いま日本のインターネット界でもっとも「熱い」HPと言えば、「かいじん21めんそう」に擬せられた宮崎学氏の主催しておられる「キツネ目の男」だと断言できます。彼のような無頼の生き方というのはまぶしく映りますが、菊の御紋の入った免許状だけが頼りで、言うならば一種の既得権益で日々をしのいでいるこの業界人としては、密かに著書を読んで陰ながら応援するのが精一杯。
彼のHPでしばしば医療関連の活動報告をしておられる犬尾守(本名かしらこれ?)氏が先日、病院に対する新手の総会屋風ビジネスを取り上げておられました。彼の言うには、あちこちの医療機関に「民間の保険請求監察機関」を名乗った団体から文書が送りつけられているとのこと。内容はと言うと、「我々は国民のために医療機関の不正請求を監視して来ており、多大な実績を上げている。活動を支援していただく賛助会員を現在募集中で、3万円を振り込んでいただければ『監査の対象とはしない』」というようなものなのだそうな。
4月に入って毎日新聞関西版が犬尾氏のページから情報を得たのか、独自の調査をしてこの文書に乗せられて金を振り込んだ開業医がいること、連絡先となっている住所にはそのような団体事務所などは存在しないこと、電話番号は伝言サービスのものであることなどを突き止め、医師会がこれは悪質な詐欺であるから注意するようにと通達を出したこと、を記事にしたと言うことです。
こんなしょうもない手口で金を振り込むアホがいるのが驚きです。どう見ても詐欺としては効率が良いとは思えない。詐欺師業界も不景気なのでしょうか。何と言っても、「医療機関は叩けばいくらでも埃が出る」という社会通念をそのままストレートに犯罪に応用するのが、ビジネスとして大成する資格を欠いている。発想にもう一回りも二回りもひねりを加えないと。
一部にかなり意識的に不法な請求をする不届きな医療機関が存在するのは事実ですが、違法請求とされるものの殆どの部分は、現実的な実践に対して杓子定規な規定を適用されることから来た解釈の違いといえます。あまり本質的な例とは言えないかも知れませんが、ちょっと前によく取り上げられた長期投与の問題をあげてみましょう。慢性疾患に使われる経口薬の多くは30日分の処方が認められますが、新薬や漢方製剤、ある種の安定剤などは14日分しか認められません。僻地を診療圏にもつ病院などでは、長期投与しておいて、2週間目あたりに電話診療などでまた処方したかのようにごまかしていたものでした。初めのうちはちゃんと電話させていたのが、段々いい加減になってカルテに日付だけ入れたりしたのをよく見たものです。
実際は受診していないのだから、再診料、処方料を取るのは明らかにインチキなのですが、3時間かかって出てくるのはキツイというような患者さんの訴えがあると、ついつい合理化していたわけ。患者さんによく説明したうえで薬を倍量処方して期間を稼ぐ、という別のやり方があって、これなら病院がインチキの請求をする余地はないのですが、それだって薬の用量を守っていないので保険者から言わせれば違法と言うことになる。2週ごとに来て貰ってそのたびに点数が増えるよりも、よっぽど保険制度には負担が少ないと思うのですけれど。
筆者などはあまり高額の薬は処方しないことを意識的に追求しており、ある額以下の薬は保険者への請求書(いわゆるレセプト)に明記されないため、28日分処方していても文句が付けよう無いはずだ、と思って平気で長期投与していますが、真面目な薬剤師さんやレセプトチェック屋さんからいつもクレーム付けられる。これは「儲けが減る」という観点かな。
本来創意と工夫でケースごとに対応すべき医療サービスが画一化された基準で縛られていると言うことが本来おかしいので、保険+自費併用性にすれば殆どの問題は片づくのではないかと思っているのですが、何故かそうならない。保険適応の無い薬を処方したり、独自治療法をやろうとすれば、診察料からなにから全部自費にしないといけないことになっています。この辺についてあまり納得いく説明は聞いたことがない。
話を戻すと、先の詐欺手口をよりリファインするためには、上で述べたような「良かれと思っていても違法請求とされる」という医療機関側の意識になんとか訴えかけるものでなくてはいけないのです。具体的には厚生族の議員やらの名前をちらつかせて、「血の通った保険請求を実現させる」などと特別扱いをほのめかすようなものなら、引っかかる連中は続出することでしょう。あ、考えてみればこれ、もともと日*医*会がやってることか。(1999/04/05)
#犬尾氏はHPで、もう少し上手な手口として「病院へ行って見目麗しい看護婦さんをチェックしておき、その後ランダムに医者に不倫暴露のほのめかしをする手紙を送る」という手口を紹介しておられます。これは上より多少ましとは言え、やはり「医者は看護婦と不倫している」という手垢の付いた社会通念に依拠している点でやはりイマイチと言わざるを得ない。大体うちの病院なんかだと、チェックすべき看護婦さんがおりませんわ。(あくまでネタなので関係者は本気で怒らないように)
筆者の家と裏を接する一家があり、そこはしょぼくれた黒犬を飼っています。こいつはなかなか愛嬌があって、塀越しに声を掛けると一生懸命尻尾を振ってくれます。立派な犬小屋が与えられており、餌入れにはいつもドッグフードが山盛りになっているのですが、この家の人は殆どこの犬を散歩させず、いつもつなぎっぱなし。よく悲しげに鳴いています。
この家には子供が沢山いるらしく、ある時「犬を散歩させてきてもいい?」という声が聞こえて来て、人ごとながらほっとしたのですが、それに続く母親らしき人の声に愕然。「そんなことの前にすることがあるでしょ!」
そんなこと?生き物を飼っていて、子供がそれの世話をすることが「そんなこと」なの?少なくとも筆者には、家の手伝いや自分の勉強などより優先すべき事のようにおもえます。どんな大事なことがあるのか知れないが、それはないだろう。
隣に住みながらその家のことをあまり知らぬのには多少理由があり、そこの一家は、ある政党の構成基盤となっている事で知られる宗教団体の熱心な信者で、引っ越してきた頃、様々なパンフやその団体の会長先生の写真展(その方は偉大な宗教家でありつつ今世紀希なほどの大写真家でもあらせられるのだとか)のチケットなどを押しつ…いやご親切に御下賜されんとされるなどの事情から、今ひとつ親密なつきあいをするに至っていないのです。
同様に距離を置いている、その家とも境を接する筆者の隣人は、捨て犬や捨て猫の保護運動を熱心にやっている人で、件の黒犬の処遇を見ていられなかったらしく、地方選挙のおりそこのご主人がその政党の地方幹部を連れて戸別訪問された機会にやんわりと指摘したのだそうです。「かわいいワンちゃんですね。元気ないみたいだから、お散歩もっとされたらいいのでは?」とかなり苦しい言い方したのですが、向こうの反応は予想外だったとのこと。
ご主人は「犬なんて、食べ物ちゃんとやっときゃいいんですよ」、おまけにそれを引き取って地区党責任者が言うには「飼って貰えて生き延びられてるんだから、満足満足ってもんですよ」
近所に住んでいる一支持者の一家や、狭い町の党下部責任者のやること言うことから全体について敷衍するのはあまりに暴論とは思うものの、筆者はこの一家が支持している団体と政党がバックになったといわれるあの愚策、地域振興券の発想はまさしくここにあるのだな、と思わざるを得ませんでした。金をやっときゃいい、飯さえ食えれば国民は満足、というセンスはこの団体、政党の末端レベルに原点があるのだと確信してしまいました。短絡的と言われようが、この確信が揺らぐことは、裏の一家が黒犬への虐待を改めない限り決してあり得ないでしょう。
古代ローマだって、市民に食料を配給するだけでは皇帝は支持を得られなかったんだぞ、血なまぐさい剣闘士試合などという娯楽でなくて良いから、生きる価値を追求できる条件整備を発案したらどうだ。まさか会長先生の芸術鑑賞がそれの代わりになるなんて思ってないだろうな……。裏庭で寂しげに尻尾を振る例の犬を眺めながら、自分がこいつの立場になるようなことを避けるためには、少なくとも守るべき一点があるな、と感じる今日この頃でした。(1999/04/16)
#統一地方選の最中だったのでアップは控えておりました。医学に関係なく、かつ政治ネタになって申し訳ない。筆者はこの政党に関して、地域振興券は別にして、その政策や主張にそれほど違和感を持っているわけではありません。程々の中道主義に好感を持っているほどですが、「命を慈しまない宗教者」という一点に反応しているのです。
時期的にはちょっとピンぼけになりますが、いわゆる「性同一性障害」をもつ人に対して某医科大学が性転換手術を行うことを公表したこと(昨年5月頃でしたか)を覚えておられるかと思います。女性→男性がまず行われ、最近その逆も行われるとか行われたとか。
