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更新日記

 2002/03/31

今月からここは一ヶ月ごとにファイル分割することにした。今日の分はすぐに目に触れなくなるだろうから、調子に乗ってバカ記事を。


シャンパンはご存知のように、瓶内発酵によってかなりの圧力の炭酸ガスが詰まっている。派手な音を立てて栓を抜くのは本来はマナー違反らしいが、パーティーなどではなかなかの盛り上げ手段になるのは事実。その圧力を封じこめておくために、圧縮率が高いコルクで栓をして、勝手にそれがすっ飛ばないように、さらに針金でとめてある。

ワインのコルクというやつはいつの間にかたまっているもので、なんとなく捨ててしまうのももったいない、というセコイ気持ちになるものだ。たくさんためておいて、壁の隙間に詰めて断熱材にする、というような使い方もあると聞くが、そこまで飲むのはちょっと大変。せいぜい、たて半分に切って「箸置き」につかう、というぐらいのもの。ましてシャンパンの針金では何の実用的用途もないが、これを使ってちょっとした工作をしてみるのはいかがだろうか。

まずコルクをはずした金属部分を用意。 ビンに巻きついていた部分をはずす。 針金のゆがみを修正し、背もたれを作る。 背もたれ部分をくっつけて出来上がり。

家庭でこれを作れば子供に喜ばれるが、これが本領を発揮するのは女性とのデートのときであろう。今ひとつ親密にはなっていなくて、話題も今ひとつギクシャクする、というようなとき、彼女がトイレに行った隙などにこれをつくってプレゼントするのである(ただし、それでいかほどの効果があるのか、ということまでは保障しない)。お前はペンチをもってレストランにいくのか、といわれそうだが、キーホルダーに小さな工具が組み込まれたようなものを持っておけば、そう作為を見透かされることもない。一度お試しのほどを。検索してみたらこの作り方に触れたページはいっぱいある。いろいろ見比べて自分のスタイルをつくられたい。(こことかここなど)

不思議なのは、海外サイトでこれを紹介しているところが見当たらないこと。こんなセコイ工作思いつくのは日本人ぐらいなんですかね。

 2002/03/30

宴会と当直が続き、いささかグッタリなので、こういうときは機械的作業がよかろうとトップのカウンターを自前のCGIに入れ替え。ところがやっぱり設定でポカをして、2時間ほどを無駄にする。適度にいらつけたので、さっさと寝てしまえそう。あらら。明日で3月も終わりか。

 2002/03/29

ポール・サイモンに"Mother and Child Reunion"という曲があるんだそうだ。「このせつなく悲しい日に気休めなんか言わないよ。でも恋人よ、これで母と子が再び結ばれるのだから」という、家族を失った恋人をなぐさめる内容ともとれる歌なのだが、"Mother and Child Reunion"という堅めの言葉が唐突で、あれは堕胎の歌だとかんぐられたりするという。

こちらによれば、この歌の題名は中華料理の名前に由来するそうだ。ポールがチャイナタウンで鶏肉と卵をあしらった料理を食べ、それにこの名前がついていたらしい。店の名前までわかっているというのも面白い。彼が食べたのが「親子丼」ならどんな歌になったろうか#。そういえば、演歌作家が「他人丼」を食べて、「他人舟」という歌を作った話もあった。この手の料理命名センスには、なにか人の歌心を刺激するものが洋の東西を問わずあるらしい。

ついでながら、Audiogalaxyでさっきの曲をみつけて聴いてみたら、イントロ部分がちあきなおみの「喝采」そのままだった。発表は同じ72年なので、「喝采」のほうの編曲者がパクったのだろう。その逆だったら面白いが。

#念のため検索してみたら、こんなところがみつかった。ここの管理者はポール・サイモンの熱心なファンのようだから、親子丼そのものから命名されたと本人がいっている、というのが正しいのかもしれない。親子丼自体を歌っているのでないことは、はっきりしていると思うけれど。

 2002/03/28

今夜はまたもや宴会である。昨夜そう好きでもないサッカー観戦で睡眠不足なのに、大酒なんか飲んだら、何やらかすかわからない。ひたすら隠忍自重で切り抜けるのだ、とここに決意を書いておこう。

そういえばこんな記事を書きかけていたな。1997年にシドニーで20台男性(無職)が、パブの福引大会で豚肉の塊を引き当てた。酔っ払っていた彼はよせばいいのに、それに鼻緒をつけ、サンダルにしてパブの中を歩き回った。そころがその豚肉の油で運悪くすっころんで骨折した人がいて、このたび75万豪ドルの訴訟をおこしたというもの。

この愚行に似合った情けな顔の無職君の写真が載っている地元新聞の記事が、ちょっと前まで読めたのだけれど、いまはニュースサイトの転載しかなくなってしまい、タイミングを逸してしまった。アップするのを何故ぐずぐずしていたかというと、題名をどうするか思いつかなかったから。「ポーク・サンダル・兄い」ってのはいかんかな。エルヴィス世代にもちょっときついか。

 2002/03/27

「イノセンス 女性刑事ペトラ(上・下)」 (ジョナサン・ケラーマン:講談社文庫)

J・ケラーマンも惰性的に読む作家の一人である。この人は本来小児臨床心理学の専門家だが、ガキ相手にも飽きたのか、いまは作家専従になっているようだ。この嫁さんも作家で、一度読み出したことがあるが挫折してしまった。設定の妙といえなくもない、ユダヤ人コミュニティのチンタラした話に興味をもてなかった。考えてみればそれは旦那のほうも似たようなもので、こちらの場合は、小児臨床心理療法家である主人公が、かなり大胆な冒険に巻き込まれるという、ちょっと無理がある業界設定が面白くて読んでいるのである。

