まるっきり医学業界とは無関係だが、この事件には様々な思いがある。まず、この事件は筆者が関西に住んでいた頃の行動範囲とほとんど一致した場所で起こっていることがひとつ。当時筆者はS県に住んでいたが、S県警が犯人グループの一員とおぼしき人間を取り逃がしたあたりに近い病院に関係していて、そのあたりの地理にも詳しい。ほかの事件も子供時代に転々と引っ越しして住んでいたところ周辺を選んだように起こっている、と言っても良いぐらいだ。
捜査員が目撃したという「キツネ目の男」の似顔絵を新聞で見たときには、本当にぶったまげた。それは筆者の中学時代の同級生にうり二つだったのだ。かの宮崎学氏が似ている、などと言うレベルではない。同級生の写真をそのまんま絵に写したとしか思えないほどだった。もちろん警察に連絡などしていない。なぜならその男が、事件に関与していることは決してあり得ない。彼は事件の3年ほど前、猟銃自殺をしているのだ。
その同級生は中学時代はいわゆる非行グループに属していて、高校進学後すぐに退学、以後怪しげな生業を色々続けていた。一時羽振りの良い頃もあったらしいが、結局方々に借金の山を残し30になったかならぬ頃、父親の猟銃を持ち出して車で山に入り、そこで自分の頭を吹き飛ばした。
彼が死んだことは例の「キツネ目似顔絵」まで知らなかった。そのあまりの類似に別の同級生に電話したところ「何を眠たいこと言うとんねん。あいつはもう死んでしもとるわ」という話を聞かされたわけだ。その相手も確かに似顔絵が酷似していることは認めていた。
ある時週刊誌を読んでいたら、30年前に起こった「府中三億円事件」に関連して、気になる記事が出ていた。それによるとモンタージュ写真でお馴染みの(と言っても若い人は知らないだろうが)「ヘルメット姿の犯人」は、事件以前に死亡したまったく関係ない人間の写真を流用したものだという。あのとき銀行員はあわてふためいていて犯人の顔をまったく覚えていなかった、もしくは覚えていたのだがそれをそのまま公表できない深いわけがあった、モンタージュ写真もない、と言うのでは警察の威信丸つぶれ、そこで文句の出る心配のない死亡した人間の写真を流用した、と言うのだ。
そう言えば「かい人21めんそう」が新聞社に送った挑戦状の中にたしか「キツネ目の男は現場の警察官が責任逃れのためにでっち上げた」というような内容があった。もし誤認による間違った情報で捜査しているなら犯人にとって都合がいいはずなので、わざわざこう言うことを主張するはずがない。キツネ目の男の似顔絵が実際の犯人の一人の姿なら「そんなおとこ おらん」と言って信じてくれるはずもなく、無駄な言い訳だ。権力や警察をおちょくりまくる犯人の他の発言からして、これは警察の自己保身目的の意識的でっち上げ、もしくは何らかの罠、であることを見抜いていたとしか思えない。
かなり怪しいシノギをしていた筆者の同級生のことだから、警察にもそれなりにマークされていただろう。警察が写真ぐらい持っていても不思議はない。何の手がかりもないとは言えないし、こんな怪しい奴がいたと言う話にしてしまえ、そうだ、ちょっと前に死んだあいつの写真をつかって似顔絵を作ればいいというような話は、昨今漏れ聞く警察の内情話から考えると結構あり得るように思われる。
これはもちろん似顔絵が知り合いに「他人の空似」以上に似ている、と言う一点からの勝手な推測に過ぎない。しかし、あの似顔絵、妙にぎこちなくアゴを引いて肩肘に力が入った感じまでとらえているように見えるのだが、そのあたりも含めてちょっと似すぎている。
もうおそらく真相が明らかにされる事はないだろうが、事件そのものは(被害者や、責任を感じて自殺までされた関係者にはまことにお気の毒としか言えないが)日本社会の欺瞞性を露呈させたものといえよう。国家が正義を代表し、それを執行していくという、かって一度も事実であったことのない幻想をうち砕き、企業の闇の部分の存在と怪しげな裏取引を人々に推測させ、バブルに突き進んで自壊するしかない悲喜劇の行くすえを予感させたといえる。おそらく何らかの方法で巨利を得たであろう犯人グループは、とんでもない連中ではあるものの、モラルが廃れ弱者が食い物にされる世界でのひとつの立ち振る舞い方を、身をもって示したのではないか。
いま不景気なんて言ってるが、それはこの国の経済と言うものが利権集団の既得権確保のためだけに動いているということに皆が気づいて、内需拡大だのといいようにカモにされるのが馬鹿馬鹿しくなっているだけのことだ。「庶民」なんていうけれど、所詮どこかの利権屋の低位序列につらなってるだけの存在で、そう言うところに無理して加わって、せっせと上に貢いで雀の涙の報酬をもらうのではなく、人が自分自身とその愛する人々や地域の豊かさを直接目指して努力することが実際にかなえられるような、そんな展望が見えて来ない限り、この国の経済再建などないだろう。「かい人21めんそう」グループははなはだネガティブな形ではあれ、既成権威の否定を貫きながらconvivial(少なくとも仲間内では)に利害を追求するモデルを示したと言えるだろう(犯罪を礼賛しているのではないからご注意を)。
あ、「他人の空似」ついでにもう一ついうと、コンビニのカメラに写っていた「野球帽の男」、あれどう見ても15年前ごろの筆者に似てるんだなホント、くせ毛っぽいところとか体型とか落ち着きのない挙動が。あの頃に関して、どうもぽつぽつと記憶が欠けているんだが、まさか自分でも知らないうちに関与しているなんて事はないだろうか、と考え込んでしまったりして。なんか比叡山あたりの山腹に札束と金塊埋めてるような、妙にリアルな夢も見たりするんだな、このごろ。
(2000/02/12)
#やばい、時効までにはまだ半日以上あったんだった。
M新聞の日曜版にOという人が表題のコラムを書いておられる。「私の老老介護」という副題から、もう初老に達しておられるご婦人が、痴呆症状が進行しつつある御母堂の介護の様子を、涙と笑いの奮戦記といった感じでまとめているのだろう、と勝手に考えていた。ところがそうではないのだった。基本的な福祉サービスや医療サービスに恵まれず、それでも時おりは献身的に支えてくれるボランティアや、例外的に親身になってくれるプロにであって何とか救われたりしつつ、しかしそういう人たちにおいても見られる、所詮は他人のこと、という割り切り方などへの懐疑、専門的な介護技術があまりにお粗末であること(主にこの人が思いつくようなことは一切考慮に入れられないということ)への憤慨、などを綿々とつづった「現在進行形の恨み節」なのだ。
はじめは程々に読んでいたが、いやになってきて最近は読むのをやめていた。自分がこういう家族と対応せねばならなくなったらどうするだろう、と考えてしまうからだ。O女史は作家にして大学教授ということなのだが、社会的な公平性とか正義に属することと、個人的利害との連関が少々ルーズなようで、「自分がこんなひどい体験をしたのだから、これは告発すべきだ」とストレートに考える人であるようだ。今日のコラムには、この人がもっとも許せなかった某老人専門病院での母親への仕打ちについて記されているが、どうも妙だ。真夏の日、高熱が出ている老人を寝かせている部屋にエアコンもない、と言うようなお粗末状況への当然の憤懣と、発熱して拒食している状態をみて「内科の問題ではない、精神科医である主治医を呼んでくれ」とピントはずれの要求が同居しているのが何とも痛々しくさえある。
病院の施設状況ぐらい事前に確かめられなかったのか。病室に一緒に行けば判るだろう。最低限の設備もないところに何で入院などさせるのだ。発熱して脱水状態に陥っている老人に一番必要なのはまずちゃんとした身体管理で、「自分で死ぬつもりになって薬も水も飲まないでいる」のだから精神的なケアが必要だ、だから精神科医をよべ(主治医を呼べと言うことなら判るのですよ)という素人の発想としてもお粗末な連想を、低レベルとはいえ専門家に押しつけることなど、何の医療批判にもならない「トンデモ家族のたわごと」の部類だ。キチンとした身体状態の説明と、治療の見通しを要求すべきだ。それが出来ない様なところなら、その場で救急車を呼んで別の所に行けばいい。新聞に書くといって脅かしたりして、自分の品性のさもしさを暴露するのもどんなものか。
