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医学隠語としてのドイツ語

2009年11月15日 at 9:41 pm in 医学・科学一般 | 13 コメント »

ツイッター経由で「医療者間で使われるドイツ語隠語の造語法に関する考察」(注:PDF)なる論文を知り、一読。今の時代、どこまでドイツ語が医学業界内で隠語として機能しているのか、私は多少疑問であるが、この論文によれば結構生き残っていると言うことである。

看護大学の教官が書いた論文と言うことで、看護婦さんの間で今も使われているものを主に集めたようであるが、確かに医師よりは看護師用語として使われることの方が多いかもしれない。最近は慣れたが、看護婦さんから「Aさんの家族にムンテラお願います」といわれるたび、いまだに少し狼狽えるものなぁ。

私らが研修医だった頃は「ムンテラ」と言う言葉は、今とはちょっと違う意味で使われていた。これはドイツ語の口=Mundと治療法のテラピーを組み合わせ、「口療法⇒言葉で説明して安心させる」というような意味で、それも「適当にその場限りの言葉でごまかす」という素人蔑視のニュアンスが含まれていたものだった。もちろん日本の造語で、ドイツで通じる言葉ではない。

それがいつの間にか、インフォームド・コンセントを得るための正当な説明まで、内部的にはムンテラと呼ばれていたりする。もちろん、そんな言葉を使わず「説明」といえばいいと正統的なことを言う人はいるが、日ごろ説明=ムンテラですんでいるので、今更もと戻りしないようだ。

私がムンテラに狼狽えたのは、精神科ではあまり「ムンテラ」を使わないからで(普通に『面接』とか『インタビュー』というのである)、総合病院で働き始めたとき、それが一般名詞として使われているのに驚いたのだった。今勤めている病院も総合病院流れなので、やはりムンテラは使われ、入院の法的手続きに関する説明から、病状に関することまで、全部ムンテラである。

ごまかすというニュアンスがなくなったとは言うものの、やっぱり私には、その場限りというか、ここではこれを確認しておけば充分というような、理解よりは口実を目的にしたものと受け取られて仕方がない。医療と言うものが、訴訟の回避を第一に考えて運営される様になったので、正当な説明であってもある意味戦術的な要素として位置づけられるのが、その意味変容の理由なのかもしれない。

その他、使われているドイツ語には、エッセン(Essen=食事)とか、エント(Entlassenの一部略=退院)などがあるが、一番有名なのは「ステる」であろうか。これは”Sterben”(死ぬ)を省略したもの。本来の発音はシュテルベンなので、縮めたとしてもシュテると言わねばならないはずであるが、何故か日本語的にステると発音される。

実際はもっとあっけらかんと「ステっちゃった」と言われる場合のほうが多い。露骨に「死んだ」というのを物忌む気分もあるのだろうが、やたらに軽いのが難点で、なんかその辺でつまずいてひっくり返ったような雰囲気である。なすべきことはやった上であの結果だったんだから、抱え込んでストレスを避けようと言う深意があるのかもしれない。患者家族からはあまり納得が得られにくい「隠語」であろう。というか、隠語になってないけど。

医学に限らず、どんな業界にもそこだけで通じる隠語はあるもので、それも外国語がその起源であることは多い。私の父親は測量技師で、センチメーターのことを必ずサンチというのが解せなかったものだった。後になって、それがフランス語である事を知って驚いた。測量製図にはメートル法を使うので、尺貫法の時代にはそれ用の言葉はフランス語しかなかったらしいのであるが、父親とフランス語というのはどうにも折り合わぬイメージであった。

医学においても、オランダから短期間英国を経て、明治期から戦前までその知識輸入先を主にドイツに頼ってきた経緯から、言葉もドイツ語を使わざるを得なかったと言う事情があるのだろう。私が医学生だった頃は、医学のドイツ語支配が終わろうとしている時代であったが、それでも上の世代の医師はみなドイツ語をメインに使っていた。

