コタツで寝転がってDVD鑑賞ができるようにと、暮れに韓国製のDVDプレイヤーを一万足らずで買っておいたのが大正解、この正月はDVD漬けである。もちろんソフトはすべて借り物。
まずは「ハンニバル」にとりかかる。ビロードっぽい仰々しいつくりの箱に、メイキングの映像の分まで別ディスクにして収めてある。どうせそんなもの見もしないので、実にもったいない、といって金出したわけではないけど。
原作をかなり手短にまとめてあって、そこで繰り返されていた主人公のしつこい了解心理学的な部分がない分、浅薄さから多少自由になってすっきりしたのかな、と思える。ハンニバルのクラリスにたいする思い入れが、イマイチよく理解できないのは同じこと。ましてこんどのクラリス役の女優だとよけいそう思う。
原作ではラストが大脱力だったが、手堅くまとめてあるこちらが多少上。この続きに第3作目をこしらえる余裕を残したというところか。気になるのは、レクター博士が揮発性麻酔剤で被害者を眠らせるところが2回出てくるのだが、あんなに短時間で人が昏倒するというのはちょっとありえない(ここなどを参照されたし)。
それと、蟹江敬三似のレイ・リオッタにレクターが与える仕打ちは、解剖学的にはちょっと無理なような気がする。頭蓋骨の下にはまず硬膜というのがあって、真ん中の部分は静脈洞という太目の静脈になっている。脳に循環する血液はそこに全部あつまるから、硬膜をくるりと取り外してしまえば、血液が流れ出る経路がなくなってしまう。開頭して生かしておくためには、静脈洞は温存させないといけません。それとか、肩をうたれたクラリスが、手を上げろと言われてもあがらんだろう、などとつまらぬ詮索してしまうのはいけませんな。
フィレンツェで、ダンテの「神曲」らしき、えらくイージーリスニングなオペラが上演されるシーンがあって、あんなの聞いたことがないな、と思っていたら、この映画のためにわざわざ5分間だけ作ったのだそうな。そういうトリヴィアルな凝り方はさすがにリドリー・スコット。(2002/01/01)
この著者は、私が関西で最後にくらしていた街の近くに書斎をかまえておられるらしい、という理由だけでひいきなのである。聞いたこともない高校でも、住んでいたところから来ていたら、よくルールのわからないラグビーの試合でも応援してしまうようなものだ。
そのうえ、内容が誰でも口出ししたがる言語の問題であるのだから、興味はたかまるばかり。もちろん、著者は中国文学・中国語学の専門家であって、門外漢向けにちらりと示される傍証はわかりやすくて深遠、それ以上にことばそのものへの愛情の深さがうかがえる文体が、まことに小気味よい。
内容は著者が別の本でもくりかえし言っておられることで、私なんかもしばしば窃用させていただいている主張をまとめたものだ。それは、日本語の語彙は、音声だけでは意味がとおらず、文字のうらづけなしには成り立たない、世界唯一とも言える言語だというものだ。
言語学は口に出して発音されることばだけを対象にする、というきまりがあって、その前提は、言語は文字抜きで充分役割をはたす、ということなのだが、日本語の場合はちがうのだ。
それは日本語がもともと極めて音韻要素が貧弱であって、そのうえに発達が未熟な段階で、中国語というきわめて成熟した体系の言語に出会い、それがまるっきり法則の違う言語であったにもかかわらず、その文字システムを頂いてしまった、というのが第一の原因。第二の原因が明治維新で、ヨーロッパ語を翻訳するために和製漢語を創作しまくり、日本語語彙の大部分がそのときの創作漢語によって占められてしまったためである。
脈絡なしに「インビなセイコウ」といわれても、「淫靡な性交」なのか「隠微な性行」なのか文字をしめされないとわからない。実際は前後関係や言いまわしのポピュラーさなどから、みな無意識のうちに判断しているわけだが、その際必ず頭の中では文字が(あいまいではあれ)参照されている、という指摘は鋭い。もっとも、私が入門書などを斜め読みしたことしかないから無知なだけで、日本の言語学では自明のことなのかもしれないけれど。
日本人の多くが(少なくとも私は)、外国語習熟が極めて困難なのも、この「文字を頭の中で参照しようとする」くせと関係があるのではないか、と私はおもう。まえに短期間ドイツにいったとき、はじめはまるっきりチンプンカンプンだったドイツ人たちの言葉が、滞在一週間目ぐらいに部分的に聞き取れるようになったのだが、そのとき頭の中を"Dieses Museum ist sehr gut."などというような教科書の例文がテロップのように流れていくのを確かに感じたのだ。逆にいうと、そういうテロップが流れてくれるようなことばでないと、さっぱりわからんのだけれど。
言語学者たちが、この本の内容にどのような評価をするのかはしらない。でもいいじゃないか、ルールをしらないスポーツ試合だって、縁のある人たちがやっていれば応援したくなる。まして自分の体験にてらしても納得がいってしまうような内容なら、そこはありがたく拝聴すべきだろう。
なお、著者はそういう日本語の宿命にたいして、「腐れ縁」なのだから付き合っていくしかないといい、漢字の制限などによる「国語改革」には批判的(と言うより嘲笑的)態度をとっている。もちろん、無意味な漢字多用もつよく批判していて、文体もその原則をつらぬいている。私もまねしているつもりなんだけれど、ちょっと原則がわからないところもある、というのが正直なところ。(2001/01/04)
昨日、CSN1ムービーチャンネルにて視聴。冒頭、大学生仲良し劇団グループが、大晦日パーティでバカ芸を披露しているシーンではじまり、10年後、貴族階級出のリーダー、ピーターが爵位を引きつぐ機会に、昔の仲間を自分の館によんでパーティをひらくという、仲間それぞれのドラマを個別に描く「グランドホテル型式」に、去りゆく青春の感傷を皆であたためあうという要素をくわえた映画。
シェイクスピア役者として知られるケネス・ブラナーが監督・出演していて、当時の嫁さん、芸達者のエマ・トンプソンとか、「ホゲホゲ法律事務所(これはCATVで放映されていたイギリス馬鹿コメディ)」のイメルダ・スタウントン(この人、『恋に落ちたシェイクスピア』で乳母役やってた)なんかも出ているので、もっぱら舞台俳優向けの相互扶助映画なのだと思う。作りもとことん舞台劇風。
集まった仲間たちは、さすがにケンブリッジ大学卒、程ほどの成功者ばかりなのだが、10年の間にそれぞれの風雪を蓄積していて、さまざまな事情を抱えている。それぞれのサブプロットを、カットバックもつかわずにうまく説明しつつ、全体の流れをつくっていく手法は、最後あたりでちょっとだれるとはいえ、見事なものである。
「ハワーズ・エンド」とか「日の名残り」などの(大概の人はこの二つ、ゴッチャになっていると思うが)、イギリス貴族文化ものが好きな人は、特に気に入るに違いない。「TVチャンピオン・パチンコ王選手権」ぐらいしか見るものがないのか、とがっくりきていた夜にこういうのがあると、ホント得した気分。
それにしても、ケンブリッジ大学の終業時期は大晦日なのだろうか。(2002/01/18)
著者はうつ病の治療歴があるんだそうで、何度かの再発をへるなかで、精神科医の中にはとてつもなく臨床能力がおとる人間がいる、と言うことに気づいたようだ。それ以上に、そもそも精神科医の専門知識というのはまるっきりたいしたことがない、というのにも気づいたようだ。しばらくプロとして患者をやってればわかるようなお寒い知識を振り回して、でかい顔をし、しかもかなりの確率で、その単純な作業すらこなせない奴らがいるというのに彼女はいたく憤激しておられる。
