職場のほうからいつ呼び出し食らうかわからんので、いつもの酒びたり正月にもならず、思わぬ健康的正月をすごしつつある。といって、ぼんやりTVみたり本読む以外に時間のつぶし方をしらんので、一日が長くていけません。
スポーツクラブが開いているといいのだが、4日までやらんのだし。あたりをランニングでもすればいいようなものだが、クソ寒い外に出て行く気がしない。やはり中高年の運動なんてものは、エアコンの効いたインドアで、紫外線フリー、水分補給たっぷりでやらないと体に悪いだけ。
仕方がないので読書。「犬は『びよ』と鳴いていた」(山口仲美:光文社新書)。擬態語、擬音語の変遷から言葉を考えるという視点がなかなか面白い。ダブルブッキングで有名な某狂言師が、TVで犬の鳴き声を「びょうびょうびょうびょう」とやっているのを見て、なんでやねんと思っていたものだから、暮に本屋でこの本をみかけて早速買ったというわけ。たしかにあまり可愛げのない犬が吠え付いてくるようなときは、「びよびよ」といってるようにも聞こえますな。
同じ著者が以前に書いた、「ちんちん千鳥の鳴く声は―日本人が聴いた鳥の声―」(大修館)というのもBK1で注文したら正月にもかかわらず届く。鳥の声に絞っているのと、この著者自身がバードウォッチングを趣味にしているらしき薀蓄が盛り込まれていることもあいまって、きわめて読みやすくまとまった一篇。音韻論みたいなところを、もうちょっと専門的に書いてあればもっとよかったのだが。
「ヌエ(漢字でない)」なんて鳥、本当にいたんですな。それも奈良時代までは「ぬえこどり」なんて呼ばれて親しまれていたのに、中途半端な中国語知識が災いして怪鳥呼ばわりされるようになり(なんでも中国語では「怪鳥」というのは「夜行性の鳥」という意味なんだそうで)、やがて化け物扱いされ、名前と実体の連関が消えることになった経緯なんかは、都市伝説の成立過程の考察を思わせる手際。もちろん著者はもとの可憐な鳥に対する愛着を人一倍持っているので、単なる謎解きに終わらぬ情緒も感じさせる。
今年、女の子の命名に、絶対「ヌエ子」というのが増えると予想したりして。(2003/01/02)
60年代の左翼青年にとって、そしてそれ以後もその業界である種の知的スーパースターであった吉本隆明のエッセイというか、社会提言である。私が学生になったころ、同級生や先輩にこの人に心酔している人は山ほどいて、例えば学生主催のシンポジウムなど開いて小粒の知識人に講演してもらい、そのあとの討論がはずみで吉本理論の話になど向いてしまうと、皆われ先にと自分の吉本理解を競い合う発言をしたりするので、ぜんぜん収拾がつかなくなったりするのである。
先ほど左翼と書き、実際本人も左派を自称はするのだけれど、似たような影響力をもっていた黒田寛一のように自分が指導する政治党派を組織していたわけでもなく、もちろん既成左翼の社会党・共産党とはまったく相容れない立場で、その感覚にはむしろ政治的左派とは異質なものがあったように感じている。彼に対する一方的思い入れを表明している新左翼党派というものはあったのだが、実際の活動に彼がかかわることはなかったはずだ。
数年前に海でおぼれ意識不明におちいるという事故にあわれ、それ以降めっきり体がよわり、最近結構出版される著作もほとんど口述されたものを誰かがまとめる形のものだ。その分、語り口がやわらかく、噛んで含めるような展開となっている。毎日新聞に連載していた「近代日本文学の名作」などは、まるで定年退職したアマチュア読書人が、こつこつと記録した読書録を紹介したような平易かつ素朴なものだ。
それでこの、「ひきこもれ」である。題名からはいわゆるひきこもりを擁護するような内容らしく、私なんかはあれあれと腰砕けしてしまいそうになる。というのは、引きこもりというのが社会問題化するようになった80年代初めごろから、こういう主張はすでにステロタイプ化していたからだ。「進歩的」精神科医などが、学校で画一的な教育を受けることばかりがベストなのではない、その人にあった生き方を認めることが第一だなどとしょっちゅういっていた。ところが、そういうことをいってる人が、息子を医学部に入れるために狂奔していたりするのを別ルートで聞いたりするものだから、なんだか笑っちゃいそうになることがしばしばなのだった。
吉本の主張はどういうものなのだろう。子供が作家や漫画家になるなら*学歴なんかいらないから、好きにさせろといってたりしたらうんざりだな、と思いつつこわごわ読んだのである。その結果、さすが吉本というしかない。ひきこもりには二種類あって、一人でいるのが楽だからそうする人と、病気の範疇に入る人がいると。前者なら何の問題もないし、後者なら素人がどうこういわずに医者にまかせればいいのだと。
*周知の事実だろうが、あえて書けば彼の二人の娘さんは小説家の吉本ばななと、漫画家のハルノ宵子である。
虚をつかれるとはこのことだ。考えてみれば当たり前のことを、ここまで堂々といった人はいない。私らのところに相談にくるような「引きこもり」は、ほとんどすべてが病的問題を含んでいて、ノンキにそういう「生き方を認める」ようなことしていたら、その人は一生を棒にふるだけだ。治療の側にその人をとどめるテクニックとして、現状をさしあたって受け入れ観察するのはよくやることだが、家族や近隣に多大な緊張をしいて、展望のない自閉自居生活を続けることが認められるわけはない。先に例を出した物分りのいい医師だって、結局どこかで暴力的手段(親族とか、警察とか、最近ではこれを専門にやるガードマン会社がある)を使ってでも医学的介入をしている筈なのである。もしそれもせずに手をこまねいて、「生き方を認め」続けているなら、それは単なる無責任か無能でしかない。
もちろん、きれいに二つに分けられるかというと難しい場合もあって、病的サインがちらほら出ながら、引きこもることでむしろそれに積極的対処しているようなケースもあり、ここらあたりはやはり、治療者の経験と持ち味をどう発揮するかの問題になってしまう。しかし、ほとんどマスコミレベルののっぺりとした「引きこもり」理解の治療者は決して少なくない。それは家庭内暴力としてそういうサインが出たとき、「ただ耐えるべきだ」と指示する治療者が結構多いことでも知られる。誰から誰に対するものであれ、理不尽な暴力をただ耐えなければならぬなんてことがあっていいはずがない。強制的入院隔離というある意味で社会的暴力装置機能の一部が、何のために医療に与えられているかといえば、そういうことをさしあたって回避するためにあるのだ。
この本は医療が病的なひきこもりにどう対処すべきかを語っているわけではなく、吉本の立場で語られるものでないのも明らかだ。彼はあくまで、病的でないひきこもりを対象にする。吉本は、一人になって自分と向き合う長い時間をもつことで、その人にとっての「価値」をはぐくむことができるので、安手の人間関係のなかに軽々しく出て行くことは、疑わしいような通念とか価値観を強いられるだけのことだとする。考えてみれば、これも自分のスタイルというものをそこそこ確立しているつもりの人なら、何らかの形でかならず経てきた過程であるはずだ。