使っていたと言ってもいい加減なもので、そのカルテ(考えてみればこれもドイツ語。ただし向こうでカルテと言ってもカードを意味するだけだけど)記載は例えばこういうものだった。「Als Morgen, Bauch SchmerzがPlötzlichにBeginnenし、Magen mittelを飲んでRuheをgenehmenしていたものの、Schmerzはますますzunehmenしたため、Ein Arztをbezuchenしたところ……」と言う具合。

まさしく「疼痛ひとたび来らんとする哉、よく去ること能わず……」と言った「漢文」と同じ調子で使われるのである。内科の教授が臨床講義でこういった病歴カルテを読み上げたとき、隣に座っていた一番成績の良い男が、「おい、モルゲンってなんだ?」と真顔で尋ねてきた。「朝だよ。朝から腹が痛くなった、ということだね」と答えると、その男は「バカ野郎が!」とノートを破り、教室を出て行ってしまった。

もちろん、答えた私がバカ野郎なのではなく、意味のないところでドイツ語を使うその教授に言っているのである。クラスで一番いい加減な私に質問してしまった悔しさもあったのかもしれない。その男は後に某大学の臨床系教授になったが、おそらく術語にドイツ語を使うことだけはしなかったと思う。

それでも、精神科領域では結構ドイツ語が使われる。それは、精神病理学というものがほぼドイツ文化圏の中だけで作られたと言う事情による。アメリカに渡って花開いた(ことになっている)精神分析学にしたってドイツ産(オーストリーだけど)であり、自我心理学的つけたしの端緒だってドイツ製である。その術語がドイツ語になるのも仕方がない面がある。

といっても、精神科医学で使われるドイツ語は別に「隠語」として使っているわけではなく、なるべく概念を拡散させまいとする目的で使うのである。日本語にして意味変容を避けようとすると、注釈ばっかりになってわずらわしくて仕方がないので、原著で使われているドイツ語を使うわけである。

と言って、そういう使い方をするような言葉がそう数多くあるわけでもない。それこそ「ムンテラ」として患者さんや家族に説明するなら、表面的な症状と診断との統計的な組み合わせについて説明し、それから「エビデンス」に富む治療法を提示するのが一番わかりやすい。そういう面からは、妙なドイツ精神病理学の言葉など不要であって、DSM-IVの羅列的記載に頼れば充分なので、ここでもドイツ語はほぼステりかけ。

医学におけるドイツ語の衰退の背後には、もう一つ「教養」というもの自体の衰退があると私は思う。それは学生言葉としてのドイツ語がまず姿を消したと言うことに象徴されると思うのだが、それについてはまた別の機会に。

13 Responses to “ 医学隠語としてのドイツ語 ”

  1. # 1   遅れてきた少年 Says:
    11月 16th, 2009 at 11:16 AM

    そういえばクランケなどというのも和製ドイツ語ですね。
    小津安二郎の「東京物語」で母親が危篤というときに長男の医者が主治医とブルートドリュックがどうしたレアクチーレンがどうしたこうしたという会話をかわす場面がありますが,あのころ(高度経済成長期前後)から医学のドイツ語は衰退していったのでしょうか。

  2. # 2   小狸工房 Says:
    11月 16th, 2009 at 1:44 PM

    脈がプルス、鼻がノズルと中途半端に通じる言葉もあったりして。
    戦後、急速にアメリカナイズされる中にあって、一部知識層の保守的反動が返って言葉の化石化を招いたとかどうでしょう。

  3. # 3   キケロ Says:
    11月 17th, 2009 at 6:58 AM

    看護師をやっていますキケロです。

    マーゲンチューブなんて面白いですよね。
    ドイツ語、英語の組み合わせで。

    歴代の方が未だに使われているので、習慣的に使われています。若い方は何処の言葉か知らないけど、皆が使っているのが現状です。

  4. # 4   遅れてきた少年 Says:
    11月 17th, 2009 at 10:36 AM

    酵素の読み方はいまだにドイツ語式でしょう。少なくとも書くときにはプロテインカイネースじゃあなくてプロテインキナーゼと書きますね。ところでほんのわずかですがフランス語も入っていますが,あれはどこから来たのでしょうか?デブリドマンとか,精神科でいえばラポールとか。。。。

