11月10日、WOWWOWでの放映。98年の米映画。なんともはや、おどろおどろしい題名だが、原題は”A Soldier’s Sweetheart”、「兵士の恋人」というあっさりしたものだ。ほとんど時間つなぎのその他大勢扱いで、期待もしないで見たのだがなかなか面白かった。監督のトーマス・ドネリーはB級作品ばかりの人のようだが、昔「クイック・シルバー」という自転車メッセンジャーを題材にした映画を撮っていて、自分が自転車競技の真似事をやっていた、ただそれだけの理由でビデオを借りて見たことがある。たしか凄腕の株ディーラーが挫折して、自転車メッセンジャーになり、NYの街中を自由に走る喜びに目覚め、新しい恋も実らせて、ついでに株の世界にも復帰して大儲け、というような都合のいい話だった。アメリカ人の生活感覚を、ちょっと変わった視点から切り取った小品ってのが得意な人なのだろう。
さてこの映画だが設定は60年代中ごろのベトナム、キーファー・サザーランド扮する兵士、ラットが、ベトコン総攻撃を待ち構える米軍前線基地の塹壕で、仲間の兵士に物語を聞かせるという作りになっている。ラットは以前衛生兵で、野戦応急処置診療施設に所属していた。そこは将校も軍医もおらず、戦闘もなく食事と酒は支給され放題、兵士だけの天国のようなところだった。ある日、そんな生活にも飽きた仲間の一人、フォシーが、ヘリのパイロットを買収し、故郷から高校以来のステディであるマリアンを呼び寄せることに成功する。
マリアンは典型的な田舎の小娘で、あけっぴろげの性格で皆に愛され、部隊には和気あいあいとした家族のような雰囲気ができる。やがてマリアンは、能天気にベトナム人たちと親しもうとして拒絶されたり、銃の扱いを教わったり、死に行く負傷兵たちの処置を手伝ったりしているうち、次第にふさぎこみはじめ、施設に近接するグリーンベレー出撃拠点に興味を持ち始める。
ある夜、マリアンが行方不明になる。グリーンベレーの隊員と浮気しているに違いない、と半狂乱になるフォシー。しかし朝になり、マリアンは夜間待ち伏せ任務についていたグリンベレーたちと一緒に帰ってくる。彼女は特殊部隊の一員として行動していたのだ。暗闇の中で敵を待つ体験に、恍惚を感じると告白するマリアン。フォシーは彼女を国に帰す手はずを整えるが、帰国の朝、マリアンは特殊部隊員たちとともに消えてしまう。
先の基地に場面は戻り、「話はそこまで」と打ち切るラットに兵士たちは詰め寄る。そんな中途半端では誰も納得しないと。しぶしぶラットは話を続ける。結局、その前線診療施設隊員たちの勝手気ままは、上層部の知るところとなる。マリアンの失踪後、廃人同様となったフォシーは除隊、他の隊員はちりぢりばらばらとなる。その後、ジャングルに出没する伝説の女兵士の噂が、流れるようになる。ベトコンよりもジャングルに精通し、裸足で気配を消して暗闇に潜み、敵を待ち受け殲滅するのだと。その時、ベトコンの総攻撃が始まる。炸裂する砲丸の閃光が、押し寄せる敵のただなかで一人戦うマリアンを照らす。ラットがその姿を追って行くところで、映画は終わる。
この映画の脚本には、ベトナム戦争を描いた小説「カチアートを追跡して」などで知られるティム・オブライアンが参加していて、その実体験や広範に取材した内容が反映されているだろうから、おそらくこのマリアンの話は米兵達によって話し継がれた伝説のたぐいなのだと思われる。一兵士の語りとして全編が進行するところなど、その伝説伝播様式をちゃんと踏まえているのだろう。
元ネタが伝説であるからか、話の整合性など全くなく、なんぼ将校の目が届かないからといって、民間人があっさり前線の施設にもぐりこめたりする筈もないし、主任クラスの衛生兵だったはずのラットが、いつの間にやら普通の歩兵になってドンパチやっているのも妙。何より、特殊部隊に女性がボランティア参加など出来ようがない。IMDbでのコメントもこうした矛盾を突く意見ばかりで、評価も低い。でも、ベトナム戦争に参戦していた一般兵士に実際に流れていた噂話、として考えるとこの映画の見所はまた違うものがある。
気のいい田舎娘が、いたずら心で戦場に迷い込み、そこで自発的に殺人マシーンに変身していく、という伝説は、ごく普通の市民社会から駆り出された兵士たちが、容赦なく大量殺人者にならざるを得ない現実を幾分かでも合理化してくれる機能を持っていたろう。それは同時に、プロの兵士たちを相対視し、軍隊という機能集団での一体化意識を共有する手助けにもなったはずだ。大多数の戦争を強いられた人々にとって、その戦争を自分なりに生き抜いていく論理が必要になるのは当然で、繁栄とか反共とかの国家の理屈がもはや風化しつつあったベトナム戦争当時、いささか神秘的な実存体験の希求のようなものしか残されていなかった、ということなのだろう。
意識的なのか、予算の都合なのか、K・サザーランド以外はあまり名が知られた俳優が出ておらず、みーんな普通の人、と言う感じがいい。特にマリアン役の女優(ジョージナ・ケイツ)は、ちょっと可愛いスーパーのレジ係、てな役どころが振られるのが精いっぱい、という軽さが余計いい効果を出しているように思う。これで一癖も二癖もありそうなのがやっていたら、かえって変身の不気味さが出なかったろう。もしかしたら、そういうのを意識的に演じられる人なのかな、その辺はわからんけど。
なんて書いていたけれど、よく調べてみると、この人は「恋する予感」(95)という日本未公開映画で、人気絶頂のヒュー・グラントなどを相手に、ちゃんと主演女優をはっている。恋にあこがれるフツーの小娘かと思いきや、かなりの異常性を内に秘めている、という役どころで、マリアン役もそのあたりの適性を見込まれた上のことらしい。
映像は「地獄の黙示録」とか「プラトーン」などからのパクリも堂々とちりばめられ、チープ・オーソドックスとでもいう風格(?)が出ている。クモの巣に引っかかった蝶々とか、派手な色のトカゲだとかをあざとく心理描写につかう、手のうちをさらしながら物語を構成していく手口は、まるでWWFのプロレス中継を見ているかのように、分かりやすくも神話的な虚構世界を満喫させてくれる。(2000/11/11)
正月休みに読んだのは読んだのだが、結構面白くはあったものの、今ひとつ感想としてまとめるきっかけに乏しい本が上記の「銃・病原菌・鉄」(ジャレド・ダイアモンド著:草思社)(上・下)だった。先日CATVで、「電撃フリントGO!GO作戦」という60年代お馬鹿スパイ映画を見て、これと一緒くたに論じてしまうのもいいかと思いついた次第。
「電撃…」は66年のアメリカ映画で、007シリーズの大ヒットにあやかろうとした俗流パチモンの一つであるが、あえてパチモン本流を意識して(かどうか知らないが)、軽薄、浅薄、浮薄の三薄を駆使した安っぽさの追求を徹底しており、そこが予期せぬ批評性を生み出していて、かの「オースチン・パワーズ」を30年前に先取りしていた怪作だと私には思える。
世界の気象を自由に操る科学者集団に率いられる悪の組織、ギャラクシーに立ち向かうのはスーパーヒーロー、デレク・フリント(ジェームズ・コバーン)で、この主人公の万能無敵ぶりは、すでに自己言及性メタパロディの域に達している。自分に放たれた毒針の成分から、「敵はマルセイユのブイアベースが好き」と決め付け、見事敵スパイを捕捉撃破してみたり、現場に残された微量の化粧品から、敵拠点を割り出して乗り込んでみたり。これを科学的分析だけではなく、自分の味覚と嗅覚を駆使してやり遂げるのだ。敵の本拠地に乗り込むときも、罠にかかって死んだ振りをして相手に運ばせる。なんと心臓を自分の意思で止めることができる。向こうが死体を途中で海に捨てる気にでもなったらどうするのか、などという疑問は出てくる余地はない。
さて、「銃・病原菌・鉄」のほうに話題を変えると、この本は一言で言うと、「ヨーロッパ(とその流儀を取り入れた地域の一部)が、この地球上で今のところ軍事、経済、科学技術、食料生産などにおいて圧倒的優位を保っているのは何故か」という疑問を解明しようとするものだ。
ところがですね、この本が主に標的にする、「白人は他人種より生物学的に優れている」とする人種的優位論、という昔ながらの説明は、今のご時世ではよっぽどの差別主義者でもないかぎり、ちょっと口に出されることはないもので、「論争」というものがなかなか成立しにくい分野なのですな。
