医学部に入ったばかりの学生の一定部分にとって、短期間、精神医学は魅惑的な分野に思われるものだ。最新の医療技術、医療器械を駆使する「近代医学」の魅力は言うまでもないのだが、あれはどうもシステム依存しているだけのような気がしてしまう。未熟な医学徒にとって、精神医学とは一対一の人間関係を構成し、操作し、病んでいる人へ直接的に人生の意味を与えるものであるかのように誤解されやすく、またその誤解が美しい幻想を生んでしまう。
「いいか、よく聞きたまえ。スカイウォーカー。君が戦おうとしている相手は君の恐れにほかならぬのじゃ。幻と戦う事はできぬ。あの月を見よ。君が見ているのはあの月かな?それをさし示す指なのかな?」なんて訳のわからんことを言って、人生の奥義を伝授する導師にでもなれるような気がしてしまうのだ。
少なくとも私はそうだったし、同級生にもそういう誤解をしていた奴らは2割ほどいた。医療関係者やその周辺には、こういう誤解をそのまま続けている人もいる。精神科医だと自己紹介すると、「なんだか分析されちゃうみたいで怖いですね」などと、見当外れのことを言われて面食らう同業者は数多いはずだ。
年月がたち業界事情に詳しくなり、精神医学というものが結局は病者の症状を見極めて、向精神薬と言う化学物質を処方し、病者への援助体制を組織するマニュアルなのだ、ということを知り、その意味では外科や内科と本質的に違うものではないことが判り始める。しかも近代的な医療器械とかそういうものを操る技術が乏しい代わりに、収容所型精神病院という無骨で古典的なシステムがあって、そこに「閉じ込めておけばひとまず安心」という解決にならない解決が実際の方向性であるらしい、という観察が精神医学への魅力を著しくそぐ。2割ほどいた精神医学志望者は、卒業時にはその十分の一ほどになるのが普通だ。勘違いで一生を浪費するよりは、こちらの方がよっぽど健康的だろう。
それでも精神医学を選んだ人にとって、精神分析や精神病理学というのは、美しい誤解を一生維持するための牙城だ#。なにせ(屁)理屈で精神の障害を理解し、あわよくばそれに基づいた言語の力で人を癒すことすら目論んでいる。私なんか未だにその幻想から自由になっているとは言いがたい。身体医学的アプローチを選んだ精神医学本流の人たちはみな内心で(人によっては堂々と口にもする)「屁理屈こいてろ、万年文学青年どもが」と思っているのだ。実際、精神分析なり精神病理学研究グループが実体として存在する大学精神医学教室は数えるほどしかない。十指には余るが、足の指すべてを動員する必要はないだろう。そりゃまぁ、どこの大学にだって変わり者は一人二人いて、文献積み上げてバリケードを作り、ネズミの世話やら試験管洗いやらをさせられるのを回避しているのだが。
ところが、世の人々の「言霊への信仰」は絶大なものがある。人は人とのふれあいの中で発達し、逸脱しかけても正しい方向に導かれる、というそれ自身そうまちがっていないと言うか、一応正しい経験的な事実もどきが混乱に拍車をかける。精神疾患と人生のつまづきとかがごっちゃにされてしまう。しかし、そういう誤解にあえて棹さしても詮無きことだ。
思春期の犯罪とか学校教育の危機などに関して、精神医学的な立場から発言を求められる人は、通俗的な精神分析学や精神病理学的な視点にたつことがほとんどだ。そこでセロトニン受容体変化の話をしても仕方がないから、まあ当たり前だ。身体派精神医学者だって、元はと言えば「贋ヨーダ」幻想を経てこの道に入った人がほとんどのはずだから、マスコミ程度が相手ならそれなりのことは言える。ともあれ、精神医学業界の中で冷遇されているとはいえ、その業界内部でも社会全体でも、それなりの需要がある分野が精神分析や精神病理学で、しかもそれはある種の幻想によって成立していると言える現状がおぼろげながら判って頂けるだろうか。
さて、ラカンである。別のところで私はこの一派とはまったく関わりをもたずに臨床をやってきて、全然困ることもなかったと書いた。フロイトだって実際あまり関係ない。もちろん現代精神医学概念の中にフロイトの発想は、人格の構造と言う考え方の中に生きている。しかし、彼のいうイド-無意識という人格の背景部分は、ほとんどの精神医学者にとっては身体的ハードウエア(脳)の機能というようなものとあいまいに換骨奪胎されているはずだ。たとえば海馬と言う脳領域の形態と機能が、発達期の体験と関連していると言うような知見に、フロイト的ロマンが脳科学によってもある程度救済されたかのような安堵を覚えるのだ。ところがラカンとその周辺は愚直と言うか、そんな杜撰なハード-ソフト関係との同一視で、脳科学へ精神医学が安易に吸収合併されることを拒否するかのようだ。
彼らが精神分析学派の中でどのような位置づけになるのか、私は浅学にして知らない。ユダヤ系が多い分析学者が2次大戦でアメリカに亡命し、そこで自我心理学という一種の人間関係論に世俗化していったのをこの連中は批判しているらしい。フロイト原理主義の一派と言えるのかもしれない。フランス精神分析学派の中でもラカンは結構お騒がせな人で、独自の学会を旗揚げしてみたり、すぐにそこから離れたり、自分中心の研究会みたいなものを組織したかと思うと、81年に死ぬ前には一方的に解散したりしている。彼には直弟子と直接的に認められていた400人ほどの研究者と、認められようとしていたさらに400人ほどがいて、向こうでは一緒にして「八百ラカン」と呼ばれているらしい。(その中の高弟十数人は『十六ラカン』と呼ばれる)
彼の残した本で翻訳されているものをよんでも、理解できるのはそういった表面的な事情ばかりで、本文から何かを読み取るのは絶望的なまでに困難だ。なにせ彼自身自分の本を「読んだらすぐに…閉じる気を起こさせるようにしたい!」と願っていて、「読者が本を閉じずに読みつづけるのではないかと恐れてい」ると書いているぐらいだ。このラカンの恐れを回避する手段は徹底していて、つまりその本を読んでもまったく何も理解できないように書かれていて、並以下の資質しかない私などには本を閉じる以外まず出来ることはないのだ。
これは最初から大部な「エクリ」なんぞに取り掛かるからだろうと思って、「テレビジョン」とか「ディスクール」あたりの小ぶりなものを選ぶとこれまたドツボで、何かの暗喩なのか換喩なのか、精神分析的有職故実についての記載なのかもわからぬ記述が続くばかりで、当惑以外に受け取るものはない。これは自分がアホなだけでもなく、どうも彼の訳者たちだってそう事情は変わらぬようで、明らかにフロイトの本家どりをしていると読めるようなところでもまったくその訳注などない所を見ると、彼らもこのフランス語暗号を日本語暗号に変換するだけの存在のようだ。
ここはラカンの望みどおり潔く本を閉じ、「えーい知ったことか。ラカンがそんなにエライなら、おフランスでは分裂病なんかころころ治るんだろうな」と居直りたいところだが、やはり自分なりに見極めたい気持ちはある。言語的やり取りとそれを理論化することだけに全精力を注ぐ生業をどんなつもりで続けてきたのか、またそれを成立させてきた条件は何なのだろう。それが単なる小王国君臨願望でなければいいのだが、かの奇怪な文体も一種の宗教的権威付け用のジャルゴンでなければいいがな、なんて心配したりする。
ちょっと長くなったので具体的解説は次回以降に。初めは掌編をさっと紹介しようか、なんて思っていたのだけれど、そういうのはかえって断片的で、妙な言葉の使い方をいちいち確認しなければならないし、むしろラカン理論を自分なりに理解したものを、自分のためだけにでもまとめたほうがいいと思う。おそらく大誤解を並べる事になるだろうけれど。(2000/05/26)