  5. # 5   webmaster Says:
    11月 17th, 2009 at 1:28 PM

    外科の一部と、神経内科一般にフランス派がいますね。私もたまに、”marche a petit pas”なんて所見を書く事がある。継ぎ足歩行というより、なんか洒落てる気がして。

    私の研修医時代は、直接の教官がフランス学派に詳しかったので、結構フランス語の術語を耳学問で使っていたのですが、いまやきれいさっぱり忘れている。

    たまにpsychose passionelleとカルテの片隅に書くぐらいですわ。

  6. # 6   webmaster Says:
    11月 17th, 2009 at 1:37 PM

    >マーゲンチューブ

    昔はマーゲンチューブもちゃんとマーゲンチューベと言っていたのでしょうが、日常的なチューブのほうに引っ張られたんでしょうね。

    MTと呼んで、何の略かはもうわからないというところも多いのではないでしょうか。Movable Typeだと思っていたりして。

  7. # 7   メタルヘッド Says:
    11月 17th, 2009 at 10:47 PM

    英語圏の人と喋っているとナトリウム、カリウムといった基本元素はドイツ語の方がいいと思います。なんかダサイなと思うのは明治の文豪とかヒットラーの演説みたいにrを全部「ル」にするの。ヘルツとか。バイエルンとか。ドイツ人が喋ってるのを聴くとヘアツとかバイヤーンにしか聞こえない。でも私のドイツ語の先生はスイス人だったので「私の名前はハイナーじゃなくてヘイネルと発音してね」でした。

  8. # 8   元院生 Says:
    11月 19th, 2009 at 4:11 AM

    ところでドイツ本国ではドイツ語なのでしょうか、英語は混じっているのでしょうか?

  9. # 9   webmaster Says:
    11月 20th, 2009 at 8:02 AM

    ドイツではあんまり英語はまじえないんではないでしょうかね。たまに読むドイツ語圏の論文からの推測ですが。なにせポテトが通じない国で。

    米国では例えば心電図のことをEKG(エーカーゲー)と言ったりするようです。ほかの例は知らんけど。

  10. # 10   メタルヘッド Says:
    11月 21st, 2009 at 2:21 AM

    そういえば先生が以前ここで紹介してくれたスパッドガン、実は小生作ったんですよ。ど田舎の半導体工場立ち上げの最中、まあ冬はスキー三昧ですが春とか他にやる事無いので。田舎だからホームセンターに材料たんまりあるし。でアメ人同僚に「なんでSpudgunっていうの?」と聞いたら「よく知らねーけど、Spudってロシア語で芋って意味だったと思うよ。」とまたホラを吹き込まれました。さっそく3階の工場システム立ち上げ応援に来ていたロシア人の美女軍団を捕まえて「ロシア語でお芋はなんて言うのですか?」と尋ねたら「カトフル」…なんでえドイツ語と一緒じゃねえか!

  11. # 11   pmj Says:
    11月 25th, 2009 at 12:37 AM

    そういえば、Roux-en-Y って大抵フランス語英語混ぜてますね。
    ルーザニグレックなんて言ってるの聞いた事ないです。

  12. # 12   webmaster Says:
    11月 25th, 2009 at 12:44 PM

    Torsades de pointeなんか、綴りまで人それぞれで、読み方になれば前置詞を飛ばして読まれたりする。ドが二つ続くような発音、フランス人以外にはやれませんわな。綴りはフランス人もよく判っていないらしいですが。

    http://wiki.livedoor.jp/eauoi/d/%C2%BF%B7%C1%C0%AD%BF%B4%BC%BC%C9%D1%C7%EF

  13. # 13   医者の娘 Says:
    11月 25th, 2009 at 10:05 PM

    DNAが発見される以前の旧帝大で医者になった父を持つ娘です。父が80歳すぎて心カテで入院したとき、若い研修医がメモ持参で病状を聞き取りに来ました。私は唯一の肉親として立ち会っていたのですが、父が(日本風)ドイツ語の医学用語で説明しているとき、研修医のメモをそっと覗いたら、どうやらわからなかったらしく全部カタカナで書いてありました。
    そういうものなんでしょうか?
    なお、いつも楽しく拝読しています。

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