もちろん著者の意図は正しいのだ。大概の人は「よっぽどの差別主義者」と同じような考えを持っているのは間違いない。日本人の場合など、白人種に対する微妙な劣等意識と優越意識の絡まりを内に秘めた上で、アジア、アフリカの人々に対して、せこい優越意識を抱いているのは明らかだ。しかし同時に、ほとんどの人はそれを抑圧する術にもたけているので、著者が見事な論証で、いくら人種的優位論を否定して見せても、もうひとつ快刀乱麻の印象がない。そうでしょうとも、世界は一家、人類みな兄弟、ですからな、で済まされそう。
これはほとんど、ドジな敵スパイを手玉に取るヒーロー、フリントの活躍を見ているようなもので、読んでいる側は、ほとんど著者の議論が一方的に進行していく独壇場を鑑賞するだけだ。
人類の祖先が生まれたのはアフリカであることに、まず間違いはない。したがって、アフリカ人たちは最も人類として長い活動歴をもっている。しかし、人類が食料生産を始め、国家につながる文明の組織化を始めたのはアフリカではなかった。ニューギニアでは世界ではじめて農耕が始まり、文明を進化させていくチャンスには充分恵まれていたはずなのに、その地の人々はその段階にとどまり続けた。かなり遅れてではあるが、南北アメリカではそれなりに食料生産が組織化され、国家の原型が作られた。しかし、ヨーロッパ人の侵略にたいして、それらの国家はあまりに脆弱で、持ちこたえることはできなかった。中国はユーラシア肥沃三日月地帯とほぼ同時に、高度な文明を発展させていく道にのり、近代を支配する可能性もあったが、あまりに恵まれた条件のためか、過度に政治的統一が進みすぎ、多様性と可能性の芽を摘んでしまった。
結局、ユーラシア大陸肥沃三日月地帯で誕生した文明が、最終的勝者となる。それを引き継いで進化させた西ヨーロッパ、そしてその移民たちの文明が世界を手に入れたのだ。環境がより多様な可能性を提示してくれた、というメリットを最大限生かし、銃・病原菌・鉄という制覇の道具を自分達が独占できたおかげで。
古典的な左翼系情緒論からは、そうした際前提になっている「文明」というのは人間を本当に幸せにしたか?という疑問を出すこともできるのだが、それは形式的反駁であって、ネット常時接続のない職場に来て文句を言っている私などには、多少のひっかかりはありつつも、本心から同意することはできない。アフリカに原野を走るキリンを見に行きたいとは思うが、空調とシャワーがあって、フランス料理が食べられるホテルに泊まるのでなければいやだもの。
著者のジャレド・ダイアモンドは、そういう左翼系情緒論は軽く受け流しているようで、伝統的文化の豊穣さや、そこに生きる人々の能力の高さを充分認めつつも、ヨーロッパが作り出したメジャーな文明の方向性に、人類の生き延びる道を見出しているように思う。そんな方向性には滅亡が待っているだけだよ、という茶々などいくらでも入れられることは承知の上で。
そこで「電撃フリント」に立ち返ると、かのフリントの敵、ギャラクシー科学者集団は、ユーラシア大陸が幸運にも持っていた環境優位性(それは東西に伸びた大陸だったので、同じような気象条件で多様な自然環境や生物種に恵まれた、という極めて単純な事実である)を天才的技術で破壊し、世界の覇権を欧米から奪い取るという、極めて根底的な戦略を持っていたといえる。
しかも、直接暴力行使には否定的な平和主義者で、彼らの要求は核兵器と大量破壊兵器の破棄なのだ。その秘密基地がある島は、武装すらしていない。衛兵は銃も持っていないのだ。唯一の防衛システムは、基地入り口に陣取る「鷹」だったりする。
世界を愛と非暴力の世界に変える事業への参加をよびかける科学者集団に、ヒーロー・フリントが持ち出す論理はただひとつ、「押し付けはやめてくれ」。地球に穴をあけるでっかいドリルがあるだけで、武器ひとつなく、メンバーたちが性愛に励むだけの秘密基地は、フリントによって哀れ粉みじんにされてしまうのだが、その自信に満ちた破壊の論理を支えるものは、「多様な可能性を自由に選択する」ことが文明の出発点であったことへの自負だろうか。少なくとも、それが成功したのは、銃・病原菌・鉄という、自由選択によって得られた、破壊的パワーのおかげだった、というのは充分承知しているようだが。
(2001/02/03)
以前、「もてない男」を取り上げた、小谷野氏の新刊である。近年、小谷野氏はきわめて精力的に出版を続けておられるようで、新書ぐらいしか読まぬ私にはとてもその全仕事の方向性をフォローすることはできない。この本の裏表紙に簡単にまとめてある書名を見ると、近世以降を正統派文芸論で分析する意図をもつものと、先の「もてない男」路線内の、近代フェミニズム批判を媒介にした、「新倫理主義」とでもいえる流れがあるように思える。
いずれにせよ、フニャラフニャラした向こう受けねらいの軟弱派に真っ向勝負の直球でせめる、土浦一高→東京大学という伝統エリート路線にして今なお可能な、古典的啓蒙主義的知識人の面目躍如である。浅田彰の出現あたりから、本をあまり読まなくなった私などにも、また本を読む楽しみを取り戻してくれた一人といってよい。そのくせ新書の分しか読んでなくてどうもすいません。
小谷野氏は、基本的に大学生の学力低下ということを憂いてこの本を書かれたようだが、私らの世代のように、おためごかしに騙されつづけた層に対しても、それなりに有効といってもいいかもしれない。おためごかしというのは、うたかたの如く様々に浮かんでは消えていった、ろくなものではない知的ファッションの群れのことである。
それらの流行に飛びついては見ても、結局知ったかぶりでごまかせばまだましなほう、ほとんどの場合わけわからぬまま放り出し、次の流行に飛びつく、というのがほとんどの人(大学教員レベル含む)の対応だった。それらのファッションを追うのはやめて、面白いと思えるようなもので、ちゃんと事実の枠組みを素養として取り入れられてはいかが?という提案として受け入れるということだ。その上で、自分の思考をめぐらせようではないか、というのはそのとおりなのだが、なかなかそう単純ではない。まあ、ほとんどの団塊系元進歩派読書人は、中高年になったら司馬遼太郎と塩野七生を読みつつ、老後に備えているのですが。
意見と事実を混同する人がいる、というのは本当に小谷野氏の言うとおりで、古典的左翼の流れを汲む人に、確かにその傾向が多い。しかし、そこにある些細な裂け目に、「新発見の事実」を持ち込んでトンデモ意見を主張する歴史修正主義者はもっとたちが悪く、タイムマシンで過去を見てこない限り、歴史における事実なんてものは確認しようない以上、依拠すべき事実には常に二歩も三歩も引いた態度をとるべきだろう。
安易に通俗歴史小説などでえた「事実」を信じこんでしまう危険というのは、日本とアメリカが戦争した過去も知らないような無知からくる危険よりも大きいと私には思え、いい年こいてそのレベルのバカなら、一生バカでいるほうが世の中のためなのではないか、と思ったりする。小谷野氏は、周辺の知的能力低下の現状を憂えるあまり、バカの思い込みのこわさを忘れてしまっているのではないか、と思えてならない。
これはたとえば、氏がほどほどに評価する、小林よしのりの主張などに、初めて「自前の思想」を感じたと感激する若い人を見たりするとき、特に強く感じることだ。自前でないのでいいから、もうちょっとまともな本を数冊以上読み、それらと比べてからそう言ったほうがいいぞ、君。そんなことはまず出来ないだろうけど。
仏教に「縁なき衆生」という言葉があるが、しょせんダメなやつはダメである。人生を結構浪費して、私の得た結論はそんなところだ。私自身、そのダメなやつの典型例だと思うし、ダメなやつに出来る最善のことは、つまらん思い込みをして大声で他人に意見を押し付けたりしないことだ、と達観している。事実なら依拠してもいいものではなく、事実と意見の違いに無自覚なのもダメなバカの特徴なのだ。バカに許される生産的態度は、ただ「懐疑」だけであるように思える。
バカは控えめに生きていけ、と小谷野氏は恐れず堂々と主張されるべきだ。大体、そのほうが文科系知識人業界での相対的優位性を維持するのにも役立つだろう。古典的啓蒙主義者は、あふれるバカの上に君臨すべきものではないだろうか。(2001/03/02)
どれが卵か鶏か、「マトリックス」#やら「JM」、その他大勢と同じ「仮想電脳空間」モノである。たぶんアニメにはこの手が多くあるのだろうけれど、まったく不案内なので言及は不能。昨年、かのバンダイが資金を出して、アニメフリークには神様みたいな存在と聞く押井守が、ポーランドくんだりまで出かけて作った超話題作なのだそうだ。なんでもこの映画は、カンヌ映画祭で特別招待作品とされたという。別に賞をもらったとか、そういうことではないようだ。催事などでうっとおしい偉いさんを、特別来賓に仕立てるようなものですか。
