どうも自分では読む規準を決められないミステリィ/SFなんだが、殊能将之さんのウェブで4月後半に紹介されていた、クリストファー・プリーストの文庫本「奇術師」(ハヤカワ文庫 FT)、「逆転世界」(創元SF文庫)が近所の本屋においてあったので、早速購入。患者があまり来ない当直の夜に、二冊とも読了。
なにせ少なくとも「奇術師」のほうは、あの殊能将之氏じきじきにお褒めの言葉が出ているのだから、面白いに決まっていると信じたのだ。それも、SFファンにもミステリィファンにもおすすめというようなことが書いてあったように思ったので、必死に読んだのだが正直言って今ひとつであった。
19世紀末から20世紀にかけて、「瞬間移動」ということをネタにした、ボーデンとエンジャという二人の奇術師の反目というか、抗争を軸にした物語なのだが、一部はある意味でのトリックにつながる、入れ子になった叙述構造になっている。ところが、その記述トリックがすでにバレバレで、これはわざとミスディレクションするためなんだろうな、と思っていたら別にそうでもないのだった。
一人の人物が、あるところから別のところに瞬間移動するといったら、合理的解決はひとつしかないありえないわけで、ボーデンという奇術師はその古典的な方法で名声を博しているのである。それに対して、反目するエンジャという奇術師は小説の上でしか成り立たない対抗ネタを使ってそれを圧倒し、それゆえに意外なカタスロフ(このあたり、どう言えばいいか微妙)が生じるというような話である。
殊能将之氏は、二人の奇術師の「謎」に対する態度を、SFとミステリィに対する微妙な好みの差に分類するわけだが、正直言ってどちらの好みからみても、そう興味を保てるモノではなかったように思う。あ、よく読めば「本格ミステリ読者もSF読者も、『奇術師』の語りにいらだつかもしれない。本格ミステリ読者はタネが明示されないことに、SF読者は文字どおりに受けとれないことに」と、ちゃんと書いてあるわ。「だからこそ、どちらの読者にとっても読む価値はある小説」だというレトリックだったんだ。
私としては、叙述トリックレベルがミエミエのボーデンのほうの記述にどんでん返しがあるのか、と思って読み続けたので、エンジャのほうの非合理系パートに物語的オチが置かれたのが意外という印象だった。はじめから非合理なんだから、「オチ」の質を期待するほうが無理ということか。「向こうの囲いにUFOが着陸したね」「そうだよ。危険だから近づかないで」「ハイわかりました」、え、オチはナシかよっていう感じ。
純然SFである「逆転世界」のほうは全く語るべきことはない。「奇術師」のエンジャのパートだけが分離したようなもので、SF系屁理屈を展開しているのかと思えば、オチの部分でえらくツマラン事実が解明されるという構造を持つだけの物語である。ハード面の屁理屈展開も今ひとつでありました。表面的合理性がすっきりしていないと、こういうのは面白くないんですよね。
いまどき、こういう話に感心する人がいるんですかな。オチのあとでも矛盾として残る細かな点について、主人公の怒りに満ちたツッコッミ咆哮で済ませるという処理法に関しては納得したのだけれど。「なんでやねん!!」といっておけば、どんな破綻があっても回収しえるということですな。
たしか、社会学系のSFってのがはやった時代があるように思うのだが、こういうのを踏まえてそういうのは生まれたんだろうなという印象。現実は、差し当たっての生存のためと信じることについて、人はアホなことでもやり続けるということは証明済みで、この話なんて案外教訓的ではあるのだけれど。ただし、正しいからといって、面白いわけではないわけで。(2004/05/15)
毎日新聞の日曜日書評に、町田康の「パンク侍、斬られて候」(マガジンハウス)が激賞されていて、ついついアマゾンに注文してしまった。この人の文章は時々新聞や雑誌で読む事があるのだが、面白いなと思う一方、なんとなく買ってまで読む気はしないというのが本音だったのである。理由はなんとも言いようがないが、こんな風に気になるけれど、まず読まないという作家は誰しもいるものだろう。私の場合は橋本治とか、中島らもとか、この人であった。