性同一性障害とは、自分の属する解剖学的性に違和感、不適切感を意識する状態で、ホルモン療法、外科的療法を受けて自分の身体を自分の好む性と可能な限り一致させる願望を伴う、とWHOが定めた国際診断基準(ICD−10)に定義されています。その診断ガイドラインには「性転換的な性同一性が少なくとも2年間持続して」いて、「他の精神障害の一症状であったり、半陰陽の、あるいは性染色体のいかなる異常とも関連」しない、とも補足されています。
要はマクロ・ミクロな解剖学的障害や何らかの精神障害の結果としてではなく、自らの性に違和感を持つ状態ということですが、今のところ仮説でしかない「胎児期のアンドロゲンシャワーによる男性脳形成説」というのが密輸入されて一緒くたに論じられるので話はややこしい。この説では、♂胎児がある時期になると母親から発せられるホルモンの指示で自らどっとアンドロゲンを作り出し、それによって胎児の脳が男性の脳に形成されていく、というもの。見るところを見れば解剖学的にも女性と男性では脳の構造に違いがあるのだそうな。少なくとも男性の性同一性障害者は女性脳を持っていると主張されることになります。(女性の場合の理論的根拠は、男性の場合はこうなんだから、似たような理屈があるに違いないという仮説の期待しかないわけですが)
最近は脳科学ブームらしく、脳の機能構造でもって、精神活動ばかりでなく、あらゆる文化歴史まで説明できてしまうかのような議論すらあり、この例でも「脳がそう言う造りなんだから身体の方を合わせるのが当然」と言うのがマスコミ・識者の共通の意見となっているようです。性同一性障害を持つ当事者達は「自分たちの苦痛を救って欲しい」と主張するだろうし、絶対的少数者の立場を上っ面だけ擁護することが進歩的とされるこの国の風土の中では、おそらくこの手術がそんなに意味を考えられることもなく広がっていく(と言っても知れているだろうけど)のはまず間違いないでしょう。
筆者は「人は他者の権利を侵害しなければ自分のしたいことをする権利がある」と考えるほうなので、臓器移植のように医療の姿をねじ曲げる恐れがそう強くはない(でも屁理屈こねて実入りの良い手術をもくろむ馬鹿医者どものために医療資源が無駄遣いされる、という問題がありますが)この性転換手術を、それほど論難する気はありません。筆者も男性の性同一性障害患者を長期にわたってみたことがあり(直接この問題で受診していたのではないが)、彼が経済的な理由から性転換手術をあきらめて落ち込んでいた(某芸能人がモロッコで手術、というダミー情報流したおかげであまり表に出ていませんが、こういう手術は今まで日本で結構やられているのです)のを「何とかしてあげられないものか」とその時は思った物です。でも当事者周辺にとって最善と感じられることが必ずしも物事をベターな方向に導くとは限りません。
性同一性障害という問題をもつ人がハリボテの一次性徴を得ることで救いになるのなら、自由にされるが良いし、それがぼろい儲けになると判断した連中がそうした需要に群がることでしょう。しかし、そんな取り繕いの手段で解決できるほど、その人の苦悩は底の浅いものだったのか、多様な解決への道をそれなりに工夫するよりも、医療技術という他者の論理(それも手術という非可逆的要素の強いものに)にゆだねることがすべてというのは、自己をおとしめているだけではないのか、という疑問が残ります。
何という理屈を持ち出してくるのだ、と思われるかもしれませんが、筆者としては「身体髪膚これを父母に受く。あえて棄傷せざるは孝の初めなりけり」という言葉に依拠したいと思います。胎生期に多少の問題はあったかもしれないが、先祖伝来のDNAを受け継いだのではありませんか。父母から受けた染色体配列が元々方向付けしていた解剖学的性に、一応の敬意は払っておいても良いのでは。せめてその解剖学的性にそれぞれの期待を持ったであろう、父母たちの個体が消滅するまで手術は待つというものではないでしょうか。実際こうした「治療法」の推進者が例にあげる欧米では、ある程度の人生経験を積んだ中高年層にこの手術を求める人が多いと聞きますよ。(1999/05/06)
#こんな事言うと偏差値差別に聞こえるかも知れませんが、この治療を進めているのがあまり歴史のない単科医大であるというのがどうも納得できません。シンポジウムなどもそれなりに開いて広く意見を求めるポーズは見せていても、どうにも底が浅い。文科系スタッフなどと共働しやすい総合大学、旧帝大系なら論議が深まるか、と言うと移植医療の例から見ても望み薄とは言えますが…。
衆院法務委員会で組織暴力対策法案が強行採決され、警察が捜査過程で電話、Eメール等の盗聴、盜読を合法的に行う根拠が出来る可能性が大きくなってしまいました。これに対する反応は、不特定多数の個人プライバシーが侵される危険性を強調するものや、令状の必要がなく*、立会人も形式的なもの、などの手続き上の歯止めが弱いことから恣意的にこの法案が拡大解釈されるのではないか、というような不安であるようです。
これは反対している人々の意見だけでなく、むしろ推進側の危惧でもあるようで、「そのような危険がありつつも、捜査陣にこの手段を与えないと、情報社会での犯罪防止策がとれない。厳正な適用を期待したい」と言うような言い訳を当の自民党議員が言っていたりします。どうもこの法案は立法側というより、警察サイドからのねじ込みで推進されているらしいことが推測されます。自分らが選挙違反や汚職でとっつかまると「警察=検察ファッショだ」などとぶーたれているくせに、こういう時には警察が厳正中立な正義の味方になることを期待する、というのはあまりに人が良いのではないでしょうかね。
筆者はこの法案で一般大衆の個人プライバシーが侵されることなど、まずないと思っております。お巡りさんもそこまでヒマではないでしょう。この法案が真に狙っているのは通信手段の警察=法務官僚支配ということで、「専門家が取り仕切ってやるから、大衆は安心して任せればよろしい」、言葉を換えれば「わしらが仕切っているのだから、挨拶は忘れないようにしろ」という利権の追求です。
パチンコ屋が賭博行為をする場所であるのは誰でも知っていますが、仲間うちの小銭を掛けた麻雀まで摘発する警察が、パチンコ屋やその客を摘発した話は聞いたことがありません。パチンコ業界が警察の天下り先になっており、利権の巣となっているからお目こぼしされているのです。雀荘協会(そんなものがあるかどうか知らないが)が天下り先になれば、つまらない摘発などまずなくなるでしょう。そう言うセコイ所ではなく、でっかい利権の確保先として通信業界が狙われた、と言うのが今回の法案の本質。
この法案についてネット上のBBSなどの討論をみていて感じるのが、「専門家」へのナイーブな信頼を持つ人が多いと言うこと。薬害AIDS問題活動家としてしられる人がこの盗聴法案に反対しているのですが、それを評して「この法案があればミ*リ十字や阿部某の悪事は早期に暴けたのに、なんで反対するのか」等という人間までいる。なんか、この法案が成立すると月光仮面みたいなのが通信網に常駐してくれて、北に無言電話ストーカーがいればたちまち駆けつけ、南に企業犯罪あれば乗り込んでいって告発する、というような漫画的想像をしているらしい。
どんな分野であれ、専門家というのは必ず自分の専門領域をコントロールしようとします。勿論そのコントロールの仕方が見当はずれであったりすれば、専門家としての立場は危うくなるので、なるべく機能的に有効で、対象にも利益になる方法を日々精緻化するわけですが、サービス業のように直接フィードバックされる分野であっても、「自分たちにとって都合がいい」という発想が最優先されるのは当然の事態です。医療というのは筆者としてはこの対象の利益優先と、自己利害優先との微妙なバランスをまだ保っていると思いたいのですが、怪しい部分が山とあるのはみなさんご存じの通り。それでも情報の公開原則がこのバランスをうまく維持する方向に機能しているのは間違いないと思います。
今回の盗聴法ではお巡りさんの方には情報がたっぷり公開可能になったのですが、彼らがどうその手段を活用しているのか知るすべは殆どありません。専門家にフリーハンドを与えるということの危険性は、一時代前の医療業界でみなさん思い知っていたのではなかったでしょうか。(1999/05/31)
*修正案では令状が前提になっているようですね。しかし今までの様々なえん罪事件でも令状はフリーパスで得られていたのですし、「予備盗聴」とかの抜け道がいくらでもあって歯止めとはとても言えませんが。大体今までも違法承知で盗聴をやっていた警察が、手続きをちゃんと守る保証なんかどこにもない。