この人は恐らく母親に痴呆が進行しつつある、という事実に半ばパニックに陥り、悪徳老人病院の調子の良いセールストークを無批判に鵜呑みにしてしまったのだろう。まとも設備もなく、まともなスタッフも殆どいない事実に半ば気づきながら、「一生懸命いいほうに考えようと」したりしている。まあたいがいの家族なら、痴呆老人介護の修羅場から抜け出られるメリットを思って、たいていのことは無視してしまうのだが、この人はそう言う風に自分を納得させるタイプではないようだ。「母親のために最善の事をしてやりたい」という明らかに自分に対する虚偽がまじった動機を出発点にしているため、ここまで主張がいびつになるのだろう。
この人が非難するような老人病院のお粗末な現状は筆者自身様々に見聞きするし、自分自身の医療現場だって胸を張って誇れるようなものでないことは承知しているつもりだ。少なくとも病院として機能するに必要十分な施設と、マンパワーを揃えている老人病院はそうあるとは言えない。それがまかり通るのは、介護する家族が負わねばならないあまりにも厳しい現状があるからだ。家族としては、筆者が勤めているような普通の病院になんとか長く入院させるよう工作を続け、それがダメなら姥捨て山であることを知りながら、胡散臭い老人病院に預けるしかない。そこで家族の後ろめたさを緩和するために、入院させることが「治療」であるかのようなフィクションが要求される事になる。
しかし、痴呆性疾患で徹底した専門的医学的介入が必要となることはそう多いことではない。行動面の障害にしたって、たいがいはちょっとした対応でまず地域生活は維持していけるものだし、殆どの問題は介護のマンパワーをどう振り分けるかに尽きる。妄想や興奮というひどい精神症状が出るケースは確かにあるが、所詮は短期間のことだ。末期に栄養がとれなくなったときはどうするかという問題があるが、逆に言えばここまで進めば専門医でなくても対応できるので、家庭医の往診で家族に見守られた大往生を充分演出可能だ。一秒でも長生きするのがいいことだ、と思う家族なら普通の病院で中心静脈栄養でも受けさせ、高額の医療費を病院に恵みつつ、無機的な死を迎えさせるのも自由。(本音を言うと、一定の割合でこういう人を入れておくのは一般病院でも御の字なのですよ。保険返戻くらうこともあるけど)
今後どの様な新発見があるかは知らないけれど、少なくともこの100年ほどの間(人類存続の間と言ってもいいかも)に痴呆性疾患が根本的に解決される様なことはないだろう。精神生活が次第に貧しくなってくるばかりか、余命自体もかなり限られる(この事実はもっと強調されてもいいと思うが何故かされない。呆けきったまま永遠に生きるというようなウソが横行するのは困ったものだ)という恐るべき疾患ではあるのだが、その過程でどこまで人間的尊厳のある生を追求するか、ということが差し当たっての医療と介護の中心テーマとなるべきだ。プロの使命は、調達できる陣容(そこに家族が入れば言うことないが、そう無理ばかりも言えない)を最大限にチューンナップすることで、家族の絶望を盾にとって荒稼ぎすることでも、彼らに姥捨ての言い訳を作ってやったりすることでもない。
O女史が自分の前に現れたら筆者は多分こう言うだろう。「2〜3年間仕事を休んだらどうですか。作家で大学教授という立場はその点では有利なはずですよ。身体管理が必要なときはいつでも入院させましょう。しかし、普段は出来るだけ一緒に暮らして行く方向にしましょう。リラックスのためにショートステイを使ったり、ヘルパー派遣を最大限利用しましょう」こういうごく普通のアドバイスをするだろう。しかし多分この人は「自分の仕事は今しかできない。仕事しながら、母のために一番いい医療を受けさせたい」と返してくるようにおもう。結局「貴女の後ろめたさを代償するようなことは医療の役目ではない。一緒に生きるお手伝いなら出来るけれど」といってお引き取りを願うことになるんだろうな。(2000/02/27)
地元の大学病院から63才のM氏が紹介されてきたのは、数年前の冬のことだった。大学近くで交通事故を起こし、救急病院に入院したが、夜間せん妄を起こして落ち着かぬため、大学病院の精神科に転科した、そこで患者同士でのトラブルが絶えぬので転院させてほしいという事だった。ところで病状はどうなのかというと、どうも要領を得ない。「軽度の痴呆はあるが、むしろ社会的入院だった」とのこと。問題が起こっているならちょうど家族に引き取ってもらういいチャンスなのになと思いつつ、私は受け持ち患者が少ない上にさぼりが目立って白い目で見られている手前、引き受けることになった。
徘徊などのため、ほかの患者からクレームが来ている痴呆老人を予想していたが、転院の日にM氏は一人でタクシーに乗ってやってきた。きれいになでつけられた白髪、上品な口ひげ、上等そうなスモーキングジャケットに、バーバリーのコートを羽織り、アスコットタイが決まっている。サムソナイトのオイスターを手にしたその姿は、精神科にこれから入院するというより、オルリー空港にでも向かう方が似合っている。
診察室で彼は名刺を取りだし、ていねいに挨拶する。名刺は欧文で名前と日本の物とは思われぬ電話番号しか書かれていない。「フランクフルトの大学で比較文学をやっておりまして、2年間の研究休暇がとれたので日本へ帰っておったのです。こちらには縁者もおるのですが、すっかり疎遠になっていましてな。昔の思い出の場所を一人で旅していたのですが、もうろくして来ておったのか、迂闊にも事故を起こしてしまいまして…。病院で入院しているうちにすっかり身体もなまってしまったので、リハビリ中心のところに転院させてもらいたいと教授にお願いしたわけです」実によどみなく、堂々としている。
紹介状によれば、ほかの患者に金銭をたかり、そのために問題がおこるとある。時には夜間にもうろう状態となり、居場所が分からなくなったこともあると。なかなか直接聞きにくいが、遠回しにたずねると、「ドイツの銀行口座から引き落とそうとしたら、ハンコがないというんですよ。そんなものないので当座の金を借りましてね、患者さん側は了解してくれたんだけど、病院のスタッフからクレームがあって」などともっともらしいことを言う。夜間の失踪に関しては「いやはや、ちょっとイタズラ心で盛り場に行ったら、道がわからなくなっちゃいまして」と説明。話のつじつまは何とか合うが、あまり固有名詞が出てこない。
CTでは大脳白質の変成がめだつ、いわゆるビンスワンガー病と呼ばれる脳血管障害を示しており、まとまった対応が出来るのが不思議ともいえる状態だった。病室は本人の希望で個室。差額は「日本の銀行に預金を移したら」支払うと言うことだった。ドイツの大学に籍があるという割には、国民健康保険を持っていたのが妙だが、どうせもっともらしい説明がされるのは間違いない。
M氏は小柄だったが、威厳、と言う物をおのずから発散させるタイプの人だった。パジャマにバーバリーのガウンをはおり、パイプ片手に散歩していると、道行く人が思わず会釈するぐらいだ。職員やほかの患者さんは、いつしか彼のことを教授と呼ぶようになっていた。彼が「少し書類をまとめたいので」というので、私は廃棄処分のデスクを彼の個室にいれてあげた。彼はそこで読書し、何か手紙を書き、書類を整理したりしていた。ほかの患者さんには良き相談相手で、なかなか信頼されている様子だった。金銭問題には充分注意していたが、少なくともそこでは問題をおこさなかった。巧みにタバコを拝借したりはしていたようだが。
彼が事故を起こした車は、数ヶ月以上も未払いのまま乗り回していたレンタカーらしい。レンタカー会社から何度か内容証明が届いていた。「実家の方で支払ってるはずなんですが、どうも行き違っているようですね」とM氏は動じない。彼は自分からは言い出さないが、その名と同じ旧財閥系の一族の傍流で、好きなことをして暮らしてきたのも、それなりに実家が援助してくれるからなのだとほのめかしていた。
彼が入院して3カ月ほどたったころ、県警から私に手紙が来た。M氏について、捜査上必要があるので回答を願いたいという。今の病状、出頭にたえられるか、等々。ところがその手紙が届くすこしまえ頃から、M氏は呼吸器症状で寝込むようになりはじめていた。同時にふらつき、嚥下障害などの神経症状も悪化していた。状態を書いて返事すると、警察からはそれきり連絡はなくなった。M氏はせっかくのデスクにも陣取ることはなくなり、酸素吸入をしながら点滴を受ける日が続き始めた。それでも言葉はしっかりしており、「夏にはドイツに帰って、講座を続けないといけない。フライ・ヤーレは2年だけなんですよ」という。しかし彼の状態は悪化を続け、とうとう食事もとれなくなり、重症室に移って中心静脈栄養になってしまった。言葉もほとんどなくなる。それでも「医療費では迷惑かけたが、実家に請求してもらえばいいから」などと言い出すこともあった。