#ここでは精神分析と精神病理を一緒くたにする、というちょっと無謀な論の進め方をしているが、本来は全然違うので注記しておきたい。精神病理はあくまで厳密な症候論の確立を意図しており、最終的には精神症状を身体的な異常へのインデックスとする事を目指してきた(それが大間違いなのだ、というフーコーの指摘はさきに紹介した)。その過程で、個々の症状から仮想的概念を演繹して導き出す、もしくはその逆という「芸」ばかりが肥大化した面があり、そこが屁理屈といわれる原因となっている。本来はそうした概念は身体的(脳)異常に還元できるという期待から暫定的に持ち出してこられたものだ。その点、精神分析は19世紀的物理学をモデルにした*仮想概念である自我エネルギーの蓄積とその備給パターンの進化として人格発達をとらえるという、実証不可能な擬似科学だ。精神分析セッションと言う2者関係のなかでえらえる協同的な体験が、準実証的な根拠をもたらすとはいえ、いわゆる実証的科学とは同列に論じられない。もちろんだから無意味と言ってはいない。2者関係という限定的な場面からであれ、分析から得られるものが人類にとって実りある「学問」的意味を持つのは間違いない。それに厳密な意味では実証科学など存在し得ないともいえるのだから。
*私はかって、後期フロイトが「快感原則の彼岸」でタナトス-「死の本能」と言うのを持ちだしてきたのは、熱力学的モデルが適用されるべきエロス備給理論を、古典力学的に説明しようとしたための苦肉の策だ、という屁理屈を仲間内で主張したことがあるが、誰一人理解してくれなかった。自分でもよく理解していなかったのだから仕方がないが。あのまま真面目に理屈をでっち上げていってれば、熱力学的精神分析理論の大家になれたんだがなぁ。欲動エネルギーの発散よりも、欲動エントロピーの増加を重視する新しい「と」理論だ。誰かパクってくれんかしら。
精神科臨床に関わるものが精神分析をどうイメージするかと言えば、この物質文明社会に生きる人間が「宗教」に対して持つ感覚にとても近いといえる。初詣もすれば親戚の法事にも出て、自分の結婚式は教会でやってみたりして、宗教の形式的側面を受け入れるにはやぶさかでない人でも、その内容まで完全に受け入れているわけではない。ある宗派の熱心な信者であっても、その教義のなかに必然的に含まれるであろう超越的側面に関しては、一種のたとえ話として肯定的に受け入れる、というにとどまる場合がほとんどだろう。そうでなければ「原理主義的態度」しかないわけだが、これはそう一般的ではない。この点についてはP・バーガーの著書紹介のところである程度触れた。
私が泳いできた精神科医療業界では、精神分析に代表される精神療法的立場は、ほとんどの臨床家にとって、お客さま第一の営業的態度と同じようなものと受け取られている。98%ぐらいの精神科医は疾患に具体的効果があるのは向精神薬だけだと思っているはずだ。もちろん、私もそう思っている。
そうはいっても、患者側の治療に対する両価的な態度をくみとって治療意欲につないだり、家族の協力体制を作り上げるためにはそれなりの「精神療法的」テクニックは必要だ。「ハイ、あなた病気です。これ飲んでなさい」ではうまく行くものもダメになる(と言って、親切に対応するが処方はデタラメと言うのと、処方は確実、態度はぞんざい、を比べれば後者の方がまだ治療成績はいいだろうが)。
あれ、あんた精神分析とか精神療法の話をしていて、いつの間にか「親切」の話にすりかわってるぞ、と思われるかもしれない。実際、この業界での精神療法の機能は「親切に相手の話をじっくりきいて、治療に対する不安を取り除く」以上の意味は現状ではない。薬物療法をスムーズに行う、という露払いなのだ。そうでなければ一種の弁論術、堂々めぐりの不安と自己憐憫スパイラルに落ち込む人を、ごく普通の日常論理に引き戻すテクニックとして会得されるものだ(これを『認知療法』と大層に呼ぶ人もいるが)。
そんな業界内雰囲気の中、精神分析・精神療法原理主義に立てこもる少数の治療者がいるのは、それ自体興味ある現象だ。まるでサンタクロースを大人になっても信じている人を思わせる。これは揶揄しているのではなく、憧れをこめてそう言っている。そしてその人々の理論的指導者として今一番はやりなのがラカンなのだ。やはりそれなりに自家薬籠中のものにしておきたいと思うのは、業界人としては当たり前だろう。
前回書いたように、この人の著作には何度か挑戦したが、そのつど敗退しつづけてきた。本当に何が書いてあるかまったく理解できないのだ。定食屋のオヤジがフランス料理のレシピを読んでいるようなもので、リソレしてフランベして…、なんじゃそれは、焼けばイイんだろ?てな感じ。何せ自分の側にまったく彼の立てている枠組みが存在しないのだから、わかるわけはない。まして、昔から訳本が出ている「エクリ」は、翻訳した人に、そうした前提的な枠組みを読者に知らせようと言う努力をしている様子が微塵も感じられず、わけわからんほどこの手の本の読者は喜ぶんだよねぇ、と思って出版したとしか思えないシロモノだった。(今は改訳されているかも知れないが)
10年ちょっと前に、彼の若いころの論文や、系統的な講義が出版されたが、買い込んでは見たものの、真面目に読むには昔のトラウマがきつすぎた。ところがすこし前にそれらを読む機会があって、「あれ、結構面白いこと言ってるじゃないか」と思えるようになった(以下、もっぱらテキストは岩波書店「精神病」上下卷による)。ラカンは古典的な精神病理学や神経心理学に通じているばかりか(そりゃあのクレランボーの弟子で、A・エイの同僚だ、知らんわけがない)、精神分析自体の疑似科学性もよく理解しており、精神療法一般が持つ胡散臭さへの感覚もちゃんと持っている、ごく普通の臨床医らしいのだ、どうも。
「父の名」がどうした「大文字のA」だ「小文字のa」だのといわれても何のことやらわからないが、精神症状における了解可能性の問題とか、心因論のあいまいさなどから話を展開してくれると実にわかりやすい。俗流了解的な立場の得手勝手な解釈、症状を環境や体験に安易に結び付け説明すること、が治療にも結びつかないし、患者理解をますます遠ざけることになるのは多少臨床に関われば誰でも知っている。精神分析学派の人もすぐ安易に口に出す「治療同盟」という考え方、病者の人格の健康な部分と結びつき治癒をともに目指す、なんていうのも幻覚妄想状態では何の力もないのだが、ここまではっきり言われることもあまりないだろう。
極めつけは「精神分析状況は分裂病を著明に悪化させる」という事実の指摘だ。なにせ、精神分析状況となる事態を徹底的に避ける、というある種の行動療法的な分裂病治療法を提唱している人がいるぐらいなのだ。分析学者で自分からこれをバラして、それを理論的に説明して居直るというのもラカンならではだろう。また神経症を対象とした分析過程で一過性の精神病状態が見られることはよくあっても、それが全部分裂病に進展するものでないことから、「素因」というはなはだ古典的なものを想定せざるを得ないことも素直に認めている。たんなるサンタクロース親父ではない。
彼の理論的な面へのとっかかりで言えば、「妄想着想における3つの見解」というところで目からウロコが3-4枚落ちた思いだった。(岩波書店「精神病」上巻p13)
分裂病患者が目の前を通り過ぎた一台の赤い車を見て、「これは何か意味がある」と疑い、実際そこに意味を見出す「妄想着想」に対し、ラカンは3つの見解を持つことが出来る、という。普通は分裂病の一級症状が出現していると思うだけで、飲ませる薬の品定めをはじめているところだ。一つは「認知障害」といいう角度だ。「赤い車」を要素として別のものに見てしまう、赤緑色盲者が別の色としてそれを見るように、というとらえ方だ。