それでも、本は火曜日の夕方に届き、読み出したらたちまちハマってしまって、一晩で読んでしまった。中里介山の「大菩薩峠」のパロディではじまり、半村良の「妖星伝」風の味付けやら、企業小説へのおちょくりみたいな雰囲気まであり、最後は永井豪風の全破壊で終わるという、まことに盛り沢山の趣向である。登場人物同士が延々とメタな会話をし続けるのも、単なるお笑いを超えている。
しかもそのほとんどの展開が、まったくその場限りの音韻連合と観念連合の進行に任せて行われているかに見える。一応「時代小説」なので、やたらに難しい熟語や言い回しも混ぜ込まれているのが芸が細かい。「猖獗」なんて言葉、ふつう使わんぞ。だからストーリーというのはあって無きがごときもので、お約束のように流れていくかと思えば、突然「浪人者が飯屋で、『おやじ!酒と飯だ!』といったとき、出てくるものは何か」というような非常に気になるトリビアに引っかかったりするのである。
一応大まかな進行は、掛十之進という超人的な剣の使い手である浪人が、「腹ふり党」という邪教の進入を防ぐといって黒和藩に詐欺的に取り入ろうという話である。隣藩でこの腹ふり党は一時猖獗を極め、危機的な状況をきたした事があるが、掛はこれをアドバイザーとして駆逐した経験があるというのだ。黒和藩には内藤帯刀というキャリア系家老と、体育会系人脈をバックにする大浦主膳という家老の対立があり、内藤はこの掛という詐欺男をつかって大浦を追い落とせると思いつく。
腹ふり党というのは、この世界は間違って作られたうえに、一匹の巨大な条虫に飲み込まれた偽りの世界であるという教義を持った教団である。リズミカルに腹をふるというようなアホらしい行為をこの条虫は嫌うので、一切の秩序を捨ててアホなことをしまくっていれば条虫が苦しがってこの世界から排泄されて、「御糞」という本来の存在になれるというのである。
内藤はすでに鎮圧された隣藩の腹ふり党の元幹部で、内通して司法取引で助命された茶山半郎を掛に命じて連れてこさせ、藩内でやらせの布教活動を行わせる。前もって大浦に腹ふり党対策への反対意見を表明させておき、危機の責任を問うという搦め手作戦である。これは見事に成功し、あわれ大浦は失脚、猿回しをやるための猿まわ奉行なるものに降格されてしまう。
ところが茶山によるやらせ布教は成功しすぎてしまい、黒和藩には近在近郷のアホとバカが集結して、腹ふりをしながら大破壊活動を展開しはじめる。それを鎮圧するために内藤たちは意外な援軍を得て大決戦に及ぶ……、というような話である。こうまとめるとまことに波乱万丈の大活劇のように思われるだろうが、話がそういう具合に進行するための細かな条件というのは全くご都合主義というか、適当なところで超能力者は出てくるし、主要登場人物が幼馴染だったり、なぜか言葉をしゃべる猿がでてくるし、まるっきり必然性などありはしないのである。
その違和感あふれる連続の不連続感を楽しむのが、この小説の醍醐味と言うことなんだろうな、というのが読後感。実に面白かったのだが、正直言って、「一度読めばもういいぞ」というのが冷静な判断である。同質以上の驚きを与えてくれて、しかも別趣向というのを、次々に考え出すというのは絶対無理ではないだろうか。今度この人の本を読むときは、ごく普通の小説を書いたとされる時であろうと思う。
また思わぬことではあったが、かなりはじけた文体だなと、結構興味を持って読んでいた個人サイトのいくつかが、結局この人の文体の真似をしていたのだというのに気づく。書いてあることは全然どうでもよかったが、文体が面白かったから読んでたのに。おかげで、暇つぶしに読みにいくところが少なくなってしまったのが残念。(2004/05/20)
殊能将之さんの日記で知ったのだけれど、今フジテレビ系で「グータン」という「精神分析バラエティ」なるものが放映されているのだそうだ。惜しいことに今までその番組を見たことがなく、殊能さんの短いコメントやら、ネットでわかる程度のことを前提にするだけなのだが、TV視聴者、というより大衆一般の専門的科学に対する幻想を実にうまくとりあげた、プロならではの企画といえると思う。
世の中で妙な事件がおこると、精神科医や心理カウンセラー(リアル社会で会った事が無いんだが、どこにいるんだろう)なる肩書きの人があらわれて、専門的見地から何か高遠な解説をくだすのは今までもよくあった。わかりにくい事件であるほど専門家が重用され、その内容はともかく、お墨付のある人が説明したということで、奇怪な出来事でも人々がなんとか受容していくきっかけになりえたわけである。