この本から私が感じ取ったことはほかにもまだ多く、それは「老い」にどうのように対処するのかとか、行き当たりばったりの人生で貫くべき原則とはなにか、というようなことだ。後者は間違うと変な方向に行きそうだが、少なくとも吉本が押し付けがましくないレベルである種の原則を貫いてきたことは間違いないだろう。要は、自分のやろうとすることを10年はきっちりやり続けるという単純なことなのだ。しかし、それは多くの政治的青年たちを幻惑させ続けた、あの知性と能力をもってはじめてなしえることのようにも思う。(2003/01/04)
以前、アレフの出家信者であるF氏のサイト記述に、ちょっとしたいちゃもんをつけたことがきっかけになって(二日前にもカラスのことで書いたけど、あれはこちらの早とちり)、時々メールをいただくようになり、一昨年のオフ会にも参加していただいた。その時、麻原彰晃の書いた「生死を超える」という本が手に入らないかと彼に頼んでいたのである。
なんで読んでみようと思ったのかというと、昨日紹介した本の著者である吉本隆明が、その本を高く評価していたからである。麻原は世にいわれるようなインチキ教祖ではなく、実践的にヨーガを体得した上質の宗教家にちがいないと吉本は感じたらしい(もちろん、その行動を評価しているわけではない)。ちゃんと修行していることと、インチキ教祖であることは別に並び立たないことでもないはずだがななどと思いつつ、あの吉本がいうのだから、目を通しておくのもよかろうと思ったわけだ。まことに情けない理由である。
ところが現アレフでも「生死を超える」はレアアイテム化しているようで、F氏は代わりといってはなんだがと、アレフ代表の上祐史裕著のこの本をおくってこられた。無理なお願いをしたこちらが全く忘れていたのに、義理堅くも贈呈していただいて感謝この上ないかぎりだ。次のオフ会にでもスケジュールがあえば、シャンパンたっぷりおごるからなんていっても、出家信者は酒などのまんか。
はじめにいっておくと、私は自分が完全な俗物であることを自覚していて、あらゆる宗教やその代替物とはそりがあわない。実際に、自分の仕事や生活のなかでも、新旧とわず宗教とその亜流団体構成員にはたっぷりひどい目にあってきたので、その信念は強固になるばかりだったといってもいい。これは何とか学会はダメでカソリックならいいとか悪いというような問題でなく、自分以外のところにある価値体系に自分をゆだねてしまう、そういう行動原理そのものがダメなのである。それは国家とか、党派というものであっても同じで、もちろん企業理念や建学精神みたいなものもほとんど同じものとして感じる。
そういいながら、お前だって科学や医療の論理に依拠しているではないか、といわれるかもしれないが、少なくともそれは自分の中で、経験を根拠にして合理的に検証と反証をかさねていくことができるものだ。それはもちろん主観的体験のあいまいさや、通念と科学的事実のずれなどについては自覚しているし、まして「医療の論理」などにいたれば、そこにはかなりいい加減なものが混じりこんでいるのは承知しているつもりだ。しかしそれらは多くの客観的事実関係をもとにして検証でき、いくらでも訂正していけるのである。
その点、宗教的信念とか真理はそうでない。それは常にどこかから与えられ、すでにかくあるべきものとして存在している。そういうものをどんな根拠で受け入れなければならないか、と思ってしまう。宗教に対するもっとも正直な態度は、「法の華(だったっけ?)」の教祖みたいに、「金になるからやる」というものぐらいしかありえないとまで思う。それはいくら俗物の私だって、ある種の宗教的荘厳さのなかに、神秘的な香りの痕跡ぐらいを感じることはあるのだが、基本的にはそれは芸術の問題だとおもっている。
こんな風に常識的に書き進めてくると、Fさんなどは、いやそうではないのだ、かくあるものとしての仏や神に帰依するのではなく、あくまで体験的に神秘と合一化するのだ、教義なんていうのは一種のマニュアルで、そういう手順が一番簡単に解脱にいたる道として用意されているに過ぎない、といいだすのではないだろうか。そしておそらく、実際に現アレフで信者やその予備軍は、かなり容易かつ具体的に(日常的に、ではないだろうけど)、その入り口ぐらいは体験できるものなのだろう。
そういう実践的な回向体験への入り方というものを、麻原はかなり平明なかたちで信者たちにしめすマニュアルを完成していたのではないだろうか。そうでなかったら、あれほどの大事件をおこしつつ、なおかつその組織にとどまる信者がいて(別団体だというのはおいといて)、なお今も組織が拡大していくようなことがあるはずがないと私は思うのである。
そういうわけで、この「覚醒新世紀」でも、その実践マニュアルの一部をうかがい知ることができるのでは、という期待をもって読み始めた。結論からいうと、この本ではほとんどそういう方向は上っ面しか書かれていない。あくまで、「こっちの側」には救いがあるぞよ、という御託宣だけである。上祐という人はかなりの荒行を重ねてきていて、そこでさまざまな神秘的ビジョンを得てきているらしいのだが、科学者から宗教家への転進の過程で、おそらくかなりの逡巡と当惑があり、訪れる神秘的体験にもダークサイドからのものもあったはずで、それをどのように乗り越えてきたのかという生々しい証言はここにはないのである。
もちろん、彼のほかの本にはそれが書いてあるのかもしれず、この本は現アレフを知るための便利カタログに徹しているのだ、ということなのかもしれない。でも、多少はそういうバックボーンが行間からにじみ出てくる、ということぐらいはあってもいいはずだ。教義の建前と、まるでクロレラ療法のパンフとか、開運風水グッズの宣伝ビラと同じような信者たちの喜びの声をいくら羅列してみても、それは既成の世俗化宗教志向があらわになるだけのことだと思う。組織運営上、そういう方向は仕方がないことなんだろうけれど。
贈っていただいた本に妙なケチをつけることになってしまい、Fさんには申し訳ないが、以上が今のところの感想。精神疾患という、いうなれば日々ダークサイドの神秘体験に落ち込んでしまう人々を、どうやって此岸に引き戻すかという仕事をしている人間として、超越的体験と日常を行き来する能力というのは治療手段そのものに見えるのである。かならずどこかで協力しあえるところはあるはずだ、という一種の願望的予感までもがなくなったわけではないと記しておこう。(2003/01/05)
知人がたまにはこんなのも読んだらと、漫画「ブラックジャックによろしく」(佐藤秀峰:講談社)の1〜3巻を貸してくれる。医療業界的リアリティへの意見も聞きたいというのだ。この漫画はたしか週刊漫画誌のコミックモーニングに連載されているのは知っていたのだが、私はこういうクドイ絵が苦手なので読んでいなかった。老眼進行が激しい世代には、この手はちょっときついのである。モーニングで何とか読めるのは、四コマ漫画以外は「ギャンブルレーサー」だけ。絵がシンプルだし、主人公に対してわがことのように思い入れが出来るし。
ともあれ、せっかく貸してもらったのだから、絵がクドイなどというような低次元の文句は引っ込めて読んでみる。永禄大学という、多分慶応をモデルにしたのだろうと思える大学医学部を卒業したばかりの、えらく激情あふれる研修医の苦闘を描いた漫画である。医学研修のありかたとか、大学での医学臨床のあり方自体に未熟な研修医が感じる疑問と、システムとの軋轢というか、一方的負け試合のなかで成長する主人公を描いた意欲作、というところなのだろうか。