公開は今年一月だったらしいが、宣伝されていた覚えもなく、一部オタク向けに深く静かに沈潜していたのでしょうかな。最近それがDVDで発売されたということだが、はじめからそれが狙いで、興行での収益などは考えていない映画作りのようだ。
オープニング、やたらに長い状況説明のテロップから、ヘキサゴン上のワイヤーフレーム映像にかわり、それが実写の戦車となり、戦闘シーンに移行する。爆破される戦車の火炎が平面化されてストップモーションになり、その合間に主人公の女兵士が出現する。そして周りにヨーロッパ風の都市が出現し、逃げる市民を蹴散らして進む戦車の群れ。そのモノクロ映像は、かのポーランド動乱の情景を思わせる。
なかなか導入部のつかみとしては十分といえる映像展開なのだが、見ているうちにだんだん当惑を覚える。ドンパチ映像のユニークさは認めるとしても、「一体、誰が誰と戦っているのかわからない」のである。戦車に向けて無意味に小銃をぶっ放している勢力がいて、先ほどのポーランド動乱への連想から、戦車隊への抵抗という筋書きかと思っていると、同じような連中が今度は市民を無差別に撃ち始める。
さきほどの女性兵士は手近な戦車に上がりこみ、砲塔の重機でその武装勢力を掃討しはじめた、と思っていたら今度は重武装のヘリが出現し、市民の群れに無差別爆撃。そして舞台は原野に移り、散開する貧弱武装勢力とヘリとの戦いになり、女兵士の的確な狙撃でヘリは爆発、ストップモーションとなった火炎に”Mission Complete”の文字が浮かび、タイトルロールに移行、そして本来の物語が始まるという趣向。当然、それはアヴァロンと呼ばれる仮想現実空間戦闘ゲームのプロとして、殺伐とした近未来を生きていく女性主人公の話となるわけだが、えらくご都合主義的なゲーム設計だな、という先入観が、物語そのもののご都合主義を予感させてしまって、はなはだしく興をそぐ。そしてこの予感は、そのとおりに的中するのだ。
導入の画像は確かに一見に値すると思うが、そこの整合性のない作りが最後まで尾をひいている。アヴァロンという題名の典拠となっている、アーサー王伝説とのかかわりでイメージを膨らまそうという意図なども、見事に空回りしている。そりゃ、肝腎の戦争ゲームの任務がはっきりしていないような設定では、それに半分命をかけて没入する連中の内面もチグハグになるのも仕方ない。RPGゲームの常識みたいなこと(チームを組むときに、盗賊と戦士と司教などという役割分担があったりする)が、筋書き理解の前提となっているらしい部分もあり、そういった知識は私にはまったく欠落しているので、多少不当な言いがかりの部分もあるかもしれないけれど。
一般論の立場からややこしいことを言わずに、CGの出来だけを純粋に楽しむのが、この手の映画の正しい鑑賞法なのかもしれない。それにしたって、導入部でほぼピークに達し、後は盛り下がるばかりのCGと特撮が寂しい。後半に出てくる敵武装キャラの「シタデル」なんて、昔のウルトラQでも恥ずかしくて出せないぞ。まあ考えてみれば、3Dゲームなんかでも、最後に出てくるボスキャラってのは妙に情けないのが多いけどね。
というわけで、キョービのアニメオタクはこの程度で満足するのか、未熟者どもめが、とオジサンたちの優越感回復向けには最適の映画であります。もっとも、押井守自身はオジサン世代なんだけど。熱狂的支持者あふれるこの業界では、スポイルされても仕方ないのかな。映像自体は「去年マリエンバードで」などからパクリまくったりする大胆さにはとても好感が持て、これで時系列での整合性(あるいは敢えてそれを無視する意識性)が加われば、押井守にとって通俗的国際的ヒット作など容易なことであろうと思われる。私としては昭和30年代を舞台にした、実写版「うる星やつら」あたりを期待したい。(2001/08/03)
#「マトリックス」に関しては”Everything Cool”主宰者の長谷川町蔵氏による、次の要約があまりに見事に全てを語り切っている。無断引用ごめん。
「『今日も遅刻して課長に怒られたでしょうって?いやー昨日ウェブ日記の更新を深夜までやってたから寝坊しちゃって。実は僕ネオって名前でホームページやっててさ、アクセス数も結構あるんだよ。この前ウェブ界では凄く有名なモーフェウスさんがレコード回すイベントに行ってきたんだけど、彼からいつも読んでるよって言われちゃって感激しちゃったよ。あとさあ相互リンク張ってるソフトロック系ページの作者のトリニティーさんとも初めて逢ったんだけど、てっきり男だと思ったら可愛い女の子でさあ。やっぱペットサウンズ最高だよねとか話が盛り上がっちゃって楽しかったなあ。なんかこんな会社よりウェブの方がホントの人生って気がするよ。』という映画。」
することもなく医局の本棚を眺めていたら、こんな本があったので読み始めた。私にとって、こういう学術書系は「当座の役に立つ」ということが第一で、題名からして実用とは別の方向を目指しているような本は普段読みはしないのだが、惹かれた訳は著者名である。
小澤氏は70年代の精神医学革新運動において、中心的な位置を占めておられた方で、幾多の学会を舞台にした「闘争」で、多くの名場面を領導してこられた。患者の人権を無視した人体実験もどきの治療や、不当な強制入院事例への告発運動には、常にこの人の精悍な顔を見ることが出来た。常に野次馬である私などは、どこかロシアあたりの革命アジテーション映画の主人公みたいな雰囲気を彼に感じ、その趣味のいいファッションセンスとあいまって、「いつも『絵』を意識している人なんだろうな」という、瑣末にして無礼な感想を抱いたものだった。
たしか専門は小児・思春期だったはずで、それが老人精神医学領域の本を出しておられるのが意外だったのだが、それは単に私が不勉強なだけで、著書はむしろ老人関連のほうが多いようだ。数年前からは老人保健施設の施設長として、一線からは引いたところで臨床を続けておられる様子だ。
「一線からは引いたところ」などと失礼なことをいいつつ、老人精神医学領域の大変さは私自身よく知っているつもりだ。一般の精神科医が必ずしも得意とはいえない身体管理の要素が多く、その一方で精神科治療のテクニックも駆使しないといけない。普通の精神医学領域と比べて多少余裕が持てるのは、「老人はそう力が強くなく、行動も敏捷でない」という点であろう(当然例外あり)。もう一つ言いにくい「利点」は、どうにもこうにも対応しにくい治療困難事例があれば、それは早期に「死」という転帰に終わるということだ。
精神医学領域一般に、多少なりとも陰鬱な雰囲気がともなうのは、「精神疾患というのは、一部の例外を除いて、命にはかかわらない」から(もちろん自殺というのがあるが)だと言える。治療がうまくいかない人と、延々と付き合っていかねばならない。治癒改善しない状態で、長期入院収容やそれにかわる手段を講じないといけない。「もし手術失敗例が死なずに生き残りつづけるものならば、外科医はもっと治療悲観的になるだろう」というのは中井久夫氏の名言である。
誤解を恐れずに言えば、老人精神疾患はいずれ死という形で決着がつくものだけに、施設の構造や人員配置が許す限り、良心的に場当たり対応さえしておけば、大変ではあれ、それほどどうにもならない事態にはならない。いずれ精神症状はおさまり、もしくは身体的衰弱が進んでそんなもの関係なくなり、そこそこの老病者となって穏やかな晩年の日々がくる。中には精神症状と身体的衰弱にともなう症状を散々行きつ戻りつする人もいるが、最後には塵は塵に戻って大団円となる。
もちろん若い人の精神疾患だって、数十年のスパンで考えれば同じこととは言えるが、人生総体に近い時間を治療の場に置くことへの重みが、治療者、被治療者ともどもに与える屈折は並みのものではない。両者にとって治療志気を高め、当面の治療方針を着実にこなしていく根拠がそこでは要求される。それは多くの経験に支えられた専門知識であったり、信頼で結ばれたよき治療関係であったりする。