いままで10作以上小児心理療法医アレックス・デラウエアのシリーズが出ていて、そのすべてを読んでいるのだが、その内容はまるっきり覚えていない。たしかシリーズものとは別に、エルサレムを舞台にした警察小説もひとつ書いていて(「殺人劇場」という題だった)、それはなかなかよかった。その理由は、ここまで弱者への視線を強調して、フェミニズムとか、ゲイ問題への物分りのいい公平な姿勢を前面に出す人が、ユダヤ国家の正当性を少しも疑わない立場に何の矛盾なく立てるものなのだ、という一種の驚嘆にあった。そりゃ自分とその仲間うちがいい目にあえる、という前提さえ守られれば、人間物分りのいいことなどいくらでも言ってられるよな、と感心したものだ。日本型進歩主義ってのはまさしくそれだもの、という共犯関係確認みたいな気分でいまだに読んでいるのである。

この新編は、アレックスシリーズがいささかマンネリとなったのを受けたのか、ハリウッド警察の女性刑事といういう新キャラクターを主人公に持ってきている。それほどしつこくない葛藤を抱え込ませてあったりするのは、この作家としてははずせない一点だろう。アレックスシリーズでもそうだが、この作家はあっさりレベルの了解心理学と、つきはなさない程度の性格類型学をうまくアレンジして登場人物を造形していて実にわかりやすく、おどろおどろしいサイコスリラーの一歩手前で、上手に心理的偏倚の持ち主を日常生活に泳がしているのである。

そこそこのリベラル進歩主義にたち、こまやかに類型的心理を描き、そう不愉快な読後感も残さず、かなり深刻な異常行動を解明し解決するという、まあまあのレストランで上物のカリフォルニアワイン傾けつつ、ちょっと気後れを感じないでもないメンバーとシーフードを食べているような感覚がこの作家の身上なのだろう。

この小説では、犯人は始めから判っているし、それでもけっこう二転三転と謎はでてくるし、もう一人の主人公である薄幸の少年の運命には、ちょっとしたシンデレラ物語まで用意されているし、読者はできる限り早く読み終える努力さえすれば(途中でダレるといけないかも)、程々の満足感がえられるという、ケラーマンの奥の手続出である。あとはワイン頭痛に顔をしかめながら、さっさと寝てしまえばいいだけなのである。悪夢なんか絶対見ないことを保障してもいい。

 2002/03/26

来年度入職の新職員歓迎パーティー。

患者送迎セクションに加わる、60台の女性を理事長から紹介される。会社役員だった夫をガンで失い、なにか人に尽くせるような仕事をしたいと、一念発起で「ダイトクニ」に挑戦し、見事に取得したのだという。

それはそれは、ご主人も浮かばれましょう。その菩提心で接されれば、さぞや患者さんたちも癒されることでしょう。それにしても、仏法の修行をされて、どうして運転手をしようと思われたので?

相手は唖然とした表情をうかべている。理事長があわててとりなす。「いやこの方は、『大特二』――大型特殊免許二種をもってられるので……」

「ダイトクニ」て「大徳尼」じゃないのか。

 2002/03/25

またまた、くも膜下出血の続き。どうもひとつのサイト記述に拘泥したのがよくなかったようで、いろいろ調べて見たら、ほぼ疑問氷解である。

要は調査によって脳動脈瘤の保有率がまちまちなのと、破裂したときの死亡率や、予後の評価が大きく分かれることによるのだ。剖検例での調査ではどうしても高齢者が多くなるし、全ての年代について結論は出しにくい。そういう訳で、大体2%から5%という幅のある推定がされているらしい。

死亡率も3割弱から5割までいろいろだ。私の印象でいえば初発で死に至るのは3割だが、手術が出来ても合併症、後遺症で5割近くが結局死にいたり、残りの半分にかなり重度の合併症がのこり(この人たちを見ていくのは私らなので、張り切っている脳外科医には、どうも冷ややかな目を向けてしまう傾向があるわけ)、全快は2割5分と言うところだと思う。

だから厚労省の統計とのずれは、脳動脈瘤保有率が2%で初発時死亡が5割か、保有率5%で死亡率2割5分なら是正されるわけである。これで一件落着。いずれにせよ、特殊な職業(パイロットとか)対象でもない限り、医療経済的にも、QOL改善という観点からも、脳ドックの意味は弱まりこそすれ、正当化されるようになるわけではない。

 2002/03/24

昨日の訂正。仮に破裂率を1%として、30年経過を見て幸いにも破裂しない確率は99%の30乗だから、約74%になる。1.5%と考えれば約64%。26%から46%の破裂危険性があるということになり、ほぼ昨日のサイト記述どおり。ケチつけてどうもすみません。ただ1〜1.5%という根拠がわからないのは同様。厚生労働省の統計をみれば、くも膜下出血による年間死亡率は10万対12弱で、脳動脈瘤を持っている人の率が5%だという、先のサイト記載を信じるなら、破裂率が年間1%に上るはずはないと思うんですけどね。

勘ぐるに、無症候で検査をして発見された人々の破裂率なのではないか。手術をえらぶにせよ、えらばないにせよ、脳動脈瘤を持っているという不安からくるストレスが、一般的発症率より高い破裂率をもたらすのではないか、なんて考えるのは無責任すぎますか。

 2002/03/23

脳ドックのことで見当はずれのことをいっていないかと気になり、調べてみたら(といってウェブでおざなりに検索してみただけ)こんな解説サイトに行きあたった。専門医の立場から、一見判りやすく脳動脈瘤の説明がしてあるのだが、読みすすむうちに疑問がわきおこってしまう。

ここの説明によれば、脳動脈瘤の生じる頻度は大体5%位なのだそうだ。そして、くも膜下出血の発生する頻度は人口10万人に対して年間12人だという。くも膜下出血というのは脳動脈瘤破裂と全く等価であるから、人口10万中5千人は脳動脈瘤を持っていて、それが破裂する確率は0.2%強ということになる。これなら仮に脳ドックで脳動脈瘤を見つけられても恐れるに足りずだなと思って読み進むと、未破裂脳動脈瘤が破裂する確率は1年間に1〜1.5%なのだ、という記述につきあたる。はて、その四行ぐらい前にかいてあったこととすでに矛盾している。1〜1.5%の確率で脳動脈瘤の持ち主が破裂を起こすなら、年間人口10万対50〜75のくも膜下出血患者が出現することになる。この食い違いに関して、何の説明もない。年間12人より「もう少し多いような気もします」というのが、まさか説明のつもりではないだろう。