ある日、彼の弟と称する人が来院する。警察から所在を聞いたのだという。何か迷惑かけなかったろうか、としきりに恐縮している。M氏は、ある旧財閥系の企業につとめていたが、そこの創業者一族の末裔である重役の娘のところに婿養子に入った。それで急な昇進したのはいいが、全く仕事が出来なかったために退社、嫁さんの一族に出資してもらって事業をおこしたが失敗、40台で離婚となったが、彼は名前をもどさずにそのままM姓を名乗りつづけ、以後はそれを使って詐欺師として暮らしていたそうな。
地方の有名旅館やホテルなどに長逗留し、接近してきた小金持ちにM系企業が進出するような話を巧みにでっちあげては準備金と称する金をせしめてドロンする、という手口を十数年間続けてきたという。小口の寸借詐欺までいれたら数え切れない犯行を重ねていたらしいが、もとの婿入り先が弁済したりしたので警察沙汰にはならなかったという。一時は日本にいられなくなって、米国とヨーロッパを放浪していた時期もあるらしい。
弟の来訪から一ヶ月後、M氏は肺炎を悪化させ死亡した。弟は葬儀社に遺体の処理を一任し、遺骨も引き取らないと言ってきた。無縁仏でかまいませんと。生命保険証があったはずなので、送ってほしいとも。病院からはそれと一緒に、未払いの差額室料などの請求書を送ったが、結局支払われることはなかった。
事務方からは、個室に机まで運んで特別サービスし、あげくのはて結構な額の未払いを残したM氏を抱え込んだ私への非難はごうごうだったが、私はまるで気にならなかった。実際はかなり怪しい人ではあったようだが、少なくとも最後はそう破綻もせずに、物静かなインテリ老人としてその生を終えたM氏と接することができたのはいい経験だった。多少もう少し工夫したらいいのにと言いたい点はあるが、人生最後の彼の演技は充分「金を取れる」ものであったとおもう。数十万の未払い分に値するか、というのはちょっと疑問だが。(2000/03/18)
小渕総理(いまや元総理か)が突然の脳梗塞で倒れられた。火山は噴火するわ、首相の重病だわでマスコミは大騒ぎだ。デビ夫人がこの時期になにか記者会見したらしいが、タイミング悪くて記者も集まらなかったろう、と思っていると、そちらにも結構人は集まっている。この国のマスコミには、どうでもいいことだけをひたすらどうでもよく追求する、どうでもいい要員というのが山ほどいるらしい。失業対策に協力しているのかもしれない。どうでもいいことをひたすらやっている、と言えば私なんかもその仲間だが、別にこれで給料もらっているわけでもないしね。
それはさておき、(元)首相の病状発表がとてもおかしい。20時間以上遅れた、というのがまずおかしい。話の辻褄あわせに時間が必要だったのか、それともはじめの目論見がまるきり崩れたのか。おそらく後者だろう。そもそも話に辻褄が合ってない。そう重症ではない、適当にごまかしが利く、という判断で発表を先延ばしにしているうちに事態が急変したに違いない。
今日の讀賣新聞には、血栓溶解術を行ったと書いてあった。軽度から中度の脳梗塞の時、血小板の機能を抑制する薬を点滴で入れたりして、すこしでも血流を改善しようとする事はある。それでも完全に詰まった血管が再疎通することはないし、仮にあったとすればすでに壊死してしまっている部分に血液が流れ込むのだから、出血の危険は高い、というか避けられない。そういう処置がねらっているのは、障害を受けた周辺の脳組織が、障害部の浮腫などで二次的な圧迫をされ(勿論脳浮腫を抑える処置は別に行う)、血流が乏しくなって障害されるのを少しでも改善しようとすることに他ならない。それでも出血の危険は増えるのだが。でもその程度の処置を、ふつうわざわざ「血栓溶解術」なんて大層にはいわないな(人によっては大層に言う人もいる、難しいところだ)。
もしかしたらそれは動脈カテーテルを使った選択的な血栓溶解術だったのかもしれない。私らが市中病院でもやるようなことを、一国の総理大臣相手に大学病院が漫然とやっている、というのもなんなので思い切ってやったのかもしれないが、脳細胞組織は酸素消費がふつうの細胞の10倍はあって、すぐに強い障害がくるので、発作直後でもない限り改善は難しく、出血の危険が増すだけだ。たしか、発作直後2-3時間以内でないとやってはいけない処置ではなかったか?自分では決してやらない(出来ない)のでくわしいことは知らないが、深夜にそれをやった可能性はある。
でもそれなら、夕方に官房長官が面会した時、意識はあって「後を頼む」といわれた話と矛盾してしまう。それが事実なら、血栓溶解術はうまくいったのだろうし、そのあとになって昏睡になるのはおかしい。もし明け方以降なら、こういう選択的な溶解術をするはずはない。時間がたちすぎている。大学病院というところはひどい専門バカがたまにいるので、心筋梗塞の時と勘違いしてやったなんて可能性もあるが、何ぼなんでも総理大臣相手に独断で専門外の人間が処置なんかしないだろうしね
まあ素直に考えて、辛うじて意識がある程度の脳梗塞があって、ごく普通の抗血小板療法などやっていて、夕方過ぎに出血を起こして急変した、と言うところあたりなのだろう。午後7時に官房長官が、意識清明な状態で面会した、と言うのだけがウソだとするのがもっとも辻褄が合う。
ちょっと前まで「脳死内閣」なんて、今は決して言えないような言葉でぼろくそだったマスコミやその周辺の評論家が、きのうあたりからは「小渕さんはいい人でした」と言い始めている。たしかに「いい人」であるのは私も同意見だが、政治家を評するに「いい人」というのでは、言われるほうも草葉の陰で(おいおい、まだ違うぞ)苦笑するしかないだろう。
危機管理のいいかげんさのあおりで、なんともおかしな発表を断片的にしている医師団も気の毒だが、この連中がつまらぬ政治屋の辻褄あわせなどとは無関係に、毅然として記者会見でもすればすむ事でもあるので、同情は禁物かも。誰やらが言っていたような、ミスでもあってそこに付け込まれて、政治的思惑に振り回されているなら、そりゃ自業自得だ。総選挙寸前まで「元首相は生きている、これは定説だ」という役目が来たりして。
私なんかにしょうもない推測されることの無いよう、医師団は一日もはやく学術的な見解を明らかにされんことを願ってやまない。それと勿論、元首相の速やかな、可能な限りの回復もお祈りしたいとおもう。(2000/04/05)
こちらが推測したことがほぼ事実であったことが、今の段階で明らかになりつつある。元首相は軽症から中程度の脳梗塞で、カテーテルによる選択的血栓溶解術を受けていたようだ。しかし、どうもその際脳神経専門医ではなく、循環器専門の主治医達によってそれはおこなわれたらしく、事前に残存血流量をチェックしたりする、当然の手続が行われたどうかが怪しい。その検査をするためにはかなり多くの人間がかかわる必要があるので、そこからの情報もれなどを危惧したのだろうか。なんとも不可解な話だ。(2000/04/11)
about.comの都市伝説掲示板に3月はじめこういうチェーンメールが紹介されていた。その後そこでは結構論議されていたようだが、日本人から見れば今ひとつピンとくるものでなく、統計をネタにしたジョーク、と言う程度のとらえ方をしていた。先日、ひいきの引き倒し系日本シンパとして有名なビル・トッテン氏のサイトで、同じネタから作られたと思われる新聞記事が紹介されていた。まず最初のメールのほうを御覧いただきたい。
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これはハンターや銃愛好家がいる家族にはうれしい知らせだ。
米国内の医師の数・・・・・・・・・・・・・・・70万人
一年あたり医療ミスによる死者の数・・・・・・・12万人
医師対医療ミス死の割合・・・・・・・・・・・・0.171
米国内の銃所持者の数・・・・・・・・・・・・・8000万人
一年あたりの銃事故による死者の数・・・・・・・1500人
銃対銃事故死の割合・・・・・・・・・・・・・・0.0000188
以上から明らかなように、医師は銃所持者の約9000倍危険である、と結論付けられる。あなたはどう思う?