残念なことに私は、こんな風にあるシステムに対してすれ違いの戦いを演じつつも、そこにこだわるというような生き方が全く理解できず、さっさとやめて納得のいく研修先をなんで見つけようとしないのか全く訳がわからない。二千万という多額の奨学金をもらっているので、出身大学での研修しかできないという設定になっているのだが、防衛医大や自治医大ではあるまいし、そんな制度を採っているところがあるのだろうか。ちょっと信じがたい。銀行に相談したらおしまいでは。実家にはけっこう土地があったじゃないか。取りはぐれはまずないのだから、いくら不景気でも銀行は形式的にでも担保にしてくれると思うけどね。
とにかくやたらにせこいヒューマニズムに燃えるくせに、その妙な大学のルールだけは越えられない主人公をみているのがやたらにいらつく。「ここを飛び出れば、民間病院のはぐれ医者にしかなれない」と同僚にいわれてびびってんじゃないよ、とそれこそずっと「はぐれ医者」をやってきた私は思ってしまい、どんな立場でもそれなりのことができない奴は、大学医局のヒエラルキーに従う生活しようと、どうせまともなことなんか出来はしないよと毒づきたくなってしまうのだ。*
そういう構造は入れ子になっていて、主人公は大学医療のありかたに疑問を感じながら、医療幻想ということには全く無頓着なのだ。例えば一巻の中ごろ以降に登場する冠動脈閉塞患者のエピソード。大学の心臓外科では手術件数が多くないことを知り、なおかつ非代償期肝硬変まで合併していることを知った主人公は、アメリカ帰りだがアカデミズムからは疎外されている名医に手術を依頼しに行き、大学の心臓外科医局とトラブルを起こす。
そんなもの、なんで「名医が手術すればいい」という結論になるのだ。肝硬変が進んでいれば血液凝固能も落ち、まず手術なんかできはしないし、そもそも冠動脈閉塞だって進行しにくいだろう。重症だから、名医のもとで手術すればいいというような主人公の理屈は、まさしく医者がすべてを握っているから任せればいいのだ、というパターナリズムの強化論理でしかない。
ほかにも、初めてのバイト先で、重症外傷患者を前に、とにかく外科医を呼び出そうと患者を放り出して電話をかけ続けるところなんか、これ、間違うと医療訴訟ものだなと思う。まず出来ることをやれよ。まず血液検査とか、体表の止血処置とか、呼吸管理とか、疼痛処置とか。何よりも出血部位の確認をやらないと、外科医が来たってどこ切ったらいいかわからんだろうが。何にもせずに酸素マスクだけつけさせてバタバタしてるんじゃない。
ところどころに医療へのそれなりに深い切込みがあるのかなと、思えるところはあるのだが、全体的にはむしろ医療幻想が目立ちすぎる内容といえる。思い入れが出来る登場人物は、唯一、何もしない街の開業医道場老医師ぐらいだった。その次は医局のヒエラルキーを上り詰めることで、腐った環境の変革をもくろむ第一外科の指導医というところかな。(2003/01/29)
*主人公は教授のいう、大学病院は治療ではなく、まず研究を重視するべきなのだという言葉に反発するのだが、それはアンタも教授もおかしいと思うよ。大学病院で重視すべきことはなによりまず教育であって、その次に研究、個別の医療はそれよりずっと下に位置されるのは当たり前のこと。ただし、主人公のいびつな正義感も正せないあそこの教官連中に、教育なんてことをいう資格はなさそうだけれど。
職場のDVDライブラリィもちは、大概のジャンルは網羅してくれるのだが、惜しむらくはホラー系に片寄るという傾向がある。こちとらはホラーが全然ダメで、悪魔のはらわただのバイオなんとかだの、そんなもん見れば夜中に一人でトイレに行けなくなるので、せっかくの新盤があってもなかなか見る動機がつかめないのである。そんななか、この一篇を見つけ、そう興味はないものの、少なくともトイレに行きにくくなることはなかろう、と借りてくる。
結論。これは70年代後半最良のアメリカ映画というか、あの時代のアメリカ文化を代表する一作品だと思う。思いがけずも、これを鑑賞できた幸福の余韻を、今精一杯味わっているところである。
とにかくこの映画作成時、24歳のJ・トラボルタと30歳のオリビア・ニュートン・ジョンが18歳の高校生に扮して、しかも「ミュージカル」をやるのである。独白とか幻想シーンは全部歌と踊りなのだ。行きずりの恋への追憶はそれを聞く仲間も含めた群舞になり、恋人に去られた喪失感は、すぐにフルオーケストラをバックにした歌になるのだ。気色悪さなど感じる暇がないのである。
夏休みにオーストラリアの少女と知り合った高校生のトラボルタは、純愛路線まっしぐらで睦みあうのだが、新学期になってその彼女が自分の通う高校に転入してきたことを知る。ツッパリグループでブイブイいわせているトラボルタは、仲間の手前、その彼女、オリビア・N・ジョンにつれない態度をとったりするのだが、結局彼女の好みに合わせるため、日ごろバカにしている体育会系ジョックスのまねをしてみたりする。このあたりは「寅さん」とか、文太の「一番星」のなぞりでおもろいですね。え、逆だって?。
なんだかよくわからん理由で開催される高校のダンスコンテストで、オリビアとトラボルタのチームは最初注目されるが、結局なぜかトラボルタと抗争しているチーマーの情婦みたいなのと、なぜかコンビを組み替えさせられて優勝し、無意味にお互いすねたりするものの、結局卒業式パーティでよりを戻して大騒ぎ、というような話なのである。時は50年代後半、学園にはフェミニストもおらず、黒人もヒスパニックもいないのである。ノー天気な白人ばかりが、日々を享楽しているのである。もちろん、これは70年代アメリカが失われた50年代を追憶している話なのだが、徹底して理想化して再現してしまうところがすごいというしかない。
なんといっても、こんなに多幸的な話をベトナム戦争終了直後に作れるハリウッドに感激である。この後、数年以上、アメリカの経済は停滞し、日本に乗っ取られるのではないかなんて不安がちらりと出たこともあったはずだ。そんなもの、まるっきり予感としてもありはしないのだ。この多幸性、このバカバカしさ、このアホさ加減が米国がもつエネルギーの中軸なんだろう。
どんなに逼塞した状況でも、突然カメラ目線になって歌い出せば、自分の世界になっていくこの自己中心性を日本人は学ぶべきであろう。この映画よりちょっと前に、飯野おさみと雪村いずみによる「ウエストサイド物語」なんてのが日本では上演されていたりするのだが、誰もが気持ちわるーと思ってしまい、事実それ以上のものにはならないところが我々の限界なのである。
ほかにもこの映画での引用という意味では、この数年前の「アメリカン・グラフィティは当然として、トラボルタ自身の「サタディナイトフィバー」に、エルビスの映画から「ベンハー」、もちろん「ウエストサイド物語」などもたっぷり楽しめるので、是非安売りDVDでも購入すべき一作と思えるのだった。(2003/02/08)