さらに妙なことに、こんな記載まである。「40才前後の人であれば、その後の生涯に30-40%の確率でくも膜下出血になる危険」があるというのだ。おいおい、年に1%強だから、30年生きるとして30倍すればいい、という計算してないかい。動脈瘤というのは、年を経るごとに破裂の危険性が増すとは思うものの、そのリスク増加率は示されていないのだから、かりに筆者の言う年間1〜1.5%という破裂率を受け入れるとしても(その根拠はまるっきり不明ですけど)、その年ごとの破裂危険性は同じはずである。昨年破裂しなかったら、今年は危険性が倍になる、という理屈は成り立たない。

百本に一本はあたる宝くじを一度に30枚ほどまとめ買いするなら確率は30倍だろうけれど、この病気は一回勝負なのである。単純な加算は成り立たない。もしイメージ的に集団のリスクを示したいのなら、100人のグループが毎年一枚ずつ宝くじを買って、当たればグループを引くということにして、何人が除かれるのかという問題を立ててみればいいのかもしれない。くわしい計算は面倒なのでしないけれど。もちろんその場合だって、個々のメンバーにとってみれば、毎年宝くじにあたる確率は同じだ。

しかもおかしいのはこれだけではない。ここの管理者の記述によれば、脳動脈瘤の破裂予防手術は「合併症が起こる危険性があり」「文献などによる報告では手術による死亡率は0.8〜2.9%、術後に一時的なもの含めた障害の発生する頻度は2.3〜7.4%」だいうのだ。さっきの数字を勘案すれば、一番危ないのは手術を受けることになる。このあたり、全くなんの矛盾もなく、手術を勧める姿勢を維持しているのが不思議なほど。私ならこんな説明で手術に納得することは絶対ないだろう。

異常が見つかれば医者の言うとおりにするのが当然、という思い込みがこんな穴だらけの説明に疑問を抱かせないのだろううか。私の読み間違いもあるのかも知れないが、ちょっといかんではないかい、と思ってしまうのだ。(3/24、一部表現書き換え。)

 2002/03/22

「雑感」のほうに「早期発見・早期治療のまぼろし」という文章をアップ。これは半年近く書いては没にし、を繰り返してきたもの。ガンをメインにするには知識が不足していて、近藤誠氏の著書がひきおこした論争の尻馬に乗ったと見られるのも業腹なのだが、どう見ても尻馬に乗り損ねてひっくり返ったザマにちかい。

脳ドック批判のほうなら多少専門にも近いが、本音をいえば、MRIでわかる脳動脈瘤なんてまれなもので、変に見つけて相手を困らすことなんかほとんどないし、経営の観点からはMRI装置の有効利用になるしな。大体、日頃から脳みそ自体への不安というのは最大限利用していて、例えば初老期の妄想性障害をうまく治療に乗せるのに、MRI受けてもらって、まず必ず存在する虚血巣を指摘して服薬を納得させる、なんていうフェアでないやり方をしょっちゅうやっているのだ。ちょっと総論反対各論賛成の、昔ながらのいいとこ取り姿勢が多少あるのは認めざるをえない。

もちろん自分では、絶対にあんなものに頭突っ込んだりしませんが。脳みそスカスカが他人にばれたらどうする。

 2002/03/21

変な夢を見た。

私は大きな湖の上の高速道路を走っている。小島がサービスエリアになっていて、そこに車を止める。そこには売店だけでなく、なにかうらびれた感じの遊園地もあり、ガキどもが汚いプールで水遊びしていたり、赤錆だらけのジエットコースターにのって歓声をあげていたりする。

地下道の入り口があるので降りていくと、中は安っぽいモルタル仕上げの洞窟風になっていて、昔デパートの屋上にあったりした、10円玉を放り込むとベルトが回って、その上に書いてある道にそってミニュチアの車を運転するような、情けなげな遊戯具がずらりと並んでいる。通路はとても長く、しばらく歩くと別の小島に出るのだが、そこは私の目的地のすぐそばなのだ。では車に戻ってこちらに来ればいいのだと思うのだが、同じような地下道入り口がたくさんあって、どこから来たのかわからなくなってしまう。確かここだというところに戻るが、先ほどとは微妙に違う様子なのである。

そうこうすると、薄汚れたウサギの着ぐるみをかぶった男が現れる。遊園地のスタッフだろう。駅の売店で昔売っていたような、アミに入ったゆで卵をバスケットにいっぱい入れている。もとの島に戻る道をたずねるのだが、さっぱり要領を得ない。

「一応案内係ですんやけど、実はよう知りまへんのや。なんちゅうかえらい複雑でしてな、ここ。確かそこあがったら東寺はんの前で、そっち行ったらリオデジャネイロですわ。なんせ本家でもウサギの案内係は人を余計迷わすだけ、ちゅうのが伝統ですさかい。いまのシーズン、タマゴ売るほうがメインですのや、ひとついりまへんか?仕入れはそこの先のミネソタですわ、品質保証でっせ」

なるほど、これはネットをイメージ化した夢なんだ、と気づきながら目覚める。題名をつけるなら、「インターネットは貧相な洞窟」、というところか。

 2002/03/20

「エレガントな宇宙」(ブライアン・グリーン:草思社)

ビジネス本の中には、「なぜ金持ちになろうとしないのか」とか「大物になるための10ヶ条」というような類のものがある。たしか雑誌でもその手の成功早道秘訣を教えるようなものが、いくつかあったのではないか。絶対に儲かる投資を勧める電話セールスと同じように、そんなうまい方法があるなら著者が自分で先に実践しているだろうし、仮に大成功した人間がそれをやっていたら、嫌味な自慢話でしかない。何か世の中には努力とか才能抜きでもおいしいところを味わえるような、うまい話がどこかにあるに違いないという尽きせぬ欲望がその手の本をそこそこ売れるものにするのだろう。

それとほぼ同じ構造をもって売られ続けるのが、表題のような最新科学理論をやさしく啓蒙するタイプの本であろう。前段のような本が人の欲に付け込むとするなら、この手の本が付け込むのは人のバカさである。欲と同じようにバカも人には無尽蔵なので、専門分野の最新知識も自分のものになるに違いない、という決してかなえられることのない期待(これも欲の一つではあろうが)に突き動かされ、またもこんな本を買ってしまうのである。