はなはだ曖昧な表現の題目ですが、今回は最近筆者が経験したことについて記してみます。ここ数年でしょうか、若い世代が街角でかなり大胆な愛情表現をしているのを見るようになりました。ヨーロッパ、特にフランスあたりでは昔からメトロの混雑に紛れて恋人達がいつまでも抱き合っていたりするのを目にしたものですが、何か映画の中の一シーンみたいに「絵になるものだ」と感心するぐらいで、こういうことには劣等人種として育ったという自覚が、あまり生々しい感覚を呼び覚ますことはありませんでした。
ところがこの頃は前を歩く若い二人連れが立ち止まったかと思うと、抱擁→口づけなんてのをしょっちゅう目にする。おいおい、もっと絵になるなら堂々とやってもいいけど…、なんて感じるのは取り残されたオヤジ世代の嫉妬がそうさせるのだろう、と思うがそれにしても大胆。
先日このあたりのローカル電車に乗っていたら、隣の座席の高校生カップルがべっとりと二人で絡み合っていました。右側にいる女の子は右足を男の子の左足に絡ませ、胸元にしなだれかかって、男の子がはだけて着ているシャツの中に手を差し入れてさすっている。男の子の方は右手で抱えた女の子の側胸部を微妙にまさぐり、左手はと見るとなんと短いスカートの下にほとんど隠れてしまい、太股あたりでごそごそしている様子。
約50cm離れたところから、かなり無理な横目使いで観察しているこちらとしてはこれ以上は状態変化の詳細を知ることが出来ないけれど、時折忍び笑いが漏れてくる様子からは二人はとても幸せなようです。その電車には、ぱらぱらと若い人たちが乗っているけれど、そう気にしている様子もありません。結局二人は20分ほどその状態を続け、絡み合ったまま降りていきました。たくましい農家の主婦達の行商経路で知られるそのローカル電車のなかでも、その二人は決して浮いているわけではありませんでした。
その時筆者は彼らを見ていてほとんど感動に近いものを覚えました。彼らが人前であそこまで大胆に行動できて、なおかつそこで自制し、二人の世界を享受できる、その行動倫理というか規範というか、我々の世代とは異質な「文化」がはぐくまれているらしい事についてです。単に恋人達のソフトな前戯行動を恥も外聞もなく人前でやっている、と言うだけならあそこまでの自制を示すのは無理で*、行き着くところまで行ってしまうのが旧世代の感覚です。機会を盗んで痴漢行為に走ったり、酔っぱらってスチュワーデスのお尻さわったりするオヤジ連中には彼らの爪の垢でも飲ませにゃいかん。人間の文化というものは、人間の諸欲求をそのまんまストレートに充足させるのではなく、微妙な抑制と韜晦を通じて洗練するところから生じる、という考えにたてば、彼らこそ明日の日本文化を創り出す旗手と言うべきでしょう。
ただし、先のヨーロッパの例をまた持ち出せば、恋愛表現劣等世代であった我々が、街角で抱き合う恋人達にまず感心してしまうのが、その行動よりはむしろ、尽きることのない愛の囁き(多分そうだと思うが自信はない。少なくとも借金の返済を話し合っている雰囲気ではない)で、よくもまああんなに言うことあるものだと思ってしまうものですが、最近の日本の恋人達は行動の大胆さで感心はさせてくれても、愛の会話の多様さというものは全く欠けている、とほぼ断言できるでしょう。言葉の陰影の多様さにかけてはヨーロッパ語族など敵ではなかった大和言葉の伝統も、直接的行動の多様さという新しい文化スタイルの中で衰退していくことになるのでしょうねぇ。(1999/06/05)
*単に、環境ホルモンなどの影響でリビドーが落ちてるだけだよ、というシビアな意見もあるようですけれど…。
新聞の投書欄に周期的に投稿される、一種の様式的完成をみた意見#にこういうものがあります。「過日、親族の死に立ち会う機会があった。突然の病を発して病院に運ばれたその人は、医師から望みがないと宣告されながら、沢山の管が鼻や口、腕に挿入され、機械に囲まれた姿は親族が間近に寄り添うことすら拒否されるかのようであった。避けられぬ別れであるならば、こういう不自然な姿でなく、最後の時を過ごすことは出来ないかと強く思う次第であった。」まことに当然な意見で、自分の家族を見送った経験から、筆者自身も心から同感するものです。
ただですね、ダブルスタンダードとなって申し訳ないが、業界の一員としてはこの意見は少々違うと言わざるを得ない。それは確かにそうなのだが、病院のせいのように言われてもなぁ…、という感じ。ここで病院と言うところで何が期待されているのかを総合的に考えるため、日常的な体調不良を別にして、重篤な状態で病院にかつぎ込まれる人の状態を大ざっぱに分類すれば以下の如くになります。
(1)誰が何をしようとどうにもならない状態。(大動脈瘤破裂など)
(2)なるようにしかならないが、対応によって予後に大きな違いが出る状態。(脳卒中など)
(3)スキルのある人が適切に対応すれば当面の危機は回避できる状態。(心疾患、外科疾患など)
(4)ドジさえなければ普通の対応で危機は勝手に去ってくれる状態。(ほとんどの病気)
この分類に年齢的な要素を加味すると、大概の状態は網羅できますが、難しいのは1と2の区別。例えば重度の脳出血で意識がない、呼吸も怪しい、と言う状態で放っておけば分単位で死は訪れると言うようなとき、「安らかな最期」を救急室のドタバタ状況で意識できるわけがありません。それが短い時間であっても、さしあたっての延命を考えるしかないのは自明の理というものです。さしあたって、であろうと延命のためには実効性で対応するしかなく、いきおい挿入されるチューブの数と太さは増し続けることになります。(某救急専門医の自説によれば、『延命有効率は挿入されるチューブ数と断面積総和の積の立方根に比例する』とのこと)
また、恐らく殆どの人は先に紹介した新聞投稿の様な意見を持っているのだと思うのですが、突然家族が具合悪くなったような状況で、「出来る限りの治療を受けさせたい」と思うのもこれまた当然の心理で、ここで医療側が「無駄な延命はしません」などとコントロールしようとするのはお門違いというもの(ましてや「もう助からないので臓器をいただきます」なんてのは火事場泥棒そのものだと思いますが…)。死というものは個体における単なる医学的現象に止まらず、生を共にした人々がそれを受け入れていく生活文化過程でもあるわけですが、それが当事者達を離れた専門技術過程に疎外されてしまうことが病院における死の問題の根本ではないかと考える次第。病院側だけでこの問題を解決できるとは思えません。
沖縄で病院開業している知り合いによれば、あちらでは「自宅以外の場所で死んだ人の霊魂は悪霊となって彷徨う」という言い伝えが今も息づいていて、臨終間近な人を人工呼吸しながら家につれて帰る、と言うような作業をよくやるのだとのこと。同じ延命行為であっても、こちらは古来の生活文化に寄与していて、決して「疎外」されていないのがいいですね。(1999/06/25)
#筆者が好きな他の様式パターンには、「大都会の路地の片隅に名もない雑草が小さな花を咲かせていたのを見て、生命の息吹を感じた」という所感派投稿があります。この形式を読むたびに健康さの本質はワンパターンである、と思わずにいられません。
土木作業員A氏(33歳)がある病院の時間外の外来を訪れたのは、週末近い初夏のある日でした。数日前から胃のあたりが重苦しく、食後にムカムカするとのこと。仕事には行っているが疲れやすくなったと。一般状態には異常なく、簡単な血液検査をしたうえで、普通の胃腸薬を処方し一週間様子を見て、回復が思わしくないようなら詳しく検査すると言うことでこの日は帰宅しています。
この翌々日、A氏は再び時間外に来院。今度は胸苦しさと脈の乱れを訴えます。このとき同行してきた自称友人は、この日の担当医に「Aは以前から急に意識を失う事がある」と伝えます。しかも本人は自覚していないのだと。担当医は不整脈発作から意識消失がくるのではと考えますが、普通の心電図に異常がなかったため、ホルター心電図(24時間記録)をとることにし、装置をつけて帰宅させます。
翌日、その日は日曜日でしたが、A氏が先の友人によって、意識消失状態でかつぎ込まれてきました。血圧は安定し、呼吸は規則的ですが瞳孔は散大、痛み刺激にも全く反応がありません。「友人」が言うには、「倒れた時はいつもこういう風で、30分もすればけろりと元に戻る」と。血管確保の後、まず頭部CT検査を開始しますが、終了直前に、A氏の状態は急変します。呼吸が突然停止、大騒ぎで気管挿管、人工呼吸開始し、脳神経救急センターに転送しますが、程なくして死亡。受診時と転送後の検査では、A氏には高度の脳浮腫と強いアシドーシス(酸塩基平衡バランスが酸性側に傾くこと)が見られましたがそれ以外の所見はなく、死後剖検も行われましたが結局死因は今ひとつはっきりしませんでした。「不明の原因による高度の脳浮腫、脳ヘルニア」が死因という結論。