そうだなぁ、ごく基本的なことさえ押さえておけば、精神科医というのはそれほど新知見をフォローしておかないといけないってこともないし、他科と比べて時間的にも余裕があるし、よっぽどのチョンボをしない限り、訴訟にさらされることもないものなぁ。中途半端な事情痛から、あんなこと誰にでも出来ると思われても仕方ないなぁ。実際、やろうと思えば誰にでも出来るのだし。
私は精神科医の仕事と言うのは「何にもしないこと」だ、と割り切っていて、患者側の自己決定を見守ることがなしうるすべてだと思っている。そこでつまらん虚飾をして、なにか能動的に人を変えていけるかのようにいう連中は気に入らないし、付き合いもしないし、当然競い合って誰も読まない論文かいたりもしない(だれも読まないサイトつくったりするけど)。
著者が槍玉にあげている、マスコミに売れることを自己目的にしている(とおもえる)医師たちや、有名人ではないがその位置をねらっているらしきスットコドッコイ連中のバカさ加減を見聞きする機会にも多く恵まれ、その一部には実際にえらい被害を受けたこともある。でも、バカはどんな業界にもいるはずだし、たまにはそのバカの役回りが、自分に回ってくることだってある、というのは自分の職業に誠実であろうとしている人間は多かれ少なかれ感じることではないだろうか。
この著者は論理と言うものにはあまり関心がないようで、本の内容は上に書いたようなはなはだ正当ともいえる怨念以外は、すべて支離滅裂のオンパレードである。彼女がまな板に載せるのはもっぱら精神療法派の医者たちで、フロイトを評価するようなその前時代センスをあざけり、身体的精神医学の正当性を繰り返し、分裂病研究はいまやクレペリン再評価の時代とまでいう。
精神医学はいつだって身体的研究を軸に進んできたし、フロイトなんぞが中心になったことなど一度もない。アメリカで隆盛を誇ったように見えるのは、一種の社会文化的現象であって、あちらだって精神医学の本流はそんなところにはなかったのである。決して治らない脳病という、クレペリンの確信のもとに研究がされていた。もちろんいまも同じである。
彼女が憤る精神医学の現状をつくったのは、まさしくそうした身体的精神医学を中心に進んできた正統的学界それ自体なのだ。彼女はどうも精神分析のような治療手段を僭称する精神療法と、もっと一般的な精神療法や、カウンセリングと俗称される対応の区別は全くつかないようで、それはそういう立場の言葉を定義もいい加減に、適当に都合のいいところたけ拝借してきてデタラメをいっている、彼女の批判対象がそうなのだから仕方がないが、一言でいえばいい勝負である。ここまで感情論だけで無論理な悪罵の連続を見ていると、田中前外相にとっちめられる外務省官僚の気持ちがなんとなくわかるような気になってくる。
細かなことをいってもしょうがないのだが、彼女が例に挙げる知り合いの知り合いという分裂病症例はそもそも診断からしてデタラメに思える。当然治療もデタラメのようで、かなり特殊な医療との依存と反発関係にはまり込んだ人なのではないか(もしかしたら、かなり作為的に)。どうもその人の精神医学理解が著者にかなり影響を与えているようなので、ちょっとめぐり合わせが悪いな、と言う感じ。別に示されている「悪性症候群」の例もちょっと噴飯ものである。一晩点滴しておさまる、あんな気楽な「悪性症候群」があったら楽でいいだろう。
「人格障害」という診断名への噛み付き方、「人格が障害されているというなら、さぞかしあなた方は立派な人格をお持ちなのでしょうね」というような言い方は彼女の没論理の典型である。あなた、勝手に自分の理解の方向に意味をねじまげて、そこで見当外れに怒ってみたってしょうがないでしょうが。だれも「人格者」などというときの意味で「人格障害」と言う言葉を使ってないのだから。
また、著者はいわゆる個々の医師の「経験治療」や「私の処方」を攻撃し、客観的基準のあるEBM(Evidence Based Medicine)を唯一無二のものだとする。これにもかなりの勘違いがある、と私は思う。大体、この著者は欧米を医学先進国だと思っていて、これらの国がEBMを全面的に取り入れているから日本もそうすべきだという。たしかに、金とマンパワーを湯水のように使う先進医療はこれらの国が上だろう。しかし、総合的効率性と平等性という観点からすれば、日本の医療はそう捨てたものではない。平均寿命を見れば一目瞭然だ。
少なくとも米国の医療制度、とりわけ精神医療の分野は惨憺たる失敗、というのが専門家の間では定説である。かの国のホームレスたちは、かなりの部分、医療制度から疎外された精神障害者がしめる。中産階級以上の階層は、日本の十数倍の医療費をはらってそれなりの先進医療を受けることも出来よう。そうでない人々にとっては、医療は限られた救貧施設や、気を緩めると臓器刈り取りを狙われるようなところで受けるしかない。
それはさておき、EBMである。客観的とは言うものの、統計的に示された薬効とか治療法の有効性というのは、他人がさらに他人に対して行ったある時点での結果であるに過ぎない。物理学の実験をしているのではないのである。再現性とか、普遍性などだれも保障しない。統計的傾向でしかないのである。
EBMによる処方なり、治療法の選択というのは、極端に言えば、「ほかの人には効くんだから、あんたにもそれが効く」という右へ倣えの押し付けである。それに、EBM的検証が、こまごまとした条件選択にすべて用意されているわけではない。たとえばある薬の有効性をEBMが示唆しているからといって、至適投与量まで検証している事はまれである。
結局判断するのは「経験」なのだ。客観的基準といっても、主観的判断の材料でしかなく、自分の経験を反省材料としながら「私の処方」を鍛えていくしかない。もちろん最終的にそれを判断するのは投与される患者側であるが、残念なことに彼らは自分の例しか知らない。自分の経験をわかりやすく情報として示せないような治療者は困ったものだし、鍛えた職人芸へのリスペクト(もちろん、そうする事は厳しい批評が前提だ)を知らぬ、かたくなな人はもっと困ったものなのである。
まあ、ある種の精神科医たちにはかなりダメージを与える本であろう。これに反論できないような医師はまず転科した方がいい。どうせ別の科でもたいしたことはできないでしょうけど。ここで著者の主張を肯定的に取り入れて結びとするならこうなる。精神科医はいらない。ただ臨床医がいるのだ、と。(2002/02/06 2/7追加)
2月11日、WOWWOWで視聴。ジャンルを強いていえばSFということになるのだろう。1969年、NYメッツがワールドシリーズに出場した年、野球選手を夢見ていた六歳のジョンは、消防士の父を殉職で失う。三十年後NY市警の殺人課刑事となったジョンは、物置で父親が趣味にしていたアマチュア無線の古ぼけた機械を見つける。おりしも季節外れ場所外れのオーロラがNYに出現し、その無線機からは三十年前の父親の声が聞こえてくるのだった……という話。
主人公が父親の殉職をタイムパトロールがいたら罰せられるような手段で回避し、めでたしめでたしと思っていたら予想もしなかった次なる難題が、という感じで、ちょうどバックトゥーフューチャーみたいなのりで話は進む。こちらは、もちょっと深刻ですけどね。歴史を変えても、変えた本人の記憶は変わらない、というタイムパラドックス回避になってるのかならないのよくわからん設定、というのも同じ。
物置から出てきた無線機というのが、あんまりちゃんと写してくれないのではっきりいえないが、コリンズ社のKWM-2という名機ではないかと思うのだが、あれは確か電源部は別だったはずで、単体でどうして機能するのだろうかとか、30年もまえのアンテナタワーがメンテもなくよくもっているものだ、などと疑問は尽きないのだ。VOX(音声コントロールで送受信を切り替える装置)を使ってる様子もなく、その上同時相方向通信しているのも妙ではある。