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医療ミスによる死者の数が12万というのは、どんな計算からえられているのかがよくわからない。掲示板での討論を追うと、どうも医療訴訟に持ち込まれ、医師側が敗訴した(その辺があいまいで、和解例なども全部加えている可能性もある)件数をあげているようだ。一方で銃事故死は純粋な事故だけをあげ、殺人や自殺は加えられていないらしい。これではまったくネタつくりのためだけに統計を持ち出したのは明白で、ワハハと笑っておくだけのものなのだが、ある立場からは絶好のキャンペーンの機会と受け取られたらしい。
先のビル・トッテン氏のコラムで引用されたのは「オーランド・センティネル」紙のコラムニスト、チャーリー・リース氏による記事である。この記事では先のメールよりはもう少し信憑性が高そうな数字を持ち出し、年間医療ミス死を4万から9万としているが、銃による死者数はあいまいなままに「殺人、自殺の死亡者数をすべて合わせても」4万にはならないとしている。(これは少し調べたら判りそうなもので、米国での犯罪などを含めた銃による死者は98年で4373人だ。確かに4万には及ばないので、自らの論調をさらにもっともらしくするために示したらいいと思うのだが。向こうのジャーナリストも結構怠惰なのね)
結局この人が主張するのは、米国医師会が銃規制に賛成していることを批判し、自分らの方がよっぽど危ないくせに、市民が自分を守る神聖な権利にいちゃもんつけるんじゃない、という内容だ。読んでいただければ判るが、突然「日本の真珠湾攻撃で3000人の米国人の命が奪われた」と始まり、医療ミス死との数の差について牽強付会に読者に感想を求めている。「医療ミス死」と言うことについての私の考えは後で述べるが、このコラムニストが医療に要求することは妙に混乱していて、過剰医療を批判したかと思うと、治療すれば病気が治るかのごとき幻想を振りまいたと論難し、「病院で死ぬ確率の方が、殺人犯に遭って死ぬ確率よりも高い」という当たり前のこと(殺人犯に銃撃されても、即死でなければ病院で死ぬと思うぞ)を無理やり医療ミスと結び付けようとしたりする。なぜか二次大戦で日本軍やドイツ軍に殺された米国人の数より医療による死者のほうが多い、などと時代遅れの敵国意識まで持ち出している。なんで「米国人によって殺されたベトナム人と同じぐらい」などと言わないのだろう。あ、ベトナム人死者はもっと多いか。
この人は混乱矛盾した論調の中でも、「医師はあまりに治療しようとしすぎる」という正しいことも主張していると思う。人が自分の運命を受け入れ、医療に過剰な期待を抱かず、人生にやり残したことを整理し、家族や友人との別れをうけいれる過程として医療をとらえるなら、「医療ミス」なんてものはほとんどなくなるだろう。そりゃ中には軽症疾患で、一時的苦痛除去するだけの処置なのにつまらんミスで命を失った、なんてケースもありうるだろうが、いったいそれはどの程度の頻度で起こりうるだろう。
こういう言い方は医療利用者の側にはカチンとくるかもしれないが、危険な検査や処置は、それ以上に危険性が迫っているからこそ行うのだ。ぴんぴんしている人をつかまえてきて、危険な医療行為を行い、死に至らしめるようなことは原則として起こることではない。上のコラムニストが鬼の首を取ったかのように主張する「医療ミス死」のほとんどは、おもいきった治療をすることで不幸なことにかえって死が「早まってしまった」例であるのは間違いない。患者側との充分な合意のもとに、あえて危険な道を選ぶことも有り得るだろうが、それが悪い結果を招いてしまうことまで「ミス」の範疇にされるのはおかしい。
ファインプレーとエラーは紙一重と言うが、医療においてもまったく同じことが言える。私なんか、定位置から動かないと取れないボールはすべて見送るようにしているので、エラー率は少ないが、積極的に突っ込んでくるタイプの人は大変だろう。
もちろん積極的に攻めるにせよ、守りを重視するにせよ、よりオープンな情報開示が必要であるのは当然だ。ディスコミニュケーションの原因としてしばしば浮上する、医療の万能性という神話(それを成立させているのは医師の責任だけとは思えない)はまず根絶されなければならないだろう。
ところで我国においては、銃よりも危険なものが野放しにされているのをご存知だろうか。これにたいして、フィクションと言うかたちではあるが、先駆的にも警鐘をならしているサイトがある。ぜひ訪問していただきたい。(2000/4/19)
掲示板のほうで精神病者による犯罪の問題が提起されていて、それに引越疲れでいい加減に対応していたら、早速精神病患者(たぶん分裂病だろう)によるバス乗っ取り殺人事件が起こってしまった。そのうち意見を述べることもある、と逃げていたがここはそれなりのことを言うべき時だろう。
自分の経験からいえば、痴呆老人の突発的衝動行為による事件を除けば(これもかなりの断腸の思いをもつ出来事ではあったが)、深刻な刑事事件を受け持ち患者に起こされたことはない。これは自分の予測が鋭かったからではなく、たぶんラッキーのみの事情によるものだと思う。そのかわり、自殺はよくされた。思い出すだけで9人死なれている。そのうち7例は外来患者で、前もって自殺の可能性があると判断し、家族にも伝え、本人の意に染まぬ入院も必要かもしれないと意見している。しかし、入院は家族が乗り気でなかったし、こちらも入院したって本当に死のうと思われたら、予防の手段はないと思っていたのでそう強く勧めなかった。現に2例は入院している人の場合で、かなり注意していたにもかかわらず、予測を超える独創的方法をとられてしまった。それもミスと言えるのかもしれない。
ふた周りほど上の先輩の某医師は、40年以上の臨床経験のなかで患者に自殺されたことがないと豪語している。この人は本も結構書いているし、その臨床を称揚する人々が数多いのだが、周辺でつたない臨床をはじめた立場からいうとちょっと異を唱えたくもなる。この人は患者離れが異様によく、自分のやり方を受け入れない患者家族は離れるに任せてしまうのだ。徹底した開放病棟治療でもこの先輩は知られているが、勝手に帰ってしまう患者は決してフォローしないのもまた徹底している。勝手に離院して、治療関係を守らぬような患者のことはしらん、と言うのだ。それはそれで見習うべき態度だと私は思うが、自分のやり方でやらない連中は間違っている、ともとれる言い方は感心しない。自分の患者に自殺されたことがないのではなく、自殺と言うような形で治療関係を壊す患者をみないだけのことだ。
自殺と他人に害を与えるような犯罪とは違うぞ、と思われるかもしれないが、我々にとっては殆ど同じだ。自殺の可能性を感じ取れないような医師に、患者が犯罪を犯すまでにせっぱ詰まっている情況を理解できるとは思われない。キチガイなんぞ一生入院させておけば良いのだ、という意見は安易ではあるが、実際はただ収容するしか能がない大雑把医療をする病院(今その手の病院は殆どない。それなりに真面目に医療に取り組むところばかりだ、といいたいがそうでもないのが悲しいところ)では、むしろ犯罪傾向のある人を見逃す可能性が高いのもまた事実なんですなこれが。
と言うのも、よっぽどのど素人にも急性期にまったく混乱してしまって手当たりしだいに妙なことをしてしまう状態を見逃すのは難しいが、犯罪というからにはそれなりの計画性なり持続性がいるわけで、それが出来る人というのは一見かなりまともである場合が多いのは予測されるだろう。ヘロヘロ慢性の人ばっかり見ている収容所病院の看守系医師には、この辺の微妙な病状が見抜けないことがしばしばある。きついことは言いたくないが、幻覚妄想という古典的症状を欠くともう分裂病とは診断できない無能な人は結構いる。ましてや人格障害の微妙なところなんかに関しては、唖然とするような見立てがまかり通っている。これは必ずしも個人的能力だけに帰せられないともいえ、家族の隠蔽的な申し出や、情報の限定性とか基本的には精神保健行政というものが、まったく機能しているとはいえない情況にもかなりの責任があると思える。もっとも、そういう個人情報が簡単に集まってくるような社会もこわいけれど。
ふつう精神科の臨床に少しでもかかわると、ベタな「精神病患者=犯罪予備軍」というとらえかたは決して出来なくなる。確かにある情況でやっていることに自己責任をもてなくなることがある人々なのは認めるが、そんなことは例外的だ。殆ど皆過剰なまでに道徳とか、規範とかにとらわれ、その枠から逃れようと無駄な努力を続ける人々だ。精神症状を理由に長期隔離を求めるような意見は、旦那が寝言でほかの女の名前を言ったからと一生にわたって異様な嫉妬を続けるのと同じだ。おそらくそういう人は精神病者の中に、自分の犯罪傾向を投影してしまう犯罪衝動の持ち主なのだろうと同情するしかない。
最後に、精神病者の犯罪そのものに対してどう対処すべきか、と言うことになればこれは厳正に対処すべきだとしかいえない。今回の事件で言えば、何であんなにずるずる引き延ばしたのかはまったく理解不能だ。極端なことを言えば、射殺してしまえばいいじゃないか。そこまでしなくても、致命的でない武器を使って突入すれば終わりではなかったか。精神病状態でまったく支離滅裂というような状態で(マスコミ情報からするとそういうような状態だとも思えた)、言語的に説得するなんて無意味だ<そりゃもちろん事態の把握のために最大限の言語的努力は必要なんで、そこんとこはごっちゃにしないでほしいが>。ましてや家族を連れてきて説得なんて、なに考えているんだ。問題を起こす精神病者を抱えた家族が警察に相談に行ったりすると、そんなこと家族で解決しろとしか言われないが、それの延長なんだろう。そりゃ犯罪グループが殺人の危険を見せていても何もしない警察(天下りと権益維持はがんばりますがね)が、家族の精神疾患で苦悩する人たちを守ってくれるはずもないのだが、犯罪行為自体にタイムリーかつ決定的介入する能力もないのではあきれるしかない。まさかたっぷり時間をかけて、精神病者の危険性をデモンストレーションする気だったのではないだろうな。
