そんな話の筋なんかどうでもいい、舞台の上に演劇的エネルギーが凝集された時空が作られたかどうかなんだよ、というような鑑賞的立場もあるかもしれない。しかし、何だか分からん話にはやはり感情移入しにくいものだ。
私は4年ほど前に、もっとマイナーな劇団がやった「桜姫」を見ていたおかげで、話がまったく見えないこともなかったが、逆にこの翻案の方向性はちょっとピンボケではなかろうかと思ってしまった。
4代目鶴屋南北の「桜姫東文書」は、簡単にまとめると、衆道心中で生き残った僧清玄の、その相手の白菊丸の生まれ変わりである桜姫への執着が一つの軸になっている。もう一つは、名家に生まれながら、盗賊権助に家族を殺され、自らもレイプされてその子供を生むという苦難を受ける桜姫が、権助へのいささか極端な性愛感情に翻弄されながら、数奇な運命をたどるというもの。
歌舞伎では、権助への思いを断ち切って仇を打ち、ついでにその子である我が子も殺しつつ、お家再興という「ハッピーエンド」に持ち込まれる、これはこれで、はぁ?という内容ではある。歌舞伎の定石ともいえるけど、話もやたらにアドホックな偶然の一致ばっか。
今回の芝居は、設定を南米に移し現代劇化したということが売り。勝手に、ブエノスアイレスあたりの娼館を舞台にして、忌まわしい過去を清算しようと試みつつ、敵となる人間への狂おしい愛にとらわれている娼婦が、希代の悪女として大化けするような話だろうと想像していた。大竹しのぶに似合いそうではないか。音楽はピアソラかなんかで、タンゴがかっこよく決まる舞踊劇に違いないなんて。でも、それでは大竹しのぶに似合わんか。
実際は、60~70年代演劇を強く意識した作りで、あんまり様式的な決まり方というのは見られなかった。それでも新劇の類ではあるわけで、歌舞伎の言うならば古今からパクりまくった隠喩換喩を総動員して、台詞や所作以上のことを表現する無時間的なスタイルがうまく持ち込めないものだから、何だかひどくぎこちないストーリー進行になってしまうのが、逆に興味深い。
なにせ台詞の中で、場面や状況の転換についての違和感が何度となく繰り替えされるぐらいである。節々に登場する狂言回しの笹野高史と大竹しのぶ(同時に桜姫=マリアでもある)の動きも、その辺をうまく補完しているとは言い難い。
最後は桜姫=マリアはどこかにいってしまい、清玄=セルゲイと権助=ゴンザレスの幽界での和解みたいなところに落ち着いてしまうのも不可解。マリアはその後も娼婦で楽しく暮らします、というような感じになっていたような気がするが、あれは私の誤解なんだろうか?
役者達は皆優秀な人たちだとは思ったものの、勘三郎と大竹しのぶ以外はちょっと台詞がくぐもっていて、よく聞き取れないのが難点。舞台装置の問題もあるのかもしれない。宮本亜門の時のように、演出と演技の不在を大音響でごまかすというようなことはなかったのが救いだが、これだけ台詞が聞き取りにくい芝居を見ると、PA使ってくれた方がよかったかな、と思ったのは事実。