近年、米国精神医学会が発案したDSM(診断統計マニュアルの頭文字)という診断基準が使われるようになり、これは精神科疾患の診断に付きまとっていた曖昧さを払拭したのはいいのだが、精神科医の仕事をサルにも出来る内容に落とし込んでくれた。DSM(現在改訂第4版が使われており、DSM-IVと略称される)では定義の困難な精神科疾患を、その属性的指標の揃いかたで診断する。例えば、「幽霊」を定義するのに、(1)足がない。(2)白っぽい着物を着ている。(3)夏期に目撃される。(4)恐ろしい形相をしている。(5)出現場所が一定している。以上(1)〜(5)のうち3項目以上が満足され、複数以上の目撃例があるとき、幽霊が出たとする、というような取り決めをイメージされれば良い。そこでは幽霊の実在性への疑問も関係なく、それがでる謂れも根拠も必要ない。まして属性の揃い方に違いがあろうがなかろうが、取り決めさえ満足していればそれでいい。
こういう機械的見立ての過程からはよき治療関係など生まれるわけもなく、それを補完するものとして脚光をあびているのがEBM(証拠に基礎をおく医学、の頭文字)という、これまた統計的手法である。ある状態で選択しうる治療法がどのような改善をもたらすものか、というデータベースに基づいて治療を進めるわけだ。当然それに近いことは昔からやっているわけだが、個人的な経験の積み重ねからのフィードバックでなく、オープンな統計的データに基づくのが、わざわざこのようなネーミングまでつけて区別する理由である。そこにあるのはデータの数は多ければ多いほどいい、という統計への信仰なのだが、特に精神科領域の場合、先の手法で分類された種々雑多のものが混じっている可能性のある群れに、ある治療手段が効いたからといって、別の人にそれが適応できる根拠などあるのか、と言われると確たる返事が出来る人はいないはずなのだが、そこは身体疾患モデルの強引な適応でねじふせるということになるのだろう。
研修医のころ、自分で判断すると言うよりは指導医から言われるままに診断つけるしかなく、治療に関しても当然、仰せのとおりの処方になるわけだが、ちょっと強情系の患者さんに当ったりすると、とにかく既定の方針を説得するしかなく、はなはだ不毛な議論を続けることになる。「わたしゃ、その薬はあわんのですよ」「でもね、あなたの病気にはこれが一番いいんですよ」「飲むのは私なんだから、ヤなものはヤなの」「この病気治すにはこれが一番効くんですよ」「その病気持ってるのはわたしでね、病気には効くかも知れんが、わたしには合わないんだ」「あなただって病気を早く治したいでしょう」以下無限ループ、という徒労はおそらく誰にも経験がある。
統計的診断基準とかエビデンスがどうの、という一見先進的な方針は、要はこの研修医レベルでみんなやっていこうということだ。個人的な経験に基づく判断、見立てではなく、責任を転化できる体系に沿うやり方で、冗談抜きで「サルにも出来る」のである。DSM以後、アメリカで、そしてわが国でも、精神科医志望者の資質が著しく落ちたといわれるのも当然だろう。
逆にいえば、今までの精神科医は、そこそこの資質をさっぱり治療結果に生かせなかったことになる。診断し、薬物を処方するぐらいなら、サルにでも出来るのだ。精神科医達はあまった能力で、ごちゃごちゃと小難しい論文やら著書を何万と積み重ねてきたが、たとえば分裂病の治療自体はそう変わっているわけではない。たしかに薬物の進歩は著しく、急性期の治療はやりやすくなったが、全く使えなかった50年前と比べて、全体的予後にそう変化があるわけではない。そういうものなのだ、今のところは。身体医学だって、人は死ぬものだという大原則を、いささかも覆していないのと同じだ。
まして老人性精神疾患の場合、近代的治療手段が果たす役割はさらに小さい。充分配慮した薬物療法で、せん妄、興奮を多少緩和し、不眠傾向を改善できる程度であって、どちらかというと下手な向精神薬使用によって生じた身体的危機への、余分な対応せにゃならん場面のほうが多いような気もする。痴呆進行がそれほど深刻でない段階の妄想とか、抑うつ系症状に対しては確かに薬物の効果はあるが、それとて収まった後には結局痴呆進行が見られることが多く、最後は同じことである。身体的な衰弱がメインの問題になるまでお守りをしてあげて、ほどほどに精神症状が和らぐタイミングがあったら、在宅介護に切り替える、もしくは精神症状お断りの老人施設(つまりほとんどの所)に移送するという話になる。
最近アリセプトというわが国開発の「抗痴呆薬」が出て、プライマリィケア段階でもよく使われるし、患者家族がこれを求めて受診することも多い。初期の痴呆段階で結構効いて、それなりに有用性があるのだが、これを見境いなく使うと弊害もある。せっかく精神症状が落ち着いてきて、内科領域で充分ケア可能になった人が、これのおかげでまた大興奮、かつパーキンソン症状などの副作用もバンバン、という例もある。「ボケ」という大雑把な診断にもとづくEBM的効能期待では、個別患者の症状吟味などする視点は出てこない。やたらに値段も高いので、マニュアル医者には使ってほしくない薬だ。
ごちゃごちゃと本の内容とは全然関係ないことばかり書き連ねたが、私のいいたいことは、せまい意味の治療ということでは、老人精神疾患にできることはほとんどないということだ。もちろん医療がかかわる意味は大きい。失われてゆく自分の能力にどう対処するのか、無意味なあがきからどう抜け出すかということを、それを処理するべき能力自体が衰弱していく状況で納得してもらわねばならない(まずしてくれないけれど)。家族に対しては、他ならぬ自分の親同朋配偶者がこの病を得てしまった理不尽さや無念さを乗り越えて、介護体制を組織してもらわないといけない。
それも本来治療の一環ではあるが、現在のマニュアル化第一の対処方針では、なんとか療法士を呼べ、ケースワーカーに調整してもらえで済まされてしまう。チーム医療は大事なことだが、その名のもとに狭義の診断治療だけが医師の役割という逃げがみられるのも事実である。デシジョンメーカーとしての責任を全うするためには、全体的俯瞰ができる必要がある。
そのためには統計的予後の知識も大事だが、今ここで病者に何が起こっているかを感じ取り、表現するという作業が必要になる。当然「感じ取る」のだから客観性などない。その妥当性は、ただ共感によってのみ保証される。この主観性に基づく共感の希求こそ、DSMやEBMが剥ぎ取ろうと努力してきたことなのだが、精神医学がその顧客に提供できるものは、本来これしかないといってもいい。薬物療法などは瑣末なことにすぎない。なまじ短期的に程々の効果があるものだから、勘違いしてしまうのだけれど。
そういう意味で、この小澤氏の著書は、いままであまり重要視されてこなかった老人精神疾患に対する主観的理解を試みる野心的著書である。正直言って、ツッコミどころは山ほどある。この人が叩き台にしている論考が私の研修医時代の指導医によるものが多く、あ、なんでわざわざそんな風にとって、西田哲学流れの難解さに持ち込むのかなぁ、とちょっと師匠たちを擁護したい気分が出てきたりする。
ここで細かく言っても仕方ないのだけれど、今までの痴呆考察はフランス学派の流れを汲む階層論がメインなのだが(少なくとも私の理解の枠内で)、そこを小澤氏は無理やりドイツ学派的抽象論(オブジェクト指向とでもいいましょうか)に換骨脱胎しようとしているようにも見える。こうした考察が目指すものは、結局医療チームメンバーと顧客がわの共感を得ることなのだから、やはり平易さと判りやすさを狙わないとまずいような気がする。医者だって昔の屁理屈好きばっかりではないのだ。
「先生は難しいこというけどね、結局オムツ替えてやって、騒いだらベッドに縛ったりしてやらにゃならんのは一緒なんだから」という反発をこえて、痴呆病者と内面を共有しようとする努力に人を誘えるか、というところでは疑問があるが、精神医学の伝統芸能をこの領域にも伝えようとする著者の意欲はビシビシ感じる名著である。アジテーターの面目今なお健在、というところか。(2001/08/25)
年に4〜5回、むしょうにミステリとかSFが読みたくなる事があり、とくに今のように、新しい環境に慣れないといけないが、差し当たってすることもなし、という状況ではとりわけそういう欲求が強くなる。仕事時間に読んでるわけ、まことにすんません。これで常時接続さえあれば、本なんか読まずにすごすのですが。余計いかんか。
本屋で評論系の本何冊かと一緒に、ミステリ、SF数冊を買ってくる。最近、殊能将之というミステリ作家が注目を集めている、という話なので、探してみるが二作目の「美濃牛」というのしか見つからない。
読後感。ま、勉強家で、ギャグの好きな作家らしい。しかし、見ず知らずの人に、ちょっとうまいワイン代にはなる金をふんだくるようなものではないぞ。狙いはよくわかるだけに、ますます脱力感にとらわれる。数年はハードボイルドもの以外のミステリは読まないだろうな、これで。
