中学生の時、英語の教師に「"a"と"the"の使い分けの原則を示してもらえませんか?」と質問したことがある。試験の時はよくどちらかを選ばせるような問題を出しながら、ちゃんとした理屈を教えられたことがない。教師は「普段何を聞いていたんだ。一般的な数えられる物の名には"a"がついて、特別な物には"the"がつくんだ。原則はそれだけだ」とごまかしたが、そういう言い方では例外だらけで説明にならないのは皆ご存じだろう。だからこそ試験の問題にもしやすいのだ。国名の例などで切り返しさらに質問を続けた。たとえばThe USAなのに日本はJapanで定冠詞はつけない、固有名詞にはTheはつかないと言うようなことも聞いたが、USAは固有名詞ではないのか。そもそも特別な物だからこそ固有名詞が付くのだろう、先ほどの説明もおかしいではないか。

これに対して教師の言ったことは「言葉は理屈ではない」というものだ。歴史の中で様々に変化し、用法が積み重ねられた言葉は、簡単な原則などで割り切れる物ではないのだと。

以後30年以上が立とうとしているが、これについて明快に答えてくれた人にあったことがない。英語を母国語とする人とも多く知り合いになったが、こういう質問をしてみても当惑されるのが関の山だ。日本人に「てにをは」の使い方の原則をきいても殆どの人は答えられないのと同じかも知れない。例えば「雪はふる」と「雪がふる」の違いを、非日本語国民に明確に説明するのは難しい。

「うーんとね、『雪はふる』と言う場合、雪は雪として勝手に降っていて、自分のメインの関心というのはそこにはないわけ、あなたが来ないことの方が問題なわけ。並列的な事象の一つを述べているだけなのね。その点、『雪が降る』方はまさしく、雪そのものに関心が集中しているのね。もしそれに『あなたは来ない』と続くなら、それは『雪のためにあなたが来られない』というニュアンスになるかな。主題として絞られるわけ」てな説明でなかなかうまく言えたぞ、と思っていると、「じゃあほかならぬラーメンを食べたいときは、食堂で『私がラーメン!』と言うのが正しいのか?」などと問い返されると、いやそれはちょっと違って、などと口ごもり、結局「言葉は理屈ではない」という話になる。それにまで「限定的に言うのだから『言葉理屈ではない』と言った方がいいのでは?」などと逆襲されて進退窮まる。

「日本人の英語」(マーク・ピーターセン著:岩波新書)は88年に初版が出た。その後続編も出ているはずだ。様々な英語上達術の本は満ちあふれているが、この"a"と"the"の一点についてある程度耳目を開かせてくれた本はこれだけだったと言っていい。この点についての著者の主張はただひとつ、「名詞に"a"や"the"がつくのではない。"a"や"the"に名詞がつくのだ」と言うことだ。冠詞は名詞の付属品なのではなく、名詞のカテゴリーを指示しているのだと。

日本人が学校で初めて英語を習うとき、なぜか"This is a ......"という構文から始める(今は違うかも知れないが)。「さんまのからくりTV」を見ていると、とにかく英語をしゃべれ、と迫られた人の多くはこの構文に逃げ込むようだ(あれは全くのヤラセらしいが、それならそれで結構インテリの部類にはいる放送作家が筋書きを考えているのだろうから、日本人の英語力を批判的に表現するのにはあれが適当だと考えられているのだろう)。でも、こんな言い方を英語で実際に使う事はあるだろうか。

秘中の秘として一子相伝の技術で作られる幻のペンがあるらしい。艱難辛苦を乗り越えて、ついに制作者をさぐりあて、自分のためにペンを作ってもらった。そして、それを使って字を書く。おお、これぞペンだ、まるで書いているのが自分ではないかのように、紙の上を滑り、言葉を書き連ねてくれる。これがペンだ。ペンというものだ。というような状況でもない限り"This is a pen."などという言葉を人が発することがあると思えない。「おいマイク、おまえは何持ってるんだい?」「ジョン、これはペンだよ」「へえ?鉛筆じゃないのか」「鉛筆じゃないよ。ペンなんだ」なんぞというのはコントネタとしては面白いかも知れないが、全くあり得ない状況だ。

しかもその時"a"は「一つの」と言う意味だと教えられる。英語ではなぜか、指示するものがいくつあるかということをチャンと意識していないといけないのだという。筆箱の中に鉛筆は何本か入っていても、一度に2本以上持って字を書く人はあまりいないはずで、それが単数か複数かを何でそんなにしつこく言わねばならぬのだろうと言う疑問は許されない。

マーク・ピーターセンに言わせればこの時点で、日本の英語教育は生徒たちを袋小路に導いている事になるらしい。言うならば"pen"という単語は、それだけでは一つのイデアとしてのペンなのだ。そのイデアは具体的現象として立ち現れるとき"a pen"もしくは"pens"という姿をとる(正しくはそういうシニファンで記号付けられるシニフェとして現象する)わけで、そこがはっきりしていないと、目の前に理念そのものが浮遊しているような、実に収まりがつかない感覚を英語国民にもたらすらしい。いうならば"a"は実念論者を現実にいざなう露払いの機能を果たしている。単数と複数の区別は二次的なものなのだ。"the"の場合はさらにそれが限定的となる。"dog"という理念としての犬が、そこらを走り回って、おしっこを引っかけ、吠えかかられる可能性のある"a dog"として存在し、さらに大事な靴をかんで台無しにした、ブチで耳のたれた、雑種の、数年来隣家で飼っている"the dog"として具体的話題になるわけだ。

もちろん、彼の説明だけで長年の疑問が完全解決したかと言われるとそうではなく、やはり例外の山に出くわして「言葉は理屈ではない」に戻るしかない部分は多い。でも、英語圏の人々の言語感覚がかなりつかめるようになった気がするのは確かだ。著者のマーク・ピーターセンはかなり達者な日本語を書くが、英語から日本語にくるよりも、日本語から英語に行く方が難しいと認めている。しかし残念な事に、間違った教育によって歪められた日本人の英語を、正しく啓蒙しようと言うスタンスは徹底している。(この本は"a"と"the"の事ばかり書いているのではないのでご注意を)

先に紹介した「『日本人英語』のすすめ」を書いたグレン・サリバンが、かなり冗談の部分もありつつ「日本人にしかできない英語表現」をポジティブな物としてとらえて、それをもって積極的に世界に打って出ることを薦めている姿勢とはかなり違う。いまグレン・サリバンの方を読み返すと、日本語は現在の英語がすでに失っている、より豊かな表現可能性があること、その発想を英語に移入することは英語のためにもメリットがあると読める。(その理由は、日本語が言語としては未発達の段階で中国語と接触したため、外部語彙の受け入れが柔軟な構造に一部進化しつつ、よりイマジネーティブな部分をそのまま残していると言う特殊性によるものだと思う。年は食っているが発達遅滞なのだ)

インターネットと言う奴はどうも英語を地球的共通語にしてしまうことは間違いないようだ。しかし、いままで英語をしゃべっていたという既得権を持っているにすぎない連中に、その地球語を支配させる必要などないのではないか。筆者としてはマーク・ピーターセンのような「正しい意見」は相対化のための資料として押さえつつ、より豊かな可能性を持つ「日本人英語」を地球語に育てていくことのほうに組みしたい。(2000/02/21)

トップへ戻る


先日、筆者がPC全般指南のソースにしているWWW.TOMOYA.COMで「Win98風水変造」の術が紹介されていた。いまや不愉快なことにWinの方がメインになってしまっている筆者としては、ここのWebmasterの、M$帝国臣民に堕さず、軽やかにWinをしもべとして使いこなす姿勢にはいたく感服しているので、早速その風水変造を導入することとした。メインに使っているマシンはWinGateのホストとしても使っており、しょうもない常駐ものも加わってリソースが極めて心許ない。