細かいことはよしとして、基本的にこの映画がもくろんでいるのは、アイルランド系中産階級という、米国のある意味での二次的保守階層のよりよき追憶の日々を回復する、ということなんだろうな、と感じた。気になったのは、60年代後半に、あそこまで黒人にたいして社会が開かれていたのだろうか、という点。対WASPという姿勢もあるのだろうが、そりゃちょっと自分らを美化しすぎだろうが、と思わないでもない。
でも、無線機のカバーをはずしたとき見える真空管の、ほのかなフィラメントの明かりがとってもチャーミングで、これを経験するために、いったいどれだけの時間を昔浪費しただろうか、なんていう思い出をたっぷり想起させてくれるものだったので、私の中ではこの映画はとても素晴らしい出来であったと分類されるのです。(2002/02/12 2/25追加)
先々日WOWWOWで視聴。シェイクスピアの「じゃじゃ馬ならし」を、ハイスクール学園ものに翻案したもの。舞台になるパドゥア高校ってのが、ハリーポッターを撮ってもいいんじゃないか、と思うぐらいの荘厳なつくりになってるのが面白い。
男嫌いの変わり者の姉がデートするならお前もしていい、と父親から事実上デート禁止令を言い渡されている女の子のために、彼女に一目ぼれした転校生が、札付きの不良を雇って姉とデートさせる、という他愛のない話なのだけれど、シェイクスピアがネタ元ならそれなりに小技がちりばめられているだろう、と最後まで見続ける。結局ゴシックな校舎とバカ話の対比以外には、たいした小技も大技も出て来はせず、こんな映画商売になったのかいな、と多少の当惑を残すばかり。もちろんTVで見る分には充分ですけど。
考えてみればこうした学園もの、というのは米映画のひとつのジャンルといえるが、日本映画には同じようなものがない。「若大将シリーズ」とか、「金八先生」があるだろうと言われるかもしれないが、学園を完結した社会として描いていないところで決定的な違いがあるように思う。学園生活を全世界として生きる人物の視点がないのだ。日本で対応するのは唯一、「ちびまるこちゃん」だけではないかな。
その違いを生み出すのは、日本の学校制度がその中に自立した社会を形成しておらず、そうさせていく意図すらないことだ、といえる。そこで生まれる物語は必然的に、ある制度なり倫理なりにアノミー集団を服従させるような新兵訓練ものとか、制度から大きく逸脱した特殊例の非現実的活躍を描くようなものになる。「ちびまるこちゃん」がそこから逃れられたのは、小学校低学年と言う設定のおかげで、主人公周辺だけに限定して「社会」を取り出したからといえよう。
などと小難しく考えでもしないと、これをアハハと見ているだけでは脳みそにスが入ってしまいそう、という危機感をもたらしてくれる点では名作。原題の"10 Things I Hate About You"というのは「じゃじゃ馬ならし」の"Taming Of The Shrew"の洒落になってるというんだが、TとUの音だけみたいな。(2002/02/17)
借り物DVDでの視聴。かのマーチン・スコセッシが監督し、脚本はポール・シュレーダー、ということは76年の「タクシー・ドライバー」黄金コンビ。その上、舞台はニューヨーク、ヤク中、売春婦、ホームレス渦巻く街を「流す」(向こうの救急車って、流し営業してるのね)救命士が主人公となると、かの名作への自己オマージュなのだろう、もしかしたらそれを上回る傑作なのでは、という期待で見たのだが、ありていにいってなんじゃこら、である。
そもそも、NY自体が90年中ごろにえらくおしゃれな街に変身してしまったらしく、タクシー・ドライバーやこの作品に見られるような猥雑さは見る影もないらしい。したがって映画冒頭に「これは1992年当時のNYを舞台にした……」などと無粋なテロップがはいり、うそ臭さ全開の導入となってしまう。
主人公は救命士のフランク(ニコラス・ケージ)で、こいつは喘息発作の少女の挿管処置で、もたもたと食道挿管ミスを繰りかえしているうちに死なしてしまった、という負い目のため、すっかり神経症状態。街いく人がみなその少女にみえるわ、自分を責める幻聴が聞こえるわで、辞めるきっかけをつくろうと無茶ばっかりしている。同僚はほとんどぶっ飛んだ連中ばっかで、さっぱり助けにはならない、という設定。
前のトラビスは孤独な都市生活のなかで、じわじわと狂気を発展させ、異常行動を準備していくのだが、こちらははじめからほとんど擦り切れ状態で、最後はケッタイな衝動的行為(といいつつ計画的でもあったようだけど)を通じて自分を何とか取り戻す。その辺の経過がまるっきり説明省略されていて、見ているほうは当惑するしかない。まあ、世の中あんなに必死に任務に向かい合っていたら、持つものも持ちませんわなぁ、多少の逸脱ぐらいないと、やってられまへんがな、ということで済ますのかな。
このサイト的には書き忘れてはならないのが、これは「満月の魔力」というものを前提に作られた、都市伝説映画であるということ。映画は、回想部分を別にして、木曜深夜から日曜早朝までの50時間ちょっとの時間経過だけをおっていて、土曜の夜は満月だという設定になっている。そして登場人物はみな、満月の夜にはおかしなことがいっぱい起こると、本当に信じているのである。
フランクはその満月の夜に、無理やり、なかばは自発的に、勤務につかされる。そしてその月の魔力にせかされてか、いかれたホームレスへの尽力的顧慮をほどこし、さらには以前命だけは救った昏睡患者に、虚無的超越的解決をあたえるという、双極的な逸脱的行為にはしり、結果として自己救済をえる。説明がないから何の事やらわからんと文句いえば、満月の魔力を信じる、救急パラメディックたちの内的妥当的構造を前提にしてつくっているんだ、と監督は言うかもしれない。でもやっぱり、それでは主人公の内面が煮詰まっていく背景としては弱いといわざるを得ないけれど。
とにかく見つづけるのも苦痛、というほどではなく、タクシー・ドライバーとくらべるから肩透かし、というだけ。ただ、ニコラス・ケージの真面目なのか不真面目なのかわからない風貌ではかなり損をした、と思うけれど。風貌と言えば、スコセッシ監督は荒井注ににている。変にけなしたりすると、なんだこの野郎、と怒鳴られそう。(2002/02/21)
知人から何冊か本をゆずりうける。私はとにかく惰性的読者で、読んだ事のある作者とか、一定の評価が固まっているようなものしか読まず、話題のミステリとかにまるっきり不案内なので、ちょっとは勉強してみろ、というのである。そのなかのひとつがこれ。メフィスト賞というのをもらったらしい。
中世中東を舞台に、イスラム修行者を主人公にすえたその設定が新鮮で、司馬遼太郎の文体模写そのまんまですすむ描写は、とてもミステリとはおもえない。イスラム神秘主義者の修行生活をエキゾチックに描く、司馬オマージュの歴史ファンタジーなんだろうな、と思って読み進むと突然連続殺人事件が起こったりするので、いささか怪訝な思いにとらわれる。推理劇になると司馬文体が引っ込んでしまうのが多少残念。
おそらく作者の目論みは、殺人事件の解明という枠組みを借りて、神秘的教義の世界を背景にした物語を作るところにあるのだろう。でもこの作者、本当にイスラム世界が好きなんだろうか?という疑問が残るけれど。変に深くせずに、もっと上っ面の知識を連ねて、イスラム版「修道士カドフェル」みたいなものにしてくれていたら、ファンになったかも。
些細なところでは、改行をくりかえし、文頭で三点リーダによる省略、文中では全角二重ダッシュによる併置などを多用すると、かなり簡単に司馬遼太郎文体模写ができる、というのがよくわかって大変面白うございました。(2002/03/15)
著者はバカと言うのを、無知ではなく、「自分だけが後生大事の『自分』バカのこと」と規定している。「自分が正しいと信じて疑わぬバカ、自分から一ミリも外にでようとしないバカ、恥を知らないバカ、自分で考えようとしないバカ」のことをいうのだと。