でも、好きな人は好きなんだろうな、こういうの。もっと意識的に「お笑い本格」というジャンルを追求してくれたら、ファンになろうかな。基本的な、「お笑い」への執着、というのは京極夏彦にも感じるが、なんで連中はそれをもっと展開しないのだろうか。
それはさておき、とにかく感服したところは、中盤に頻出するバカ俳句である。ストーリーとはほとんど無関係に(と言って、伏線になっているのだが)、アリスの「マッド・ティーパーティー」を意識したような「句会」が開かれる場面がある。探偵役がそこで披露する一句。
「アクィナスを 嫁によませちゃ いけません」
「アクィナスの『神学大全』を嫁に読ませると、カトリックになってしまって、離婚するのが大変」という意だそうだ。季語は「秋茄子」なのだと。こういうのばっかりだったらいいのにねぇ。
これは真似せねばならんだろう。うーん、いい人名はないかと、三時間も考えた結果がこれ。
「馬刺し喰い 気分はシベリアの バクーニン」
この意は「半分凍ったような薄っぺらい馬刺しを食わされ、シベリア流刑時代のバクーニンの気持ちになったことだなあ。そういえばバクーニンは馬喰う人とも書けるなぁ」という詠嘆である。あまりに出来が悪いので、今後もしばしば再挑戦してみたい。(2001/02/09)
CATVのミステリ・チャンネルではシリーズものになったりしているが、本のほうはこれを含めてやっと三冊目。作者はあまり多作の人ではないようで、未訳もそうあるわけではない。
イギリスの片田舎、デントンという架空の街の老警部、フロストを主人公にした警察小説なのだが、すでに出ている二冊もファンが多いようだ。とにかく仕事を抱え込むのが嫌い、知らない振りで事件化を避ける事などしょっちゅう、事務能力はまるでなく、組織には必ずいる書類バカと戦いながら(と言っても誤魔化しを重ねるだけ)、お下劣極まりないジョークを連発しつつ、時たま訪れる直感で、どうにかこうには事件を解決するというスタイルが、私自身の仕事への態度とよく似ていてとても好感が持てる。私の場合は、ああした直感が働くことはないけれど。
ド田舎という設定にもかかわらず、このデントンという街には凶悪猟奇事件が頻発し、フロスト警部は「こりゃドッキリカメラじゃないのか?」とぼやきながら、結構真面目に働いている。今回は警察署の人間が、あらかたインフルエンザにやられて病休、という状況になっていていて、真面目組との対決は、いつもながらの署長とのつばぜりあいと、出世主義の新任部長刑事からの反発に単純化されている。そこでかなり入り組んだ連続老女殺人と、少女の行方不明事件などを、近代的組織的捜査など全く無視して解決してしまう、という話。
EBMなんてのに妙にかぶれて、「精神医学領域だからって、条件のコントロールも考えないで所見を一律に論じるんですからね、どういうつもりなんですかね」などと、威勢のいい事を言う若い衆に読ませてやりたいものだ。コモンセンスのもつ豊かなデータベース機能を馬鹿にして、せこい思いつきの「コントロールスタディ」なんぞが全てだと思ってる限り、お宅がなにか真実を見出すことは絶対無いと予言してあげます。
そりゃまあ、あらゆる社会生物学的条件が揃っていて、一方は虐待を受けていて一方は受けてない、なんていう観察系を用意してくれるなら、そのコントロールスタディって奴の信憑性は受け入れてやってもいいのだけれど。
話が見当外れの方向にいってしまったけれど、この「フロスト」シリーズはお勧めである。内容はほとんど同じなので、全部読む必要はないかもしれないけれどね。(2001/07/11)
パンク系とはいえ、ミステリーの形態は維持しているだろうという予想は裏切られ、ミステリーの形を借りたファンタジーというか、取り留めのない不条理譚の群れともいえる短編集である。
雪に閉じ込められた山荘。探偵が皆をあつめて「さて」と話を切り出す、これ以上の類型はないところから始まる「解決ドミノ倒し」が一番気にいる。どんでん返しに次ぐどんでん返しで、この作者が究極の夢にしているらしい、意外というか、考えてみればすべてのミステリについて共通していると言ってもいい、真犯人(もしくは、犯罪の物語が書きつづられる根本的理由)の指摘に持っていく、あまりにアホらしい力技がなんともいえない。
しかし、最大のどんでん返しは、全編を読了したあと、同じ本を本棚に発見した事であった。(2001/09/02)
はじめの文では「ネタバレ」だというクレームがあったので、ちょっと曖昧化した。でもあれは、そういうことがルール違反になるようなミステリーと言えるのかなぁ。(2001/10/31)
題名を見てドキンとして買ったのだけれど、これは私がやっているようなネタパクリのことではなく、手形パクリをはじめとする、経済詐欺事件をえがいたもの。この本で述べられているのは、国家によるNTT株売却だとか、特殊法人による税金騙し取りのような事例ではなく、比較的小物による一般大衆相手の詐欺が中心である。報道なんか見ていると、何であんなのに騙されるのかと思うのだけれど、その騙しのテクニックというのは、誠意による説得とか、宗教的回向とかというものと全く同じだ。価値のない証券を売りつける人と、ミミズがのたくったような字の人生訓を売る人の間には、主観的にもそれほどの差はないのではないか、などと思ったりする。
詐欺師というのは、被害者を共犯に仕立てるのが上手な人を言うわけで、その点がまずければ単なる強盗である。やたらに上手なら、宗教家とか、起業家とか、革命家と呼ばれるわけである。刑法上、詐欺罪はあまり重罪にはならない(たとえ被害者が一家心中しようと、懲役10年が上限で、騙し取った金は大概の場合、取り得である)が、これはやはり、かれら詐欺師の開発した技術が近代社会を組織してきた、という「芸」へのリスペクトがその背景にあるからに違いない。
それにしても、ワニのNEW新書という名前、もうちょっと考えられなかったのかねぇ。(2001/09/03)
この手の古文書を解題した読み物と言うと、神坂次郎の「元禄御畳奉行の日記」とか、題名を忘れてしまったけれど、けっこう売れた十手者の日記なんかが思い出される。それらが記録者のキャラクターにかなり依拠している面白さだったのにくらべ、こちらは一種の業務記録、四国は今の新居浜と西条市の間あたりにあった「小松藩」という零細藩の記録という、はなはだ地味なものなのだけれども、当時の生活を活写していること、この上ない。
記録したのは武士達なので、起こった出来事への対処を、言うならば行政官僚側の立場で淡々と書き連ねただけのものなのだけれど、私なんかがカルテに毎日書き連ねている情報が、一ヵ月後だって第三者の役に立つようなものにはまずならない(せいぜい処方記録と、身体的変化記録の役に立つ程度)のと比べて、記録者である武士たちと、領民たちの生活を生き生きとうかがうことができる。
見当外れのことをする困った少数の連中がいて、目先のことに対処するだけで精一杯で、日常の幸せだけを追う大多数がいる、そしてそんな風に人々がやっている事の織り成す総体が、少しずつ歴史を動かしていく、という実感を感じる事ができる好著である。歴史教育というのは、いろんな視点からの大まかな粗筋を教えるのと、こういうのを味あうのを平行していけばいいのではないかな、なんて考えたりする。
もうちょっと読み込んで長い文章にまとめることができれば、更新も頻回なんだけれどね。そのパワーが今のところありません。
ここで書いた「題名を忘れてしまったけれど、けっこう売れた十手者の日記」というのは、「目明し金十郎の生涯」(阿部善雄:中公新書)だった。日記ではなく、「守山藩御用留帳」という陣屋の記録から、江戸時代中期に実在した目明し、金十郎の活動を取り出して描いたもの。目明しというと、TVドラマなんかでは犯罪捜査官の扱いだが、金十郎が実際にやっていたのは、犯罪と言う形であらわれる、共同体のほころびを補修するような活動が主だったようだ。些細な犯罪を起こして、アジールとなっているお寺に逃げ込んだ人に対して、賠償の斡旋をしたり、免責のお墨付をもらったりするような記述があったように思う。
なんだか似たような事をしているものだな、というのが読んだ当時の感想。もっとも金十郎は社会の裏表に通じた顔役、というのが正確なところで、現代で言えば地域選出の議員と、ヤーさんを足して二で割らないような存在なんだけれども。彼らは一方では地元に面倒見のいい有力者と言うような形で生き残り、もう一方では私らみたいな職能に分化した、ということのよう。
