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更新日記

 2002/09/30

考えてみれば、9月はまだ一日残っていたのだった。書くことがないのでパクリネタ

向こうのいくつかのニュースサイトや、掲示板でも紹介されていた。あちらでは、小ブッシュをアホだとからかうのがはやっている様子なのだが、この写真に関してはまったくの作り物。大統領の左手にある写真が、上下逆なだけでなく、右左もひっくり返っているので(わかりにくいので補足すると、ふつう画像をひっくり返すと180度の回転になるわけだが、この写真では、垂直方向だけの転換になっているわけである)、フォトショップなどのレタッチソフトで細工したものだとわかる。

この人の怖いところは、もっと根源的なところにあるのは間違いなく、「アホやからしゃーない」で済ますというのは、もっとも危険な態度だと思うのだ。そんなこと、みんなわかっていても、そういう茶化し方しか出来ないというのが、ろくでもない状況を端的に表しているのかもしれませんな。

 2002/09/29

今月分のこちらの記事を、それぞれの項目に移動。一部ちょっと付け加えたり、修正したり。完全に日記サイトになってしもうとるな。サイト内リンクが妙なことになっていて、表紙ページに戻ろうとするとエラーが出たりしていたのもついでに修正。

9月は何もしないうちに過ぎていってしまったなぁ。それでは、8月はなにか有意義なことをしたのか、と言われたら、やっぱり何もしていない。こんな調子で時が過ぎ行けば、足腰立たなくなって、この世から消えてしまわないといけなくなる日はすぐに来てしまいそう。それでもまだ、ちゃんとした覚悟が出来ているとはいえないのだけれど。

 2002/09/28

「死者を起こせ」(フレッド・ヴァルガス 東京創元社文庫)

年に数回訪れる、ミステリなんか読みたいな症候群発作である。最近はフランス系本格推理がはやっているそうなので、近所の本屋でもおいてあった、この本に決める。はやっているといったって、この業界にそう詳しいわけではなく、全部殊能将之氏のウェブからの受売りである。彼のお勧めというか好みである、「フランスのディクスン・カー」といわれるらしきポール・アルテという人の本は買えなかった。

仕方なくディクスン・カーその人の本も何冊か買うが、こちらは一冊読んだだけでいやになる。あんなコンマ秒以下の偶然が積み重ならないと成立しないようなトリックとその謎解き解説を、ぐじゃらぐじゃらと書き連ねられたようなものを、几帳面に読む能力が私にあったら、本業のほうでもうちょっと大成している。

職に恵まれぬオーバードクターの歴史学者3人が金に困り、パリの古いボロ館を維持改修との引き換えで安く借りる。主人公格のマルクには、たたき上げの敏腕刑事だった叔父がいて、この人はその職業倫理のゆえなのか、単なる悪徳刑事だったのか、殺人犯の逃亡を助けて免職されたという過去をもつ。この叔父も館にうつり、そう仲がよいとはいえない共同生活を始めるのである。

この館の西側にはギリシャから出てきて、一世を風靡したこともある元オペラ歌手ソフィアが引退生活を送る家がある。彼女はごく普通の男と静かな結婚生活を営んでいるのだが、ある時、窓辺近くに一本のブナの木が植えられているのに気づく。夫に聞いても知らないといい、彼女の不安は増大する。夫は昔のファンが、なにか隠喩的な意味合いで押し付けがましいプレゼントをしたのだ、と取り合わない。

ソフィアは越してきたばかりのマルクたちに、ブナの木の調査を頼む。なにか意味のあるものがその下に埋められているのではないか、というのだ。金詰りのマルクたちは謝礼につられて協力するが、何も発見できない。そんなことがきっかけになって、ソフィアと親交ができ、彼女が懇意にしていたビストロ経営者の若年増、ジュリエットとも付き合いが始まる。ジュリエットは反対側の館に住んでいるのだ。歴史学者の一人、マティアスは彼女のビストロでアルバイトをはじめ、穏やかな近所づきあいが交わされるのだが、そうこうしている間に、ソフィアが失踪してしまう。夫は、ちょっと用事があるだけだと気にしない。

その後、ソフィアの姪、アレクサンドラがリヨンから出てくる。自分との約束を忘れる叔母ではないと主張するアレクサンドラのために、事態は一期に事件化し、やがてソフィアとおぼしき身元不明の焼死体が発見される。

本格推理、というと雪に閉ざされた山荘で、関係者一同が疑心暗鬼になってドアから頭を出したり引っ込めたり、というようなものを想像したのだが、後半部まではフランス街角人情話に、うまい具合に失踪や殺人事件が組み込まれた雰囲気の、ソフトかつ地味な展開である。ところが、第二の殺人の調査が始まるあたりから事態は一変し、それまでの人情話の布置は、まるで別の様相を呈することになるのである。

カーの理屈の上だけで成り立つようなトリックも、こういう生活史全般を偽装するような犯人の超人的作為も、とても現実的ではないわけで、そういうところを指摘してみても詮無きこととは思うものの、犯人の外面菩薩内心夜叉のギャップはいったいどうやって処理されていたのだろう、とつい考え込んでしまう。

なにしろ連続殺人犯なので、どんなことでも平気でやれるんだよ、というような収め方が、前半の穏やかさを大きく裏切っていて、フランス流本格というものにちょっと疑問を感じてしまうのだ。たぶん私は「カーのまがい物」、ポール・アルテのほうが向いている人間なんだろうな(カーは向いてないけど、まがい物なら耐えられそう)。今度は必ず見つけて買っておこう。

 2002/09/27

ABCニュースが伝えるところによれば、二年前、ヒューストンでおこった二件の殺人事件がいま全米の関心を呼んでいるという。

2000年10月、48歳の女性銀行員、マリー・モリスが自分の車の中で焼死体となって発見された。死体は車ごと火をかけられていて、身元確認には歯型鑑定が必要だった。所持品はなくなっておらず、仕事の上でも、家庭的にも、どんなトラブルも確認されなかった。

彼女の死体が発見されて4日後、39歳の看護婦、先の被害者と同姓同名のマリー・モリスが自分の車の中で頭を撃ちぬかれた死体となって発見された。彼女の場合も、何も盗まれておらず、銃が車内にあったことから、当初自殺のように見られたが、上肢に抵抗のあとを示す傷があり、殺人と判断された。

二人のマリー・モリスは、同じ市内に住んでいたというだけで、今まで出会ったことはなく、共通の関係者もいない。手がかりは乏しく、事件後2年を経ても解決の糸口は全く見えていない。二件目の看護婦殺しを請け負ったヒットマンが、誤って同姓同名の銀行員を殺したのではないか、という推測もあるが、捜査当局の公式見解は「偶然の一致」というもの。