そしてこれらのバカは決まったように「俺はバカだから」と自称し、「もうバカばっかりやってますよ」と自嘲するのだと。こうした謙遜をよそおったいやらしい居直りに、まさしくバカがそのまま現象していると厳しく指摘する。
ネットを広く(せまくたっていいけど)見渡せば、個人サイトはみなこの、自称バカによる自称バカのための自称バカサイトがほとんど、といってもいい。たとえば「ダメ人間」で検索してみたら、数万単位のヒット確実である。私自身、ダメ人間トホホ言説というのにしばしば誘惑され、事実そうした記載にしばしばおちこむことがよくあるが、そうした文章は結局自分をダークサイドの陥穽にみちびくものだとおもうので、必死になって自制しているつもりだ。まあシャレ程度にはちりばめますけど。
自分の立場で何かを、それも他人の言説やら行動やらのおろかさを指摘し、批判するというのはとても消耗する作業である。医療従事者としての専門性みたいなところから発言するのは比較的簡単で、ある種の逃げ場があるからだと自分でも思う。自分の思考と感覚を信じ、それを研ぎ澄ます作業をしていくしかないのだろう。思い上がった薄っぺらい論理に傲慢にしがみつくだけなら、それは「自分バカ」がいつもやってることなのだし。
そうけれん味あふれる記述もなく、あったりまえのことが書いてあるだけで、帯にあるような「抱腹絶倒の『当世バカ』図表!」というのはいささか誇大なように思われるが、ある種の勇気は確かに与えてくれる本である。(2002/03/18)
ビジネス本の中には、「なぜ金持ちになろうとしないのか」とか「大物になるための10ヶ条」というような類のものがある。たしか雑誌でもその手の成功早道秘訣を教えるようなものが、いくつかあったのではないか。絶対に儲かる投資を勧める電話セールスと同じように、そんなうまい方法があるなら著者が自分で先に実践しているだろうし、仮に大成功した人間がそれをやっていたら、嫌味な自慢話でしかない。何か世の中には努力とか才能抜きでもおいしいところを味わえるような、うまい話がどこかにあるに違いないという尽きせぬ欲望がその手の本をそこそこ売れるものにするのだろう。
それとほぼ同じ構造をもって売られ続けるのが、表題のような最新科学理論をやさしく啓蒙するタイプの本であろう。前段のような本が人の欲に付け込むとするなら、この手の本が付け込むのは人のバカさである。欲と同じようにバカも人には無尽蔵なので、専門分野の最新知識も自分のものになるに違いない、という決してかなえられることのない期待(これも欲の一つではあろうが)に突き動かされ、またもこんな本を買ってしまうのである。
いったい、子供時代からこの手の本を何冊買ったろう。ガモフなどの有名どころから、「子供の科学」の解説まで、けっこう必死になって読み倒したのに、私の頭の中にはどんな具体的理解も結ばれていないのだ。それは夢多き子供時代ならまだ許されても、自分にその手の能力が欠落していることにとっくに気づいているはずのオヤジになってまで、まだ同じことを繰り返しているのだから、自分でもあきれてしまう。
この本は「超ひも理論」という、一般相対性理論と量子力学を総合し、ついでに宇宙の創造とその行く先まで説明してしまう可能性がある(らしい)物理理論を、数式の一つすら出さずに解説してくれている。もちろんこちらは数式など出されたらどないにもならないわけで、著者が比喩やら極端な単純化で語ってくれる理論のイメージをなんとか感じ取るだけである。そしてそれはおそらく元の理論とはまるきり無関係な誤解として、頭のなかを通り過ぎるだけで終わるのである。
その誤解の成果を開陳すれば、この「超ひも理論」では、ある大きさを持つわっかになったひもの振動パターンとしてすべての素粒子を規定する。既存の物理学にあるような無限小の存在がなくなるので、量子力学的時空の不確定性を考えなくていい。また時空は時間を含めた4次元だけでなく、最低11次元あるとされ、残りの7次元は「巻き取られている」のだと。ビッグバンというのも、無から世界がはじまったわけではなく、無限の広がりの中で、巻き取られていた時空の4次元が、ひもの束縛をはなれて展開していったのだと。半径Rの宇宙と半径1/Rの宇宙では、その物理学的特性になんの差もない、などという話もある。いやはや素晴らしい。
世の中には凡人が決して理解できないことがあって、多くの俊英がその難問を解決すべく優秀な頭脳を働かせているらしい。その俊英たちの意図は、宇宙の物理的理屈というものを、人間の脳みそが感じる「美しさ」に向かってまとめ上げようとするものらしい、というのに不可解さと当然さをごちゃ混ぜにした感覚を感じるだけの私なのだった。(2002/03/20)
J・ケラーマンも惰性的に読む作家の一人である。この人は本来小児臨床心理学の専門家だが、ガキ相手にも飽きたのか、いまは作家専従になっているようだ。この嫁さんも作家で、一度読み出したことがあるが挫折してしまった。設定の妙といえなくもない、ユダヤ人コミュニティのチンタラした話に興味をもてなかった。考えてみればそれは旦那のほうも似たようなもので、こちらの場合は、小児臨床心理療法家である主人公が、かなり大胆な冒険に巻き込まれるという、ちょっと無理がある業界設定が面白くて読んでいるのである。
いままで10作以上小児心理療法医アレックス・デラウエアのシリーズが出ていて、そのすべてを読んでいるのだが、その内容はまるっきり覚えていない。たしかシリーズものとは別に、エルサレムを舞台にした警察小説もひとつ書いていて(「殺人劇場」という題だった)、それはなかなかよかった。その理由は、ここまで弱者への視線を強調して、フェミニズムとか、ゲイ問題への物分りのいい公平な姿勢を前面に出す人が、ユダヤ国家の正当性を少しも疑わない立場に何の矛盾なく立てるものなのだ、という一種の驚嘆にあった。そりゃ自分とその仲間うちがいい目にあえる、という前提さえ守られれば、人間物分りのいいことなどいくらでも言ってられるよな、と感心したものだ。日本型進歩主義ってのはまさしくそれだもの、という共犯関係確認みたいな気分でいまだに読んでいるのである。
この新編は、アレックスシリーズがいささかマンネリとなったのを受けたのか、ハリウッド警察の女性刑事といういう新キャラクターを主人公に持ってきている。それほどしつこくない葛藤を抱え込ませてあったりするのは、この作家としてははずせない一点だろう。アレックスシリーズでもそうだが、この作家はあっさりレベルの了解心理学と、つきはなさない程度の性格類型学をうまくアレンジして登場人物を造形していて実にわかりやすく、おどろおどろしいサイコスリラーの一歩手前で、上手に心理的偏倚の持ち主を日常生活に泳がしているのである。
そこそこのリベラル進歩主義にたち、こまやかに類型的心理を描き、そう不愉快な読後感も残さず、かなり深刻な異常行動を解明し解決するという、まあまあのレストランで上物のカリフォルニアワイン傾けつつ、ちょっと気後れを感じないでもないメンバーとシーフードを食べているような感覚がこの作家の身上なのだろう。
この小説では、犯人は始めから判っているし、それでもけっこう二転三転と謎はでてくるし、もう一人の主人公である薄幸の少年の運命には、ちょっとしたシンデレラ物語まで用意されているし、読者はできる限り早く読み終える努力さえすれば(途中でダレるといけないかも)、程々の満足感がえられるという、ケラーマンの奥の手続出である。あとはワイン頭痛に顔をしかめながら、さっさと寝てしまえばいいだけなのである。悪夢なんか絶対見ないことを保障してもいい。(2002/03/27)