(2001/09/04)
あまりの無聊に耐え兼ねて、新刊書を何冊かアマゾンに発注したところ、メールが戻ってきて、テロ事件の影響で発送がかなり遅れるとのこと。地元の本屋に運良くあれば注文をキャンセルしようと出かけたが、取り揃えが気の毒なほど悪い近所の本屋に、目的のモノがあるわけはない。
前に「美濃牛」で懲りたはずの、殊能将之のこれがあったので、ちょっと迷ったが買ってしまった。見開きに子規の俳句なんか添えてあって、前作に出てきたバカ俳句が絶対二つ三つあるに違いない、と言うだけの期待で買ったのだが、そんなものは全然ありませなんだ。そればかりか、前作以上に購入した事を深く後悔させられた。
「美濃牛」はけっこう面白かったのだけれど、言うならばエッシャーの絵を模型で再現する手法、ある一点から見たときだけ、矛盾に満ちた絵面が成立するようなやり方を読者に強いるもので、うまくミスディレクションする努力などは一切放棄しているのががっくりだった。一応読者にすべての情報を(少なくとも手がかり程度は)開示しておくのが、ルールと言うものだろう。
この本の場合、もはやミステリィとしての構造すら目的にされていない。なんだか壮大な似非世界観みたいなものが暗示されていれば有り難がる、お馬鹿な人たちはこれでもいいのだろうけれど、それなら「本格ミステリ」云々の宣伝するのはいかん。既存型式を打ち壊す目論見なのかもしれないが、読者の未熟に期待する了見はいただけないぞ。
それでもこの作者の器用さとか、少なくとも文章の上での破綻のなさというのは大したもので、読みつづけるのも苦痛だと言う事はない。最近、ウェブ上ではティーンズ文庫というのか、昔なら「中学三年生」夏休み特大号についていたような、どうにもつまらない小説群を評論するのがはやっている様なのだけれども、その手のレベルよりは格段に上であることは間違いない。
鋭いな、と思った記述は次の二点。
(1)刑事はお互いをあだ名で呼ばない。
(2)若い坊主のカジュアルスタイルは、一般的にかなり派手である。(2001/09/23)
表紙にアレンジされたブリューゲルの絵の断片をみて、これは失われているブリューゲルの絵をめぐる謎解きで、その帰属をめぐって殺人事件の一つや二つがあるに違いない、と勝手に決め付けて購入。きっと図像学や図像解釈学の蘊蓄がたっぷりあって、もしかしたらダイイングメッセージと結び付けられていたり、あるいは絵のテーマにそった「見立て」連続殺人事件があるのかも、などと想像だけが先行する。
読んでいくと、サバティカル休暇をとっている哲学者が主人公で、フランドル絵画について哲学的な観点から本を書こうと思っているがさっぱり筆が進まず、田舎に執筆活動に専念しようと引きこもるという、先の予想にピッタシの展開。
厚かましい隣人に招かれて、絵の鑑定モドキをやらされるのだが、そこでまさしく、ブリューゲルの有名な季節連作の失われた一枚とおもわれる絵を発見する。よしよし、気の毒だがこの隣人の命は風前の灯だろう。密室で奇妙な扮装の死体となって発見される隣人、そして絵も消えているに違いない。主人公はその死体が、イカロスの墜落を模していることに気付き、それを手がかりに次々と謎を解いてゆく……はずだよな。
ところが実際は殺人事件は起こらず、主人公は無知な隣人から絵を巻き上げるべく、手の込んだ詐欺行為を企画する、という話が進むのである。あまりにも類型的な先走り想像をしてしまったため、けっこう面白くはあった内容が、ことごとく肩透かしのように感じられてしまった。ブリューゲル自体に関する蘊蓄はそれこそ山盛りで、これが笠井潔なら、紹介されているブリューゲル=異端派説などを使って、過去に絵が失われた理由と、現在の殺人事件の謎解きを結びつけた、なんだか判ったような判らんような話にまとめるのだろうな、と思ってしまう。
お約束の話に持ち込もうと思ったらいくらでもできるのに、敢えてそうしないところが英国式感覚か。原題は"Headlong"(軽率)で、これを邦題のように訳すのはなかなかの才覚。もちろんこれはブリューゲルの「イカロスの墜落」からきていて、原題をうまくイメージ化している。(もしかしたら、イカロス=軽率という、それこそ図像学的連関がもともとあるのかもしれないけれど)(2001/09/25)
原題:Three Kings. 監督:デイビッド・ラッセル。1999年米映画。
昨日、WOWWOWで視聴。ヴィトンのバッグをもった米兵が、砂漠をバックにロールスロイスなんかと写っている宣伝画像は見たことがあるのだが、こんなに妙な映画だとは思わなかった。
かの湾岸戦争、「砂漠の嵐」作戦終結直後のイラク領内で、クウェートから強奪された金塊の隠し場所の地図を捕虜からとりあげた米兵仲間と、ひと癖ある特殊部隊少佐(G・クルーニー)が一攫千金を目論んで独自行動を図る。莫大な量の金塊を発見した彼らは、同時にフセインに反乱を企てて捕らえられ、風前の灯火の運命にある住民たちとも出会ってしまう。
前半はまったくMTVのりで、人を喰ったBGMと派手な色彩が氾濫するショットが続く。後半になるとオーソドックス正義のヒーローものになってしまうが、私みたいな年寄りには、最初の調子で続いていたらとても付き合えそうにはない。かといって、あの戦争を50年代スタイルで、米兵=騎兵隊、イラク兵=インディアンでやられてもちょっと耐えられないだろうし。ま、程々のバランスであろう。
後半で、米兵の一人が撃たれて外傷性緊張性気胸に陥り、さすが「ER」出身のG・クルーニー、胸腔カテを刺入して抜気処置をする。その処置をめぐってある種のドラマ性が生じるのだが、あれだけどんどん肺から空気が洩れているなら、陰圧をかけて持続抜気しないといけないだろう、それでは話が進まないけど、なんて思ってしまうのが余計でいかん。
ほかにも、出演者は(G・クルーニー以外)基本的にヒップホップ音楽畑出身の非映画系の人だとか
始めに「妙な映画」といったけれど、もちろんそれは誉めているのです。それにしても私、G・クルーニーをみると、小倉久寛を連想するけど、いかんかなぁ。(2001/10/29)
原題:A League of Their Own. 監督:ペニー・マーシャル。1992年米映画。
一昨日、NHK教育で視聴。第二次世界大戦の間、アメリカでもプロ野球選手が徴兵され、MLBが立ち行かなかったため、短期間、女性によるプロ野球リーグが目論まれる。戦地の夫を待つ身のドティ(ジーナ・デイビス)にスカウトが訪れるが、彼女は全くその気がない。ソフトボールのピッチャーだった妹のキティはこの機会をものにしようと、姉とコミで入団を試みる。
いろんな事情を抱えた野球好き女性が集まり、女性リーグはひとまず発足する。ドティとキティが配属されたチーム、ピーチズには、大リーグを酒でしくじったかってのスラッガー、ジミー・ドゥーガン(トム・ハンクス)が監督として招かれる。人寄せパンダで充分といわれて丸きりやる気のなかったジミーだが、女性選手たちの真摯なプレーを前に、次第にやる気を取り戻し、初の女性ワールドシリーズ優勝に向けて、「選手一丸となって」頑張るのだった。
ドティとキティの姉妹葛藤とか、ジミーの再生の物語なども一つのドラマなのだが、何よりも女性スターたちが本当に硬球でちゃんと野球をやっていると言うのが見どころである。選手にはかのマドンナも扮しているが('All-The-Way-Mae' をやりまくりメイと訳されているが、ちょっとかわいそう。行くとこまで行くぞメイ、ではもっとダメか)、あまり自己主張もせず、野球選手に徹していて、その野球センスもなかなかである。
女性が硬式野球と言うのに感心する感覚は日本人だけのもので、例えばアメリカ発祥のリトルリーグは硬式なのだし、いわゆる軟式野球というのは、向こうではかなり奇妙なものとして受け入れられる。野球はあくまであの硬いボールでプレイされるものなのだ。この映画でも、写されている選手の怪我とか打ち身などは、全部実際のプレーで生じたと言う。
昔(といっても30年ほど前)、製薬会社などがスポンサーになった女性プロ野球チーム(セミプロと言うべきなのか、よくわからない)がいくつかあって、リーグ戦もやっていたかもしれないが、時々大学に回ってきては医局選抜チームと試合したりしていた。医学部というのは不思議なところで、逆上がりも出来ないオタク系文弱の徒も多いが、成績もよければスポーツ万能の文武両道、素敵キャプテン系も結構いる。そういう連中の前に、女性チームは残念ながら手もなく敗れていた。