精神病状態では常識からは予想もつかない根源的恐慌状態に人が陥りうるのは事実なのだが、だからといって、みんな他人の生命や財産を侵害してもいいという判断になることはない。犯罪行為にはそれなりの適切な対抗手段がとられるべきだし、毅然たる態度をとるだけの論理と倫理をその執行者に求めることもまた当然だと思う。もちろん、今回の容疑少年の行動が、精神医学的立場から予防可能であったのかどうか、今までの治療機関は包み隠さず公表すべきだ。そこには「人権侵害」でごまかす猶予はない。
(2000/05/04)
いつもながら、ちよっと論旨が混乱しているので追加させていただく。私がここで「犯罪傾向のある人」と言っているのは、いわゆる反社会的人格者や、分裂病やその他の精神疾患による性格変化で反社会性が前面に出てきたような例である。そういう例も病歴をたどれば、関係機関のずさんな対応がそういう方向を招いたと思われる場合が多く、必ずしも本人のみを責められないように思えることもある。といって、同じような過程でも責任ある自立を勝ち取っている人も多いのだから、結局本人の問題だと私は思うが。
「支離滅裂状態に言語的説得など無意味」というのは、あくまで病的混乱状態に陥っている場合に限る。上のような性格的レベルの障害がメインであって、計画的合目的的に犯罪を惹き起こした人でも、自分の惹き起こした事態に舞い上がってしまって、病的意識狭窄状態に陥ってしまうことは多い。まして、言語的レトリックにすぐとらわれてしまう傾向の強い分裂病素因のある人は、まわりくどい説得などかえって混乱を増すだけなのだ。毅然とした態度で、理性的な意思を対置することこそがこういう状態では必要なのだ。「射殺してしまえばいい」はちょっと言い過ぎだが、そのぐらいの態度を示さないと彼らを正気の方向に導くことは困難だ。(5/6追加)
以前紹介した「祈り」に人を癒す効果はあるのか、という研究に対する体系的レビューが”Annals of Internal Medicine”の本年度6月6日版に掲載されていた。前回紹介した論文も含めて23の研究を文献的に検討し、全体的考察を加えたものだ。 (The Efficacy of “ Distant Healing”: A Systematic Review of Randomized Trials. Ann Intern Med. 2000;132:903-910)(PDFファイルが見られない場合はこちらへ)
前回紹介したときには、この手の論文がそんなに数多くあるとは思いもしなかったが、実際はかなりあるらしい。このレビューの著者たちは、それらの論文から、ちゃんとした定期刊行雑誌に掲載されていて、対照群をちゃんとおいて、それとの効果差を盲検手続きでちゃんと客観的検証しているものを23例選び出した、という。内わけは前回のような「祈り」の効果を見るものが5、いわゆる「お手かざし」系の効果をみるものが11、その他の「治療」手段(霊気を送り込むとか、生命エネルギーを注入するとかの類)が7で、これらをまとめて「遠隔治癒」と著者たちはまとめている。お手かざしは近接しているではないかと思われるだろうが、著者たちの考えでは、薬物や手術という直接身体過程に介入するのではない方法、という意味でこの言葉を選んだようだ。
その対象も千差万別で、外傷、AIDS、リウマチ、不眠、神経症、うつ病、アルコール中毒、小児白血病、冠動脈疾患、開胸術後患者、親知らず、イボまでに及んでいる。「お手かざし」系など大胆にも「実験的刺傷」を対象にした物が4つある。被験者がよくいたものだ。大体「お手かざし」でどうやって二重盲検が成立するのかと思うが、本物のヒーラーがやるグループと、偽者ヒーラーグループにランダムに分けるのだそうだ。本物であろうが偽者であろうが、人相でほとんど決まってしまうような気がする。当然効果判定する側には、個々の患者がどちらを受けたかはわからなくしてある。
これだけ多彩な対象に、スピリチュアルな治療を一律に施して、その効果をまとめるというのも考えてみれば乱暴な話だが、なんとなく納得してしまうのもまた事実。例えばこれが「病院の方角」とか、「患者の星座」で治療効果の統計を取ったとしても何らかの結果は出るだろうが、検討してみる価値は認めにくい。そこには「他者を癒そうとする人間の努力」というものがないからだろう。
結論部分をいうと、23研究のうち、13の研究はこうした治療に治癒効果を認め、9例で無効、1例では有害ということになっている。治癒効果を認められた13例にしても、「祈り」系とその他系の効果は統計的有意差を明白に示すにはちょっと弱い。「お手かざし」系はそれなりに有意差を示している。(これはやはりその明白な治療への意思が、直接感じられる方法がその理由だろう。それに『実験的刺傷』を受け入れるような被検者の存在も大きいに違いない、と私は思う)
しかしおおざっぱに言っても約57%の対象にそれなりの効果が認められた、というのはかなり意外な善戦だ。薬屋さんがそこらに散らばしていく宣伝パンフレットでは、抗生剤みたいな急性疾患への対応薬剤の効果は少なくとも80%以上になるように粉飾してあるものだが#、慢性疾患対象の薬剤になると、書き方は変にあいまいになり、疾患の経過自体の改善率などは書いていないことが多い。例えば高脂血症用薬剤の場合、コレステロールがこんなに下がりました、とは書いてあっても、それによってどんなメリットが患者にもたらされるか、と言うことはまず触れられない*。冠状動脈疾患の発生率がこれだけ減った、死亡率がこれだけ下がった、とまれに触れてあっても、そうした効果は実にあいまいで、「祈り」効果とそう変わるものではない。
医学はその疾患概念を分子レベルにまで精緻化し、診断技術は高度化する一方だが、いざ治療と言うと、急性期の身体管理などはかなりの進歩は見せたものの、いわゆるcommon diseaseや慢性疾患に対してはそう変りはない。カゼ薬なんか、私が研修医のころから使ってるものは同じだ。便秘、腹痛なんかへの対応も全然変わっていない。日常臨床上の変化と言えば、潰瘍や重症胃炎にH2ブロッカーやプロトンポンプ阻害剤が定番になったぐらいだろう。逆に漢方製剤の一般化のように、むしろ先祖帰りしたような面すらある。
逆にちょっと前に治療の定番だったものが、今はまったく省みられない、と言うものは結構ある。20世紀初頭にアメリカが輸入していた原油の使用目的のほとんどが、「胃腸薬」として使うためだったと言う。よくまあそんなものを飲ませていたものだと思うが、当時はそれなりに効果が認められていたのだろう。そこまで昔にさかのぼらなくても、結核に対する積極的な外科手術とか、精神病に対するロボトミー手術とか、近代的治療技術の名で、どう見ても副作用しか期待できそうにないことが、大手を振って行われていたのはつい最近のことだ。
それは当時、充分な知識や治療法がなくて、とりあえず仕方なくいろいろ工夫した結果なのだよ、と言われる。そんな消極的なとらえかたすることもないだろう。現にそれらが画期的な治療法と言われたこともあるのだ。治療者、患者側ともそうした治療法に満足していたのだろう。お互いに納得できる枠組みさえあれば、「効果」なんぞは後からついてくる、と言ってもいい。少なくとも長らく付き合うしかない慢性疾患や、放っておいても治る日常的な不調に関して、近代的医学が提供するものは、近代医学への信頼を根拠とした「治療枠組み」というまぼろしでしかない、と言うのは一部の「科学原理教」信者を除けば、誰もが認めざるを得ない。
したがって、そういう枠組みさえ共有できるならなんだっていいと極論もできる。薬飲もうが、お手かざし受けようが、祈祷してもらおうが、ハイヤー・パワーを注入してもらおうが。近代的医学技術への一般的アクセスではおそらく世界一の水準にある米国で、スピリチュアルなものも含む代替医療の選択枠もまたオープンになっているというのは示唆的だ。そこには極限近くまで進んだ位置から、人が人を癒そうとする行為を、寛容をもって眺めようとする余裕とも、いくら進歩しようが運命は変えられない、という妙に後ろ向きのイジケからくるオカルト容認ともとれる態度がうかがえる。
一応合理的科学の立場に身を置きつつ、人間の非合理への憧憬と言う奴も最大限理解したいと思っている私などとしては、後ろ向きでない方の態度でこうした傾向を受け入れたいと思う。一つだけ注文をつけるとしたら、代替医療の側にしばしば見られるかたくなな自己絶対視、まるで近代医療側の態度を密輸入したような姿勢だけはやめてほしいものだと思う。もちろん正統的医療の側にも同じことは言えるのだが。(2000/06/12)
#昔この手の「薬屋さんヨイショ報告」の下働きをした経験から言えば、判定など実にいいかげんなものだ。二重盲検法なら情実が混じらないかと言えば、そんなものいくらでも誤魔化せるし、それが前提のものなのだな、これが。(今は知りませんよ)
*それどころか、コレステロール値は高めの方が寿命が長い、なんて統計的研究があったりして、実に具合の悪いことになっていたりする。当然そうした研究はなかったことにされる。
