書名:女ざかり
著者:丸谷才一
出版社:文藝春秋
現在大評判の文芸小説です。これを読むと、大衆小説だの純文学だのというジャンル分けの馬鹿馬鹿しさがよく分かります。優れた文学はただ優れているのであり、どのような分類とも関わりがない、ということを今更ながらに思い出させてくれた作品でありました。
創刊90年にならんとしている6大新聞社の一つ、「新日報」社は、その伝統的な内部の派閥争いでつとに名声を駁していたが、派閥力学の偶然から、従来女性は一人だけ、と不文律のあった論説委員に家庭部出身の美貌の才女、南弓子を加える事となった。
同じ事情で論説委員に加わった、事件記者上がりの浦野は、発想と取材においては辣腕であるものの、全く文章が書けないという致命的な欠点を持っていたが、隣席の弓子を拝み倒し論説を添削して貰う。年甲斐もなく弓子に恋心を抱いた浦野は、稚拙な手段を駆使して気を引くのだが、弓子は一顧だにしない。
弓子は離婚歴があり、一人娘を引き取って自分の母親と三人暮らしをしているが、妻子持ちの哲学教授豊崎と愛人関係にあり、折々に母親から諌められている。ある時、豊崎との定期的な密会が流れた腹立ちまぎれに、時の首相の中絶反対論を批判する論説を書いた事で、本来なら地位が絶対的に保証されている筈の論説委員から更迭されそうになる。なんら論点が示されないこの人事の裏には、外部の強い圧力がある事が次第に明るみに出てくる。弓子は豊崎や浦野の援護で、外部圧力の実態を探り出し、反撃しようとする。
ざっと粗筋を言えば、こんな具合の社会派サスペンスとも言えるのですが、その手の読み物によくある、プロットを伝えるしか能がない無味乾燥文とは違い、丸谷氏の文体はまことに洒脱にして先鋭、滑らかにして剛毅、旧かなづかいなど全く気にならずに読み進めるうちに、端々にちりばめられた表現の贅とでもいえるものに、すっかり圧倒されてしまうのです。
そして、この小説はそれらにとどまらず、卑近にして深遠な日本文化論を展開して行きます。登場人物があらゆるレベルで関与し、繰り返し触れるテーマ、「贈与交換」がそれです。この内容はもっぱら理論的狂言回し役、豊崎が深化させるのですが、弓子の苦境を救うキィパーソンとなる叔母、かっての映画スターであった雅子の何気ないセリフなどに、象徴的に提示されもするのです。
「(人々は)神様にどうしたらいいかわからないから、かういうもの(ちょっと下品な供物)を供えている、だからこれで仕方ない、と思ったの。」「神様としてはかういうものをを差し出されてどうぞよろしくと言われても困るけれど、しかしまあ相手が相手だから、どうも品がないことをするなあと思ひながら我慢してるわけね、と思ひました。」(カッコ内筆者)
商品売買と言う近代的行為によって、けがれ、俗化した人間関係を、贈与という古代的行為によって聖化し、更新しようとする努力、言うならば「人間がアマチュアの神になろうとする」行為を受け入れる事で、この物語は朗らかな全肯定の境地に読者をいざなってくれるのです。粗筋を一言で言ってみれば「不倫中年カップルの危機乗り越え物語」でしかないのですが、文学のもたらす感動は明らかにプロット以外の所からやってくるようです。
難を言えばこの小説を語っている作者の視点があまりにも高みに立ちすぎている、ということでしょうか。「神の視点」というのは小説作法で致し方ないとはいえ、そこからあまり小言じみた事を言われるとちょっとな、と言う気分も感じないではありません。言うならば、これは丸谷才一氏からお話をお伺いさせて頂いている、と言う状況を本にしたものだといえます。
「賭博と国家と男と女」
竹内久美子さんの新刊「賭博と国家と男と女」(日本経済新聞社)が近所の本屋に平積みにされていたので、残念なことに半日で読んでしまいました。八月二十五日に第一刷が出て、一ヶ月後にはもう三刷という売れ行きには驚いてしまいますが、読んでみればさもありなん、と思わせます。今までの「浮気人類進化論」「男と女の進化論」「そんなバカな!」におとらぬばかりか、さらに上を行くその鋭い語り口に、「ほんまかいな?」と思う隙も与えぬ奇説の組み立て、同じ事をだらだら書き延ばすのでなく、確実に自説を発展させる論理性(ちょっと普通の意味とは違うが)には感心するばかりです。
全体を通じて、ますます胡散臭さが増しているのも特徴で、学問とはカモ階級の賭博に対抗するための貴族階級の戦略だった、という著者の主張とは裏腹に、カモ階級の代表である私なんかも、完全に引き込まれてしまいます。ここまで来ると、ほとんど香具師の口上です。竹内久美子の出現をもって、日本に本当の意味での特権階級学問が成立したのかもしれないな。
ヒャクショーの子供(これは農家の子息という意味ではない。金持ちにも、シティボーイにもばりばりキャリヤウーマンにもヒャクショーはいるし、農業従事者にも高貴な精神の持ち主はいるのだから。)が市民社会で浮かび上がるための学歴という学問の疎外形態も、彼女からするとコオロギの触角いじょうに評価されるものではないでしょうね。
内容を読まないと何の事か分からないでしょうから、以上挙げた4冊を至急読まれた方がいいでしょう。なぜ阪神タイガースは肝心なところで連敗するか、なぜ明治維新は成功し、チャウシエスクは独裁者となったか、なぜイギリス王室はあんなに賭事が好きか、アメリカはなぜ衰退しつつあるか、日本もその後追いするのかどうか、これらを全く同一の次元で理解することが出来るでしょう。
ナーンだ、こんなことなら知ってたよ、という反応があるのもまた真理(?)を大部分ふくむ理論にしばしば見られることで、某大手商用ネットで業界ばなしをくりひろげている書評会議室では、「なんかあたりまえすぎて」とかいう寝ぼけた反応がありましたが、そう思うのなら手前が書いて何万部も売ってみろ。と言いたい。
私らが、自分の商売にひきつけて考えると、「なぜ遺伝子には精神病という不利な要素が前もって組み込まれているのだろう」というものです。血友病などのように、明らかな遺伝子のミス、とまで書いて気がついたが、べつに血友病で子孫を得るのが困難になることはあんまり無いですね。ロシア王室みたいに脈々と血友病を遺伝させてきた家系もあるのだし。むしろ高貴で労働から切り離された階級のマーカーとしての機能があったのかもしれない。
分裂病も、原始社会のなかで神懸かりをつうじて社会を統合するため、そうした遺伝的要素をあえて一家系にあつめてしまった名残かもしれないし。でも、神懸かり遺伝子は、それを持たない遺伝子よりもコピーを残す上で有利だったのだろうか。そのためには、進化過程でシャーマンの存在がその社会の生き残り率を有意に高めたことを実証する必要がある。
その上で、「シャーマンやってれば異性獲得が有利になる」という実例を数理的に証明すれば精神病の仮想遺伝子が保護強化されてきたことを推測出来る。更に、成員の何パーセントぐらいならそうした有効性が最も発揮できるか、というのは簡単に数学的に導けるだろうから、それが実際の発病率に近似していることを示したら、ますますもっともらしさは増す。
暇な方、このアイデアで論文書いても私文句言いませんからね。原始社会のフィード調査のときには連れてって下さい。
(2000年1月28日付記:このころ竹内氏の手玉にすっかり載せられてしまっている状態で書いているのがよく分かる。竹内氏はもしかしたら新ダーウイン主義の胡散臭さを、ああいう誇張したいくらでもボロがでるような書き方で徒花的に示そうとしたんではないかな、と今では考えている。少なくとも本が沢山売れたのはいいことだ。文庫にもなったのと違うかな?)