いったい、子供時代からこの手の本を何冊買ったろう。ガモフなどの有名どころから、「子供の科学」の解説まで、けっこう必死になって読み倒したのに、私の頭の中にはどんな具体的理解も結ばれていないのだ。それは夢多き子供時代ならまだ許されても、自分にその手の能力が欠落していることにとっくに気づいているはずのオヤジになってまで、まだ同じことを繰り返しているのだから、自分でもあきれてしまう。

この本は「超ひも理論」という、一般相対性理論と量子力学を総合し、ついでに宇宙の創造とその行く先まで説明してしまう可能性がある(らしい)物理理論を、数式の一つすら出さずに解説してくれている。もちろんこちらは数式など出されたらどないにもならないわけで、著者が比喩やら極端な単純化で語ってくれる理論のイメージをなんとか感じ取るだけである。そしてそれはおそらく元の理論とはまるきり無関係な誤解として、頭のなかを通り過ぎるだけで終わるのである。

その誤解の成果を開陳すれば、この「超ひも理論」では、ある大きさを持つわっかになったひもの振動パターンとしてすべての素粒子を規定する。既存の物理学にあるような無限小の存在がなくなるので、量子力学的時空の不確定性を考えなくていい。また時空は時間を含めた4次元だけでなく、最低11次元あるとされ、残りの7次元は「巻き取られている」のだと。ビッグバンというのも、無から世界がはじまったわけではなく、無限の広がりの中で、巻き取られていた時空の4次元が、ひもの束縛をはなれて展開していったのだと。半径Rの宇宙と半径1/Rの宇宙では、その物理学的特性になんの差もない、などという話もある。いやはや素晴らしい。

世の中には凡人が決して理解できないことがあって、多くの俊英がその難問を解決すべく優秀な頭脳を働かせているらしい。その俊英たちの意図は、宇宙の物理的理屈というものを、人間の脳みそが感じる「美しさ」に向かってまとめ上げようとするものらしい、というのに不可解さと当然さをごちゃ混ぜにした感覚を感じるだけの私なのだった。

 2002/03/19

14日に書いた"e-Novels"の犯人あてミステリだが、けさから解決篇がアップされている。幸いにというか、悲しいことにというか、私は応募者17名中の7名の正解者に入る栄誉に浴したようだ。

もっとも私の「推理」は一部では間違っていて、犯人がオウムを「炭鉱のカナリア」としてつかい、自分は死なない程度、オウムは死ぬ程度にガスを充満させるようにしたと考えたのだけれど、犯人は単純にオウムをあっさり絞め殺し、ガスを匂い付け程度に使ったということのよう。たしかに合理性がこちらのほうがより高い。オウムがガス毒性に敏感かどうかなんて誰も知らないわけで、そんなあいまいなものに命を預けてトリックつくろうとするわけもないですわな。

とにかく、なぜか「著者全員のサイン入り『蚊 コレクション』とe−NOVELS特製Webマネーカード1枚」をもらえる5名の中にも選ばれ、うれしい限りである。テレホンカードと書いていたけど、マネーカードだったのね。どんなものか見たことないけど。ところで金額はいくらなんでしょう。

動機のいい加減さとか、ご都合主義のトリックに関して文句言おうと思っていたけれど、賞品をもらえるという一点で素直になることにした。本心いえば、ミステリ愛好者なんぞバカばかり、という上ずった思いあがりだけなんですが。

 2002/03/18

「まれに見るバカ」(勢古浩爾:洋泉社新書y これタイプミスではありません。新書ワイなのです

著者はバカと言うのを、無知ではなく、「自分だけが後生大事の『自分』バカのこと」と規定している。「自分が正しいと信じて疑わぬバカ、自分から一ミリも外にでようとしないバカ、恥を知らないバカ、自分で考えようとしないバカ」のことをいうのだと。

そしてこれらのバカは決まったように「俺はバカだから」と自称し、「もうバカばっかりやってますよ」と自嘲するのだと。こうした謙遜をよそおったいやらしい居直りに、まさしくバカがそのまま現象していると厳しく指摘する。

ネットを広く(せまくたっていいけど)見渡せば、個人サイトはみなこの、自称バカによる自称バカのための自称バカサイトがほとんど、といってもいい。たとえば「ダメ人間」で検索してみたら、数万単位のヒット確実である。私自身、ダメ人間トホホ言説というのにしばしば誘惑され、事実そうした記載にしばしばおちこむことがよくあるが、そうした文章は結局自分をダークサイドの陥穽にみちびくものだとおもうので、必死になって自制しているつもりだ。まあシャレ程度にはちりばめますけど。

自分の立場で何かを、それも他人の言説やら行動やらのおろかさを指摘し、批判するというのはとても消耗する作業である。医療従事者としての専門性みたいなところから発言するのは比較的簡単で、ある種の逃げ場があるからだと自分でも思う。自分の思考と感覚を信じ、それを研ぎ澄ます作業をしていくしかないのだろう。思い上がった薄っぺらい論理に傲慢にしがみつくだけなら、それは「自分バカ」がいつもやってることなのだし。

そうけれん味あふれる記述もなく、あったりまえのことが書いてあるだけで、帯にあるような「抱腹絶倒の『当世バカ』図表!」というのはいささか誇大なように思われるが、ある種の勇気は確かに与えてくれる本である。

 2002/03/17

思い出した。家人がパリに旅行してきて、帰還祝いということで飲みだしたのだった。家人のパリの街の感想は以下のもの。

(1)やたらにゴミが散乱している。名物の犬の糞は中心街こそ少なくなっているものの、ちょっと周辺部にいくと山ほど放置されている。
(2)スリ、カッパライがそこらじゅうにいて、しかもそいつらが妙にカッコいい。
(3)レジ係の仕事がやたらに遅く、しかもほぼ必ずおつりをごまかそうとする。
(4)メトロの検札は東洋人だけを対象に行われる。
(5)つり目の東洋人は中国人、タレ目の場合は日本人という基準があるようだ。
(5)住民たちはなにかというとすぐそこらにしゃがみこむ。