こうして自分のサイトを開いているぐらいだから、当然インターネットはよく利用している。医学雑誌などは10年以上前から取るのをやめており、いまは検索などした上で、興味あるものだけ、ネットで抜粋を読むことにしている(ネットを本格的に利用する前は、某大学図書館のパソコン通信を使っていた)。これは重要だと思うものは、別に全文を取り寄せるのだが、そんな論文にお目にかかったことはない。それでも、紙製の現物を購読していたときより、よっぽどまじめに読んでいる、と言える。欠点は日本語のマイナーな論文をタダで検索する方法がないことだが、無視して困るようなものはどうせ、ない。
仕事で直接役に立つこともある。「子供が防虫剤を食べてしまった」というような場合、一応の応急処置の後、検索してフォローの目安にしたり、情報をプリントアウトして家族に渡したりすると、少なくとも関係者一同の精神衛生には役立つ。しかしこれは勤務先のオフィシャルな設備を使っているわけではなく(何故ならそんな物はないから)、あくまで個人的オプションでやっているだけだ。何せ、医療機関としての収益には一切関わりがないのだから。
もちろん、サイト記事を書くための資料集めは、全面的にネット依存している。一般のサーチエンジンは当然のこと、医学論文サイトも実はほとんどこの目的で利用している。米英系の新聞、雑誌の記事は原文がいつまでも保存してあって、実に検索のしがいがある。日本の新聞記事は抜粋ばっかりで、しかもすぐFile not foundになってしまうのは何故なのだろう。
それとよく使うのは、料理のレシピだろうか。同じ料理でも、作り方に工夫が凝らしたものが数多くアップされていて、それらを比べて見ていると、自分なりのやり方のヒントになる。ごくまれには新しい食材とか、料理法の情報が手に入ることもないではない。
たまにはネット通販も利用する。米国製聴診器なんかは、送料入れても日本の代理店から買う値段の、半分以下で買えるのだから。もっとも昔から雑誌で調べて直接注文していたので、真夜中に国際電話で「ワタシ買いたいアル。アナタおくるヨロシ」と怪しい米会話をする必要がなくなったというメリットだけだ。電話代は得になってるけれど。
ネットバンキングなんか使う気にもならない。PCにお金を突っ込んで貯金できるものなら、考えないでもない。当然、後でPC分解して現金は取り出すけど。あふれるほど銀行預金があって、振り出す手間すら惜しい、という人しか使い様がないだろう。そんな人が世の中にいるのだろうか。株のトレード、なんてのは初めからやりもしないので関係ない。
後は資料としての利用だろうか。先の文献検索とも重なるが、一般的な教養に属することを、ネットでは程ほどに手にすることが出来るようになった。最近は「青空文庫」を初めとする、地道なボランティア活動のおかげで、古典的文章に簡単に接することが出来る。美術作品に関しても、同じような恩恵は以前から受けられている。また書評サイトや映画とか音楽などを対象にした評論サイトもかなりあり、とても鋭い批評にしばしば出会う。
そして他にはと考えると、もうないのだ、これが。メールは利用するが、友人との飲み会の約束に重宝するぐらいだ。サイトの読者からの感想などは、運営に付随したものだろう。つまらんスパムは山ほどくるが、役に立つことなどない。プロの端くれが開設しているML(無料だけ)にはいくつか参加しているが、妙に商売を意識しているものが多い。ここから先は本を買え、とか有料コンテンツへ移行せよというもの。自前で宣伝せにゃいかんような本とか文章に、誰が金を出すだろう。
他には、で思い出した。最近、といってもこの半年ぐらいだが、いわゆる「雑文サイト」というものをのぞくのを楽しみにしている。このサイトを開設したばかりの頃、カウンタの理屈などがどうもよくわかっておらず、正確な訪問者を知るために、”ReadMe”という読み物系サイトの品評会みたいなところに短期間登録していたことがある。そこに登録しているサイトには怪しげなエロサイトスレスレ路線とか、もっぱらPCハード、ソフト情報で訪問者を集めているところも多いのだが(というより、そういうサイトがやはりたくさん訪問者を集める傾向は強いようだ)、それなりの「表現」を志向しているところも数多くある。なかにはプロも驚くに違いない、という出来栄えの文章に接することもしばしばで、そういうところには多数の訪問者が訪れている場合が多い。
(でもそうしょっちゅう更新されていないところが多い。更新されているかどうか、むなしくあちこちを徘徊している人は多いのではないだろうか。私など、この手のサイトの更新頻度を見て、サボリの口実を見つけてしまっている。能力の乏しさは汗でおぎなえ、と昔から言われるのですがね)
60年代の終わりごろから70年代にかけて、大都市にいくと妙な風体の同世代人が、「僕の詩集買ってください」などと、小汚いガリ版刷り(といってもほとんどの人が判らないだろうけど)の小冊子を売っていたりしたものだ。そのほとんどはロクな物ではなかったのだけれど、そんな中から本物が生まれたこともあるのだ。実例は思い浮かばないが。
あの頃からすれば、ネットというものを得て、人はそのつたない表現の場をより安価に、しかも容易に得られるようになった。もちろん覚悟が少なくてすむ分、スカの比率は圧倒的に高いだろう。でも、一定の割合で表現にたけている人はいるものだし、それをすぐ見つけることが出来るメリットは計り知れないと思う。漱石や鴎外をネットが輩出するとは思わないけれど、表現文化を広く共有する力になることは間違いないと思うのだ。例えば「句集」などを仲間内だけでだしている、中高年のサークルなどは数多いと思うが、彼らがどっとネットに繰り出してくれば、もっと裾野は広がるのではと思えてならない。
さて、こうして私自身のネットへの関わりだけを基準に考えてみると、「IT革命」なんちゅう物が「景気浮揚の最後の切り札」などになるはずがないことは容易に知りうるだろう。いま2000万人近くがネットを利用しているそうだが、実際にネットに入り浸る人々が経済活動のためだけに使っているわけでないことは明らかで、「何か面白いことはないか」とそこにいるだけなのだ。そして、ほとんどの人が限定的な用法しか発見できないでいる。
そして程ほどの「表現」まがいであっても、何かきっかけがあれば殺到する。私のこのスカサイトだって、ヤフーで紹介されれば一日3000人以上が訪れて、カウンタCGIが壊れてしまう(ところがすぐに本質を見透かされ、一週間と続かないところがまた悲しい)。逆に言えば、面白いものなど今のネットにはそうあるわけではないのだ。
面白いものがないようなところに人は集まらない。世の中の誰が、酒の注文のためだけにネット環境をそろえ、それに習熟しようとするだろう。最近はケータイでもネットに簡単に接続出来るようになっているらしいが、どこの誰がわざわざ電話代を使って、昔のゲームウォッチまがいの、せこいゲームに興じ続けるというのか。面白いことというのは、見知らぬことに自らを投じることであり、固定的な役割から自由になって、新たな可能性に賭けることだ。
そうした新たな自由の獲得が、結果として消費を拡大し、景気回復のきっかけとなることはあり得るだろう。しかし、お仕着せのハードソフトを売りつけて、それを使ったらいりもしないものでも買ってくれるかもというような、アホな期待を「IT革命」だと思っている企業人がいるとすれば(どうも、いるとしか思えないのだが)、それは大きな勘違いだろう。お間抜け情報の一方的受け手に甘んじ、良いように金を使ってくれるようなカモを望んでいるのだろうが、そこまで人はバカではないだろう。
かって吉本隆明が言い始め、いま普通のエコノミストも追随している意見として、現在の経済を実質的に決定するのは「一般消費」だ、というものがある。「供給」側の合理化の遅れだとか、流通の整備不良があるのは事実だとしても、何よりもその供給側の能力がフル回転するべく要求されていない、つまり誰も商品やサービスを欲しがっていない、というのがこの不景気の現状なのだ、というものだ。
そりゃそうだろう。今まで日本人は、国際市場では通用しないクズ商品を散々買支え、企業が海外向け特製商品をダンピング輸出するのに協力してきた。自動車の分野を見れば明らかだろう。そのうえ、必死に貯金して、銀行が官僚天下り企業に融資する資金を供給しつづけ、自分は高い金利でローンを組み、低品質住宅を買い、そこに要りもしないガジェットを溜め込んできた。もうそんな馬鹿馬鹿しい事はしたくないのだ。必要な最低限のものはとっくにみんな手にしていて、本当の豊かさに必要な物など、誰も商品という形で供給などしていないことに皆もう気がついているのだ。
その意味では、日本人がいま、比較的簡単に接近しえる豊かさ<それは「文化」とほぼ同義語だと思えるのだが>と言うものの入り口のひとつがネットである可能性はある。某政党の選挙公約である「すべての人にネットアクセス機器を無料で」というのは、それなりに正しい発想を含んでいる可能性がある。しかし、上に述べたように、それが直線的な消費拡大手段につながるという甘い思惑から出た物なら、その実現は単なる郵政行政周辺の利権拡大につながるだけであるのは確実だ。
ネットがどこまで文化の担い手たれるか、それをどう保証する政策が実現されるか、ということが、ここ10年のこの国の行く手をいくぶんかは決定するのではないか、と思えてならない。などと言って、こんなガジェットサイトの作り手が、妙にマジになってみてもはじまらないか。本音を言えば、日本が別に国として立ち腐れても、ゼーンゼンかまわないものね。でも森総理、もう国としてアウトになったら合衆国編入しかないでしょうが、その際は医師免許、向こうでも使える保証だけとっておいてください。まあ、政治生命あとせいぜい半年の人に頼んでも無駄かな。(2000/08/01)