いやはや、読み通すのにえらく時間がかかってしまった。ほとんど一ヶ月ほど持ち歩いていたのではないだろうか。著者はロンドン大学の神経生物学教授。もっぱら視覚脳の研究をしている人らしい。三日ほど前にふれたソフィー・シュワルツ博士*とも、セクションはちがうが同僚ということになる。その手法はファンクショナルMRIなどを駆使した正統的なもので、脳内の知覚モジュール構成を形態と機能双方からさぐるというようなもの。
ごく簡単に言えば、視覚的知覚はその微小要素(色、動き、角度etc)によって脳細胞の分担があり、同時にそれらの情報を相互に参照しあうことによって成立するのだ、ということを検証している人である。ちょっと前まで、知覚は目とか耳とかの受容器官に外界の状況が受動的に反映されるのを脳が受け取るだけだという考え方だったのが、今は脳が能動的に知覚を構成するという考え方になってきているわけなのである。
この、知覚とは能動的な過程であるというところを強調して、著者は画家たちの創作活動というのは、この普通の人が無意識に行っている知覚活動の意識的シミュレーションをしているのだ、というような主張を展開しているのがこの本というわけ。
たとえば我々はある色を持っているものを見れば、どんな照明条件であってもその色を知覚することが出来る。これには自分の持っている知覚データーベースとの照合という経験的作業と、それ以前に脳が行っている照明条件からの自動的色補正という二つの作業の結果それが可能になっているわけである。画家はそうした作業を自分のカンバスの上に再現して、ひとつの視覚的構成物を創造しているというのがこの人の主張。
もちろん、芸術家たちはまったく直感のみによってそうしているので、彼らが最新の脳科学の成果を取り入れてそうしているとか、そういう過程をちゃんと踏むからそれらが芸術的価値があると主張しているわけではない。大体セザンヌの時代には、脳科学なんか存在しなかったわけで。
ほかにも視覚のあいまい性、多重性という特徴を、キュビズムの実験やフェルメールの多義的な絵柄がもつ魅力にひきつけて説明し、一定の形や傾きにのみ反応する脳細胞の機能から、モンドリアンなどの要素的絵柄に簡略化させた抽象手法と関係付けて語ったりしている。
しかし、まず脳科学の説明のレベルでいくら最新の研究成果を語られても、私には昔ながらの網膜印画紙説とどこが違うのかもう一つよくわからない。いくらモジュール化された脳の広範な部分が知覚に関与していても、それを感じる主体の説明にはならないからである。これは著者自身認めていることであり、それは「形而上学」的問題として、さし当たって遠ざけられているわけだが、そこいらあたりに変にこだわるとトンデモになったり、ますます訳のわからんつぎはぎになるという、正当な自覚がそうさせるのだろう。
それならそうとして、美だの感動だのについて触れることなく実験所見の羅列にすればいいのにと思うのに、やはりロマンを追い求める姿勢を崩せないのがこの領域の研究者の弱点というところか。先日のシュワルツ博士がフロイト回帰姿勢をしめすように、この人は美を創造する画家の天才の中に脳機能の精髄を見たいのであろう。(2003/03/10)
*先日リンクに加えた「余丁町散人の隠居小屋」で、ル・モンドの「フロイトなしに夢を見ることが出来るか?」という科学記事(3月3日)が抄訳されている(元記事・散人氏による和訳)。
ロンドン大学の女性神経科学者、ソフィー・シュワルツ博士の研究を紹介する形になっているのだが、その論調がなかなか面白い。シュワルツ博士の研究内容というのは、常識的な神経科学知見にそった、そう突飛なものではないと思うのだが、彼女のユニークさは、そういう知見をフロイトの夢理論が実証的に示されたものだと、堂々と主張するところにある。
精神医学ではよくあることだが、神経科学をやる人にも、その動機が精神分析理論であったという場合は数多く、ある種の屈折を経るからか、大概の人は若いころマルクス主義者だった保守派知識人みたいに、その疑似科学的側面への嫌悪感をあらわにするものである。もちろん、幾分かのロマン的憧憬を開陳するのはやぶさかではないにせよ(これは転向保守派も同じですな)。
しかしどこかで書いたけれども、例えば心的外傷体験が海馬の解剖学的構造を変化させるというような生物学的発見(ホントに普遍的なのかは別)に対しては、生物学原理主義的な研究者でも、「フロイトもある意味では間違っていなかった」などと、まんざらでもない態度を示すのもまたよくみられること。それがこのシュワルツ博士においては、かなり徹底しているのである。そこが人文主義伝統の色濃い、フランスの文科系ジャーナリストに注目された理由であろう。
この研究者について調べてみたら、幸いなことに主論文はほとんど英語で、しかも自分のサイトで全文をPDFで無料公開してくれている。脳科学、神経科学の発展は、めぐりめぐって19世紀の内省的的夢研究の主張を補強するものになってきた、といってるらしき論文を見つけて流し読みしてみたが、いまいちピンとこない部分もありつつ、ある種最近のトレンドの一つでもあるように思えるので、もうちょっと詳しく読み込んでみるつもり。そこそこ面白かったら、そのうちかいつまんで紹介してみたい。(2002/03/07)
一般放送はつまらんスペシャル番組と野球ぐらいしかやっていないので、仕方なくそう期待もせずにCATVでみた「暁の七人」という戦争映画がなかなか面白かった。1942年、ナチスドイツ占領下のチェコで、ドイツ軍司令官暗殺のために送り込まれた英軍コマンドと、彼らを助けるレジスタンスの話。紆余曲折のすえ、暗殺には成功するが、プラハ近郊の村を徹底破壊するというナチスの苛烈な報復を引き起こす。
映画なので当然かなりの脚色がなされているものの、ほぼ史実に基づくらしい。暗殺される司令官役の俳優が、非情酷薄さを実に見事に演じていたのが印象的。その後をつぐ副官が、のんびりしたオッサンに見えていたのが、突如前任者以上の酷薄さで村の抹殺を命じるところなんかは、ヨーロッパではよく知られた事件であるらしいこの話を、うまくドラマとして膨らましていると思えた。
75年製作なので、プラハの春の7年後という歴史背景のなか、ロケを受け入れたチェコは、ナチスをそのままソ連に置き換え、面従腹背の気分を味わっていたのだろう。それでもというか、それゆえにというか、戦争映画のカタルシスは微塵もなく、実に救いなく重苦しい作品である。
全然関係ない話だが、暗殺者として送り込まれた英軍軍曹を演じた、主役のティモシー・ボトムズは最近小ブッシュそっくりサン俳優として売れているらしい。大統領ご本人もこの映画みたいに、自ら敵地に乗り込んで、えらい苦労してフセイン暗殺もくろめば、偉いやっちゃと応援してあげたいですけどね。(2002/04/09)
参考
"Operation Daybreak"(1975)
"That's My Bush!"(この脚本要約はこちら)
硬い本がまるっきり読めないので、ミステリ系でも読んでウォームアップから入ろうなどともくろみ、考えて見ればこれは受験勉強していたころからの言い訳読書パターンで、結局ミステリとかSFだけ読んで終わりになるのは見えているのだった。
それはそうとしても、ふと本屋で見つけたこの本は数時間をなかなか楽しく過ごさせてくれた。「昭和ミステリ秘宝」という文庫シリーズなのだが、謎を構成するためにわざわざ無意味な殺人など起こらないのが実によろしい。死人が出ないわけではないけれど。