これで被害者の名前がサラ・コナーだったら、犯人はターミネーターなんだけれど。みんなそう思うらしく、これを伝えるニュースサイトや掲示板のコメントはこればっかり。

 2002/09/26

昼飯に、安売り酒屋で売っていたタイ製のカップヌードルを食べる。香辛料が効いていて、とても刺激的な味なのだが、麺がどうもパサパサしている。スープもなんとなくウースターソースみたいな味がして、日本人感覚とは相容れないような気がする。3個で200円だから仕方ないかと、そう気にもとめなかったが、ゴミ箱にすてた容器をみると、小さいステッカーが貼ってあって、それに「ミーゴレン」と書いてある。タイには、たしかナシゴレンという炒めご飯みたいなものがあったはずで、これはもしかしたらヤキソバであったのか、と思い至る。検索してみればまさしくそう

何事にも先達はあらま欲しきものなり、という体験。でも、あれはあれで珍味でしたけどね。

 2002/09/25

9・11関連の噂話というか、偶然の一致の演出というか。

IMDB(インターネット映画データベース)の「タワーリング・インフェルノ」の解説末尾に、先ごろこんな記述が付け加えられた。「主要部分の撮影は、1974年9月11日に終了した」

タワーリング・インフェルノに、WTCテロを重ねあわすのはかなり強引で、まして「主要部分の撮影」というのはいくらでもごまかせそうな気がする。IMDBはとても使いやすく、素人が映画について偉そうなことを言う時には欠かせないサイトなのだが、やはり実用性だけでなく、神話誘発的な雰囲気も欲しいんでしょうかね。

 2002/09/24

人間は時にとんでもない思い込みをすることがあり、特に私はそういう傾向が強いのだけれど、今度は本当に参ってしまった。

と言うのは、「林家いっ平真打昇進ドキュメント」というTV番組を、たまたまザッピングしながらみて気がついたのだ。「いっこく堂と林家いっ平は別人である」という事実に。いっこく堂というのは、いっ平が色物で寄席に出るときにつかう別名だと、本当に思い込んでいたのだ。だって「いっ」まで同じじゃないの。偉大なお父さんをもってクサることもなく、しかもああいう新奇な芸まで開発するとは、なんとすばらしい息子なんだろう、それに引き換え、あのこぶ平は、とまで。人にいままで言う機会がなかったので、本当によかったと思う。

 2002/09/23

二週連続の連休で、やってることは大酒のみと、買い物の付き合いと、スポーツクラブ入りびたりだけである。もうちょっと有意義な生活をしようと本屋によって、「成人病の真実」(近藤誠:文芸春秋)などを買い込む。

近藤氏の本をざっと読むが、高脂血症にせよ、糖尿病にせよ、脳ドックにせよ、こちらでいい加減ではあれ主張したこととほぼ同じことが(もっと精緻に)書いてあるのが気持ち悪いぐらいである。私のように田舎医者をしていても、インターネットがあれば中央の大学教師とほぼ同じ情報が手に入れられ、懐疑心と言うか、へそ曲がり心性さえあれば、ほぼ同じ結論が得られるということのようだ。(もちろん、かなりこちらがパクっている要素はあるのですけど)

昨年、想像もしなかった経緯で、近藤氏とその協力スタッフと接触する機会があり、私自身のつたない直感に過ぎない他分野医療への懐疑が、それらの専門家によってもかなり確かめられた経験がある。精神科医というのはどうしても、身体科医療には無縁というか、まるっきりのど素人という姿勢になってしまいがちなのだが、現実的関与がいまいち弱いゆえの観察能力の肥大化という、いまみたいに医療が袋小路に入っている時代には、むしろアドバンテージともいえる能力を磨いてきているのだから、もっと一般的医療分野に発言してもいいと思うのだ。

アホみたいな社会的発言してあきれ果てられる精神科医は数多いのに、医療全般にそれをする人が少ないのは、誠に不思議なことといわざるをえない。まあ、おまえらあんな豚小屋みたいな治療環境ほうっておいて、えらそうなこというんじゃない、といわれるのが怖いのかも。でも、それでは一般的社会状況相手に、しょうもない商売している連中はもっとまずいことになるんだけどね。まあ、ああいった恥知らず連中はどこにでもいるわけで、なにか世の中の役に立つ、と期待するほうが間違いかも。

 2002/09/22

近くのスーパーでやっている日曜朝市で、小ぶりのサザエを安売りしていたので買ってくる。一個100円ならまあまあか。

素直につぼ焼きで食べるのは芸がなく、そもそも小さすぎてイマイチの雰囲気。そこそこうまいとは思うが、日本酒があまり好きでない私には、醤油系味付けというのが、それほど素敵なものでないのです。ここはなにか洋風にしたほうがいいだろうと、いんちきブルゴーニュ風に仕上げることに。

まずは強引にスプーンとかフオークをつかって、らせん状になっている肝臓(?)部分も一緒に、サザエの身を取り出す。かなりコツが必要だが、文章でそれを伝える能力はおまへん。それを食べやすい大きさにきざみ、ワタもつぶして、一緒に無塩バターでソテーする。その際、白ワイン、刻んだニンニク、ハーブ類(今回は手元にシーフードミックスという名前の、セージとオレガノ、セロリetcが入ったのがあったのでつかったが、もちろん本物を使うほうがうまいでしょうね)を適当にぶち込む。塩味はアンチョビペーストでつけてみたが、このあたりは好みでいいのでは。もちろんコショウも程々に。ワタの部分を入れたほうが私は好きだが、ちょっと苦味が出るので、苦手な方は調整を。

程ほどに火が通ったものを、野趣好みの方はサザエの殻に戻し、そうでない方はココットなどにいれ、パン粉で表面を覆い、刻みパセリを散らして3分ほどオーブンで焼き色をつけ、出来上がり。薄く切ったフランスパンをそえて、かなりリッチな気分の前菜になりました。ワタでくどめの味になっているので、ワインはヌフ・ド・パプで決めてみる。子供達が帰省した時のために買っておいたのだが、3週間しか持ちませなんだ。

あとは一緒に買ってきた、一杯240円のカニで、トマトベースのパスタを作ったのだが、もうこの二品で充分になっている自分を発見するのが、ちょっと悲しい。大食い選手権にだって出られそうな時代はあったのにね。

 2002/09/21

英国の大衆紙「センチネル」によれば、ディズニー映画は現在、「白雪姫」の新バージョンを計画中だという。

計画では舞台は19世紀末の香港で、父の死の報に外国から帰ってきた女性主人公が、継母の陰謀に追われて中国本土に逃げ、そこで七人の少林寺僧に守られながら、カンフーの達人になって、継母の陰謀と戦う、というものだそうな。監督は「マトリックス」のカンフー指導で知られている、ユエン・ウーピンの予定。ジョーク報道ではない様子。

 2002/09/20

行政から病院に、「トリアージ研修会」なる集まりの連絡が来た。大規模災害に備える救急医療体制づくりに欠かせない研修内容なので、ぜひ万障繰り合わせて参加されたい、とある。なんとなくフランス語っぽい語感だが、その場に居合わせた同僚たちに意味がわかる人間はいなかった。もちろん私を含めて。そこでこっそりトリアージを検索する。その結果、こういうことであるのが判明。