2ヶ月ほどして、A氏が初診したときの担当医を生命保険会社の調査官が訪れます。曰く、A氏の保険加入状況に不審な点があり、死因の曖昧さもあって支払いを一時停止して調査しているとのこと。A氏は死亡の2ヶ月ほど前に数件の保険に加入しており、しかも総額で毎月収入の3倍近い支払額を設定している。彼には内縁の妻がいるが現在身重で、本人死亡直前の妊娠3カ月の時点で「胎児認知」という、あまりおこなわれない手続きをとって相続を容易にする準備をしていたとしか思えない行動をとっている。しかも、保険加入も含め、手続きを行っているのが本人ではなく「自称友人」である、という不審点があるとのこと。
上記のA氏の経過も、初診時の担当医にとってはこの時はじめて判ったことで、単なる一時的不調を訴えてきた患者を診たつもりのこの医師は、カルテを読み返してみて、病院が巧妙なトリックの場に利用されたらしいという疑いを否定できませんでした。しかも二度目の受診から同行している「友人」が、地元では名の知られた暴力団準構成員であることもカルテには看護婦さんからの情報として書きこまれていました。この医師は初診時の検査を調べなおしてみますが、異常はありません。ホルター心電図記録には、病院受診1時間ほど前から頻脈傾向になり、CT検査中と思われる時間に高度徐脈となった記録が残されていましたが、これだけからは何も判りません。なんらかの中毒を考えて再検査の可能性も探ってみましたが、検査センターによれば血液サンプルはずっと前に破棄されたと言います。剖検時にも血液標本は取られていないとのことでした。臓器標本が残っていれば何らかの検査は可能かもしれない、と調査員に伝えましたが、その後進展はなかったようです。
A氏の死に何らかの謀議があったのかどうか、病院の立場からは何も知ることは出来ませんが、仮にもし悪意があったとすれば、これを演出した人間は実に病院医療の事情を知り尽くしていると言わざるを得ません。死の直前の二度の受診、これには法的な検屍を避ける意味合いと、医療的ミスリーディングを意図する目的があったのだろうと思われます。30台の健康な男性が突然原因不明の意識障害で来院しすぐに死亡、と言うことだとまず病院側も検屍を要請することになります。いったんあまり関係ない訴えで受診し、カルテを作っておき、二度目は意識障害の既往(しかもあまり害はないという意味づけがされている)をそれとなく明らかにする、しかも時間外だけに受診し、担当医はその都度違うようにし、かつ詳しく検索されることを避けながらうまく必要な情報だけを前もって与えるというのも心憎い手順です。不審な死はそのままにするより病院に持ち込むほうがその不審さも薄らぐ、木を隠すには森に隠せ、というところでしょうか。
A氏の初診担当医は、処方だけで様子を見ようとしたとき、A氏が急に血液検査を強く希望したことを思い出しました。あれはいったい何故だったのか、推測をたくましくするならそれは「注射痕を残すため」だったのではないか、とも考えられます。付随的なことかもしれないけれど、意識障害でかつぎ込まれたときも、「いつもこんな風」という友人の情報は緊急対応の出鼻を微妙にくじく働きをして、死因を曖昧にする一助にもなっています。実際、脳浮腫は対応が遅れたために低酸素症が続いたからだ、と言われたらまず法的には反駁は出来ません。
もちろん、A氏の死は単なる偶然で、収入不相応な保険掛金も生まれてくる子供に対しての責任を考えて、よりいっそう仕事に精を出そうという決意の現れであった可能性もあります。保険会社の調査員が考える不審さの枠内でこの出来事を考えるのはいささか早計なのかも、とは言えます。しかしやはり、常識的枠内で考えても不審さを払拭する事は出来ず、しかも病院が日常的に取らざるを得ない業務処理体制(言うならば無責任体制)にうまくつけこまれたという苦々しさはどうしても残ります。仮に謀議があったとしても、まずA氏が納得ずくでそれに参加していない限りは一連の過程は不可能だったでしょうから(こちらがそう思いたいだけで、実際ははめられた可能性あり)、悪意のほとんどは保険会社に向けられたもので、会社側の加入時審査の甘さが根本原因とは思いますが、利用された(仮定ですが)側としては不愉快さが残ります。この件がその後どう処理されたのか不明ですが、病院の立場としては、患者側が何らかの謀議のために医療を利用しようとしている可能性を頭の片隅に入れておかなければならない、という不幸な結果を招いたことだけは事実です。(1999/06/26)
注:この件は勤務先の出来事である、と書いているわけではありません。ある地方病院であるとき起こった出来事を再構成したものだ、とご理解ください。
TV番組の改編期になると気になるのが、今期の「医療業界ドラマ」のリアリティ度、ドラマとしての出来はいかほどか、ということ。しかも今期は二つ以上このジャンルが並ぶらしいので、興味は尽きません。
医療系のドラマで別格といえるのは、アメリカ製の「ER」で、原作者がメディカルスクール出身、ということも大きいのでしょうが、実際のドラマづくりの際の医事監修の見事さに感心してしまいます。これはアメリカTV界の一般的レベルの高さのあらわれとも言えず、一時放送されていた「シカゴ・ホープ」という病院ものがオイオイ、そりゃないだろうというリアリティ欠如作品だったことから見ても、「ER」が突出しているのがわかります。ただ、医療制度や教育体制が日本と違うから、いまいちよく分からないような所もあったりするので、リアリティ度を本当に判定できているかは保留の部分もありますが。
日本の医療ドラマのリアリティ度を下げている要件と、その改善策を思いつくまま並べてみると以下のようになります。
(1)出てくるのが美男美女ばかりである。長寿ドラマとして名高い「渡る世間は鬼ばかり」が登場人物に比較的世間並みルックスの持ち主を採用していることから考えても、この点は早急に改善?されるべきでしょう。特に看護婦さんの人選に考慮すべき。片桐はいりと篠原ともえ(もちろんこの子がヒロイン役)、あとキロロのボーカルあたりの線でまとめたら現実感あるなぁ。それでは誰も見ないか。医者の方はなぎらけんいちに越前屋俵太、ホンジャマカあたりかな。(それって自分を基準にしてないか、と言うツッコミはなし)
(2)主人公である医師が超能力的スキルを持っているという設定は勘弁。昔のドラマで「振り向けば…」というのがあって、ドラマとしての作りはまあまあながら、20代半ば過ぎの外科医が神懸かり的に手術がうまいというところで決定的無理がありました。あの歳では研修医の年限も終わってないだろうが。せめて主人公を30過ぎにしないといけないがそれでは他の部分でおかしくなるしね。
(3)主人公を外科医にすることが多いのはドラマの見せ場が設定しやすい、と思っているのでしょうが、これがそもそも発想の貧困さ丸出し。ドラマ本来の人と人とのインタラクションがそこで止まってしまい、超常的技術を発揮しているらしい主人公の目玉と、成功を祈るその他大勢という紋切り型の絵がとれるだけになる。「ER」でしつこく手術場面で押すことなんかないでしょ?それと手洗いが終わった後、皆一様に両手を半開きにして上に突き出しているあの格好はやめた方がいいのでは。あんな格好してるの見たこと無い。
(4)医療器械の使用状況のおかしい所などは細かなこと言ってもしょうがないのですが、救急患者への酸素マスクの使い方だけは改善した方がいいでしょう。ちゃんとアゴを持ち上げる、というのは日赤などの救急講習でまず教えられることで、緊急事態の際に一般常識として広がっていれば救命率が高くなると思うんですが。それと、救急患者がすぐ手術室に運び込まれる様な絵が多いのは何故なんでしょう。ドラマとはいえ救急室ぐらい作っておいてほしい。ついでに看護婦さんが受付してるのもおかしいな。
こんな事言いながら、今日もまた新シリーズ見るんだろうな。なになに、今日のは女医ものらしい。さてさてどんな作りでありましょうや。(1999/07/05)
*追加です。「ER」のまねなのでしょうが、患者をストレッチャーからベッドに移すとき、「1,2,3」なんて数字のかけ声かけたりしてます(それも日本式の「いちにーのさんっ」ではなく等間隔に「1,2,3」と言ってる)。日本語には「せーの」、「ヨッコラショ」とか「ドッコイショ」という美しい言葉があるので、こんな所でまねする必要ありません。英語には「せーの」がないからな。
かなりタイミングを外した話題の取り上げ方で恐縮です。さる7月26日、厚生省が「結核緊急事態宣言」なるものを出したのを覚えておられる方はおられるでしょうか。その日、厚生省に置いては多くの保健医療関係団体と行政団体が集まり、「結核対策連絡協議会」が開催され、白熱した討議のすえ(かどうかは知りませんが)、上のような宣言が厚生大臣の名のもとに発せられたと言います。