そして次は言うならば「動物行動学的」な見方だ。駒鳥がその赤い胸毛を他の鳥に見せて威嚇する、あるいは性的アピールをする、という本能的な刺激解発機構とおなじことが、この患者には起こっていると見るわけで、彼はそれを「赤という色が」「想像的機能をもっている」と言う。
そして、赤い車を一つの記号として理解する見方、つまり「象徴的な次元で理解」する三つめがあるのだと。
そしてこの三つの領域は「『基礎的現象』を、我々が理解していると自称する時、我々が巻き込まれている三つの平面をも区別している」というのだ。ラカン理論のかんどころ、現実界-想像界-象徴界のボロメアンリングと言うのをこういう器質的-本能的-記号的な次元と言うので説明してくれると実にわかりやすい。もちろん上の例ではぎごちないところもあるのだけれど。(とくに現実界=即自的知覚のレベルと言う理解で良いのだろうか?あんまり簡略化しすぎているか)
さて、はじめに目からウロコはよかったのだけれど、この本では次の妄想論の展開に具体的な症例をつかわず、フロイトが妄想論の題材とした「シュレーバー症例」について長々とした論考が加えられ、興味を著しくそいでしまう。自験例で都合の良い、いいかげんなことばかり言うより、こうした古典的なテキストを使うのはそれなりにフェアなやり方ではあるが、当然解釈ばかりで、治療者として理論を適用して具体的に働きかけ、結果を示して自らの正しさを証明することを放棄しているわけだから、ズルイともいえる。まぁ、今のところ妄想に対して有効な分析的介入はない、と正直に言ってるのだから、これでいいのかもしれないが。
そのあとに続く自験例の提示が分かりやすいか、というと決してそうではない。(「私、豚肉屋からきたの」の章)どうやらここはパロールの相手となる「他者」の成り立ちについて説明しているらしい。有名だがさっぱり意味がわからん「大文字のA」「小文字のa,a’」についての論考らしいのだが、当然読者は諸般の事情を全部知ってることが前提の断片的記述、というラカンと訳者の悪い癖のためか、私の無能のせいか、まるでわからない。興味を引くのは妄想的パロールに時系列的因果が欠ける理由にちらりと触れていることぐらいで、彼の解釈と言うのも、それまでの屁理屈の割にはなんか妙に機能主義的で精彩を欠くように思われる。この部分以降については別に触れたほうがいいだろう(と、まだ読んでないのをごまかす)。
とにかく、精神分析家でなくても、病者と接触する手段は基本的には言語であるわけで、ラカンのいう象徴界を介した接触をしているわけだ。その際、病状というものをベタにとらえてしまって、とおりいっぺんの術語的記載で済むという幻想に我々自身とらわれてしまう限り、本質(そんなものがあるとして)は我々の指の間を抜け落ちてしまうだろう。#
幻覚という患者の現実界のかく乱と、興奮、異常行動という想像界レベルの混乱、妄想的パロールという象徴界レベルの障害を複合的に眺めるところから観察をやり直す、ということあたりが臨床的な立場でさし当たって出来ることかな、と思う。もちろん彼の言葉をそのまま使う必要などないけれど。
もちろん、そうした観察によって得られるいろんな要素と、脳科学がその内解明するかも知れない脳内過程がやがて一本化するかもしれない、という程度の希望をもつのは当然だし、それはラカン自身の意図であるようにも思う。ラカンは心理学と生理学を区別していないのだと言う。その意味で、彼は器質レベルと症状表出レベルを同じパースペクティブでとらえることを欲する、もっとも古典的な夢を見つづけている精神医学者なのだ。(この項つづく)
(2000/06/07)
#伝説的な対分裂病精神療法家は、しばしば言語にそれほど依拠せず、直接的情動的体験を重視すると伝えられることが多い。サリヴァンなどもその伝だし、直接分析と呼ばれる一派などは不条理演劇の世界に病者を直接導きこむような手法を用い、かなりの成果をあげたとされる。日本でも一種の職人芸として分裂病への精神療法を創始した多くの先達がいるが、 ほとんどの場合、言語的一般化がされる過程でその秘蹟は共有されることがなくなるのだ。
先日民放の深夜劇場でやっていた。夜更かしが苦手な私ははじめちょっと見たが、眠気に我慢できずビデオにまかせて寝てしまった。しかもそのままでまだ見ていない。これは20年近くまえにTVでみた記憶にもとづいて書いたもので、かなり錯誤がある可能性がある。
監督の長谷川和彦氏は寡作で、これともうひとつ「青春の殺人者」というのしかとっていない(助監督、脚本作品は結構ある)。いわゆるATG系の監督で、業界内では将来を嘱望されていた人のようだ。私はこの映画が出てしばらくあと、興行的に徹底的にぽしゃったことを受けて、やはりATG系の誰かがこの映画があたらなかったことをちゃんと分析・総括しない限り日本映画に未来はない、というような文章を書いているのに出くわしたことがある。その時はTVですでにこれを見ていた私は、何を血迷ったことを言っているのだ、あんなくそ面白くもない映画が受けないのは当たり前だ、と思ったものだ。スカはスカ、総括もくそもない。ただし、70年台最後半の時代の気分というものはよく出ていた。だからこそ当たらなかったんだろうけど。
やる気なし高校理科教師の沢田研二は遠足引率中に「天皇陛下とあわせろ」と訴える老人(伊藤雄之助)のバスジャックにあい、刑事菅原文太と命を張ってこれを解決する。なぜか破壊衝動を受け継いだ沢田は東海村からプルトニウムを奪取し、手製原爆を作って社会に自分の訴えを強要しようと試みる。
妙にディテールがしつこい製作過程を経て原爆が完成するが、まったく自分の訴えがない。ラジオ番組のDJのお姉さん(池上季美子)に聞いてみたりして、交渉者を菅原に指定し、ナイター中継は最後までやれ、などと情けない要求を出す。プルトニウム強奪事件であせる当局は確かめもせずこの要求を聞くが、次に沢田がでっち上げた要求は、ローリングストーンズの日本公演。当時彼らは麻薬関連で日本公演は不可能と見られていたからなのだろうが、なんかインパクトにかける気分著しい。その過程でいっぺん原爆が当局に回収されたり、それをまたはちゃめちゃな手段で奪い返したり、変なカーチェイスはあったり、菅原が無茶苦茶不死身なところを見せて沢田に迫ったり、最後は放射線障害で余命幾ばくもないことを知った沢田がやけくそでプルトニウムをプールに放り込んで大量殺人してみたり(プルトニウムって水溶液ではあんな急性毒性示さないのと違いますかね)、時限装置付けた原爆抱えて街をうろつき、カウントゼロ、というところで映画は終わり。
なんじゃこりゃ、責任者出て来んかい、と叫ぶしかない。いくら肯定的受容が身上の私にも少々耐えがたい映画だった。これに金を払って映画館で見れば、数日は自己嫌悪で起きあがれないだろう。
パワーなんて得るのは簡単、でも、それで何したいか自分でもわからんのよねぇ、という一言に翻訳してしまえるこの映画は、おそらく連合赤軍事件をその製作動機としていると思える。連赤に象徴されるあの時代にほぼ終焉した反体制政治勢力の無力さと、妙に一体化してしまった嘆き節ばかりを感じてしまうのだ。連中は自分の設定した敵と戦って「力及ばずして倒れ」たのではなく、ひ弱な体制なら充分苦慮したに違いない勢力と火力を抱えて、結局なにをしてよいか判らずに、メンバーお互いがくだらんケチ付けあいのあげくに自滅していったのだ。そりゃ勝手だが、そんなみじめさを別の人間が再確認してどうする。
連中を弔うつもりなら、ウソでもいいからスコーンと突き抜けたビジョンを出して、原爆で世界制覇を着々と進めるサクセス(?)ストーリーでもつくって大受けさせるってもんだ。沢田が世界地図の前で原爆と踊るシーンなんか良いと思うがな、えっ、どっかで見たって?