普通、病院というところは、よっぽど気の利いた受付係がいれば別だが、到着した患者はシリアルに処理されるので、放っておいていいような傷病処置のために、重症者の治療があとまわし、なんてことが起こりがちだ。夜中に救急病院を探した経験のある人なら、「当直医が手術中だ」ということわり文句を聞いたことがあるかもしれない。実際、外科医が当直してもいないのに、連日夕方から朝まで手術しっぱなし、という理由で時間外救急患者をことわるけしからぬ病院もある(と聞く)。

もちろん、ほとんどの場合は緊急事態への対応で、新たな事例まで手が回らないという、やむにやまれぬ理由で断っているのである(と思う)。たとえ軽症例であっても、一度はじめた処置を途中でやめるわけにはいかない。たまたま、後からきた事例のほうが圧倒的に重症であっても、そんなことまでは事前に予知できない。

その点、大規模災害の時は話が違う。傷病者は同時に発生するので、そこで治療の優先順位をきちんとつけないと、医療資源を有効に使うことが出来ない。そんなことは当たり前の話なのだが、普段シリアル処理になれている医療従事者には、ことさらに「トリアージ」などという聞きなれない言葉で、この優先順位決定というプロセスを強調する必要があるのだと思われる。「優先順位決定」というわかりやすい言葉を使わないのは、医療はすべての人にまんべんなく施されるべき、という建前と微妙にずれるからだろう。ちょっと聞きなれない言葉で、機会均等の幻想を守ろうというわけだ。

トリアージのプロトコールには四種類があり、一番目が生命に危機的状態が迫っていて、直ちに治療開始が必要なもので、あと二番目、三番目と緊急性が薄れる。問題は最後の四番目で、上のサイトでは「死亡群」とされ、死んでいるか、明らかに即死状態で蘇生可能性がない、と断定的に書いてあるのだが、実際には一番目と区別するのは難しそうだ。英語サイトをみれば、ここの定義は"Dead or very severely injured and not expected to survive "(死亡、もしくは傷害が重篤で生存が期待できない状態)とされている。蘇生できないというより、もっと主観的なのである。一番目の差し迫った状態と、この状態はほぼ隣り合わせで、それを主観で分ける作業は、かなり厳しい決断力が迫られるものだろう。災害の程度と、医療手段の残存率などを勘案すれば、普通なら真っ先に救急対応すべき人に、四段階目の黒タグをつけなければならない、なんてこともあるかもしれない。

自分の首に黒いタグがかかっているのを想像するのもいやだが、判断する側になるのもかなわない。私ならノー天気にどんどんヘリを呼んで、治療可能な人の分を奪ってしまうか、どうせダメだぜ、と黒タグつけまくるような気もする。結局その場のノリでやるしかなさそうなので、せっかくのご招待なのだが、研修会には行かないことに決定。

 2002/09/19

オランダに、革新的コンセプトの精神科複合治療施設ができたというので、はるばる見学にいくことになった、という夢をみる。

空港から直通モノレールがあるその施設は、遠目には、巨大なUFOが小高い丘に着陸しているように見える。形もユニークだが、その色合いも独特で、G・オキーフの花の絵みたいなのが全面に描かれている。

レセプションの女性に見学の意を告げるが、オランダ人にしては言葉が不自由で、オランダ語以外は出来ないから、そこの電話を取って待機しているボランティアと話してくれという。「日本語」という電話機を取ると、おばさんが出て、「私は話相手になるだけで、施設とは無関係。見学したいなら勝手にやればいいのでは」などという。何のための電話なのかわからないが、なるほどこれこそオランダ流なのかもしれないとも思う。

受付近くのホールは、音楽療法の部屋になっているらしい。参加者はおのおの得意の楽器をもってきて、適当に即興で演奏している様子だ。次々に人がいれかわって、演奏だけは延々とつづけられるという仕組み。その演奏は、シュトックハウゼンとフランク・ザッパのジャムセッションというおもむきで、それなりに音楽的素養がいりそうな、まるっきり出鱈目でもよさそうな、なんともいえないもの。

ホールの外には展示場があって、施設を後援している企業が提供した車がおいてある。メルセデスのE320ワゴンだ。芸術療法コースの人たちが、その車にいろいろな工芸細工をほどこしたとのこと。見てみれば、シートはすべて金ぴかの西陣織、運転席の造作も、書院造りみたいな雰囲気にかえられている。ハンドルなど、渋い竹細工になっていて、窓も雪見障子ふう。ボディもすべて漆ぬりで、見事な金蒔絵が描かれている。中国風とごっちゃになっていないところが立派だ、と妙に感心してしまう。

このあたりで、これは夢だというのに気付き、いったいこういう見たこともないイメージを、自分はどこから参照しているのだろうという疑問に、その夢の中でとらわれる。想像だけにしてはあまりに具体的だしな。具体的だと思っているだけで、本当はつぎはぎイメージしか体験していないのかも、と考えたりもする。

でも、病歴が長そうな分裂病のオランダ人がサックスを吹いているところなんか、決して見たことはないわけで、人は想像だけで具体的イメージをつくりあげることも出来るらしい、という結論にいたって目覚める。

 2002/09/18

一日ずれてしまったが、昨日9月17日はアメリカ合衆国初代皇帝、ノートン一世が即位した由緒ある日であった。

1859年のこの日、彼は自ら「アメリカ合衆国皇帝兼メキシコ国摂政」の戴冠宣言を新聞社に送りつけた。彼はそれまで、不動産業で財をなしたこともあったが、即位の数年前には事業に失敗し、サンフランシスコで極貧の生活を余儀なくされていた。彼の即位宣言は市民に支持され、在郷軍人会は仰々しい飾りのついた軍服をおくり、ちょっとした公的集会には、必ず皇帝御座所が用意されたという。また彼はいつも一口50セントの皇帝債券を持ち歩き、それを臣下たちに売りつけて収入を得て、死ぬまで生活に困ることはなかったばかりでなく、皇帝執務事務所まで維持していた。

彼は時々、新聞を通じて布告を出したが、その中にはかの金門橋の着工を命じるものもあったという。1880年、彼の死に際しては、「皇帝崩御」の見出しが新聞をかざり、その葬儀には一万人の市民が参加した。なお、彼の皇統はその後、誰にも引き継がれていない。

 2002/09/17

さらに例のゲームの話。

あれから必死になって同じシナリオのゲームサーバーにログインし、テロリスト撃滅作戦を展開するが、さっぱりいけません。突入部隊が集結したど真ん中で手榴弾を意味なく自爆させる奴はいるわ、味方の後ろから重機関銃を乱れ打ちするバカがいるわ、どうもアメリカ人というのはかなり知的問題がある奴らが揃っている様子。アメリカ人かどうかは、実際わからないのだが、戦死するとチャット機能が使えるようになり、"shit"と"fuck"ぐらいしか入力できないこちらと比べたら、そこそこ豊穣な会話を交わしているところをみると、そうに違いないと思うのだ。