ちょっとしたイタズラ心からくる策略はあっても、露骨な暴力も陰謀もなく、登場人物たちはただただ自分たちの生活と芝居に関心を持って、さまざまに愛すべき知恵をめぐらすのである。ミステリと名乗るからには謎解きの要素もちゃんとあり、それは同時に、今に伝えられる歌舞伎の所作や演出のいわれにもなっているという趣向。
収められているのは14の短編で、私みたいに歌舞伎にうとい人間でも知っている、中村仲蔵による「色悪」定九郎の創造エピソードをちょっとひねった「夕立と浪人」とか、八百屋お七が櫓を上る場に着る振袖のいわれについての「振袖と刃物」とか、もちろんすべてフィクションなのだが、芝居がおもな娯楽であった江戸下町の生活を小粋に描写しながら、手堅くまとめられた佳品ぞろいである。
著者の戸板康二は劇評家として知られているが、本物のミステリも結構書いているらしい。それも評論家として一家を成している戸板を熱心に口説いてミステリをかかせたのが、かの江戸川乱歩だったというから面白い。多分、本物のミステリファンはそんなことよく知っているのだろうけれど、私はなんちゃって系読者なので、こういうことにいちいち興味をひかれる。
かの笠井潔は、ミステリとは犯人、被害者、探偵という永遠の登場人物たちによる一種のギリシャ悲劇のようなものだと指摘しているが、この文庫に収められた短編群の場合、主人公は作者の愛してやまぬ歌舞伎そのものであり、それをめぐって善意の犯人たちがさまざまな作為をくわえて、主人公をよりよく変容させていくところを描いたものといえる。
歌舞伎という芸術形式と、人々の永遠の情熱が対比されているという意味で、この短編集はもっとも純粋なミステリなのだといえるのかもしれない。(2003/05/05)
昨日よりはちょっと硬めの本、ということでこれを選ぶ。こうして日々ちょっとづつ硬めの本を選んでいけば、いつのまにか法政大学叢書ウニベルシタシスあたりでも、らくらくと読みこなせるようになるのではないかという、麻の芽を飛び越える忍者トレーニングのごとき発想である。
甲野氏の本は、たしか養老孟司氏との対談本ともう一冊を読んだことがあり、現代に古武術の奥義を回復させようとしている武芸者という、かなり珍しい方として理解しているのだが、この本もその武術鍛錬でえられた立場を平易に語ろうとした解説本のひとつである。
「不安定の使いこなし」という身体技法を軸にして、「水鳥の足」とか、「なじみ」とか、ちょっと門外漢には想像もつかない実践的な技の解説もあるのだけれど、やはりそれを本で読んでもさっぱりわかりはしない。ただ、普通のスポーツ格闘技にあるような、単純力学的説明でなく、といって一部の合気道家がいうような、「気」などというオカルト系曖昧模糊たるものに還元するのでもない姿勢には、合理の側から人の活動を解析しようとする、オープンにして多軸的な視点の新鮮さを感じるのである。
もっとも、それらすべてが自分で鍛錬して体得するしかない極意であるわけで、本を読むだけでは、古武術の香りの一部をオカルト抜きで感じとるぐらいが、スポーツクラブでバテて、かえってビール浸りになるような「体術」しか持ち合わせぬこちとらの限界であろう。
ただ、甲野氏の発想の原点にあるとおもわれる、「武術とは逆縁の出会いを通じて、人間を見つめなおす技術」(勝手にまとめたので全然違うかもしれないが)という見方はじつに身につまされる。言うならば殺傷術にほかならぬ武術は、利害相反する状況で出会わざるをえないこともある人間どおしが、まさに自らの殺傷能力を磨きあうことによって、より高度の同一性にいたりえる可能性を追求する態度である、というのである。
馴れ合いの仲間意識からはなんの生産性もうまれず、せいぜいが歯止めのない貪欲と裏切りぐらいしか出てこないというのは、だらだらと弛緩した人生を生きてきた人間には、苦い経験のひとつふたつとして刻み込まれているものだ。逆縁とまではいかないまでも、隙を見せれば自己の存立も危ういような緊張感をへてこないと、どんな分野でも今ひとつのものに終わるというのも、またなんとなく感じていることである。
甲野氏にすれば、その程度の教訓を引き出す程度の読まれかたでは残念至極というところだろうが、スポーツというのもちょっと違うような、なんか変に利権人脈化した武道のイメージしかない今の状況にあっては、活字だけからはこういう感想しか持ちようがないのもまた事実。(2003/05/06)
借り物DVDでの視聴。面白いのか、面白くないのか、よく分からない映画だった。なんかトリビアルなところに無茶苦茶凝っていて、しかもその作為を素人にもわかるように露出させているくせに、ネタはばらさないと言うような態度がめだつののである。おや失敬、あなた様にはこれは無理でしたね、という感じ。わかりやすく、創り込めていないだけなのかもしれないが。
若くして成功した弁護士であるロイヤル・テネンバウム(ジーン・ハックマン)は、3人の天才児にめぐまれ、その一家の挙動はある種国民的関心を得ていた時期もあるほど。長男は子供のころから国際金融取引で大成功、長女(ただし養女)は戯曲家、次男はジュニアのテニスチャンピオンを経て、プロテニス選手として活躍する。
しかしロイヤルは勝手気ままに暮らし、浮気はするわ、長男の金に手をつけるわのやりたい放題で、別居生活を余儀なくされ、しかも長男から告訴されて有罪となり、法曹資格を失ってしまう。
それでも豪華ホテル住まいを続けていたロイヤルだが、ついには破産して行くところもなくなり、「癌で6週間の命だ」とウソをつき、妻と子供たちのところに転がり込む。おりしも妻は一家の会計士からプロポーズされていて、ロイヤルはこれを阻止するために張り切るのである。
かっての天才児たちはみんな完全に欠陥人格者になっていて、先年妻を飛行機事故で失った長男(ベン・スティラー)は不安にさいなまれて避難訓練フリークに、色ボケ遍歴のすえ、神経学者(これがビル・マーレイなんだけど、全くフツーの人を演じていて、ほかの連中のイカレ具合が強調されている)の妻に納まっている長女は、創作活動も出来なくなって、ひがなバスタブにつかりきりの引きこもり。末っ子は26歳でテニス界から引退し、世界中を放浪していると言う設定。
いわゆる「家族の再生」の話といえば言えるのだが、どうもそういうのは表向きのことだけで、物語としてはわざとタガを緩めさせておいて、ある種の類型性の交錯で作品を構成することをねらっているのではないか、などと考えてしまうのである。
特に気になったのが、場と場をつなぐところに出てくるおんぼろタクシー。いつもジプシータクシーという会社で、しかも徹底的にボロボロ。助手席の窓なんか、ガムテープで塞いである。ほかにもオールドファッションな公衆電話とか、国際金融取引をしている長男やその子供たちがつかう電卓、それに、これを一番に挙げるべきかもしれないが、登場人物全員に画一的ファッションが割り振られていることなど。それと、ロイヤルが自分ででっち上げた墓碑銘とか。腹の中では「ちょっと狙いがあざとかったか」と思っているのか。単にすべってしまっただけのことなのか。
