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更新日記

こちらも時々書いてます。




 2003/05/31

ジロ・デ・イタリアは最後の山岳ステージを終えたなんて書いたが、昨日のコースは、はじめ200kmはずっとまっ平らなのに、最後の40Km で1000m近く登るという妙な設定であったのを見逃しておりましたわ。なんとなく、パンターニあたりを勝たせたい設定なんだと感じるものの、それ以上にシモーニにも有利なので、果たせるかな、シモーニへのボーナスステージになってしまった。いや、それがいかんといってるわけではないけど。

こんな風に書いておけば、サッカー日本代表のこととかはなかったことになりますよね。阪神が大逆転したりするので、ほかの分野では不吉なことしか起こらないのではないか、なんて思えてしまうんですけど。天変地異、大丈夫かしら。

それ以上に、今日で5月が終わりだよ。原稿締め切りは結局アウト。書き上げる努力よりも、出来ない言い訳を考えるばっかりになるのが情けないですな。あとちょっとではあるんですが。

 2003/05/30

ジロ・デ・イタリアも残すところあと3ステージ。きのう最後の山岳ステージをおえ、マリアローザのG・シモーニが着実にタイムを稼いだので、残りのコース設定からすればまずこれで決まりだろう。展開に今ひとつ華がなくていかんなぁ。あとはいよいよツールを待つのみ、CATVでの放映予定はどうなっているんだとおもって番組表をみてビックリ、なんと明日からジロの録画中継が始まるのである。

そういえば去年もこんな風だったなあ。ジロ放映のあと、ツール・ド・スイスをまた少しずらして放送し、7月のツール・ド・フランスにつなごうという目論見らしいのである。そんなことして雰囲気盛り上げるようなことしなくても(大体、盛り上がるわけがない)、自転車レースなんか見る連中はどうせ見るんだから、もうちょっと速報性ということを考えてもいいんじゃないかね。

まあ、二日目の進路妨害事件とか、その後の選手間の殴り合いとか、確認したいことも数多いので、ちらほら見ることにはなるんですが。

 2003/05/29

一昨年前に職場を変わってから、しばらく措置入院関連の精神鑑定をやっていなかった。今までのところだと、精神保健指定医であれば措置鑑定依頼が来たのだが、この県ではなぜか、前もって嘱託医登録されていないとその仕事が回ってこない。もちろん、そんなものめんどくさいだけなので、やらなくてもいいのはラッキーそのもの。県のほうでは鑑定医を見つけるのに四苦八苦するくせに、何を間抜けなローカルルールを作っているのだ、とほくそえんでいたのであった。

ところがいつまでもとぼけている訳にはいかなくなり、この春から嘱託医登録されてしまった。さっそく何例か鑑定させられたのだけれど、今日なんと「鑑定料」が振り込まれてきたのであった。たいした額ではないけれど。前にも民事の鑑定をやったら、こちらはかなりの額が振り込まれ、気分は「縞の財布に五十両」であった。10分の1以下とはいえ、普通の措置鑑定でもらえるとは。今まで勤務したところでは、病院がかすめていやがったらしい。そりゃ、病院の業務にのっかってやってるんだから、個人収入にするのはおかしいと思ったんでしょうな。

これは精神科医として、新しい営業形態を考えたほうがいいかも知れん。鑑定だけならあとの治療にかかわる必要もなく、楽でいいじゃないか。鑑定専門の開業っていうのは、たぶん医療法でも規制されないのではないかな。オフィスを開いて鑑定を一手に引き受ければ、ちょっとした商売になるかも。

オフィスの名前は「明智鑑定事務所」。別に明智さんはいないんだけど。

 2003/05/28

今年の直木賞候補に選ばれたものの、「ミステリとしての致命的欠陥」を指摘されて落選した横山秀夫の「半落ち」なる推理小説をめぐって、論争が(といっても、作者の横山と直木賞選考委員会の間のことだけど)起こっているそうだ。今日の毎日夕刊にその経緯の一部が載っているが、逆切れした横山が直木賞拒否宣言みたいなのを出したため、委員会側がなだめにかかっているような図であるようだ。

この小説は部分的に立ち読みしただけ。いわゆる犯人探しのミステリではなく、アルツハイマーの妻を殺した刑事が、自首するまでの二日間の行動をどうしても供述しないため、その謎を解くという警察小説の趣向になっている。

二日間何してようがいいじゃないか、なんでバカみたいに必死に捜査するのかというと、捜査員たちの熱意というのは、身内が起こした犯罪でつぶされた警察の「メンツ」を守るということにひたすらかかっているわけ。組織防衛の論理だけですすむ話で、しかもそれに対する疑問も批判も全くないという物件。気色悪くて、とてもまともに読み進む気にはなりまへなんだ。

選考委員が指摘した欠陥はもっと別なことだったらしいが、私にはこういう特殊なムラの論理の正当化話を書いて、それがエンターテインメントになると思っている作家に、いささかあきれ果てた。田舎新聞の記者だったらしいが、オマワリとつるんでせこい正義感を振り回わす記事を書いていたに違いない履歴まで想像されて、数日気分が悪かった。

警察批判でないといけないというわけじゃないけどね、面白い警察小説というのは、まずその組織の論理に対する批判性が保たれているものだ。これが多少なりとも売れたという事実に、社会全体の閉塞性を見る思い。

 2003/05/27

メインではないほうの職場で、別法人の特別養護老人ホームの回診を時々手伝っている。ここで最近「疥癬」が蔓延しかけている。皮膚科の専門医も嘱託になっていて、私の出番はないことになっているのだけれど、どう見てもこの専門医の見立てに問題があると思われるのだ。

というのは、その専門医は患部から虫体ないし卵が発見されない限り疥癬とは診断せず、湿疹だとして、もっぱらステロイド剤ばっかり処方するのである。私の乏しい知識では、疥癬患者から運良く虫体が検出される率は1割ぐらいのはずなんだけど。どんどん病変が進んでくれば、さすがに診断は変わるみたいだが。

前にもメインの職場にパートできた若い研修医が同じようなタイプだったので、疥癬の疑いがあるときは皮膚科に依頼するなと指示して蔓延を防いだことがある。でもそうすると、皮膚病変みるようなつまらん仕事(精神科医というのは、基本的に身体なんか見たくもないのです)がふえて大変なんだよね。

それに、全身に疥癬病変が広がっている、ノルウェー疥癬と呼ばれる状態の人も一人いて、そちらには漫然とオイラックス塗布だけが指示されている。ビランがかなり広がってるので、あれでは全身火傷と同じことになってしまって、生命の危険もあるように見える。今は経口の特効薬も手に入るので、私ならそれを使いながら、短期的にステロイド使用でビランに対処するだろうな、と思う。細菌感染もおこっている様子なので、抗生剤投与も必要だろう。

ところがこちらはお手伝いさんみたいな立場なので、イニシアティブがとれず、「これではまずいように思うけどね」といえるだけ。一応ホームの責任者に、いまの処置を続けていてもたぶん蔓延はおさまらないし、重症者には生命の危険があると思うと伝えるが、明らかに迷惑がられた。