別のシナリオでやってみようと、二種類ぐらいのサーバーへ入ってみたのだが、やはり事情は変わらない。二次大戦の状況を利用した、橋の突破作戦(パトロールに出た小部隊が、本隊に帰る道筋の橋を、敵に塞がれたという設定。ただし、武器は現在の米軍装備が使える)を、老眼もいとわず必死にやってみたが、チームメートのドン臭さにいささか切れ気味である。がんばって先行し、掩体から狙撃してたりすると、まず間違いなく味方のグレネードでやられてしまう。

しかし、ゴソゴソやっているうちに、戦場での生き残りテクニックというのも、なんとなく判りはじめた。後に続くを信ずとばかりに、真っ先かけて突進する、という態度はいけない。なるべく嫌々ながら、後ろからついていくほうがいい。敵に対して、シビアにアタックする姿勢もだめ。あまりダメージのないような、お義理発砲をしておいて、それでも積極的に迫ってくる敵軍には、そこそこの自衛をする、という態度がいいようだ。なんといっても、一番注意すべきなのは味方のアホ加減だ、というのが今までにえた最大の教訓。挙動の怪しい野郎を決して自分の後ろにつけない、というのはかなり大事。

専守防衛の教えをこめたゲームをただで配るとは、米軍の懐は結構広いではないか、と思ったり。イラクの攻撃には、この教訓を生かしてもらいたいものだが。

 2002/09/16

前にダウンロードしてあった、米軍提供のゲームを久しぶりにやってみる。新兵訓練段階を一気に終えて、石油工場を占拠しているテロリストグループ掃討作戦に参加するシナリオ。

ただ、兵士もテロリストもオンライン参加者なので、さっぱり事情がわからん烏合の衆なのである。米兵側で2回ほどやってみたのだが、まず作戦会議が開かれない。工場になるべく損傷を与えず、敵を排除せよという命令だけである。作戦現場である、工場の見取り図もない。おまけに一人一人の任務分担もない。適当に走り回ってそこいらのドアから飛び込み、あたりかまわず鉄砲撃ちまくるだけである。敵を撃っているのやら、味方を撃っているのやらさえ、判然としない。

二度目など、ドアの外で待機しているだけで撃たれてしまった。どう考えても味方に撃たれたとしか思えない。あれで人質でもいたら、まずこの部隊が来た段階であきらめてもらわにゃいけません。

実際の米軍の作戦行動は、もっと秩序だっているよねぇ?かなり心配である。

 2002/09/15

パニック障害で私の外来に通院している女性が、不安なく電車に乗れるようになったので、もっと積極的に活動したいといって、都心でやっている芸術療法の講習会に通い始めた。この人は10年来電車に乗るのはもちろん、家族と車で出かけるのも困難だったのだ。

こちらとしては、そこまで張り切らず、家族と一緒に遊びに行くとか、自分の楽しみを広げるようにすればいいのではないか、と思わないでもないが、やりたいことやるのに文句つけることもない。講習会というのは、ある大学がやっている市民講座で、例えばサイコドラマとか、絵画療法、音楽療法などを選択して、一般的な知識と一緒に習うようなものらしい。ちゃんとした教科書が準備され、講師もそこそこ知られた専門家ばかりである。

ある精神科医が担当している講義のフリートーク時間に、この女性が、知り合いの家族が悩んでいる引きこもり事例についてたずねた。「どんな風にこういう人たちに接してあげればいいのでしょうか」と、当たり障りなく聞いたつもりだったのが、思わぬ反応が帰ってきたという。講師は烈火のごとく怒りはじめ、自分を何様だと思っている、そういう不遜な態度の人間を養成するためにこの講座があるのではない、あんたには修了認定証なんて出させないからな、と一方的に怒鳴り散らしたかと思うと、かなりの時間をのこして帰ってしまったという。

幸い、その講師の授業はそのときが最後で、レポート提出などもすでに終わっていたので、修了認定をもらうのには影響がなかったのだが、その女性にとってはまるきり訳のわからない体験だった。そりゃそうだろう。優等生的態度のつもりでいたら、口を極めて罵倒されたのだから。「精神科の先生っていうのはああいう人が多いんですか?大体、なんであんなに怒ったんでしょう」と尋ねられたので、ちょっと返答に詰まった。その女性から聞いただけなので、事情はよくわからないのだが、よっぽど機嫌の悪いところに、何か専門家として許しがたいようなものを、その質問と態度に感じたとしか思えない。そう感じたなら、専門家としての自分の理念を示すいいチャンスなのだから、ちゃんと説明すればよいことだ。怒鳴り散らすだけというのは、まともな対応とはいいがたい。

誤解を恐れずに言うと、精神科関連の臨床家が、クライアントに接する動機のほとんどは、「相手に尽くしたい」とか「救いたい」などという崇高なものではなく、純粋な「好奇心」なのである。抜き差しならない状況の、いろんな要素を客観的に眺め、自分なりに把握したいという欲求である。パズルとか、ゲームに取り掛かる感覚に近いものがあるかもしれない。もちろん、奉仕や献身という動機は立派なことである。しかし、それよりも大事なのがこの好奇心であると、少なくとも私は思うし、たいがいの専門家もそう思っている(筈だ)。これがないところで、妙な使命感を振り回しても、まず適切な対応ができるとは思えない。

何が問題なのかを把握しないことには、治療的介入はできないし、そもそも、治療といったってやれることがそうあるわけではない。正直いって、精神医学が提供できるもので実質的意味があるものは薬物療法だけだろう。家族調整だの、カウンセリングだの、そんなもの自分の場合にひきつけてみたって、はたからごちゃごちゃ何かいわれて、トラブルが解決することなんぞあるわけがない。それはもちろん、ある疾患の性質を関係者一同で理解し、先の見通しをつけることで、現在の混乱を整理していくことのきっかけにはなるだろう。治療者がリーダーシップを提供し、関係者のコミュニケーションを回復させるだけで、混乱状況にはかなりの安定が得られるものだし、そういう一時的安定をうまく保つことで、「時が解決する」という効果を引き出せることもある。しょぼいとはいえ一種の権威に身を任せてもらうことで、無駄な努力を重ねさせず、事態がさらに悪化しないようにするわけだ。そうしているうちに、大概のことは、なんとかなるようになるものである。

そこであまり役に立たないのは、善意とか、何らかの道徳的バイアスのかかったおせっかいであって、ましてや知り合いとか友人からの介入というのはまず百害あって一利ない。これが金とか労力なら、提供してもらうのは実にありがたいのだけれども。私たちの場合も、家族とか親戚、友人、利害関係者の系譜につながる患者を自分で見るのは、絶対やってはいけないことになっていて、実際、同僚の家族ぐらいでもまずうまくいかない。私も何度か苦い経験がある。

