Indexに戻る

更新日記

 2002/08/31

病院に、あるメーカーが超音波診断装置をデモで置いているのだが、これを起動してみるとなんとWindowsNT4.0の起動画面になる。もちろんすぐに画像診断のアプリになってしまい、しかもアプリ終了のメニューがなく、キーボードにもコントロールキーが見当たらないので、OS画面に戻すことが出来ない。なんとか操作して医療器械でフリーセルをやる、という目論みは惜しくも挫折する。

/.jpをみると、こんど全国の信用金庫のデータ処理システムにWindowsが使われることになっていて、内容以前に手段だけを決めるということが批判されているらしいのだが、それ以前に、そんなもので大丈夫なの?という気がちょっとする。そこには、高速道路のサービスエリアにある経路案内の一部は、Windows3.1+VBで動いているという投稿もあった。料金計算システムがそれだったらさすがにまずいだろうが、あの手のサービスだったら別に問題ないかも。しかしそれでよく落ちもせず役に立つものだ、というのが正直な感想。

そういえば、いわゆる住民コード管理システムもWindowsらしく(多分NTなんでしょうな。まさか9x系ではあるまい)、評論家が大臣にそれを批判したが、大臣は何を言われているやらさっぱりわからずスレ違い、なんてこともあったようだ。WindowsでなくてUNIXならいいのか、というと多分そんなこともないはずで、こちらがある程度熟知しているようなシステムで、しかも毎日のようにセキュリティホールが通知され、アップデートが勧められるような、情報の開示といえば聞こえはいいものの、一方的にMS社に依存するしかないところが不安をあおるのだろう。

あるジョークで、セキュリティホールとウイルスの蔓延に頭にきた米国国防総省が、ミサイル迎撃システムをマッキントッシュに入れ替えた、というのがあったのだが、落ちを忘れてしまった。偶発全面核戦争の恐怖に世界がおびえる一方で、ビン・ラディンかフセインが「ついに米国もアラーの神のご意思に自らの運命をゆだねる決心をした」と大歓迎して、世界は和解にむかって進むということだったような気がするのだが。

 2002/08/30

他人事とは思えないニュース

インディアナ州エディンバラの中学生、テイラー・マネー君(13歳)は、その頭のサイズの巨大さゆえ、学校のフットボールチームに加われないでいる。彼の頭囲は26インチ、なんと66センチもあるのだ。テーラー君の頭は、NFLでもっとも大きいサイズのヘルメットをかぶっている、シカゴベアーズのジェームズ・”ビッグキャット”・ウイリアムズよりも大きい。

プロ用のXLサイズのヘルメットでも、テイラー君がかぶると耳のところまでしか入らない。ちゃんとあうヘルメットを要求する学校側に、メーカーは努力中とはいうものの、ちゃんとした約束は取れていない。テイラー君は今シーズンは見学だけにするといっているが、コーチのバートン氏は、TVがこの問題を取り上げてくれたので、きっと誰かがサイズの合うヘルメットを持ってきてくれるだろうと楽観している、とのこと。

上のリンク中からニュースビデオが見られるので、必見である。はじめエディンバラだというから、なんでスコットランド人が、アメリカンフットボールなんぞやるのかと不審に思ってしまったが、そういう名前のアメリカの田舎町でした。ラグビーやっときゃヘルメットなんかいらんのだけどね。もっともそれ以前に、相撲をやったほうが大成しそうな気もしますが。

テイラー君ほどではないにせよ、私も頭の大きさでは苦労したクチだ。そもそも幼稚園に入ったときに、合うサイズの帽子がなく、仕方なく園長先生の帽子を借りて記念撮影したのである。どうもこの世の中はかなり窮屈なところらしい、という予感がそのときすでにあったのだが、その後それは完全に的中していることが判明した。

ロードレーサーに乗ったりしはじめたときも、頭に会うヘルメットを見つけるのが大変だった。今は外国製品がいっぱい入っているので問題ないが、ちょっと前まではアマチュア自転車連盟というところが、セコイつくりの国内製品を独占認定して利権をむさぼっていたので、じぇんじぇんあう品がなかったのである。ある市民レースに出たとき、自転車雑誌のインタヴューをうけ、「レースで一番苦労することは?」と尋ねられたので、「頭に会うヘルメットを見つけること」と答えたら滅茶苦茶受けたのだが、結局、雑誌には掲載されなかった。

かの浅田次郎氏が、何かのエッセイでご自身の巨頭ぶりを告白して、わざわざ南イタリアまで行って頭にあう帽子を買うと書いておられるのを読んでから、その小説はもうひとつ気に入らないが、その存在自体には親近感をぐっと感じるようになった。同じ苦労を共有する同志、という感じである。なにより南イタリアに行けば、頭に会う帽子をいくらでも見つけられるという、この世の窮屈さをいくらかは解消出来る知恵をわけてくれた大恩人である。テイラー君、一緒にナポリに行こうよ。アメフトのヘルメットは売ってないと思うけど。

 2002/08/29

/.jpで知ったところによると、Netscapeのシェアは落ちまくり、全世界でいまや3.4%なんだという(元記事)。大体、Netscape社というのはどうやって採算を取っているのか、昔から謎である。Operaみたいに売ろうとするわけでもなく、IEのように半分迷惑なOS付属品でもない。何か収入があるとしたら、デフォルトのブックマークに企業のURLを入れておく宣伝費ぐらいしかないはずで、将来性を頼りに株でも売ってキャピタルゲインを得るのが目的であっても、儲かるはずのない企業の株を買う物好きがいないと思うのだが。コロンビアあたりの麻薬組織が、金洗いのために作ってる会社ではないか、と睨んでいるのだけれど違うかしら。昔々マカだったときは、こんないいブラウザはないと思っていたけれど、やはりいろいろな小細工規格にどんどん取り残されると、ちょっと今も応援するのはきつい。

そんな事いいつつも、このサイトの訪問者が使っているブラウザの過半数がNetscape4.xなのだ。ほかのバージョンをあわせると実に6割がNetscapeである。3.4%しかシェアがないはずなのに、このサイトに限って(かどうかしらないが)過半数というのはどういうわけなのだろう。理由をいくつか考えてみた。

(1)使っているアクセス解析スクリプトが全くのデタラメで、AGENTが何であろうとNetscape第一位の結果を出すように仕組まれている。
(2)企業、大学からのアクセスが多い傾向があるので、UNIXベースになってIEは使われない。
(3)AGENT情報を偽装するソフト使用が今のトレンドで、かつNetscapeを使っていると装うのがはやっている。
(4)見に来る人の半数以上がへそ曲がりで、多数派におとなしく従うことをよしとしない。

思いつくのはこれぐらいで、しかも(1)はないだろうし、(2)はアクセス解析そのものが否定する。UNIX系はせいぜい1%で、マックだって10%いかない。(3)もちょっとねぇ。たまに「びろびろびろーん」なんちゅうAGENT名を見るぐらいで、ほとんど例外。となると、(4)しかなくなるのだ。類は類を呼ぶ、というわけで、ありうるような気もするが、何か見落としていると思えないでもない。

いずれにせよこの前の改装時に、Netscape4系では表示がちょっとまずくなるようなつまらん仕掛けを入れてしまったので、なんとしてもNetscapeを使われたい向きには、ぜひ7.0へのアップデートをお願いしたいと思うのだ。4.x系への対応は、私の乏しい知識ではちょっと無理。ちゃんと見えたからといって、なんと言うこともないのだけれど。