その宣言では、一度は克服したと思われれている結核は、決して過去の病気ではなく、日本だけでも今なお毎年4万人以上が新規感染し、約2千7百人が死亡する感染症であり、医療機関などでの集団感染も後を絶たないこと、高齢化というリスク増加もあり、一昨年には38年ぶりに罹患率が増加に転じたこと、多剤耐性菌が一部で広がりつつあることが指摘され、保健所、市町村での予防対策の徹底、医療機関における意識の向上、国民一人一人が結核予防意識を持つことなどを呼びかけています。まことにもってその通り、有り難く拝聴して、日々の診療の指針とするほかありません。
何故かその宣言は格調高い英語(呼びかけ文がWe call on〜と頭韻を踏んで続けるところなんぞは全文引用したくなる。脚韻まで踏んでいたらシェイクスピアも裸足で逃げそう)併記されており、国際化時代に対応しようという意気込みが感じられます。まぁこれは93年にWHOが出した「結核の非常事態宣言」への遅蒔きながらの反応への言い訳かも。厚生省のHPをみると、昨年7月にも同じ様な内容の提言が公衆衛生審議会結核予防会から出されているのに気づきますので、一年間ほどオクラ入りしていたのか、討議に討議を重ねていたのか、夏休み前に結核関連のアクション起こすのが厚生省のはやりなのか。
こうした厚生省の積極姿勢をうけてか、結核関連での相談や保健所から受診指導をうけた方を診るなどの機会が増えました。職場の検診で結核患者が出たため、同僚や家族にツベルクリン反応が行われたら強陽性だった、と言うことで何名かがリストアップされてきたりするのですが、その場合、熱心な保健婦さんから「結核患者登録票」を渡されている人までいる。何の症状もなく、ツ反強陽性以外何の所見もなくても、場合によっては「化学予防」(少量の抗結核剤を予防的に服用すること)の対象になるそうで、まず患者登録することが肝要なのだとか。その場合の基準を保健所に教えてもらうべく小冊子など頂いたのだが、イマイチよく分からない。
筆者の子供の頃は、検診と言えばまず結核で、しょっちゅうツ反を受け、陰性者は痛い痛いBCGを受けさせられたものでした。BCGはひどい膿瘍を引き起こすこともあり、今はそう言うやり方をしなくなったせいで、このBCGの傷跡は中高年の証みたいなものになってしまいました。晴れてツ反陽性になると、思春期前期における通過儀礼を過ごしたような気分になったものでしたが、何故か「ツ反陽性になった年は水泳をしてはいけない」という意味不明な決まりが筆者が過ごした小学校にはあり、その年楽しそうに川遊び(その頃はプールなんぞ無かったのだ)する友人達を恨めしく見ていたのを思い出します。
その頃の説明では、結核というのは大抵の人が知らないうちに軽く罹るもので、体力さえあれば重症化せずに自然治癒して免疫が残るけれども、運悪く自然に罹らない場合はこうして痛いBCGでもやらないといけない。水泳を控えたりするのは、自然罹患か人工免疫か区別が付かないので、念のための体力温存なのだ、と言うようなことでした。水泳=体力低下と言う決めつけは怪しいと思うけれど、大まかな結核に対する認識は筆者の場合このころに植え付けられた知識に準拠しています。
おいおい、お前は小学校で習った知識で診療しているのかい、と言われそうですが、この捉え方はその後の医学教育の過程でそう修正すべき点があったとは思えません。もっとも結核菌というのは別名の抗酸菌という名称からも推測されるようになかなかしぶとい菌で、免疫があろうと十分な菌量が体に入りこむと増殖する可能性があり、免疫とのせめぎ合いの中で結核病変を作っていくのだから、免疫があっても大丈夫とは言い切れませんが。大事なのは菌に触れたかどうかと言うよりは、基本的な体力の問題だ、という点は重要です。実際、子供の時の初感染から何十年も立って発病という例は結核ではまれでなく、そうした例では保菌者と接触したかどうかなんか関係ないと言えます。
そう言う認識から昨今の結核に対する不安の煽り方には多少の疑問があり、上で回りくどく嫌みな言い方した理由はそこにあります。言うならば結核を患者登録の強化でデオドラントに包み込んでしまう方式は、本当に有効なのだろうかという疑問が消えません。一方で耐性菌問題を指摘しながら、化学予防というのもどうも判らない。ますます耐性菌が増えるのと違いますか?何と言っても個々の症例の排菌の有無、症状の程度で判断して、患者側の自覚を得た上で協力をもらうべき問題を、行政的手順にすり替えるのはどうも納得がいかない。
つい先日、某新聞で日雇い労働者やホームレスの人たちに対する結核対策として、登録の徹底と、スタッフの目の前で確認服薬させるやり方で成果を上げていることが褒めそやされていました。確かにさしあたっての結核診療徹底対策に限ればその発想も正しいとは思うものの、それだけでよしとしているのではあるまいな、と一言は言いたくなる。「結核でない」底辺労働者、「結核でない」ホームレスならそれで良いのか、と言うことです。市民社会への危機となる「結核菌プール」を排除するという社会防衛政策ならそれだけで良いでしょうが、彼らが健康を維持できる生活水準を守ることが基本だと、ごく普通に考えてしまうのは「小学生の論理」でしょうか。
「健康」は行政のマニュアルから出てくるようなものではなく、一人一人の人間が自分の体の管理責任者として自らが自らを律し(時々は羽目を外し)、自らを守る意識の中から生まれるものだ、と筆者は考えます。厚生省の宣言はまことに立派な参考意見として受け止め、都合のいいところだけはちゃっかり利用するという姿勢で望むのが、自立した個人とそれを支える医療のあり方でしょう。(1999/08/26)
#こうした昨今のがんばりで大蔵サイドからの保健所削減要求などに対抗して、存在意義を示している厚生省にエールを送りたいと思います。でも、老人病院などでの医療費のケチりが結核集団発生の遠因となっているのだから、マスコミに妙なチクリなんかやって世論誘導するのはどんなものでしょう。何にもエールになってないか。
マキハラなんとかという有名人が覚醒剤所持で捕まったという報道があり、例によって頼んだ覚えもないのに正義感の総代理店のつもりらしいワイドショーなどで、どうでもいいプライベートなことまで取り上げてマキハラ氏たたきをやっています。アンチ巨人の筆者としては、「これで巨人の追い上げはない」とちょっと喜んだのですが、どうも別人のようで直接的利害がないということもあって、なんであんなに極悪非道呼ばわりされるのか理解できません。もし巨人関係のマキハラさんであっても、ガルベス付けて阪神移籍というペナルティで充分許してあげよう。あ、西山はいりませんので。
筆者は覚醒剤によって深刻な障害を来した人を何人も見てきましたが、彼らが極悪非道、犬畜生にも劣る屑だなどと感じたことは一度もありません。皆傷つきやすい人格、対人関係のまずさを抱え、それでも人に伍して社会にでて戦わなければならぬという気負いから、クスリの助けを借りてでも自己のパフォーマンスを引き出そうと見当はずれの努力をするせっぱつまった人々に過ぎません。勿論、そこにつけ込んで暴利を得ようとする販売組織と接触する機会を持ってしまった、と言う運の悪さもあげておく必要があります。一時的に神経シナプス燃え上がらせるだけのクスリは結局疲弊状態を強めることになり、そうメリットなど無いはずなのに販売組織の良いカモになってしまって、折角の脳味噌の配線をあちこちでショートさせまくり、慢性的な精神病に移行するという気の毒な人が少なからずいるのは事実。だからといってそういうクスリを使ってしまう人を倫理的、道徳的に責めてみてどうなるものでしょう。もっと別の生き方もあると気づいてもらうことはヒステリックな非難から得られるとはおもえません。
薬物が招く悲劇としては政府公認のアルコールの方がよっぽど量的質的にも深刻な問題を引き起こしていますが、多くの人が多少ならず酒の上で羽目を外したり、迷惑うけたりした経験がありつつ、酒の存在、飲酒者の存在を世の中から抹殺しようと言う考え方はかなり常軌を逸したものであると認識されているとおもいます。マキハラ氏にしてみれば、終電の酔っぱらいほどにもクスリのことで他人に迷惑かけたことなんか無いはず。「違法組織の資金源になる」というなら、公認してしまえばすむことです。あえて自分の脳味噌をすり減らしたい人は、勝手にやればいいことで、他人がぐずぐず言うことではない。警察のOBで公営覚醒剤頒布協会を作ればいい。「ご利用は計画的に」と適正な使い方を指導していけば、中毒症状がでた時の早期治療もしやすいし、不潔な注射器の回しうちで起こる肝炎やエイズの感染も防げます。そんな団体作れば厚生省OBと天下り利権でもめるかな?
