更新日記
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2001/10/31 |
「本、TV」に一昨日と昨日のここの記事を転記して、9月10月の更新はおしまい。ちょっと書き直したところもあるが、基本的にそのまま。
気分に任せて長文を書くよりも、なるべくまとめた簡潔な文章を書く、というのを当面目標にしていこうかな、なんていっているが、これは本来の更新が出来ない事の言い訳。最近つまらん用事が多くてねぇ。
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2001/10/30 |
「プリティ・リーグ」(監督:ペニー・マーシャル。1992年米映画)
一昨日、NHK教育で視聴。WWIIの間、アメリカでもプロ野球選手が徴兵され、MLBが立ち行かなかったため、短期間、女性によるプロ野球リーグが目論まれる。戦地の夫を待つ身のドティ(ジーナ・デイビス)にスカウトが訪れるが、彼女は全くその気がない。ソフトボールのピッチャーだった妹のキティはこの機会をものにしようと、姉とコミで入団を試みる。
いろんな事情を抱えた野球好き女性が集まり、女性リーグはひとまず発足する。ドティとキティが配属されたチーム、ピーチズには、大リーグを酒でしくじったかってのスラッガー、ジミー・ドゥーガン(トム・ハンクス)が監督として招かれる。人寄せパンダで充分といわれて丸きりやる気のなかったジミーだが、女性選手たちの真摯なプレーを前に、次第にやる気を取り戻し、初の女性ワールドシリーズ優勝に向けて、「選手一丸となって」頑張るのだった。
ドティとキティの姉妹葛藤とか、ジミーの再生の物語なども一つのドラマなのだが、何よりも女性スターたちが本当に硬球でちゃんと野球をやっていると言うのが見どころである。選手にはかのマドンナも扮しているが('All-The-Way-Mae' をやりまくりメイと訳されているが、ちょっとかわいそう。行くとこまで行くぞメイ、ではもっとダメか)、あまり自己主張もせず、野球選手に徹していて、その野球センスもなかなかである。
女性が硬式野球と言うのに感心する感覚は日本人だけのもので、例えばアメリカ発祥のリトルリーグは硬式なのだし、いわゆる軟式野球というのは、向こうではかなり奇妙なものとして受け入れられる。野球はあくまであの硬いボールでプレイされるものなのだ。この映画でも、写されている選手の怪我とか打ち身などは、全部実際のプレーで生じたと言う。
昔(といっても30年ほど前)、製薬会社などがスポンサーになった女性プロ野球チーム(セミプロと言うべきなのか、よくわからない)がいくつかあって、リーグ戦もやっていたかもしれないが、時々大学に回ってきては医局選抜チームと試合したりしていた。医学部というのは不思議なところで、逆上がりも出来ないオタク系文弱の徒も多いが、成績もよければスポーツ万能の文武両道、素敵キャプテン系も結構いる。そういう連中の前に、女性チームは残念ながら手もなく敗れていた。
やっぱり、日本の土壌では女性が野球をするということだけで、一種の色物的な感覚から自由になれなかったのかな、なんて感じる。そう言う私自身、あの女性選手たち、夜は懇親会でコンパニオンに変身し、「ま、お一つ」なんて酒注いだりしているのかな、などと言う眼で見ていたのだけれど。選手もそれほど勝負に執着していないようににみえたし。でも、ガンガン打たれるピッチャーに激を入れていた、そのチームのキャプテンの悔しそうな表情は、今でも覚えている。
スポーツというのはそれ自身のルールの中で自己目的化されつつ、決してそれ自身から疎外されることなくプレイヤー、観客ともに同一化する契機を作り出す、人間が作ったものの中では最上級に近い文化様式の一つだと私は思う。この映画の作りに文句をいうところは数多いが、結構豪華なキャストを使って、素朴なスポーツ賛歌を直球で語る作法は立派と言うしかない。
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2001/10/29 |
「スリー・キングス」(監督:デイビッド・ラッセル。1999年米映画)
昨日、WOWWOWで視聴。ヴィトンのバッグをもった米兵が、砂漠をバックにロールスロイスなんかと写っている宣伝画像は見たことがあるのだが、こんなに妙な映画だとは思わなかった。
かの湾岸戦争、「砂漠の嵐」作戦終結直後のイラク領内で、クウェートから強奪された金塊の隠し場所の地図を捕虜からとりあげた米兵仲間と、ひと癖ある特殊部隊少佐(G・クルーニー)が一攫千金を目論んで独自行動を図る。莫大な量の金塊を発見した彼らは、同時にフセインに反乱を企てて捕らえられ、風前の灯火の運命にある住民たちとも出会ってしまう。