 2002/08/28

複数の方から、精神神経学会が決定した精神分裂病の名称変更についてどう思うのか、という質問が来る。正直言ってアホかいな、と思うだけである。医師の学術団体のなかで、戦後民主主義ボケをもっとも強く体現し、いわゆる朝日新聞好みのオールドタイプ進歩的文化人気取りがあふれる精神神経学会が決めそうなことだな、というのが二番目。学術語のはしくれとはいえ、「分裂病」という名称も言語の一種なので、意味するものと意味されるものの関係は恣意的でしかなく、言い方を変えたからといって、意味される側の本質が変わるわけではない。私はもう20年近く前にこの学会から除名されているので(理由は単に会費の不払い)、そこが何をしようと文句はないが、同業者の端くれとしてはちょっと恥ずかしい。

それは、今までの言葉に染み付いてしまった差別的ニュアンスとか、勝手な意味連想から一時的に自由になることはあるかもしれない。でもそんなもの、用法が定着すればまた同じことである。学会がこんなしょうもない決定をするなら、伊勢神宮の遷宮のときに一緒にまた名称変更しようとか、いや諏訪大社の御柱祭の周期で変えるべきだ、というような論議もついでにするべきだった。ギャグがらみでもないと、とてもまともに取り上げられない。

私自身は分裂病という単一疾患の存在を強く疑う立場にいるので、その名前を変えて悪しきイメージを払拭しようなどという発想は、単一疾患であるという仮定をいつの間にか検証されている事実であるかのように言いくるめる陰謀の一種としか受け取れない。そもそも、E・クレペリンが今で言う分裂病群を、「早発性痴呆」という名で雑多な精神疾患から取り出したとき、そこにあった「不治にして宿命的に荒廃状態に至る呪われた病」というイメージを打破しようとしたのが、ブロイラーによる「精神分裂病」という診断規定だった、という経緯があるのだ。それはある一時点で観察される症状のまとまりをもって、指し当たってそう呼んでおこうではないか、という取り決めなのであって、なにも精神がちりじりバラバラになった病気、と決め付けているのではない。まとまりがよくないように見える状態、といってるだけなのである。だからブロイラーのSchizophreniaという命名は、当初は精神乖離症などと訳されたこともあり、彼の意図にも沿ったものであったのだが、結局漢字のゴロからか、分裂病という呼び名が定着し、その意味連関が本質を表しているかのごとき誤解まで生まれてくる。

そういう過程を今回の決定は踏まえているのだろうか。とてもそうとは思えない。Schizophreniaと診断される非常に治療が困難な一群の人々がいる事実(などといいつつ、現在の薬物療法でほぼ7割近くの人は、そこそこの社会生活をおくれるようにはなりますが)を、その呼称の問題だとすりかえるのは、まるでおまじないの発想である。病者たちがしばしば見せる魔術的思考への耽溺に、専門家たちがいつの間にか感染しているのである。情けない話だ。

私の提案。分裂病という呼び方がそれほどまずいものなら、もう使うのをよせばいい。経過や症状に応じた呼び名はいまさら検討してこっぱずかしい名称を考えるまでもなく、すでに山ほどあるのだ。思春期発病なら破瓜病、軽症例には思春期妄想症、30代の発症なら30代精神病(ホントにあるのだ)、病状をメインにするなら、興奮中心の緊張病、妄想が主なら妄想病でいいではないか。フランス学派みたいに、急性期を急性精神病、慢性化すれば慢性精神病という分け方をしてもいい。まれに見られる、あらゆる治療努力に抗して、どんどん荒廃に向かって進行するかに見えるようなタイプだけに分裂病をつかうとか、なんなら早発性痴呆を復活させるのもいいだろう。こうすれば専門家なら何がしかは感じる、疾患の単一性への疑問もかなり解消されるし、こういう風に一度概念も解体したところからこれらの疾患群を眺めれば、おもわぬ連関と本質性が見えてくるかもしれないと思う。

まあ実際は単なる符丁なのだから、統合失調症であろうが屁家模根病であろうが、使えといわれればなんだって使いますがね。保険病名としてとおるのかどうかははっきりさせておいてほしい。精神神経学会は伝統的に、そこらのツメが異様に甘いもので。

 2002/08/27

「TVの医学ドラマでは、心肺停止患者の救命率が、実際の2倍から6倍は高く描かれていて、患者家族に誤った期待を抱かせる原因となっている。無益な希望を持たせないように、医師は家族と現実的な話し合いをすべきである」という内容の論文が、British Medical Journal最新号に載っている。

著者は、カナダのエドモントンにある三つの研修医療機関で、97年から99年の間におこった成人の心肺停止例247例を検討し、その予後と、TVドラマでの描かれ方を比較している。著者によると、それらの症例の半数はいったん救命されたものの、24時間生き延びたのは3分の1で、4人にひとりは退院にまでこぎつけたが、実際に家に帰って生活できたのは5人にひとりだったという。

著者は96年にNew England journal of Medicineにのった「テレビにおける心肺蘇生:奇跡と誤報」という論文を引いて、自分の調べた蘇生率と比較している。NEMJの論文は、ERとシカゴ・ホープ、レスキュー911の94年から95年のエピソードを検証し、そこでは心肺蘇生されて退院にいたる率が67%という高率であったとし、患者家族にこのような現実と乖離した期待を持たさないようにするべきだ、という主張がされている。しかし、実際にはどのぐらい助かるのか、という肝腎のことが書かれていないため、BMJの著者が、自分たちのデータと比較したようだ。

おそらく、これを書くためのデータ収集に2時間以上はかけていないだろうと思われる色物系論文なのだが、「医療に大層な期待をかけられても困る」という、正直かつ勇気ある意図に貫かれている、といえよう。日本ではドラマでどうこうという以前に、たまにやられる何とか病棟24時、などという特集番組で、えらくラッキーかつハッピーな症例をおおげさに紹介して幻想を振りまくような行為がまかり通っていて(例えば某大学病院の「低体温療法」とかね)、地道な医療を阻害することすらあるのに批判すらされない。そうしてでっち上げられた幻想が、まわりまわって結局は医療への信頼を裏切る原因になっているとおもうのだが。

ところで、上の二つの論文の関連論文をPubMedで調べていたら、病院モノTVドラマの内容に突っ込みを入れるようなものがやたらにあるのを発見した。どこの国の医療関係者も、おんなじようなことをしているもんだなという感想がまず一点。それをちゃんと論文に仕上げる根性にちょっと脱帽。

 2002/08/26

昨日書いたオーストラリアで見た奇妙なラグビーについて、早速ご教示メールをいただいた。あれはもともと、アマチュアリズムを極端に推し進める英国ラグビーユニオンに対して、試合で怪我をした選手の公傷救済をめぐって分離した(今世紀はじめのことらしいが)、ラグビーリーグという北部のチーム連合が元になって出来たルールなのだという。そのルールはリーグラグビーと呼ばれていて、オーストラリアでは我々の知っているユニオンラグビーよりよっぽど人気があるそうな。(あまり適切な解説サイトが見つからなかったのでリンクはなし。「リーグ ラグビー」で検索してね)