DVDで借りて見たのだが、酔っ払っていたので翌日になると見たことすら忘れていたのだった。なんか悪の秘密結社が時間を支配する古代のマシンを手に入れようとしていて、それに女インディ・ジョーンズ的主人公が戦いを挑むような話だった。
主人公というのがでっかい屋敷に執事とオタク系メカ担当スタッフまで用意しているバットマン系の富豪プロフェッショナルで(専門は何かわからないけれど)、どうもこの人のことはある程度知っているのが前提のつくりなのである。導入部なんかをみると、ゲームのキャラなのかとおもったり。
数千年前に作られ、惑星直列の時だけに動作するというたいそうな秘密機械が、なぜか千年ちょっとしか歴史のないアンコール・ワットに隠されていたりするのはご愛嬌、なぜか最後は北極あたりで決戦をしていたような気がするのだが、その辺の必然性などさっぱりわからぬまま話は進むのである。ストーリーに集中していないこちらが悪いのだが、とてもそうする気にはならないつくりであるのは、見た人なら認めてくれると思う。
主人公を演じているのが、ジョン・ボイトの娘さんで、「ボーン・コレクター」という、これまたストーリーの必然性に根本的無理のあるような映画で見たことのある人なのだが、すくなくともこちらの映画の無意味なこけおどし属性のほうに適性があるのだけは確実なのである。オヤジのジョン・ボイトはいい役者だと思いますがね。「チャンプ」で子役が"Champ !, Wake up !"と叫ぶシーン思い出すだけで泣けてくるぐらいで。あ、本人の演技とは関係ないか。
最近はこの人、出てくればこいつが悪者に違いない、と見当つけられるような役柄ばっかで、今回も主人公のオヤジ役で出てはいるのだが、一番悪いのは絶対こいつだ、と決め付けていたら、結局いいオヤジであったことがわかり、ただただ「ととさま恋しや」のファザコン主人公の行動原理が正当化されるのだった。
それにしてもアンジェリーナ・ジョリィ、「ボーン・コレクター」のときはあんなにオッパイでかくなかったがなぁ。「ボイジャー」のセブンオブナインとおんなじようなパッドいり密着衣装を着ているのか、全然セクシャルでない二次性徴強調なのである。いったいどういう対象をねらってああいう格好をさせるのか、ちょっと意図を聞きたいような気もするのである。(2002/04/03)
正直言うと、本屋で立ち読みしただけ。この人の「声に出して読みたい日本語」というやつももう一つ気に入らず、柳の下に二匹目のドジョウをねらう姿勢がみえみえのこれも当然気に入らない。
「声に出して…」がなんで気に入らないかといえば、言語は口述が本来のものだというのはそのとおりだけれど、それは同時にコミュニケーションを前提とするものでもあるはずで、たとえ香具師の口上であっても、観客との微妙な掛け合いというのものがあるからこそ生き生きとしたものになるはずで、一人がたりなら文字にとどめられたものと差などない、と思うからだ。そんなに声に出すのが素敵なことなら、本なんかにせずCDにしたらいいのに、などと嫌味をいいたくなる。
「三色ボールペン…」は単純に、この手の作業が私には不可能だから。色を変えて線引きながら本なんか読めますか。私は自慢ではないが、字も下手だがそれ以前に造形能力が欠如していて、フリーハンドでねらったところにまっすぐ線を引くということが出来ない。その上に、読んでいる文章の大事なところをうまく抽出する作業なんかまるっきり不得手で、昔読んだ本を読み返して、見当外れのところに歪んだ線が引かれているのを見つけたりすると絶望的な気分になるので、だいぶ前からマーキングはしないことにしている。ここは引用に都合がいい、と思ったらポストイットを貼るぐらい。これだったらページ開かなくてもわかるもの。
大体、文章に線を引くというのは、中学高校の国語の試験問題などからの発想ではないだろうか。「下線部分の意味を20字以内に要約せよ」とかいうやつだ。ああいうこせこせした文章の読みかたを、自分で選んだ本にまで適用するこたぁないと思いますがね。ましてそれをさらに細かく色まで変えて、「客観的に重要」とか、「主観的におもしろい」などと意味づけしようとするのだ。私ならどうせそんなこと決めたって、何色がなんだったかなんてすぐに忘れてしまうし、客観もくそも、全部自分の主観でしかないのだから、つまらん分類などしても意味などないではないか。
本なんてものは、資料としてつかうのでないかぎり、行きつ戻りつ、あれ、ここ読んだっけなどと自問自答しながら、著者の助けを借りて自分の世界を作るものであって、一字一句にこだわるような読みかたからは自由でありたいな、とおもう。
この著者、声に出して読むとき、大事だと思うところはきっと「声色を変える」に違いない。(2002/04/15)
面白いTV番組がないのに業を煮やし、DVDになっている「ダーク・エンジェル」全11巻を二日間で全部見る、という暴挙をなす。くだくだしいところは早送りできるし、毛唐の顔を覚えられない私にも、さすがこれだけ何度も同じ奴が出てくれば一応人物関係の把握も出来るし、なかなかおもしろくみられた。普通の映画でも、編集前のだらだら話をリリースして、ザッピングでみればもっと面白いのかもしれないなぁ。
監督のジェームズ・キャメロンはリドリー・スコットの「ブレード・ランナー」へのオマージュとしてこれをつくったのだそうで、時代設定をそれに重ねているそうな。それはいいのだが、TV映画としては破格の制作費をかけ、テロで経済破綻し、荒廃した近未来のアメリカを描いたという割には、ドラム缶で焚き火しているホームレスがあふれる街の風景にそんなに金がかかっているともおもえず、ちょっと引きの画面になると瀟洒なシアトルの街並みがそのままだったりして、制作費の大半は適当な理由つけてトンネル会社で回収したんではないか、なんて考えてしまうようなつくりなのだ。
画像的にも、「マックス・ヘッドルーム」あたりそのままですもんね。DNA操作で作り出されたという設定の、主人公のマックスを演じているジェシカ・アルバの、ラテン系やらインディオ系なんかがかなり混じりこんでいるとみえる、そのエキゾチックな風貌が多少見所というところか。でも連続ものとしてうまく興味を引っ張る構成になっているので、2日間延べ10時間以上を楽しむことは出来たんですが。これを毎週ぶつ切りで見させられたら、たまらんだろうけど。
それにしてもこの主人公、華奢な体に似合わない、オッパイのでかさをやたらに強調した衣装で現れるのだ。立ち姿がちょっとバランス崩れているぐらい。あのオッパイでは格闘技のさいバランスを崩すんではないか。ジェームズ・キャメロンという人は強い女に妙なこだわりを見せる人で、そこで中性的な女性が活躍したんではいかん、と心に強く決するところがあるようだ。単にああいうのがキョービのはやりなのかな、というのはこの前の「トゥーム・レイダー」で感じたことではありますが。
全然関係ないけれど、このドラマ、完全脊損の人との性行為への誘惑がしばしばテーマになるのだけれど、それはちょっと無理なんではないか?ヒロインが病院にバイアグラ盗みに行くシーンなんかあったら面白かったのだけれど。(2002/04/23)
人のDVD借りてばっかりなので、ライブラリに寄贈しようと珍しく自分で購入。
冒頭からガウンもつけない医者が手術しているシーンではじまり、なんじゃろこれは、と思っていたら、そういう安手の病院もの連続TVドラマ「愛する理由」にはまっているカンザスのウエイトレス、ベティ・サイズモアの話なのである。彼女はろくでなしの亭主のおかげで看護学校を中退する羽目になり、TV番組だけが生きがいで暮らしている。亭主は中古車販売業者なのだが、あるとき麻薬の売買に手を染め、殺し屋に惨殺される。