「夜霧よ今夜も有難う」
先日の深夜劇場で「夜霧よ今夜も有難う」をやっていたので、録画してみた。主題歌は知っていても、この映画を実際にみた人はそんなに居ないのではないだろうか。私の世代は、日本映画というと東映ヤクザ映画の記憶から始まっているので、こうした日活無国籍映画は神話としてしか知らない。だから暇があればなるべく見るようにしているが、なかなか最後までみる価値のある映画は少ない。小林旭が出てる「渡り鳥シリーズ」なんて、ギャグとしては最高だが、真面目に見るのはちょっと辛い。これはそれなりに最後まで見通す事のできた、なかなかの作品であります。
さて、「夜霧…」の時代設定だが、1960年代中期というところか。(クレジットをカットしてあって何時の作品かわからん。祐次郎は既に肥満しかけているので、そう昔でもないはず#)高級船員の石原祐次郎が、結婚の約束をして神戸の教会で待っていたのだが、相手の女性(浅丘ルリ子)は何故か姿を消してしまい、深く傷ついて船を降り、何年か後に横浜でナイトクラブのマスターになっている。
#日本映画データベースで調べると67年の作であることがわかる。いやーちょっとの間に便利になったものですな。
http://jmdb.club.ne.jp/1967/cq000730.htm
彼は裏で、カタギになるためヤクザに追われるチンピラなんかに、密航の手配をしてやったりしているのだが、その噂を聞きつけて東南アジア某国の革命家夫妻が彼の店に現れる。革命家の妻は、かって彼の前から姿を消したあの恋人だった。圧制に苦しむ夫の祖国を救おうと、密航を依頼するルリ子に、祐次郎の心は揺れる。
と、ここまで書けばこの話、H.ボガードとI.バーグマンの「カサブランカ」そのままの筋である事は誰にでも分かるでしょう。オープニングタイトルを3度ほどみてみたが、どこにも「『カサブランカ』より翻案」とは書いていない。こんな露骨な盗用でもいいのだろうか、と思うが「もとの映画とどう違うのか」という楽しみもあるので、まあ、許そう。
面白いのは、「カサブランカ」の方の名セリフが出てくる筈のシーン設定が、そのまま作られているのに、あえてそんなセリフは言わないこと。例えば、酒場の女がボガードに絡んできて、すげなくあしらうシーン。「昨日の事は忘れた。明日の事は分からない」が祐次郎の場合、冷たい視線を向けたまま、ピアノの弾き語りを続けるだけだったりする。相手の女のセリフは元ネタそのままだから、おそらくそんなテイクも撮られてるんだろうと思う。あと、「君の瞳に乾杯」とか、ここであのセリフなんでいわんの?と言いたくなるのだが、制作者はパロディ映画を作っているつもりはなくて、こんな盗用脚本でも大真面目にやってるんでしょうな。
筋書きにはさすがに多少の(ほんの多少だが)つけ加えがされているが、最後までカサブランカそのままに話が進み、夜霧の横浜港で祐次郎とルリ子は切ない別れをして話は終わるのであります。DC−3を用意する資金力は、さすがに日活にはないようで、せこいモーターボートだったのが残念だ。
「カサブランカ」が、B級娯楽映画の枠ながら、歴史の流れに翻弄される個人の哀愁と、それに立ち向かう意志のいさぎよさを表現した名作であったのに比べ、こちらの方は(大体比べる方が無理なんだけど)松竹新喜劇的「偶然の一致」作劇ばかりが目につくのですが、その力技的作劇の根幹に、そろそろ豊かになりかけた日本社会の気負い<俺達だって、こんなロマンティシズムをそのうちほんとに経験してやるんだい!てとこ>が感じられて、それはそれで興味は尽きない怪秀作なのだった。
(2000年1月の付記:作家・評論家の小林信彦によると、「カサブランカ」はいくつもの日本映画に翻案されているそうだ。時代劇になっているものが多いという。実例は知らないが、たとえばこういう風なものなのだろう。
勤王佐幕の争いに揺れる幕末の京の街、先斗町の芸者置屋のしがない用心棒、陸之進はむなしく酒におぼれる日が続いていた。かって会津藩勤王党の一員だった陸之進は、恋仲だったお類を連れて脱藩し、京で暮らす約束をしていたのだったが、待ち合わせの夜、お類はなぜか現れず、やむなく陸之進は単身京に向かったのだった。裏切り者の汚名を着せられた陸之進はやむなく置屋の用心棒としてその日々をしのぐ。かっての敵、新撰組の隊員にも女を世話して金をかせぐ生活に彼の心はすさむ。彼を慕う芸姑は数多いが、心は開かぬ陸之進であった。
ある日、置屋の新内語り、作務吉が「会津磐梯山」を唄っているのを聞いた陸之進は作務吉に詰め寄る。「その節は唄わないって約束だろう」お類と二人でこれを口ずさみながら、将来の夢を語った思い出は今では深い傷でしかない。
「すまねぇ、旦那。あっちのお客さんがどうしてもといいなさるんで」作務吉が指さすさきには、かっての恋人、お類がいた。突然の出会いに見つめ合う二人、やがてお類が口を開く。「お久しゅうございます、陸之進様。お元気な様子うれしゅうございます」
「こんなところにどういう風の吹き回しだい。見ればご立派な奥様風情、俺と切れて城代のとこへでもお輿入れしたのかい」「そのような申されよう、悲しゅうございます」
そこへ店の奥から懐かしげに声をかけてくるものがいる。「お主、陸之進ではないか。一体何年ぶりだ」見れば会津藩上席家老の息子で、陸之進とは親友だった羅厨之介だ。「お主、なぜ訳もなく逐電いたしたのだ、お主が消えて勤王党がどの様な事になったか分かっておるのか。あれから城代派が力を盛り返し、我ら勤王党派はもはや会津にはおられぬようになったのだぞ」
「お主のような上士の家に生まれたものに、勤王派も城代派もあるまい。八方美人の世渡りはお主の得意ではないのか」「何を!言って良いことにも限りがあるぞ」刀の柄に思わず手をかけた羅厨之介の前に、お類が割ってはいる。「陸之進様、わが夫羅厨之介はいまや勤王党の首領、藩を追われ長州にのがれんとしてこの京にやって参ったのです。聞けば陸之進様はこの置屋で密かに長州とのご連絡役をおつとめとか、夫を無事に長州の地に渡らせるお手助けを下さいませ」
「ご連絡役?そんなご立派なものじゃないがね。ちょっとした小遣い稼ぎと言うところさね。まあ金によっちゃ引き受けてもいいが」「あなた様の真心はこのお類、よく存じております」
「相変わらずのお人好しだな。あんたさっき旦那を長州にって言ったな。あんたは残るってことかい」思わずたじろぐお類。「陸之進、お主それはどういう意味だ」怪訝な表情の羅厨之介。
この調子でやり出すときりがなくなるのでこのあたりにして置くが、このプロットが実に可塑性に富んだものであることが分かると思う。)
書名:マディソン郡の橋
著者:ロバート・ジェームス・ウォラー
訳者:村松潔
出版社:文藝春秋
「全米ベストセラー」と言うのにつられて読んでしまったが、後悔と言うより、なにやらはっきりしない不可思議さを感じさせる小説であります。
作者のもとに、主人公の1人フランチェスカ・ジョンソンの子供達から、母親の物語を書いてくれるようにとの電話があり、何となく興味を持った作者が話を聞くや、いたく感銘を受け、日記などをもとにこの小説にした、と言う体裁になっています。
西欧文学史の講義を受けことがある人なら、こういう作りは、17世紀頃に「小説」と言う物が生まれた時の基本構造だった、と言う事をご存知でしょう。
「私は、さる夏の1日、伯爵婦人の邸宅に招かれ、偶然から1冊の書簡集を見る機会を得た。そこで私がみた物は、えも言われぬ美しい愛の物語であったのである。ここに伯爵の許可を得てそれを紹介しよう」なんて調子で「小説」は書かれ始めたんだそうな。
「フィクション」と言う物が、まだ受け入れられぬ時代だったため、どこかに実話の名残を装う必要があった訳です。そういう形態を復活させ、それがベストセラーになる、というのは、くだらん虚構に飽き飽きした時代の気まぐれなんでしょうかね。