前半はまったくMTVのりで、人を喰ったBGMと派手な色彩が氾濫するショットが続く。後半になるとオーソドックス正義のヒーローものになってしまうが、私みたいな年寄りには、最初の調子で続いていたらとても付き合えそうにはない。かといって、あの戦争を50年代スタイルで、米兵=騎兵隊、イラク兵=インディアンでやられてもちょっと耐えられないだろうし。ま、程々のバランスであろう。
後半で、米兵の一人が撃たれて外傷性緊張性気胸に陥り、さすが「ER」出身のG・クルーニー、胸腔カテを刺入して抜気処置をする。その処置をめぐってある種のドラマ性が生じるのだが、あれだけどんどん肺から空気が洩れているなら、陰圧をかけて持続抜気しないといけないだろう、それでは話が進まないけど、なんて思ってしまうのが余計でいかん。
始めに「妙な映画」といったけれど、もちろんそれは誉めているのです。それにしても私、G・クルーニーをみると、小倉久寛を連想する。
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2001/10/28 |
少しの間お休みしていてガッカリだったここが、また更新再開でめでたい限りで、昨日など、かのホーキング博士がユニクロのCMに出ている、という情報まで得ることが出来て言う事なしである。でも、今日だってけっこうTVみたのに、そんなCM見ないがなぁ。昼間はWOWWOWで「スリーキング」をダラダラ見てしまうし、夕方は「日本人の質問」から「時宗」。そのあと「プリティリーグ」まで見てたのに。それではCM見ようがないか。
ホーキング博士と言えば、ちょっと前に家人による虐待をかんぐらせるような怪我を負ったんだよなぁ。あれほどの天才でも、こと介護をされる側になれば、虐待をうけることもあるんだろうか、と寂しい気分になったものだが、あの真相はなんだったんだろう。
プリティリーグの主演といえるジーナ・ディビスをみると、何故か「松嶋菜々子」を連想するのだが、これは弁護士ものTVドラマではじめて見た、と言う共通点からに違いない。二人とも、どんな役をやっていても違和感がある、と言う点でも共通するように思う。もっともジーナのほうは、キャラクターが役柄をしばしばはみ出すという感じで、松嶋嬢のほうは、何を演じても力不足で場違いという違いはあるが。大体「松タカコ(字しらん)」と、もう一人なんとか菜々子という、バラエティその他大勢要員の女の子との区別が、私はもう一つつかないのだけれど。
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2001/10/27 |
変な夢を見た。
都会で竜が天に昇る怪異が続き、大きな被害が出る。相手は超常現象なので警備当局も打つ手がなく、これは竜が住む場所を失って都会などにうろうろしているからいけないのだと、各地の水郷とか、水にゆかりのある場所に幼い竜を分散させて、安住してもらおうということになる。
水資源開発公団という、廃止寸前の公団がそれを担うことになり、ちっちゃな竜を連れて湿地帯みたいな所に行くのである。何せ夢なので、こちらは竜があばれて逃げ惑う市民だったり、警備計画をたてる官僚だったり、妙な仕事をさせられる公団職員だったりする。
適当なところで、子供の竜を放すのだが(なんか細長いムーミンみたいな情けない奴である)、さすがに竜なので、餌と一緒にほうっておけばいいというわけには行かず、封じ込めのための和歌を詠んで、それを碑に書きしるすのである。しかもなぜか公団職員である私が、その場で頭をひねってでっち上げるのだ。
葦原に満ちてうるおう天つ水 憂いをたつと人の言うらむ
さあお役ごめん、と帰ろうとすると子竜が文句を言い出す。「ダンはん、こんな殺風景なトコに放り出すのんは殺生だっせ。悪さしまへんよってに、連れて帰っておくれやす。ワシ、結構役に立ちまっせ」
一体何の役に立つのだ、と聞くと「これからのシーズン、ワシ無しでは暮らせまへんがな。オヤジも保証、冬はコタツにお任せを」。
最後は落語ネタ。半眠半覚醒状態とはいえ、ホントに夢でみたんだから。
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2001/10/26 |
「成功した時に破滅する人間」というのは、S・フロイトが「精神分析的研究からみた若干の性格類型」という長い名前の論文で命名している性格タイプである。フロイトは、これを道徳的マゾヒズムによると考えた。なんであれ、願望充足が得られるということは、あるタイプの人にとっては、永遠の願望である近親相姦願望充足の予行演習みたいなものなので、そこにはエディプスコンプレックス由来の強い抑圧がかかるとしたのである。