映画というのはウソのエネルギーで世界を再構成するのがその使命だと思うから、こうした負け犬の繰言を見せて人から金を取れると考えている事自体すでに不純だ。この映画の2年前にかの「スターウォーズ」が生まれたことを考えると、長谷川監督の考え違いをいくら責めても足らない。めちゃ当たりの映画とって、大金持ちになってからこの手のしょぼくれ映画を個人的にとればいいのだ。
そんな映画を何でまた見ようとしたのだ、と言われると困るが、実は冒頭の伊藤雄之助によるバスジャックの場面は変にいいのでそこだけ見たのだ。これをメインにして沢田が原爆で加勢し皇居突入という話なら、きっと大当たりしたろう。賢きあたりも同調し、自ら人質となって東京湾に原爆もろとも巨大タンカーにこもり、世界に向けて大芝居をうつ、なんていくらでも話しが膨らむではないか。なんかパクリが紛れ込んではいるが。まぁこれはこれで、この映画にもまったく荒唐無稽な警視庁襲撃による原爆再奪取のくだりとか、結構面白いところはあるんですがね、団塊世代のくだらん怨念がせっかくの可能性をぶちこわしにしたかわいそうな映画だとおもう。
(2000/06/07)
ネットにはつなげないCATVの工事がすんで、一挙にTVチャンネル選択幅が10倍ちかくになったのだけれど、見たい番組と言うのはそうないものだ。それでも好きでもないゴルフ番組とか、面白くはあるが選手の名前がさっぱりわからんジロ・デ・イタリアの中継などを、ぼんやり見ているとヒマだけはつぶれる。老後はこれにひたってフェード・アウトしていくのもいいか、と言う感じ。
さて先日、WOWWOWで放送していた95年の韓国映画、「301・302」が妙に面白かった。面白いというのは映画自体がとても素晴らしい、という意味ではなく、こういう映画が成立してそれなりに受け入れられるのが面白い、ということだ。物語自体は完全に破綻しているともいえ、映像(というより美術かな)の斬新さが見つづける意欲を維持させる映画、といってよい。よく言えば「去年マリエンバードで」とか「アンダルシアの犬」なんかと同じ類だ。こっちはまだスジがあるからわかりやすい。
夫と別れて、ソウルのマンション301号室に一人暮らしするソンヒのところへ、ある日、吉幾三似の刑事が訪れる。302号室の隣人が行方不明になっている、何か知らないかというのだ。その隣人はユニという作家もどきで、作品そのものは売れていないが、雑誌の埋め草記事などでそこそこ食っている女性だ。
台所だけで構成されたソンヒの部屋で、ふるまい料理をあつかましく食べながら、刑事はしつこく詮索する。「ユニは食事もセックスも拒否してた。詳しいことは知らない」などとツッコミ誘発としか思えない言葉でシラを切るソンヒ。このあたりからカットバックの回想シーンとして、二人の女性の過去が開陳される。
ユニは精肉店を営む義父に性的虐待を受け続け、それから逃れるための些細な行動で近所の子供を死なせてしまうという精神外傷をかかえ、家を出て一人で暮らすようになる。しょぼい女学生だったのが、えらくおしゃれなマンションで、作家もどきの生活するようになる過程がさっぱりわからんけど。そんなユニの前の部屋に、ソンヒが越してくる。
ソンヒは料理マニアで、夫に濃厚料理を食べさせて、セックスをねだるのだけが生きがいの女性だった。夫は次第に食傷し、ソンヒを疎み始める。ヤケ食いに走り、デブになってしまったソンヒは、さらに彼女を疎むようになって浮気に走る夫を憎むあまり、彼の愛犬をムース仕立てに料理してしまう。離婚して、慰謝料でプロ機材を揃えた台所を備えたマンションを買うソンヒ。
別れてからプロポーションを回復しつつあるとはいえ、いまだデブ圏のソンヒは、痩身のユニを太らせることだけを目的に毎日手料理をユニの部屋に運ぶ。ミネラルウォーターしか飲まないユニは陰でこっそり捨てるのだが、その現場をソンヒに押さえられ、理不尽にも食わないとタダではおかんと強要される。
いくら強要されようが、ユニは食べ物を見ただけでも吐いてしまうので、どうにもならないと知ったソンヒは一転して、問題を一挙に解決するための協力者となる決心をする。それはソンヒにとっても、料理の饗応以外のやり方で他者につくすことを知る方法でもあった…。
ソンヒのヤケ食いはいいとして、ユニの拒食症はあまりにも通俗的な表面的描写で、病的であるにせよトータルな人格像がちゃんと結ばれていない。だいたいミネラルウォーターだけでは3月も生き延びられないだろう。その通俗的理解の範囲内でありつつも、阿漕なまでにユニとソンヒの葛藤を映像化する努力が目を引く。ユニの無機的なインテリア、ファッションと対比的に、ユニが義父から無理やり食べさせられる肉料理が、毒々しい赤に色づけられているのを初めとし、ソンヒの作る料理とか、食器、厨房の色合いは極端な原色が使われている。
韓国料理と言うのは、少なくとも色合いという点では中華や和食には今ひとつ、というところがある。フレンチ、イタリアンに対する、スペインやギリシャあたりの料理との対応に近いといえようか。だからこそよけい、こうした原色料理の発想が自由に出来るのだろう。
やたらに手際の良いソンヒの料理シーンは吹き替えのようだ。一ヶ所だけ、ソンヒが自分でズッキーニを切るシーンがあるが、まったく不ぞろいで、料理など普段やらない人であると知れる。
韓国映画で食を扱った内容というと、伝統文化をやたらに意識したようなものを想像してしまうが、そういう要素は意識的に排除され、食は(衣も住もだけど)完全に記号化されているといえようか。韓国の社会そのものが、そうした「伝統」なるものを重荷と感じ、綺麗さっぱりかなぐり捨てたいという方向に動きつつあるのかもしれない。日本人である私がこの映画に感じる興味も、「あれ、そこまでやっちゃっていいんですかね?『恨』の歴史はどうするの?」というところから来る部分があるのは否めない。大きなお世話だと言われるだろうけど。
監督のパク・チョルスは昨年、柳美里の「家族シネマ」を全日本ロケで作ったのだそうだ。吉本ばなななんかはこの人が映画化した方がよかったんではないかな、と思わせる。日韓の壁などといわれるものは、向こうのほうからとっくに崩れてきているらしい。だからといって、やはりこうした無歴史的記号の組み立て作品、というものはエピソード以上のものにはならんだろうな、と思ってしまう。好み、というのも大きいが、木賃アパートでシャケ弁当食べながら、いわゆる「トレンディドラマ」見ていたころ、と言って今とあんまり変わらんのだけれど、そういう自分たちの鏡像を見てしまうからでもある。(2000/06/22)
59年日活作品。かの今村昌平監督作品である。原作となったのは、58年にカッパブックスから発刊された在日朝鮮人少女、安本末子の同名日記で、当時実に114版をも重ねたベストセラーになっている。現在も講談社文庫で入手可能だとおもう。なおこの映画はCATVやCSに配信しているチャンネルNECOで、7月4日に放映されたものだ。まだあと2回ほど放映される予定だと言う。現在見ると揚げ足を取られるような台詞も、そのまま流した勇気ある誠実さに、拍手を送りたい。
舞台となるのは佐賀県の小さな炭鉱町。喜一、良子、高一、末子の4兄妹はそこの炭住で暮している。末子が高一を呼ぶときの、二番目の兄ちゃん、にあんちゃんというのがこの題名の由来だ。母は早くにこの世を去り、炭鉱夫として子供たちを育ててきた父親も心疾患で死に、その四十九日から末子の日記は始まっている。53年の1月だ。戦後の混乱はようやく収まるが、石炭産業はすでに斜陽で、閉山の危機は迫っている。父親のよしみで、特別臨時職で雇用されている喜一は、妹弟たち3人を何とか養っているが、真っ先に解雇され、兄妹は離散の憂き目に遭う。幼い高一と末子は父の仲間だった辺見(殿山泰司)の炭住に一時引き取られるが、辺見も事故で怪我をし、希望退職を迫られる。
末子の担任教師(穂積隆信)や、炭住住民の衛生向上に張り切る保健婦(吉行和子)などに暖かく見守られながら、高一と末子はたくましく生きてゆく。東京に出て働こうとする高一だが、小学生ではどうにもならずあえなく保護され佐賀に戻ってくる。高一と末子はボタ山にいっしょに登り、どんな困難があっても一緒に生きていこうと誓う。
正直言って、私などは同時期に見たか読んだかした「綴り方兄妹」とまったく頭の中で溶け合ってしまっていて、あれ?確か末子には兎唇の障害があったんだよな、映像化はどうしたんだろうか、そこは無しにしたのかな、などと初めは思いながら見ていたりした。考えてみればあっちは団地になる前の千里ヶ丘の話だ。
大体、このころこういう「貧乏もの」がやたらにあった。古典ものでは「次郎物語」とか、先の「綴り方兄妹」とか、題名は忘れたが、貧しいブリキ屋一家が心中しそうになる話とか、小学校の講堂にムシロを引いて、なんだか暗い話をやたらに見せられた。今をときめく大島渚にも、その手のものがあった。(伝書鳩を売りつけて暮す少年の話で、「鳩を売る少年」だと思っていたが「愛と希望の街」と言う話だった。ちょっと前TVでやっているのを久々に見たが、結構面白かった。子供時代は苦痛だったけどなぁ)