経口剤というのも疥癬には保険適用がないので、自費ということになり、ホーム側で責任を持ちたくないのである。専門医がかかわっているのだから、そちらの判断でやってもらえばいいという責任転嫁になる。管理義務と責任のないところで変に自己主張してみても仕方ないので、ご勝手にというしかない。自分にまで感染してはかなわんので、さっさと帰ることにした。

私自身、何が何でも延命するのが善という立場には立たないのだが、それでも人生の終わりが全身かきむしりのカイカイ地獄であるのはいやだなと思う。こんなこと書いていると、なんと無責任な態度だと思われるだろうが、この手のせこいセクショナリズムというものを、部外者が打ち破る方法というのは、ホントないものなんですよ。

 2003/05/26

一晩コンコンと眠って、今朝は爽快な目覚め。普段はちょっとしたきっかけで、体力低下を思い知り、歳食ったなと情けなくなることが圧倒的に多いのだけれども、いまだこの一晩寝たら疲れがとれると言うところだけは、なんとか維持されているのは有難いところ。

仕事のほうはいい加減にごまかし、悪評芬々の文章直し。半分ほどは出来たのだけれど、めんどくさそうなのは後回ししているので、これからが山といってもいい。データを初めから調べなおしせにゃならんのも、結構あるしね。今月いっぱいでまとまるだろうか。まとまってもどうせ評判悪いけど。

 2003/05/25

何とか帰ってきたものの、疲労困憊で、一昼夜ほうっておかれてふてくされた猫のご機嫌取りをするのもめんどくさい。文章考えるどころではありません。とにかく早寝、早寝。

 2003/05/23

結論を変えたというほどではないまでも、かなり表現を簡略化した例。当然「ですます」化の一例。なお、土日は親族の結婚式に出ねばならず、二日間更新はお休み。
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「人体実験」伝説

 こんな質問メールをいただいたことがあります。「731部隊のやった人体実験は、倫理性を別にすれば、体系的でかなりの成果があった。戦後になって、731部隊から流れたデータが出所不明のまま脚光を浴びたことがあり、アメリカもこのデータを欲しがったというが、本当だろうか」というもの。

 この噂話に典型的なように、「人命尊重のタブーがなければ価値のある医学実験ができる」という見方が世の中にはあります。医者というのは、機会があれば人体実験がやりたくて仕方なく、それが戦時にああいう行為になって現れたのだと。でもそれは本当でしょうか。

 もちろん、731部隊の存在や、それが行った数々の残虐行為自体を否定しているのではありません。731部隊は「関東軍防疫給水隊」という正式名称が示すように、衛生環境が悪い地域に展開する部隊への水補給部隊から発して、細菌兵器や化学兵器への対応の研究、ひいてはそうした兵器自体の開発を行った実在の組織です。兵器の開発過程で、その効果実証のために捕虜や政治犯などを対象にした人体実験が数多く行なわれ、そこで殺された人は万単位に上るとも言われます。

 兵器としての有効性を確かめるためには、動物実験だけでは不足で、人間に効果があるのかどうかを確かめるのは必須でしょうし、そのための体系的研究が行われたのは確実でしょう。私が伝説だと思うのは「残虐な人体実験が、学問的価値のある発見を多く生み出した」という部分。軍事だって学問の対象だと言えばそのとおりで、細菌学や薬理学の知識は適切な医学実践の前提にもなれば、効率的殺人法開発にも役立ちます。ここではごく普通の、一般的治療を意図した医学分野について考えています。

 科学的実験研究はふつう、観察実験と介入実験にわけられます。観察実験は色々な事象を観察し、その内部関連を知ろうとするもの。子供の時、庭にヘチマの種を植えてその生育を観察した人は、立派な観察実験をしていたわけです。しかしヘチマの生育観察をいくら精密にやっても、「茎の中を水が重力に反して輸送される」という事実は発見できません。茎をちょん切るという操作が、それを可能にするわけ。

 いつも葉っぱがみずみずしいという観察が、茎の中の水輸送仮説を生み、介入の根拠になります。つまり、介入実験は観察実験から導かれるもので、充分な観察のもとに得られた仮説のない介入をいくらやっても、自然過程のかく乱が加わるばかりで、よほどの偶然でもない限り、何かの結論を得られることなどないのです。子供のころ、小動物とか昆虫とかを捕まえて尻尾をちょん切るとか、身体を切り刻むような残酷な遊びをした覚えのある人は多いでしょう。あの「介入」で、なにか具体的な科学知識を得た人はいるでしょうか。

 ナチスの収容所で、ユダヤ人の子供に対して、性腺などの内分泌器官を切除する実験がされたのは有名ですが、それで何がわかるでしょうか。その影響を見るためには、長期にわたる生育過程の追跡が必要です。栄養も不充分な収容所で短期間観察しても何にもならない。研究に名を借りて残虐なことをしただけの話です。

 昔、TV番組で731部隊の責任者であったI氏の電話インタビューを聞きました。彼の弁明は「あそこで私がやっていたのは生理学研究だ。冷たい水の中に立つ水鳥の足がなぜ凍えないのかという興味があったので、凍傷対策を求めていた軍から研究の場所が与えられた」というものでした。

 731部隊を告発する立場からは、そこで行われていた捕虜に対する凍傷実験が例に挙げられています。真冬の川の中に捕虜達は縛られて一晩中立たされ、凍傷の程度と気温水温との関連のデータを取ったのだそうです。捕虜達はみな重度の凍傷になり、そのまま命を落とすか、半死半生のまま、解剖された人もいたのだと。石井氏の言う「水鳥の足」の研究とは、えらく雰囲気が違います。

 それみろ、凍傷予防の研究といっても、そんな残虐なものなのだ、それが医学研究の本質だと非難する人もいるでしょう。でも、ちょっと考えていただきたいのですが、人を死ぬまで冷たい水につけておくことが、凍傷研究になるでしょうか。凍傷が原因もわからぬ謎の傷害ならいざ知らず、とっくの昔に、原因も、その発症過程も、すべて判っているのです。捕虜たちを虐待すること以外、何の目的があるといえるでしょう。新しい予防法や治療法の実験というならわかります。しかし、731部隊が水鳥の足からヒントを得たような凍傷予防法を開発していたという話は全く聞きません。

 戦争が近代医学の発展に大きく寄与したというのは、まぎれもない事実です。現在の救急医療体制は、野戦病院がモデルになっています。精神医学なんか関係ないと思われるでしょうが、閉鎖的病院治療から、地域での開放的処遇をメインにする近年の流れは、戦場における戦争神経症治療の経験が大きいのです。もちろん、それらは戦争という極限状態の中で、少しでも生命を救おうという使命感から行われたことです。特殊状況を利用して、自分の残虐趣味を満足させた連中の「研究」などが、医学やひいては科学一般の中で何らかの役割を果たす事などなかったし、これからもないだろうと私は確信しています。