それがこの番組では、そういう構造を幾分かは受け継ぎつつ、さらに世俗化させて、タレントの性格とか対人行動原理のようなものを精神科医が読み取って解説するという内容になっているらしい。それをやるのがNという精神科医で、私よりは一回りほど下の世代に属する人のようだ。自分のクリニックを開業しつつ、大学で教え、マスコミ(芸能界といったほうがいいのか)にでて、漫画の原作までやってるらしい。クリニックの方、はやってないのかしら。自分の経験から言えば、非常勤講師の手当てとか、印税なんて知れてるよ。医業のほうが圧倒的にコストパフォーマンス高いんだけれど。
この番組の企画は確かにプロならではと思うのだが、やはりそれがよって立っているところは「幻想」でしかない、というのは業界人として指摘しておくべきであろう。精神医学は精神疾患を診断し、治療するための学問であって、普通レベル以上に社会適応している人について、あれこれ詮索をするための手段ではない。N氏がどれだけ見事にタレントの性格傾向を描き出そうと、それはN氏なりの人間批評めいたものであって、精神医学とは無関係なものだ。
簡単に言えば、職業的精神科医というのはビョーキの人だけを相手にするということだ。おもしろおかしく人の行動類型を説明するのには、正統的精神医学はそんなに役に立たないのである。古典的な精神分析理論などを持ち出せば、多少はそれに類したことが出来ないでもないだろうが、そんなのはもはや食傷だろう。ラカンでは何いってるかわからんし。
番組サイトから読み取るかぎりでは、N氏はビジネス心理学という形で世俗化した某人格理論に依拠しているらしい。あのへんはド素人威嚇という言う同じ狙いをもつものであっても、フロイトやユングみたいに、墓掘り人がやたらに競合していないので、まだ食傷するほどではない。結局最後は「自己実現」みたいな話になるので、説教臭くていかんが。うつ病の回復期とか、思春期の一時的ゆらぎみたいな例をケアしていく時の、雑談的ネタにはなるけれど。
かなりインチキがあるにせよ、精神科医がその職能とされるものを通じてタレントになるというのは、今までになかったパターンであるので、N氏には是非がんばってもらいたいものだ。勘違いのためであろうと、精神科医を目指す人が増えるかも知れず、業界発展につながる可能性もあるからである。その「芸」がさらに高められるよう、僭越ながら協力を惜しまぬ心積もりである。といって、番組みるのを忘れないようにするというだけですが。(2004/05/24)
(7/04付記:結局、7月になってもいまだに見る機会がありまへん。まだやってるのかねぇ。)
自宅になぜか南木佳士のエッセイ集、「天地有情」(岩波書店)が置いてあった。家人が図書館で借りてきたとのこと。このほとんど同世代の医師作家の書いた文章は、新聞や雑誌に掲載されたものを拾い読みすることはあっても、その本をまとめて読んだことはなかった。いままでその単発文章を読む限りでは、それほどその生真面目パワーをヘヴィーには感じられなかったのが、まとめて読んでみれば、あわやノックアウト寸前ともいえる迫力を覚えてしまったのであった。
エッセイ自体の優秀さについてはまたおいおい触れるとして、一番印象深かったのがその題名になっている「天地有情」という言葉であった。本人の説明によれば、それはなんと哲学者の大森荘蔵の文章から由来したものなのであった。南木佳士は大森をしばしば引用するのだ。人間は天地の風情に感情を投影するのではなく、天地そのものがすでに情をもっていて、人はその一部を分け与えられているに過ぎない、というような意味らしい。
大森荘蔵、私にはこの人はある意味、精神外傷そのものなのである。この人の本を訳わからぬまま、一体何冊読んだろう。解説本を読んでもなお理解できないその時間論あたりははじめからあきらめるとして、「天地有情」という言葉の背景である、自然科学の前提とされている他我の分離への批判も私には理解できなかった。