話は単純で、イタリアで生まれ、比較文学の学位もあるインテリのフランチェスカが、占領軍のアメリカ兵と結ばれ、アイオワのど田舎で農場主の妻として暮らしていたのですが、たまたま、この地方にある「屋根の付いた橋」を撮りに来た、写真家のロバート・キンケイドが道を尋ねたことから、短くも切ない恋におちる、と言う物語です。
ときに1965年、フランチェスカ45才、ロバート52才。たまたまその時旦那と子供たちは、都合よくも牛の品評会かなんかで数日家を離れており、宿命的な出合を感じた2人は、4日間だけの愛の生活を送るのです。
男は研ぎ澄まされた感性と肉体を持つ「最後のカウボーイ」(笑っちゃいかん、本当にそう書いてあるんだから)、女は色香さめやらぬ美貌と知性をあわせ持つイタリア女性、とくればこれは完全にハーレクイン・ロマンスの世界ですが、4日間だけのこの愛の記憶を胸に秘め、善良だが鈍感な旦那に尽くしながら、思い出の屋根のある橋を訪れるだけで至福を感じるフランチェスカが泣かせる、という所が違うわけです。
やがて男は老いて死に、女もまた世を去り、遺言でこの愛の記憶を伝えられた子供達が感動して(これがわからん)この物語を世に問う事になった、と言うんだけど。
そう波乱万丈の物語は自分には起こらないだろうけれど、この程度の美しい不倫ならあってもいいな、というアメリカの主婦がこれをベストセラーにしたのでしょうが、なんか中年版尾崎豊か何とかかまち物語性愛編てな感じですね。わざとらしさをあえて楽しもうというのは、むしろ「物語」への不信がそうさせるのかも。
精力的に学際的著作を世に問うておられる解剖学者、養老孟司氏と、武術研究家の甲野善紀氏の対談書。
医学部教育の中で、今や単なる通過儀礼に過ぎなくなっている「解剖学」の研究者として、養老氏は「形態」にあくまでこだわりながら、社会文化にまで及ぶ独自の生命論を展開しておられる。大誤読の危険をおかして大ざっぱにまとめると、氏の関心は西洋的「心身二元論」と、東洋的「心身一如」の統合にあるようだ。「精神」と「身体」が、あたかも光の粒子論と波動論の関係のように立ち現れるものである事を解きあかそう、とでも言えるだろうか。
同じ様な事は、「身体論」と言う独自のジャンルを誇る(ただし、誰も評価しない)日本の哲学者もやってはいるのだが、引用とジャルゴンの混合物で、何を言ってるのか訳判らん、だから何なのだ、としか言い様がなかった。養老氏はあくまで平易に、分子レベルから社会レベルまでを見通す視点を提供しようとしておられる、今後も要注目の研究者であろう。その養老氏が、身体にこだわるとき、単なるスポーツ理論では説明できないような伝統的武術に関心が行くのは当然のようだ。
対談相手の甲野氏は、「剣豪」の風格ある武術家で、古来の流派に伝えられた「神業」の再生を地道に目指しておられるという。いつも着物に袴、高下駄に真剣を携えて過ごしているという、第一印象はちょっと危ない人のようだ。
私は「気で何十人も一度に吹っ飛ばす」なんぞというオカルトがかりの「武術家」はすべて詐欺だと思っているが、甲野氏のようにあくまで身体を媒介にした武術(当たり前だけど)には、単純に魅せられてしまう。単なるスポーツに化したとはいえ、武道にちょびっとでも接した事がある人なら、単純な力学的説明を越えた秘伝の如き物の存在をかいまみた事はあるだろう。それを再生させるためには、社会文化の枠組みごと考えないといけない、という氏の姿勢はまことにラジカルなものである。武人であり、同時にインテリであったサムライの最も良質な伝統を受け継ぐ人であろう。「当たり」の多いカッパ・サイエンスのなかでも、これは出色の一巻といえる。
蛇足:直接の話題とは少し離れた形で話題に出ている、「昔の日本人は走れなかった」というのが興味深い。民衆が早く身体を移動させようとしたら、阿波おどりみたいに手をうえに上げて、身体をゆすりながら早歩きするしかなく、武士だったら刀の柄に手をかけて、さささとスリ足走り。いずれにせよ手足を逆に前に出しながら、素早く移動するというのは特殊な技術だったとの事。
運動会の行進で、どうしても手と足が一緒に出る奴がいたなとか、エイトマンの走り方は武士の走り方であったか、そういえば相撲で前に出るときは手と足が一緒に出るなとか、歌舞伎の六法もそうだ、などと身体を通じて日本文化の深淵に触れた気分がする。(ただ、赤ん坊が誕生直後に示し、すぐ消失する「自動歩行反射」に見られるように、西欧式歩行=走行技術とされるものは、脳の最深部にプログラムされてるんだけどな、養老氏はそれをもう少し掘り下げてくれたら、などとも感じたが)
著者:デビット・P・ジョーンズ
訳者:永倉万治
出版社:飛鳥新社(¥1100)
なかなか面白い本を見つけました。ミステリィが好きな人なら、珍妙なトリックで苦労して人を殺すお話を、ちょっと別の目で眺める口直しにもなるし、作家を目指しているなら、自分のアイディアをふくらます材料になります。医者なら…、そりゃもちろん、自分の腕が悪いのを正当化するのにつかえますがな。
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ブルガリアのバルナに住んでいた三十四歳の男が敗血症で死亡した。汚染された魚を食べた妻がふざけて耳たぶを噛んだのが原因だった。 <妻は毒より強し。>
セントオーステルに住む心霊治療の第一人者、アラン・N氏は、治療室のスツールにつまずいたのが原因で死亡した。 <あらあら。>
デビッド・Dは、友人のしゃっくりを止めようと銃で脅していて、誤って射殺してしまった。 <親切もほどほどにしなさい。>
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といった感じの実話に基づく(?)小話が142編、こんなしょうもない事で人は死ぬんだな、とものの哀れを感じつつ、いつの間にか口元はほころんでいる、という不謹慎な態度を強いる本であります。一つ一つのエピソードの後に、訳者が追加した後見出し兼コメントが書かれていて、これがまた傑作。訳者の永倉さんは、つい最近脳出血で生死をさまよったとか、暖かでかつ冷ややかとでもいう死生感が全編を包んでいました。
ただ、10分間で全部読める小冊子なのに、1100円はないのでは。皆さん是非、立ち読みしましょう。
(2000年1月の付記:この本は今読み返せばかの「ダーウィン大賞」の原型ともいえる。じっさい今流通しているネタがこの本のなかにもちらほらと見受けられる)
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書名:「日本人英語」のすすめ
著者:グレン・サリバン
出版:講談社現代新書
「日本人は外国語力が乏しい。英語など、中学で3年、高校で3年、おまけに大学でさらに習ってる人までいるのに、全く使えない。」とよく言われます。この本はその常識を逆転させ、「日本人の潜在的英語能力はかなり高い」という前提で議論を進めています。
腰掛け外人の英語教師による、文化差を無視した発音規制、お粗末なお仕着せカリキュラムが強要する「オモテ英語」を忘れて、もっと知らず知らずの間に身に付いた「ウラ英語」能力を活用しよう、と言う主張です。
私自身、思うのですが、よく言われる「L]と「R]の違いなんて、実際問題になる事なんかまずないし、大体、「選挙(election)」の話をしていて、「勃起(erection)」と聞き間違える毛唐が居たら、そいつの文脈理解能力を疑う方が先というものです。
この本の中で文例に出ているのと同じ体験をしたことがあります。電車の中である毛唐が「違う列車(a wrong train)」に乗ってしまったのではないか、と訊ねてきたのだが、こちらは長い列車(a long train)と全く聞き分けられなかったが、心配そうな顔して「長い列車に乗ったのではないか」と訊ねてくる訳がないのだから、充分意思疎通は成立したのです。