昔から「名古屋=ヨーロッパ都市説」を唱えているのだけれど、とりわけ(5)がその根拠になっている、というのが昨夜の洞察。

 2002/03/16

あれれれれ、なんか書こうとエディター開いたところは覚えているのに、気がつけばフトンのなかである。近所の酒屋でボンベイサファイヤが安売りされていて、男はやっぱりマティーニだぜい、「チャンピオンたちの朝食」で小粋に決めにゃ、と調子に乗ってしまったのが原因にちがいない。酒瓶たしかめると、4分の1も飲んじゃいないのだけど。

というわけでこれは朝アップしているわけだけれど、昨夜の思いつきはきれいさっぱり失われたまま。

 2002/03/15

「火蛾」(古泉迦十:講談社ノベルズ)

知人から何冊か本をゆずりうける。私はとにかく惰性的読者で、読んだ事のある作者とか、一定の評価が固まっているようなものしか読まず、話題のミステリとかにまるっきり不案内なので、ちょっとは勉強してみろ、というのである。そのなかのひとつがこれ。メフィスト賞というのをもらったらしい。

中世中東を舞台に、イスラム修行者を主人公にすえたその設定が新鮮で、司馬遼太郎の文体模写そのまんまですすむ描写は、とてもミステリとはおもえない。イスラム神秘主義者の修行生活をエキゾチックに描く、司馬オマージュの歴史ファンタジーなんだろうな、と思って読み進むと突然連続殺人事件が起こったりするので、いささか怪訝な思いにとらわれる。推理劇になると司馬文体が引っ込んでしまうのが多少残念。

おそらく作者の目論みは、殺人事件の解明という枠組みを借りて、神秘的教義の世界を背景にした物語を作るところにあるのだろう。でもこの作者、本当にイスラム世界が好きなんだろうか?という疑問が残るけれど。変に深くせずに、もっと上っ面の知識を連ねて、イスラム版「修道士カドフェル」みたいなものにしてくれていたら、ファンになったかも。

些細なところでは、改行をくりかえし、文頭で三点リーダによる省略、文中では全角二重ダッシュによる併置などを多用すると、かなり簡単に司馬遼太郎文体模写ができる、というのがよくわかって大変面白うございました。

 2002/03/14

昨日引用したサイトで、"e-Novels"というところが紹介されていて、そこで「犯人あてミステリ」という企画が行われているのを知った。短編を読んで、そこで示される情報だけで犯人を当てるという趣向である。

今回の短編はディクスン・カーのパスティーシュになっているのだという。カーは密室とか不可能犯罪ものを得意にした作家らしい。私はその手のごちゃらごちゃらした話は大嫌いで、中身を真面目に考えようとも思わないので、その類を読んでいてトリックがわかったことは一度もないし、また最後に開陳される謎解きに感心したこともない。なんでそんなバカバカしいことを必死になってやらにゃいかんのだ、と思うだけ。仰々しい謎解き過程を揶揄するようなタイプなら大好きなんですけど。過剰な屁理屈コキで意味を異化してしまう笠井潔とか、天然系の山口雅也とか。確信犯の殊能将之もいれとこうかな。

しかしここのところ、税務署とのやり取りにいささか疲れて、現実逃避に向かいたい気分もあって、PDFになっている問題篇「彼女がペイシェンスを殺すはずがない」をダウンロードして読んでみる。興味ある方はそちらを参照されればいいが、どうも"e-Novels"というサイト自体、財政難でそのうち閉鎖される可能性もあるらしいので、将来のリンク切れに備えて簡単にあらすじを書いておく。

20世紀初頭、ロンドンの小金持ちの寡婦が、フランスからわたってきた年下の青髭男に篭絡され、婚約してしまう。その娘と婚約している弁護士は、財産目当てではないかと不安がり、名探偵フェル博士に相談する。たまたま同席したロンドン警視庁の警視は、その男がフランスで妻を次々に不審死においやった疑惑の男ではないかと、部下の警官に男の監視を命令し、寡婦の家に探偵と向かう。ところが時すでに遅し、彼女は中からハトロン紙できっちり糊付けされた密室の中でガス中毒死しているのである。中には彼女が飼っていたオウムのペイシェンスの屍骸もあった。そこに例の青髭野郎があらわれる。そのうち部下の巡査、娘や家政婦もあらわれ、犯人は青髭野郎に決まっていると告発するのだが、当の本人は涼しい顔、というところで、名探偵フェル博士(どうもこの人、カー作品のビッグネームらしい)は犯人がわかったとのたまい、読者の意見が募られるのである。

だいたいガムテープなんぞなかった時代に、ハトロン紙を短時間で強力にくっつけることなんかできたんかいな、というような疑問はルール違反に属するのだろう。紙でもしっかりした密室を作りえる、ということを前提にして、しかもいきずりの密室殺人マニアの犯行などではなく、すでに登場している人間の単独犯だという約束事を守らねばならないなら、犯人は論理的にある人物以外にありえない。ただトリックを仕掛ける可能性があるという以外、全く動機にに合理性はなく、よっぽどの語られていない事情がない限り、その犯人は殺人の決心をごく短時間に行い、見たこともないはずのその家の構造もなぜか熟知した上で、名探偵とされている人間と、法執行の責任者の目の前で一か八かの犯行をしたことになるのだけれど。

作者が仕掛けたトリックは別にして、そういう部分の不合理が余りに極端なのに、動機のミスディレクションだけはことさらに誇張されて描かれているのである。こんなもの、アンフェアだとかいう前にお笑いである。もっとも、私の考えが大間違いで、やはり犯人であるべく登場している青髭男が超常的トリックを駆使して殺人を犯した、という話なのかもしれない。でもやはりそれが成り立つとは思えず、作者がフェアに判断根拠を読者に示していることを前提にすれば、犯人はまるっきり必然性のない人物にしかなりようがない。

なんか賞品がもらえるらしいので、一応応募だけはした。これは先のサイトで、関西のTV局が同じような企画をしていることが紹介されていて、それが賞金50万円という景気のいい話だったので、かの利用者フレンドリーな官庁にかすめとられた分の埋め合わせになるかも、と勘違いしてしまったからである。こちらのほうの賞品はわずかにテレホンカードか、興味も湧かないけったいな短編集というせこいものでした。