その当時、小児的マッチョが理想の少年達にとっては、この手の映画で涙など流しているところを女の子に目撃などされたら、その前思春期社会的生命は断たれたも同然で、実にまずいのだ。そもそも、この映画で描かれる程ではなくとも、あの頃はみな貧しかった。そう他人事とも思えずに見たのにもかかわらず、こうしたネオ・リアリスモ的描写を傲然と受け流し、この程度の運命、笑って乗り越えるのが生きる道さ、ビンボがみんな悪いのだから、豊かになるよう頑張るだけだ。と、そんな強がりでみんな反応したのではなかったか。
あの頃、高度経済成長の槌音はもう聞こえていた。教師達はみな目を輝かせて、日本の技術力の優秀性を語り、日本人の教育にかける熱意を誉めたたえていた。君らが努力を重ねて行けば、みなが豊かになり、日本が強大国になる日もそう遠くないのだ。当時多数派だった左派の反米反安保論調だって、「そうした方が米国の従属国になることなく、もっと豊かになれる」という発想が、かなりの部分こめられていたことは間違いない。みなが貧乏から抜け出せる、富ですべてが解決していけると単純に信じられる時代だったのだ。
言うならば高度経済成長に向かう、団塊世代のエートスを駆り立てる内的エンジンとしてこの映画は機能したのではないだろうか、と私は思う。貧しさが生む悲惨さ、だれもあの兄妹を救うことができない苛立ち、しかしそれにめげずに強く生きる兄妹の姿に見る、やがて得られる栄光への確信というところか。そこで取りこぼしたものはなんだったんだろう?映画側の問題ではないのだけれど。
そんなことは抜きにしても、この映画のつくりはなかなかのものだ。暗い話なのにまったくじめっとさせず、イタリア映画みたいに良質のユーモアがちりばめられている。朝鮮人のオバハン(北林谷栄)がボソッと言う、「朝鮮人は昔はもっとつらかった」という台詞に、とってつけたような怨念など微塵も感じられない明るさが感じられ、それがこの映画自体の基底気分にもなっている。それにどんなに貧しさを描いても、人々の「品」のよさが印象的だ。我々が豊かさと引き換えに取りこぼしたのは、「品」なのかもしれない。
子供達は一般公募だという。良子を演じた松尾嘉代が可憐だ。長男は長門裕之なのだが、どう見ても桑田佳祐にみえる。思わず末子に、「心配することなんかないぞ。今に上のあんちゃんがサザンで当てて、一杯金儲けて帰ってくるからな」と声をかけてやりたくなってしまうのだ。(2000/07/04)
SFとかミステリィの新作ジャンルというのは、好みと言うのがやたらに影響するので、書評などで誉められたり貶されていたからといって、自分が読んで面白い/面白くないと言う基準にまったくならない場合が多い。結局自分が読んでどう思うか、ということなのだが、毎日山ほど出る新刊書をすべて読むわけにも行かず、スカをつかんだ時の情けなさを思うと、ついつい「前に読んで面白かった作者の新作を惰性的に読む」と言う態度になりがちだ。
中にはまったくスカなのに、続き物だからという理由だけで読みつづけるなんて場合もあって、私の場合、荒俣宏の「帝都」シリーズがそうだった。なんじゃこりゃ、でももうちょっとまともに仕上げるつもりがあるに違いないと最後まで買って、しかも最後までスカでありつづけたことを確認した時のむなしさは昨日の事のように覚えている。半村良の「妖星伝」もそれに近い。後半から大風呂敷が畳めなくなったという感じがありありとして、まさかこんな風に結末を誤魔化してしまうつもりか、と危惧したそのとおりになってしまう。もっともこれの場合筆力、描写力が圧倒的で、全体的不整合など気にしないで読めば面白いのだから、「帝都」シリーズなどといっしょにするのは失礼というものなのだけれど。荒俣サンは「理科系もこなせる種村季弘」路線がとても素敵なので、出版社のつまらん企画に乗るのはやめて、本来の王道を進んでもらいたいものだ。
知り合いには栗本薫のなんとかサーガシリーズを悪態つきながら、ずっと買ってる奴がいる。これは完全に詐欺だ、でもいまさらやめるわけにはいかん、というのだ。森内閣を支える財界トップと同じ心境に違いない。
かように読書における惰性の要素は大きい。そして、現在私の惰性的愛好の対象となっている作家のトップは表題作の作者、J・P・ホーガンだ。彼は邦訳された作品がもっとも多い現代作家なのだそうだ。分厚い上下卷ものも何点か一緒にして本作で17作、並みの量ではない。(これが読めて「カラマーゾフの兄弟」や「失われた時を求めて」がいまだ読めないのはどういうわけだ?)
SF心を巧みにくすぐる気の効いた道具立て、大胆な設定とかなり予定調和的筋立てで、まるでカタログスペックみたいに平板な人物描写ももののかは、読者についつい続作を買わせてしまう魅力を発揮する。デビュー作「星を継ぐもの」でつかみを十分やって、そこからシリーズものとして数作品を続ける、という販売戦略も申し分ない。私みたいな「惰性読者」をマーケティング対象にしたのだろう。
今回の「ミクロ・パーク」(創元SF文庫)はここのところホーガンが使い回している、「直接神経接続」ネタだけで作られたもので、さすがの彼もネタ切れらしい。中で主人公の一人が「相対性理論の見直し」をやたらに主張するので、そちら方面に話が膨らむかと思ったが全く関係なかった。それなりに後ろめたいので、熟成しないネタも一応示したのか。
「直接神経接続」というのは他のSFでもよくある、実感的体験を直接生じさせるという道具立てで、いながらにして別環境を直接体験するというものだ。昔からSFではおなじみだったが、実際にはごく初歩的な技術が開発されているに過ぎない。人間の知覚と脳内変化が一対一対応で解明されていない(そんな風に解明されるわけもないと私は思うが)以上、これは当然だろう。
その技術を応用し、子供時代誰でも空想したことがあるに違いない夢、小さなロボットに変身して模型の乗り物に乗り込んだりして冒険をする、というのが今回の筋立て。主人公は子供っぽい夢にあわせてか、ちゃんと子供になっている。
類型的なアイディアにふさわしい類型的な陰謀が生む危機、そして責を子供に負わせるにはいささか忍びない類型的対決と付随的ドンチャン騒ぎをへて、さしたるふくらみもなく物語りは終わる。「直接神経接続」の発想がSF的仕掛けのすべてで、もっと手の込んだ大ボラへと発展させるには少々きびしかったようだ。
現実的な体験というものがどう構成されていて、それを人工的に作るハード体系を、どうやってもっともらしくでっち上げるか、というようなことを中心に据えたら、なんだか妙な観念小説みたいになりそうで、やはり同じ現実体験構成という発想ながら、大ボラレベルではもう少し上を行っていたように思う前作の「仮想空間計画」でも、そこのところはあっさりと誤魔化されていた。今回はネタに乏しい分、その部分の作りこみがいいかげんなところが表に出てしまったというところか。
ホーガンの魅力というものがあるとしたら、それは少年向け雑誌のグラビアにあったような空想的未来技術に付けられた、もっともらしい注釈の面白さだと思う。誰でもその類の空想を絵に書いてみたり、あれやこれやと幼い屁理屈で整合性を持たせた、未来世界を頭の中で暖めたことがあると思う。もちろんそれに伴う様々な冒険譚も一緒に。
明らかに萎縮し、水準低下しつつあると見えるホーガンの創造世界も、そんな幼い日のわくわくする空想を再生させてくれる力がそこそこ残っているという一点で、そう後味悪くなく次作への惰性的期待へとなんとかつながるものだったと言えようか。(2000/07/22)
法事に追われた夏休みも残すところ少なくなり、なすこともなくTVを見ていたらこういうのをCATV(CSN1ムービーチャンネル)でやっていた。この手のB級怪作って、ほんとに好きで、たまたま見られたのはほんとにラッキー。CATV会社のパンフにだって、こんな映画、題名以外説明すらされてないぐらいで。
時は2017年、アメリカには内戦が起こり、かっての合衆国議会はいまやファシスト独裁によって解体され、全土に戒厳令がひかれていた。自由都市として残るスティール・ハーバーも、ファシストとの取り引きでようやく維持されている状態だったが、レジスタンスは最後の希望をかけてそこを拠点に活動していた。
その街でバー・ハンマーヘッドを経営するバーブ・ワイヤー(パメラ・アンダーソン)はかって合衆国軍の兵士であったが、今は生き延びるため、陰で賞金稼ぎもやるシノギだ。ある日、かっての恋人アクセルが彼女のバーにやってくる。アクセルは合衆国軍の特務機関員で、ファシストが自由都市群を破壊するために開発したHIV変異体生物兵器の治療法を知る女性科学者コーラ・Dを国外に脱出させる任務を負っている。バーブはファシストに包囲されたシアトルで、一緒に脱出する約束を直前で裏切ったアクセルを許せない。しかも彼は今、コーラ・Dと夫婦になっているという。