それを目撃していたベティは解離性記憶障害状態におちいり、自分がドラマの世界の登場人物だと信じ込んで、舞台であるカリフォルニアに主人公の医師を探しに、麻薬が隠されたままの車に乗って旅立ってしまうのである。それに気づいた殺し屋も、彼女を追いはじめる、という話。ナースキャップにナースユニフォームという、こんな看護婦向こうにはいないぞ、という格好で病院にのりこむ痛さが、主人公の精神的危機をうまく表している。
ウッディ・アレンの映画に「カイロの紫のバラ」というのがあり、大不況時代にろくでなし亭主のためにけなげに働く女性が、連続映画の主人公と恋に落ちる、というような話だったと思うのだが、そちらが幻想の恋の甘美さと厳しい現実との切ない対比がテーマなら、こちらは幻想であれなんであれ、勇気と決意と主体性で生きていくしかないという、えらく古典的倫理に落ち着く話なのである。
カンザスから女性が夢を求めて旅たつ、というところで「オズの魔法使い」を連想するのは必然で、劇中でも自己言及されているのだが、結局そこにおちつくのだよなと納得するしかない、伏線というにはあまりに顕示的な規範があるのだ。もちろん後味そこそこすっきりで、程々のカタルシスをもたらしてくれる大佳作だとおもう。
一番面白かったのは、ボーナス映像についていた、「愛する理由」というTVドラマ自体。これだけでもDVDかう価値はある、というのはちょっと言い過ぎ。病院ドラマでは必ずレントゲン写真が一部裏返しにされている、という原則を守ってくれているところが憎い。(2002/04/29)
職場のDVDライブラリ管理者がこれを買っていてくれたので、連休も明けて渋々仕事に出かけたかいがあったというものである。苦あれば楽あり、というやつだ。違うか。
ファン大会めぐりで細々と食いつないでいる、かっての人気SFTV番組、明らかに「スター・トレック」をおもわせる「ギャラクシー・クエスト」の元出演者たちが、ドラマを歴史ドキュメンタリーだと勘違いした宇宙人に請われ、悪い宇宙人と対決するという話である。ウソという概念が全くない善意の宇宙人は、ドラマに出てくる宇宙船や武器防衛システムを全く理由もわからぬまま再現しているので、出演者たちはドラマの経験だけで危機を乗り切ったり、逆に意味不明の冒険を強いられたりする。
たしか宇宙を救う戦士をリクルートするために、宇宙人がゲーム機をあちこちにおいて、高得点者をスカウトするような映画があったと思うのだが(「スター・ファイター」だったかな?)、ビデオゲームの世界が、そのまま現実の(?)宇宙戦争につながっていくという、荒唐無稽のバカ話を装いつつも、はかない夢を希求する切なさがうまく織り込まれていたようにおもう。それをより上手にまとめたのがこの映画、という感じ。少女がフィクションの恋愛に胸を躍らせるようなセンチメンタリズムと、SFオタクのなりきり感覚は全く同じものなのだ、と力強く主張しているのが好ましい。この前見た「ベティ・サイズモア」とも相通じるところがある、ある種のメタ・ドラマという意味で、歴史に残る名作であろう。出来ればもとの連続ドラマを、ボーナス映像で何回分かつけておいて欲しかった。
ところで艦長役の役者が住んでいる家が、「ベティ・サイズモア」の主人公が憧れていた外科医役の俳優の家と全くおなじだったのだが、あそこは有名なロケ場所なんだろうか?それとも両作品に共通な関係者の家なんだろうか。(2002/05/07)
またまた職場のDVDライブラリより借り出し。
サスペンスというのはsuspensionと語源が同じで、「宙吊り」というような意味合いがあるらしい。未解決のまま放り出される感覚、というところだろうか。そのためなのか、サスペンス志向の映画というやつには、やたらに宙吊りシーンが出てくるような気がする。「ミッション・インポッシブル」なんかご丁寧に一作目、二作目ともこれが用意されている。たしかに見ていりゃはらはらせんではないが、さすがに同じツボ攻めすぎなんではないか、と思えますわな。私なんぞ、「トプカピ」あたりですでに食傷。
そういうわけで、これもクライマックスはプロの泥棒が宙吊り浸入する映画。その泥棒がロバート・デニーロで、役に合わせて体型を変えるという彼も、さすが寄る年波でそういうわけにもいかず、えらく動きがきつそうなのがちょっとオモロイ。
彼は結構繁盛してそうなモントリオールのジャズクラブオーナーで、それで満足しておけばいいのに、そうゴージャスとも思えぬスッチーと身を固めるため、数百万ドル(ところであれはカナダドルかUSドルか?)の報酬につられて政府機関に忍び込む。リスクがやたらに高いのに、そう欲かく理由もない人物がなんであんなことするんだろう、としみじみ思う。ショーン・コネリーの「エントラップメント」(だったっけ?)のほうが、説得力あったような。キャサリン・ゼタ=ジョーンズのほうが圧倒的にゴージャスだもの。
さて、その泥棒仕事をそそのかす野郎がエドワード・ノートンで、こいつはデニーロなんぞに一人いいカッコさせてなるものか、と腹に一物持っている。でも悲しいかな、役者の格の違いのため、そんな若造の目論見など一蹴されてしまうのだった、という話。
エドワード・ノートンが現場下見のために脳性麻痺+知的障害者を装っているのだが、その演技だけは秀逸である。肝心の宙吊りシーンは早送りで見させていただき、ちょうどいい具合のまとまり。
故買屋というか、泥棒プロデューサー役のデブ爺さん、どこかで見たことがあるような気がして、はじめはピンクパンサーのドレフィス警部の人かしらと思っていたが、よく見ればなんとマーロン・ブランドでありました。世紀の競演というか、落ちぶれたというか。(2002/05/11)
こんな題名の本を読んでいると、「おや、作家に転進されたいのですか?」などと揶揄されるのは当然で、なんでもともとの「書くということ 創作追想録」という直訳にしてくれなんだのか、といささか不満を感じる。実際、この本には多少の文体論が含まれているとはいえ、ほとんどがキング自身の、もっぱら書くことにかかわる自伝なのである。
私らの世代のアメリカ体験というものは、ほとんどがあちら製TVドラマに由来していて、それは高校生ごときが週末のダンスパーティに打ち興じていたり、それも自分の車で出かけたり、というのも衝撃ながら、何といってもそうしたドラマの中心に来る台所のシーン、大人の背丈並のでっかい冷蔵庫より取り出される、2Lはあると思える巨大牛乳瓶から、ガキがゴクゴク牛乳を飲んだりする、ひたすらセコイ日常的豊かさの道具立てに圧倒されていたわけである。
ところがこの本で知るキングの少年時代はあくまで貧乏っちく、その生活水準は私なんかの成育環境と同じようなものだ。長じて優等生になってもそう事情は変わらず、70年代に大学を出て、教師を生業にしつつ、クリーニング屋でバイトし、アパートには電話もない、という生活をみると、根強い毛唐コンプレックスなど吹き飛ぶ爽快さで、親近感いやますというおもむきだ。
といって、私はキングの熱心な読者ではない。「タリスマン」と「グリーンマイル」を読んだぐらいだ。だいたい私は怖がりなので、ホラー系は全く苦手なのだ。熱中して読んでいて真夜中になったりしたら、トイレに行けなくなるじゃないか。それでも乏しい読書体験と、日曜映画劇場などでみた、この人の本が原作になった数々の映画(「キャリー」ってのはキングが書いたんですな)の体験から判断すると、この人の書くものには、 暗く理不尽な世界を、とてつもなくハイパワーな純粋さを秘めて生きている主人公、という一種の類型があるように思う。
理不尽さがあまりに勝っている作品だと私なんかは遠慮するしかなく、程々のバランスで、どちらかというと純粋さの勝利になっているような話だと受け入れやすい。そして、この本を読むと、キング自身が生きている世界がまさしく そうした理不尽な不条理に満ちたもので、そこで自分の純粋さを多少でも保てる環境はただ書くという行為にのみ存在するのである。書くことで世に出る前は、理不尽さは貧しさと言う姿をとり、書くことが認められたあとは、文字通り理不尽な書評とか、学校図書館からの焚書とか、あるいは冗談のように不注意なドライバーによって臨死体験を強いられた交通事故への遭遇とか。そういったものは当然のこと、母親の死の状況を書いていても、そこにそれほど感情が込められていないのが面白い、といってはなにか。