応募の締め切りは15日午前0時らしいので、これをアップするのはそれ以後ならネタバレにはならないだろうから、ここで私の回答を書いておく。

犯人は警視の部下、ヒギンズ巡査部長。彼は警視から監視を命じられると、すぐに被害者宅にいき、被害者に当身をくらわせて気絶させる。そしてガス管を直接顔に当てるかどうかして、早めにガス中毒に至らせ、部屋を紙で内張りすると、部屋の死角(これがあるかどうかわからないのだが、これがないことには密室は成立しないのであることにする)に隠れる。20分ほどで探偵たちがくる事が判っているので、彼はオウムの鳥かごを部屋に入れ、それを「炭鉱のカナリア」に使い、自分が危険に至らない程度にガスの出を調節しながら待つのである。オウムがちょうどアウトになったころ、探偵たちが登場。ガスを放出するため、発見者によって密室は破られるから、隙を見つけて窓から逃亡する。

彼はその後玄関にまわり、例の被疑者ナンバーワンの青髭が出てきたのをみて、わざと食ってかかる。青髭に軽く押されたぐらいで大袈裟にひっくり返り、頭からワインを浴びるのだが、これははじめから意図していたのだろう。服にしみこんだガスの匂いを消すのと、軽いガス中毒から回復するチャンスをつくるためである。

フェル博士によると犯人は決定的失言をしたという。たぶん、この巡査がいった、発見者の行動のことであろう。発見者の一人、娘の婚約者である弁護士がガスを外に出すために窓を開けたことを、誰にも言われていないのに知っていたのである。まるっきり動機がなく、「共犯はいない」と書かれているのだが、最終的には例の青髭とグルだった、というような話にするのだろうか。

この「推理」が大間違いであることを願うばかりである。こんなくだらない形式的トリックで物語がでっち上げられるとすれば、それはちょっと悲しいことのように思えるから。もちろん、丸はずれの時にはゴメン、というだけだけど。

 2002/03/13

特別のことがなければ毎日書く、ということにしているのだが、さすがに何も思いつかない日もある。ここではそういう無意味な苦役を自分に強いている人のために、いくつかのアイデアを提供してくれている。

そのひとつに「自動書記でかく」というのがあるのだが、さすがにそれにはそれなりの資質がいり、万人に出来ることではない。ここではそれに近いともいえる、文章ジェネレーターの助けを借りてみたい。使ったソフトはこれ。辞書はついてきた「思想」に、いくつかのバカ精神分析系語彙を追加したもの。
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禁忌でさえ容易に承認されるべきではなく、禍々しいものとして否認されるであろう。そこでは浅薄な総花的知識の羅列は抑圧的自我の所有物であり、常に隠蔽されているとしか言いようがない。しかしそれに対して準拠している以上、身体性に起因する不可避性が黙殺されるのであっても、象徴的価値でしかないと断定することは避けるべきだ。我々は差異を撹乱すると思われるからである。シニフィアンはメタファーとして同一性を保持し得ない。自然は排除される事もあり、またシニフェすらトーテミズムを継承すると言える。現代では経験でさえ没意味的な文献実証主義に陥るし、間断なく実存へ回帰するのではないが、一方において予断を許さないものであるようにエピステモロジークに滅亡する。分断された身体が見定めることができるものすら、常識的に神秘化されていくのである。
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こりゃいいわ、毎日これでいこうかしら。

 2002/03/12

承前。

考えてみれば、相撲用語の「マエミツ」というのも意味を知らないことに気づいた。早速辞書を引く。小学館の電子辞書には「まえみつ(まへ…)【前褌】相撲のまわしの、締めた際にからだの前面で横になっている部分」とある。ということは後ろの部分は「ウシロミツ」ということになるし、現に辞書にも書かれているが、そんなの聞いたことないがなぁ。

そもそもなぜ相撲用語だけで使われるのだろう。語義だけでいえば単にパンツの前半分の上縁ではないか。「男は熱い吐息をあげる女の肌に沿って手を滑らせていき、そのマエミツに手を伸ばすと、それをつかんで一気に……」などという記述がありえるはずだ。語彙が確定していく経緯というのは、きっと深遠な経過があるのだろうな。

いずれにせよ、恋人のショーツに手を添えて引き剥がそうとするのは、「まえみつを取って一気に寄りき」ろうとする行為なのである。もしそんな状況が久々に回ってきたりしたら、笑っちゃいそうな気がしないでもない。

 2002/03/11

マスコミの大相撲にたいする関心はいまやパラリンピックを下回っていて、TVニュースでもほとんどヒマネタ扱いである。これからは能や狂言のように、古典的伝統芸能として生き残っていくしかないのだろう。それはそれで、はえある道なのでは。

相撲に関して、昔から気になっている疑問なのだが、「おっつける」というのはどんな動作を言うのだろう。「あそこでですね、左からおっつけてうまく差したのが勝因でしょうね」などと使われている(文脈デタラメかもしれないけど)ようなのだが、具体的に何を指すのかよくわからない。野球なんかでもこれを口走る解説者がいるような気がする。(例)「いやー、うまくおっつけて打ちましたね」

広辞苑には「オシツケル」の音便、とある。岩波国語辞典には載っていない。マイクロソフトの電子化された小学館国語辞典では、広辞苑と同じ説明と、「相撲で、自分の腕を脇にぴったりつけて相手に差させないようにする」という記載もあるが、それでは攻撃過程の説明に使われることが説明できないのではないか。ぜひ三省堂「新明解国語辞典」の意見も聞きたいところだが、なぜか辞書自体が見つからない。

なんだか判らないけれど、ひたむきに迫るような行動は全部これですんでしまうようにも思うので、どなたかぜひ「おっつける」の意味内容を明確にして、スポーツ語彙の豊富化に寄与していただきたいと望むものだ。