やっぱり、日本の土壌では女性が野球をするということだけで、一種の色物的な感覚から自由になれなかったのかな、なんて感じる。そう言う私自身、あの女性選手たち、夜は懇親会でコンパニオンに変身し、「ま、お一つ」なんて酒注いだりしているのかな、などと言う眼で見ていたのだけれど。選手もそれほど勝負に執着していないようににみえたし。でも、ガンガン打たれるピッチャーに激を入れていた、そのチームのキャプテンの悔しそうな表情は、今でも覚えている。
スポーツというのはそれ自身のルールの中で自己目的化されつつ、決してそれ自身から疎外されることなくプレイヤー、観客ともに同一化する契機を作り出す、人間が作ったものの中では最上級に近い文化様式の一つだと私は思う。この映画の作りに文句をいうところは数多いが、結構豪華なキャストを使って、素朴なスポーツ賛歌を直球で語る作法は立派と言うしかない。邦題の間抜けささえなければ、本来なら日本だけでも当たってよかった作品かもしれない。(20001/10/30)
参考:http://us.imdb.com/Title?0104694
先月中途半端に、この著者の「美濃牛」と「黒い仏」について茶々を入れたのを知人が読んだらしく、これを読まずに殊能将之を語るのは言語道断と、この本をわざわざ持ってきてくれた。タダで貰えるものならなんでも受け入れる私なので、早速読んでみる。
今まで2件の少女連続殺人事件を起こしている、シリアルキラー「ハサミ男(そうマスコミは呼ぶ)」の視点から書かれた物語である。被害者の喉に深々とハサミを突き刺す手口からそう呼ばれるこの殺人者は、あらたな被害者に目をつけてその身辺調査をしているのだが、その少女が自分の手口と全く同じやり方で殺されているのを発見する羽目になる。
倒叙ものかと思えば、事件が起こってからは殺人者による真犯人の追求という展開になり、警察小説の要素も加わり、最後はかなり外連味あふれる叙述トリックであることが判明する(この程度はネタバレとはいえないよね?)という、なかなか凝ったつくりである。
不思議なのは、この「ハサミ男」、強迫的なまでに自殺企図を繰り返す人間でもあるのだが、新しい殺人を行おうと下調べしていて、そのためにわざわざバイトを休む許可までもらっていて、急に自殺しようと行動を起こしたりする。やけくそでその場限りの荒れた生活を送っている人間ではないのだ。それなりの目的をもったまとまりある行動をしている人間が、その文脈の完結なり、途中放棄の理由もなく突発的行為を起こす、その不自然さがあまりに目に触る。おかしな奴はどれだけおかしな事をしてもいい、というのはちょっと困った前提である。目的を達した後、驚天動地のやり方で自死を図るための手段を集めて、予行演習している、というような記述だったらもっと収まりがいいのに。
話の中には、物語の進行とはあまり関係なく、音楽とか、ミステリィ関連の蘊蓄がちりばめられているが、その中でもひときわ浮いているジェイムズ・ティプトリー・ジュニアに関しての記述が気になり、もう一点、殺鼠剤服用の翌日の体験記述から、ある「伏線」をかんぐっていたら、最後は果たしてそのとおりであった。もちろん作者はそれ以上に韜晦の罠をめぐらせていて、そう一筋縄では全容は掴めないのだけれど。
たしかに面白いのだけれど、「アクロイド殺人事件」であれ、「ロートレック荘殺人事件」であれ、叙述トリックというものはフェアでないと思っている私にすれば、作者の情報管理で謎を無理やり作り出しているだけ、という評価以上にはならないな、やっぱり。
それと、これを言っても仕方がないのかもしれないが、主人公の「解離性人格障害」がおよそありえない内容であるのが、私の立場からすれば困ってしまうしかないのだ。この作者の才気水準なら、狂気は多彩な意匠で存在しえる、という陳腐な思い込みは、捨て去った上で人格像を作り上げていただきたいものだな、と思う。(2001/11/01)
他の作品のことを考えてみれば、この作者は、ミステリィの枠組みなんてものにはまるっきりこだわっておらず、文章の上で不可思議な謎を作り出すためならば、SFであろうがホラーファンタジーであろうが、純文観念小説系の手法であろうが使うのだから、上に書いた疑問など、見当外れと言うべきかも知れない。
作り事じゃないか、と小説に難癖つけているのと同じかも。でも、その作り事には一応の約束事があるから楽しめる、と言うのもまた事実だと思うけれど。
11日夜、WOWWOWでの放映である。冒頭、こまっしゃくれたガキが、台所で人形使って戦争ごっこしていたら、突然ローマのコロッセオに連れて行かれ、そこでゴート族との闘いに勝利したタイタス将軍の凱旋に出くわすという、ようわからんシーンから映画は始まる。
タイタスはゴート族の女王と、その三人息子を捕虜にしてきたのだが、タイタス自身21人もの息子を闘いで失っていて、彼らの鎮魂のため、女王の懇願にも耳を貸さず、その長男を処刑する。おりしもローマは皇帝崩御直後で、先帝の息子二人が後継争いの真っ最中。元老院と護民官たちは、タイタスを次の皇帝にと決めるのだが、彼はそれを固辞し、どう見てもオタクパープリンの長男、サターナイナスを皇帝にと推す。
それがケチのつき始め。就任そうそうバカ殿ぶり全開のサターナイナスと、その皇妃となってタイタス一族に復讐をはかるゴートの女王の策略で、自分の息子を殺す羽目になるわ、娘も手首と舌をちょんぎられてレイプされるわ、残った息子も長男を残して死刑になってしまうわの、どインケツ。悲しみのあまり狂気に陥ったかと見えるタイタスだが、これが策略で、バカ殿とそれをたらしこんだ元ゴートの女王とその二人の息子に、残酷な復讐を目論んでいたのだった、という話。
セットは使わず、ローマ時代の遺跡に現代建築(といっても第二次大戦前の未来派だけど)なんかをそのまま背景に使い、衣装もほとんど現代風、バイクにスポーツカー、戦車にシャンペン、ショットガンに拳銃が出てきたりする。でも元の話はかのシェイクスピアの戯曲で、それもほぼ忠実になぞっているようで、対話している人物が急にカメラ目線になって独白したりする、古典的な舞台劇のつくりである。運命の糸に操られて、無慈悲な残酷さに落ち込む悲劇を描いた、シェイクスピア劇そのものが味わえればいいので、映像はまあ付け足しのギミックだと思っておけば、金払って見てもそう腹は立たない部類の映画だったに違いない。でも商業的には絶対当たらなかったと思うな。もちろん、WOWWOWなら、マラソンで疲れて何もする気のない夕べを心地よく過ごさせてくれた名品といえる。
それと、女王の息子たちを殺してミートパイに料理し、女王に食わしてやろうとする時のタイタスの口元、そのワンカットのためにアンソニー・ホプキンスを選んだのだろうが、映画というのはちょっとした思い付きが山ほどの無駄金消費につながるものなのだな、というのが一番の感想。(2001/11/12)
「死の蔵書」で鮮烈なデビューを飾った著者、期待の新大作というふれこみ。葬式が長引いたときの暇つぶし用にと、二巻抱えていったが、長い上に登場人物も多く、まして昼間から酒のまされる状況で読んだので、何だかよく判らなんだ面が多々ある。
真珠湾攻撃をうけた直後の米国、戦時体制の色深まる中、よく判らぬ事情で放浪生活を送っていた小説家志望の青年、ジャック・デュラニーが主人公。彼はよく判らぬ経緯で留置場にいて、間違うと強制労働をくらいそうな状況。ある日放浪仲間のケンダルがよく判らぬ理由で弁護士を装って現れて告げるには、真珠湾で死んだ親友の恋人、ホリーが窮地に陥っているとのこと。ジャックはホリーを愛しており、彼女を救うために、ケンダルの助けをかりて脱獄する。ところがホリーはよく判らぬ理由で姿を消していて、ケンダルも殺されているのを発見する。
よく判らぬ根拠でホリーの居場所を推定し、そこに急行したジャックは、よく判らぬ成り行きから、地元ラジオ放送局にライターとして雇われる。そこで歌手としてローカルスターになっているホリーを発見するのだが、ホリーはよく判らぬことに、ジャックに知らないふりで接する。その上でジャックはラジオ局を舞台にした、過去の連続失踪事件の謎に出会うことになる。
ウッディ・アレンの映画、ラジオデイズで描かれていたような、ラジオ全盛時代の業界内幕ものの趣向もあり、主人公が途中から突如、ガンガンとライターとして頭角をあらわしていくサクセスストーリーもそれなりに面白い。米国というところは日本みたいに戸籍が無いからか、偽名でも何でも個人として存在証明が簡単に得られるらしく、来歴だとかはその本人にもあいまいな面があるらしい。