彼女は国外脱出に必要な網膜パターン偽装コンタクトレンズ(ファシスト支配域の市民はみなパターン登録されている)を手に入れていて、自分と盲目の弟のためにそれを使おうとしていたのだが、弟はレジスタンスと一緒に殺される。アクセルへの愛と、弟の復讐をかけて、バーブは二人を脱出させるため、ファシスト部隊の追跡のなか空港に向かう。協力者の裏切りによって絶体絶命の危機に陥るバーブだが、いつもはファシストに追随していた警察署長の寝返りで追跡部隊を掃討し、アクセル達はカナダに脱出する。
さて、あらすじ全部書いてしまったけれど、許していただけると思う。これはお気づきのように「夜霧よ今夜も有難う」とおなじ、「カサブランカ」ほぼ丸パクリ映画なのだ(勿論キャプションで示されたりしない)。元ネタをどういじくっているのか、と言うことが興味の中心と言ってよく、どんでん返しの筋立てなど楽しむ物ではないだろうから。ジェンダー逆転が新味と言えば新味で、これは「エイリアン」ゆずりか。映像は「マッドマックス」パチモンで、ヘビメタスタイルのレジスタンスやギャングが入り乱れ、派手だがそう金のかからないドンパチをそこそこに繰り広げる。
主演のパメラ・アンダーソンはプレイボーイのモデルとしてデビューし、お色気系以外でのキャリアはないといっていい。大体あの派手な顔立ちでは、こなせる役柄はかなり限られるだろう。この映画はクレジットタイトルの場面からして、主人公がストリップを延々と披露するシーンから直接始まっている。その後も派手なアクションにまぎれて、オッパイがプルンと飛び出るのでは、と言う期待だけを観客に与えるのが目的のキャスティングと言えよう。そしてそういう浅薄な狙いが、プロットとかちょっとした映像の組み立てなどあいまって程ほどのパロディ感覚を生み出していて、多元的な娯楽作品として成立しているように思う。
IMDbではこの映画の評価は3.3/10となっていて、投稿コメントも手厳しい。「カサブランカ」を冒涜している、というような意見すらある。でも私にはこの映画はアハハと笑いながら見るには最高で、しかも同時に「カサブランカ」は素晴らしい映画だと確認させてくれる。さっき言った「多元的」娯楽作というやつだ。どうも毛唐どもは本朝文芸の基本にある、「本歌取り」という深遠な作法を知らんので、そのあたりの読みが浅薄でいけません。
「バーブ」の方で主人公の心のゆれ方だとかがさっぱりわからず、一連の話の進み方がご都合主義でしかないのに比べ、本家にある深みはやはり一流だ。プロット上の疑問は「バーブ」の方では山と出てくるが(例えば別に網膜レンズにこだわらなくても、主人公達は金使って亡命する気なんだから、みんなでそうすりゃ良いじゃないか)、考えてみればそれは本家の方だって同じなのだ。その疑問は叙情でねじ伏せられてしまうだけのことで、そこに出来のいい映画というものの、出来のよさの所以があるのだろう。といって、「カサブランカ」だって予算や制作期間の制約から、その場限りの偶然が積み重なって成功作になっただけ、と言う話も聞くのだが。
というわけでCATVやCSを見られる環境をお持ちの方、今月あと何回か放送があるらしいので、だまされたと思って、ぜひ見てください。結局だまされた、と思うかも知れないけれど。なおバーブが敵役をやっつけるたびに言う台詞"Don't call me a Babe !" はこの映画自体のキャッチコピー。「なめたらいかんぜよ」と訳して欲しかった。(2000/08/17)
以前、「アルマゲドン」について書いたとき、「『ダイハード』以外のブルース・ウィリスものはことごとく駄作」という無礼な決めつけをしたが、たまたま表題のDVDソフトが手に入り、それなりに思うところがあったので追加することにする。
この映画は色んなところでほとんどベタボメに近い形で評されているが、そこまでとは思わないまでも、少なくとも駄作ではないのは確かだろう。子供や動物がけなげに演技するってのは、それだけでも感動的だしね。それに主演はブルース・ウィリスである必然性があったのも間違いないと思う。最後のオチ、というかどんでん返しの成立もふくめて。
小児精神科医のマルコム(ブルース・ウィリス)は、かって診ていた患者ビンセントに逆恨みされ、自宅で銃撃される。一年後、マルコムはビンセントの類似症例であるコール少年(ハーレイ・ジョエル・オズメント、こいつがまた達者なんだわ。「ホーム・アローン」のカルキン君みたいに、家族ともども破滅したりしないよう、祈ってやらにゃいかん)を治療すべく接触をはじめる。少年はあらぬ存在におびえたり、話をしたりして日常生活に障害が出るらしい。実際奇妙なことが少年の周囲には頻発し、母親は理解出来ずにもてあましている。マルコムはコールの信頼を次第に得ていき、「自分には死んだ人間たちがみえる」と告白される。
一方マルコムは銃撃事件以後、妻との関係が完全に途絶えてしまったことに悩んでいた。かっての愛を取り戻そうとそれなりに努力するが、全くの一方通行。妻は職場の若いモンと不倫に走る雰囲気すらある。コール少年を治療することで精神科医としての誇りを取り戻し、銃撃犯のビンセントを治療できなかった負い目を癒し、それが原因で失った妻の愛を回復させたいと並々ならぬ努力を注ぐ。
結局「治療」の方は予期したような方向性で成功する事になる。簡単に言えば、コール少年の「症状」自体にとらわれず、彼のコミュニケーション障害状況に注目する、という定型的作業をするわけだ。映画みたいにケレン巧みなことにはならないまでも、一応プロなら一つの可能性として、そちらの方向を意識するしかないですわなぁ。
自分の誇りを取り戻すためとはいえ、マルコムの入れ込みようはただごとではなく、あんなに入れ込んでいたら他の患者は診られなくなって、生活が成り立たないではないかとか、少年の家庭はそう余裕があるようには見えないが、ちゃんと治療費を払えるのだろうかとか心配し、患者との関係性も大事だろうけれど、母親に対して全然働きかけをしないのが解せなかったりするのだが、それは全部最後の「秘密」の伏線なのだった。感のいい人なら、少年とマルコムの信頼関係が出来たあたりで、その「秘密」って奴はわかっちゃうけれどね。
最後になぜこの映画はブルース・ウィリスでないと成立しないと思うのか、についての理由を列挙したい。
(1)精神科医療において、治療者側の不用意な感情表出は患者を混乱させるので、かなりコントロールする必要があるのだが、ブルース・ウィリスの鉄仮面風貌はそのさいかなり有用で、リアリズムを感じさせる。
(2)ほとんどの場合、治療者はなすすべもなく状況を当惑しながら眺め、受容に努めるというのが実情なのだが、そう言うデクノボウ的存在をリアルに、身につまされるように演じる、というのはブルース・ウィリスの真骨頂である。これは彼が妙に自己主張する映画が、ほとんど見るに耐えないのは何故か、を冷静に考察するとおのずから理解できる。
(3)「ダイ・ハード」がつちかったブルース・ウィリス不死身伝説が、この映画の一番強力な伏線である。
監督はほとんど無名のM・ナイト・シャマラン。少年が事故で病院に搬送されたとき、治療にあたる医師役で顔を見せている。インド系なのかな。ブルース・ウィリスの使い方をここまで意識してやったとすればその手腕は凄いものだ。オカルト系の出来事が起こるとき、「赤」を予告色として使っていて、私みたいな怖がり人間がホラーシーンに備える、余裕を作ってくれているのがありがたい。(2000/09/04)
参考:http://us.imdb.com/Title?0167404
今年、アメリカでベストセラーとなった本である。著者は昨年と今年、ツール・ド・フランスを連覇したランス・アームストロング自身。日本語の題名はやたらにヒロイックだが、原題は”It’s Not About the Bike.”、「自転車のことじゃないんだ」と、日常的なつぶやき、と言った構えだ。
艱難辛苦を乗り越えた、スポーツ選手の大成功物語、と言ってしまえばそれまでなのだが、彼が乗り越えなければならなかった「セミノーマ(睾丸ガン)」という困難と、達成したツール連覇という偉業(こんな月並みな言葉で表現できるような物ではないのだけれど)を考えると、こういうさりげない独白スタイルで描かれるのが不思議なほどだ。
自転車競技がメジャーでない日本ではあまり想像しにくいことだが、ヨーロッパ、中南米の、いわゆる「サッカー文化圏」に属する地域での自転車競技の人気はすさまじい物だ。競技人口ではサッカーがダントツ一位とはいえ、この二者の関係は日本における野球と相撲の関係に近い。質的人気ではどちらが上、とは言えないところがある。ランスはそこで初めて、純粋アメリカチームのアメリカ人選手として連覇した。ツールで優勝したアメリカ人には、86、90、91年を勝ったグレッグ・レモンがいるが、彼の場合はフランス系で、しかもフランス地元チームの一員として勝ったので、ちょっとインパクトが違う。(私は自分が球技系にはドンくさい事もあり、自転車競技系は真似事ながら多少自分でもやった。観戦者としてもほとんど唯一熱中と興奮を感じるスポーツだ。これに匹敵するのは、巨人相手に10点以上差をつけて勝っている阪神の試合を見ている時ぐらいだろう。6点ぐらいでは不安が先立ちますなぁ)