いわゆる科学的分析的客観主義を、日常的な主観のあり方の諸相と対比して解体するという意図はわからないでもないのだが、そもそも、人間の知覚というのはそれ自体現実と同じものではないわけで、というよりある種の情報圧縮をやっているからこそ知覚になるわけで、日常的であろうが科学的であろうが対象化=情報化であって、それはすでに加工されたものなのではないだろうか。
南木はその本の中で、「言葉は状況の一部に過ぎない」という大森の言葉も引くのだが、状況というものだって、人間がそう捉えるものはすでに抽象化されていて、言語的な構造に置き換えられているといえるのだから、大森がいい、南木が捉えなおすほど天然自然のものでもないと思うんだが。
何しろこちらは大森をサッパリ理解できなかったという負い目があるものだから、どう考えても順序がひっくり返ってるだけだと思える、「世界は感情的なのであり、天地有情である」という言葉を確信的に引く南木の豪胆に、ひたすら驚くのである。
そこまで思い切れる南木が、効果が限定されているのは織り込み済みと思えるガンの化学治療を専門としていて、それに傷つき、疲れ果てたポーズを示すのに疑問を感じるのだった。ポーズといえば失礼だが、割り切らないとしょうがない領域をやっていて、そんなに参ってしまわないといけないかねぇ、と思わざるを得ない。
文章力はもちろんのこと、本職に対する誠実さと真摯さも明らかにむこうが数百倍上なのだが、それが現実的矛盾を解決する方向に向かっていないように思えるのである。なにかその誠実さが、変に濫用浪費されてしまっているというか。私みたいにおちゃらけでやっていかないと、そりゃうつ病も遷延するぞ、そのへん誰か指摘してやれよと、その静謐な文章を前に、ひとりイライラしてしまうのである。 (2004/06/08)
フィリッパ・ジョルダーノやサラ・ブライトマンみたいな、クラシック・クロスオーバーと呼ばれるような女性歌手が最近はやりなので、同じような位置付けの男性歌手も出てくるだろうと思っていたら、やはり続々と売り出されてきているようだ。
4月に日本で公演し、そのコンサート評がえらく好意的だったラッセル・ワトソンのCDをアマゾンに注文していたら、やっと今日届く。輸入版を注文したので、例の輸入規制法案という世紀の愚法の上程があったため、業者が躊躇していたのかもしれん。
早速聞いて見るが、予想以上の張りと艶のある美声に大満足である。いわゆるクラシックファンなら、こういう分かりやすさは嫌悪するんだろうが、結局は時間つぶしのエンターテインメントなんだから、安易も迎合もありますかいな。気楽に楽しめればいいわけで。
男性歌手でこの路線をねらったというと、少々いわゆる「カンツォーネ」に傾いているとはいえ、アンドレア・ボチェッリもそう。でも、事故で失明したという不幸な経緯とその風貌が、偶然にも麻原彰晃を連想させるという不利を背負ってしまっていて、市場的な成功に不安を感じさせてしまう。私は大好きなんだけど。
マニアックなところでは最近話題のイアン・ボストリッジだが、この人は哲学と史学をまず修めたというそのインテリ性が、大々的に売れるには邪魔をしてしまいそうな気がする。この前、TVでこの人のコンサートをやっていたが、ジム・キャリーを意識しているのか、要所で顔の反面だけを歪める芸が決まっていた。あのへんを強調すれば大ブレイクにつながるかもしれない。
日本にも、こういう傾向の歌手がどんどん出てきてくれないかと願うものだ。「新撰組」の主題歌をうたっている、ジョン・健・ヌッツォなんか、そういう風に売ればいいのに。まあ、この前彼がTVに出ていたときは、蟹江敬三のそっくりさんだと思ってしまったけれども。錦織健では出川哲朗と区別がつかんのだし。(2004/06/10)
寝起きの頭で新日曜美術館をみていて、どういう脈絡で出てきたのか、「春の夜の夢の浮橋とだえして峰に別るる横雲の空」という藤原定家の和歌が紹介され、妙に気になったので早速検索。要は、さっぱり意味がわからなかったのである。
すると専門家によるこういう解説ページが出てきた。そこには「新古今和歌集中随一の秘歌とされ多くの秘伝口伝を抱えているいわゆる難解歌」とあるので、私に意味が分からなかったのも当然であろう。解釈についてはさまざまな意見があるようだが、上の句と下の句に時間的ずれがあるとする説が有力らしい。