実はそもそも、この「リソース」というのがB級マック使いの出自ではよく分からない。メモリのことでもなく、CPUパワーの残存率でもなく、総合的なマシンの余力を抽象的に表現したものであるようだが#、そんな「抽象的」なものがどうやってデジタルで表示されるのか、というのは謎だ。それに、リソースが50%を切ったらもうマシンが不安定になるのがおかしい。水筒に水が半分入っているのを見て、「あと半分しかない」と考えるか「あと半分も残っている」と考えるかで、その人の危機対応能力は決まると言うが、この程度のことでパニックになるシステムでは現代の課題を乗り切れるとは思えない。最後の一兵まで戦って散る旧皇軍を見習えと言いたい。

#無知を暴露してしまった。ここで言うリソースはやはりメモリなのだ。ただ、システムに確保される特別の領域で64kだか128kの制限があり、これはいくらRAM増設しても増えないらしい。PC関係ではしょっちゅう素人の疑問に登場するものだが、「メモリー開放のソフトを使いましょう」などという間違ったアドバイスをする自称エキスパートが数多いところを見ると、判っている人はそう多くはないようだ。要は無意味な作業をPCにさせないようにするしかなく、これが減ってしまって不安定になったときの対応は再起動しかない。Win2000を買わせるための陰謀的「仕様」としか言えない。(2000/03/01追記)

いずれにせよ先のサイトの教え通りに細工を施したら、リソースは90%近くにまで増え、マシンはとても軽やかな反応を見せるようになった。しかしやはりアプリケーションの起動を繰り返しているうちにリソースはジリ貧となってくる。「プログラムの強制終了」の窓でみても常駐化しているわけではなく、これは妙なDLLファイルやたのんだ覚えもない手続きの数々が、亡者の怨念のようにCPUにからみついているのだろう。前のようにリソースが60%台から始まる時よりもその低下率は激しく、結局共有されるファイル群が初めから自縛霊となっているか、あとから加わるかの違いのようだ。

それでも以前と比べればずっと軽やかになったのは確かで、前に買ったがまったく使い物にならなかったWin用のHTMLエディタも、これでなんとか使えるようになったが、やはりこういうテキストばかりのソース作りにわざわざリソース食いつぶしソフトを使う方がマヌケなのはよく分かっており、ここは真面目に普通のエディタでHTML文を書くのが正しい態度だろう。しかしねぇ、筆者など<P>日差しも次第に暖かなものになり、<WER>春もついそこまで来ている<P>と言ってもいいのかもしれない。</P>なんて書いていってその内容まで検討していくことなんか出来そうにない。少しでも簡単ソフトで楽をして時間を浮かせ、浮かせた時間で惰眠をむさぼりたいのが人情というものだ。(今のところマックのソフトをメインに編集に使って、チョコチョコ修正するのにWinを使うといういびつなことをしている)

この風水改造によって、筆者のマシンは素晴らしく軽やかとなり、同じ作業するにも1〜2秒は時間を稼げるようになった。ただ、ちょっと印刷しようとすると出来なかったり、アプリケーションの設定が変わったりして、それらを元のようにするのに半日ぐらいかかったが、秒単位の高速化のためには一日や二日の努力など何でもない。人間の文明はそう言うバランスのとれた努力でここまで進歩してきたのだ。

さて、最初にあげた本の題名「ツチヤの軽はずみ」(土屋賢二著:文藝春秋)とはまったく無関係な話を書きつらねたが、その理由はその中の一節に、上とまったく同じ様な体験を見事にまとめたものがあったからだ(「速いのがいい」36p)。「高速性にこだわるのは、待たされるのが嫌いな性格のためである。パソコンが処理している0.五秒が惜しいのだ。0.五秒あれば、学術書を五冊ほど読んで思索をめぐらし、疲れた頭を休めるために三泊四日の旅行が出来るような気がする。とにかくパソコンに向かっている三時間という時間そのものが無駄であるということには平気でも、そのうちの一秒の無駄が許せないのだ。」土屋氏にしては珍しくメタ論理ギャグも効かせず、直球で人間が高速パソコンに向かう心理をのべておられる。

土屋氏は「われ笑う、ゆえにわれあり」「われ大いに笑う、ゆえにわれ笑う」「人間は笑う葦である」(いずれも文藝春秋)で哲学的ギャグエッセイを展開しておられる哲学者である。筆者は子供の頃から、オーケストラの指揮者と哲学者は何のためにいるのか、という根源的な疑問にとらわれていたが、少なくとも後者の疑問は土屋氏の文章に接して氷解した。論理と意味の定義を操るだけで、上質(かどうかは怪しいところもあるが)なギャグが生成できる、という事を示せるのは哲学者だからこそ出来る芸当だろう。氏には本職に関するギャグ抜きの著書もあるらしいが、間違って買ってしまうことだけは避けたいものだ。せっかく氷解した疑問がまた再出現してはかなわない。#

なお、子供の頃の疑問のうちの最初の方はまだ解決したとは言えないが、カラヤンはクソだ、ベームに尽きる、ただフルトベングラーの全盛期を知らないので保留付きだが、などと外ならぬ自分の口から出るようなこともあるので、もっぱら音楽市場における商品価値決定メカニズムに関する経済学的機能を担っているらしいという辺りまでは判明している。(2000/02/24)

#一点だけ土屋氏に論難しておくと、氏は人間の想像力の奔放さを指摘するくだりで、「人は自分が偉大だと思っている人になりきろうとする傾向がある」ことを指摘し、「この点、阪神フアンの心理は謎である」と記されている。これは哲学者らしくもない本質を見過ごした観察である。阪神フアンは「偉大」という記号自体に囚われることがないのだ。より事象そのものへとせまるあまり、「時間」をも取り入れた状況そのものを愛している。メガネを外す前のクラーク・ケント、「ジジイはすっこんでろ」と言われるときの水戸黄門としてのあの球団を愛しているのだ。もちろん本当にスーパーマンになり、葵の御紋を掲げるようになるには多少の策が必要ではあろう。まず阪神電鉄から離れて、松下か任天堂あたりに身売りして、マグワイアとソーサを招き、ついでに上原と松坂をもらって、監督を野村夫人のほうにする程度の改造は必要かもしれない。

トップへ戻る


高校の時、英語の教師が洒落者だったというか、ミーハーというか、リーダーの副読本にE・フロムの小論文を使った。フロムは「自由からの逃走」という古典的名著、それも精神分析の立場から社会評論をするという禁じ手に近いやり口の元祖ともいえるもの、を著したので有名なユダヤ系の精神分析学者だ。それまで、まともな人文科学的著作と言う物に接したことのなかった筆者には、その論文は世界そのものを解読する鍵であるかのように思えた。そういう初体験がマルクス主義文献によるものでなかったのは幸いだったとおもう。

もともと電気系ハードオタクであり、工学部に進んで電子技術系の仕事につくと殆ど決めていた筆者は、この時から方針を一転させ、人間の精神を解明するような仕事をしていきたいと考えるようになる。精神分析は現代精神医学の重要な武器らしい。よし、医学部に進んで精神科医になろうと考えたわけだが、実際に医学部に進むとどうも様子が違う。だいたい精神科の教科書には精神分析のことなど、ほとんどエピソードとしてしか書いていないし、実際の診断治療にそれらが活用されることなどまずないらしい。