3ヶ月ぐらい前にCGIを使ったリンクのページを作り、訪問者が自由に自分のサイトとかおすすめページを登録できるようにしている。数少ない訪問者登録サイトである「無限回廊」(boro氏によって登録)を眺めていたら、72年から10年の間に8件の殺人を含む連続強盗事件を起こした「勝田清孝」の事件が詳述されていた。
実は私は勝田に一度だけ顔をあわせたことがある。おそらく向こうは忘れているだろうが。事件のあとかなりたって、TVで回想番組をやっていて、彼の趣味であったアマチュア無線のことについて触れていたことから、記憶の断片がつながった。それまでは、あの犯人は昔住んでいたことのある町の近くの出身だなぁ、と思っていただけだった。
私の父親は建設技術系の公務員で、ダム工事の設計のためにあちこちと転属していたが、京都府南部の田舎町に比較的長めに住んでいたことがある。私はその頃、ラジオなどを組み立てたりするのに凝っていて、電話級アマチュア無線の免許を取ったばかりの中学生だった。中学生の小遣い程度では、本格的な無線機器までは手が回らず、実際に開局するのはすこし後になるのだが、姉の同級生に同好の士がいると紹介され、ある日、田舎町でもさらに町外れにある彼の家を訪れることになった。
引越しばかりで仮住まいが続いている我が家の感覚から言えば、彼の家は代々続いてきた富農のお屋敷で、茂った大木を利用して作られたアンテナとか、納屋といってもほとんど重要文化財のように見える作りの二階に、広々とした作業部屋を与えられている、といった恵まれた環境にすっかり感心してしまったものだった。高校生だった彼はまだ局開設申請をしたばかりで、まだアマチュア局を運営はしていなかったので、自分にいろいろと指南してくれた先輩を紹介するからと、程近い家(そこはもう隣町になる)へと案内してくれた。
その家は、先ほど私が驚いた高校生の家よりさらに大きく、ほとんど鬱蒼とした森に囲まれているような作りで、そこで私たちは細身で神経質そうな青年に迎えられた。今考えるとその「青年」とみえた人物は姉の同級生とほとんど同い年だったのだが、貫禄のある屋敷と、いかにも素封家の息子然とした立ち振る舞いに、判定基準が定まらなかった。彼の無線設備は当時の最新鋭機が各種取りそろえられ、小奇麗なラックにおさめられ、てきぱきと交信をする彼の姿は、少年の私には眩しいかっこよさだった。
その後、姉と同級生の高校生とは交流が続き、妙なジャンク部品を融通しあったり、自作情報を交換したりしていた。アンテナを立てるような力仕事もお互いに協力し合ったりしたものだった。しかし初めて彼の家に行った時会った、例の青年とはその後行き会うことはなかった。
「ところであの…はどうしているの?」(…にはコールサインのアルファベット3文字が入る。当時は日本のアマチュア局はすべてJAコールで、近畿地方ならJA3###だったから、3文字だけ言えば特定可能なのだ)とたずねると、彼は口を濁し、「ちょっとな…、舞鶴の方に行ったんだ…」ということだった。あんまり触れない方がいい雰囲気だったので、それきりになってしまった。あっちこっち引越しをするのが普通だと思っていた私は、一家で舞鶴に引っ越したんだろうな、と受け取っていた。
後で考えてみれば、舞鶴というのは少年院にはいったことを、隣人達が遠まわしに言っていたのだ。あの青年が勝田だったのだ。結局彼が帰ってくるまでに我が家はまたも引越しし、趣味上の付き合いが勝田との間で再開することはなく、記憶の断片のみに彼はとどまり続けた。
アマチュア無線という趣味の領域では、勝田は極めて模範的だったらしい。姉の同級生は、勝田の影響で無線をはじめたが、初めのうちは無免許で勝手に電波を出していた。勝田はそんな彼を説得してちゃんと免許をとらせ、開設の指導を手取り足取りしたという。当時そう数が多くなかったアマチュア局で、上級免許を持っていたこともあり、災害時の防災無線の設備もそなえ、訓練にも積極的に協力していたらしい。
いくら素封家の息子だからといって、高校生だった勝田にそう経済的余裕がある筈もなく、彼はそういう資金を万引きとか引ったくり、車泥棒でおぎなっていたらしい。それが露見して少年院送りとなった。私はそうなる寸前に勝田と会っていたことになる。
詳しくは「無限回廊」の勝田に関する記載を参照して欲しいが、ある局面での模範的な立ち振る舞いと、別の領域での見境いない行為の矛盾のない同居というパターンは、この頃すでに成立していたといえる。後年の模範的消防士という適応振りと、派手な生活を維持するための盗みの連続、次第に殺人を辞さぬ強盗へのエスカレーションの共存をかなり長期にわたって維持しえた(もちろんそのうちに実際の社会生活の枠組みも、いずれ侵食されてきたのだが)、というのは私にはある種の人格障害を思わせるが、私が会った頃、その構造はほぼ完成されかけていたようだ。
子供時代にはまった趣味の基準からは、勝田は理想的にその世界に耽溺しているように見えた。それを維持するために、彼がかなりの闇の部分を抱えているようにはとても見えなかった。それは当たり前だ。ちらりとすれ違っただけの子供に判るわけがない。隣人にも、家族にも判っていなかったのだから。
彼はその後、熱血漢の消防士とか、さらに高度化した機器を揃えて没頭するアマチュア無線家という、表に見える部分が高度化するにしたがって闇の部分が肥大化していったようだ。やがてその闇は彼と彼の家族すべてを食い尽くしていく。
勝田という歴史に残る犯罪者が、自分の人生を横切ったこともあった、と知った時には私は精神科医のキャリアを始めてかなりたっていた。自分なりに事件を調べ、自分の職業上の教訓となったことも数多い。人は結局表面から見えるところでしか評価し得ないから、出来る限りの要素を集めて全体像を再構成してみないとその歪みは知りえない、既成のパターンに当てはめて人を理解しようとするのは、ある種の人間にとっては思うつぼの陥穽にはまることだ、というような実感といえるだろうか。
警察の捜査能力というのがまったく信用ならない物だ、というのも明らかだろう。彼が偶然捕まるまで、警察のやったことは被害者周辺の無辜の人々への冤罪でっち上げの目論見だけだ、といって過言でない。すべての事件で、捜査の方向が事件を読み解くことではなく、誰かに罪をなすりつけることだけを目的にされている。
その一方でこういうこともある。私が暮していた町、つまり勝田の家の隣町では、70年ごろに女性の暴行殺人事件が前後して二件あり、そのうちの一件は私の同級生が被害者だ。その二件とも迷宮入りになっているが、地元の人は皆、あれは勝田がやったことだと噂しあっている。地元警察がその無能を問われることを恐れ、自供をもみ消したに違いないというのだ。無責任な推測でしかないが、少なくとも二件の殺人事件が、うやむやのなかに葬り去られた、という印象を地元の人々が持っているのは事実だ。
80年に一度は窃盗で逮捕されながらも、その一連の犯罪をなんら察知出来なかった警察の取り調べ能力を見れば、この噂は無責任だけともいえない。とても日本語とは思えない「調書」を形式的にまとめて表面的な辻褄をあわそうとするのでなく(警察や検察で証言した経験のある人なら、あの言語として醜い業界内文書が通用していることこそ、現在の警察や検察の抱える問題を象徴していることに同意していただけると思う)、彼の生活の全体像をリアルに再構成してみる想像力が取調官にあれば、その犯罪はもっと早めに突き止められ、犠牲者はより少なかった可能性は高い。
記憶の中に、無線機に向かって手際よいオペレーションをする勝田がいる。丹精こめて手入れされた美しい庭に囲まれる、由緒ありげな彼の家がある。お茶とお菓子を運んでくれた、いかにも働き者風だが、旧家の主婦にふさわしい上品さを漂わせる彼の母親がいる。そのすべては、勝田が引き起こした一連の犯罪によって失われてしまった。家族は何処へともなく引っ越し、家は解体され更地になっているという。
その原因を何かに求めようとすれば、結局勝田個人の特異性だけにすべてを帰することになってしまうのだが、そうした特異性を育てたものは何かと考えれば、せいぜいが全人格的な接触を回避した状況で彼が生きようとし、それがどのような偶然であったのか実現されつづけた、というようなものだったにすぎない。人がその表の部分と、闇の部分を使い分けていくとき、その結果は想像を超えた残酷な悲劇となりうる、というのが一般的教訓となるだろうか。(2000/08/11)
この小文は、今いさぎよく法的責任を果たす準備をしておられる藤原(旧姓勝田)清孝氏を非難し、さらに鞭打つことを目的にしていない。趣味を通じた頼りがいある先輩として付き合っていた可能性もある彼の悲劇を、自分の知りえた情報の中からどこまで理解していくことが可能なのかという試みをしたつもりだ。
どうも出来がわるい題名で恐縮だ。ロシア原潜の沈没事故に関連して、8月25日付の朝日新聞の記事にこういうのがあった。
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背後からそっと鎮静剤?を注射 −原潜事故でロシア 抗議する遺族は黙らせて…
[ロンドン24日=沢村亙]
抗議する遺族の背後に注射器を手にした若い女性がそっと近づき、その直後に遺族は意識を失う…
英仏メディアは二十四日までに、沈没したロシアの原潜クルクスの乗組員遺族と政府高官の対面の場で繰り広げられた光景を相次いで報じ、「反体制派の口を封じるKGBの手法が今も使われている」などと伝えた。(以下略)
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記事には看護婦とおぼしい女性が、誰かに寄り添い、背中に今にも注射器をつきたてようとしている、と見える写真が添えられている。フランスのTVが撮った画像では、ロシア政府高官に非難を浴びせていた遺族に、看護婦が近づいた直後、その家族は意識を失ったのだという。