素人がラグビーを見ると、あのラックだのモールだのというところがうざったく、ホイッスルが吹かれても、あれのどこがなんで反則になるんだよ、と感じたりするばかり。しかもそう有利になるとも思えぬスクラムなんぞに持ち込まれ、それも回転したのでやり直し、などと無意味にくどい場面ばっかり見させられ、アホらしくなってチャンネルを変えるというのが大概のまともな反応だろう。

その点、かのリーグルールだと、そのあたりは全部解消できるので、すっきりしゃっきりこのうえない。スクラムはどうもルールに残されているらしいのだが、滅多に出てくることもないらしく、わけのわからん代表といえる「オフサイド」も、こちらのルールではかなりわかりやすいものになっているらしい。もちろんユニオンのほうも危機感をつよめ、これに対抗するためにいろいろ工夫しているというのだが、ラグビー後進国ではあんまり詳しいこともわからない。少なくとも、ワールドカップなどの国際試合をやっているのはユニオンのほうだが、人気はリーグのほうが上、という事態が少なくともオセアニアではかなり前からあるらしい。CATVとかCSはぜひリーグルールの試合を放映するべきだろう。そうでもしないと、この国でのラグビー文化は数年もしないうちに終焉を迎えることになるぞ。別にかまやせんけどね。

ヒマに任せた身辺雑記はこちら→http://med-legend.com/remhistory/

 2002/08/25

昨日の記述に関して、「NZはラグビーだけでなく、クリケットやラリー、ヨットなどでも世界レベルのプレイヤーを輩出している」という指摘をいただいた。そのとおりであります。いい加減なことを流れだけで書いて申し訳ない。ちょっと古いけど、登山のヒラリー卿だってNZ人だものね。ただ、競技人口がそう多くなくて、競争のあんまり激しくない分野が主だ、といえないこともない。ローン・ボーリングの世界大会でもあれば、NZは少なくとも二位以上になるのは確実。三位以下の国があるかどうかは疑問だが。

ヨットは競争が激しいぞといわれるかもしれないが、やはりああいうのは、子供のときから日常的に親しむ環境で育った連中だけのものだと思いますな。乗馬なんかもそうかも。オークランドの街中の公園で、小さな女の子がまるで自分の自転車で遊びに来たような雰囲気で、ポニーに乗ってやってきたのを目撃したときには腰抜かしました。日本人は彼らの何倍かの収入水準を獲得しながら、なんでああいう豊かさを持てないのか、だいぶ考え込んだものだった。

ラグビーで思い出したのだが、何年か前にオーストラリアにいったとき、地元のTVでラグビーの試合を見ていたら、どうも様子が違う。おなじみのルールと全然違うのである。アメリカンフットボールみたいに、一方のチームに攻撃権があって、ボールを持っている奴がタックルされてひっくり返されるとプレーが止まり、その位置から股の間をとおして別の選手にパスしてプレー再開。タックルしてひっくり返すといっても尋常のやり方ではなく、いちいち肩の上に持ち上げてバックドロップみたいに頭から逆落としするのである。これが5回続くと、攻撃権移動である。トライを狙ってパスをつないでいくのは同じで、スローフォワードはしないし、ノックオンなんかもあったよう。しかしスクラムは組まないし、ラインアウトもない様子。あるのかもしれないが、少なくとも見ていたときにはやらなかった。

これがオージー流の国内ルールなのかなぁ、とぼんやり見ていたのだが、あれが何だったのかいまだにはっきりしない。CATVなどでオーストラリアのプロチームの試合が放映されているので、結構注意してみているのだが、このルールでやられている試合をその後全く見ないのだ。オーストラリアに住み着いた友人にたずねたのだが、本人は全くスポーツに興味がなく、「オージーボールでも見たんじゃないのか?」という返事。オージーボールとの違いぐらいわかりまっせ。

ただ、ラグビーを普及させるためにルールを簡略化させた、「タグ・ラグビー」というものがあるようで、これから安全性の考慮などの側面をすっかり取っ払えば、例のルールと同じようなものになる。本来のルール→やたらに複雑でまどろっこしく、のんきなオージーもさすがにいらつく→アメリカンフットボールから多少ヒントをえて、手荒かつスピーディな試合展開を可能にしたプロ用ルールをつくる→そのルールの簡略性に目をつけ、安全性を考慮してタグ・ラグビー考案、というような流れがあるのではと想像するのだが、どなたか詳しい方おられたら教えて頂きたい。

 2002/08/24

そう派手なスポーツイベントとも思えないのに、えらく前から宣伝がしつこかったパンパシフィック水泳。なんぼ決め手コンテンツに不足しているテレ朝とはいえ、イアン・ソープの魚類−両生類系ルックスだけでつなぐのは無理があるような、と思いつつやっと一日目である。

ソープの遅めストロークの秘密を解明しようと必死に水中カメラ映像を見ているのだが、昨年も書いたような気がするが、何か契約でもあるのか、スカリング(手を櫂のように動かして水きりすることね)テクニックみたいなことは全く写さないので、遠目にはひたすら前から後ろへと棒掻きしているようにしか見えない。彼が人並みのピッチで泳ぐのは、今日の400mリレーみたいにヤバそうな時だってゴール前10mだけである。それでも勝つのだから、えらいものだけれど。ランス・アームストロングの高回転ペダリングならまだ理屈はわかるのだが、イアンの省エネ泳法が高速を維持できる理由がいまだに全然わからん。足や手が平べったくてでかいのでスカリング効果がやたらに高い、という先天的理由だけであるような気もして、そのあたりが期待できないアジア系は損だな、と思わないでもない。もっともそれをいうなら、毛唐の血を引いていながら、遊びレベルでしかがんばらない#NZの連中はなんなんだ、といえないでもないが。まあ、あの国は人口せいぜい300万、静岡県とほぼ同じで、静岡国体チームが国際試合に出ているようなものだから、ぱっとしないのも仕方ないのかも。

#彼らはラグビーで意味不明にがんばるので、それ以外の努力はアホらしい、と思っているのかも。静岡県民しか加入できないプロスポーツチームがあって、それが常に世界で一位という状況なら、そこでは他のスポーツは根絶されてしまうかもしれなせんなぁ。

 2002/08/23

かの「アルジャーノンに花束を」が、フジTVで連続ドラマ化されるのだそうな。主演はなんとユースケ・サンタマリアだという。どうも製作者は知的障害者と、たんなるアホの区別がつかないのではないだろうか。映画はTVの洋画劇場でみたが、知的障害の持ち主が、どんどん能力を得て、学術論文を口述筆記するまでにいたる経過を、主演男優が見事に演じわけていたのが印象的だった。

その辺のコツは、軽度のCP(脳性麻痺)の運動症状を表現することにありそうだ。CPと知的障害は必ずしも合併するものではなく、むしろ見る側のステレオタイプ概念に依拠しているのだが、やはり客観的な所作として表現されると納得しやすいものになるのは事実。この前みた「スコア」でも、エドワード・ノートンがその手法で知的障害者のふりをして、犯行現場に入り込む犯罪者をうまく演じていた。