これは知り合いに精神疾患関連問題で困っている人がいたら、知らん振りをすればいいといってるのではなく、何らかの専門性を発揮するのはやめたほうがいい、ということなのでお間違えなきよう。あくまで友人の立場で、相手を支えてあげるのはいくらでもやればいい。おそらく、先の市民講座講師はそういうところで自己撞着を起こしているのだとおもう。私の考えからすれば、芸術療法というのは、差し当たって手詰まりの状況で、関係者が視点を転じるための一手段であって、決してそれが精神疾患の一部に著効のある、絶対的治療手段であるわけではない。自己表現を極めることで精神疾患が治るなら、中途半端な素人が関わったって仕方がないではないか。ちゃんとした芸術家のもとで、正統的指導を受けるのが一番いいことになる。もちろん、芸術的手段を介して精神的危機を切り抜けた、という人はいっぱいいるわけだが、芸術療法が転機になってそうしたという人は、まず極少数だとおもう。

例の講師は、医師としては何度か素人の見当はずれ介入に腹ふくるる体験があり、一方では建前としての善意による治療共同社会の理念に無批判に乗っかっているのだと思う。そうでなければ、こんな講座の講師なんか引き受けないだろう。そこそこの知識を持って、ボランティアでもやって自分たちの商売を助けてください、でも、図に乗って治療者ヅラまでしちゃ、ちょっと怒ってしまうからね、というのが正直なところだろう。普通なら私のクライアントの質問にも、にっこり笑って「知り合いに助力されたい気持ちは立派ですが、ある種の危険を伴うので、相手の心の支えになることに専念されるべきです」ぐらいのところで誤魔化しておくものだ。自己コントロールも出来ずに怒鳴り散らしてしまうというところで、この人の治療理念というのが、旧態依然たる支配イデオロギーという本音と、民主的助け合いという建前が整理できない混乱したものである、というのがバレてしまうのだ。

くだんの女性には、もうすこし単純化した意見をいったのだが、「医者というのは、素人に口を差し挟まれるのを嫌がるものだ」という、かなり同業者擁護的な一般論として受け取られたようだ。私としては、精神衛生の啓蒙においては、知識以前に、他人の精神的危機に首を突っ込むことの、いささか出歯亀的動機のもつリスクと、そのリスクをあえて犯すことへの責任の自覚を呼び覚ますことを優先すべきではないか、といいたかったのである。

 2002/09/14

ちょっと前まで暑い暑いといっていたのに、急に気温が下がってしまった。私が職場で占拠している小部屋は、サーバーやら自分用やらでPCが数台置いてあるので、いつもエアコンつけっぱなしで25度に設定しているのだが、部屋の外に出たほうが気温が低いと言う妙なことになってしまった。エアコン切れば暑いしなぁ。

「はっぴい・えんど」という昔々のバンドがあって、どの歌だったか忘れたが、「冷房装置の夏が来て、暖房装置の冬が来る*」という歌詞があったような気がする。ほんとにそのまんまの季節の移り変わりだ。昔はこうじゃなかったよな、などと言い出せばジジイになった証。

*調べてみれば、「暖房装置の冬が行くと、冷房装置の夏が来た」だった。ちょっとまずいがこのまま。

 2002/09/13

13日の金曜日なので、何かこれに関連した新しい論文が出ていないかと、Pubmedで探してみるが見つからない。前に紹介したBMJの論文ぐらいで、エッセイっぽいものはいくつか追加されている様子だが、abstractまでは登録されていないので内容がわからないのである。そこで先の論文を参照している論文を調べたところ、次のようなものを見つけた。13日の金曜日とは関係ないのだが。

日本の迷信が退院日と医療費におよぼす影響について」、1998年にやはりBMJに投稿された、京都大学総合診療部の研究者たちによるペーパーである。京大付属病院に92年から3年の間に退院した(死亡退院含まず)患者全員を調査し、いわゆる「大安」と「仏滅」がどのように影響しているのかをまとめたものだ。

それによると、大安に退院した人は、その人数、年齢、入院期間すべてが仏滅退院の人より上で、そのために余計にかかった医療費は、1年あたり約740万円であったという。著者たちは、日柄によって退院日を決めるという俗信が、医療費をつりあげ、病院機能もそこなうとしているが、頭ごなしに否定して、患者側によくない影響を与えぬよう注意すべきだ、という煮えきらぬというか、どっちつかずの結論で締めくくっている。そのため、ちょっとインパクトには欠けるものの、その曖昧模糊さゆえに東洋の神秘がそこはかとなく香る論文になっている。ケッタイな研究が好まれるBMJに投稿したのは、大正解であろう。

こちらの経験では、いい日に退院したいからと、むしろ入院が短縮されることもあるわけで、そんなに延びるばっかりなのかなぁと思うのだが、これはやはり大学病院の権威という奴の故だろう。診療科の違いもあるだろうし。こちらは退院したい人に、まだダメといってることのほうが多いのだから。

著者たちはさらに学究の日々を極めているらしく、次はこんな研究の計画があるらしい。その作業仮説は「(健康に不安を自覚する)患者群では、(健康に不安を自覚しない)患者群にくらべて、退院日変更を希望する頻度が高い」というものらしいが、調子が悪くて入院したのに、健康不安がとれないまま、さあ退院といわれたら誰だってもうちょっと入院していたい、というのではないだろうか。わざわざ調査研究せにゃならんことかいな、というのは学術的権威に無縁な市井の人間の僻みかも。

 2002/09/12

9月11日、ジョージア州サバンナ発−酔って妻と喧嘩したドナルド・チェイス(56)は、二階の部屋で床に向けて拳銃を発射した。弾丸はじゅうたんと床を貫通し、階下の台所にいた妻(55)の頭を打ち抜いた。

チェイスは32年間連れ添った妻を殺害したとして、昨年の9月から裁判が進行中である。この事件は当初、明らかな自殺と報じられたが、警察はチェイスを殺人で告発した。

チェイスの弁護士は、これは事故であると主張している。しかし検察官は、カーペットと厚めの床と天井材越しであろうと、チェイスは妻を殺す目的で発砲したのだという。

「頭の真ん中を打ち抜いていたって?」チェイスが捜査官にそう尋ねているビデオが、陪審員に先日公開された。「そんなことが起こる確率はどのぐらいだい?」ビデオの中で、警察官はこう答えていた。「まずありえないね。あんたがそうしようと思って撃ったって、無理だと思うよ」

チェイスは事件のとき泥酔していたと主張し、警察は15本もの酒の空き瓶が台所に転がっていたのを確認している。「女房は家を出て行ったと思ってたんだ。階下で死体を発見して、なんで女房がそこにいるのかわからなかった」

「たしかに俺は女房を殺したんだと思うよ。でも俺の責任だと思う人はいないんじゃないかな」ビデオでチェイスはこう語っている。

以上、こちらの記事から。銃規制の問題に単純化するのはなんだが、酔っ払って家の中で鉄砲ぶっ放せば、何かまずい事態が起こるであろうことぐらいは、わきまえるべきだと思いますな。ま、運の悪い人はいるもので。