まだ医学生の分際だったのに、筆者は「これは日本の精神医学の方がおかしいのだ」という結論に達し、精神の奥底にせまる「真の精神医学」を自分で切り開いていくしかないと思い上がってしまう。そこでまず読み始めたのがこのミッシェル・フーコーの「精神疾患と心理学」であった。これを選んだのは、当時おフランスもの哲学書を持ち歩くのが一種のはやりであったことによる(文字通り『持って歩く』事だけがはやりだったのだが)。サルトルではもう消費され尽くしていた感があるが、メルロ・ポンティだの、デリダだのをさりげなく口にするのは、知的ファッションの必須アイテムだったからだ。この歳になっても、その手の本を数多く出していた「みすず書房」の本を買ったりすると、本棚でも一応一番目に付くところにおいて「こんなの読んでるんだからな」と誇りたい気分が出てくるのは否めない。誰も見てやせんのに。さすがに当時、大部なものを選ばず、こういう小品を読んだあたりに、思い上がりの中にも自分の能力に対する正しい認識があって好ましい。

さてそう言う具合に、後年の職業的生活の導入ともなったといえるこの本に対してどのような感想を持っているかというと、実はまったく内容を覚えていないのだ。なんだか、なにか主張したと思えばそれをすぐに否定し、否定したかと思うと実はそれでいいのだ、と言いだして、結局なんやねんと思ったことだけが記憶のすべてだ。結構気負って読み始めたにもかかわらず、フーコーの他著作を体系的に読むと言うことにもつながらず、せいぜい医学史小話のネタ採取という実用書として「臨床医学の誕生」を、観念的屁理屈をこねる若い衆への反撃用に「言葉と物」を比較的真面目に読んだか、という程度。この人としばしばリンクして語られる事の多い(理由はよく分からない。まったく関係ないと思えるのだが)J・ラカンの精神医学理論への興味も湧かず、この辺りには殆ど不案内なまま、一応専門家となってかなりの時間を過ごしてきた。

そして、ここが肝心なところなのだが、フーコー理論をほとんど身につけずに精神医学臨床をしてきて何か困ったことはあったかと言うと、実は何もないのだ。ラカン理論は言うに及ばずだ。筆者が初期研修をうけた精神医学教室は、日本には珍しく屁理屈系精神病理学がそれほど馬鹿にされない雰囲気があり、しかもさらに珍しくフランス学派に造詣の深い先輩が多くいた。J・ラカンの指導医であったクレランボーとか、同僚のA・エイなどは結構論文も読まされ(何と昔はフランス語が読めた。500語ぐらいの文ならほぼ500回ぐらい辞書を引きつつ)実際の精神疾患理解に役立ったのだから、フーコーやラカンと関わりなく過ごせてきたのは実に不思議なことだ。

まあこれは比較的正統的なドイツ学派の精神病理学知識においても同じ事で、さんざん読まされた(ドイツ語も読めたのだ。500語ぐらいの文なら…以下同文)ヤスパースとかビンスワンガーなどに関して何の知識がなかったとしても、おそらく実際の臨床で困ってしまうことはまずないだろう。その後色んな人と一緒に仕事したが、その手の知識と臨床能力はそう関わりはない。そういうことは知らないが有能だという人と、色々知っているが無能だという人では前者の方がよっぽど頼りになる。もちろん有能な人が知識量が多い傾向があるのは当然だが。医学生時代、精神分析が不当に軽んぜられていると憤慨した筆者自身、業界人となってみれば、すぐにまあそりゃそーだと考えるようになったし、身体(脳)の問題として精神疾患をまずとらえるオーソドックスな日本精神医学業界の大勢が、一番着実な立場だと思っている。

一応の診断が出来て、薬物療法をおこなえて、程々に人当たりが良ければ精神科医など誰にでも出来る。そこで実際に使っている知識量はおそらく中学理科程度のものだろう。あとはデシジョンメーカーとしての責任を引き受ける落ち着きがあればいい。これはしばしば「全くの無責任、無反省」によっても代行できる面があるのが難しいところだ。

さて、「精神疾患と心理学」である。これをまた読み直すと、フーコーの言っていることは次の2点であるようだ。つまり、身体医学モデルで、疾患とその本質、という捉え方を精神疾患に持ち込むのはおかしいということと、精神疾患というものはそれ自体が存在のバリエーション、それもよりポジティブなものだ、ということだ。これでは2行で終わってしまって原稿料が稼げないので、さまざまなレトリックを駆使して膨らましてあるわけだ。なんだ、こんな青臭い事を言っていたのか、これでは筆者の若い頃の憤慨とそうかわらんではないか。精神疾患を分類処理してその共通する要素を取りだし、それに一律に対応するのではなく、まさしくその存在の根本において、おのずからそれ自身がその姿を現すが如き科学的解明というスタイルがあるはずだし、精神分析というのはそういう過程なのだと誤解(正しいのかもしれないが実証できない)していた頃の筆者の考えとそう変わるものではない。

だいたい、医学という実用科学において何が目的かというと、「事実をより簡単に把握し、何らかの操作を可能にする」事であるわけだ。いちいち個別性にこだわり、「それ自体にせまる」様なことをやっていれば百の出来事に対して百の対応が必要となり、あることに習熟するなどと言うことは不可能になる。それは時間という物は後戻りはしないのだから、あらゆる事象は一回性であるとは言える。事実、同じ対応だけで解決できることなど厳密に言えばないが、それでも程々のパターン付けがなければ何もできない。

今なら上のように言って、この本は片づけられて終わりだったろう。実際に接してきた精神疾患、特に分裂病症状は「存在のポジティブな一形態」などと呑気な事を言えるような物ではなく、人間的存在を根本から脅かすきわめて破壊的な外在的恐怖として多くの病者に体験されている事を見てきただけによけいだ。ましてやフーコーは単なる学者ではなく、ある程度精神科臨床にもかかわった人であるはずだから、一体そこで何を見ていたのだ、と言いたくなる気持ちが強い。まあ向こうだって、これを書いたときは若造だったのだけれど。

しかし、それでもなおフーコーに代表されるこうした「狂気の積極的評価論」は、業界べったり人間である筆者にもつよく訴えかけてくる物であるのは事実だ。かっての自分の意見でもあった彼の基本的姿勢を見ていると、いつの間にか別行動となって、崖の向こうの道をたどっている昔の仲間を見る気がする。崖のこちら側は一応舗装道路で、行く先は判らないがなんとか目的地は保証されているように思える。向こう側は全くの道なき道、とても目的地にたどり着くとは思えないのだが、もしかしたらそちらが本当の道なのかも、とも思えるのだ。

しかもその道なき道を、その仲間はランボルギーニ・チータのごとき超弩級のパワーマシンで駆けている。こちらは言うならばボロボロの三輪バタコである。多少あこがれないでもないが、これで向こう側の道を行くことは無理だ。この舗装道路をしょぼしょぼ進んで行くしかない。まわりには舗装道路しか走らないくせに、無意味なオプション満載したオフロードマシンを、しかもそれをぴかぴかに磨くことしか興味ない奴らがいて、向こう岸のオフロードテクニックについて色々おしゃべりしている。頑張っていても、こういう連中のおしゃべりネタになるだけなのは可哀想だな、そう思いつつよたよたと走り続けている。(2000/03/01)

トップへ戻る


98年のアメリカ製SF映画である。この年、これと全く同工異曲の「ディープ・インパクト」というのが作られており、両方見た人はどっちがどっちだったか判らなくなっているのではないだろうか。違いを言うなら、「ディープ…」の方が女性TVキャスターを主人公にしたあっさり目の仕上がりなのに対して、こちらはブルース・ウィリス主演であくまでむさくるしい。