ひるがえって日本のTVや映画での知的障害者の描かれ方をみると、そういう手の込んだ演技というのはまず見られない。藤山寛美や大村崑が演じていたのは、神話的な純粋存在としての知的障害者であって、リアリズムとは無縁である。日本人はこの神話が大好きで、仙台四郎などの有名どころに似た話はあちこちにあるようだ。「寅さん」だとか、某野球球団終身名誉監督なども、この流れに位置づけることが出来るのではないだろうか。そういえば女性を主人公にした、「ピュア」なんていうドラマもありましたな。この路線をねらうとあたる、ということか。

神話とリアルを混同してしまった無様な例が、TBSの「聖者の行進」ではなかったかと思うのだが、なにせCM時のザッピングでちらりと見ただけなので、なんともいえない。フジTVも同じあやまちをやらにゃいいんだけどね。原作があるからそう無茶なことにはなるまいといいたいが、配役を見る限り、すでに勘違いしている疑いが濃厚。窪塚洋介を使えばいいと思うんだけれど。客観症状としてうまく演じるような演技能力があるかどうかは知らんが、雰囲気だけは充分知的障害者。あ、それでは能力を得たときは演じられないか。ユースケならもっとダメだろうけど。

洋介で思い出したが、斉藤洋介という役者がいて、この人のCP演技(知的障害は抜き)は最高だった。たしか、NHKの「男たちの旅路」というドラマだったと思う。ガードマンの話ね。もちろん実際にそういう障害を持っている人とは全然違うのだが、表面的な真似事をこえた生活感を表現していた。彼を主演にしたらもっとシリアスに出来るのではないかな。年喰いすぎているか。

なお、ネタの採取、および一部の意見は、「グレコローマンかたぎ」を参考にしていることを申し添えます。

 2002/08/22

admin@med-legend.com名で、KLEZが猛烈な勢いで発信されている様子である。崩れたアドレスで出されて、メールサーバーが私のところに戻す分だけで一日数通、どこかの企業に送られて、「ウイルスメールですよ」と自動返信されてくるのが、1〜2通。「ウイルスよこすんじゃねぇよ、コラ」という手動分だけでも週に2〜3通。自動返信はしょうがないとしても、手動で返信してくる人はどういうつもりだろう。KLEZの性質もしらないでいて、人に文句は一人前に言いたいらしい。中には添付ファイルもそのままに返信して来る人もいて、頭にきた抗議のスタイルをとったウイルス頒布が目的ではないか、と思ったりもする。

もちろんadmin@med-legend.comあてに来るのは毎日十数通である。一時下火になっていたのに、この隆盛はどういうわけだろうか。どこのどなたのマシンか知らないが、ここのメールアドレスを登録している方は、念入りに調べてみてください。

それとポータル系のサイトが、おそらく自動的に「リンクさせてくだい」というメールをよこすのも面倒。読んでみれば、お前がアクセスして所定の作業をするよーに、という一方的要求である。こういうカチンとくるものでなくても、リンクの許可を求めるメールには基本的に返事しませんので、居丈高な奴だとおもわれるかたはリンクしないで結構。理由はほぼこれに言い尽くされているので、参照のほどを。

雑誌などに紹介したいので、というのもはじめのうちは真面目に返信していたが、「早急に返事するように」というような厚かましい要求にこたえることもない、と思って基本的に返事しない場合のほうが多くなった。原則はリンクと同じなので、紹介したいなら勝手にどうぞ、というスタンス。笑っちゃうようなコメントがついていたりしたら、ここでネタにさせていただきます。

 2002/08/21

8月2日にかいた、携帯電話中継局の偽装アンテナの件だが、どうもガセではないらしい。そういうアンテナタワーを専門に作っている会社のサイトまであって、実例がちゃんと示されている。この会社では立地条件にあわせて、各種オリジナルの偽装アンテナをアレンジするらしい。そういえば、アマチュア無線関係の米国通販サイトで、一見煙突風のアンテナなんてのを売ってるのを見たことがあったような。向こうは日本以上に電磁波に対する危機感が強いようなのだけれど、なんぼ偽装したからといって、個人の趣味ならごまかせても、携帯電話の基地局をこっそり作るわけにはいかんだろうし、反発は大して変わらんような気もするのだが。

教会や旗ざおならまだしも、あの不自然な木なら、無骨な鉄骨タワーが立っているほうがマシではないですかね。日本に導入するなら、天守閣とか、五重の塔とか、神社の大鳥居風とかになるのかなぁ。屋久島の縄文杉とか、円山公園のしだれ桜なんか、もうとっくに入れ替わってたりして。

 2002/08/20

一週間ぶりに仕事をすると、接客態度はすぐ戻ってきても、薬の名前は忘れているわ、検査伝票の記入場所はわからんわ、診断書などのお決まり文書の書き方ノウハウがどこかに行ってるわで大まごつきである。「8月20日の時点において、今後約一ヶ月の自宅休養を必要とするものと認める」なんぞというような、美しくない日本語を書けるか、なんぞとがんばって独自表現を考えてみても、診療の流れが滞って人に迷惑かけるばかり。

不愉快な気分を多少でも和らげようと、同僚のDVDコレクションから「千と千尋の神隠し」をかりて帰る。これがまた、見てもさっぱり???である。あの婆さんの造形に当たっては、黒柳徹子にモデル料を払ったのだろうか、というのが唯一の感想。街並みの風景が、昭和30年代をグロテスクに誇張した感じで、この前法事でよった某地方の小都市を思い起こしたのがちょっと面白かったな、という程度だったのが残念至極。

本にしても、映画にしても、こんな風に見たらとても面白かったよ、ぜひ体験してみたら、という気持ちが出てこないものについては、詳しく書く気が出てくるものではありません。そういう意味では、7月8月に読んだ本はハズレばっかりだったなぁ。鳥飼否宇、三浦しおん、ジョー・R・ランズデール 、ことごとく私にはあわなかった。それも全部3冊以上アマゾンで買ってしまったんだよな。とりわけ最後のランズデールなんか、その下品さが私にぴったりのはずなのに、なぜか全然ダメだった。もうひとつ評論というか、精神医学啓蒙系でカンニンしてくれというのがあるのだが、これは合わないから知らん、というのはまずいような気がするので、そのうち紹介するつもり。

 2002/08/19

「ロック・ユー!」(原題"A Knight's Tale" 監督:ブライアン・ヘルゲランド 2001米映画)

そう期待もしないでみた映画が結構面白かったときの喜びはなかなかのもので、これはその中でもかなりのもの。もちろん借り物のDVDで見たのだが。

出だしからして競技場で、クィーンの「WE WILL ROCK YOU」を歌う観衆である。人々は顔にペイントして、あろうことかウェーブまでやってる。ファンファーレのラッパはエレキ・ギターの音を出すのである。中世の馬上槍試合が、完全にサッカー試合のノリで再現されているのである。ここでまずまいる。

試合の途中で頓死した騎士の身代わりで、従者だったヒース・レジャーが出場してラッキーな勝ちをひろい、彼はそれに味をしめて偽貴族になりすまし、トーナメントを転戦するという話。旅の途中で、バクチで負けて身ぐるみはがされ、スッポンポンで歩いていたジェフリー・チョーサーを拾って来歴を捏造させ、ついでにリングアナウンサーに採用する。こいつがまたWWF並みの、いかれたアナウンスをするのである。たまたま出会った女鍛冶屋は、ナイキのロゴがついた軽量甲胄までつくってくれるのである。これだけでは調子よすぎるので、長島一茂から身長をつめて、代わりに邪悪さと知能指数を6割増しにしたような伯爵が敵役となり、みそめた姫君の恋敵にもなるのである。