追記: 学生時代、T大病理学の教官で、戦時中は731部隊の研究員だったというT氏の特別授業を受けたことがあります。T氏の授業は型破りというか、ハチャメチャというか、時間のほとんどをギャグと文学作品の紹介に費やし、辛うじて進行性神経疾患の剖検例を示説したのち、「破滅的病変を持ちながら、この患者さんが有益にその生をすごした事実に、神の福音を感じようではありませんか」と結ばれるものでした。「先生は残虐行為の只中で、神の許しを感じておられたのですか?」私はそう質問するべきでした。

 2003/05/22

昔の記事を書き直していて、かなりいい加減な記述をしている部分を次々に発見してしまう。この前掲示板でも質問が出ていた「冷えると風邪を引く」の項目なので、まず一番に訂正した記事を書き直し。風邪はあくまでウイルス感染なのだが、一見冬に多い理由というのはまだよくわからないというのが正しいらしい。免疫力はほとんど関係ないということ。以下のように書き直したので、そのうち元記事と差し替えておくつもり。
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冷えると風邪をひく

 英語では風邪のことを「コールド(cold)」といい、まさしく寒さが風邪をおこすという信念をよく表しています。もちろん日本でも、「明日から急に寒くなりますので、風邪に注意してください」と天気予報を締めくくるくらいで、寒さ=風邪にかかる前提というのは誰もまず疑いません。

 この常識に真っ向から挑戦した研究論文が、1958年と1968年にアメリカで出版されています。両方とも、かなり多数のボランティア被験者(どうも囚人らしい)を使い、厚着、薄着で低温環境に望み、風邪をひく率を出したもの。後者は同じ様な条件に加えて、ご丁寧に鼻風邪のウイルスを点鼻するという要素を加えています。それぞれ結果はどうだったかというと、「気温や衣服の条件は、全く風邪の発症率に影響しなかった」というもの。

 風邪のウイルスは寒いところを好むので、冷えると風邪をひきやすいという風にもっともらしさを加えた言い方もあるのですが、後者の実験はこの説も否定しています。暖かくしていようがどうしようが、いったんウイルスが鼻粘膜に侵入すれば、どんなに免疫が活発であろうと、95%の人は感染し、その75%が風邪症状を示すのです。

 欧米の学術団体が開設している風邪予防の啓蒙サイトをあちこち訪問してみると、「風邪は寒さとは無関係」という主張は徹底しています。ウイルスに汚染された手を鼻の粘膜に突っ込むのが主な感染経路になるので、鼻の穴をほじらないのと、手をきれいに洗うこと、咳やくしゃみをしている人に近づかないことだけが有効な予防策とされています。

 「どうにも納得いかない、現に俺は寒いところで我慢して仕事してたらてきめんに風邪ひいたぞ」と言われる方もおられるでしょう。でもそれは後からそう考えるだけのことです。寒いところにいながら風邪を引かなかったことのほうが多いはずなのに、たまたまそういう経験すると関係があるように思えるという、多くの伝説成立に見られる無理な理屈付けとおなじ事をしているわけです。寒いところにいると風邪に至らないまでも鼻水が出てくることはあり、それと風邪のひきはじめのゾクゾク感が、ますます低温と風邪の関連付けを強化しているようです。

 しかし、現に冬に風邪ひきは多いではないか、それはどう説明するのだといわれると、少々苦しいのは事実。寒いので同じ部屋の中に集まる傾向がおおくなり、蔓延しやすいのだというようなあまりすっきりしない説明になるようです。啓蒙サイトでは正直に「原因はよく判らない」とされています。ただし、いわゆる鼻かぜの主要な原因となるリノウィルスがもっとも拡がるのは春と秋で、もう少し重症の風邪をひきおこすエコーウィルスは確かに冬に多いとのこと。

 実際は、暑い盛りにだって風邪はひきます。それでも、暑い夜だったのでふとん掛けずに寝て体を冷やしたのだろうという風に、冷えが風邪の原因という一度成立した信念があると、つごうのいい部分だけが説明の根拠として使われ、疑いの材料にはまずならないのです。

 ところで、上の論文の追試は長期間やられていないようですが、どなたかやってみませんか? 学位論文にはちょっと迫力不足ですかな。

<References>
H.F.Dowling et al." Transmision of the Common Cold to Volunteers Under Controlled Conditions" : American Journal of Hygiene(1958)

R.G.Douglas Jr. et al. "Exposure to Cold Enviroment and Rhinovirus Common Cold" New England Journal of Medicine(1968)

 2003/05/21

ネットで知り合って集団自殺というのがはやっているらしいのだが、みなそろって練炭を使った一酸化炭素中毒をもくろむというのが興味深い。練炭なんか、今でも売っていたんですね。狭い乗用車の中で練炭なんかに火をつけたら、死にいたる前に暑苦しくてかなわんのではないか。死ぬときには、その程度の不具合は我慢するものなのか。

昔、練炭が一般家庭でけっこう熱源として使われていたころ、一酸化炭素が出にくいということで「上付け着火法」という使い方が奨励されていた。下から加熱せずに、上に着火剤を置くわけですね。そうすると出てきた一酸化炭素は火のついた部分で熱せられ、二酸化炭素になるわけ。練炭自体にも、上の部分に着火剤がしみこませてあって、マッチ一本で火がつくという新製品があったような気がする。

ま、そうして着火しても密閉空間なので、そのうち不完全燃焼になって一酸化炭素がたっぷりと出るとは思いますが。それでも、日本がまだ貧しかったころ、少しでも便利かつ安全に生活しようというところから出た庶民の工夫を、集団心中を目論む若い世代が継承してくれていたら、なんとなく救われるような気がするな、なんて思うのでした。

 2003/05/20

原稿書きのほうは完全に尻に火がついた状態。文章を直しているうちに、勢いで結論変えてしまったりするのもあったりして、さすがにそれではまずいだろうと考え込んでみたり、さっぱり進みません。したがって、こちらは当面手抜き。

ジロ・デ・イタリア第9ステージはまたもチッポリーニの勝利。ゴール写真みると、ちょっと怪しいような気もする(右側のでかいほうがチッポ)。彼のチームはツール・ド・フランス出場権を得られなかったというのが、スタート直前に報じられた上での勝利ということで、イタリア人は意地でも彼に勝たせようとしたのでしょうな。そうお膳立てさせてしまうのも、スーパーマリオと呼ばれる彼のすごいところ。勝利のシャンパンシャワーの位置がちょっと低めで、どことなくH系なのも彼らしい。

 2003/05/19

ジロ・デ・イタリアも、はや8日目。イタリア半島の長靴のすねから膝に向かうあたり、リエッティからアレッゾまでの214Kmが昨日のコース。長めではあるものの、ほぼ平坦なので大集団が最後まで維持され、ゴール時にはトップと最後尾がわずかに1分54秒という僅差である。

こういうレース展開だとスプリンターに有利になるが、昨日もその例に漏れず、昨年の世界戦チャンピオンであるマリオ・チッポリーニが見事にトップを切った。チッポはオフシーズンにはモデルをやるぐらいの色男で、イタリアの国民的人気者なのだが、いかんせんスプリンターの宿命、こういうステージレースで総合トップをとるのはちょっと無理。