 2002/09/11

9・11だからと言うことで、なにか気の効いたことでも言うべきだと思うのだが、あの圧倒的事実を前にするとなにも言えなくなる。もちろん、もっと多くの無辜の死が、米国の正義の名の元に強いられてきたのだ、というのもまた事実。何かの政治的立場に立てば、こうしたジレンマなど無視できるのだろうが、そうすることが出来ないのが単なる一大衆の立場である。

今この瞬間に人生を終えることを迫られる状況などを、グラスの底の物語として自分にせまってみるのも、この時代に生き延びる人間の責務なのかなぁ、なんて思いながら酔いつぶれてみるしかないのか。

 2002/09/10

Medscapeという医師向けサイトがあり、自分の専門領域を登録しておくと、関連した学会報告とか、雑誌の記事や論文をまとめた紹介文とリンクをほぼ日がわりで掲載したページの閲覧ができるという、まことに痒いところに手の届くサービスを受けられたのだ。しかも無料で。

ところが昨年8月から、このサイトには直接アクセスできなくなった。日本からアクセスしようとすると、ある日本企業のページに飛んでしまい、そこで別個に登録を迫られるのである。その日本企業が医師向けのポータルをやっていて、あきれたことにそのコンテンツのかなり重要なもののひとつが、この米国無料サイトへのリンクなのだ。米国のプロキシ経由でアクセスしたらいいかと、anonymizerなんかをかましてみるが、それではログイン情報がうまく送れない仕組みになっているようだ。

むこうも金がいるので、日本での翻訳権などで商売しようとしているのだろうが、かなり以前からの利用者にたいしてあまりの仕打ちであるし、日本企業側の安易で無礼なやり口には腹がたつばかりである。やたらに細々したことの入力をせまる、その日本企業サイトへの登録などしたくもないので、一年利用せずに来たのだが、検索などでそこのレヴューなどが結構引っかかるのである。Google経由でそのページだけは閲覧できるが、ほかに飛ぼうとするとまたもや例の日本企業サイトに逆戻りである。

公開が原則のネットで、ある国の利用者だけが妙な制限をうけるという、こんなやり方は違反だと思うのだが、どこに文句を言うべきか。こういう場合の直接アクセスの方法、誰か知りませんか?

 2002/09/09

「天才と分裂病の進化論」 (著:デイビッド・ホロビン 訳:金沢泰子 新潮社)

小ぶりの啓蒙書なのに、読み通すのにえらく苦労した。ほとんど一ヶ月以上かかったのではないか。アルタミラの洞窟画発見のいきさつで書き出され、続いて遺伝子の作用メカニズムの解説、そして人類と類人猿との本質的差は、脂質取り込み能力にある、という洞察の開陳、続いて神経細胞の神秘的なまでに高度な「設計」について話はすすんでいく。そういうスイッチバック進行構成をとっているのは、もちろん著者の思い入れがあるのだが、私のように凡庸な読者には、ついていくのがかなりツラいのである。

どうやら、アルタミラの洞窟画をかいた現生人種の先祖と現代人には、芸術的なレベルの了解が可能なほどの同質性があり、それ以前の旧人種とは厳然たる差があること、そしてその差は脂質代謝の突然変異−脂質取り込みと蓄積能力の飛躍的増大−が生んだというのが著者の主張のようだ。よくあいまいに語られる、共同で狩りをする生活が進化圧となって今日の人類の礎となったなどという意見に、新ダーウィン主義の原則論に、いささかの神託的着想を加わえて反駁する立場とでも言えばいいだろうか。

そして、ここがいちばん受け入れるべきかどうかで考え込んでしまうところなのだが、そのような脂質代謝の突然変異は、人類に分裂病をもたらした遺伝子変異によって成し遂げられた、と言うのがこの本の主張の最たるものである。人類は、分裂病を抱え込むことで、文化文明の獲得という、他の種には成し遂げられなかった成功を得たのだと。

そこで圧倒的な知能の差と、抽象的象徴化能力の獲得、進取の気勢、他者を出し抜き打ち破ろうとする競争意識のようなものが脂質代謝の突然変異からきたというのはいいとして、なんでそれが分裂病の遺伝子と同じものだ、という認識になるのかが不思議。それは著者が臨床家として患者と接してきて得られた洞察だ、というのだがこれがわからない。

一時、分裂病の家族研究というのがはやり、"schizogenic mother"などという露骨な言葉があったほどで、「家族が分裂病をつくる」という見方が蔓延したことがある。著者はそれに対して心理学派の害毒として一蹴しているが、あれはそもそも、精神科医療従事者が分裂病者の家族に対して持つ、独特の印象をその根拠にしたもので、別にフロイトがそういう方向を出したわけではない。この著者にしても、全く同じような印象を持っていると思われるわけで、それをこの人は遺伝子をその根拠にして、かつ社会階層の高さ、能力の高さという、ポジティブな面をもっぱら評価しているわけである。

ただし、私は全くそういう印象をもっていない。たしかに、独自の自己表現をする家族成員が多いのは認めるが、それがそのまま社会的成功につながっている、とはいいがたい。社会的弱者ばっかりだとも思わないが、強いて言えば、どんな階層にも分裂病は平等に発症していて、その家族は周囲の馴れ合いに染まらない、独自性が目立つ特徴を備えていることが多い、というところだろう。この著者は学者としての成功を得てから臨床家になった人のようで、それが患者のバックグラウンドを、「高い社会階層」とみてしまうバイアスを生んでいるのだとおもう。

著者がちょっとづつ繰り返していることをまとめると、たぶんこんな風になるのだろう。脂質代謝の突然変異によって、現生人類は飛躍的に高い知能と身体統御能力を得たのだが、それにかかわる遺伝子は複数以上あり、全部揃ってしまうと分裂病になる確率が高く、少数だとソシオパチーや性格障害者、もしくは卓越した能力をもつ異能者になる傾向がある。分裂病遺伝子が揃ってしまっても、ある種の不飽和脂肪酸が充分供給されるような条件では、彼らは発病しないか、宗教芸術的才能などを開花させる程度になり、「創造的狂気」の範疇におさまる。そうした不飽和脂肪酸の投与は、副作用のほとんどない、あたらしい薬物療法の糸口になりえる。

「創造的狂気」なんて、無責任な文化人の思い込みだと思っている私にすれば、とても受け入れられるものではないのだが、治療的な指針がちゃんとあるので、どうのこうの言うことはない。役に立つなら何でも取り入れるのが、私らの立場なのだから。そう思って、この人の紹介している不飽和脂肪酸を治療に取り入れる論文を調べてみれば、なんかそれなりに最近のトピックになっている様子である。

さいわい、この脂肪酸は高脂血症用剤として日常的に使われる薬剤で、しかも長期入院している人には高脂血症はなんぼでも見つかり、保険病名にも困らない。バタバタと病棟ひとまわりして、この薬を処方しまくるという、珍しくも具体的行動指針を与えてくれる本となった。放り出さずに行きつ戻りつしながら読んだかいがあった、というものである。本当に効けばいいのだけれどね。