日本語は特殊。ガイジンみたいな発音は無理。などという「俗信」のため、始めから外国語を拒否している人のなんと多い事か。(程々に今風の英語を操るだけで、大層なもののような顔するアホも気分が悪いが)そういう人はぜひ一読される必要があるでしょう。
書名:聖女の遺骨求む
著者:エリス・ピーターズ
訳者:大出健
出版社:社会思想社 現代教養文庫(1990/11/30初版)
U.エーコの「薔薇の名前」がブームになってたとき、同じ様な修道院物と言う事で買ったが、肝心の「薔薇の名前」の方を途中であきらめてしまい、(ビデオ見ちゃったのがまずかった)何となくこれの方も忘れてしまっていたが一年ぶりに読んでみました。
簡単に紹介すると、「薔薇の名前」がそろそろルネッサンス、と言う頃のイタリアを舞台にしているのとくらべ、こちらは12世紀イギリス。イングランドとウェールズの境目近く、シュルーズベリという所のベネディクト派修道院を舞台にしています。
主人公は、波乱万丈の人生の最後に、修道院生活を選んだ初老の修道士カドフェル。戦争と幾多の女達との恋物語を経てきたこの元船乗りは、中世にあるまじき合理主義精神の持ち主で、次々に起こる難事件を、中世的調和を乱す事無く解決して行きます。
「聖女の遺骨求む」はシリーズ第一作で、自分達の修道院に売り物になる守護聖人がいないのに危機感を持った野心家の副修道院長が、ヒステリー素因を持った修道士の「啓示夢」を利用して、ウェールズの地味な聖女の骨を掘り出しに行く際に起こった殺人事件を解決する、と言う話です。
私たちがイギリス国内の民族的軋轢、というとせいぜい北アイルランドとの不調和ぐらいしかイメージしないのですが、本来全く文化も言語も違う国々の連合体、それもイングランドの征服によるもの、という事情をふまえないとよく分からないところもあるようです。主人公カドフェルはウェールズ人で、そのため通訳として聖なる遺骨収奪団の一行に加わる、というあたりで、なんで通訳がいるの?と考え込む事になってしまいます。
さて、物語はイングランドから来た、この厚かましい聖職者たちへ反発する小地主が殺され、「神の怒り」として遺骨持ち帰りの根拠にしよう、とする副院長たちを説得しながら、先にも言ったように実にうまく「中世的解決」を計ろうとするカドフェルの活躍を描きます。
これで、もっと中世の思考様式まで考慮されている物なら、もっと面白くなるのだがな、と言う印象はあります。第一作を読む限り、主人公はまるでタイムマシンで中世にやってきた現代人みたいです。この作品の最終的な解決、というものも中世に生きる人間には、絶対に導き出せないでしょう。「薔薇の名前」との格の違い、はそのあたりにあります。
ミステリとしては、あっと驚くトリックが有るわけでもなく、それこそ地味な物ですが、主人公の精神生活をのぞいては、中世の生活をなかなかの存在感をもって描いているこの作品は、もっと読まれても良いのではないか、と言う気はしました。邦訳されている物だけでも、これを入れて5作あります。原作は18作ほど出ているようですが、91年で邦訳はストップしています。
訳者によるあとがきでは、イギリスではファンも多く、修道院があった設定になっているシュルーズベリには、(本当に修道院が有るかもしれないが)カドフェルをしのぶ観光客までいるとか。この作品がかもしだす地味さは、たしかにイギリス人好みかもしれません。
(2000年1月の付記:このカドフェルシリーズは作者が死亡寸前まで書き続けたものすべてが訳され、教養文庫で発刊されている。イギリスではTVドラマ化され、NHK−BSでその一部が放映されたこともある。主人公は勝新太郎をもうすこし知的にした感じだろうと勝手に予想していたので、シェイクスピア劇役者が演じたカドフェルはミスキャストと思えた。地味な所から発刊されたがこのシリーズはもっと読まれていいと思う)
「哲学者の密室」
笠井潔の推理もの第4作、「哲学者の密室」をようやくなんとか読了しました。上下二段組で、748ページもあるので大変でしたが、まあ屁理屈部分はとばして「推理小説」としての部分だけ読めばすぐ読めます。
ところで、笠井潔は13年前にシリーズ第一作、「バイバイ、エンジェル」をだし、その後4年がかりで「サマーアポカリプス」「薔薇の女」と続けたのはいいが、あとは妙なSF評論やら社会評論、超能力オカルト物を出すだけで、推理作家としては沈黙していました。それが4作目を出版したのはいいけれど、時代設定は前作の半年後あたり、やたらに前作までの登場人物の追憶ばかりが語られ、とっくに内容を忘れた上に、その本もどっかへいってしまった、という状況ではなんのことやら訳判らん、というところだらけ。
などといっても、笠井潔の「矢吹駆」ものを読んだ事ない人にはもっと訳が判らんだろうから、簡単に紹介しておきます。
一作目から舞台はパリ、パリ警視庁の警視の娘、大学生のナディアがワトソン役となり、「謎の日本人」(ホントにそう書いてあるんだもの)ヤブキカケルが探偵となって難事件を解決して行くのですが、(三作目までの事件の内容は殆ど忘れた。でも必ずなんかモトネタがあり、ヴィスコンティの「家族の肖像」かなんかの人物構成を、そっくり頂いた事件もあったような気がする)この探偵がちょっと違うのは、その方法論が「現象学」である、と言うところにあります。
彼の言葉を引用すると「多様な事象の断片からは、それなりに首尾一貫している解釈体系が多数、同時的かつ並列的に生じうる。」彼の方法は「事件の全体から支点にあたる現象を取り出し、それを本質直感してみること」で、「多数有り得る解釈の山から、唯一の真実を選び出しうる公準は、現象学的に直感された事件の本質のみなの」だ、ということです。
このヤブキと言う男は、日本で非合法政治活動をやり、それの誤りに気付いてカラコルムで修行してみたりしたあげく、パリで訳の判らん生活(どうやって喰ってるのかも不明)して、この世界の背後でうごめく陰謀集団、原発を推進する財閥から、テロリスト集団に共通する人間精神の暗部をあやつるなにやら不可思議な連中、との対決を自分の課題にしているということになってます。
モンマルトルのアパートで、真夜中に思索してるだけでそんな大層なことが出来るんかいな、と茶々入れたくなるけれど、本人は大真面目で、突然セーヌの水辺に暗い視線を落とし、「生も暗く、死もまた暗い」なんて「大地の歌」の歌詞を呟いたりして、はじめは「これギャグのつもりなんだろうか」と疑ったりしました。
なんとなく、旧制高校の哲学青年を現代(といっても70年代中ごろ)に無理矢理引きづりだし、東洋の魔術的身体能力(ゆっくり歩きながら小走りのスピードで移動するとか、犯人の目の前で、毒の入ったカップをすり替えてみたり、格闘すれば無茶苦茶強かったり)を与えた、といったキャラクター設定を想像してみたら良いでしょう。
でも、この作者の写真をみると、作中で言及されるヤブキのファッションと同じような恰好をしている(長髪にサングラス、細見のジーンズに黒い革ブルゾン)ので、どうもつい作者そのものが行動しているところを想像してしまうので、なんとなくズッコケなんですが。たとえば田中康夫(村上龍でも可)の小説に出てくる主人公を、田中氏本人としてイメージしてごらん。笑うしかないでしょ。それと同じ。
さて、今回の事件はユダヤ人富豪の大邸宅の中でおこった、密室殺人事件なんですが、この事件実は1945年、ポーランドのユダヤ人強制収容所でおこったもう一つの密室殺人事件と関連しており、その両者を解決する鍵、となるのがハイデッガーの哲学である(作中では名前を変えてる)、というまことに大がかりな物であります。
読者は、ここでヤブキの現象学的本質直感、を長々と聴かされるはめになります。
「密室の死、とは特権的な死の封じ込めにほかならない」「真に特権的であるのは、自分の死であり」それは「あらゆる生の可能性を絶対的に拘束し、限定する不可能性の可能性で」あるなどの頭が痛くなる論議のあげく、密室の死の本質は「自殺」である、というあっと驚く結論が導かれます。