だから何とか2〜3ステージだけでも勝たせてあげたいとファンは望み、それ以上に選手たちもそれを望んでいるようで、そういう無意識の集合が200km以上ものコースでそう本気のアタックもなく経過した本当の原因だろう。

5日目と6日目のステージでは、マリアローザを着ていたペタッチが連続してゴールスプリントでチッポを制してしまったりするものだから、あわれにも翌日早々、トップから蹴落とされてしまいましたからなぁ。あそこでは勝たしてあげておかないと、その後ほかの選手に協力してもらえなくなるのですわ。

こういうのは八百長とは微妙に違うわけなのだが、ちょっと間違うと日本型談合のようなものになってしまうのも事実である。現に2日目のレースでは、トップで入ったオーストラリアの選手が進路妨害とされて、2位のイタリア選手が繰り上げトップになったりする。ウェブの写真だけではもう一つ判断しようがないが、ちょっと自国びいきの難癖にみえるんですがねぇ。

そういうわけで、ジロ・デ・イタリアには、ローカル路線への内閉化に居直る姿勢が色濃いように思え、これはめぐりめぐってはこのジャンルの衰退につながるのではないかと憂慮してしまうのだった。若手の登竜門とするには、ちょっと伝統と言うものが邪魔する、言うならば成熟しすぎているレースなんでしょうかね。なんであれ、チッポリーニはよくやった。

 2003/05/18

新聞にモロッコの爆弾テロが報じられていた。対イラク戦争への反対意見の根拠のひとつであった、暴力の連鎖が広がるだけだという懸念が現実化しているわけだ。もうこの際、世界中に米軍を大量展開して、そこらじゅうで戒厳令敷けばいいじゃないか、なんて無責任な感想もつばかり。

無責任な感想といえば、これを報じる毎日の夕刊に載っていた報道写真はNew York Timesにあったこれと同じだと思うのだが、爆発現場にいるこの犬はなんなんですかね?現場検証用の警察犬にしては、えらく野良犬っぽい。

(はじめ直接New York Timesの画像にリンクしていたが、考えてみれば登録していないと見られないのだった。そこで画像をお借りしてますが、大目に見てね)

 2003/05/17

土曜日は恒例のワイン買出し日である。私の利用する安売り店は、ちょっと前まで数千円台という、日常的に家庭で飲むには高すぎる品が多すぎたのを反省したらしく、近頃は三百円から五百円という安物をメインにするようになった。これもちょっと感心したことではない。

その価格帯のワインは、料理用(作るほう)には充分だけど、味を楽しむというのには力不足で、あまりワインに親しんでない人が飲んでも、なんだか中途半端なものですなぁと思われるのが関の山。香りも深みもないくせに、果実味だけはついているので、どんな料理にも会うとはいえない。ましてビールみたいに、渇きを癒すというのにも向かない。酔っ払うだけの目的なら焼酎でも飲めばいい。

南米ものなら千円前後、そのほかの地域ならそれの2〜3割り増しというのが、そこそこ味わえるぎりぎりのところだと思う。ところが、そのあたりの価格帯には、あんまり選択の幅がない。この辺を強化すると、もっと消費は増やせると思うんですが。酒販会社の方々、ぜひご検討を。

といって、数百円台にもときどき結構な掘り出し物があるのも事実で、安売り棚を引っ掻き回すのはやめられない。おかげで日曜日はハズレワインを大量に使った、ワイン煮込み系が定番料理になってしまっているのだけれど。

 2003/05/16

回避し続けていた原稿書き仕事を誤魔化すわけにはいかなくなり、こちらのほうまで手が回らない。アップできる環境にいる限りは、どんなにつまらないことしか思いつかなくても、兎に角なにか書こうと決心して、一応曲がりなりにではあるものの、実行し始めてすでに二年半になるので、ここで理由を作って更新するのをサボったら、結局何もしなくなるのは見えているのである。

原稿書き仕事とは何かというと、ここのサイト記事をまとめて出版するという話が持ち上がったため、昔の記事を書き直しているのである。自分が昔書いたくだらん文章と顔つきあわすというのは実に気恥ずかしいもので、その上それを少しでも意味が通るように書き直すという苦痛に満ちた作業をするのだから、ほとんど地獄の苦行のようなものである。

いままで何回か出版の話はあったのだけれど、結局実際に作業に取り掛かかるのをぐずぐずしているうちに話が流れてしまった。今回は多少本腰をいれて最後までやりとおすつもり。もっとも、一月以上かかって、原稿用紙30枚分ぐらいしか作業が進んでいないのだから、ほとんど何もやっていないようなものなんだけれど。

 2003/05/15

先日、家族への傷害事件を契機に、警察官通報から措置入院となった青年の家族が来院。この数年、彼がいかに悪逆非道な振る舞いをしていたかを切々と訴える。発病して10年ちょっとたった人で、数回の入院歴をへつつも、そこそこの安定がえられていることになっていた。

この人はけっこうなインテリで、サブカル関連の著作も多い某医師とウマが合うと、その外来にずっと通っていたが、その医師の退職後は通院も不定期となり、ここ半年ほどは全く受診せず、服薬も途絶えていた。

私は今回の入院で受け持つのがはじめてだが、いわゆる人格荒廃にまでは至っていないものの、かなり退行した思考行動様式が目に付き、家族成員への無茶な暴力行為についても、妄想的な内容での正当化が目立つ、人格の崩れがかなり出てきている人だと思えた。

こういう人はなかなかやりにくい。おおかたの分裂病患者に対する基本的な方針、自我庇護的に接するというのがあまりうまくいかない。学歴やらに妙に絡みついたプライドが、そういう方針を逆手にとってしまう。簡単に言えば、図に乗ってしまって、現実的な対人関係を阻害するのである。

なんであれ、精神医学に出来ることは適切な薬物治療だけだと思っている私には、そのあたりはそれほど問題ではなく、反発が出るぎりぎりのところでのconfrontation(直面化と訳すんだったっけ?)が対応の基本になる。

それはいいとして、家族によれば、安定していると見られていた時も、彼と暮らすのは地獄だったという。医師の前ではそこそこに過ごしている風を装っていたが、自宅では暴言暴力は日常茶飯事だった。家業を手伝っていると自称していたが、気の向いた時にちょこっと手伝うぐらいで、かえって作業の邪魔になるだけだった。しかし彼は給料を常勤職員なみに要求し、少しでも支払いが遅れると、大声で怒鳴ったり、物にあたったりして暴れたのだと言う。

家族が何度か医師には訴えたらしいが、仕事に意欲を見せるのはいいことだから、たまには手伝うと言う事実を評価してやれといわれ、またその医師が本人に「ちょっとは慎み深く行動しないと」などとアドバイスしたら、患者は家に帰ったとき「医者にチクった」といってまた暴れるという繰り返しで、家族はすっかり萎縮して腫れ物に触るように接していたと言う。