ランスはテキサスの田舎町で、母親が17歳の時生まれた。息子を愛し慈しむ能力には秀でた母親だが、配偶者には恵まれず、貧しい母子家庭で彼は育った。母はやがて再婚するが、継父はろくでなしで、彼にスポーツ選手としてうってつけの苗字を与えただけで母子を棄ててしまう。
フットボールという米国の伝統的人気スポーツには、さっぱり適性のなかったランスだが、水泳や自転車競技の才能を示し始め、やがて彼はジュニアのトライアスロン選手として賞金を稼ぐようになる。自転車の高校生ナショナルチームにも選ばれるが、田舎高校ではそれがまるで評価されず、危うく単位不足で卒業も危ない所だったが、母の奔走で救われる。
そしてプロ選手としてヨーロッパへ。トライアスロン出身ということで、ロード競技のテクニックにはかけ、ただやみくもに前に出る「テキサス・ブル」として知られるようになる。卓越した力を持ちながら勝てない自分に、いらつきばかりを見せる時もあった。
粗野なテキサスの田舎者が、ロードレースのテクニックを次第に身に付けるとともに、ヨーロッパの文化や芸術にもなじみ、洗練されていく過程は、一種の教養小説としても読める。数ヶ国語に堪能になり、ワインに親しみ、ミラノ製のスーツを着こなし、ドゥオモの荘厳な芸術に身を震わせる。そして彼は92年、ロード選手の勲章の一つ、世界選手権を21歳という最年少記録で勝ち取る。そしてヨーロッパチームのエースとして、年間2億を越える収入が約束され、本格的に活躍し始める彼を襲うのが、「セミノーマ」だ。
25歳の誕生日の2日後、彼は激しい頭痛を覚え、眼がかすむ。多量の喀血さえ起こる。そして右睾丸の著しい腫脹。医師は脳内に2か所、肺には多数の転移巣がある睾丸ガンだと宣告する。生存率は40%以下。しかもそれ自体、彼を勇気付ける嘘だった。実際は生存率3%あるかないか。そこから彼の闘いがはじまる。
睾丸摘出、頭部転移巣の摘出手術を受け、当初の衝撃を乗り越え、彼はインターネットで医学情報を集め、自転車選手としての生還をはたそうとしはじめる。心肺能力に少しでも影響の少ない化学療法の専門家を求め、専門家の門を次々にたたく。このあたりの情報のオープンさはとても羨ましい。日本でやったら、治療者とケンカになるのが関の山だ。
そして一応の寛解状態を辛くも得る。激しいトレーニングでまたガンが帰ってくるのでは、という恐怖と戦いつつ、目的の喪失感にも悩まされながら、彼はツール・ド・フランスに勝つ、という人生の目標を立て直す。
何ヶ所もの転移があるガンで寛解となる幸運と、その状態でツール・ド・フランスに勝つ、という幸運の確率を掛け合わせると、それがいかに奇跡に近いものであるか、力説し始めるときりがなくなるのでやめておこう。しかも彼はこの過程で、あたらしい恋人と結ばれ、化学療法の前に精子銀行に預けてあった精子を使った人工授精で、息子を得ている。ガン克服のための基金を開き、社会活動も積極的にこなす。ガンは彼にとって、成熟のための触媒だった。
先にふれたグレッグ・レモン選手も、86年の初勝利の後、狩猟事故で全身に散弾を浴び、九死に一生を得た後カムバックしている。しかし彼は二連覇後、「ミトコンドリア脳筋症」という特異な病気との戦いにとらわれる事となった。どうもツール・ド・フランス関連を担当する幸運の女神、というのは妙に嫉妬心が強いのか、幸運を享受しっ放し、というのは許してくれないようだ。彼の苦闘は並みのものではなかったのに、これから戦わなければならない敵のタフさを考えると、レモン選手に課せられた運命はあまりに厳しすぎる。
この本を読んで、自分自身の弱さも強さも隠さず淡々と描いた(そりゃ多分ゴーストがいるのだろうけど)ランスの勇気に感動するとともに、彼の前向きの生き方が、今後も報われ続けていくようにと切に祈る気持ちになった。もっとも、今後どんな展開になっていこうとも、彼がそれに雄々しく、尊厳をもって立ち向かっていくことは間違いないだろうけれど。幸運の女神も、そのあたりを汲み取って、たまにはバーゲンセール開きっぱなし、というのもいいんじゃないだろうか。普段この手のベストセラー本は敬遠する私だが、スポーツがうむ感動というものは、人が困難と闘いながら生きていくしかない運命を自覚し共有する、人間存在の根源的なものに発していることを理解させてくれる好著であったと認めざるを得ない。(2000/09/20)
ランスの活躍に興味ある方はこちらへ。http://lancearmstrong.com/
アラン・ソーカル、ジャン・ブリクモンという二人の物理学者による、「現代思想の巨人たち」に対するおちょくり本である(岩波書店 2000年)。ネットでも、あちらこちらに書評が出ていて、なかなか刺激的な内容であることが知れる。そして、この本の特徴は、そうした書評をよめばまず本文を読む必要はないという点にある。
この二人が俎上に載せるのはもっぱら「ポストモダン」といわれる一群の思想家達で、それも主にフランス思想界の重鎮(こういうと日本的な学界の有力者を連想してしまうが、向こうでは必ずしもそうではなく、ポップ系といってもいい人たちなんだけれど)とされる人々、もしくはそれの追随者たちである。ジャック・ラカン、クリステヴァ、ボードリヤール、ドルーズ&ガタリなどなど。後何人かについても触れてあるが、私は読んだこともない連中で、どうこう言いようない。
内容を簡単に言うならば、これらの思想家達はきわめて難解な議論をし、しばしば理系の学問、それも最先端の数学とか、物理学の概念を使った理論の進め方をするが、それはほとんどデタラメだ、というものだ。
以前私はラカン理論について触れたことがあって、正統的精神医学に連なる部分は結構理解できるようなことを書き、続きはまた、と言って放り出してある。続く部分で、ラカンは主体の神経症構造をトポロジーで説明していて、そのあたりはファンにはたまらない魅力になっているらしいのだが、私には何にも理解できず、ただただ睡魔がおそってくるだけだった。これは私がアホであるからだろう、と思っていたのが、ソーカルたちはそのあたりに関して、ラカンが使っている数学理論はまるっきり素人の誤解以上のものではない、とする。ソーカルたちによれば、アホなのは見当外れの理屈を持ってきた、ラカンのほうだというのだ。これほど力づけられる指摘がほかにあるだろうか。
他の思想家たちの場合もほぼ同じだ。ドルーズ&ガタリという二人組みは哲学者と精神科医のデュオで(たしか片一方は自殺して、もう片一方はエイズで死んだのではなかったか)、妙にぶ厚い哲学書をいくつも出しているのだが、一体なにを主張しているのか、という点は少なくとも私には全く謎だ。哲学専従のドルーズは別として、精神科医のガタリのほうは精神医学の概念を理解不能に拡張して、スキゾだパラノだと、一種の思想的態度の分類みたいなことをするのだが、それが何の意味があるのか、どういう根拠があるのか首をひねるばかりの人だった。人格とかの構造として(国家などにも敷衍されたりするので、この理解がすでに間違っているのだろうが)なんとか機械というようないいかたをし、どうもそれはシェーマ化した無意識構造などは無意味だということの表現らしいのだが、なんとか機械というほうがよっぽどプレモダンではないのか、設計図がないと機械なんて存在しないではないの?と頭の中でツッコミが渦巻いてしまい、結局なんにも理解できない。
頭のよさそうな連中がそういうのを誉めそやしているので、どうも自分には決定的に資質がないのだなぁと思っていた。しかし、あれだけ難しそうなことを言う割には、精神医学そのものについて語るときには妙に控えめというか、ごく普通の良心的精神科医でしかないのがまた不思議で、分裂病は恐るべき病気だ、としかいえないのなら、自分の哲学理論にスキゾだパラノだ、なんていう言葉をよくも使えるものだ、と思っていた。
ソーカルたちに言わせれば、ガタリたちのつかう量子力学などの概念(そういうことも言ってるらしいが、それ以前の段階でこちらはダウンしていたのだ)は全くのデタラメ、比喩としてすら意味をなしていないという。私が精神医学のレベルで疑問を感じたのも当然、というところか。
