ベンガルの虎
昨日は、都内三鷹まで出かけて新宿梁山泊なる劇団の「ベンガルの虎」を観劇。唐十郎1973年の作品である。
新宿梁山泊は唐十郎の状況劇場出身の金守珍が旗揚げした劇団で、60年~70年にかけて、いわゆる小劇場運動を牽引していた状況劇場のエネルギーを今の時代に再び蘇らすことを目的としているらしい。何のために?という疑問は保留。
公演場所は三鷹市井の頭恩賜公園内、かのジブリの森美術館のすぐ隣のスペースに張られたテントである。周りに全く道案内などが設置されていなかったので、田舎ものはちょっと戸惑ってしまい、危うく見過ごしてしまうところでありました。
テント公演では、会場空間そのものの非日常性というのが演劇的効果の一部となるもので、昔から観客の入場誘導や場内整理も既に芝居の導入部として演出されるものだ。今回もその伝統はちゃんと維持されていたものの、なんとなくパロディという感じが付いて回るのは仕方ない。
肝腎のお芝居のほうは、少なくとも私には結構楽しめるものだった。かっての状況劇場そのまんまのテンションで展開される、一見支離滅裂ながらかなり計算された重層的構造劇は、同時に充分なエンターテインメント性を備えているのだ。まあ、かなり人の好みを選ぶものの。
どんな話かというと、一言で言えば「ビルマの竪琴」の水島上等兵が、いつの間にか日本に帰ってきていて、ビルマ各地に散らばる兵士の白骨をハンコの材料として輸入する商社マンになっているというもの。彼の妻はそれを知らされず、夫の帰還を待ち続け、せめて、彼が約束した「バッタンバンの象牙」が送られて来ないかと、ホステス暮らしの日々を過ごしている。
この「ビルマの竪琴」の話と、明治期に東南アジア各地で、村岡伊平冶という男によって展開された娼館チェーンで働き、死んでいったからゆきさんたちの話が、「行李で送られてくる白骨」というイメージで結合されている。
水島の妻が待つ「バッタンバンの象牙」は、死んだ兵士たちの骨でもあり、からゆきさんであった彼女の母の骨でもある。この二つのイメージが圧縮され結合されて、展開というか、拡散というか、行きつ戻りつしながら話が進んでいくのである。
水島の妻を演じた女優は、この公演を機に役名である水島カンナに改名するほどの入れ込みようで、その演技もなかなかのものではあったが、こちらはやはり彼女を見ながら、昔の李礼仙との比較をしてしまうのは、まあ仕方ないところであろう。本来は唐十郎が演じたであろう役柄の俳優が、もう一つの存在感だったのもかなり残念。
この手のテント公演では、フィナーレでは外の空間と継いだスペクタクルもどきを見せるのが伝統的手法になっているもので、どんな技を見せるのかと楽しみにしていたら、なんとパワーショベルで主人公の女優をすくい、高速でぶん回すという趣向。少なくとも李礼仙ならこれはやれませんな。
なんだかんだと言いつつ、昔のアングラ芝居の約束事をちゃんと守り、伝統芸能として維持してくれている姿勢にかなり満足して帰宅。やっぱり私も、あの時代に今でもとらわれているんだなぁと言うのが最終的感想である。
ところで、なんで「ベンガルの虎」なんだろう。山下奉文将軍も、怪傑ハリマオもでてこなんだぞ。え?それは「マレーの虎」だって?