結果として私のような凡庸な視聴者に感じ取れるのは、なんかよう判らんが、そこそこの家庭喜劇だなというところ。自己中心の父親とエキセントリックな子供と言うと、松竹新喜劇の渋谷天外、藤山寛美のシリーズを連想するが、こういう紋切り型物語の排除を目指した(と思える)映画でも、寛美のアホ役が担う一種の聖性を、誰かが背負うことになるのだな(この場合はボルグまがいの末っ子)というのが一般的な感想。(2003/05/12)
多少まとまった読書ができたここ数日なんだけど、かんじんの理解力というか、それらの本の要求水準にまるきり達していないと自覚するばかりの、寂しい初夏の日々なのであった。最近、本読んでもさっぱり理解できんのですな。でも。書くことがないので恥ずかしげもなく書くのです。
その一冊目、丸谷才一の「輝く日の宮」。丸谷才一であって、九谷オーではないのである。正直いうと、この人の本は3冊しか読んでいない。赤穂浪士による吉良家討ち入り(とその神話化)を論じた「忠臣蔵とは何か」、あとはこのサイトにも感想文を残した小説「女ざかり」だけである。小説「裏声で歌へなんとか」は挫折した。だって、つまらなかったんだもん。
学術書(?)である「忠臣蔵〜」はしょうがないとして、小説である「女ざかり」まで、作者による読者への講義というか、説教がはじまったりするのは、ある意味新鮮だった。ウザイとは思わず、もちろんただ感激とまでは行かないまでも、なんだかんだありながら結局のところ、かなりいい加減な主人公たちの性行動倫理に居直る屁理屈を提供してるだけに見えるところが、そこそこ気に入ったわけ。
この小説もその意味では同じようなものである。主人公たちはインテリだったり、エグゼクティブだったりするのであるが、実に他愛なく男と女の関係を取り結んでみたり、あっさり破綻してみたりする。この点、何か力を入れて、そういうのに意味合いを持たせたりする「官能系」とは大違い。食い物の趣味が合う合わないのといおなじレベルで、そういう話が進行するのである。王朝文学の再来といってもいいぐらい。
ああヤダヤダ、オヤジっていうのは手前がそういうのと無関係なものだから、こういう色好み乱交系にホント反発するんだから、と思われるのも承知のうえで、この手の高等人種交遊話はやっぱりつまらんとしかいえないのである。人生って、こんな風にひけらかしと大風呂敷を駆使して、男と女が手練手管で付いたり離れたりするだけのもんだぞ、といわれている様な気がしてくる。
作者はそのつまらなさを自覚しているのか、泉鏡花風の美文で話をおこし、おいおい、これにつき合わされるのかよという読者の不満を、適当なところで学会裏話につなぎ、なんだかよくわからない新劇脚本みたいな学会つばぜり合いの一幕を描いて見せてくれたりして、それなりにサービス満点である。
でもやはりつまらないのだ。才色兼備の女性主人公にふられた、「奥の細道」や「源氏物語」の新解釈はそこそこ面白いのに、それをとなえて結構危ない業界わたらいする主人公の物語はそう面白くない。それは直接国文学業界の内情は知らないまでも、学問業界の類推から、多分似たようなものだと思える予断を持った人間の感想なのかもしれないけれど。
主人公のこの程度の思いつきに業界主流が必死に反発するようなことがあるはずがないし、冷ややかな無視で終わるはずなのである。それは冒頭に掲げられた、主人公が中学生時代に書いたとされる、ささやかなファンタジーに、公安当局がここで示されているような過剰な反応をするはずがないという判断にも通じる。人生に意外な展開があるのは事実ながら、ふつうもうちょっと空回りするもののような気が。
いい歳してるはずでしょう、丸谷さん。狭い世界で耳閉自足したような展開をファンと一緒に楽しむのはいいですよ。でも、それを堂々と押し付けがましく講義するのはいかがでしょう。もうちょっと控えめに、自分の立場の胡散臭さ(もちろんそれは誇るべきものであるのですが)を自覚されてもいいのではないのでしょうか、というような提言をしたくなる物語でありました。
そんな風にツッコミさせたくなる反応を狙った「小説風師弟間通信」というのなら、これは素晴らしい企画というべきか。ところで、今までその作品にはそれなりの理論的バックボーン(『忠臣蔵〜』なら御霊信仰、『女ざかり』なら贈与論)が込められていた丸谷文学、今回はいったい何だったんだろうか。強いていうなら人の宿命というか、いやおうなく与えられている前世と後世、輪廻論とでもいうものだったのかな。(2003/06/30)
アマゾンで本を探していたら、関連書として「天使突抜一丁目」という、少女マンガの題名に聞こえないでもない本が紹介されていた。
久しぶりに聞いた地名だったので、ちょっと懐かしくなり、おもわず注文してしまった。高校の同級生の家がここにあり、初めて聞いたときは妙な地名だと思ったものだ。むかしチンチン電車が走っていた堀川通りの東側に平行して、五条の大通りをはさんで南北に数百mたらず伸びる通りの一帯である。
繊維関係の小商いをしているところが集まっていて、同級生の家も染物屋だった。近所の天神様の境内だったところを突抜ける道だったから、そう呼ばれるようになったと聞いたような。天使というのも、エンジェルではなくて、天神様の使いという意味だったはず。
これがほかの土地ならその名のかわゆさを強調して、観光スポットにでもするところだが、少なくとも当時はまだそんな感じの観光化はされていなかったし、この本の著者によれば、いまもそれは同じであるという。京都人の発想として、自分の住んでいるところを観光化するようなことはかなり恥ずかしいことなのだ。そういう商売でもしていない限り。
この本にはとても一般人にはまねの出来ない、しかも京都でなくてはまず展開できないスタイリッシュなライフスタイルが提案されているのだけれど、私が一番興味をもったのは、まさしく、この本ではまったく触れていない点なのである。この本は、ある意味で京都という街の「光」の部分だけを取り出している。しかし、あの街はそうした「光」の側からでは決してみえないものを抱えているのも事実なのである。それは私自身の京都体験からいえることで、この著者のように、それをまったく捨象できるのはある種の能力といってもいいと思えるほどである。
京都近郊で育っただけで、街中で暮らしたのも短い間だった私は、自分でも京都人だと思っていないし、何より京都のお町内で千年以上も代を重ねて暮らしてきている本物の京都人がそれを認めないだろう。でも、よそ者として京都に接したからこそ見えたと思えるものもある。また本物の京都人以上にその地にこだわり、彼ら風の態度を装ったりしてしまういやらしさを持ってしまうのも自覚する。ほかの地にはまずないこうした傾向を人にもたらすのは、やはり京都という、ある意味、日本の都市文化のプロトタイプを提供している土地の特殊性がなせる技であろうか。
そのような見地から、ぜひ読むべきだと自信を持って勧められる「京都本」は、中世史家の横井清氏による「光あるうちに」である。この本は部落差別問題を中軸にすえた論文集であるが、史学的に差別問題を考察するばかりでなく、いまそこにある具体的問題とも常に往還する語り口となっている。氏が単なる浮世離れした学者にとどまらず、差別問題に具体的にかかわる姿勢を貫いてこられることから、このスタイルは必然であろう。生きた学問というのはこういうものをいうのだと思う。