この著者の、「封印された数字」では、主人公のあいまいな過去の想起というのがひとつの軸になっていたが、今回も似たようなところがある。登場人物すべてについて、現在のそれなりにしっかりした機能的関係性があるのだが、それの全く別の意味合いが次第に明かされていく、という感じ。戦時体制でのスパイ事件を背景にしているのも、その雰囲気をうまく深めている。
もちろんそれは推理ものならすべて、善良な一関係者を装っているのが実は凶悪な犯人だった、というのが明かされていく過程といえるわけで、同じようなものではないか、と言われそうなのだけれど、この本の場合は犯人探しは二の次で、人々の表層的な振る舞いの持つ多義性を推理ものと言う型式で書いているのだろうかな、などと思わせる。その割には、中心人物がえらく類型的な行動原理を示してみたり、やたらに自己犠牲的だったり、よく判らんチグハグさも感じるけれども。
こんなに思い入れたっぷりに作られていたラジオというメディアがかってあり、その思い入れの受け皿まで立ち枯れさせたメディアの進化があった、と読み取れば充分なのかな、よく判らんけれど。(2001/11/26)
DVDソフトでの鑑賞。「飲食男女」(邦題:恋人たちの食卓)のアン・リー監督がおくる武侠映画である。「恋人たちの食卓」のほうはなんせ食い物関連の話なので、ちょっと前にCATVで時間を調べて必死になって観たのだが、こちらのほうは、剣の使い手が張り合うという、どーでもいい設定なので、そう期待もしていなかったのだが、まあ程ほどに面白い内容だった。
この話をひと言でまとめれば、「悪い乳母に唆されてダーク・サイドに落ちたお姫様をジェダイの師弟が救おうとする」話という長谷川町蔵氏のあまりに的確な要約がすべてと言え、そのお姫様がダークサイドに深く落ち込むきっかけになった(かどうかもあまりよく判らないのだが)、盗賊との出会いとその後の顛末がイマイチはっきりしないのが難点。お姫様に思いを寄せる盗賊の、荒野でのカッコよさと、ストーカー風にまつわりつくあたりの情けなさの落差がいかん。男なんかあんなもんだ、とも言えるが。
いわゆるワイヤーアクションと呼ばれる空中浮揚殺陣も、昭和30年代の実写版「鉄腕アトム」を観ている気分で、多少の矛盾など許す気持ちがないとちょっときつい。
この話も「飲食男女」みたいに、天才的能力は日常的生活にそう役立つものではないのだよ、というアン・リー監督自身の心情吐露だと思えばいいのかも。個人的希望としては、こちらの特撮を「飲食男女」のほうに使ってくれたら面白かったのに、とおもう。目にもとまらぬスピードで包丁をふるって空中に食材を放り投げ、厨房の壁をけって駆け上がった料理人がナベでうけて次々に料理を仕上げる、というシーンは想像しただけでかっこいいぞ(そうか?)。
別にこの映画でいうべき事ではないのだが、日本語ネイティブは結局視覚を介しないと充分な言語的理解は得られない、というのも思い知る。原題の「臥虎藏龍/Crouching Tiger, Hidden Dragon」というのでこの映画が目指すアレゴリーは充分示されるのだが、それを回避した「グリーン・デスティニー」なんて間抜けな邦題をつけた時点で、理解なんかせんでいいといっているようなものだ。登場人物についても同じで、チャン・ツィイー扮するお姫様の名前には「龍」という文字がはいっているんだそうな。多分他の登場人物でもそれなりの寓意が役名にあるのだろうが、日本語の貧しい表音システムではそれが表せない。これが中国語ネイティブなら、その洗練された平仄システムで、聞いただけで意味がわかるんだろうけれど。
どこのアホが始めた事なのかしらないが、せっかく漢字という共通の体系を使っている国々の人の名前まで、50音カナで表そうとする裏返しエスノセントリズムのおかげで、言語を超えた理解の可能性は明らかに狭められた。確かに周潤發をシュウジュンパツと読んで済ますのは問題だが、「チョウユンファ」とだけ呼んで、漢字経由で理解しえる最低限度の回路を無視しているのはもっと罪深い。そんな事を考えつつ、エンドタイトルロールにでてきた「監督 李安」と言う文字に心から安息を感じた私なのだった。(2001/12/02)
DVDでの鑑賞。DVD自体の問題なのか、PCの設定がまずいのか、それともこんなものなのか、地の会話部分の音量と、効果音、BGMの大きさのアンバランスが著しく、コントローラー出したままにして音量をつねにいじっていないといけなかったので、わずらわしくてしかたありませんでした、終わり、というのが第一印象。
つながりに必然性も合理性もない格好のいいシーンがドンドン続き、その場その場の決まり具合は申し分なく、しかもそれらは全部どこかで見たことがあるような気がする、というのもある種好ましい、と思いたい。気がするだけでなく、私みたいにTVでしか映画を見ない人間に指摘できるだけでも、引用というか、パクリは数多い。トム・クルーズが敵のNO.2にとっつかまって、親分にさんざんいたぶられて撃ち殺された、と思いきやそれは変装マスクを被せられた敵のNO.2だったというシーンは、格闘中に相手のマスクをどうやって準備したんだろうか、という疑問は別にして、「クロスゲージ」(原題:Most Wanted)という映画と全く同じだし(その場合は紙袋かなんか被せてたので、同じ疑問は出る余地なし)、最後半のバイクアクションなんか、ジョン・ウー自身の「ハード・ターゲット」そのまんま。しかもそれ自身、元ネタは絶対あれ、仮面ライダーだよな、と思わせる二重三重の引用の集積が素晴らしい、と思いたい。
かの鈴木清順カントクが自分の最新作をかたって、映画なんか筋だの必然性なんかにゴチャゴチャいうことはない、1シーン1シーンがきれいだったらいいんです、というような事をいっていたと思うのだけれど、それを敷衍すれば、その場その場で主人公がカッコよければそれでいい、という理念で作られた映画なんでしょうな、これは。
子供の頃から、怪獣ものとかヒーローアクションもののストーリー破綻をあげつらい、ヒーローの活躍に酔いしれるほかの連中から距離をおく、嫌味なガキだった私としては、なんとかこの手の映画で失われた純真さを取り戻すべく頑張ってみたのだけれど、やはり寂寞感がのこるのは否めない。(2001/12/13)
たしか「ゴースト・バスターズ」はこの監督だったんではないか。単純なおバカ映画にみせて、そこそこの広がりがあり、それでいてやっぱりおバカ、というパターンを予想したら、まさしくそう。
コンピューター会社のサポート係、エリオット(ブレンダン・フレイザー)は、いけてなさ加減並ではないいじめられキャラだが、同僚に何年ごしかの片思いをしていて、当然のごとく鼻も引っ掛けられない。そんなところにえらくセクシーな美女悪魔(エリザベス・ハーレー)があらわれ、魂を引き換えにするという契約のもと、別の人間に変身し、彼女の愛を得ようと悪戦苦闘、という物語。
ハムナプトラ1、2でアクションヒーローとして活躍したブレンダン・フレイザーの情けない演技が秀逸で、悪魔に願いをかなえてもらって変身する、コロンビアの麻薬王、NBAのスター選手、世界一繊細なバカ詩人、流行作家、アメリカ大統領という変化振りが大笑いである。エリザベス・ハーレーもなぜか意味なくケッタイなコスプレであらわれ、バカバカしさ(これには楽しめるのとそうでないのがあるが、この場合はもちろん楽しめるほう)に輪をかける。
悪魔に願いをかなえてもらうという設定は、短編小説などで無数にみることができるおなじみのものだ。そのほとんどは主人公の破滅かハッピーエンドという軸と、教訓的結末か悪徳礼賛かという軸の直交二次元グラフで表される分類に収まるようだ。もう一つ、トリックというか、ギミックに凝っているか否か、という軸を加えてもいいかもしれないが。
その分類からいくと、この映画はきわめて教訓的にして、ハッピーエンドの極みである。それほどのギミックも用意されていない。それでも全く嫌味でなく、登場人物すべて(悪魔さえも)を肯定的に受け入れられる作りになっている。さりげなく出てくる神様も、押し付けがましくなくていい感じだ。こんな神様なら付き合ってやってもいいな、と思わせる。
恋人同士で見に行けば、ほのぼのといい気分になれる、そんな狙いの映画だろう。いい歳のオッサンが一人で見ても耐えられるのは、ただただ「金を出していないから」に他ならないが。(2001/12/20)