「夢から覚めて起きだし、明け行く外の景色をながめたら、峰に雲がたなびいていた」ということだと。「枕草子」の「春はあけぼの。やうやうしろくなり行く、山ぎはすこしあかりて、むらさきだちたる雲のほそくたなびきたる」がこの歌の前提になっているともいわれるらしいが、そういわれればそうかと思いつつ、なんとなくこの歌の奇妙な雰囲気を、屁理屈で説明しただけのように思わないでもない。リンクしたページの著者はもっと深遠な解釈に組するのだが、そちらのほうはなんだかさっぱり分からない。
そういうブンガク的な感慨とは別に一番興味を引かれたのが、定家の孫である藤原為顕によるこの歌の批判であった。為顕によれば、この歌は「乱思病」の典型だというのだ。「乱思病といふは、うたの心も聞こえず、理もなきうたなり」。理がない、つまり論理が一貫していないというのだ。論理を軸にして言葉を飾っていくのが和歌で、「理のきこえざらむは、歌にあらず。よくよく嫌ふべきなり」とまで、大家である自分の爺様を批判するのだからすごい。
為顕はほかにも「同詞の病、同字の病」という和歌の病をあげている。残念なことにこれらについてはちゃんと解説されている文章を見つけることはできなかったが、何となく想像できないこともない。音韻連合の妙で作られたような和歌のことをいうのであろう。駄洒落系和歌というわけね。それも芸のうちではないかとも思うが。
なんでそういう古典文芸論みたいな、柄にも似合わないことに興味を持ったのかというと、これはつまり精神分裂病の症候論に通じるところがあるからだ。分裂病の基本症候には思考障害があって、これは連合弛緩というような堅い言葉であらわされるのだが、要は思考を論理的にまとめることができなくなり、形態や音の類似という、駄洒落っぽい関連に思考内容が引っ張られていく傾向をさしている。まさしく為顕のいう「同詞の病、同字の病、乱思病」なのである。
鎌倉時代の歌人が、分裂病の症候論につうじる記述をしていたというのがまことに感慨深い。もちろん、それは和歌という言語的創作について述べているのであって、分裂病について語っているわけではない。しかし、言語活動というものが陥る可能性のある病的パターンを取り上げたという意味では、分裂病の症候論を完成させたクレペリンやブロイラーに先立つこと六百年である。これで為顕がもっとやわらかい和語でそれらの「病」を命名してくれていたら、業界術語に取り入れるべく微力を尽くすのだがと、少々残念。
元の「春の夜の夢の浮橋とだえして……」に話を戻せば、この歌の持つ奇妙な雰囲気というのは、まさしくその「乱思病」ゆえではないかと思うのだ。目覚めたばかりの軽度意識水準低下状態で、夢の浮橋というようなあいまいな言語イメージが、遠くの峰にかかる雲の形態と混じりあうような思考の解体状態、いうならば日常の意識の中に立ち現れるヌミノーゼ的な瞬間が、うまく表現されているのではないだろうか。
確かに為顕のいうように、この歌は観念連合弛緩の典型なのだが、定家はまさしくそれを描きたかったと思うのだ。それゆえにこそ、この歌が難解といわれつつも名歌として人々に記憶されつづけているのであろう。なんてこといいつつ、私はこんな和歌のことなど、今朝までまるっきり知りませんでしたが。(2004/06/20)
カイエ・ソバージュ(1)「人類最古の哲学」(中沢新一:講談社メチエ)を読む。そのあと5巻まであるシリーズも半分ほどは読み終えたのだけれど、なんというか、神話の構造主義的読み取りの入門書という感じに終始するのがあっけないほどである。大学の講義をまとめたものらしいので、わかりやすく原則にそって説明したということなのかもしれない。
この第一巻ではもっぱら、民話のシンデレラを題材にし、さまざまな民族に伝えられたそのバリエーションを紹介し、神話的原像をさぐるというかたちで講義が進む。貧富や美醜という現実的な不均衡を媒介するという機能にとどまらず、生と死という絶対的不均衡すら媒介する神話的構造がそこに見え隠れしていることを示すのである。
途中まで読んだ限りでは、後に続く巻もさまざまに題材を変えて、この「対称性の回復」という神話的テーマを解説しているようだ。このシリーズには共通の前書きがあって、著者の全体的な意図を示しているのだが、それによれば新石器革命という人間の基本的文明を作り上げた「野生の思考」という能力は、神話や儀礼のなかに如実に示されており、近代の科学革命もその能力の延長にあるとされる。