そんな事言うため、あんな難しいことごちゃごちゃゆうとったんかいな、と呆れる暇もなく、この事件の場合、自殺ではありえないのだから、密室の鍵を持ってる奴が犯人である、とあまりに見事な「本質直感」が表明されて、読者は口をあんぐりあけたまま前半が終わってしまうのです。
さて、中盤にはいり舞台は1945年のポーランドのナチ強制収容所。収容所、といってもここはユダヤ人の大量「処理」の為の施設で、ここに連れてこられたユダヤ人の7割はその日の内にガス室に送られ、後の人々は「処理」の為の強制労働要員となり、結局最後は皆殺される運命にある殺人工場にほかなりません。
ここに撤退命令をもってやってきた、親衛隊少佐がしばらく主人公となり、(これは「警部ナチキャンプに行く」という悲惨な邦題をもつ推理物のパクリ。ちゃんと参考文献で示しているのがえらい)ここの収容所の所長の情婦にされた、ユダヤ人女性の密室殺人事件が描かれます。この、無名の大量死の傍らで起こった殺人事件、と言う奇妙な事件を、少佐の副官であった人物の回想をもとに、ヤブキが推理していくのですが、その過程で彼は「密室の本質」についての考えをあらため、先の事件にも別の「本質直感」を持ち込む事になるのです。
その際、彼が援用するのはエマニェル・レヴィナスの哲学で(名前は変えてある)、なんと都合のいい事にレヴィナスも事件の関係者として、登場するのです。
レヴィナスはハイデッガーの哲学を、ナチスのイデオロギーとして批判する立場から、独自の理論を作りだした人です。私なんぞはハイデッガーもレヴィナスも、その書物から分泌される催眠性物質に遮られて、ちゃんと読んだ事がないので、ごちゃごちゃ言う資格など無いのですが、耳学問の知ったかぶりで解説してみます。まるで見当はずれだったら、教育的指導お願いします。
簡単にいうと、ハイデッガーが存在、つまり主体を世界に被投された世界内存在でありながら、先駆的決意性のもとに自己を世界に向けて投企していく(何のことかようわからんだろうが、自分でも解ってないのだからしょうがない)、というような背筋のばした軍人さんみたいな人間像を持っているのに比べ、レヴィナスは自分の強制収容所体験から、なし崩しの死に向かう、ただそこに現前する、と言うだけの意味しかない「存在」、フランス語入門でお目にかかる「そこに〜がある」という言い回し、"il y a 〜"からイリヤ(イリヤ・クリアキンとは無関係)と呼ぶ、主体以前の主体を問題にするのです。
ハイデッガーは、死滅した神の役割をも取り込んだ、高揚した人間哲学を作り、無意識の内にナチスの露はらいの役目をはたし、レヴィナスはそのために強制収容所での大量死に直面させられたため、日常的生に目を向けた哲学を作る事になったのです。彼らが師弟の関係にあったのは、実に皮肉な事でした。
さて、事件の謎ときに戻ると、ヤブキは密室には2種類あったのだ、と考えを修正します。「特権的な死の夢想」を封じ込めた密室と、「緩慢な、中吊りにされた死」を収容する密室とがあるのだ、と。その本質直感をもとに、ふたつの事件は意外な解決をみる事になるのです。
この本には、ミステリィとしては違反に属することが結構出てくるので、本格物を読んでいる人には不満が多いかもしれません。現実の学者の引用をやたらにやりながら、ちょっと名前だけかえて別の人物として登場させ、しかもあっさり殺しちゃったりするのは、小説という前提に対する完全に違反なのではないかな、と思わせます。
でも、へりくつこねて人を煙にまくのが好きな人は、この著者が創出した「思想ハードボイルド」だと割り切って、耳学問を増やすいい機会だとして読むと、秋の夜長の友になるでしょう。出来れば、前三作もなんとか入手されて読んでみられると、趣も増すと思われます。
考えてみれば、こんな文章もインターネットという「密室」のなかで初めて通用するものですね。「特権的生を生きうる夢想を封じ込める密室」として、ネットは今のところ存在しているのかもしれません。
(2000年1月の付記:笠井潔の矢吹4部作はいますべて文庫で手にはいると思う。その後笠井はミステリィ作家としてはまだ沈黙しているようだ)
書名:心の病と社会復帰 (岩波新書)
著者:蜂矢英彦
たまには専門関係の本の紹介を、というわけで。
著者の蜂矢氏は、都立松沢病院を振出しに、精神科リハビリテーションの草創期を担って来られた医師で、私よりふたまわりぐらい上の世代。どこかで顔を会わせて紹介された事があるような気もする。
はじめから先入観を植え付けるような言い方で何なんだけれど、この世代で精神科医療関係者というと、私なんかはまず「されど我らが日々」世代だ、と決めつけてしまう。つまり非合法活動をしていた時代の日本共産党のメンバー、少なくともシンパで、しかも日共の方針転換で傷ついて、後の新左翼に走るか、欝屈知識人になるといった経歴を持っているはずだということだ。そのまま日共でやってる、という可能性ももちろんあるだろう。
その世代の人達の特徴として上げられるのが、国家権力に対する反発と、それと裏腹の行政への過大な期待。「資本主義」へのこれまた異様なまでの嫌悪感。それと、「性善説」の楽天的信奉者であることなどだろう。
いささか妙な前置きになったが、この本の内容自体は著者の誠実な人柄をうかがわせ、党派的な主張などはなく、実践に裏打ちされた意見はそれなりの説得力に富んでいて、日本の精神科医療の現状をかいまみるには適切だ。素人にもわかりやすいように精神疾患の説明から始め、精神病への偏見(私は『いわれなき偏見』とは言わない)が、ある面で制度的なものによって固定されてきた歴史をうまくまとめている。
でも、著者の主張する、外来中心の治療、ナイトホスピタルやデイケァ、ハーフウェイハウスなどを組み合わせた治療体制については、「それほどいいものなら、なんで未だに全国レベルで実現しないのか。東京都には結構な施設が程々にありながら、何故周辺に大量の長期入院者を、今もばらまき続けているのか?」と言う疑問が湧いてくるのも事実だ。
合衆国での巨大精神病院解体、地域医療システムへの移行を評価するのはいいとして、その弊害を「ホームレスの増加などというマイナス面」ぐらいの捉え方で良いものか。本家ではとっくに行き詰まった、そうしたやり方を近年イタリアが始めた事に対しても、手放しで誉めるばかり。私にはそれらの「地域精神医療」なるものは、「貧困層の切り捨て」というマクロ政策の一環に外ならないとも見えるのだが。
そもそも、善意と努力で支えないとうまく機能しない行政政策、と言う物を評価したくはない。昔、合衆国の地域精神医療政策の宣伝ビデオを何本か見たが、ああしたものはアメリカが作っても、まるで北朝鮮の宣伝映画みたいな内容だったので、感心してしまった事がある。給料のためしかたなく働く人々が、いやいや仕事してそこそこ動くシステムしか信用できないのは私だけだろうか?
多くの精神病院が少なからず抱えている「処遇困難患者」(まあ、病気でもあるのだが性格も悪く、組関係者ともつるんで幾度となくシャブに手を出してみたり、くりからもんもんでほかのの患者を脅したり、と言った人を想像して欲しい)に関して、「専門病院を作れ」という主張はその通りだと思うのだけれど、じゃあ誰がその専門病院で働くの?
現在公立系の病院はそうしたお下品な患者を見たがらず、某県の某県立病院など、「刑事事件を起こした患者は入院お断り」と公言している。財政的に厳しい私的病院が、そうした患者を入院させざるを得ない状況があるのをまさか知らないはずはないだろう。そうしたところを「医療に熱心でない」と非難する事は出来ないはず。まず、現在の公的病院が、事件がらみの患者を優先的に受け入れる様にするだけで、ほとんどの問題は解決に向かうように思うのだがどうだろう。その上で、どうにもならぬ問題に対して「専門病院」でも「保安処分」でも考えたら良いのでは?