残念なことにこのニュース映像を見ていないので、注射してどのぐらいで意識消失したのかははっきりわからないが、この記事だけを読むと直後と言うことになっている。
背中から服越しに打つのだから、当然筋肉内注射をしているのだろうが、これですぐに意識消失してくれる薬剤と言うのがあれば、私なんかどれだけ助かったろう。精神科医にとって、興奮して説得なんかまるで受け付けない状態の人を、どうやって速やかに危険なく沈静させるか、と言うのは重要な問題だ。麻酔剤を静注すればほぼ即座に入眠してくれるが、暴れている人に静脈注射するのはなかなか難しい。比較的早く効いてくれるものにケタミンというのがあるが、これは血圧が上がったり、覚醒時に変に興奮するという副作用があり、精神科領域では使いにくい。それだって筋注では効き始めるのに数分以上はかかる。
以前、「都市伝説」のほうで香水と偽って気化麻酔剤をかがせて身ぐるみはぐ、と言う手口をつかう強盗の噂話を紹介したことがあるが、あれに象徴的なように、魔術的に効く麻酔剤というのは一つの伝説になっているように思う。スパイ映画などでは、麻酔銃で瞬間的に意識を失うシーンがいつでも出てくるし、食べ物に入れた睡眠薬で、あるいはハンカチに染み込ませた麻酔剤で、ヒロインは即座に眠り込んで危機におちいる。ああいうのを見て、ネットでクロロフォルムなんか買ったり売ったりしたがる、うつけ者どもが出てくるのだろう、と言うのは以前述べたとおり。
ああいうドラマに出てくるような薬剤は、少なくとも私や周辺にいる医師達の知識枠内には存在しない。ところが今回は怪しい映画やTV番組ではない。なにしろかってのKGBの伝統を引く、正統ロシア政府がやったことだとされている。なにか秘薬があるに違いないと思いたいが、この手の薬の効能が薬理学の常識から大きく逸脱するわけもなく、そんなとんでもなくかけ離れた薬効をもつ薬物が存在するというのは想像するのも難しい。使っているのは普通の麻酔剤だが、注入器が特製で、服の上から皮膚を介して、静注と同等の速度で神経系に達するような方法を使うのかも、と思ったりするが、写真ではどう見ても普通の注射器だ。だいたいそんな画期的なスーパー注射器が存在するなら、秘密機関が細々と使うようなことをせず、ちゃんと特許をとって商品化し、ロシアの財政事情に協力するほうがよっぽど効率的だろう。
記事をよく読むと、TV映像では注射器は捉えられていなかったらしいから、もしかしたらあの写真は謀略でPhotoshop作品の可能性もある、というのは考えすぎか。真相が明らかになるかどうかは怪しいが、心ならずも興奮状態の人を眠らせる仕事をせねばならないこともある、可哀想な精神科医達のためにも、あのテクノロジーはぜひ公開されることを強くロシア政府に希望して、この小論を締めくくりたいと思う。(2000/08/25)
そのあとTV画像がなんどもニュースで放映され、私も見る機会を得たが、やはりその画像でもはっきり注射器が確認できるし、工作員かと思われる女性が何事かを行ったほぼ直後に、遺族は倒れこんでいる。鎮静剤がいくら強力であろうと、神経系に到達するには筋注では時間がかかるので、もし昏倒と注射が関係あるなら、あれは特殊テクニックで静注したとしか思えないが、かなり無理のある想像だ。(殺すつもりなら多少選択幅が広がるけど、なんぼなんでもそれはなかろう)
同僚の某麻酔科医の意見は「偶然」というもの。薬物の効能からするとそれしかありえないと言う。たまたま持病がある人に主治医が付き添っていて、興奮がひどいので予防的に何か治療薬を打った。しかしそれも効なく倒れてしまった、と言うんだが、これはあまりに親ロシア政府的意見だなぁ、と思っていたらどうもその方向に収束されていくみたいだ。結局真相はヤブの中、ということでしょうかな。(2000/08/26追加)
ふと気がつくと今日は13日の金曜日だ。この日は不吉だ、というような言われ方が日本で定着したのはいつ頃のことだったろうか。私などの子供時代には言われていなかったような気がする。せいぜいが思春期以後、ということは、わが国で一般化したのは高度成長以後なのだと思う。
そもそも「13日の金曜日」という言葉自体すでに変だ。”Friday the 13th”の直訳だから仕方ないともいえるが、縁起の悪い日として昔からある、三隣亡とか仏滅などと比べてすわりが悪いことおびただしい。キリスト教国では13という数字がもともと縁起がわるいとされ、ビルに13階がなかったり、13号室がなかったりする。金曜日がなんで縁起が悪いのだ、花金なんていうくせに、と思うが、これはこの日を安息日とするユダヤ教との関係とか、異教徒にはわからぬ事情があるのだろう。私など、給料日が日曜日と重なったりするほうがよっぽど恐ろしい。二日前に支払ってくれたりしないし、電気代などの引き落とし期日の関係で、えらくまずい事態が起こる可能性があるからだ。
一説にはキリストが磔刑に処せられた日が13日の金曜日だとも言うが、それも怪しいらしい。14世紀にテンプル騎士団を異端として処刑する事が決まった日だから、などとも言われる。しかし、そんな世界史の細かなことが、一般的概念に広まるきっかけとなったとはとても思えない。中には、12進法で数えていた古代人にとって、13と言うのは人知を超えた神秘の数であったから、キリスト教起源ですらないという意見もある。
いずれにせよ、欧米諸国ではこの日は縁起が悪いと信じられ、日本でもそれは真似されている。「13日の金曜日」というホラー系の映画が連作されているが、何の根拠もなく妙な死霊みたいなのに人が次々に殺されるだけの話しだ。そりゃ、13日の金曜日なんだから、ということで矛盾があろうが、根拠がなかろうが、恐ろしいことが起こっていいのだ、というような前提が製作者と観客の間にあるとしか思えない。
この日に関して、医学的研究みたいなことはされていないかと思って、Pubmedのデータベースに”Friday the 13th”とたわむれに入力してみたところ、なんと5編の論文がでてきた。そのうち抜粋が読める一論文を、簡単に紹介してみよう。
British Medical Journalに掲載された” Is Friday the 13th bad for your health?”「13日の金曜日は健康に悪いか?」と題するこの論文は、ある年の13日の金曜日と、その前週の6日の、国道25号線を通った車の数、スーパーマーケットの客の数、その日交通事故で入院した患者数を比較したものだ。
その結果、13日の金曜日には国道の交通量は減っており、その一方で交通事故による入院数は増加しているということが、危険率5%の統計的有意差のもとで証明できるのだという。結論として、「13日の金曜日はある人々にとっては健康によくない影響をもつ。この日は家でじっとしていることをお勧めする」というもの。
モンティ・パイソンのお株を奪いそうなことをやるのは、さすがにイギリスの医学雑誌だな、と感心してしまう。そういえば、「膣痙攣」関連の論文が出ていたのもこの雑誌だった、と思い出したりして。
昨夜は当直だったのだけれど、12時ごろまで閑古鳥だったのに、夜半から突然救急車がわさわさとやってきて、交通事故で頭を打って意識がない、家で階段を踏み外して頭を打って意識がない、という似たような患者を二人も押し付けてくれた。うむ、やはり13日の金曜日なんだな、と納得した次第。(2000/10/13)
書き終わって、Urban Legends and Folkloreのサイトをみてみたら、ちゃんと同じネタの記事が載っていた。うーん、これではまた丸パクリをやったように見えてしまうではないか。やっぱり縁起が悪い日みたい。
-------------------2002年12月14日追記-----------------
考えてみれば昨日は13日の金曜日であった。これに言及した論文が新しく出ていないかチェックする、恒例作業をころっと忘れていたではないか。一日遅れで早速調べる。すると、出たばっかりホヤホヤの論文を見つけることが出来た。それもThe American Jounal of Psychiatryという一流どころに載ったものである。
「交通事故死亡と13日の金曜日について」、フィンランドの研究者によるもの。著者は1971年から97年までの男女別交通事故死亡を調べ、その間の13日の金曜日の死亡数と、それ以外の金曜日のそれとの比較をおこなった。ほかの日すべてと比べなかったのは、週末で気が緩んでいて、なおリゾートに向かうような事情で事故が増えることを考慮したのであろう。
その結果である。男性の場合、13日の金曜日の訂正交通事故死亡率は、他の金曜日とくらべ、1.02倍であった。しかし、女性の場合はじつに、1.68倍を示したのである。著者はこの原因として、女性は迷信に対する不安が強いため、よけいに事故を起こしてしまうのだ、としている。
「この日の交通事故死亡の3分の1は減らすことが可能かもしれない。もっともそれで助かるのは、13日の金曜日全部を足しても500万人に1人という少数ではあるものの」という結び。
著者はオウル地区労働衛生研究所というところの研究員らしいのだが、なぜにこの内容の論文を米国の精神医学雑誌に投稿したのか、謎というしかない。(2002/12/14)
Simo Nayha, M.D., Ph.D.
"Traffic Deaths and Superstition on Friday the 13th ."
Am J Psychiatry 159:2110-2111, December 2002.
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