日本にも当然ポストモダン思想家はいて、同世代の宗教学者であるN氏などはその代表とされる。この人もチベットの仏典と量子力学を、強引に結びつけるような記述が目立ったものだ。生物学などにもしばしば言及し、ある時彼の著書に「ダウン症は遺伝子が幼若段階で機能を止めたために起こる。ダウン症者がしばしば天使的であるのは、幼若性が天使性の本質で云々」という内容をみつけ、「ダウン症は遺伝子の三重複で起こるのだから、あれはなんぼなんでもまずいのでは」と出版社に手紙を書いたことがある。出版社からは「著者はいまバリ島にいて連絡がとれない」とだけ返事がきた。その後著者はバリ島に居つづけているらしく、なんの連絡もその後はない。なんだ、そういう手口なのか、と思ってこの人の文章に感心することはその後はやめた。やはり本場はその点違う、と思っていたのだが、ソーカルたちによれば、そういう手口は本場ゆずりということなのだ。
ソーカルは以前、ポストモダンを標榜する思想誌に、「境界を侵犯すること―量子重力の変形解釈学に向けて」という、デタラメ理論を用いた思想論文もどきを応募し、それが採用されて掲載されたのを見計らって正体をばらして論争を吹っかける、という騒動を起こしており、本書にもその論文は収録されている。
以上のごとく、この本はまことにカタルシスを生んでくれてもいい内容のはずなのだが、あまり読後感はいいものではない。正直言って、私ぐらいの歳になると、それがどうした、と言いたくなる。どうせ理解できないことは理解できず、自分にとって切実で、何らかに具体的に働きかけることが出来る範囲の思考の成果しか「自分の学問」にならない、てなことは普通に暮らしていて歳をとっていけばそのうち判ることだ。難しくて判らないことは、結局自分にとって意味のないものでしかなく、何かの拍子に自分の言葉で理解できて、なるほどこういう問題意識があったんだろうなあ、という体験でも出来ればそれで十分だ。それを鬼の首をとったかのように、「思想の王様たちは裸だ」とはやしたてるソーカルたちには、あまり品と言うものを感じない。
たしかにラカンたちは妙な学問の言葉を密輸入して、自分の思考を正当化、もしくは修飾しようとしているのだろう。でもどうせ言語というものはそう完全なものではないのだ。誤解であって、専門家から見れば失笑するような理解でも、それで自分の思考が表しえる、とある人が考えたらそれには十分(その人にとってだけだが)意味がある。それで良いではないか。少なくとも精神分析の枠組みでは、それは治療者―被治療者の二者関係のなかで納得されればいいのであって、他人があんたそれ違いますよというべきものではない。恋人達がお互いに絶世の美男美女である世界に浸っているとき、不細工な男とドブスがいちゃいちゃするんじゃない、などと正しい意見をはさむ人がいるだろうか。心の中ではそう思っていてもだ。
ソーカルたちのやっていることはそれでしかない。なかなか才気あふれるおちょくりではあっても、批評とはいえない。同じことなら「いしいひさいち」あたりがもっとスマートにやっている。まあ、自分の才能を過信しつつも、通用しないのではという不安から逃れられない若い世代には意味のあるおちょくりなのかもしれない。しかし、このおちょくりで相手をねじ伏せられる、と思っているような品の悪さには付き合いたくない、というのが正直なところだ。(2000/10/07)
数日前にCATVのチャンネルNECOで放映。日本シリーズ第2戦の日で、巨人が先制してしまったので不愉快になってチャンネルを変えたらこれにあたった、というわけ。結構面白かったし、見終わってチャンネルを戻すと、ちゃんとダイエーが逆転していた。いうことなしのラインナップであった。
遠藤周作の原作は、昔々に読んだかすかな記憶がある。「神の不在」と言うような内容を、日本の特殊性みたいなものと、そのまま同一視しているような、変な違和感を感じたものだ。なんだ、こいつは毛唐かぶれの翻訳系文化人だったのか、とげっそりしたものだ。中学生ぐらいから読書好きになる連中というのは、一度は遠藤周作あたりにはまるものだが、私にとってはこの原作が遠藤から卒業するきっかけになったような気がする。そのキャラクターとか雑文はいまだに大好きだけどね。
熊井啓によるこの映画(1986年作)は、遠藤の問題意識のほうはさらっと流して、戦争当時の国家や軍部の醜悪さ、当時の国民が批判力を失ってそれに追随していた状況への、古典的左翼系文化人の立場からの批判をメインにしていて、判りやすいと言えば判りやすく、浅薄と言えば浅薄な方向に変形してしまっている。でもそれゆえに、遠藤の自家撞着みたいなものから逃れられていて、これはこれで見られる作品になっていると思う。
さてあらすじだが、巨人が3点を先取し、場面は一転して教会を改造した米軍憲兵隊の取調室。九州某医大の研修医、勝呂(奥田瑛二)がファンファン大佐(役名忘れた。岡田真澄)に取り調べられている。勝呂の供述を追う形で物語は進む。
昭和20年、太平洋戦争は戦局不利で連日の空襲の中、物資不足の大学病院で勝呂は胸部外科の研修医として働いている。そんな状況でも主任教授(田村高廣)は次期医学部長選に意欲満々、元内科教授の娘に難しい胸郭形成術をやって存在感をアピールしようとしているような俗物だ。そんな教授にゴマをする助教授、講師たちの理不尽な指示を唯々諾々とこなしつつ、貧しい学用患者の婆さんを献身的に治療して、心のバランスを辛うじて取る勝呂だ。同僚の戸田(渡辺謙)は世間と学内の状況をシニカルに眺めつつ、「こんな時代と場所に生きているのだからしかたがない」とふてぶてしく意に反することもこなしている。
しかし、主任教授はさきのVIPの娘を術中死させてしまい、勝呂たちはそれの隠蔽までさせられる。教授は窮地挽回のため、軍部が持ち込んだ米軍捕虜生体解剖に手を染める決心をし、勝呂たちはその手伝いを命じられる。「断るのは自由」と言われつつ、勝呂は自分の意志を言えずずるずると荷担し、戸田は「どうせこんな時代」という諦めに加え、「それでも医学発展に役立つならまだまし」という論理で積極的にそのプロジェクトに関わる。
そして当日、「どこまで肺切除して人間は生きていられるか」という実験が行われ、捕虜は死ぬ。勝呂は結局、実験を震えながら後ろで見ていることしか出来なかったが、戸田は見届けにきた軍部連中の依頼に応じ、肝試しの闇鍋に使われることを知りつつ、捕虜の肝臓を切除して傲然と手渡す。
この実験の3ヵ月後、日本は降伏。勝呂たちは戦犯に問われる。関係者のうち5名は死刑を宣告されたが、朝鮮戦争勃発にともなう混乱の中、マッカーサー指令により再審が行われ、関係者はすべて釈放された、というところで映画はおわり、ペトラザは見事に巨人を抑える。
先に書いたように、原作では登場人物たちの良心が機能しない状況を、「神の不在」とほぼ同義のこととして扱っていて、こういう事件はキリスト教国では起こりえないかのごとき記述になっている。原作に出てきたかどうか覚えがないのだが、映画では主任教授はドイツ留学して向こうの嫁さんをもらっている設定になっていて、これが病院に来てははた迷惑なボランティア精神を発揮するのだが、講師のいいかげんな指示で患者に麻薬で安楽死させようとした看護婦に、「あなたは神が怖くないのですか」と詰問するシーンがある。これがこの映画で「神」が出てくる唯一の場面だ。もちろん前述したように、教会が取調室になっているような映像で、「良心=神」という構図は示されてはいるのだが。(これをやたらに強調すると、まるで連合軍=神になってしまって、映画館周辺は無粋な街宣車で埋め尽くされることとなったろう。)
私自身は、神と良心と言うのはあまり関わりがないものだ、と思っているので、遠藤の問題の建て方には全く賛同できない。あれならまだ、熊井啓が国家や軍部が招いた罪として単純化した図式の方がまだ説得力がある。良心、それも専門家の良心と言うものは、はるか天上の神から下されるものでも、先天的に人が持っているものでもないと思う。やはりそれは具体的な人と人の関わりのなかに感じとっていくべきものだ。たとえば勝呂がこだわった婆さまへの献身、ああしたものをどうやって専門的技術の実践として普遍化できるのか、という問題意識をもちつづけることが、科学や技術が「良心」を失わずにいる唯一の道だと思う。
その他細かなことでは、医事監修に多少の問題があったのではないか。バッグのついた閉鎖循環式の麻酔器なんか昭和20年の日本にあったろうか。それがあるのに、オープンマスクにエーテルで麻酔導入するのも妙だ。捕虜の心臓をいったん止めて、呼吸補助もしないのに心迫再開するのも解せない。多分ブタか何かを使ったと思われる術野の描写がやたらにリアルなだけに、ちょっとバランスが悪いように思う。でも、あえてモノクロで撮っているのに、ヘビーな色彩感を作り出す熊井啓の映像的力量はすごいとおもう。(2000/10/26)
追記しておくと、遠藤は「日本人は神の不在のゆえに、良心をもちえない」と表面的には受け取れそうなことを書きつつ、本当に書きたかったことは、「それでもすべてを許し、受け入れてくれる神の実在」ではなかったか、と感じる。でも、それはもはや「神」ではなく、理想化された母性への幼児的退行だ、と私は思う。