 2002/03/10

成田空港へ人を見送り、というよりは運転手として徴用され、朝からお出かけする羽目に。こちらが先入観で見るからか、実際にそうなのか、なんともいえないが、空港内はどことなく閑散としているようだ。周辺の民間駐車場が軒並み、「平和祈念キャンペーン」なるものを行っていて、普段の半額セールになっていたところを見ると、やはり利用者は少ないのだろう。

せっかくの休みに朝寝の悦楽を奪われてしまい、ほかに何をする気にもなれないので、スポーツクラブでいつもより強めに追いこむ。掲示板でえらそうなことを言ったので、範をしめさにゃいかんとばかりに、トレッドミルで10km走った後、3kmほど泳ぎこむ。

街を走るのと違って、トレッドミルは退屈の極致で、TVを見られる配置にでもしてあればまだ我慢もできるが、そうすると利用時間が長くなって困るということなのか、何の眺望もないようにしてあって、鏡こそないが、ほとんど筑波山のガマになった気分で大汗である。

例によってその後はビールのバカのみモードに入ってしまい、気がつけばもう夜中。またも無意味に時間だけが過ぎ行く。

 2002/03/09

「出版のためのテキスト実践技法 [編集篇]」(未来社:西谷能英)

まえに同じ題名で[執筆篇]というのを読んだが、これは[編集篇]なのである。当然[編集篇]だから、普通の本読みにはまるで関係なく、本の編集者のための技術論が展開されていて、大概の人にはこんなもの、何の役にも立たないのだ。

それでもこれが普通の書評で紹介されてるということは、紹介者が編集という仕事は世間一般で普遍的な仕事なのだと見当外れに思っているか、まるで内容を読まずに紹介しているかのどちらかなのだ。

しかも中身はSEDというUNIX系エディターの紹介にほぼ終始しており、なんぼこれがマックやWINに移植してあるからといって、千なんぼの金を取る小冊子にしてある理由が全くわからないのだ。しかもSEDのマニュアルとしても、全くつたなく不十分。

おっさん、なめたらいかんぞ。こんなもの業界内のPC音痴連中に読ませるだけのものだろうが。せいぜい対象は数十人で、プリンターで打ち出して、コピーして閲覧させればしまいだろう。なんか文章読本の一種であるかに偽装して、一般に紹介させたりするようなインチキはやめんかい。ムネヲのはったり恫喝のほうがまだかわいいぞ。

というわけでプロ内部のためのごくつたないアプリケーション使用報告でしかないので、ごく普通の人は絶対買わないように。SEDの使い方なら、ベクターあたりからダウンロードしてマニュアル読めばよろしい。あー損した。

 2002/03/08

とある役所に所用でおでかけ。ここは役所には似合わず、仕事振りがてきぱきと小気味よいほどに能率的で、なにより利用者に親身になって対応してくれる。日本の役所だって、利用者重視のノウハウを持っているところもあるのだ。

いい気分で書類を書き込んでいると、ボールペンが書けなくなった。どうもインク切れの様子。私の担当者が「ちょっと見せてください」と、それを手にとり、なにやら操作を加える。するとあら不思議、インクがなくなっていたはずのボールペンが、またスラスラと書けるようになった。

「これはすごい。どうやればこうなるんです?」

「ちょっとした経験という奴です。長らく徴税にかかわっておりますと、この程度のことは……」

 2002/03/07

昨日は早食いで困っている話を書いているつもりが、さっぱりうまくまとまらないので、こちらの小品からパクって見当はずれ方向に展開し、何のことやらわからんことなり、平にご容赦願うしだいであります。

 2002/03/06

私は早食いなので、駅で立ち食いうどんを食べると、最後に入ってきて一番先に出て行ったりするので、ほかの客がどんな目で見ているのだろうと意識過敏になったりする。うどんなんか18秒もあれば食えるじゃないか、関西人にはこちらの真っ黒けおつゆは飲み干せないんだ、などと心の中で抗弁するが、いい気分のものではない。

先日立ち食いうどん屋に入ったとき、今日は何があっても長めに店にとどまるのだ、と決心を固めていた。店にはバーコード系のしょぼくれたサラリーマンひとりしかいない。よし、あのオヤジより後に出ればいい、と目標ができる。

そのオヤジはうまそうにソバをすすりこんでいる。つるつるという音がとてもリズミカルだ。あの調子ならもうすぐソバも終わりだろう。いまから食い始めれば、いくらなんでもあちらより早いはずがない。そう思ってうどんを勢いよく食べ始める。30秒ほどでほぼ中身がなくなりかけ、オヤジのほうを盗み見ると、そちらはまだつるつるを続けている。しかたなく残ったカマボコを前歯でちょっとずつかじって時間を稼ぐが、オヤジのつるつるはまだ続いている。その様子は、まるでソバが無尽蔵にドンブリの中から沸いてきているのではないか、と思わせるほどだったので、私は不躾をかまわずオヤジを観察し続けていたら、間の悪いことに目が合ってしまう。

「なぜ私を見るのですか?」オヤジの声は穏やかだった。「いえ、おいしそうに食べておられて、なかなかなくならない様子なので……」と、私も思っていたことをそのまま言ってしまう。

静かな声でオヤジはこたえる。「貪る心の前には、食べ物はいつも限りがある姿しか見せないのです。感謝の心を忘れず、めぐみは人々と分かち合いなさい。私が5個のパンを群集とともに食べたように」

しなびたサラリーマンとみえたそのお方は、いまや金色にかがやくキリストのすがたになって、駅通路の雑踏に消えていってしまわれた。われに返った私は、抱えていたドンブリに箸を突っ込んでみたが、ネギのきれっぱしがいくつか引っかかってきただけだった。

 2002/03/05

作家の半村良氏が亡くなられたとの報道。まだ70台にも達しておられなかったはずなのに、その死因は報道だけから見るかぎり、いささか不可解である。肺炎が理由といわれたってなぁ。呼吸が止まったから死んだといわれているようなものである。

一般中間小説から伝奇SFにいたるまで、彼の織り成した物語群は他の追随を許さぬ質と量であったとおもう。これで娯楽小説の基準がなくなって、バカバカしかろうが出鱈目であろうがなんでもあり、ということになってしまうのでは、とちょっと心配。(昨夜おんなじ意味の文を書いたつもりが、うとうと状態で意識レベル低下していたらしく、全く意味が通らなかったため書き直し)