実際の中毒者を警察が取り締まる様子を見ていても、末端の使用者を摘発するのには程々に熱心ではあれ、彼らにクスリを販売する組織を根こそぎにする姿勢は何となく希薄です#。使用者への摘発が厳しい分だけ、クスリに対する幻想を振りまく販売組織のセールストークを強化しているといってもいいでしょう。手近に摘発し易いところだけをたたいて行く安易な姿勢を外野から応援しているのが、先のワイドショーなどで聞いた風なことを言う「識者」という連中です。彼らの社会的機能は問題の隠蔽でしかないのは、他の様々な問題に置いても同様ですが、それにしても日に日にその傾向がひどくなっているようです。(1999/09/01)
#まあそりゃ個々のお巡りさんにしてみても、組織丸ごと摘発するのは理想でしょうが、妙な政治勢力とか某国の陰がちらつくような領域に踏み込むよりは、差し当たっての手柄を稼ぎたいのは人情でしょうな。下り坂でねずみ取りして摘発者増やすせこい交通警察に、交通網整備を期待してもしょうがないように。
TVのニュース番組で「化学物質過敏症」を特集していました。そこで重症アトピーをもつ子供達の増加の陰に、教育施設に使われる塗料や建材から出る化学物質の問題がある、と言う指摘がありました。個人の住宅とか日常用品ならそれなりに選択できても、大勢を一律に扱う教育施設で、過敏症を持つ弱者を考慮しないのはおかしい、と言うような主張。たしかにその通りなのですが、学校という日本型横並び世間への暴力的適応矯正施設みたいなところで、アレルギー疾患を持つ子供だけが尊重されるはずがない。学校は自己を守るためにフットワーク巧みに立ち回る練習をする場所だ、と筆者は思いますがね。少なくとも、毒物として機能するようなものがごろごろ転がっているような所に近付く必要なんか無く、その上で自分なりの教育を受ける権利を主張したら済むことではないかしら。そういう子供がある一定の割合以上になって、公教育というものが空洞化している事実(とっくの昔にそうなってるのだが)が誰の目にも明らかにならないと、この国の教育行政という奴は動かないでしょう。
TVでは他に歯科治療で使われた亜砒酸がきっかけで過敏症になった女性と、その息子で大学のペンキ塗り替えが原因で意識障害を起こし、以後過敏状態が続いているとされる青年についてリポートされていましたが、アレルギーについては一般的な知識しかない筆者には、「これは同列に論じられる問題なのだろうか?」と言う疑問が消えませんでした。本格的な化学物質過敏症で、新聞のインクにまで反応するというなら、半日空気清浄器の側に置いておくなんて程度の事で触れるようになる、というのはちょっとおかしいような気がする。別の要因も考えるべきでしょう。どんな症状もすべて過敏症状で説明しようと言うような感じも目立ったし、もう少し色んな視点からの精査をして対策を講じていかないと(しているのかもしれないが、少なくとも報道では触れられていない)、鬱屈した被害者意識に終わって、問題解決の方向に向かわないのではないかな?と感じたのはきっと筆者だけではないのでは。
それと徹底した汚染排除設備を持った化学物質過敏症の専門的診断治療施設の紹介をして、普段の環境がいかに汚染されているかを感じた、なんてコメント出すのはあまりにマヌケです。病的状態に対応するためのクリーンルームは極めて不自然な環境なのであって、そこで慣れて外部に出たら違和感を感じるのは当然。人間はそんなにクリーンな環境で進化してきたわけではなく、煙でいぶされた洞窟の中で多少腐りかけたものでも食べなきゃいかん生活を繰り返してきたので、それを忘れて妙にデオドラントな環境を求めながら、まさしくその必然的帰結として今まで接触したこともなかったような化学物質を身の回りに蓄積させてきた、そのツケを今払わされているのだ、と言うことを思い出す必要があります。程々の問題意識で始まりながら、結局は社会が悪い、行政が悪いと一般的に責めるだけ、という安易な作りになってしまわないよう、続編を期待したいと思います。(1999/09/09)
東海村の核燃料工場での事故がかいま見させてくれた問題は予想外に大きく、専門技術と社会との関わりという点では医療がかかえる問題点とも共通するところがあるように感じます。大体、この病院だって現場からは比較的近いところにあり、直接的影響が無いとは言えません。いつも10人近くは営業に来ていた製薬会社のMRさん達が、事故直後さっぱり姿見せないのは汚染を危惧してのことか。ここは千葉の北端、チバラギの本場ですからね。
よく考えりゃ当たり前のことなんですが、今回の事故で今更に思い知った事は、原発自体は安全な設備であるとしても、核燃料そのものは設備と無関係に反応すべき性質を持つもので、条件さえそろえば核反応を起こし、核反応というのは核燃料さえあればどこでも起こせると言うことでしょうか。
今回の事故が、手段を問わぬ社会転覆や騒乱状態を意図する方々に与えたパラダイムシフトは大なるものがあったはずで、自分の危険さえ省みなければ小規模中性子爆弾をどこでも破裂させることが出来るわけですから、これは力強い。ややこしい起爆装置もいらないし、バケツとドラム缶で出来る簡易核兵器というわけ。007の敵役も怪しげな博士とか大規模陰謀集団である必要が無くなりました。バケツ抱えたどっと地味な核テロリストでは映画にもなりません。(それにしても掃除用のバケツで核物質を溶かしていたそうですが、掃除するときには核物質用タンクで雑巾ゆすいでいたとも思えず、どうしていたんでしょう。掃除のたびに汚染が広がっていたということですかね?#)
「本来ならあり得るはずがない」現場のミスと言う話に納められてしまいそうですが、なんか取り違え手術のときの言い訳を思い出します。親方日の丸、ふっかけ放題のおいしい商売を享受する核産業の感覚が、人間がその一部を不完全に制御しているに過ぎない核反応というきわめてやっかいな技術に関わっている、という緊張感を失わせているのだと思います。医療にとっても他山の石として自らを振り返るべきところでしょう。
それにしても事故後かなり時間がたつのに、「何が起こったのか」がまだ充分発表されていなのが訝しい。核物質そのものの飛散があったのかどうかがぜんぜん判りません。BBCのニュースで「JCOの建物の屋根が吹っ飛んでいる」という画面が流れて、ネットでも見ることが出来ますが、それについては全く触れられない。筆者の見るところどうもあの画像は「単なる屋根の雨風による腐蝕」のようで、爆発による損傷とは思えませんが、BBCの記者にしてみれば、あのような脆弱なボロ建物の核燃料工場というのが信じられなかったのでしょう。
農作物への風評被害などを心配するから、詳しいことを発表しないというなら、これほど人を馬鹿にした話はありません。どうせ野菜などの検査をとおりいっぺんにしている映像でも流して「心配ない」で済ませようとするのでしょうが、それで納得する昨今の消費者ではないでしょう。(1999/10/02)
#などと書いていたら、初めからバケツを使った不正規マニュアルが準備されていた、と言う表現に変わってしまいました。初めは現場の思いつきでやったこと、という話にしてしまおうと思っていたのが、それでは収まりがつかなくなったということか?たまたま掃除バケツで楽しようと思った、と言うほうが怖いか、組織的に楽な工程を裏マニュアルで作っている方が怖いか、究極の選択ですなこれは。
「論争」と言うほど高級な物かどうかについては異論がある所でしょうが、99年度中期以降のメガヒット出版物である「買ってはいけない」が様々に論議を呼んでいる様です。「買ってはいけない」とされる商品類が具体的実名をあげられている、というのがこの本の売りで、食品から薬品、化粧品、雑貨、という広い分野にわたって危険性を告発というか難癖をつける姿勢が徹底しています。
この本を評するサイトを紹介する専門リンク集まであるので、詳しくはそちらを見れば個々の指摘されている事柄への正当性、不当性を知っていただけるのではないかと思います。お前はこの本をどう評価するのだと問われたら、「200万部以上売れた」というその事実にただ感服する、とお答えいたす外ありません。