これは実によくある「患者に理解ある医師」の対応で、それをくさしたいわけではない。私自身、駆け出しのころはこれと同じ間違いをずいぶん犯した。たぶん今だって、とおり一遍の対応になっていることもあるかもしれない。実際、家庭内暴力パターンに陥っている患者の場合、それに気付いてもなかなかその悪循環は絶ち難い。大多数の医師は、外来の場でそこそこ人当たりのいい患者がいれば、家族には多少の問題は我慢しろと言うと思う。そういう風に彼らの逸脱行動を大目に見ることで、なんとか治療関係を保っている場合もあったりする。

家族は自分たちが何も言わなくても、医師は全て見抜いてくれると期待していたりするが、別に透視家でもない身の悲しさ、そんなものわかるわけはないのである。まして建前の社会復帰物語への固着がつよい治療者は、自分の前で安定している人を無条件に信じてしまいがちで、実際には上に述べたような問題が続いているというのはよくあることだ。

赤の他人にはそこそこ対応できるのに、家族に対してはやたらに攻撃的になるというのは、分裂病に限らず、うつ病や神経症の範疇でも、また痴呆性疾患でもよく見られることだ。もちろん利害が絡む関係ほど感情面でのもつれは深刻だという、当たり前の理由が一番なのだろうけれど、どうもこれには、本能というか、遺伝子レベルでの裏づけもあるような気がする。

というのは、たいがいの脊椎動物では、生まれたばかりの子供は親に庇護されるが、ある程度成熟して自力で生きられるようになると、親のテリトリーからは追い出されるのが普通だ。そうすることで餌の枯渇による共倒れやら、近親相姦が回避されているのだろう。精神疾患の場合の家族攻撃も、これと同じような遺伝的機構が表面化しているのではないか、と考えたりする(夫婦の場合はどうなんだ、といわれると困るけど)。ただし、こちらは生活能力を失った側がそれを示すので、全然合理的な機能を果たさないわけだが。

精神科医は面接の場だけでは、まず患者が家庭なり地域で引き起こしている問題には気づかないというのを素直に認めて、どうせ治療成績なんかそう大したことはないのだから、病者による悲しい事件を、少しでも予防しようとするぐらいは自分の仕事とわきまえてもいいのではないかな、と考えさせられた。具体的にどうするのか、というのは実に難しいのだけれど。

(注:なんとなくネガティブな書き方をしてしまったが、治療者の前だけでもほどほどの取り繕いができるというのは、それはそれなりに保持されている能力であるわけで、どうせ破綻する絶望的努力に終わらせぬよう、共感的に接していくことで事態が打開されることもあるのだ)

 2003/05/14

"Changing World Technologies"という会社が、生ゴミを燃料と無機物に分解する技術を開発したんだそうである。この技術は、発酵というような既存の方法に依拠せずに、ほとんどの物質、たとえば七面鳥の内臓、古タイヤ、プラスチック瓶、浚渫汚泥、古いコンピュータ、一般ゴミ、とうもろこしの茎、パルプかす、医療廃棄物、製油過程の副産物、なんなら炭疽菌のような生物化学兵器であっても分解することが出来ると主張されている。えらく順不同だが、これは同社のCEOが言ってる順序に沿ったもの。

高分子重合過程の逆を行うことで、ほとんどすべての生ゴミを安価に炭化水素と無機質に分解するというのだが、どう考えても熱力学第二法則に反すると思われますがなぁ。同社の主張によれば、現在すでにフィラデルフィアで、七面鳥の廃棄内臓を燃料油に変換する実験プラントが稼動中だとのこと。

コストさえ無視すれば、廃棄内臓といったってどうせ炭素と窒素、水素その他の化合物がより合わさったものなんだから、炭化水素化合物に変換することは出来るだろうけれど、それはあらゆる物質はその質量に光速の二乗をかけたエネルギーになるといっているのと、あまり変わらないような気がする。ところがこの会社は、ガソリンと軽油を半々に混ぜたような燃料油を、1バレル(≒160リットル)あたり10ドル前後のコストで作り出せると主張している。

すでに個人投資家が4000万ドルの投資をしていて、州政府も1200万ドルを援助しているという。なんか、日本でもプラスチックゴミを灯油に変換するとかいって、手品風のプラントを作って自治体をだましていた手合いがいたような気がするのだけど、これもその類としか思えないのですがね。

とにかく、これを懐疑抜きで報じる雑誌記事と、当の"Changing World Technologies"のサイトをじっくりご覧になることをお勧めする次第。斜め読みした限りでは、熱力学第二法則の桎梏をクリアする独創性がどっかにあるとは、とても思えなかった。私としては、詐欺であるという方に4000万ガバス。

 2003/05/13

クリンゴン語通訳募集中 <オレゴニアンより 5月10日>

オレゴン州マルトノマ郡はクリンゴン語通訳を募集している。ただし非常勤で。

これは「スタートレック」に登場する異星人兵士による侵略を想定しているわけではなく、郡が提供している精神科医療センターの救急施設を訪れた患者が、クリンゴン語をしゃべる場合に備えたものである。

「私たちは利用者が使う言葉すべてについて、その情報を準備しておかねばならないのです」対人サービス部門の人事担当者、ジェリー・ジェルシッチ氏はいう。このセンターは約6万人の利用者を抱えている。もしクリンゴン語しかしゃべれない患者がいたら、郡はクリンゴン語通訳を用意する義務があるのだ。

当局はクリンゴン語を、利用可能な55の言語に加えることに決定した。それらの中には、ロシア語、ベトナム語という広く利用されている言語もあれば、ダリ語(どうも中東の言語らしい)やトンガ語といった、かなり稀なものも含まれる。

近年、クリンゴン語はフィクションの中の言葉から、完全な言語へと変貌している。固有の文法と統語法、語彙を完備しているのである。ジェルシッチ氏と同僚たちは、ポートランド市民の間で、クリンゴン語でカラオケを歌うのがはやっているという新聞記事を読み、調査したところ、この言語の完全性を知ることになった。

クリンゴン語通訳には賃金がでるが、それは実際に通訳が必要となって呼び出されたときだけに支払われる。「やろうじゃないか、とわれわれは言ったんだ」ジェルシッチ氏はいう。「どうせ金はいらないんだから」

実際、今のところはクリンゴン語をしゃべりだす患者はいない。しかし、クリンゴンが現実の存在だと思い込む患者が出てくる可能性はある。「私たちは『自分はナポレオンだ』と信じている患者だって受け入れます」そうジェルシッチ氏はいう。

郡の最高責任者のコメントは得られなかった。

そして今また別の神話的言語について検討されている。映画「ロード・オブ・リング」で有名になったものだ。「子供たちは『エルビッシュ』を勉強しているようですよ」そうジェルシッチ氏はいっている。
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うーん、あちら版の地域振興策なんですかなぁ。精神障害者への古典的嘲笑がふくまれているような印象があって、少々引っかかるところがあるが、とんがってみても仕方ない。"Elvish"っていうのは、プレスリーが使う言葉かと思ったが、指輪物語の中に出てくるトールキンの創作言語なんですな。