この本には別扁として「京都幻像 −ある小宇宙」という文章が収められており、これは氏が生まれ育った京都をその体験から記述した、画期的な京都論になっている。名所案内はもちろんの事、「ぶぶ漬け」も「はんなり」も出てこないが、ここまでに京都を生きた町として描いた文章をしらない。どんな京都本にも書いていないが、そこで生活した体験のある人なら、言語化できないまま胸底に抑圧している京都がそこにある。
JRの京都キャンペーンにこころ動かされ、休日にかの地を訪れようと思われる方は、凡百の京都本などには眼をくれず、是非この本の「京都幻像」の部分だけでいいから読んでもらいたいと思う。単なる観光を超えて、京都という都市空間が、典型的な日本人の精神構造の隠喩であることを体験できる糸口になると思うからだ。もちろんそれは、人と社会の暗部を覗き込む、かなり怖い体験なのであるが。
ちょっとビビってしまう人がいれば、その時こそ先の「天使突抜一丁目」でも読み直すのが、正当な手順というものだろう。(2003/07/04,06)
ツール・ド・フランスの放映まで時間を持たせるために、久しぶりにDVDを借りてくる。普通の放送では「阪神にマジック点灯」などというシュール・リアリズム的展開しかやっていないので、それに負けないような骨太系でいこうと、P・K・ディック原作SFである「マイノリティ・レポート」を借りてくる。
題名から内容を予想すれば、多分これは就職試験などにある、とんでもない少数派回答なんかをネタにした映画なんだろう。例えばこんなもの。
次の項目に関して思うことを述べよ。
「日本経済
への期待」
なんていう設問があって、舞い上がった受験生が「への期待」というのも設問だと思い、腹部手術を受けたあと、なかなかオナラが出なかったので、それを切望した体験なんかを長々と書いたりする、そんな「マイノリティ・レポート」に関する話なんだと思ったわけ。たしかこれはかなり有名な就職試験珍解答で、北壮夫さんも小説で使っていたはず。
そういう誤解がたまたま偶然にも国家機密を暴露するような内容だったため、主人公は秘密機関に追われたりするのだろうかな、お笑いになるギリギリのところでうまくまとめるのが難しそうだ、なんていう先入観で見始めた。
ところが話はまったく違い、超能力者による未来予測によって殺人事件を予防するようになった21世紀半ばのアメリカで、その制度の運用をめぐって省庁間と現場がせめぎあいをするような、SF官僚利権ミステリなのであった。
未来の映像化などの方向にはそこそこ力が入っているけれど、肝腎のプレコグ(はじめプルコギだと思ったよ。なんで韓国焼肉が出て来るんだとちょっと困惑)の超能力を出し抜いて権力犯罪を目論む、そのあたりのプロセスは矛盾だらけ。何より、子供が死ぬ話は「先代萩」だって見たくない私としては、7月にマジックが点灯するような、「不条理阪神戦」でも見ていたほうがましだったかな、というのが正直なところ。
これは絶対私が予想したような、公務員試験でエリートになるはずだった東大生が、たまたまとんでもない誤解で「マイノリティ・レポート」を書いてしまい、それが原因で秘密国家機関に追われるような話のほうが絶対面白いと思う。このアイディアぱくって小説や映画にまとめられる人がいても、私は決して文句言いません。でも、印税の5%ぐらいはくださいね。(2003/07/08)
「死が招く―ツイスト博士シリーズ」 (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)。あの殊能将之氏が愛してやまぬ、フランス本格ミステリ作家、ポール・アルテの日本紹介二作目である。和訳一作目の「第四の扉」を読んだときにも感じたように、ディクスン・カーへのオマージュ作品をなぜかフランス人が書くというけったいな趣向が、なかなかの批評性を発揮しているとは思える。でも、この作品なんかちょっとやりすぎの感もあるほどで、なんだか意図的ほめ殺しを目論んでいるのではとまで感じるほど。
事件そのものは、本格推理ものとして貫壁と言えるほどのつかみではじまる。ロンドン警視庁の刑事が証人となる密室状況で、ミステリ作家が射殺死体として見つかる。その部屋の中には、ディナーの準備がしつらえられ、煮えたぎる鍋に顔と両手を突っ込み、額を打ち抜かれている死体がある。当初自殺と思われたものの、死体の推定死亡時間はその一日前なのである。
犯人はどうやってディナーの準備をして死体を配置し、そこから抜け出したのか。犯罪学者、アラン・ツイスト博士が謎を追う、というわけ。去年の3月ごろ、e-Novelというサイトで、日本人が書いたディクスン・カーのパスティーシュ短編、「彼女がペイシェンスを殺すはずがない」という密室殺人物の犯人あてクイズと言うのをやっていて、あんまりトリックがバレバレだったので思わず応募したところ、正解ということで実にささやかな賞品をいただいた事があったのだが、まさかあれと同じではあるまいなと思っていたら、基本的にはトリック構成は同じものなのである。勿論、論理的にはそれ以外ありえないので、こいつが犯人ということなら、もうちょっと発端のあたりの書き方考えたらいいのにと、ぶつぶつ文句いいながら読むことになるんだけれど。(こちらの3月14日と、19日の記事を参照されたい。ある意味ネタバレなので御注意を)
フランス語で書こうが、日本語で書こうが、なんちゃんってディクスン・カーを目指せば似たような物にしかならないというところなんでしょうかな。小説自体の構成の甘さとか、登場人物たちのご都合主義的な描かれ方なんかに文句をいってもしょうがなく、正直いってこれはこれで半日を楽しく過ごさせてくれたのだけれど、あらゆる分野が次第に衰退する一方の末法の世なんだということを、いまさらながらに確認した物件だった。
私の子供時代、世界というものはどんどんと進歩し、進化し、新しいものが次々に生まれでてくるものだと信じきっていたものだけれど、そんなのまったくの幻想だったんだな、と寂しく冊子を閉じたのでした。いや、これが面白くないといっているのではないですよ。(2003/07/24)
例によって、職場のDVDコレクターからの借り物。主演のアダム・サンドラーが製作総指揮をこなし、脚本の一部も書いているようだ。監督はスティーブン・ブリル。やはりアダム・サンドラーが主演した、「ウエディング・シンガー」の監督ですな。こちらはTVで見るにはちょうどいいような映画でした。(参考URL)
地獄の魔王の三人息子はそろって出来損ないで、長男と次男は父親の座を奪おうと、地上に出てきて悪さの限りをしまくる。兄たちからいじめられていた末っ子のニッキーに、兄たちを連れ戻すという任務が下される。兄たちが勝手に地上に出たので、地獄にはなぜか新しい魂が補給されなくなってしまい、魔王の身体はどんどん衰弱していくので、この任務はすばやくこなす必要があるのだ。地上のことは何も知らないニッキーが、案内役のしゃべるブルドックと、バカの限りを尽くして兄たちと対決するという話。バカとバカの間には、ちゃんとラブストーリーまで挟んであって、なかなかテンポはいいのである。