この本で紹介されている社会復帰の実例は、ほのぼのと心温まる物だけれど、程々の病院治療の中でやれない事ではない。偏見と無理解のために社会復帰が阻まれている、と言う面はたしかに存在するけれど、本来最低限やるべき事(善意とかスペシャルな努力を抜きに)をやっていない(病院も、行政も、地域社会も、もちろん家族も)ためにうまく行かない事の方がよっぽど多いと思う。
この本を読んで思いだした言葉。「地獄への道は、善意によって導かれている」
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アイス・キャッスル
これは1978年の映画だ。NHK−BSで先日やっていた。なぜかこれを映画館状況で見た覚えがあるが、もしかしたら飛行機の映画サービスでみたのかもしれない。終わって明るくなると、まわりの女性客がみな泣いていた。C級映画の作りだが、「逆境を乗り越える愛の力」をよく描いたといえるのかもしれない。筆者にはどうも父親とか恋人などの脇役の行動原理に感情移入できない。
アイオワの農場で父親と二人で暮らすアレクシィスは16才、死んだ母親から教えられたフィギュアスケートのローカルスターだ。今は田舎町でボーリング場とスケートリンクを経営するビューラにコーチを受けている。
ある日、医学部に進んだボーイフレンドのニックがプッツンして中退し、町に帰ってくる。一度自分の力を試してみたかったアレクシィスはニックやビューラの勧めもあり、父親の反対を押し切ってフィギュアの地区大会に出場する。奔放な演技に観客は魅了されるが、点数は低い。しかし観客の中にいたケバめの有力コーチ、デボラはアレクシィスの才能を見抜き、本格的トレーニングを受けるように勧めに来る。死んだ妻の面影を娘に求め続け、自分から離れていくのを怖れる困った父親は、この申し出を拒否するが、ビューラやニックの説得で渋々認める。
デボラに連れられ、フィギュア虎の穴みたいなところで本格的トレーニングを受け、めきめきと頭角を現すアレクシィスだが、比較的年齢が高いというハンディが邪魔をする。デボラは一計を案じ、男友達のTVプロデューサーにアレクシィスが成長する様子をドキュメンタリィに仕上げさせ、話題性を作ろうとする。この策略は大当たりし、新人の大会で大成功を収めたアレクシィスはたちまちスター扱いとなる。プロアイスホッケーチームに入って再出発しようとしていたニックはまたまたプッツンしてプータローになっていたが、当然いまやお呼びでない。
プロデューサーともあっさりデキてしまい(おいおい、まだ16だろう。青少年育成条例はないのか)、得意満面のアレクシィスだが、「作られたスター」という寂しさは残る。パーティーでさんざんちやほやされたあと、一人むなしくリンクで3回転ジャンプをやけになって試み、転倒して頭部を打ち付け、外傷性脳内出血を起こし、視力障害を起こしてしまう。子供のくせにあんなにシャンパン飲んでスケートなんかしたらそりゃだめだ。ちらりと見える頭部CTではかなり大きな血腫が左後頭部に見えるので、まず回復は困難と思えるのだが、医師は良くなる事もあるという。不思議だ。
故郷にもどり、引きこもって荒れるアレクシィスに、ビューラはもう一度フィギュアに挑戦するようにせまる。ニックの献身的な協力の下、トレーニングを再開し、視力障害を隠したまま再び地区大会のリンクに立つアレクシィス。素晴らしい演技をみせたアレクシィスに、観客はみな花を投げて称える。花が見えないアレクシィスがそれにつまずいて転び、観客はすべてを知る。助け起こすニック、二人を称える拍手のなかで映画は終わる。
人を泣かせで攻める、というのは卑怯千万な戦略で、多少おかしなところがあろうと手もなく術中に陥ってしまう。そういうものだと思ってみるだけでも決して損ではない部類の映画ではあると思う。金を払う価値があるかどうかは知らないが。これをもう少しひねって見るならばこういう見方も成り立つ。
アレクシィスの親父は、死んだ妻の思い出をめめしく娘に求める困った「喪の仕事」失敗人間、かつ情けない無能な男権主義者だ。元祖強い女のビューラには「こんな田舎町のスケートリンク経営者のくせに」と強がり、今風強い女のデボラには「別の世界」と無視しようとする。後半、娘にハンディが出来ると突然強い男になるんだな、こう言うのは。それはモラトリアム男のニックも同じ。チャンピオンになった強い女性にはすぐすねてしまうが、庇護できる相手には実にかいがいしい。この映画ではアレクシィスはそのうち回復するような含みが持たされているので、マネージャーになってあごで使われるニックを想像するのも楽しい。そう言うわけで、並の男達がフェミニズムを括弧付きで受容をする話、とみれば面白い内容。
親父役はどこかで見たと思ったら、「エイリアン」の第一作で船長をやった男だ。そこではもう括弧付きでなく強い女性を認めるしかない状況に追い込まれたわけ。なおニック役はマイナー俳優だが、声優としてはかの「美女と野獣」の野獣の声をやっている、というのはあまり関係ないか。主役のリン=ホリー・ジョンソンは実際フィギュアの世界から映画に転じた人のようだ。雛型あき子を徹底的に引き締めてプロポーションを一新させ、IQを4割方高めたような感じで、実にかわゆい。その後007物の「ユア・アイズ・オンリー」にそのスケートの能力を買われて出演していたりする#。一部ではカルト的な人気を保っている女優のようだ。
(2000/01/31)
#「ユア・アイズ・オンリー」では、彼女はまったくの付け足しみたいな扱いで、IQは五割減の印象だ。でも登場シーンではちゃんとこの「アイス・キャッスル」の主題歌にあわせてスケートをしている。
参考:
http://us.imdb.com/Title?0077716
http://www.stingray-jp.com/allcinema/
ギルバート・グレイプ
映画「タイタニック」の日本公開宣伝のため、レオナルド・ディカプリオが訪日して「レオ様騒動」が起こったのは97年だったと思う。NHK−BS(はて、WOWWOWだったか)がその機に乗じて「ディカプリオ特集」をやったなかにこの映画があった。ほかはしょうもなかったが、これは妙に印象が残るものだった。
中西部の田舎町エンドーラで、細々と営業する昔ながらの雑貨店の店員、ギルバート・グレイプ(ジョニー・ディップ)の物語。彼は首吊り自殺してしまった父親にかわって、二人の姉妹と、病的肥満の母親に知的障害のある弟アーニー(これがレオ様)の面倒を見ている。おまけに妙なおばさんと不倫関係になっていて、にっちもさっちも行かぬ彼は町をでることだけが夢だが、一人では起きあがることもできない母親と、自分のことは何も出来ず放っておけば近くの給水塔に上ってしまうような弟を見捨てることが出来ない。
ある日モービルハウスで祖母と旅を続ける少女ベッキィが、車の故障のために彼の家の近くでしばらく暮らすことになった。たちまち恋に落ちるギルバートだが、どん詰まりの日常は重くのしかかったまま。
ある時家を抜け出した弟が、またまた給水塔に上ってしまい、保安官に保護されてしまう。肥満体をいとわず猛然と保安官事務所におもむき抗議して息子を連れ帰る母親だが、それが負荷になったのか翌日彼女はベッドの中で帰らぬ人となっていた。検屍に来た保安官が「あれを墓場に持って行くには軍隊がいるぜ」とジョークを飛ばしているのに傷ついたギルバートは、母親をもう誰にも侮辱されたくないと家に火を放ち、家ごと火葬にする。
なぜか現住構造物放火罪にも死体損壊罪にもとわれなかったギルバートは、翌年再び訪れたベッキィと一緒に、アーニーを連れて町をでる(たしかベッキィの祖母も都合良く死んでくれていたはず)。
言ってみればこれだけの話で、めくるめくストーリー展開があるわけでもなし、田舎の狭い人間関係のうっとおしさと、それに対比されるベッキィの生活の奇妙さが、さらに閉塞感を強調する様な作りになっていて、カタルシスがないことおびただしい。しかしそれでも印象に残ったのは何故かというと、それはディカプリオの演技そのものなのだ。多動傾向で衝動行為が頻発する知的障害者をあまりにも見事に演じている。まったく地としか見えないのだ。予備知識がなかったら、あれはそう言う障害のある人を実際に撮っている、と誰でも思うに違いない。実際、imdbに寄せられたコメントの中には、「あの俳優が別の映画では普通の人になっていて、とても不思議だった」というような物まである。これは例えば、アホの坂田が「プリティ・ウーマン」の主人公を演じているのを見るような感じと同じだろう。