キングは書くという、自分がフルコントロールできて、その純粋さを維持できる世界を構築するために、どんなテクニックを使えばいいかということを、この本ではいくらか教えてくれているのだが、それは当然職業上の秘密に属することであって、千なんぼの金で簡単に素人が知りえることであるはずがないのである。ただ、この人が基本にする文体教科書がW・ストランクの「文体の要素」であるというのが意外だった。これは私が大学教養部のときの、英語の副読本だったような。スカみたいなことしか書いてなかったように思うのですがなぁ。
文体への提言はなんせ英語についてなので、そう役に立つというものでもなく、せいぜいが第一稿を書いたらしばらく寝かせろ、というあたりが私らにも多少の参考に出来るかな、というところ。でも、たいがいの素人モノ書きは、時間を置いたら自分の文章を発表する勇気をもてないだろう。デタラメに文章をつむぎだした時の高揚感でもないと、それを人様に見せるような心境にはならないものだから。自分の文章にある種のパワーがあると根拠なく確信できる愚かさというか、一種の勘違い自己批評力というものが結局は作家の能力らしい。自分におこる現世的悲劇などには超俗的態度を取って、常に成功するとは限らぬ物語世界をつむぎだすことに浸る快楽こそが、本当の体験なのだという、考えようによっては並みのホラー話なんかよりよっぽど危ない思い込みが開陳された本なのだと思う。(2002/05/21)
かの「矢吹駆」シリーズの第五作めである。といっても、前回の「哲学者の密室」の発表からすでに10年、一作目の「バイバイ・エンジェル」からは20数年近くがすぎている。しかも、作者の頭の中では、これらの物語は綿々とした時間的つながりがなお維持されていると見え、今回の話も、最初の事件からまだ2年しかたっていないのである。
ただでさえ物忘れがはげしい私なんかは、しばしば前作までの内容が追憶として語られるので、何のことやらさっぱりわからず、仕方なく手に入る範囲で文庫本で買いなおしたりした。ここまで入れ込んで書いている著者に、ちょっとは付き合ってやらねば、という気になったからだが、考えてみればそこまでやってやらねばならん義理などどこにもない。なんですのん、これ?と怪訝な視線を向けるだけでよかったのに、なにか詐欺の被害者が、加害者側の肩を持つような行為に走るのと同じような態度にでてしまうのは、この人の不思議な魅力故であろう。
物語は典型的な「孤島の館」設定。関係者一同が偶然なのか必然なのか、あいまいにぼかされたまま、クレタ島沖合いにある、無人島の豪奢な別荘にあつまり、そこで連続殺人事件が起こるという趣向である。哲学談義は相変わらずで、ふつうの推理小説が男女関係の機微とかの記述で読者を煙に巻こうとするところが、ここでは哲学的屁理屈のこきあいになっているわけである。
今回は関係者にミシェル・フーコーと同じことをいう哲学者と、ヌーボー・フイロゾフィークとかって呼ばれた(そして今はとっくに忘れられている)、フランス五月革命敗残転向グループと同じことをいう青年、そしてかの矢吹駆がそのおしゃべりを担当するわけだが、これはなかなか読み通すのがきつい。しかも、そういうおしゃべりが推理劇の構成を膨らませているか、といえば全くそういうことはなく、これは前回の「哲学者の密室」はそれなりに成し遂げていたことであるので、今回はミシェル・フーコーなんぞを選んでしまったのが失敗の原因だろう。
だいたい、フーコーってなにいってるかさっぱり判らんもの。前回はハイデッガーだったから、シェーマ的にも要約しやすいし、なんと言ってもアンチョコも沢山あるからね。その点フーコーなんてちゃんと理解している奴はいないだろう。フーコーのほうも理解されたいと望んでいるとも思えんが。その彼にたいしてカケルが展開する屁理屈は、どうも吉本あたり(*)の改ざんらしく、それは多少判りやすかったりするのが面白い。いずれにせよ、そういうおしゃべりがトリック破りなり、事件解決の鍵になったりはまるっきりしないわけだから、単に原稿料かせぎなら、もうすこしわかりやすくてためになる話しろよ、と思うしかありませんわな。 *興業ではなく、隆明さんのほう。
とにかくミステリとしてはタガがゆるみきっていて、導入部にある事件はさっぱり無関係なところで起こるし、集まる関係者は集まった理由を知っていながら隠していて、物語の進行役である女子大生、ナディアだけが(つまり読者も)カヤの外なのである。しかも、注意して読めば登場人物の一人が、はじめのほうでかなり不用意な失言をしていて、こいつが怪しいに違いないという見当だけはつくのである。作者はその人物に失言をさせたことは、途中で忘れてしまったみたいだが。
孤島の館でおこる密室殺人というと、ある掟破りが想像されるが、その要素もやはり加わってくるのは致し方ないところだろうか。そのほかにも、松竹新喜劇もかくや、と思われる偶然の一致の続出とか、言い出したらキリがないが、頭の配水管づまり解消のためと割り切って読めばそれなりに満足感もえられるかもしれない作品であろう。アホみたいなライトミステリで痴呆化するよりはまし、と。
ただ、前作でも感じたように、モデルそのままの哲学者を名前を変えるだけで作品に使う、と言うのはどうなのだろう。ヌーボー・フイロゾフィークのパクりぐらいだったら、誰も覚えちゃいないだろうが、フーコーとかをそのまま使うのは違反だろうと思う。それと全く同じことを、題名になっている「オイディプス症候群」にも感じるわけで、これはエイズを作者が象徴的にそう呼んでいるのかと思ったら、全くエイズの内容そのままでフィクションの疾患なのである。
自分の創造世界なのだから何をやろうと勝手、といわれればそれまでだが、ちょっと受け入れがたいやり方である。もとパルタイの人は、こんなところにまで全規定(密輸入でも可なんだな、これが)ルールを持ちこまにゃ気がすまないのだ、と感心してしまう。
作者に一つ忠告、六作目にはラカンなんぞを使おうとせんことですな。こういうのはどうだろうか、とちょっと提案してみたり。(2002/05/29)
本屋の片隅にひっそりと置かれていた文庫本の、「これが噂の恐竜ハードボイルド!」という帯書きが目に入った。表紙からして、ハードボイルド定番スタイルの探偵らしき絵で、そのトレンチコートの裾からは、恐竜の尻尾が飛び出ているのである。
これはおそらく、何かトンデモ設定で一匹だけ生き残った恐竜が、糊口をしのぐために探偵に身をやつしていて、なにか事件に巻きこまれていくような話だろう、と勝手に想像して購入する。都市の孤独、というものが主要なテーマである(と、こちらが決め込んでいるだけだが)ハードボイルドミステリには、そういった仕掛けもまた似合うのではないか、と思ったからだ。
ところが読んでみたら大違い。これは恐竜は絶滅せずに、人間たちの間に隠れて独自社会文化を維持している、という設定の一種パラレルワールドSFなのであった。SFと言ったって、恐竜たちがその正体を隠すために使っている、ハイテク扮装がくわしく説明されるわけでもなく(大体、人類がデビューしてきたばかりのころはどうしていたんだ)、無理は承知の設定であって、そのあたりの破綻をあげつらうのはルール違反に属するつくりである。