さてこの話、一時しつこくTVで予告編をやっていたので皆あらすじはご存じだろう。「ディープ…」のほうはそれなりに導入でひねっていたが、こちらは単純明快そのもの、予告編でうかがえた以上の内容は全くない。ある時突然、流星の一群がニューヨークを襲い、多大な被害がでる。その時になって初めて、大きな小惑星(なんか形容矛盾だ)が地球衝突にあと18日という位置にいることが判る。対策を練るNASA、大検討のうえ小惑星に穴を掘って核爆弾を爆発させる、という考えるまでもない案に落ち着き、石油掘削のプロ、ハリー(ブルース・ウィリス)にそのミッションが任される。

マイナーな石油掘削会社のオーナーをなんでNASAが知ってるのかとか、たかが穴掘り機械をNASAの技術陣がうちそろって組立もできないとか、そもそもそんなに穴掘りというのはプロ中のプロがやらないと困難な事業なのかとか、疑問は尽きないが、これは主人公が「なんでオレんとこにそんな話持って来るんだよ」とボヤキながら見事な働きを示す、という「ダイ・ハード」パターンに持っていくためには致し方ない手続きだ。ハリーはNASAのエリート連中などにこのミッションは任せられないと、一癖も二癖もある自分の仲間たちと宇宙に向かう。これで見事ミッション完了、はいご苦労さんではさすがに映画館が暴動騒ぎになるのは見えているので、その作業過程はこれでもかという困難と、予想外(でもないが)の出来事がうち続くようになっていて、最後はとにかくブルース・ウィリスが英雄中の英雄に祭り上げられるようになっている。

現代アメリカ映画界の七不思議の一つに(他の六つは今ちょっと思い出せないが)、「ダイ・ハード」以外のブルース・ウィリス物はことごとく駄作である、というのがある。「ダイ・ハード」にしたところで、三作目などは老舗の名前だけで売ろうとしたのが見え見えの、金かけてればいいってもんではないぞ映画の代表だったが、それでもあの主人公は一応ブルース・ウィリスであるからこそ成立するキャラクターであり、まあなんとか見ていられる。彼にはもう「寅さん」の渥美清の如く、あのキャラで突っ走るしかないのかもしれない。「ダイ・ハード18−マックレーン歌舞伎町慕情−」なんてのを自費で撮るなら、もはや絶滅寸前の日本映画界など飛びつくのではないか。CMで儲けて大金持ちらしいし、やってみたらどうだろう。

この「アルマゲドン」も制作費をブルース・ウィリスが殆ど出したのではないか、と思うほど彼の固定キャラをことさらに前に出す事だけを目的にした映画だ。アメリカ映画の底力はすごい物だと思っているが、こういうキャラぶら下がり物を見ていると、あちらの内情も結構カツカツなのかも、という疑いが湧いてくる。ブルース・ウィリスを初めてみたのは「こちらブルームーン探偵局」というTVシリーズだったが、その頃の、ちょっと間抜けで頼りにしていいのかどうか判らないヒーローもどき、という持ち味は結構決まっていたのにな、と思う。もっと幅広い展開もあったかもしれないのに、人間変なところで成功してしまうと、そのパターンを忘れられずに同じ事を繰り返し、結局ジリ貧になっていく、という教訓を見る思いがする。日本経済などまさにそのパターンだ。

もっとも、彼自身はそれを意識しているのか、結構あちこちで新鮮な役柄に挑戦しているのだ。でも、全然それが当たらないのだな。「永遠に美しく…」なんて成功した部類だと思うが、成功しすぎたのか、ブルース・ウィリスがあれに出ていると気が付かない人もいたりする。最近の「シックス・センス」とか「ストーリー・オブ・ラブ」なんかどうだったのだろう。TVでやるのはまだ先のことだろうから確認のしようはないが、こちらの危惧が的中してしまわないことを祈りたい。

なお誰でも知っていることなのだろうが、冒頭のNYのシーンで日本人観光客役として松田聖子が出ている。それを初めとして、この制作者や監督のアジア観というのはちょっと何とかならんか、と言いたくなる。上海のシーンなんて、アヘン戦争撮ってるんじゃないぞ、ホントに。唯一の救いは穴掘り仲間役のスティーブ・ブシェミの時空変成演技だ。この情けな顔のオッサンは、どこに出てきても独自の崩しでそれなりに救ってくれる。初めからしまいまでストーリーとは関係なく、ナチュラルハイで画面を跳梁しつづけてくれていたらと思う。

あまり関係ないことだが、SFとしての細かい作り込みなどは、「ディープ・インパクト」の方が手が込んでいた(というより「アルマゲ…」があまりにデタラメ#)。それにこちらの方は「ER」の監督が撮っただけのことはあって、知ってる人間が沢山出ていてよろしい。おやドクター、こんなところでお珍しい、といえる分だけ、惑星衝突物対決は「ディープ…」の勝ちと思える。公式的には「アルマゲドン」のほうが、アカデミー賞の音楽賞だかにノミネートされたぶん、勝ちになっているのかも(なんだかタイタニックの主題歌のパクリに聞こえるのだが)。そのうえ「ラジー賞」という「その年の最低の映画に与えられる賞」でこちらは最低作品賞と最低主演男優賞を獲得している。あまり賞とは縁がないブルース・ウィリスにとっては記念すべき作品といえるだろう。

なお筆者は「ディープ…」の方はTVの、それも日本語吹き替えバージョンで見た。「アルマゲドン」は相変わらずのヒマ当直の夜、職員から強奪したDVDを鑑賞させてもらった。せめて急患でも来てくれないかな、と思いながらの2時間30分だったが、こう言うときに限って、誰も来ないのがつらいところだ。(2000/03/03)

#例えば、あの小惑星からシャトルはどうやって離陸したのだろう。サンダーバード2号だってもうちょっと納得いくメカがあったんじゃないか?

参考:http://us.imdb.com/Title?0120591

トップへ戻る


73年の作品。これは昔々ちゃんと映画館で見た。先日NHK-BSでやっていたが、映画館で見たときの主人公にたいするイタイ感じがそのままよみがえってきた。部分的には、こういう人、いるよねぇ。

1930年台後半、ケイティ(バーブラ・ストライサンド)は、ハベル(ロバート・レッドフォード)と同じ大学の文学課程に通う苦学生。働きながら学費を稼ぎつつ、米国共産党の活動家でもあるケイティは、かっこよくて男前、かつ体育会系のヒーローで、勉強もできるという米国版若大将みたいなハベルに秘かにあこがれている。ハベルもケイティを憎からず思っているが、彼の取り巻きたちはガチンガチンのスターリニストとして反戦活動をするケイティをからかいまくり、二人がつきあうことなど出来そうにない。

二次大戦末期、軍情報部ではたらくケイティは(共産党員でも情報部ではたらける、という挙国一致体制があったんですねぇ。アメリカと言う国は)、海軍士官となったハベルと偶然再開してぎこちなく恋に落ち、結婚する。小説家の才能を垣間見せていたハベルを花開かせようともくろむケイティだが、ハベルはハリウッドで脚本家になる道を選ぶ。それなりに安定する二人の生活だが、今ひとつハリウッドになじめぬケイティであった。

そのうちマッカーシーの赤狩り旋風がハリウッドに押し寄せ、ケイティはまたもや水を得た魚のように反赤狩り運動に邁進するのだが、生活のために信念を曲げるハベルとは隙間が広がるばかり。結局娘がうまれると同時に二人は離婚。十年後、二人はNYで再開する。ケイティは反核ビラくばり、ハベルはTV局の偉いさん。相変わらずのケイティをまぶしく見つめつつ、ハベルは去ってゆく。