否定的評者が指摘するまでもなく、この本の著者達が使う論理には疑問点が数多く、中には全くのデタラメや、都市伝説をそのまま信じ込んだトンデモが数多く混じり込んでおり、真面目に環境運動などに取り組んでいる人たちから見れば、「こんな杜撰な理屈で不安を煽るようなものと自分たちの主張を混同されたら迷惑」と思うのも無理がない。先のリンクを眺めても、情緒的追随派と情緒的反発派を除けば、真面目に論じているサイトはほとんどが積極的かつ建設的な環境保護派の人々による否定的意見を表明しているようです。(そう言う人を装った企業サイドの意見なのかもしれないが)
あまりにも明白なデタラメというか筆のすべりに関してはこっそり書き直しされている部分もあるようで、筆者の読んだ初期バージョンと最近売られている内容は少々異なるようですが、それでも「殆どの企業は効率性と経営効果のみを求めて、危険な商品を大衆に売りつけている。大衆は無知故にCMにだまされ目先の利便性につられてそれを買い続けている」とする反論不能の正論を唱える基本姿勢は貫かれています。そのあまりに古典的にして尊大な態度が、ど真ん中のストライクに決まった、と言うのがこの本がミリオンセラーになった理由でしょう。
これも価値の相対化、という奴がやたらに進んだ結果なのか、消費のファッションが以前のように画一化される事が無くなっている中で、個別的なブランド信仰に分散化するのとほぼ同じスタイルで、環境指向という「贅沢」パターンが確立してきており、それの一つのガイドブックとして読まれた可能性もあります。今日日いまさらブランドひけらかされてもウザいだけだけれど、「市販のものは原則としていっさい食べないし、飲みません。小さい無農薬農園をつくっています。水も丹沢の湧き水を飲んでいます」と言うようなのなら実現可能にして、おしゃれに見えますからね。どこかのサイトでこう言うのを評して「環境貴族」と呼んでいたけれど、本質を突いた言葉です。#
そうした「環境貴族」のご託宣も、ささやかながら充分立派な「商品」となると言うことが証明されたのだから、消費動向が掴めないなんて情けない事言うでない、浜の真砂は尽きるとも、世に金儲けのタネは尽きることがないぞ、という不景気日本にたいする応援歌として、この本を素直に受け入れようではないかというのがここでの結論であります。(1999/10/18)
#筆者の知り合いにもこの手がいまして、「特注で作らせた無農薬無添加の豆腐」(一丁千円するらしい)何ぞを時々お裾分けしてくれたりします。「贅沢するなら同じ値段のキャビアの方がいい」などと正直に言ったらそれ以後お付き合いしてくれなくなりました。それにしても、こうした環境貴族趣味は祇園の料亭などでの古典的贅沢と結局の所同じ物になってしまうのが面白い。
米国医師会が発行する内科雑誌”Archives of Internal Medicine”にこんな論文が載っていました。これは「医学都市伝説」の方で紹介した方がよかったかなとも思いますが、きわめて真面目な研究であり、今後の医学医療のあり方にも関係してくる可能性すらある物なのでこちらで扱います。(ま、こっちで紹介したら茶化していないとは言えないけれど)
原題は
" A Randomized, Controlled Trial of the Effects of Remote, Intercessory Prayer on Outcomes in PatientsAdmitted to the Coronary Care Unit"
「心血管救急治療施設入院患者の経過に及ぼす、遠隔祈祷の影響についての統計的予備研究」という長い題がついており、中西部カンサスを中心にかなり大規模に行われたその研究は、簡単に言うと、「祈り」に病気を癒す力はあるのか、という疑問に答えようとするものに外なりません。人間は有史以前から、愛する存在が病気になったとき、その回復を願い、祈りを捧げてきました。医学的治療などより、この「祈り」こそが病への根源的な癒しになると言う信念は、どのような歴史文化を通じても確固たるものであったと言えますが、それを科学的に検証しようと言う試みが、そう頻回になされているとは言いがたい。
1988年にByrdがこれに先行する研究をカリフォルニアでおこなって、統計的に有意な「祈り」効果が認められているとのことですが、今回はそれをさらに大規模化、精密化したものです。調査期間約一年の間に、カンサス周辺の病院の心血管救急ユニットに入院した約1000名の心疾患患者をランダムに2群に分け、一方には一般的治療を行い、もう一方にはそれに加えて5名のボランティア祈祷者(すべてキリスト教の民間信者。新旧宗派は様々)が、病院の外で快癒と早期退院を祈るというもの。祈祷者は患者についてそのファーストネームだけを知らされ、病状はもちろんその他の個人的データはまったく知らされず、外の祈祷者とも別々に、ただただ「合併症なく早期に退院となるよう」祈りを捧げる、ということになっています。連絡が行き届き、ちゃんと5名の祈りが開始されるように、24時間以上の入院だけを対象にし、心移植対象となった例も除いて、一般群524例とプラス「祈り」群466例、計990例が最終的に検討されました。
結論を言ってしまえば、この2群は入院期間では統計的差は示さなかったものの、全体的な症状スコア(これがこの研究のために特別に作られた、と言うあたりに少々懐疑の目が向いてしまうのだけれど)には明らかな改善が「祈り」群に認められたというもの。
この研究は完全二重盲検法を取っているので、患者家族はもちろん、治療者も「祈りがささげられているかどうか」を知りません。だいたい祈祷する側だって、どこの誰ともわからぬジョンやマリーのために祈っているわけで、それがどのように効果につながるのやら、さっぱり判らない。そりゃまぁ、すべてを見通す存在にいちいち個人のプロトコール示さないといけないはずはありませんが。
とにかく、何のかんのと言ってもかなりはっきりした統計的差(さっきの少し怪しいスコアで一割強の差ですが)が出た、と言うのは事実であり、驚きです。もっとも一つ一つの症状や状態を取り出すとそう差ははっきりしないようで、単なる統計のいたずらである可能性はあります。ちょっと疑問点を指摘すると症状と処置それぞれを別スコアにして加算している(たとえば胸痛があって、ニトロ処方したらそれぞれ一点ずつの計二点と言う計算)ので、偶然の差が増幅されることになりますね。
著者たちはこの結果にきわめて謙虚な態度を示しており、別に超自然的な主張をしてはいません。むしろより実証的に「船乗りたちの壊血病をレモンとライムで解決した18世紀の海軍軍医がビタミンCの存在を知っていたわけではない」とさらにこうした研究を続けていく必要性を説いています。しかしその意気は軒昂で、宗教的な信念が日本などよりよほど強い米国で、患者本人に「祈り」の存在を知らせることなくこのような結果を得たことで、医学治療に積極的に宗教的癒しの選択肢を加えることの重要性を主張していく根拠としたい様子です。
筆者もそれには基本的に賛成ですが、自己責任の上での契約というものが絶対的な力を持つ社会が確立しているとはとても言えない日本では、いいとこ取りを期待する幻想と責任のたらいまわしの思惑ばかりが先走りして、健全な医学医療の需給には今のところ寄与しないのではないか、という危惧があります。(1999/11/04)
[Reference]
Byrd RC. Positive therapeutic effects of intercessory prayer in a coronary care unit population.South Med J.1988;81:826-829
William S.Harris, et al. A Randomized, Controlled Trial of the Effects of Remote, Intercessory Prayer on Outcomes inPatients Admitted to the Coronary Care Unit. Vol159,Oct25,1999