各地転戦して連勝をかさね、すっかりスターになってロンドンに凱旋するヒースだが、そこは好事魔多し、かの一茂風邪悪伯爵の陰謀で平民出身が暴露されてしまい、獄につながれ、処刑の危機が迫るのだが、さて、というのが後半の山。

貴族を僭称しているとはいえ、田舎者丸出しのヒースがトーナメントに参加するところは、身分違いの貧乏人が上流があつまるバレー団にはいった少女漫画のような、お決まり系サブストーリーで構成されていて、これがまたよろしいのである。当然主人公は、トゥシューズに画鋲が入れられたりするような危機を、うまく機転で逃れるのである。ステップも知らないダンスを強いられ、恥をかきそうになるところも、なぜか流れてくる70年代ロックミュージックと、振り付けを熟知している周りの人間に助けられ、カッコよく回避するのである。

もちろん先ほど書いたような後半の危機も、鎌倉幕府鉢の木説話風というか、水戸黄門風しかけによって見事に克服され、かの邪悪一茂伯爵との文字通りの一騎打ちに持ち込まれるのである。そこに出てくる「グラデュエーター」からパクったようなシーンも、主人公の爽快な勝利を祝福していて、実に決まっているのである。

チョーサーがわざわざ出てくるのだから、この話は「カンタベリー物語」かなんかが元ネタになっているのかな、などとも思うのだが、そんなことはタイトルロールのどこにも触れられていなかった(と思う)。追求すればそれなりに面白いのかも。主人公がみそめる姫君よりも、女鍛冶屋のほうがよっぽど美人だったりする配役には不審を感じないでもないのだが、なによりお決まりプロットを組み合わせて、そこそこ感動的な映画を作る監督の手腕に感心してしまうのである。もっとも、お決まりだから感動できるのかもしれないのかな、と思ったりしないでもないが。

ヒマに任せた身辺雑記はこちら→http://med-legend.com/remhistory/

 2002/08/18

表紙ページのメニュー表示に細工しようと、Javascriptを追加したりしてみるが、Netscape系にうまく対応していないので、どうにもいけません。いくら休みだからといって、こういうことのために2時間以上努力する気にはなれん。Netscapeを使う人=どちらかといえばエキスパート、と勝手に決めさせてもらい、多少不親切なメニューでもかまわんだろうと居直ることにする。まあ、そのうちしゃれた表示をみつけてパクることにしよう。

死亡事故のためにTVから駆逐されてしまった「大食い戦士」たちの身の上を案じていたのだが、彼らはいまやニュースポーツのアスリートとして、世界(といってもアメリカだけど)に雄飛しているようなのである。こちらの記事を読むと、アメリカでは大食い競技はいまや、かの「スポーツ・イラストレーテッド」で取り上げられるメジャースポーツになっていて、FOX-TVなどでも何度となく放映されているらしい。しかも、いままでのアメリカの大食い選手というのは大デブばっかりだったのが、「やせの大食い」系日本人選手の参入によって、その戦法と基本的ライフスタイルまでもが根本的に変わりつつあるという。有力選手たちは消化効率をあげるため、ダイエットにいそしみ、スポーツジムに通ってトレーニングにふけるようになっているそうな。大リーガーについで、日本人大食い戦士が国際的アスリートとして活躍することを期待したいものだ。向こうのアホガキが事故おこさにゃいいんだけれどね。

 2002/08/17

どうも朝からめまいがしていけない。きのう、渋滞にひっかかった時にトイレで苦労するのも情けない、とおもって水分控えめにしていたので、脱水傾向になって小脳梗塞でもおこしたかと気になってしまう。家についたとき、疲れ果てていたので、ろくに食うものもとらずに寝てしまったからなぁ。たっぷり水をとり、おまじないにアスピリンをのむ。

きのうのFMの続き。都内のFM局で、聴取者がファックスで投稿するような番組をやっていて、そのテーマが「アルバイトで経験した面白い話」。これは絶対あの話が出るに違いないと思って聞いていると、はたして「大学病院で死体処理のバイトを一日一万円でやった」という投稿が読み上げられる。しかも司会者はそれにプレゼントまでやっている。自分の経験談だと投稿するのだから、完全に確信犯でホラかましているわけだが、そのバイトが存在するということだけは一応信じているんでしょうな。この話にリアリティを生じさせるメカニズムがいったい何なのか、というのがもうひとつわかっているとはいえないが、もしかすると今後はさらに確信的に流通するようになるのではないか、と私は予感している。

というのは、法事で訪れた某地方は、企業撤退やら地場産業の衰退やらで経済状態は青息吐息で、街並みを見ただけで、あ、こりゃ末期だわ、というような感じなのだが、そういう地域にあって唯一隆盛をほこっている産業が「葬儀屋」さんなのだ。田舎町で新築したばかりのでかい建物があったら、それは葬祭センターである、といってもいいような状況。なにせ死んでくれる老人たちには事欠かず、派手なイベントといえば葬式ぐらいのものなのだ。「死」が衰退した地方の有効資源として、最大限に機能している。これはあと2〜30年ちょっと、いわゆる団塊の世代が死に絶えるぐらいまで、全国的に続く傾向ではないだろうか。

「死」がその特権性といささかの神話性を糧にして、地域経済の最後の砦になっているのである。おいしいアルバイトのネタにならないわけがない、と思慮の浅いガキならこの思いつきに飛びつくだろう。あちこちの医大や病院で、それを真に受けたイカレ厨房が妙な事件を起こすのは時間の問題だ、とここで予言しておこう。

 2002/08/16

土曜日を避ければ多少は渋滞もマシかと思ったが、結局二時間あまりはそれとお付き合いである。都内を抜けるときはガラガラだったのでまことに快適、といいたいところではあるものの、田舎者には複雑怪奇としか言えない経路を、あのクソ狭いつくりの道で100km/h以上だして駆けるのは少々きつい。湾岸線にでたところで深々と安堵のため息をつきつつ、家路の仕上げ。

いつもはまず聞かないFMを、交通情報目当てで聞いていると、やたらにエルビス・プレスリーの曲ばかりかかる。お盆だからかね?と思っていたら、この日はエルビスの二十五回忌なんだという。私はエルビスが青春だったというにはちょっと出遅れた世代だが、それでも最近のほとんど区別がつかない楽曲を聞くよりは格段の親しさを感じるのは事実。彼が実は生きていた、というヨタ話がいつまでもたち続ける理由がよくわかる。

本日の教訓。渋滞している道路においては、自分が走っている車線の流れはつねにほかより遅い。

 2002/08/12

スタイルシートのお勉強も佳境に入り、どうもそれほど便利なものでもないらしい、と思い始めた。私のように、妙なHTMLエディタを使っていると、いちいちタグ属性なんか覚えて見出しを作ったりはしていない。例えば簡単なスタイルの追加で、ここの日ごとの区切りに使っているテーブルを色を変えたりするぐらいはできるが、もうちょっと手の込んだ細工をやろうと思うと、今までの設定を全部チャラにする作業をしないといけないので、そんなことするぐらいなら、いちいち書き直しても手間は同じことなのである。