なお、クリンゴン語が言語として完全性を備えているのかどうかよく知らないが、クリンゴン語版Googleなんてのもあるようなので、一応事実と思っておいていいのかも。

 2003/05/12

「ロイヤル・テネンバウム」(監督:ウェス・アンダーソン 2001年米映画)

借り物DVDでの視聴。面白いのか、面白くないのか、よく分からない映画だった。なんかトリビアルなところに無茶苦茶凝っていて、しかもその作為を素人にもわかるように露出させているくせに、ネタはばらさないと言うような態度がめだつののである。おや失敬、あなた様にはこれは無理でしたね、という感じ。わかりやすく、創り込めていないだけなのかもしれないが。

若くして成功した弁護士であるロイヤル・テネンバウム(ジーン・ハックマン)は、3人の天才児にめぐまれ、その一家の挙動はある種国民的関心を得ていた時期もあるほど。長男は子供のころから国際金融取引で大成功、長女(ただし養女)は戯曲家、次男はジュニアのテニスチャンピオンを経て、プロテニス選手として活躍する。

しかしロイヤルは勝手気ままに暮らし、浮気はするわ、長男の金に手をつけるわのやりたい放題で、別居生活を余儀なくされ、しかも長男から告訴されて有罪となり、法曹資格を失ってしまう。

それでも豪華ホテル住まいを続けていたロイヤルだが、ついには破産して行くところもなくなり、「癌で6週間の命だ」とウソをつき、妻と子供たちのところに転がり込む。おりしも妻は一家の会計士からプロポーズされていて、ロイヤルはこれを阻止するために張り切るのである。

かっての天才児たちはみんな完全に欠陥人格者になっていて、先年妻を飛行機事故で失った長男(ベン・スティラー)は不安にさいなまれて避難訓練フリークに、色ボケ遍歴のすえ、神経学者(これがビル・マーレイなんだけど、全くフツーの人を演じていて、ほかの連中のイカレ具合が強調されている)の妻に納まっている長女は、創作活動も出来なくなって、ひがなバスタブにつかりきりの引きこもり。末っ子は26歳でテニス界から引退し、世界中を放浪していると言う設定。

いわゆる「家族の再生」の話といえば言えるのだが、どうもそういうのは表向きのことだけで、物語としてはわざとタガを緩めさせておいて、ある種の類型性の交錯で作品を構成することをねらっているのではないか、などと考えてしまうのである。

特に気になったのが、場と場をつなぐところに出てくるおんぼろタクシー。いつもジプシータクシーという会社で、しかも徹底的にボロボロ。助手席の窓なんか、ガムテープで塞いである。ほかにもオールドファッションな公衆電話とか、国際金融取引をしている長男やその子供たちがつかう電卓、それに、これを一番に挙げるべきかもしれないが、登場人物全員に画一的ファッションが割り振られていることなど。それと、ロイヤルが自分ででっち上げた墓碑銘とか。腹の中では「ちょっと狙いがあざとかったか」と思っているのか。単にすべってしまっただけのことなのか。

結果として私のような凡庸な視聴者に感じ取れるのは、なんかよう判らんが、そこそこの家庭喜劇だなというところ。自己中心の父親とエキセントリックな子供と言うと、松竹新喜劇の渋谷天外、藤山寛美のシリーズを連想するが、こういう紋切り型物語の排除を目指した(と思える)映画でも、寛美のアホ役が担う一種の聖性を、誰かが背負うことになるのだな(この場合はボルグまがいの末っ子)というのが一般的な感想。

 2003/05/11

こちらの日記作者のかたが5月9日の記事に書いておられるように、光学式マウスを使っていると、ボール式とは違う不具合に見舞われることがある。ボールが回転しやすいように、そこそこのクッション製を持つように工夫された普通のマウスパッドは、派手な模様などが印刷されていたり、表面に光沢がありすぎたりして、光学式にはうまく使えないことが多いのである。

薬屋さんなんかがくれる宣伝用マウスパッドは、ほとんどそういう類なので、まず光学式ではうまく使えない。職場に来るMRさんにはかなり昔からアドバイスしてあげているのだが、光学式対応のパッドを配ってくれる会社はまずありません。医者なんか、物をやっときゃ喜ぶだろうと思われているんでしょうな。すぐにゴミ箱行きになる販売促進グッズなんか、宣伝効果以前に、資源の無駄使いだと思いますがなぁ。

といって、パッドを使わないと、何の模様もない事務机などではCCDカメラがマウスの移動を感知できないのか、これまたうまくいかない。木目模様なんかだと、縦横で反応が違ったりすることもある。私はボール式マウスのころから、マウスパッドにはペーパークラフト用カッティングボードを使っているが、これは光学式にも実に具合がいい。ざらざらした表面と、方眼図形が両者にうまく対応するのだろう。A4判の大きさあたりを選ぶと一番使いやすい。ちょっと汚れやすいのが欠点といえば欠点。

何よりも、このカッティングボードをマウスパッド代わりに使う最大のメリットは、なんといっても「カッティングボードとして使える」ということである。

 2003/05/10

ジロ・デ・イタリアが始まったんだけれども、CATVのスポーツチャンネルでも放映してくれないので、ウエブでいじいじと実況レポートを見るしかありません。もっとも、今年は出場するほうからしてそう乗り気ではないらしく、いつもならツール・ド・フランスのほうを重視するチームでも、No.2の選手ぐらいをエースに仕立てて参加してくるものなのに、そういうのも少なめなのが寂しい。

しかも昨年までは、初日が短い距離のプレリュードというのではじまって、目立ちたがりの選手が見せ場を作るものだったのに、今年はいきなり普通のレースから始まったのも、もうひとつ派手にならないのを自覚してのことか。阿倍寛似のM.チッポリーニが去年見せた虎スーツ以上の趣向を、今年も見たかったのに。

 2003/05/09

こちらの記事から。今米国で出回っているチェーンメールであるそうな。

コーラン9章11節にはこう書かれている。「アラビアの息子たちは恐怖の鷲を目覚めさせる。鷲の怒りはアラーの土地全てにおよび、見よ、ある者たちは恐怖に震えるが、多くの者は歓喜する。なぜなら鷲の怒りはアラーの土地を浄化し、平和をもたらすからである」

テロの日付と同じ章に、アメリカによるアラブ世界の「浄化」が予言されているという内容。調子に乗るというのは、こういうことを言うんでしょうな。

もちろんこれはまったくのデッチ上げで、もとの文章のモジリですらない。もともとのコーラン9章11節は次のようなものだそうだ。

「もし彼らが悔い改めて、祈りをささげ、貧しきものに喜捨をするなら、彼らは汝らの信仰の同胞である」

米国はこちらのほうを心得ておくべきでありましょう。

 2003/05/08

最近更新が滞りがちなので、あまり引用しなくなった"Darwin Awards"の昔の記事を訳していた原稿を見つけたので、もったいないからアップ。もしかしたら講談社の「ダーウィン賞!」に訳出されているかもしれないが、手元に見つからないので確認できない。あの本が出たので、ここに載せるのをやめたんだったっけ。