http://archinte.ama-assn.org/issues/v159n19/full/ioi90043.html
#受け持ち患者の枕もとにあまり見目麗しいとは言いがたい中年女性のポスターが以前から貼ってあり、「売れない演歌歌手」だと勝手に決めていたら、某宗派の教主様であると先日教えられました。罰当たりお許しくださいね。罰当たりついでに、この研究をさらに大規模にして、キリスト教だけなんて視野の狭いこと言わず、あらゆる宗教各派を対象にし、その効果の優劣を競うというのはどうでしょう。宗派対抗祈祷ワールドカップを開くわけ。最終決勝戦がオ*ム対創*学*なんて事になったら、応援する側も手に汗握るのではないかしら。
成田市のホテル(おっ、近いぞ!)で某自己啓発セミナーメンバーが会員のミイラ化死体をお守りしていたとかで、またまた例によってマスコミ、ワイドショー関係が活気を呈しています。この団体の代表者T氏がまたなかなかのキャラクターで、野村サチヨ氏以降いまいち人材に乏しかったアンチヒーローNo.1にたちまちにして上り詰めたかに見えます。
大騒ぎしている割に、起こったことは何かと言えば、一般常識では死亡していると考えられる状態を、「治療中にしてまだ生きている状態だ」とメンバー達が主張し、ホテルの一室でお世話していたというだけのこと。厳密に言えば死体遺棄とか色々な法律に引っかかる可能性はあるのだろうけれども、本人も病院から無理に退院する段階で納得していたのだろうし、その家族が中心になってやっていることなのだから、好きにさせとけばいいじゃないかと思います。何も人は病院で治療して、そこで死ぬ義務があるわけではないでしょう。(まあ外にも会員の子供達を学校にも行かせずホテルに缶詰にしていたとか、超高額のお布施を要求するとかいろいろあるようですが、別に武器突きつけて強要したわけでも無し、人の勝手だと思いますが)
ホテルには宿泊者が守るべき約款があるはずで、「死体、腐敗物等の持ち込みはお断りします」ぐらいのことは書いてあると思うから、約款違反でお引き取り願えば良いことで、それでも出ていかないと言うなら警察が関わる問題だと思うのに、初めから警察が入ってくると言うのも解せません。メンバーが妙にホテルにこだわっているのもそれ以上に解せませんが。バブル時代に高級ホテルでセミナーやって、役にも立たないおためごかしで馬鹿な企業からあぶく銭ふんだくっていたおいしい記憶がまだ薄れないのでしょうかなぁ。人里離れた貸別荘でも使ってりゃ、好きなだけグルに活躍してもらえたろうに。もっともそうしてりゃこのグループの崩壊は早くなるだけだろうけど。
このメンバー達のおかげで、本年度流行語大賞に突然浮上してきたのが「定説」であります。どう見ても死体でしかない状態を「生きている」と主張するその根拠が「それは定説だ」という循環論法に、言葉尻を捕まえて上っ面批判するだけが取り柄のマスコミ連中も全く歯が立ちません。そもそも命題には反証可能なものと不可能なものがあり、「私は神である」「世界は神が作られた」などという様な内容は有り難く拝聴出来こそすれ、反証は不可能です。「それは世界の定説だ」というのは一見反証可能なカテゴリィに属するかに見えて、「私が理解する限りにおいて」という前提を欠くなら、初めの範疇に入り、反証など不可能です。そう思うならご勝手に、でも迷惑かけないでね、ですむ話です。
この連中のウェブサイトを覗いてみれば(馬鹿馬鹿しいのでリンクしません)、これはギャグ狙いなのか、と疑わざるを得ない支離滅裂文章が並んでおり(内容以前の誤字、ミススペル、不思議な小児退行的言い回しに満ち満ちている)、よくもまあこのような低レベル教義で商売になると感心してしまい、かのオウムなんかは結構まともな教義を持っていたんだなと逆に再発見してしまいます。「買ってはいけない」の時もそう感じたのだけれど、人は騙されることを無意識のうちで望んでいるのだろうな、その望みにうまくつけ込める人間が、そう長続きはしないにしても、(アンチ)ヒーローの座を獲得できるらしいと思わせる出来事です。
この事件を報じた記事とともに、こんな記事が出ていました(毎日11/22全国版)。東京都の市立中学教諭が自分の授業で日の丸掲揚・君が世斉唱への一方的指導を「オウムの洗脳と同じ」と批判したプリントを配布し、訓告を受けたというもの。教育委員会のコメントがふるっています。「国旗掲揚・国歌斉唱は学習指導要領に明記されている。洗脳と同じだと教えることは認められない」何のために指導要領があるのかをすっ飛ばしたこのコメントは、「世界の定説だ」という主張と何らかわりがありません。きっとT氏はこういう小役人の自己保身価値観のかわりに、ちょっとユニークな世界観を身につけた人と言うだけなんでしょうね。(1999/11/22)
これもY2K問題の一つ、とも言えなくもない問題がいま、イスラエル当局者によって深刻に検討されているそうです。「エルサレム症候群」と呼びならわされている精神衛生問題がそれです。
これはエルサレムに巡礼、もしくは単なる観光に訪れただけの人が、その街の宗教的雰囲気に感応されて一過性の錯乱状態に陥り、その多くが自分が聖書上の重要人物になったと自称し、ホテルのシーツを巻き付けて予言者風の扮装を凝らし、声高に賛美歌を歌い、通行人をつかまえては「終末は近い」などと説教し始める状態を言うそうです。
この状態に陥る人はほとんどが白人で、3分の2はユダヤ教徒、残りがキリスト教徒、それもほとんどプロテスタントで、元々精神疾患があって旅行のどさくさで処方されていた薬を飲まなかったりすることで一時的増悪をしめすだけの人も含まれながら、やはりいままで何ともなかった人が突然こういう状態を呈するタイプも多く、より対応に苦労する事が多いそうです。
この言葉は医学的と言うよりはむしろ、イスラエルの医療行政で使われてきたようで、MEDLINEではちゃんとした論文としては一件も登録されていませんでしたが、アメリカのユダヤ系インテリ層には結構なじみのある言葉のようで、そのまんまの「エルサレム症候群」という喜劇が今年8月からオフ・ブロードウェイで2ヶ月間上演されていたりします(結構好意的劇評が出ていますが、2ヶ月でうち切りということはあまり当たらなかったんでしょうね)。
昔の言い方で感応性ヒステリー性精神病状態、WHO精神疾患分類のICD−10で言えばF44.3の「トランスおよび憑依障害」と言うところに分類できるのでしょうが、適切な治療で数日以内に改善し、様々な大騒ぎの記憶はほとんどないのが特徴のようです。楽しく騒いでいるだけなら害はないのですが、他人へ宗教上の思いこみを無理に押しつけ、受け入れられないと攻撃的になったり、苦行と称して自らを傷つけたりするので、一時的な入院治療の必要性も高いとか。2、3年前までは年に20人ほどの入院例があっただけ(それでも結構多いですが)この1年は1ヶ月に50例に上るそうです。イスラエル当局は来年に予定されているローマ法王のエルサレム訪問の際にはより大規模な危機的状況を予想しており、対策に苦慮しているとか。
とりわけこの状態に陥った人間が短絡的テロ行為を行う危険性を考えると、職業的テロリスト集団へのマークだけでは警備もおぼつかなく可能性があるわけで、問題は医療行政だけでは済まなくなっています。(すでに1969年、この状態のオーストラリア人青年がイスラム教モスクを焼き討ちした事件が起こっているそうです)
「エルサレム症候群」が歴史に登場するのは1033年、キリスト磔刑千年記念でこの街を訪れた巡礼達が集団的法悦状態に陥り、暴動に発展したのが最初のようです。これが来年も起こることになるかどうか、興味が尽きないところです。ユダヤ・キリスト教のバックグラウンドはないが、お調子者としては世界に冠たる素質を持っている日本人がどこまでこれに侵されるか、と言うのも是非観察したいところ。
(1999/11/24)