 2002/03/04

この季節、この商売をしていてよくいわれるのが、「木の芽時は忙しいでしょう」という言葉。実際にそんな経験があるかといわれると、まるでない。精神疾患の発症、ないし悪化に特別な時期はない、というのが私の意見。

しいて言えば、正月前とか、盆前などにある程度似たようなことがあるような気はする。でもそれは、長年先延ばしにされていた問題にケリをつけようという思惑が家族の間にはたらくからであって、別にそういう時期に特別、初発や増悪時期が重なるのではないようにおもう。

それを受ける側の私らが、休暇を前に気もそぞろなので、負担を感じて記憶に残りやすい、というのもあるかもしれない。それで行くと、普通はこの時期は異動がある頃なので、何もこの時期に、と思ってしまうのかも。私はあんまり普通の異動スケジュールで動いた覚えがないので、それを感じないだけなのかもしれない。

「木の芽時考」、というのはネタになるかも知れないな。初発とか増悪時期の統計を見つけたら、小ぶりの記事になりそう。ちょっと探してみよう。

 2002/03/03

今年も琵琶湖マラソンの季節がきた。昼寝半分でうらうらと視聴。地味な日本選手が優勝しておめでたい限り。あれで市民マラソンを兼ねていたらもっと真面目に見るのだが。出場できればもっと楽しいけど。セーヌ不動産も安泰の様子で、まずはひと安心。(なんじゃそれは、と思われる方はこちらを参照)

昨日のフランス・ギャル関連の楽曲をいろいろ調べていて、判ったことがある。昨年九月、フランス・ギャルその人が日本で洋物タレントであったかのように誤記憶していて、真相は不明であるような話を書いたのだが、それは誤記憶というより、すりかえに近かったようだ。

私が覚えていたのは、ダニエル・ビダルという歌手だった。彼女が本国でも売れていたのかどうかは全くしらないが、日本ではほどほどの売れ方で、今で言えばベンチャーズとか、R・クレイダーマンのような、日本だけで通用する洋タレとして稼いでいたようだ。そういえば、クイズ番組の司会なんかしながら、あいた間で「カトリーヌ」なんて歌を披露してましたわ。

本来の記憶が回復し、ほとんど「トータル・リコール」の主人公になったような気分で、意気揚々である。といって、なんかお前に関係あるのか、といわれてもなんにもないんだけれど。

 2002/03/02

若手(でもないか)社会学研究者が主宰しておられる「たけのこ雑記帖」という、もっぱら本と歌謡曲、演劇、TV番組を対象にして自在な批評を展開しておられるサイトがあって、いつも参考にさせてもらっているのだが、そこで先日、氷川きよしが「きよしのズンドコ節」という新CDを出したことに触れておられた。

ほとんどそこの引き写しで恐縮なのだが、私の世代でも「ズンドコ節」といえばドリフターズなのである。かの「ズンズンズンズン、ズンズンドッコ」のリズムがズンドコ節なのだ、と思っていたくちなのだけれど、ここの管理者はそうではないという。あれはセルジュ・ゲンズブールが64年、フランス・ギャルのためにつくった、「娘たちにかまわないで」の引用なのだと。

これは聞く必要があるだろう。Audiogalaxyで「娘たちにかまわないで」"Laisse tomber les Filles"をみつけ聞いてみると、まさしくあの軽快なベースラインそのものが終始つづくのである。曲自体は全く違うので、よくも「ズンドコ節」をその上にのせようという発想が出てきたものだと感心する。

もっともドリフターズのネタはかなりの部分がパクリで、加藤茶の顔ギャグはどう見てもジェリー・ルイスの引き写しだし、ヒゲダンスにしても、グルーチョ・マルクスの換骨奪胎である。面白いからいい、とは言えるのだが、やはり引用であることはどこかで示されるべきだろう。

なお、「たけのこ雑記帖」のほうでは、氷川きよしの「ズンドコ節」を考察して、これは地方の高校を出て都会で働く若年労働者層をうたった歌と分析しておられる。大衆消費社会として非階級的にとらえられる現代社会においても、階級構造を無視することは実際は出来ず、この歌も間違うとヘンな方向にいってしまうところを、氷川きよしはさらりと歌っていると絶賛しておられる。

もちろんそれは、一般の大学がエリートを生む場所ではなくなったがゆえの同質的社会を前提としているので、「鼻持ちならない大学生や気どったOLや、なんだかわからないパラサイト・シングルばかりが都市の若者じゃない」という管理人の感想は、いささかバイアスがかかっているかに思われる。毎日アホ学生やら、自称エリートのスットコドッコイ連中と付き合わされていやになってるのかな。

それはいいとして、歌謡曲で時代を語るという作業をみると、どうしても連想してしまうのがタモリの「戦後日本歌謡史」で、管理人氏の見事な分析も、ついタモリのナレーションとして聞いてしまうのであった。

 2002/03/01

このサイトは開設以来、ファイルをまとめて表示する「うなぎの寝床」方式を採用しているわけだけれど、この欠点はファイルが大きくなりすぎることで、ここの先月先々月など、ほかの記事を更新しなかった反動のためか、100Kbにも及ぶ量になってしまった。これでは一日分だけ読むためにも、過大なトラフィックを生じさせることになる。

ふだん何メガというMP3なんか平気であつめるくせに、100Kb程度のことを何で気にするのかというと、サーバー会社がある転送量をこえると別課金するからで、ここ何か月かは危ういところでセーフという状態がつづいているわけ。

怪しく安い貸しサーバーはディスク容量の宣伝ばかりして、この転送量のほうは低めに設定されていることが多く、どかっとアクセスが来たり、大きなファイルを扱ったりすると、たちまち別料金を請求され、まっとうなところよりよほど割高ということも多いので、各位気を付けられるよう。ここはどうかといえば、まさにその「怪しく安い貸しサーバー」なんですわ。

ここもCGIにして、表示は1週間程度、過去ログに順次保存、というかたちにしようかな、と検討中。ヒマなんだから手作業でやりゃいんだけど。


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