最後にベッキィと旅に出るのも、あまり救いがある感じではないのだが、「皆はいつまでも幸せに暮らしましたとさ」と括れないラストこそが、それまでの閉塞感から脱してようやく「物語」の始まりを告げているのだ、と解することが出来よう。
ディカプリオはこの映画で翌年のオスカー助演男優賞にノミネートされている(されただけだが)。おそらく今後彼にこの手のチャンスが回ってくる事はないと予想される。ジョニー・ディップの苛つきを内に秘めて耐えるばかりの役作りは、明らかに同年のTVドラマ「ひとつ屋根の下で」の江口洋介の役柄にパクられていると思われる。はだけたパーカー、長髪に後ろ向きにかぶった帽子と言うスタイルまで同じだ。
ほかに指摘することとして、ベッキィの家族と一緒に放浪する仲間達には、何らかのマイノリティ民族文化的な背景があると思われるが、普通の日本人にはわからない。その辺まで判ればもっと味わい深くなるのかもしれない。原題は"What's Eating Gilbert Grape"でこれは主人公の名前と何らかの慣用的言い回しとをかけていると想像するのだが、それもよくわからない。言語文化の壁は厚い。
(2000/02/02)
参考:
http://us.imdb.com/Title?0108550
恋はデジャ・ブ
この原題は"GroundHog Day"、グラウンド・ホッグは直訳すると「地ブタ」になる。辞書を引くと「ウッドチャック」とだけ、ますます判らない。どうも齧歯類の一種のようだ。こう言うので調べると"GroundHog Day"とは2月2日のことで、ペンシルバニアの何とかと言う町で、冬眠中のこのウッドチャックを引きずり出し、そいつが自分のかげを見ていたら、冬はさらに6週間延び、見ていなかったら春はすぐそこにある、と判定するような行事をする日らしい。春の訪れを待つ人々の自然発生的習俗らしいが、日本の「節分」とほぼ同じ日にやるのが面白い。
こうした「直線的時間を円環的な流れに変換する」狙いを持った行事というのは大体どんな文化圏でもほぼ同時期になるようだ。勿論北半球温帯地区の話だが。アメリカに移住してきた清教徒たちが食うや食わずでいたところ、親切な原住民たちが七面鳥など持ってきてくれた、という故事にならって"Thanksgiving Day"というのが向こうの重要な祝日になっているが(そのため移住者たちは蔑んでいた原住民たちが自分らよりよっぽど豊かな生活をしているのを知り、『こいつらの生活圏を頂いてしまえばいい』と思いつくのだ)、あれも「勤労感謝の日」とほぼ同じ頃だ。「勤労感謝の日」というといかにもでっち上げ祝日みたいだが、あれは本来「新嘗祭」のことだ。収穫を八百万の神々に感謝する日で、しかもこれは天皇即位の際の「大嘗祭」の原型で、日本の権力神話の根元なのだ。そこでは新天皇は1年の節目どころか、新元号による新しい時間を作り出す。
時間を直線的ではなく円環的に繰り返される物、と捉えるのは文化の原初的萌芽であったはずだし、そうした時間の管理が権力の最初の機能であった、というようなこととこの「恋はデジャ・ブ」という軽薄な邦題の映画と何の関係があるのか、というと実は「円環的時間」というのがこの映画の仕掛けのすべてなのだ。おそらく脚本家はこうした行事を支える「繰り返す時間」の神話にこのストーリーの啓示を受けたに違いない。
地方TV局のお天気キャスター、フィル(ビル・マーレィ)は全国ネットでスターになることを夢見ているが、偏屈物で同僚たちからは嫌われている。「通販ネットなら明日からでも全国版になれるぜ」などとからかわれるだけ。2月初めのお天気番組の定番として、グラウンドホッグ・デイの取材が計画されるが、もう4年も同じ事をしているフィルはさっぱり気乗りしない。美人ディレクター、リタ(アンディ・マクダウェル)率いるクルーとともに渋々、行事が行われる町に出かける。当日、やる気なくコメントもいい加減に実況を終えるフィル。リタは憤慨しながらもなんとか形を整える。
翌日宿舎で目覚めたフィルだが、なんだか様子がおかしい。目覚まし代わりのラジオは昨日と同じ放送をしているし、町で出くわすこともすべて昨日のままだ。しかもクルーたちは昨日と同じ行事を実況する準備までしている。再び実況の現場に立つフィル。彼は自分が繰り返す時間のなかに閉じこめられた事を知る。
最初彼はあらゆる手段で、脱出を試みる。やけになって行事中のグラウンドホッグを拉致して、車ごと崖に飛び込んだり、町のビルから飛び降り自殺をしてみたり。しかし、目覚めるとやはりグラウンドホッグデイの朝なのだ。その日の出来事を予め知っているのを利用して大金を盗みだし(別のやり方で大金を得たような気もするが詳細は覚えていない)、贅沢三昧してみるがそれも飽きる。そのうち彼はこの時間の中で生きて行くしかないと考え始め、リタの愛を得ることにすべての努力を注ぐ。色んなやり方を試すが、すべて失敗。下心で行動することの無意味さを知り、繰り返し出逢う人々に精一杯の誠意で接して行くことに気持ちを切り替えたとき、リタは心を開いてくれて、当然というか、繰り返す時間はまた直線的に流れ始める。
サタディ・ナイト・ショー出身で、「ゴーストバスターズ」でも独自の演技を見せたコメディアン、ビル・マーレイが上昇志向の偏屈者にはまり役だ。最後半で、彼が知り尽くした時間の中を、秒刻みで完璧な曲芸的奉仕行動をしていく様は、様式的完成を見た古典芸能のようだ。間違いを繰り返し続ける中にしか、人間の真実はない、と言いたいのか、常に更新される時間への回帰を主張したいのか。いずれにせよ映画(すべての物語も)というのは時間を切り離して閉じこめた作業の結果に他ならず、流れ去る時間の中に住む我々とは無縁の物であるはずなのだが、その瞬間をよりよく生きるしかない、という事では一致しているらしい。
この映画は何年か前にWOWWOWでやっていたのを"GroundHog Day"を契機に無理に思い起こしたものだ。「都市伝説」のほうでこの日の事を書こうと思ったが、まとまらなかったので映画ネタに切り替えた。それにしてもこの邦題は何とかならなかったのだろうか。
(2000/02/03)
参考:http://us.imdb.com/Title?0107048
悪魔を憐れむ歌
先日WOWWOWで「悪魔を憐れむ歌」という映画をやっていた。ブラピ様ファンならずとも熱狂的信奉者が多い「セブン」のパチモン映画で、「クリムゾン・タイド」で精悍な副官を演じたデンゼル・ワシントンがカッコいい刑事になって活躍(?)する警察ものだ。ただ「セブン」が人間の心の奥底にいる悪魔を描くホラー系(サイコ・サスペンスと言うのかな)であるのにくらべ、こちらは本家本物の「悪魔」が相手、と言うところが違う。
暗めの画面、いつも警察署の外は雨ばかり、という「セブン」直パクリにもかかわらず、あるいはそれ故にか、盛り上がりがいまいちなのは、ちょっと体が触れたぐらいで次々に人に乗り移って悪さをしまくる圧倒的アドバンテージのある敵という設定ではドラマにはならんだろう、と思われるからだ。ヒンギスと卓球愛ちゃんの異種マッチ、しかもテニスコートでやるルールみたいなもので、あれでは主人公はかわいそう。しかもいいように相手の罠にかかり、「もしかしたらこういう反撃考えているんだろうな、でもそのやり方には決定的穴があるよな」とこちらが予想することと寸分たがわぬことをするんだもの。もちょっと効果的ポイントも上げさせてあげないとデンゼル・ワシントンがかっこいいだけに気の毒というもの。
この映画は主人公が刑務所に死刑執行直前の犯人に面会に行くところから始まるのだが、これがどこかで見覚えと言うか、デジャブ感を惹き起こした(だから見続けたのだけれど)。刑務所の外にはデモ隊、死刑反対派と「さっさとくたばれ」みたいなプラカード持ったやつらとか。これも記憶にある。たしか、犯人の処刑後にも同じ手口で連続殺人が続くんだ、と思い出す。このあたりはなかなか面白い。