テキストだけで地味なサイトを作っておいて、それをあとから様々にお化粧するという、プロっぽいやり方する人でないと、ちょっと完全には使いこなせない様子。タグ打ちしながら文章も考える、というような多次元能力があればいいのだが。表紙はCSSなどとは無関係にコジャレ系にしてやろうと奮闘してみたもの、どうにも冴えませぬ。私はまったく絵心というものがないので、こういうことも全然ダメ。結局どこかのパクりでお茶をにごすことになるかな、と。

などといいつつ、Indexも書き換え。もう、あっさりで行くことにした。大した情報もないのに、スクロールしてみにゃならんのもかなわんものね。レイアウトはこちらあたりのパクリといわれても仕方ないかな、と。

なお、法事のため、4日間ほど更新はお休み。もしネット接続できそうな場合、こういうCGI日記フォームを用意しておいたので、もしかしたら何か書き込むかも。

http://med-legend.com/remhistory/

 2002/08/11

開設以来、バックの画像を変えたぐらいで、ずっと同じデザインを続けてきたのでいい加減飽きてきた。最近のサイトはみな見事なまでにコジャレ系で、多少はそういうのにも追随せにゃならんと、せめてスタイルシートを導入しようとしているのだが、さっぱりわからない。これは無料解説サイトを読むだけで済まそうという、けち臭い根性がいかんのだと、清水の舞台から飛び降りるつもりで解説本を買ってくる。

で、斜め読み。やっぱり全然わからない。なにか出来合いのスタイルシートがついていて、それを使えばほれこのとおりコジャレ系に大変身、というのを期待したのだが、そういうのもないみたいだ。あったとしても、それをどう使うのかわかっていないのだけれど。

今年の夏休みは法事でぶつ切れになってしまい、まとまったことも出来そうにないので、このサイトの改装という安上がり目標を立てることに。もちろん、目標を立てた段階で一安心してあとはゴロ寝、というのは人生を一貫したスタイル。知らぬうちにスタイルシート設定されているのですかなぁ。

 2002/08/10

「陰陽師」(2001年 日本映画 監督:滝田洋二郎)

そういえば「天才マックスの世界」の前々日に、こいつを観たのだった。観なかったことにしておこうと思う日本映画は数多いが、これは一応観たことにしておいても、そう恥ずかしい思いをすることもないのかな、と思える一品。

平安期中初期、帝におぼえめでたき左大臣だか右大臣に、ヨイショしまくる陰陽寮の重鎮が真田広之で、さえないほうの大臣をなだめているのが野村萬斎の安部清明なのである。なぜか真田はさえない側に、相手を呪ってやるぞと営業活動をしにきて、初めのうちはその理由がわからないのだが、どうも負け犬の恨みつらみエネルギーをつかって、長岡京から平安京に遷都する原因になった相良親王の怨霊を呼び出し、この世を魑魅魍魎の世界にすることを目的にしているらしいのである。

野村萬斎は古典劇の基本を抑えた所作が程ほどに見所があり、真田広之はなぜかほとんど新派風のオーバーアクション。だから、というわけではないのだろうが、ほかの登場人物はみんなセリフ棒読みのど素人芝居。笛の名手という源のなんとかに扮する伊藤なんとかなど、冗談なのかとおもうほどのヘタクソ演技をするのだが、あれはきっと野村・真田両者の国際的演技力を強調するために、わざとやっていたのだよね。そうだと言ってくれ、誰か。映画のほうは、結構策略をろうした割には、真田の側の陰謀は野村の放ったたった一発の矢によってついえてしまい、ぼろんぼろんの姿になってしまうのが気の毒。あれだけ霊力があるのなら、まず自分のボロ姿を治したらいいのに。そのあとの対決もハンディありすぎる。相良親王の怨霊ってのが、これまた軍事力としては、まったくあてにならんのだし。

小松和彦さんという民俗学者がいて、えらく判りにくい文体で、おどろおどろしい怨霊論など書くので有名なのだが、この人が安部清明ブームにのっかって出した「安部清明『闇』の伝承」(桜桃書房)という本がある。この人によれば、日本の権力というのは、古代から二重性があって、安部清明は、おそらく被支配者がわのコントロールが出来たフィクサーだったのだろう、と推測しておられる。言うなれば、現代の差別問題とか労働運動と同じような構図があったというのである。もちろん、古代と現代を一緒くたに論じることは出来ず、古い差別観の解消を図ろうとする啓蒙運動とか、労働者の権利を守ろうとする動きを、古代権力に敗北しつつ、それを側面から支えていた非正統的勢力と同じようなものとするのはあまりに乱暴である。ただ、具体的には江戸期の浅草弾左衛門みたいなものとして安部清明をとらえれば、つまらんオカルト解釈が出てくる余地はないほどわかりやすいのは事実。

式神が(この映画ではじめてシキガミと読むのを知ったよ)、戻り橋の下に住んでいたという伝承も、浮浪者とかホームレスとか、敗者の側を支配していたのが安部氏であったと考えれば、なんとなくわからんでもない。でも今の一条戻り橋はほとんどドブ川にかかった小さい橋で、とても何人もの式神は住まえなかったようにおもえますが。まあ千年前は広い河原だったんでしょうかね。

いずれにせよ、「オマエモナー」という2ch用語で終わる映画というのはそれだけでも貴重で、これは外国映画には求めても得られぬことだけに、その一点で、私のようにいい加減な関心しかもたない不熱心な人間に、日本映画からは目を離せないと意識させただけでも、この映画の歴史的意義は充分あるといえよう。さて、次は「逝ってよし」だな。

 2002/08/09

イスラムの教えでは、売春は許されざる罪であり、それに対する罰は、むち打ちから死刑にまでいたる過酷なものだ。改革が進みつつあるとはいえ、かのイスラム革命によって、イスラム法が最優先されているはずのイランに、なぜか最近売春が蔓延しているのだという。

彼女たちは、イスラム基準ぎりぎりに崩してベールをまとい、通りに立って男たちに見定めさせ、値段交渉をするという。その多くは、中高年男性と無理に結婚させられ、そこで虐待されて家出したティーンエージャー女性だそうだ。当局の発表によれば、テヘランを中心にして、概算で30万人の女性が売春を行っているという。その数は警察の度重なる取り締まりにもかかわらず、どんどん伸びている。

この状況に、あるイスラム保守派聖職者が対策案を出した。政府によって運営される「純潔の家」なるものを設立し、そこに困窮した女性たちをすまわせ、顧客が現れた時はイスラム法にのっとって短期的な結婚を認める、というものである。イスラム法では一夫多妻が認められるので、このやり方なら一過性の性交渉も完璧に合法的に行える。離婚もイスラム法では自由なので、払われる料金も和解金だと考えればいい。

提案者は、この案が女性の社会的転落を根絶する妙案だと自画自賛していて、経済的不振が続いていて、結婚資金を作れず、結果として初婚年齢が30台以上に上がってしまった男性たちの不満も解決するのではないか、と期待している。しかし、貧しい女性をよけいに売春に追いやるだけだという批判も巻き起こっており、この案を真っ向から否定する政府要人もいるそうだ。

以上こちらの記事の、一部かなり勝手なところもある要約。食い扶持減らしのために金持ち中高年の第四、第五夫人として年若くして売られるよりは、自分の意志で「純潔の家」暮らしするほうがまだ主体性のある生活では、なんてのは無責任な意見か。どうせなら江戸期の廓みたいに、現代版ペルシャの後宮風絢爛文化を追求するのもいいのではないか、なんていったら小谷野敦サンあたりに思いっきり叱られそう。