こうしてみると才能があるやさしい男が、イタイ嫁はんに手を焼いて逃げ出した、というだけの話だなこれは。俳優としては明らかに格上のR・レッドフォードが2歩も3歩もひいて、バーブラ・ストライザンドを立てている。困っちゃうよね、でもこういう正しいこという人はいるべきだよな。でもよりによって、俺の嫁さんでなくてもいいよなぁ、何も。という感じが実によろしい。

日本でこういう強い嫁はんの話を作ると、鳳啓介・京唄子(そういえばこの人、B・ストライザンドによく似ている)とか、南都雄二・ミヤコ蝶々あたりが適役で、その場合は旦那は単なるぐうたらで健気に嫁さんが一家を盛り立てる、という設定になってしまう。なかなか、この映画のごとき組み合わせは難しいものだ。旦那がふつう以上の社会適応をしている場合は、イタ目の嫁さんの行動性はしばしば内にこもってしまい、種々の精神症状になってしまったり、しょうもないところでの浪費とか自己ディスプレイ行動で終わってしまいがちだ。ケイティみたいにスターリニズム政治運動への方向性が完全に脳内に埋め込まれ、大戦下では国家の方向性ともそう矛盾なく協働できるような幸せな政治人間(ここまで疑いのない人はもう天才としかいえない)の場合はこういうふうに突っ走りつづけられるんでしょうなあ。

この映画はまだ学生時代に映画館で見たのだが、私にはまれなことに女性と一緒で、しかもそれがミニ・ケイティといえる人だった。そのあと「政治性を受け止め、共同性に止揚できないR・レッドフォードの軟弱性」についての解説を、散々飲み屋で聞かされる羽目になり、映画のなかのハベルの浮かない表情が心の底から理解できた(おそらく傍目には大助・花子の漫才ネタのように見えたであろう)。

なおこの女性はその後、知人と結婚し、今はその奔放な行動性はフラメンコダンスとカルチャースクールでほぼなんとか吸収できていると聞く。彼女の旧姓はモリさんといった。だから私には「メメント・モリ」という言葉は「カイショなしの男はイタい女性に近づくな」という意味だ。(2000/03/09)

#旧姓をそのまま書いてしまってごめんなさい。でもモリでないと最後のしめが不可能だったもので。

参考:http://us.imdb.com/Title?0070903

トップへ戻る


これはもうずいぶんと昔に出版された本だ(ヨルダン社1982)。著者のピーター・バーガーはいわゆる現象学的社会学の流れをくむ、と言うかその本流を歩んでいる人なのだが、その多彩な著書の中でも宗教者としての立場を全面に押し出した内容となっている。この人の「聖なる天蓋」(新曜社1979)は言うならば「宗教業界を社会学的に分析した」大著であるが、この本は「この近代的社会において、なんでまた宗教などというダサイものが生き残っていられるのか」、と言うことに焦点を絞り、聖界俗界を問わない宗教の有り様について考察されたものだ。機能と言ってしまうと浅薄だし、構造というと違うし、どういうニッチで生き延びているかの検討、というのが一番近いのかもしれない。宗教という「非理性的」存在が絶滅の道をたどるとも見えていた時代に、理性の範疇で宗教を捉え直そうとするピーター・バーガーのもくろみは極めて先駆的で、現代社会におけるカルト問題などへの具体的指針ともなりうるものだといえる。

もっともこの原著が出版された70年代中頃は、ベトナム戦争がほぼ米国の敗退という形で決着が付こうとしていたり、環境汚染の深刻化といった社会背景があって、いわゆる西欧型理性を元にした近代社会の行く手にかなり具体的な暗雲が見え始めようとしていた頃だ。バーガーの問題意識の一部は、いわゆる近代への懐疑という世俗的な形式で急速に一般化しつつあった。それでも彼はあくまで「宗教」にこだわる。近代制度への懐疑とそれへの異議を掲げるだけでは、必ず同じ事態にからめ取られるだけだ、という確信があったのだろう。事実、この「懐疑」へのエネルギー源の一つであったマルクス主義は、その無力さと虚構性をすぐに自らさらけ出すことになったのだから。

さて、現代において宗教に依拠しようと言う人が、否応なく直面させられることと言えば何だろう。それは一言で言えば宗教が持っている超越的な側面と、いわゆる自然科学的な真理をどう折り合いをつけて同居させるか、と言うことにほかならない。神様が7日で世界を作ってみたり、死んだ人間が蘇ってみたりなんぞということが現実であるわけがない以上、それを前提とした宗教は無効になるしかないではないか。これに根本的に対応するために宗教者が取りうる道は二つしかない、とバーガーは言う。一つは「原理主義」に立てこもることだ。社会との軋轢がもたらす緊張は彼の宗教心をより鍛えるだろう。心理的物理的財政的な力が続く限りこの立場は継続可能だ。殆どの場合、悲惨な結末が待っているのだが。もう一つは果てしない妥協を社会と取り交わしていく立場。神や不死の命、天国や地獄というものは言うならば一つの仮想的象徴概念として扱われ、道徳や倫理の標語や心理学的「癒し」と同じ様なものとして無神論者たちの蔑みの目から守ろうとされる。しかしこの立場は、それ自身宗教を無効化しようとする事に他ならない。心理学的癒しと同じ様な効能があるなら、誰がわざわざ宗教マークのついた商品を選ぶというのか、とバーガーは言う。その通りだ。坊主や神父が心理学的、哲学的な立場に立つのなら、なんで不信心者が宗教を選択する必要があるだろう。

しかし現実にはこうした極端な立場はそう選択されるものではない。いささかカルトに属するような部類の教団でさえ、後者の如き適応的態度は多かれ少なかれ見せるものだし、全く超越的側面を放棄する宗教家もまたいないものだ。何より、多くの惰性的な信者集団や無神論者においてすら、その日常を疑いなく生きる「妥当性構造」のなかには、なにがしかの超越的側面=宗教的な信念が含まれている。信じているかどうかは別にして。これが最も典型的に示されているのは日本人社会においてであろう。新年は神社にお参りし、教会で結婚し、お寺で葬式して何ら疑うことはない。日本の宗教教団のメンバーをすべて足すと3億人に近くなると言う話もある。宗教供給がインフレを起こしている社会なのであるが、八百万の神々の伝統からか、宗教的エクスターゼへの希求が先行しているためか、単一的価値感への欲求につながっていく傾向は見せないようだ。

読み返してみると、肝腎の「なぜ人は宗教的体験を求めるのか」ということにこの本はちゃんと答えているとはいえない。「そういうものだ」という以上の事は書いていない。しかし人は自覚していなくとも、一種の宗教的法悦=エクスタシー体験の切れ端を日常生活の中で求めているのは確かだ。それは性的悦楽の希求であったり、果てしない消費願望を実現することであったり、企業や団体の論理と一体化した自我拡大を図ることだったりする。結局代替えでしかないそうした方向は、しばしば強迫的な依存におちいる事になるのだが。若者がことさらに差別化的(同時に没個性化であったりするが)なファッションに身をつつんだり、徒労的コミュニケーションに埋没するのも(人のことは言えないが)この範疇なのかもしれない。まさしく「人はパンのみにて生くるもの」でないのは事実なのだ。奇妙なカルトにはまる人々と、日常にある小さな神話への依存を同じまなざしで眺める事が、よりよき生への可能性を開く、と私は思う。(2000/04/15追記)

バーガーはこの本では、あくまでプロテスタント神学者の立場から考察しているので、こういう相対的価値観に宗教が堕することを良しとはしない。キリストへの信仰を求めるところにしか宗教的価値は生まれないと言い切り、信仰者の苦悩の中に救いへの期待とその成就を見て取るのだが、なにせバチアタリの私などにはこの辺りの論考はあまり興味がもてない。