そして、新石器的な文明を否定して成立したのが、第一次形而上革命である一神教で、それをさらに否定した第二次形而上革命が、先ほどの科学革命なのだという。そして現在は過渡的であって、科学革命の成果がほぼ出尽くす予感が広がり、第三次形而上革命の可能性をうかがう時代なのだとも。
じゃあ、科学がその原型を借りているという「野生の思考」には限界があるわけね?と聞き返したくなるが、著者は平気なもので、「一神教の開いた地平を科学的思考によって変革することによって」その第三次形而上革命の見通しが得られるようなことをいう。なんかこのあたりは少々混乱してませんかといいたいが、多分こちらの理解力のなさに由来するのだろう。そのへんはあいまいに、神話的思考の原点に立ち戻ることで、現代の閉塞状況に風穴を開けられるというムードで読み続けることにしている。
私なんかは決め付け的に、人間の脳というハードウェアには、世界を対照的バランスをたもった秩序として認知し、その原理にそう価値観をも生む生得的な構造があるのだが、一神教や資本主義経済という現実的非対称性とのミスマッチが、種々の脳内不具合を生むのだろうという「と」理屈を以前からひそかに暖めている。差し当たってのミスマッチを乗り越えるためには、対称性の世界にいったん立ち返るしかないと考えていたりするのだが、いかんせん、近頃の脳科学が次々に脳の非対称的原理ばっかりを発見してくれるので(欲望というのは遺伝子というモジュールに乗っかって、外部からやってくるようなのだ)、どうも旗色が悪い。
私らの分野では、精神疾患の症状論を、神話的な秩序回復を図ろうとする、はかないパフォーマンスとしてまとめなおすことはそう難しい作業ではない。10数年ほど前のニューアカブームの頃には、出来の悪い試みの論文がいくつか出たこともある。業界では皆、なかったことにしているけれど。精神分析と同じように、いかに見事に妄想の構造分析をしてみたところで、別にそれはある種の趣味的解釈の一つになるだけなのだ。間違うと「へたった脳みそのやることは、未開思考に似てしまうんですな」で済まされてしまったりするぐらいで。
そういう個別的分野でのつたない経験があるものだから、中沢がこのシリーズで提唱するように、いまさら構造主義的素養を背景にした神話的思考の回復をしたところで、そんなに「新しい地平」なんてものを切り開けるのかいな、と冷ややかに眺めてしまう。しかし、不徹底なまま放り出した負い目のある立場としては、ついつい気になってこっそり読んで、パクり戻すネタはないかとうかがうのである。そういう成果が得られそうなら、また報告ということで。(2004/06/25)
あまり一般的関心にかける話題で恐縮なのだが、いよいよツール・ド・フランス(TDF)の開幕である。自転車ロードレース自体はとっくにシーズンが始まっていて、ジロ・デ・イタリアもすでにCATVで放映されていたのだけれども、相変わらず2週間以上のタイムラグがある。ほとんど大勢が決しかけたあたりで、初日からの放映を始めるのだ。
私としても、リアルで見ることにそうこだわりがあるわけではなく、現にサッカーの欧州選手権なんかは全部録画で見ているのだが、それにしても試合自体の余韻覚めやらぬ時間に見るから面白いのである。プロ野球を2週間おくれの録画放映でしか見られないなんて事、想像できますかね。
毎年今頃いつも同じことばっかり書いているような気がするので、今年はジロのほうは黙ってネットだけで結果を見ておいたが、やはりイマイチ楽しめなかった。でも、なぜかTDFだけは一応リアルで放映してくれる伝統があるので、せめておとなしくそれを楽しまさせて頂こうと思う。
ところで、殊能将之さんの日記の6月21日の記事で、「明石家さんまはだいじょうぶか」と書かれてあった。「さんまは確実にEURO2004と全米オープンを見ているはず。少し前はNBAファイナルも見ていただろうし、次はウィンブルドンを見ることになるだろう。でもって、あれだけのレギュラー番組をこなしていくとすると、結論は『眠らない』ってことだと思うんだが」。さんまの興味範囲で、ここ最近のスポーツイベント放映をフォローすれば、必ず肉体的に破綻するはずだという指摘である。