 2002/08/08

「天才マックスの世界」(原題:"Rushmore" 98年 米映画 監督:ウェス・アンダーソン)

昨日WOWWOWにて視聴。アメリカの名門私立学校、それも小学校あたりから高校まで一緒になったような、いわゆるプレップスクールにかよう少年の話らしく、オープニングは彼がやっている課外活動の羅列ではじまる。新聞部に始まり、学園年鑑編集長、演劇部(というより劇団を主宰してる)、フランス語クラブ、模擬国連ロシア代表とか、軽飛行機部、カリグラフィー部、養蜂部なんてのもあって、ほかにもあったが忘れてしまった。

才気あふれる少年が、様々な難問をトンチと行動力と並外れた頭脳で切り抜けていく、学園シットコムかと思ってみているとそうではない様子。いろんな興味に集中力が拡散されて目標を見出せず、性的な欲求にもさいなまれて、日々をなんとか切り抜けることを強いられる、誰にでも覚えのある、不器用な思春期後期の哀愁を描いた胸キュン劇なのだった。

マックス少年は8歳のとき、学園の校長にウォーターゲート事件をヒントに描いた戯曲を送りつけ、それに感動した校長は彼を特待生として入学させる。しかし入学後、彼はもっぱら上のような課外活動ばかりに精を出し、学業のほうは落第点ばかり。校長は史上最悪の問題生徒を入学させてしまったと後悔し、もう一度落第点を取ったら放校だとマックスに宣言する。

マックスは理事会に取り入って危機を回避しようと、有力理事のビル・マーレーに接近し、ついでに恋心を抱いた新任女性教師オリビア・ウイリアムズの歓心も買おうと、マーレーに金を出させて、勝手に野球場に水族館を建てようと策略をめぐらすが、これは当然自爆に終わり、あわれ放校となってしまう。水族館を作るという発想は、単にオリビアが熱帯魚を飼っている、と言う根拠でしかない。こういう主人公の緩い発想で無茶をもくろみ、大人の世界に無理やり自分のやり方を認めさせるというのは、あちらの学園バカコメディの王道なのだが、この映画では、マックスのもくろみはすべてその原則に乗っているものの、現実のほうはあくまでタフなままなのである。

マックスはやむなく公立高校にうつり、マーレーとオリビアが恋仲になったのを知って、自分のプライド回復のためもかねてか、ギャング映画風の執拗な妨害合戦をマーレーと繰り広げる。マックスの相手をするビル・マーレーがまた秀逸で、ガキのままで全く進歩していない中年男を実に見事に演じている。

妄想ばかりが先行し、アホな行動の暴発が時おりあるものの、結局は現実の壁の前にふてくされるだけに終わる、幾多の思春期への賛歌というか挽歌といえばいいだろうか、歳をくっても結局そのままであることを自覚しているような人間には、身につまされる作品ではないだろうか。

マックスを演じているジェイソン・シュワルツマンは、かのF・コッポラの親戚なんだそうで、劇中劇がセルピコだったり、地獄の黙示録風だったりするのはそのせいらしい。私が偶然導入部をみて、そのまま見続けたのは、ただこの人が道頓堀の食い倒れ太郎人形にそっくりだった、という理由だけ。そういう根拠でも、結構当たりはあるものだ。

はじめ、何を思ったのか主演のジェイソン・シュワルツマンのことを「監督と脚本をこなしつつ」などと書いてしまった。これは監督のウェス・アンダーソンの公式サイトをみて、あまりにマックスと似た風貌なのに感じ入ってしまったから。マックスと生い立ちはかなり違うみたいで、むしろ新作の"The Royal Tenenbaums"が自伝を反映しているようだ。

 2002/08/07

サンディエゴのプログラマーが、二千万円ちかい金をかけて入れ墨やら形成外科手術を受けて、自分を虎に変身させようとしてきたが、さらに毛皮の移植をつよく望んでいるのだという。

彼、デニス・スミスは、頭からつま先まで黄色と黒のしま模様を入れ墨し、歯には鋭い牙をかぶせている。さらにラテックスの頬ひげが移植され、唇は形成手術で、牙を剥きだせるようになっている。今、彼は外科医に、虎の毛皮を移植するように強く求めているのだという。

スミス氏は、彼はすでに「キャットマン」(なんでだ?)と改名手続きをしたそうだが、こう言っている。「俺は昔の虎の毛皮のコレクションをもってるんだ。あれを自分に移植できるのなら、もう二千万ぐらいかかっても惜しくはないね。俺は虎の毛皮をまとっている時、いつか虎になりきるという人生の目標を感じるんだ」

以上、こちらのニュースサイト記事の部分訳。世の中には、よく判らん人生目標を持つ人がいるものだ。正直言って私は、いわゆる性同一性障害の人が性転換手術にこだわるのにも、この記事に対するのとほとんど同じ感想を持つのですな。身体髪膚これを父母にうく、敢て毀傷せざるは孝の始めなり、なんて言葉がすぐ浮かんでしまうのは、やはり世代ゆえか。

それにしても、虎の毛皮を移植することなんかできるわけもないが、そういう助言は誰もやってあげないんだろうか?

 2002/08/06

通っていたスポーツジムが、来月で営業を停止するという。土地建物を賃貸して営業していたが、いままでの貸主がそれらを第三者に売却してしまい、新しいオーナーは強硬に立ち退きを求めてきたのだという。結構はやっているジムだし、なにより新興住宅街としてはほぼ成熟した街並みの中にある施設だったので、ほどほどの社交の場にもなっていた。引退した中高年が多く住んでいるので、そういう人々が毎日のように気軽に立ち寄って利用する、という感じだったのだ。だから経営効率はそうよくなかったのかもしれない。会費だけ払って、忙しくて利用出来ないという連中が山のようにいてこそ、ああいう施設はペイするのだろうから。

跡地はマンションにでもする気らしいが、そんなもの、都心部でどんどん安い物件が出てきているのに、こんなところで売れるわけもなかろう。周辺にタケノコみたいに出来ているマンション群は、現に売れ残りばかりだ。なんとか仕事を作らねばならぬゼネコンと、それとつるんだ銀行が、目先しか考えられないバカな地主をだまくらかして、地域のささやかな憩いの場をぶっ潰す、という最悪のシナリオを書いたに違いない。私個人の経験では、借主の権利というのは理不尽なまでにつよく、なんだかんだと主張すればいくらでも居座りが可能なはずだと思うのだが、ジムの側も、そうまでしてがんばるほどの経営メリットがなかったんだろね。

仕方なく、新しいスポーツ施設を物色する必要に迫られることになった。いくつか候補はあるのだけれど、市街地になってしまうので、数キロしか離れてなくても通うのが大変になる。ええい、面倒だからついでに棲家もそちらの近くに引っ越してやろうか、なんて考え中。ライフスタイルというのは、かくも不確定な条件に依存しているのだ、ということなのですな。