神なき時代に信仰者であろうとすることは、超越のしるしが「うわさ」にまで縮小した世界で、そのうわさの探求にでかけることに外ならぬとバーガーは言う。そして恐らくそのうわさの源泉にたどり着くことが出来るであろうとも。宗教に非科学的とか前時代的というような言葉でしか対抗できない我々の社会の貧しい価値観が、かえって犯罪的カルトをはびこらせる原因であったことを思えば、このバーガーの真摯な姿勢は、私のようなバチアタリ系無神論者とても尊重せねばならないものだと思う。ここでやっているつまらぬデマ話の蒐集も、せめて天使のうしろ姿を見かけることでも出来ないかという欲求から発しているのかもしれないな、と考えてみたりもする。(2000/04/03)

トップへ戻る


1956年の米映画。先月末WOWWOWで放映されていた。戦後一年目の沖縄を舞台にしたコメディで、もともとはブロードウェイで評判をとった演劇の映画化らしい。定型的文化誤解ものの枠組みで捕らえることも可能だが、それにとどまらぬ見所を持った作品であると思える。

ダメ将校のフィスビー大尉は沖縄の寒村、トビキ村の復興計画指導のために派遣される。彼を補佐するのが地元採用された沖縄人通訳、サキニ(なんとマーロン・ブランド)。村人は学校の建設や民主主義の学習などにはさっぱり関心を示さないが、援助物資を約束する大尉を大歓迎する。そのお礼にと村人は、他の村で復興計画の邪魔になると追い出された芸者、ロータス・ブロッサム(蓮奴、てな感じか。これは京マチ子)を大尉の世話係にとつれて来る。やがて村の女たちは彼女のように芸者になりたいと言い出し、男たちは芸者と遊べるお茶屋をつくるのが学校より先だと言い始める。大尉ははじめは芸者を単なる売春婦だと思っていたが、しだいにその魅力に引かれはじめ、お茶屋建設に同意する。

その財源に、昔ながらの芋焼酎づくりとそれの米軍駐屯地への販売をはじめたところ大当たり。村人たちは見違えるように勤勉になり、豪華なお茶屋が完成する。そのころ、大尉の動静がおかしいことに気づいた上官が、ノイローゼを疑って軍医をトビキ村に派遣するが、この軍医もたちまちお茶屋建設で盛り上がる大尉と村人たちに一体化してしまう。お茶屋竣工記念の大宴会の夜、村に現れて事態を知った上官は激怒し、大尉を解任、お茶屋の解体と焼酎蒸留器の破壊を命じる。大尉は軍法会議を覚悟し、ロータス・ブロッサムと壊されたお茶屋の跡で涙の別れをしている頃、上院議員が大尉の計画をモデル事業にとりあげ、視察に訪れるという知らせが届く。上官は慌てて大尉をもとの地位に戻す。またサキニたちの策略で蒸留器やお茶屋の破壊は形だけだったこともわかる。たちどころにお茶屋はもとの姿をあらわし、めでたしめでたしで幕となる。

マーロン・ブランドが出ているのは番組予告で知っていたのだが、実際に見てもどの役をやっているのかわからない。勝俣洲和似の大尉とは違うだろうし、まさかあの通訳ではないし、と思っていたらそうなのだ。少し釣り目にして眉毛を細くし、黒い髪の毛にして頬骨当たりを膨らます、という欧米人が持つ定型的な日本人イメージに近づけているようだ。はじめは尾藤イサヲなのかと思ってしまった。彼は通訳というぐらいだから当然妙な日本語も話すが、その辺の違和感はさほどではない。大尉の言葉をまるっきり変えて村人に伝えるあたりは、むしろ翻訳作業批判になっているとも見える。

この映画は沖縄という文化圏は日本とは違うもの、という正しい認識で作られている。日本に支配されていたのを米国が解放した、という図式だ。その割には完全に日本式の芸者がいるのが妙なのだが、まあそのあたりを厳密に言うこともないだろう。ベネチアのゴンドラ漕ぎがサンタルチア歌っていても、素敵だなぁで済ますでしょ、ふつう。地元民の名前のことなどは…まあよしとしよう。サキニってのは関根のつもりかなぁ。

言ってみれば売春婦ともいえる芸者の多元的な側面を、あっさり大尉が納得してしまうのも、唐突といえば唐突だが、全体を流れるアメリカ式合理主義とそのおせっかいな価値押しつけ主義に対する批判的な見方、この時代には先駆的ともいえる自省的視点からすればそうおかしいともいえないかもしれない。56年ごろの米映画といえばインディアン皆悪者、白人皆善人パターンがまだ全盛だったはずだし、他文化をエキゾチシズム以外の見方で肯定的に描くようなことはそうなかったはずだ。

マーロン・ブランド主演ということで当然連想が行くのは「地獄の黙示録」だが、この映画はまさしく20年以上先行した「地獄の黙示録」プロトタイプともいえる。軍医が大尉の様子を探りにきて、すっかり大尉と村人たちのペースにはまってしまったりするあたりに、プロット上の類似を指摘するのも容易だろう。「地獄…」にマーロン・ブランドが出たのは、こちらの映画に対する回顧的オマージュという意味もあったのかもしれないな、と思える。

しかしこの映画で見られるような単純明快で肯定的な文化相対主義は、79年になるともはや通用しなくなっており、「地獄の黙示録」はなんだか訳のわからん内向映画になってしまっている。文化相対主義はやはり、みずからの文化とその基盤に対する底抜けの信頼の上に成り立つものなのだな、と思う。反差別や他文化との連帯を掲げる運動などの一部に見られるような、妙に安易で楽観的な風潮と今後ふれるような時には、尾藤イサヲ似のメークに身をやつしたマーロン・ブランドの演技を思い出すことになるのだな、と思う。(2000/04/05)

参考:http://us.imdb.com/Title?0049830

トップへ戻る



86年の韓国映画。4月13日、NHK-BSでの放映。日本で公開されたこともあるらしく、ビデオも発売されている。その題名は「恐怖の外人球団」。もともとは漫画の映画化。「外人」は外国人ではなく、「はぐれもの」と言う意味なんだそうだ。「アストロ球団」から荒唐無稽さをほんの少し差し引き、「スチュワーデス物語」を加えたようなものを想像して頂きたい。

天才的高校生ピッチャーであるヘソンは、高校野球決勝戦を前にして、幼馴染のオムジと再開する。彼女はライバルチームのマネジャーだった。そこのスター打者、マ・ドンタク(これがタカビーでプレイボーイの左門豊作、と言う感じ)に紹介されてなぜかボロクソに侮辱されるのだが、オムジは「私を好きなら勝ちをゆずってほしい」と頼む。ヘソンはあっさり頼みを聞いて、相手チームは優勝し、ドンタクはプロに迎えられる。

オムジはドンタクと婚約し、いいとこなしのヘソンは失意にうちひしがれ(そうなるのわかっていてすねるのがまた不可思議)夜の町をさまようのだが、そこにあらわれたのが杖をついた謎の男、外人球団の監督、ソンだ。野球はやめたとふてくされるヘソンに、「おまえは野球がなければ犯罪者になるだけだ」と妙な決めつけをして去ってゆく。なんなんだ。

さて、なぜか唐突に父親とおぼしい人間と山ごもりして、ヘビなんか食べながらトレーニングするヘソン。マ・ドンタクが華々しい活躍をしているのを横目に、弱小球団にテスト生で入団する。そこそこの活躍はするヘソンだが、彼に活力の源泉であるヘビを届けようとする父親が交通事故で死に、さらに肩の故障も加わり失意のどん底に落ちる。手術を受けるが、もう野球は無理だとも。