恐竜たちは「評議会」という、自分たちの最高決定機関を作っていて、人間社会に種の秘密が漏れないようにしている。彼らは人間よりもよっぽど優越した種なのだが、自分たちは人間の陰に隠れて生きていくことにあるとき決めた、ということになっている。人間の歴史も、基本的には恐竜たちがつくっていて、歴史上の偉人だとか、主だった人間は実はみんな恐竜なのだ。しかし彼らは、その行動決定に当たって、なによりも種とその秘密を守ることを第一優先にしていて、その鋭い嗅覚をとおして、緊密なコミュニケーションをしている。
したがって、この種としての連帯感というやつががっちりと基底にある話になるため、ハードボイルドには不可欠な、「孤独」がそこにはない。歴代のハードボイルド探偵たちは、都市の絶対的孤独を、友情とか愛とかのはかない価値をたよりに、それも裏切られることを覚悟の上で漂流してきたので、こんな秘密結社の約束ごとというか、村の掟みたいなものに行動指針があるような、せこい生き方はしていない。(そりゃま、ある種のマイノリティを売りにしているものはあるけどね。せいぜい香りつけ。例えば女性探偵が、男社会の横暴を告発するため、女だけを味方につけて大活躍、なんてのがあったら、真っ白けでしょう)
奇想天外な設定の、パスティーシュ・ハードボイルドなんだ、と割り切ろうとしたけれど、もうひとつ楽しめなかった。むこうではえらく受けたらしく、2作目、3作目が出ているそうな。所詮嘘を承知で楽しむものが小説なのだとは思うものの、なんかUSJあたりの模擬ドラマを見せられている感覚である。今のアメリカ人にはこの手がちょうどいいのかも。
原題の"Anonymous Rex"というのが今ひとつ決まっておらず、「名無し探偵」ものの伝統とか、Alcoholic Anonymousからの連想なのか(主人公はハーブ中毒という設定。恐竜はアルコールに反応せず、ハーブで酩酊することになっている。途中でその設定を忘れているところもあるが)、なんやら意味不明なのだ。Rexってのは向こうで恐竜の代名詞になるんかな。主人公はヴェロキラプトルなのに。ジュラシック・パークを評した誰かが、ヴェロキラプトルはとんねるずの石橋に似ている、と書いていたのを覚えていたものだから、読んでいるあいだじゅう、石橋のイメージにつきまとわれたのも敗因のひとつ。(2002/06/07)
純文系一発屋作家にして、一流ゴーストライターとして糊口をしのぐ、スチュワート・ホーグを主人公にしたシリーズ7作目である。あまり話題にはならないが、私はなぜか気に入って「フィッツジェラルドをめざした男」以来、全編を読んでいる。ホーグは一作目の小説が大当たりし、「80年代を拓く新しい文学の旗手」とまで呼ばれ、有名女優であるメリリー・ナッシュとも結ばれるのだが、その妻をモデルにした二作目で大コケし、妻にも去られてしまった、という設定。
もっとも元妻とはつかず離れずの関係がつづいていて、夫婦で飼っていたバセットハウンド、愛犬ルルがそんな二人をつなぎとめている、といったのが前作までの布置だったのだが、今回は二人は郊外の農園に同居して、二人の間に生まれたばかりの娘、トレーシーを育てている。再入籍した、というわけではないらしい。前作でよりを戻したんだったっけな。記憶があいまい。
そんなちょっとぎこちない「家族」のもとに、ホーグの文学の師ともいえるソアが小娘をつれてやってくる。ソアはフェミニスト闘士として知られる元妻の娘、つまり義理の娘と駆け落ちをして、フェミニスト、保守派、良識派と、あらゆる立場から攻撃され、身を隠しているのである。ソアは農園に居座ったばかりか、義理の娘の自伝をホーグに書いて欲しいと依頼してくる。そうこうするうちに、ソアが何者かに惨殺され、さらに次の事件が……、というお話。
ソアはポスト・ヘミングウェイ世代の作家ということになっていて、ノーマン・メーラーとかカポーティとかの雰囲気も少々、バローズとかケルアックなどのビート世代イメージをもっぱらメインにし、かつとことんマッチョ系という設定になっている。義理の娘とのスキャンダルは、ウッディ・アレンの事件あたりがヒントなのだろう。ハンドラーの今までの作も、ある世代のクリエーターをまとめて造形したようなモデルが登場していて、なんとなくそういう業界(TVコメディとか、映画とか、出版とか)の事情通になったような気がする余禄がある。
ミステリィとしてはそう凝りまくったものでもなく、ホーグ以下の登場人物たちのしゃれた会話を楽しむのがメインといえるようなもので、作者自身純文系をめざしていたらしく、ミステリなんぞで生き延びているのに自嘲のポーズを示さねばすまんのか、ときおり、筆のすさびが目立ちすぎるようなところもあったりする(例えば、擬人化をいささか越えすぎているルルの扱いとか。『三毛猫ホームズ』ではないんだから)。しかし全体としては、田舎者日常をうまい具合に忘れさせて、ちょっとしゃれたシティ派インテリに変身した気分になる一編。父親として自分を自覚し、家族が再生する、というようなまとまり方は、決して好きではないのだけれど。
それにしても、なんで題名をこんな漢字熟語にしたのだろう。ディック・フランシスでもあるまいに。いままでの連続性を考えると、直訳の「父親と駆け落ちした娘」でいいと思うんだが。(2002/06/23)
サッカーが中途半端な時間に始まるもので、それまでのつなぎにと、借りてきたDVD「ラッシュアワー・2」を見る。「2」と言うからには「1」があったのだろう。そういえばTV洋画劇場の吹き替え版で見たような気もする。ジャッキー・チェンというおぼえやすいスターが出ていたはずなのに、ほかの香港スターがでていたハリウッド物とごっちゃになってしまうような、ちょっと印象薄めの映画だった。単に酔っ払っていて、覚えていないだけかもしれないけれど。
さて、「2」である。ロス市警の黒人刑事、クリス・タッカーがなぜか香港にいて、ジャッキー刑事に女を紹介しろと早口英語でまくし立てていて、ジャッキーはビートキヨシのように口数少なく相手してやっている。折りしも米国領事館で爆破事件がおこり、通訳を装ったシークレットサービスのエージェントが殺される。背後に大掛かりな偽ドル偽造団の動きがあると知ったジャッキーとクリスは、シークレットサービスの迷惑顔も無視してロスへと向かい、そこで大暴れというお話。
悪者側が豪華陣で、かのジョン・ローンや「グリーン・デスティニー」のチャン・ツィイーである。彼女の場合、絶対壁をけって飛び、大空中戦をやってくれると期待したが、それはなかった。兎に角そういう風に、クリス・タッカー以外は全部香港スターで、安手の復讐譚が盛り込んであったり、無理やりカンフー立ち回りにつないだりの完全香港映画で、まるっきりの香港テイストのなかに、突然クリス・タッカーのキング師演説ギャグなんかが割り込むのだ。ああそうか、これはハリウッドが結構金をかけて、真面目に?作ったんだと気がついて、ただただ当惑するばかりである。
ブロードウェイで秘密戦隊ゴレンジャーショーがかかっていたり、米国三大ネットで、ナインティナインがブラピあたりを招いて「ゴチバトル」をやっているのを見るような感覚である。判りにくい比喩で申し訳ない。ハリウッド大作が無意味に保持していた、押し付けがましくもあった矜持というものが、もはやどこにもないのである。そりゃ確かに、面白くないとはいわないけどね。ハリウッドはもうネタ切れ、ということなんだろうか。ハリウッド映画史、もしくはアメリカ現代史的には何か意味があるのかもしれないが、「燃えよドラゴン」を同時代でみた世代として、どうにも当惑が先に出てしまう作品である。西欧人が、エキゾチシズム先行で東洋を扱ってくれないと落ち着かない、というのはコンプレックスの裏返しなんですかね。
なお、ジョン・ローンだが、昔よりちょっと太った感じで、私には志垣太郎との区別がほとんどつかない。ぜひ日中合作で、兄弟の絆を描くような作品に共演してほしいものだ。文化大革命の混乱で離れ離れになった兄弟が、船場の丁稚と蛇頭のボスとして再会する、なんて話はどうだろう。(2002/06/27)