あ、それとこの著者はなかなかの事業家みたいで、「気分と頭がよくなるヨーグルト」みたいなものを作る(あるいはノウハウを提供している)会社を経営しているらしい。ドクター中松がちょっと入った人なのかな。

 2002/09/08

サッカー観戦のあと、葬式に行かない理由づくりもかねて、同行者たちとガンガン飲んでしまい、意図どおり半死半生となって覚醒。おきぬけのミネラルウォーターが滅茶苦茶うまい。最近ガス入りミネラルウォーターを飲むようになり、これがまたよろしい。ビールを飲むときの快感の9割はこれで得られることを見出した。今後ビールはまず飲まない、ということはない。

実のところ、サッカー観戦は初めてだったのだが、当初はサポーターたちの異様なテンションにやや圧倒され、党派の政治集会に間違ってきてしまったノンポリ風のビビリが入ってしまったものの、しだいに雰囲気にもなれて結構楽しめた。試合そのものはひどいもので、双方4人も退場者はでるわ、お互いチャンスはほとんど生かせないわで、結局引き分け。こちらにもう少し地元チームに思い入れがあれば、試合後に暴動を組織してもいい気分。多分、サッカーというのはそういうことも含めた「文化」なのかもな、なんて自己正当化してみたりして。

9/4に書いたNetscapeの略号の件で、掲示板とメールで多数の方からNCとかNNと略す理由を教えていただいた。ここで改めて御礼を申し上げる。私としてはNets Cape=ネットの岬というのが、なかなかいいイメージだったんだけれど。このアイコンに、灯台が使われていた理由まで発見したつもりでいたのだが。

 2002/09/07

こちらですでに書いたのだけれど、参議院議員の今井澄氏が亡くなられ、明日はその葬式なのだ。私は学生時代この人には散々世話になり、具体的にいえば、いやというほどタダ酒を飲ませてもらったので、義理からいえば葬式に出るべきなのだが、彼の政治活動や医療改革運動で一緒に活動していたような立派な方々があふれるであろう葬儀会場に、単なるタカリ人間が加わるのも場違いであるような気がする。その上、なんと今夜こちらのサッカー場で開かれる、Jリーグの切符を持っていることを思い出してしまったしなぁ。朝一番で出るのがきつそう。

というわけで、礼節を重んじる方からみれば、ふざけ果てた理由で不義理を決め込むことに。遠き地より、一心に冥福を祈っております。田中康夫にあうチャンスであるかもってとこで、まだ迷いはあるんだけど。不義理に対抗する理屈がミーハー趣味かいな。

 2002/09/06

9月1日づけのワシントンポスト紙によれば、「精神疾患の診断・統計マニュアル第4版」(DSM-IV)を改訂作業中の米国精神医学会(APA)の作業部会は、今までとは全く違う概念にもとづく疾患分類を今度のDSM-Vに加えることを検討しているという。新聞記事で読んだだけで、肝腎のAPAの発表とか公表されている議論の中で確認していないのだけれど、内容はこういうことらしい。

新しい診断分類カテゴリィは「関係性障害」(Relational Disorders)と呼ばれ、疾患というものが伝統的にある個人に帰属するものであったのに対して、この診断は家族などの、ある一定の人間集団に下されるというのが根本的に違う。個人としては全く精神的健康に問題がないのに、ある人間関係、夫婦とか親子の間では、精神状態が不安定になる人々が以前から問題になっており、それに対応するものだという。(私はそんな例に遭遇したことはないけどね。個人的な問題を抱えているから、関係の中で問題が起こるという常識的な例ばかり)

現在のDSM-IVでも、Vコード分類枠というのがあって、そこに「対人関係の問題」(Relational Problems)というのが入れられている。疾患としては扱わないが、医学的関与の対象になることはあるという認識で、このジャンルにはほかに、虐待だとかいじめとか、反社会的行動や学業成績の問題などが含まれている。たぶんDSM-Vでは、このRelational Problemsを疾患に格上げするつもりなのだろう。そうすることによって、より体系的な研究や、薬物治療への保険適応がすすむことを期待しているらしい。

個人の問題と人間関係の問題は切り離せないものだと、誰でも思うし、実際そうであることは間違いない。身体疾患だって家族関係のまずいところでは、療養するのもきついだろうし、寝込んでいる人を抱えた家族にはそれなりの屈折が出てくるだろう。医療者の理解と援助が必要になるのは当然だといえ、ことさらに障害された関係そのものを疾患とみなすことに、何のメリットがあるのかちょっと理解しがたい。元の新聞記事も、もっぱら辛らつな批判を多く取り上げることで、DSMの当てはめ主義をからかうニュアンスが、かなり含まれているように読める。

明示的ではないものの、DSMの狙いの主なものに、診断を統一化することで、それの原因となっている身体的問題、主要には遺伝子パターンとの統計的関連性を見出そうというのがある。遺伝子パターンの特定をいくらやっても、肝腎のDSM診断基準のほうが、ここまで羅列的で便宜的なのだから、双方の特異的関連性などまず見つからないだろうと私は思うし、まして関係性障害なんてあいまいな規定を持ち込んでも、ボケた医者が、人間関係のよしあしまで遺伝子で決定されている、などと思い込むのがせいぜいだろう。たしかに気のあわない奴というのはいますがねぇ。だからといって、どうしようもないわけで。

 2002/09/05

DVDの一大ライブラリを所有している同僚が、「ダークエンジェルII コレクターズBOX1」を発売直後に買っていたので、早速借りて帰り、一気に視聴。もちろん、まともにみれば9時間かかるので、くだくだしいところはすべて早送りである。

いまTVで流されているシリーズの続編で、ドラマは一般に、話が長期化すると必ず内容がインフレ化する、という定番がきちんと踏まえられている。遺伝子操作によって超常的能力をもつ主人公が、軍施設から脱走し、仲間を探しながら、執拗に行方を追う特殊部隊や、社会悪と戦うという基本構図は同じであるものの、主人公の遺伝子構造がかなり特別であるようなことがほのめかされ、ほかにもいっぱい遺伝子操作キャラがでるようになり、なんとなく見世物小屋というか、衛生博覧会仕立ての様相である。敵のほうも軍部の陰謀部隊というのから、人類史的伝統のあるオカルトがかりの謀略組織みたいなものに変わりつつある。X-ファイル風味が加えられているわけ。FOXだからかね。

何よりも一作目ではちょっとした彩りに使われていただけの、主人公とそれを助ける富豪正義漢、アイズ・オンリーとのロマンスにかなり力点が置かれている。しかも主人公にはアイズ・ オンリーだけに効果がでるウイルスが仕込まれていて、手も触れられないという設定が加わっているので、近未来SF風アクションというよりは、「君の名は」みたいなすれ違いメロドラマをみているような感覚にとらわれる。