オムジはそうしたヘソンを慰めるためにまた接近するが、しだいに心惹かれてゆく。唐突にも屋台をひいて暮らそうと誓い合う二人。そこにあの謎の監督、ソンがあらわれ、不自由な足をもかまわず、作りかけの屋台を壊してしまう。「外人球団に入団しろ!」というわけで、結構提示条件がよかったこともあり、もとチームメートのトゥサンとともに無人島のキャンプ地におもむく。

そこにいたのは片腕のプレーイングコーチ・ガン、黒人混血のクワサン、ストーカーちびおやじのギョント、マ・ドンタクにいじめられてチームをやめたバッティングピッチャー・サング。このとても一流野球選手とは見えぬ連中が、荒地を丸太かついで走り回ったり、崖をよじ登るという、まったく野球とは無関係な苦行のすえ、最下位球団カウボーイズに勝ってなんぼ契約で入団する。

奇跡の50連勝で、マ・ドンタクのいるヘテ・タイガースとコリアンシリーズに持ち込むカウボーイズ。久々にオムジと再会したヘソンは、彼女がドンタクと結婚してすでに身ごもっているのを知り逆上。ショックでオムジは流産してしまう。未練たらたらのへソンは心身ともに傷ついたオムジを決戦前夜に呼び出し、よりを戻そうとするものの、「あんたらなんかうちのダンナにやっつけられたらいいのよ」と大逆襲をくらってしまう。「外人球団なんぞに入ったからオムジを失った」と見当はずれの恨み言を言い出すヘソン。妙な内部告発をして、マスコミは急に外人球団たたきなんかし始める。

決戦当日、カウボーイズ優勢に試合は進むが、ドンタクの打席でヘソンは何を血迷ったか、その打球にグローブも放り投げて突進し、顔面に球を受けて失明してしまう。ショックでオムジは精神の均衡を崩す。精神病院でひたすらヘソンの名前を書きつづけるオムジ。そこに訪れる盲目のヘソン、二人は永遠の愛を誓いあい、映画は終わる。

筋書きを書こうとすると、意識的に避けようとしても「なぜか」と「唐突に」ばかりになってしまうのだが、監督のイ・ジャンホは文芸系の知る人ぞ知る名作家だそうで、これは自分の映画を作るための資金にと、割り切って作ったものだそうだ。たとえばオモジの心の動きなど、ご都合主義も極まっていて、ただでさえ設定に無理があるところに、ストーリーの流れ自体も破綻、とまでは言わないまでもかなり弛緩したものであるのは否めない。

しかしそれでもなお、この映画が奇妙な魅力を放出している理由は、「異形のフリークスたち」の持つ神話的パワーに依拠しているからに違いない。中軸に据えられたこの神話エンジンが作用するかぎり、多少の不都合や矛盾点などかまわず観客を引っ張るエネルギーが生じるのだ。ラストの唐突な二人の和解も、フリークスとして合一化したヘソンとオモジには必然として得られるものに違いなく、そこでは論理的なストーリー展開など無用なのだと思われる。

映像的にはストーリーをになう部分の妙に寒々しい絵と、ヘソンとオモジが愛を深めようとするあたりのカラミをえがく、まるでカラオケビデオみたいな定型的映像という、ふたつのワンパターンの極致を対比的に示すのが面白く、監督はかなり意識的に「通俗映画の形式をとった神話の映像化」を狙っていると思える。

なお、この映画は韓国ではかなりのヒットになったようだ。「外人球団2」も作られたということだ。貸しビデオ屋にわざわざ行こうとは思わないが、TVでやるなら見逃したくはない作品だ。(2000/04/14)

参考:http://www.seochon.net/korean_movie/movie/gaijinkyuudan.htm

トップへ戻る



こういう中途半端な文章をならべるとき、私が一つだけ守ろうと思っている原則がある。それは「否定的にならない。すべてを認め受け入れる」ということだ。精神科医として長らく仕事をしてきて、そこで得た商売の秘訣、と言ったものがそれなのだ。だから、これまで書いたような文章のなかに、何かをけなす意味合いを見つけてしまうとまことに居心地が悪い。こっそり全部書き直そうかと思ったりする。誰も読んじゃいないよ、と思っていても気持ちが落ち着かない。

その意味で、この本はとても難物だ。ついついボロクソにけなしたくなる。ネットで検索してみても好意的な評を見つけるのは難しい。ほとんどが、著者の自己愛への閉じこもりを指摘したり、恋愛至上主義を批判しているのは自分がこだわっているからだとか、勝手にもてない男を演じているだけだ、と言う調子。せいぜいが、もてなかったという私怨を客観視して文化論に持っていく手並みがうまい、と言う程度。でも著者は東大の英文科を出て、大学の教師をしている人なのだ。そのぐらいのこと朝飯前に決まってる。単なる私怨の垂れ流ししか出来ないようでは、文科系知識人業界では食って行けない。もちろん適当に給料貰って生きていくことは、運良く教職が手に入れば誰でも出来るが「デカイ顔して」生きていくのは難しい。もともとの大顔の持ち主であってもだ(小谷野氏のことをいっているのではない)。

この本のことにざっと触れておくと、小谷野氏は自分が生まれてこの方、異性はおろか同性にだって心が通うような体験をしたことが無く(と言うより、そういうのが気持ち悪いらしい。私もそうだが)とりわけ自分が好意を寄せるような女性には、まったく関心をもたれたことがないのだと。そして買春をするには倫理観が許さず、ハード・オナニストとして人生をすごしてきた。「なんで俺ばっかりこんなに孤独なんだ。だいたい俺は東大出てるんだぞ。こんなに女にもてなくてふられてばっかりいるんなら、なんで苦労してあんなに勉強したんだ」こんな「法界悋気」(なんでも特定対象を持たない嫉妬心のことだと言う)がいつも心に渦巻いているんだそうだ。冗談めかしているが多分本音だろう。ちょっとコワイ。

ここで彼は近代以降の文学作品では恋愛が主題にされつつ、もてない男の視点で書かれたものがきわめて少ないことをしめし、その欠落について考察しようとする。ここいらはさすが本職だ。どんどん文献が出てくる。「もてない男」にかぎらず文学では「孤独」がずっと無視されつづけていたことも示される。やがてそういう論考とはあまり関係なく、恋愛(えせ恋愛も含む)能力や結婚能力は要は妥協能力であるような話になる。

そうして最後近くで恋愛や結婚などにこだわるのは無意味だ、と主張するかと思いきや、なにか腰砕けになってしまう。そして、彼は唐突にいう。「結婚を前提としないセックスは許さない」と。どうも「真の恋愛から結婚へ」というのは認めるようだ。取り立てて結論、と言うようなものは無いが、恋愛がもたらす目くるめく法悦というようなものを信じる世の常識を批判して(と言うより呪って)この小論は終わる。

知識人というのは、どんなに自分を露悪的に論ずるようなことを書こうと、それは業界系飲み屋で「いやね、この問題に取り組んだのはボクが初めてなんですよ」と自慢話するためにやっていることなのだ。そこには業界内力関係にいくらかでも寄与せんとする打算と、自らの学問的営為の設計とを巧みに按分したねらいがある。もちろんその両者は分離できない。あるミクロ的政治の立場に身をおくことは、その人の学問的生産力に決定的な影響力をもつ。適度の外圧は明らかに人の能力を高める。強すぎるとまたうまくいかないが。