奇妙な死

94年に行われた科学捜査学会の記念ディナーで、会長のドン・ハーパー・ミルズ博士は、法的解釈がきわめて難しいある死亡事件について語り、聴衆を驚愕させた。以下がその内容である。

94年の3月23日、検死官はロナルド・オプスの死体を調べ、彼の死因は頭部を散弾銃で撃たれたことによるものと結論した。オプス氏は10階建てのビルから自殺目的で飛び降りていたのである。彼は遺書めいた文書も残していた。彼が飛び降りて9階付近を落下していくとき、彼の命は窓から放たれた散弾銃の銃弾によって絶たれた。

撃った方も、飛び降りた方も、8階のすぐ下に安全ネットが張られているのに気づいていなかった。ビルの作業員の落下事故や、オプス氏のような自殺志願者の意図を防ぐためである。

「普通は」とミルズ博士は続けた。「自殺を図った人間は、たとえ意図した方法によるものでない形で死亡したとしても、なおかつ自殺したと定義されるものだ」

オプス氏は確実な死への道中のさなかに撃たれたのではなく、安全ネットによって自殺企図が防がれる可能性が高かったという事実は、検死官にこのケースを殺人とみなしたほうがいいとおもわせた。散弾銃が発射された9階の部屋には、老夫婦が住んでいた。そのとき彼らは激しく口論していて、夫は散弾銃で妻を脅していたのである。引き金を引いた時、夫はかなり興奮しており、発射された散弾は妻を外れ、窓を通ってオプス氏を直撃した。

人がA氏を殺そうとして、あやまってB氏を殺したとしても、その人はB氏への殺人の責を問われる。しかし、この場合は老夫婦双方にもそれは適用しがたい。彼らは両方とも、銃には弾が込められていないと思っていたのである。夫には妻を殺そうとする意思はなかった。それゆえ、オプス氏の死は事故ということになる。それは銃に偶然弾が込められていたということだ。

捜査は続き、事件に先立つ6週間前、老夫婦の息子がその銃に弾を込めているところを目撃した人間が現れた。それは老母が息子への経済支援を打ち切ったことから起こった出来事だった。息子は自分の父が散弾銃を脅しに使うことを知っていて、弾を込めておいて、母親が殺されるように目論んだのだった。この事件は、その息子によるロナルド・オプス殺人事件とみなされるようになった。

しかも複雑なことに、さらなる捜査が明らかにしたのは、その息子というのはロナルド・オプス自身であったということだ。彼は母親を殺そうという企みすらうまくいかないのに失望し、10階から飛び降りたのだが、その企みは彼自身が射殺される結果となって終わったのである。息子は確かに自分自身によって殺されたので、検死官はこのケースを自殺と結論付けた。

 2003/05/07

「武術を語る」(甲野善紀:徳間文庫)

昨日よりはちょっと硬めの本、ということでこれを選ぶ。こうして日々ちょっとづつ硬めの本を選んでいけば、いつのまにか法政大学叢書ウニベルシタシスあたりでも、らくらくと読みこなせるようになるのではないかという、麻の芽を飛び越える忍者トレーニングのごとき発想である。

甲野氏の本は、たしか養老孟司氏との対談本ともう一冊を読んだことがあり、現代に古武術の奥義を回復させようとしている武芸者という、かなり珍しい方として理解しているのだが、この本もその武術鍛錬でえられた立場を平易に語ろうとした解説本のひとつである。

「不安定の使いこなし」という身体技法を軸にして、「水鳥の足」とか、「なじみ」とか、ちょっと門外漢には想像もつかない実践的な技の解説もあるのだけれど、やはりそれを本で読んでもさっぱりわかりはしない。ただ、普通のスポーツ格闘技にあるような、単純力学的説明でなく、といって一部の合気道家がいうような、「気」などというオカルト系曖昧模糊たるものに還元するのでもない姿勢には、合理の側から人の活動を解析しようとする、オープンにして多軸的な視点の新鮮さを感じるのである。

もっとも、それらすべてが自分で鍛錬して体得するしかない極意であるわけで、本を読むだけでは、古武術の香りの一部をオカルト抜きで感じとるぐらいが、スポーツクラブでバテて、かえってビール浸りになるような「体術」しか持ち合わせぬこちとらの限界であろう。

ただ、甲野氏の発想の原点にあるとおもわれる、「武術とは逆縁の出会いを通じて、人間を見つめなおす技術」(勝手にまとめたので全然違うかもしれないが)という見方はじつに身につまされる。言うならば殺傷術にほかならぬ武術は、利害相反する状況で出会わざるをえないこともある人間どおしが、まさに自らの殺傷能力を磨きあうことによって、より高度の同一性にいたりえる可能性を追求する態度である、というのである。

馴れ合いの仲間意識からはなんの生産性もうまれず、せいぜいが歯止めのない貪欲と裏切りぐらいしか出てこないというのは、だらだらと弛緩した人生を生きてきた人間には、苦い経験のひとつふたつとして刻み込まれているものだ。逆縁とまではいかないまでも、隙を見せれば自己の存立も危ういような緊張感をへてこないと、どんな分野でも今ひとつのものに終わるというのも、またなんとなく感じていることである。

甲野氏にすれば、その程度の教訓を引き出す程度の読まれかたでは残念至極というところだろうが、スポーツというのもちょっと違うような、なんか変に利権人脈化した武道のイメージしかない今の状況にあっては、活字だけからはこういう感想しか持ちようがないのもまた事実。

 2003/05/06

「小説・江戸歌舞伎秘話」(戸板康二:扶桑社文庫)

硬い本がまるっきり読めないので、ミステリ系でも読んでウォームアップから入ろうなどともくろみ、考えて見ればこれは受験勉強していたころからの言い訳読書パターンで、結局ミステリとかSFだけ読んで終わりになるのは見えているのだった。

それはそうとしても、ふと本屋で見つけたこの本は数時間をなかなか楽しく過ごさせてくれた。「昭和ミステリ秘宝」という文庫シリーズなのだが、謎を構成するためにわざわざ無意味な殺人など起こらないのが実によろしい。死人が出ないわけではないけれど。

ちょっとしたイタズラ心からくる策略はあっても、露骨な暴力も陰謀もなく、登場人物たちはただただ自分たちの生活と芝居に関心を持って、さまざまに愛すべき知恵をめぐらすのである。ミステリと名乗るからには謎解きの要素もちゃんとあり、それは同時に、今に伝えられる歌舞伎の所作や演出のいわれにもなっているという趣向。

収められているのは14の短編で、私みたいに歌舞伎にうとい人間でも知っている、中村仲蔵による「色悪」定九郎の創造エピソードをちょっとひねった「夕立と浪人」とか、八百屋お七が櫓を上る場に着る振袖のいわれについての「振袖と刃物」とか、もちろんすべてフィクションなのだが、芝居がおもな娯楽であった江戸下町の生活を小粋に描写しながら、手堅くまとめられた佳品ぞろいである。