 2002/08/05

病院構内のノラ猫のなかでいちばん愛想のいいのが、最近捨てられたと思われる長毛系の黒猫で、最近の暑さにやられて気の毒なほどバテている様子。こいつはほかの猫たちのように、興味は食い物だけということもなく、適当にじゃれついてきたりする。以前から痴呆病棟のペットにできるのではないかと思っていたので、この機会につれこむことにした。さすがに抱き上げるとけっこう警戒するので、マタタビで酩酊状態にしてかつぎこむ。長いことブラッシングされていないので、せっかくのゴージャスな長毛が、ホームレスの蓬髪のように絡み合っている。ドライシャンプーを振りかけてブラシをかけ、ノミ取りスプレーetcで程々に衛生化を図る。

はじめのうちは緊張していた猫も、そのうちリラックスしてきたが、はたして病棟猫としてその地位を築けるか、これからが問題である。老人患者が少しでもなごむような効果があれば、看護スタッフの研究会発表にでも使えるかも。アルゴンキンホテルのマチルダみたいな看板猫に、なれればいいんだけれどね。

 2002/08/04

けさの新聞に、キッコーマンの焼酎の全面広告が出ていた。黒地の中に、引き締まった表情の男性が、なにやら不可思議な印を結んでこちらを見ているような肖像が浮かび上がるという、かなりアートっぽいものである。

ただ、その男性がどう見てもラッシャー板前なのである。アートで差別化を目論もうとも、しょせん焼酎は焼酎、気張ってみても最後には脱力がくる、というメッセージなんだろうかと、しばし考え込んだ。真面目ヅラのラッシャー板前ねぇ、なんとなくすべっているような気もするがなぁ、と。

ところが、老眼移行がはげしい目にはちょっときついほどの小さな字で書いてある説明を読むと、この男性はラッシャー板前ではなく、津軽三味線奏者の木下信市という人らしい。オフィシャルページの写真をみれば、ボクサーのごとき鋭い眼光をたたえた求道者然とした方で、とてもラッシャー板前など出てくる余地はないのだけれど、広告の方はほんとにそのものなんだから。

作り手の意図というものは、かくしてバカな受け手によってねじ曲げられ、誤解されるという好例であろうか。

 2002/08/03

一昨日の記載で、他医療機関が夏休みの確保のために患者紹介をしているかにとれる内容があったが、さすがにそれは私の被害妄想で、、やはりこの時期、老人が脱水などで不安定になり、精神症状の悪化も来たしやすいということなのだ。ただ、それはあくまで一般状態の変化に伴うことであって、身体状態と無関係に精神症状があるかのように言われるのはかなり困る。典型的精神症状で転医してきて、そのくせこちらがやっていることは身体管理のやり直しをしているだけ、ということは多い、というより、ほとんどやってることはそれなのだ。一般科の医師の場合、最先端技術などと関係なく老人を診ざるを得ないわけだが、多少妙なことを言ったりやったりすればもう守備範囲ではないという態度を示す医師は時々いて、それは単に身体管理という自分の仕事に不誠実なだけである、と私には思える。

それと、一昨日の記述の中で「意識障害」という言葉を不用意に用いたが、これも我々が使う意味と、一般的な使われ方とは微妙に違う。ふつう、意識障害というと、コテっとひっくり返っていて、声をかけようがつつこうが反応なし、という状態を意味するわけで、その程度にしても3−3−9分類とか、JCS分類などといった判定方法がある。精神科領域での意識障害というのは、そういう一般分類ではごく軽度のものとされるもの、例えば子供の「寝ぼけ」などに典型的なものをいうので、普通に起きて受け答えをしているような状態でも、意識障害が存在しているということがありえる。

他科の医師とこの辺で話が通じないことがまれにあり、精神科では意識の変容ということも含めて意識障害といい(といってそれは別に特別なことではなく、一般医学常識であるはずなのだけれど)、現にそれが普通の意識障害の程度にそのままつながるのだ、というのを理解してもらうのに苦労することもある。脳外科の術後などでは、かなり多様な意識状態を管理するしかない状況が強いられるので、このあたりは結構話が通じやすい。時々、精神科医でも、この辺がまったくわかってないのではないかと思える人と遭遇することもあり、自分の知識体系が本当にグローバルなものなのか、と不安になることもある。そんなときは、先に記したような外国の教科書を読み直したりする。「軽度意識障害」をネットで検索してもそこそこのヒットはするので(ほとんどが教科書というか、専門書の宣伝なのがちょっとナニ)、そう自分の知識が一般医学界とずれているわけではないらしい、と思いはするのだが、たまにはちょっと不安になることもある日々なのである。

 2002/08/02

こちらの掲示板で知ったのだけれど、フロリダでは携帯電話の中継アンテナタワーを、周辺の自然に調和させることが奨励されているのだという。そしてその一例として、こんな写真が証拠にあげられていた。変に伸びてしまった木だと見えないこともなく、かえって作りものめいて不自然だともいえる。

掲示板参加者も半信半疑だったようで、「そりゃ、水やるときにバイアグラでも混ぜたんじゃないのか」などと茶々が入っていたのだが、携帯電話会社で働いていたと自称する人が、そういう偽装アンテナタワーの実在を認める書き込みをした。

その人によると、森林地帯では写真のような木が一般的で、ほかには、一見木で出来た水タンク風、崖の上などには岩、牧草地には潅木、市街地では時計塔、野球のネット、そして教会の尖塔に偽装されるのだそうだ。教会はどこも資金難なので、携帯電話会社に改装してもらって使用料までもらえるので、次々にアンテナタワー化しているそうな。

これ自体ネタである可能性大で、その掲示板では「近所の教会の回りだけが圏外になるんだけどな」と言うような反応が目白押しである。さて真実はいかに?本当だとしたら、そういう偽装アンテナタワーが日本に入ってくるかどうかが見ものです。でも、日本人って自然の中にメカっぽいものがあってもあんまり気にならんのですよね。野原や街中に林立する、電柱に無頓着なのがその見本。

 2002/08/01

いつもは閑古鳥の外来に、なぜかちょっと前から千客万来である。あまりの暑さに、人々の脳みそが沸騰してしまったのかと思うとさにあらず、ほとんどが他医療機関からの老人患者の紹介である。それなりに困った事態を抱えている人たちとはいえ、紹介状を読んでみると、なんで今さらといいたくなるケースが多い。

老人施設で、半年も前から夜間せん妄が続いているケースがあって、それなりの工夫で対応していたのが、職員も疲労困憊したので何とかしてくれと言うのだが、なんとなく下賎仕事はあんたに任すのでよろしく、といわれた感じで気分はよくない。職員が持たなくなるような方針出していた、お宅さまの責任はどうされるので?、と嫌味も言いたくなってしまう。

アメリカの有名な老人内科学の教科書を読むと、半分近くが意識障害や痴呆症状の評価とそのマネジメントにあてられていて、日本の老人精神医学教科書なんかよりよほど的確な記載がされている。薬物の用量などでちょっと違うところがあって、そのまま適用できないのが欠点だが。たいがいの病院が老人病院化しているのに、その重要な症状であるせん妄や痴呆を、一般身体科医師が全く見られない―はじめのうちは無視しておいて、手におえなくなると『専門家』に押し付ける―、というのはちょっと無責任かつ異常な事態ではないかと思う。

しかもこの時期にあちこちから紹介がやたらに増えるということは、「夏休みの確保」という目論見が絶対に含まれているに違いない。ええい、こちらの夏休みはどうしてくれる、とつい本音丸出しになってマジ切れしてしまう日々である。


2002年7月の更新日記へ

Indexに戻る