前シリーズでは、遺伝子操作兵士仲間のザックが、もうひとつぱっとしない役者で、ルックスといい情けなさといい、なんか体操の池谷を思い出して、でてくるたびにブーイングものだったが、さすが製作者もそれを感じていたらしく、前シリーズ最後であっさり死んでくれていた。ところが今回、「人造人間キカイダー」みたいな姿で復活してくるのである。すぐに何とか消えてはくれたのだが、また出て来る含みがあるのがウザい。

新キャラとしては、第10話にでてきた、明らかに故ナンシー関をヒントにしたとおもえる、IT系ジェネリック、オタクのブレインが秀逸であった。その能力があまりに過剰に設定されているので、こりゃ長生きしないな、とみていれば案の定1エピソードだけで退場。レギュラーにしてやればいいのに。

駆け足視聴ながら、一晩けっこう楽しめた。9月下旬にはこれの続編が発売されるとのこと。所有権など無視して、また一番乗りで見させてもらおう。

 2002/09/04

先月のサイト改装にともなって、CSSやJavascriptsへの対応がブラウザによってまちまちで困る話を書いたとき、私はそう考えもせずNetscapeをNSと略していたが、これは一般的でないみたいだ。

どうもNCというのがふつうらしい。しかし、何故にNCなのだ。私はNetscape=Net+scapeで、ネット眺望というような意味合いなのだと思っていたのに、NCというからにはNets+capeということになる。ネットの岬とか、ネットの茎ってな意味なのかいな。

NNと略されている時もあるが、これはますますわからん。Netscape社のNetscapeっていうことか?いまもなお、当サイト訪問者の過半数を超えるNetscapeユーザーのかた、こっそり教えてくださいな。

 2002/09/03

すでにあちこちのサイトでネタにされているが、オーストラリアの国勢調査で自分の信教を「ジェダイの騎士」と書いた人が7万人に及んだとの事。「ジェダイの騎士」が宗教ということになるのかな、やはり「フォース」を信じているというほうが収まりがいいのでは、と思わないでもないが、それでは宗教名にならんか。

病院というところでは、受け持ち患者が亡くなるとか、当直時にご臨終があったりすると、葬儀屋さんが遺体を搬送する際に「お見送り」という儀式にでる義務が生じる。薬石効なく、力及ばずして鬼籍に入られた患者さんへの、医療者としての最後の誠意を示すわけである。

最近これをちゃんとやろうという経営者の呼びかけで、霊安室を出る前に、受け持ち看護婦と主治医が線香をあげるということになった。私は誠意を示すのはやぶさかではないものの、身内の葬式に来ているのではないのだから、なんらかの宗教儀式みたいな事を強いられるのはいやなので、「自らの宗教上の信念から、黙祷するだけにさせていただきます」と、これをせずに通している。

これに対して「あんたの宗教上の信念ってなんなんだ?」とたずねられて、面倒なので「アレフの正悟師なもので」と冗談めかして言ったところ、それ以後周囲の視線がまるきり違ってしまった。どうもアレフ関係は冗談にはそぐわぬ様子。何とかリカバリを図ろうと、職員食堂でまずそうな豚肉料理が出たら「イスラム教に改宗したのでこれは食わない」、などと公言したりするんだが、冷ややかな視線は変わらない。誰かこの手のつまらぬ冗談を、チャラにする秘策を知っている人いませんかね。

 2002/09/02

フロリダの病院で、心臓の検査を予約していた男性が、肥満を理由に検査を拒否された。

プレストン・バーギン(52)は、8月29日にオーモンドビーチ記念病院で心カテーテル検査の予約をしていたが、検査用ベッドが彼を支えきれないという理由で家に返された。

「とても不満です」、バーギン氏はいう。「病院が満足なベッドも買えないなんて話がありますか」。

彼は胸部痛が続いていて、狭心症ではないかと考えていた。自宅から二番目に近い病院では、保険の関係でよけいな出費がかかるのため、利用できなかったのだ。

オーモンドビーチ記念病院の関係者は、検査拒否は患者自身のためだと説明する。「今の検査ベッドは彼の体重を支えられないので、安全を考慮して検査を行わないことにしたのです」。この病院は、もっと重い患者でも支えられるベッドの買い替えを検討中とのこと。

以上、こちらからの抄訳。

わざとバーギン氏の体重を書かなかったが、それがそんなに大したことがないのだ。326ポンドというから、147Kg、相撲取りでも重量級の部類には入るだろうが、小錦の半分をちょっと越える程度。大デブには事欠かぬアメリカで、この程度の体重で検査をしないといってたら、みる患者がいなくなってしまうのではないだろうか。たぶん実情は、皮下脂肪たっぷりで血管確保する自信がなかったということではないか、と思うのだが違うかしら。

案外、病院の言うとおりで、300ポンドまでしか支えられないベッドに26ポンドオーバーの患者を寝かせて、もし検査中にベッドが壊れて大騒ぎ、ということにでもなったら訴訟が怖い、と言うところなのかも。このニュースの取り上げられ方の、裏にあるニュアンスというものがもう一つ判らないのが残念。

 2002/09/01

今日は「防災の日」。二百十日であり、関東大震災の起こった日でもある。ことしも防災演習が開かれるのだろうか。小泉首相は、また作業服にゴム長をはいて会場に現れるのか、ちょっと興味がある。

地震というと「地底の大鯰があばれて引き起こす」という伝承が有名だ。それが生じた根拠を合理的に説明するのは困難だろうが、「トレマーズ」なんて映画を見れば、地中にグニャラグニャラしたものがいて、それが暴れまくるというイメージは、洋の東西を問わず、根源的にあるものなのかな、などと思ったりする。

1855年に安政の大地震というのがあり、それ以後、江戸を中心に「鯰絵」という浮世絵がはやったそうだ。地震よけのおまじないだったというが、その風刺性を嫌った幕府に禁止されながら、多くの種類がでまわった。C・アウエハントというオランダの日本学者が「鯰絵 民俗的想像力の世界」という本を出していて、これがめっぽう面白い。けっこう分厚い学術書(値段もバカ高)だが、図版が多いのですぐ読める、という利点がある。

それに収録されている鯰絵は、例えば鹿島大明神に懲らしめられているようなものもあるのだが、むしろ大半は鯰を一種のヒーローとして描いているのである。鯰自身が黄金を人々に配っていたり、金持ちから、金を搾り取っていたりする図柄が目立つ。金=糞便という、精神分析的象徴が使われているのも面白いのだが、それはまた別の話。当時の一般市民にしてみれば、地震は災厄であるとはいえ、資産などないに等しい立場からは、貧富の差や社会的不公平をチャラにしてくれるいい機会でもあったわけだ。もちろん、そういう側面でも強調しないと、当時の人々の地震への恐怖は鎮められなかったんだろうけれど。

そうした視点からの地震対策ってのは、どこかでやっているんでしょうかね。被害予測で気分を滅入らすだけでなく、より積極的な地震活用計画をたてるのは必要だとおもいますが。プロジェクト・キャットフィッシュ、名前はこれで行こう。


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