著者の戸板康二は劇評家として知られているが、本物のミステリも結構書いているらしい。それも評論家として一家を成している戸板を熱心に口説いてミステリをかかせたのが、かの江戸川乱歩だったというから面白い。多分、本物のミステリファンはそんなことよく知っているのだろうけれど、私はなんちゃって系読者なので、こういうことにいちいち興味をひかれる。

かの笠井潔は、ミステリとは犯人、被害者、探偵という永遠の登場人物たちによる一種のギリシャ悲劇のようなものだと指摘しているが、この文庫に収められた短編群の場合、主人公は作者の愛してやまぬ歌舞伎そのものであり、それをめぐって善意の犯人たちがさまざまな作為をくわえて、主人公をよりよく変容させていくところを描いたものといえる。

歌舞伎という芸術形式と、人々の永遠の情熱が対比されているという意味で、この短編集はもっとも純粋なミステリなのだといえるのかもしれない。

 2003/05/05

"Indecent proposal"(邦題「幸福の条件」)という映画があるんだそうで、それと同じような話だと話題になったニュース

ロンドンの会社社長が、若い夫婦に、離婚して自分と結婚してくれたら、旦那に150万ドルはらおうと持ちかけたというもの。

コンピューター会社の社長、ブライアン・マッキーバー(45)は、ロンドンのユダヤ人学校の教師をしている女性に夢中になった。彼に言わせれば「真実のソウルメイト」なんだそうである。彼はその女性とその夫に手紙を書き、先の提案をした。

提案ははねつけられ、会社社長は逆に中傷行為を理由に訴えられることになった。訴えは示談にもちこまれるらしいが、当の夫婦はこの一件ですっかり困惑し、イスラエルに引っ越す予定だとのこと。

以上のニュースを読み、予想される反応として適当なものの組み合わせを、A〜Eの中から選べ。

(1)金をもらっておけばいいのに。
(2)大金持ちのくせに、提示金額がちょっと中途半端。
(3)訴訟の請求額は150万ドルより高いんだろうな。
(4)その若妻って、デミ・ムーア風なんだろうか。

A:(1)のみ。B:(2)(3)だけ。C:(4)のみ。D:(1)(3)(4)。E:それ以外。

 2003/05/04

連休だと言うのに、スポーツクラブにいくぐらいしか、やることがない。本当はある原稿書き仕事が山ほどあるのだが、とてもそれに向き合う気になれないのである。それに向かうのを回避するため、つまらん暇つぶしばかりしてしまう。そのひとつの結果がこれ。

昨年5月の日記は"May the force be with you."の小林信彦による唐獅子訳ではじめていたので、今年もそれに準じようと、この語句の検索。いやなに、5月とMAYを強引に関連付けているだけのことですが。

Googleだと4万件以上もひっかかってしまい、収集がつかないので、PubMedでこの語句を引いてみる。すると118件がでてくるが、大半は文章の一部の同じような表現に反応しただけのよう。自然語句での検索と言うのが出来るのが、かえってアダになっているらしい。

"May the force be with you."そのまんま、もしくは明らかにこれをパロディにしたとおもえる題名を持っている論文は8つだけ。でもたいがいはちょっとしたエッセイ仕立て論文だったりするらしく、要約が添えられていないものがほとんど。中身が無料で公開されているのは"Cell migration: may the force be with you."という、結構本格的な一篇。97年にCurrent Biologyによせられたもの。

白血球とか、アメーバみたいな細胞はどんなメカニズムを使って移動しているのか、というはなはだまじめな研究論文である。こういう細胞は細胞膜に標的とする物質分子へのレセプターをもっていて、それを感知するやそちらの方向に細胞質を突出させていくというのは常識なのだが、では具体的に、そちらの方向へ細胞自体が移動するのにはどんな仕組みを使っているのか、というのはおおよそのことしかわかっていない(そうだ)。

著者たちは、細胞内で筋肉細胞とおなじアクチンーミオシンの合成がおこなわれて細胞の変形がおこり、細胞外には別種の付着性の蛋白が分泌され、言うならば投げ縄を対象物にひっかけて、それを頼りに移動していくという説を検証している。その蛋白を表面に付着させた小さいビーズを用意し、それにレーザーを照射すると、ビーズと細胞の結合が生じるだけでなく、細胞内にもその結合部にむかって移動に備えた補強構造が作られることを示している。

この過程ではかなり複雑な情報伝達がなされるわけだが、そのすべてはまだわかっておらず、その一部をモデル化したというのがこの論文の主張らしい。"May the force be with you."という題名にしたのは、ただただ洒落というところか。

単なる暇つぶしのためだけに、こういう専門論文読むのは、かなり疲れるということを発見した連休中日である。

 2003/05/03

こんな夢を見た。

TVを見ていたら、関口弘が出てきて、「最近巷を騒がしているニセ明石家さんま事件」なるものについて語り始める。「すでに多くの人がだまされているのですが、今回はなんとあのジーコ監督がひっかりました」とのこと。そこでジーコが出てきて同時通訳つきで語り始める。はじめは街でばったり会い一緒に食事をして、いままで3回飲み食いをしたという。被害と言っても食事代を払ったぐらいで、会っている間は実に楽しい時間がすごせて、いまだにあれが偽者であったのが信じられないという。

さんまとジーコねぇ、やはりサッカーつながりなんだろうか。ばったり会って一緒にメシ食うことになるほど暇な時間があるもんなんだなあ。当のさんまもインタビューされていて、「そないに似てて、結構オモロイんやったら、スケジュール半分持ってほしいわ。なんやったら一緒に営業するんもよろしいな」とかなり本気の発言。

Wさんまか、でもそれでは絶対人気は落ちてしまうだろうな、となぜか確信したりするのだった。それにしても、ジーコとニセさんまは、どうやって会話したのだろう?

 2003/05/02

先月の日記から記事を「都市伝説」「本」のほうに移動。それにともない、文章もちょっと書き直し。「私のブッシュ!」も「本」のほうに別ページをつくって移動しておいた。先月はあれを要約していただけでした。普通の本も全然読めないからなぁ。

抱え込んでいる書き物仕事のほうが全然進まないので、ついつい別のことに手を出してしまい、それもOSXからWinマシンにプリンタ共有するとかの不要不急のことをまとまらぬままやり散らかすばかり。更新するのもひかえて作業に専念しようと思ったが、そうすればかえって何もしなくなるのはまず必定である。これだけ馬齢を重ねていると、そういうことだけはよくわかっているのである。

三日休みがあるので、ちょっと建て直しを図れるかな、などといって、そんなことにならないのもよくよくわかっているのだけれど。

 2003/05/01

どうも「パナウェーブ研究所」というのを聞くたびに、パナソニックとサンウェーブが一緒になって作ったおしゃれな電化台所リフォーム会社を想像してしまい、実際の姿との違いに当惑してしまうのである。

ああいう人たちを見ていると、人間というものは、安穏とした日常よりは、たとえ怪しげなフィクションであっても、「危機」のもとで生きることを選び取るような性向があるらしいというのをいまさらながらに感じる。それが大概、支配の道具に使われるというのが残念なところだけれど。


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