ニッキーは兄たちにスコップでぶん殴られて、顔がゆがんでいるという設定で、そうなるぐらいだから上下肢の動きにも、外傷性脳性麻痺様の運動巧緻性障害があることになっているようだ。でも、顔のゆがみ以外は徹底していないのが難点。これはいつぞや見た「スコア」でのエドワード・ノートンのCP演技が素晴らしかったので、お笑いとはいえあのぐらいのレベルはやってほしかったなと思ってしまうのだ。こっちは外傷性なので、ちょっと一般的病像を提示しにくいかもしれないな、などと思ったり。
元ネタがよくわからないようなギャグばっかり満載の映画なので、そんなどうでもいいようなところぐらいしかコメントするところがない、というのが正直な感想。いや、面白いんですよ、確かに。ストーリーは完全に、渋谷天外・藤山寛美の親バカ子バカのリメイクそのものだといってもいいし。これに100億円かけたというのが、ちょっと信じられないけれど。悪魔の話だけに、ちょっとハートウォーミング風にしておいた、計画倒産系のウラ金つくり狙いだったりして。(2003/08/07)
またまた職場のDVDライブラリからの借り物。題名からして、売れないフォークデュオが、フロックで人気者になる話に違いなかろうと思ったのだが、DVDケースの解説を読めば、91年に出たミステリィ、「秘密の友人」の映画化なんだと知ってビックリである。数年前に小説のほうを読んでいたので、それとの比較という、結構楽しい視聴ポイントが得られた意外作といえようか。(参照はこちら)
映画は小説のほうとはかなり設定が違っていて、主人公の精神科医ネイサン(マイケル・ダグラス)はえらく金持ちだし、なんか押し出しの強いナイスミドルである。原作では、全然はやらない零細クリニックをやっている、さえないハゲオヤジだったはずなんだけど。
10年前に銀行を襲って、貸し金庫から1000万ドルもする赤ダイヤ(そんなものあるのか?)を奪ったギャング集団がいて、そいつらが仲間割れして、かんじんのダイヤがどっかに行ってしまうのである。主犯たちは、隠し持つ元メンバーを殺して、もうちょっとでそれを取り戻せるはずがうまくいかず、刑務所に行くことになる。
殺されたほうの男の娘が、どうも赤ダイヤのありかを知っているらしいということだけはわかっているらしいのだが、そのとき8歳だった娘のほうは父親が死ぬ光景を目撃したため、PTSDになってしまったと、精神科の治療施設を転々としているのである。18になったその娘をたまたま預かった精神病院が、ネイサンの元の勤務先で、主治医からネイサンはその娘の診察を依頼されるのである。
ネイサンは正しくも、この娘は精神病を詐病していることを見抜くのだが(そりゃ、どう見たって素人がイメージするキチガイをやってれば、詐病だと思うしかないですわなぁ)、まあ感謝祭の前の日だったので、またゆっくりと見ましょうという話で誤魔化しておくのである。
そうしたら、感謝祭当日の翌日早々、ネイサンの8歳の娘が誘拐され、「娘から6桁の数字を聞き出せば娘を返す」という犯人からの指令が来る。どう見たって、主治医もグルでないとこういうすばやい展開はありえないのだが、ネイサンはなぜか途中まで気付かない。娘が誘拐されて、混乱していればこんなもんですかなぁ。
犯人グループはネイサンのアパート(というにはいささか豪華だけど)から、病院まで、えらくハイテクな監視盗聴網を張り巡らしていて、一挙一動を監視されているので余計な事は出来ないという設定。主治医は愛人の研修医を人質に取られていて、やむなくネイサンを巻き込んだことになっている。理由はただ、ネイサンは腕がいいということだけ。まわりがバカばっかりという可能性は高い。
たまにパニックになるだけで、基本的には正気の娘が相手なので、ネイサンは難なく娘が知っているという秘密に迫るのだが、先ごろ出所したばかりの犯人グループにすれば、その娘が鍵を握っているのはわかるにせよ、ダイヤのありかが6桁の数字にかかっているというようなことを知る理由など全くないのが、この脚本の根本的破綻部分。小説のほうは、この辺に関しては、もう少しちゃんとした筋立てがあったような記憶があるのですけどね。
しかし、原作の小説には、もっとどうにもならぬ破綻があったのですわ。それは秘密を知る娘は分裂病だとされているのに、作者のほうはそれと多重人格障害との区別が全く付いていなかったという点。さすがにあれはまずいということで、映画化の際に、基本的には詐病の神経症圏という設定に変えたのだろう。「ダーティ・ハリー」の2だったか、3だったかみたいに、この辺がデタラメでも映画に出来るというような、ノンキな時代ではなくなっているということですな。
原作ではさえないオヤジが、知能犯で、かつ冷酷な犯人グループと必死になって戦う一生懸命さが、破綻があるなりに好感が持てたのだけど、この映画ではその一生懸命さは主人公の奥さんに移しかえられているような印象である。
91年の原作のときには、アパート各室に、わからぬように監視カメラをおくことなんか出来ないというのが、解決に向けての一つの洞察になっていたのに、この映画では、なんでそんなに準備する余裕があったんだろうと思うほど、徹底的なハイテク監視網が出来ているのが面白い。10年で技術はそこまで進化したんですねぇ。
ところで、この映画の邦題、「サウンド・オブ・サイレンス」ってなんだったんでしょう。じぇんじぇん根拠ないぞ。いずれにせよ、B級ミステリィにおける破綻の質と量の積は、設定を多少変えても保存されるという、擬似的ボイルの法則を発見できたような気がするのがうれしいところ。(2003/08/12)
なお、この映画の原題"Don't Say a Word"は、小説のほうの原題と同じ。「秘密の友人」っていう小説の邦題もイマイチ。
かの新進ミステリ作家、殊能将之の新作、講談社ミステリーランドなる叢書の第一回配本分である。
250ページほどの掌本で、しかも大きな活字に漢字総ルビ振りという、少年文学風というか、ある種絵本のような仕立てなので、読むのには2時間とかからない。それを得したと考えるか、なんじゃこれはと考えるかは、かなり人によるであろう。10代初めの少年が、心的外傷をもって引きこもる友人とかかわるなかで経験する、ささやかな冒険譚である。少年の視点そのものから、自分の世界以外への怖れと興味を、うまく物語にしている佳作だと思う。昔の(可能性があったころの)丸山健二をちょっと思い出したりして。
最近の戦隊ものTV番組を、古典に先祖がえりさせたようなドラマを、うまく(という程でもないか)筋だてに生かしているところが面白い。作者からの、昨今のTVドラマ作り批判というべきか、原稿料稼ぎ書き伸ばし作戦といおうか。
主人公の少年の主観的冒険と、現実におこる事件とが必ずしもうまくかみ合っているわけではないけれど、読後もそこそこの満足が得られる一作。この作者は本来、純文系の人なんでしょうね。これで芥川賞は無理なような気がするが、三島賞なら可能な気が。
ところで、日本代表対ナイジェリア戦をみていたら、この作家が愛する「真矢みき」様がでてきて日本国家を歌っていた。直前に「芥川賞は無理」などといいつつ、これは殊能将之を鼓舞して国民的文豪にする為の謀略がはじまっているのでは、なんて感じてしまたのはちょっと考えすぎか。(2003/08/20)