確かにその通りだとは思うが、ウインブルドンもほぼ終わろうとする今日、さんまはいまだにアウトになっていないようだ。もしかしたら、代わりに見てハイライトを編集しておくような役目の人間を雇っているのかもしれん。そこで、ここは提案なのだが、明石家さんまの後を襲おうともくろんでいるお笑いタレントは、何とかしてさんまを自転車ロードレースファンに引きづり込むべきであろう。
TDFの場合、3週間近い睡眠時間削減を強いられるし、あの競技の場合、事故場面でもない限り、ハイライトをかいつまむということが出来ない。さんまの肉体的、芸能的生命を確実に蝕むには充分な条件を揃えられると思うんですがな。千原兄弟あたり、よく検討しておくように。(2004/07/03)
殊能将之の新作、「キマイラの新しい城」(講談社ノベルス)がアマゾンから届く。かなり複雑な構成なのに、ビールかっくらいながら、オリンピックをちらちら見つつ、というまことに不真面目な態度でも、登場人物の配置とか、物語の構造を見失わないでもすむのがありがたい。作者の巧みな具体的イメージ喚起力のおかげだろう。
千葉の山中に、フランス中世の破壊された古城を移築し、テーマパークをつくった企業の社長が、かっての城主の幽霊に憑依されてしまい、幽霊が要求する謎の死の解明のため、名探偵石動戯作が登場するという話である。
ほとんどの叙述は、社長に憑依した幽霊の視点で、それはまったくの中世フランス人が驚きをもって現代日本を見るという内容なのである。固有名詞以外の日本語はちゃんとわかる、ということにはなっているけど。この人は密室である塔の中で背中から剣で刺し貫かれて死に、魂は浮かばれることなく城とともに彷徨っていたのである。
ミステリィなのだから、当然こういうのも全て叙述トリックなのだろうという先入観で読んでいったのだが、ある意味そうであったともいえない事もなく、実際の「解決」は次元が違うところにおさまるというのが、いかにも殊能将之らしい。おいおい、こりゃ詐欺だぜ、ともいえるが。
何であれ、石動戯作が示す密室トリック破りの推理は、それ自体が密室ミステリィ総体の批判になっていると思える。全然なんにも解決されていないのに、感動的な脱力感を味わえるという点で、稀有とはいえないまでも、そう滅多にお目にかかれない怪作だろう。August 21, (2004/08/21)
「キマイラの新しい城」と一緒に注文していた、「ケルベロス第五の首」(ジーン・ウルフ:国書刊行会)を読み終える。72年に書かれたSFなのだそうで、やたらに装飾華美な文体で、クローニングによって世代を引き継ぎ、植民惑星で怪しげな生業を続けている一家を描いた第一篇に始まり、型式も文体も違う他二編が続く中篇集である。
注:以下はある意味ネタバレなので、注意されたし。でも、この程度のこと知ってたってそう変わりはせんですけどね。
はじめの話の舞台になった植民惑星の双子惑星の原住民の物語が第二編で、それを書いたのは前の話にも出てきた人類学者だということになっている。神話とも民話ともつかぬ冒険叙事詩みたいな形式になっていて、どうも私はこれと似たような話を同じような文体で書かれたものを、高校生の頃「SFマガジン」で読んだような気もする。あんまり自信はないものの。
最後はその人類学者自身がどうも主人公になっているようで、カフカの「審判」のパロディみたいな不条理逮捕劇が、視点や時間軸がカットバックされながら断片的に示されて、最後にはあろうことか何の解決や謎解きもなく、あっさりと話は終わってしまうのだった。もちろん、どういう風にもとれるほのめかしがそこらじゅうにちりばめてあって、それはSFネタ部分の謎とも入れ子になっていて、まことに重層的な構造を呈しているのである。
訳わからん映画について、「筋なんて関係ない。格好よくて美しい映像がそれなりの流れで続けばいい」なんてよくいわれるのだが、それを敷衍すると、言語によって美しく意味ありげな世界がつむぎだされていればそれでいいのだ、と考えればよろしいのですかな。さりげない謎の提示と、それに関する回答のほのめかし(それもどうとでもとれるような)があちこちにあるのだが、細かな表現や言い回しにどれだけ気づくかの記憶力テストみたいなもので、正直いって、訳者自身によるあとがきとか、この辺の解説ぐらいを読んでおかないと、なんじゃこりゃで終わってしまうのは間違いない。(2004/08/26)