その意味で、この本は小谷野氏の宣戦布告書といえる。戦いの主たる相手は、近代以降蔓延した「恋愛至上主義教」で、さしあたってはそれに凝り固まった「恋愛エリート・フェミニスト」だろう。男性一般がもつ「女は押しの一手」「ヤッちまえばこちらの勝ち」という前近代主義にたいし、このエリート・フェミニストたちは支配や権力の表現としてのセックスを拒否し、発達したコミュニケーション・スキルによる自由な合意に基づいた、社会的制度に縛られない男女関係を称揚する。小谷野氏はそこに風車に突撃するラ・マンチャの男よろしくバンザイアタックをかけているわけだ。その意気やよし。その意図はそうよくない。相手がセコすぎるではないか。

私の意見をいえば、恋愛と言うものは一種の妄想だと思う。未熟な男女が性欲や金銭欲によって引き付けられあった状態に後付けするものであったり、もう少し悟った男女が社会的結合をせねばならない状況で、それを受け入れるための方便として機能していると思っている。小谷野氏が一つの理想にしているらしい映画「喜びも悲しみも幾年月」のような夫婦関係、森鴎外
#の「じいさんばあさん」のような関係(私は『安井夫人』のほうがいい例だと思うな)は恋愛とは別のなにかだ。彼らは運命の享受のなかに永遠をみているのだ。おそらくそれは、世間で言われる「恋愛」よりも、高次の法悦(エクスタシー)を人にもたらすものに違いない、と私は思う。

恋愛、少なくともそこらでボコボコと雄雌つがいが出来ていくようなタイプのもの、とは小谷野氏がいうように、そう人がすべてを捨てて追求すべきものとは思えない。しかし、どこかに理想の恋愛があって、それに基づいた理想の結婚があるなんて了見は捨てたほうがよいように思う。そもそも性愛というものからそこそこ手軽に得られるエクスタシーなんて、そう大層に構えないといけない物でもあるまい。手に入るときには手にしておいてそう損はないのでは。どうせそのうち手ひどい幻滅が来ますがね。でも、エクスタシーにはまだまだ各種あとが控えている。次から次に異性を渡り歩くような態度を軽蔑してしまうこの本の著者だって、エクスタシーの多様な姿を求めることまで否定はしないだろう。逆に、恋愛なんぞの先にあるものはたかが知れていると見切れば、天下の東大少壮学者のことだ、性愛レベルでの入れ食いハーレム状態など思うがままだ、と私が保証しよう。(2000/04/27)

#森鴎外をなぜか正しく表示できないので略字になっている。ごめん。


トップへ戻る


「レッド・ドラゴン」「羊たちの沈黙」と続くハンニバル・レクターものの三部作完結編(だろうと思うが不明)。先に映画「羊たちの沈黙」が大当たりしたためか、これも映画化をかなり意識しているらしい。映画のおかげでレクター博士はアンソニー・ホプキンス、クラリスはジョディ・フォスターと視覚化されて物語が追えるのがメリットと言うか、余計なイメージ先行でわずらわしいと言うか。

筋書きだが、「羊たちの沈黙」で大手柄のクラリス、今ごろはFBIマスコミ広報専従かなんかで左うちわのお気楽公務員してるかと思いきや、この国でも「出るクギは打たれる」というお役所体質は変わらぬようで、上層部に嫌われ、現場汚れ仕事ばかりこなす毎日を送っている。たまたま麻薬事件の容疑者をやむなく射殺したことで批判の矢面にたつクラリス。そこにかのレクター博士から励ましのお便りが届く。「君は戦士なのだよ、クラリス」と。気分は複雑でしょうな。

一方、昔レクターの被害者となり、身体の自由と容貌を失ってしまったという大金持ちがおり、この男がクラリスを憎む上役と結びついて、レクター博士への個人的復讐を遂げようとしているという設定が重なる。これがまた変態性対幼児サディストで、昔、裁判所がその性犯罪傾向への強制的治療を命令した、ということがレクター博士との接点。レクターはこの男を麻薬でぶっ飛ばせ、顔の肉をえぐらせて自分で食わせてしまったという。いまやベッド上で生命維持装置につながれ、ただレクターへの復讐を大金かけて計画するだけが生きがいになってる。この男とFBIの上役は、レクターとクラリスの特別な結びつきを利用しようと考える。

そのころイタリアはフィレンツェ市警の主任捜査官パッツィは、カッポーニ宮の新しい司書として赴任してきた人物に疑念を抱く。ブラジルからきたと自称するその男は、深い学識と芸術的才能で学術関係者たちに一目置かれているのだが、パッツィはその男こそかのレクター博士ではないかと疑う。かって連続殺人犯捜査で痛い目にあったことのあるパッツィは、名誉より実利を求め、かの富豪復讐鬼に連絡をとり、レクター拉致の段取りをつける。しかしレクターはこの策略を逃れ、あわれパッツィはその先祖と同じく(彼はかの対メディチ家クーデターを起こして全員処刑された、パッツィ家の末裔ということになってる。全員処刑されてなんで子孫がいるんだ?)、ヴェッキオ宮殿にむごたらしい縊死体としてぶら下がる運命となる。

この失敗にめげぬ富豪復讐鬼は、クラリスを陥れれば博士が現れると読み、上役につまらぬ言いがかりをつけさせ、クラリスを休職に追いやる。もくろみどおり現れたレクターを拉致した富豪一派は、博士を生きながら豚に食わせようとする。レクター救出のために単身富豪の大農場に潜入するクラリス。そこでの大活劇、そして悪夢とも戯画とも言いがたい結末へと物語は進む…。

毎日新聞に、精神科医の小西聖子氏がこの書評を書いていて、レクター博士の描き方が鈍重だ、まるでセックス抜きのポルノだと手厳しい。確かにこの小説ではそれまでの、高い知性と鋭い共感能力、合理的行動力を持ちつつ、突然了解不能な残虐さを示す、聖性と悪魔性のないまぜ、純粋ヌミノーゼの体現者という描き方から、妙に通俗了解心理学レベルでの描き方になっている。彼の幼児期トラウマや、趣味や学識の示し方もどうも底が浅いような気がする。

でも、同じようなネタ続けてももう誰も面白がってくれないだろうし、同工異曲で飽きられるよりは、手堅く(?)まとめて幕引きを意図するほうが、金持ちケンカせずの精神からすれば、より好ましいのは当然だ。作者も充分儲けたろう。後はのんびり余生を楽しむってもんだぞ。大体、この手の小説にみんな何を期待してるんだ?

第一作と第二作読んだとき、私がレクター博士に感じた印象は「まるでこまわり君みたい」というもので、こまわり君とか半田溶助(ご存知でしょうか?)なんかが普通の(?)小学生、中小企業主として当たり前の限界付近の行動様式から、常識の小道どころか、人倫や生物学的許容範囲まで大きく跳び超えたパターンに突然切り替わるのが、まったくレクター博士と同じ。「羊たち…」までは、その破壊的無秩序がいったん去って、関係者一同、もーあんたとはやってられまへんわチャンチャンで終わっていたのが、この小説では最近のコント系お笑いによくある「こうなりゃヤケだ」と総崩しで終わるというのが違いというところ。

創り出した大層な化け物に手がおえなくなったらしい作者としては、ドストエフスキー並みの手腕までは望めぬ悲しさ、こういう世俗的尻すぼみへと導くしかなかったんだろうな、と思わせる。あ、もちろん世俗的っていったって、常識的という意味ではありませんがね。鬼子母神が神様になるような話といえるか、ちょっと違うかな。

でもその尻すぼみなラストシーン、映画イメージの助けもあって、なかなか印象的でいつまでも頭にこびりつく情景だ。少なくとも夜中にトイレに行くのも怖くなるようなホラー系シーンは頭に残らない作りになっているので、ホラーとかサイコなんとかのマニア以外も安心して読めると思う。そう、安心だし、満足だって充分得られる。それがちょっと「食傷」に似ているところはあるけれど。
(2000/05/04)

トップへ戻る