映画ではその記憶どおりに同じ手口での殺人事件が続くのだが、どうも様子がちがい、街角で肩突き合わせるごとにいわくありげな目つきした側が入れ替わっていって、何らかの人格が伝えていかれるような映像が続き、「それって、一種のアレゴリーなんだよね」と思っているうちに何のことはなく「生物を宿主にする悪魔」がその本体という種明かしがされてしまう。悪魔はR.ストーンズの「タイム・イズ・オン・マイ・サイド」が好きなんだそうで、乗り移るたびにその宿主がそれを歌いだしたりする。
ここから後はもうまるっきりで、通行人に次々にキャラが乗り移っていくところなんかは、「芸達者な役者をその他大勢につかわにゃいかんから、きっと人件費が高くついたろう」と言うような興味でみるしかない。結末のほうは上で書いたとおり。もうすこし考えてもいいのではないか。
一番問題なのは、導入部のデジャブはいったい何だったのか、ということ。手元のミステリ本を総ざらいしたが、ジェームズ・リー・バークの「ネオン・レイン」(角川文庫)というのが、似ているのは似ている。デモ隊をかきわけてもうすぐ死刑執行の受刑者に会いにいくところは同じだ。でもその受刑者は無実を訴え、主人公の刑事に好意から特別の情報をくれるのだ。記憶の方はもっといわゆる「サイコ・ミステリィ」調だった気がするんだけれどな。たしか、子供が殺される話だった。人に貸したままとか、本棚の向こう側に落ち込んだやつとか、変に山積みになってて崩れたりすると命が危ないような一角は調べられなかったので未だになんだったかわからない。
と言うわけで、映画としてはいまいちだったが、導入部のパクリに使われた元ネタがわからず気になるので、アップしたというわけ。ご存知の方はぜひ連絡ください。また「悪魔を憐れむ歌」という題目にもかかわらず、「タイム・イズ・オン・マイ・サイド」しか使われないので心配していたらちゃんと最後のクレジットのところで流された。この2曲の使用料だけでいくらかかったろうかと心配させる。原題は”Fallen”、つまり本当の主人公はこちらの方なのだった。(2000/02/09)
参考: http://us.imdb.com/Title?0119099
脳の中の幽霊
気鋭の経済人類学者であり、最近では政界進出で注目されていた栗本慎一郎氏が、昨年暮れに脳梗塞発作を起こされたらしい。小沢一郎氏への接近、離反、自民党への合流、盗聴法への反発からの離党と続き、さすが人類学者らしく、フィールドで鍛えた「関与しながらの観察」をもって得た自民党やそれが代表するこの国の権力構造というものへの厳しい批判を展開しつつあっただけに、この突然の発病はまことに残念だ。かの宮崎学氏と組んで始められた、「電脳突破党」第一号国会議員としての活躍を期待していたのだが。あれだけテニスで鍛えていて、高齢でもないのにね。秘密機関によるテロではないかと勘ぐりたくなる。
その栗本氏のサイトに、自らのリハビリ体験を通じて今までの理論強化をもくろんだ一連の小論がアップされている。転んでも只で起きないと言うか、さすがに学者の鏡と言うべきか。そこでそれこそ「鏡」を用いた片麻痺リハビリへの挑戦を報告しておられる。
栗本氏が依拠するのは「脳の中の幽霊」(角川書店)を書いたV.S.ラマチャンドランらのグループによる臨床実験の成果である。彼らは「脳機能は個々の神経モジュール機能の総和ではなく、また身体機能と独立する精神機能があるわけでもない」という、それ自体そう新しいわけではない階層論的一元論をその基本とし(大体この本の題名からしてA・ケストラーの「時計の中の幽霊」のパクリだ)、こつこつと臨床的観察を続けている。その主張は「細部に総合的真実が秘められている」ような書き方がされていて、とてもワクワクする気分が書物全体に込められているのは認めながら、「だから一言で言うと何なんだ」とすぐ言い出すイラチ人間が読むと、結局なんだかよく分からないと言う印象を残す。筆者の場合もそうだった。脳神経細胞は本来とってもconvivialに働くものなんだぜ、そうですか、それはまことに結構、是非私の不出来な脳細胞たちにも言い聞かせてやりたいものだ、と言う程度の感想だった。
そのラマチャンドランらがランセット誌に昨年発表した短報で、鏡を使った片麻痺リハビリを報告しているらしい。MEDLINEでは残念な事に内容は判らない(全文を金出して注文すればいいのだけどね)。先の本の中でも幻視痛治療に似たような内容での報告があった。
栗本慎一郎氏が自分にモディファイした例を見ていただくのが一番わかりやすいだろうから、詳しいことはそちらを参照していただきたいが(このサイトはリンクが一部混乱している。Netscapeだと画像が乱れる所もある)、簡単に言えば、麻痺していない手を鏡を使って麻痺側が動くかのように映し、同期させて動かす感覚と「具体的に障害なくうごくイメージ」を再リンクさせようという試みである。栗本氏による論文の訳を見る限り、ちゃんと対照をとった試みはそこそこの効果を上げているように見える。
いままで片麻痺のリハビリと言えば、拘縮緩和のためのマッサージや、筋力増強トレーニングしかなかった。こういう神経リンクの直接的再開をもくろむような方法は、「根性論」レベルで展開されることはあったが、具体的な方法として追求されたことはなかったろう(そう思うが専門ではないので断定は出来ない)。
考えてみれば片麻痺に対する針治療と言うものがあって、人によっては効果を示すことがある。あれなど、普通の神経機能の理屈からすれば理解不能だ。中国4千年の神秘で誤魔化してしまわずに検討されるべきだが、充分なされているとは言い難い。無責任に考えると、メインの神経回路が上部で断ち切られていて、下部の機能が「本部の指令がないので動けません」とさぼり込みを決め込んでいる様な状態になっているのを、針刺激による脳内麻薬分泌でそうした官僚的な構造を緩めて、「しょうがない、下部は下部なりに工夫してやってみるか」と言う方向に持っていくようなものではないだろうか。この比喩で行けば、先の鏡を使うやり方は「なーんだ、今までのダメ上司がこけたのは、こっちに付く良いチャンスだったな」と思わせるようなやり方か。
比喩的には語れても、やはり還元論的な理屈が乏しいような試みには少々距離を置いてしまうのは、今の科学業界ではえらい端くれに位置する筆者とて例外ではない。栗本氏は昔からとても面白い本を書き、素敵な理論の紹介などもしてくれるが、変なところでオカルト系の指向がかいま見えたり、トンデモにあと一歩というようなところが出てきたりすることもあったように思う。とても話の分かる先輩なんだが、盛り上がった会話のあとに怪しい新宗教のパンフを配るようなタイプ、とも言えない事はない。今回は彼自身の生涯第一とも言える危機を自ら乗り越える必要に迫られているのだが、そこでどの様な「学問的態度」を見せてくれるか、というのはとても興味がある。(本人にとってはどれだけ深刻な事態でも、それを「興味ある症例」と見てしまうのはやはりこの業界人の宿痾であろう)
ともあれ、実際にやってみた結果を踏まえないと何も言えないこの業界のことなので、早速筆者も試してみることにした。患者さん側に負担がかかることでもないし。勤務先のスタッフとしてもっとも信頼している営繕のS氏に協力してもらい、廃品置き場から適当な鏡を調達してもらった。あり合わせの段ボール箱とガムテープで装置を作り、一昨年夏に脳内出血を起こし、一時は言語障害と右側完全麻痺を示していたが、いまは右上肢の不全麻痺を残すだけになるまでに回復した患者さん一名に自宅に持って帰って試してもらうこととした。なんだかいい加減な段ボール細工を渡されて、患者さん側は当惑気味だったが、「あと字が書けるようにさえなれば」という熱望がありつつも足踏み状態だったため、喜んで協力してくれるとのこと。ここで報告できるような結果が出ることを期待したい。(2000/02/18)(2/19少し訂正)
*今のところ2名の患者さんでこれを試してもらっている。1名は右上肢麻痺でひじから先が動かしにくく、手は僅かに開いたり閉じたりが可能な程度であった。3週間これを行ったところ、親指と他の指とで輪を作ることが可能となり(第五指はまだかなりぎこちない)、ひじの動きもかなりスムーズになった。もう1名はまだ始めたばかり。