そのメカニズムの解釈はどうも得手勝手でいただけないが、このタイプの性格類型をとりだしたフロイトの直感はやはりすごいと思う。ストレスだの、過剰な負担だのを問題にする専門家は数多いが、ほとんどの人はそんな状況で精神疾患になったりしない。表面的にはそう見えても、よくみればあえて破綻する状況を、わざわざ自分で選び取っている、としか言えないことのほうが多いような気がする。
日常的にも、程々のところで満足しておけばいいものを、あえてリスキーな方向に踏み出して、ほら見た事かと言う結果を招く人などしょっちゅう見る。下らん女に手を出してみたり、浪費やギャンブルで蕩尽する人などもその範疇だろう。スポーツや芸術などは、こうした蕩尽への欲求をうまくコントロールする工夫と言えないこともない。
はじめにフロイト説に文句をいったが、私自身は、人間にとっては願望充足を得ることよりも、常に願望を求めることができる状態に自分を置くことのほうが重要なのではないか、と思っている。それは道徳マゾヒズムなどという訳の判らないものではなく、もっと生物学的原因をもつもの、敢えて言えば、進化の流れにあるこの宇宙の物質法則自体に根拠があるのではないかと思えてならない。
人間という種が分不相応な知性を授かってしまったため、「持続的な安定のためのシステム」という奴が可能になったわけだが、ある人々にとってはどうもかなり手におえないものらしく、常にチャラにする機会をうかがっているようなのである。そこで平坦な日常に没入しつづけていける人が「常識人」と呼ばれるわけだが、人間本来の作りはフロイトが見出したようなタイプなのだろう、と私は感じる。
どこかで書いたことのある、欲動エネルギーの解放ではなく、欲動エントロピー増加処理をメインに考えるトンデモ精神分析もどき理論、というのをまた考えているのだけれど、なかなか思いつき以上のものにはならないなぁ。どうも、いまひとつ気分が優れないときにはトンデモに走る、という悪いクセが出てきているようだ。
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2001/10/25 |
ご存知の方も多いと思うが、「百式」というサイトがあり、もっぱら商用海外サイトで面白いところを紹介するコンセプトで運営されていて、貴重な情報が毎日まず間違いなく手に入るので、定期巡回コースなのだが、昨日の記事にはなんだか???と思ってしまった。
ここの主催者は、アメリカと日本それぞれで教育を受けてきたという。そして、「両国の教育システムは次の点で大きく違っている」という。それは「アメリカでは大学に入学するときにある程度のキャリアを考え始める。僕は弁護士になろうとか、僕は医者になろう、とかである」とのこと。モラトリアム・プレイランドでしかない日本の大学、キャリアに直接結びつくアメリカの大学、というところか。
でも日本では、医者になるには医学部に入るしかない。例えばワセダにいくらあこがれていようが、それでは医者にはなれない。入学時に「ある程度」考えるぐらいではダメで、大概の人は早くから医学部受験に焦点を合わせて勉強している。弁護士だって、大学に入ってぶらぶらしていて、そのうち弁護士にでもなるか、とおもって司法試験をうけるようなひとがいるだろうか。アメリカとは、法曹資格の難易度が桁違いなのだ(その弊害がまた大きいのも事実だけれど)。弁護士志望のほとんどの人は、それをかなえるために有利な大学を選び、それに向けて努力しているはずだ。入学後も、医学部のようにカリキュラムをこなしていけば何とかなるのと違い、ほとんど自分で勉強していかねばならないだけに、その苦労は並ではないだろう。
なんか既成観念に程ほど沿った言い方をしておけば、まるっきり見当外れでも、意味あることみたいに思えることは自分でもよくあり、ネタもない時はその手の文章を書いてしまうことは確かにあるものの、やっぱり妙な事は妙だと指摘しておくほうがいいような気がする。まあ、挙げた例が悪かったということなのかも。
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2001/10/24 |
観念奔逸(かんねんほんいつ):躁状態に典型的に見られる、観念が次々と浮かび、思考の進行は速いが、脇道にそれていく状態。重度のものは観念チンイツと称される。
「ぺのぺの日記」の真似。最近の若い医者にはあまり通じません。
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2001/10/23 |
アラブがらみで情勢がキナ臭いとき、しばしば話題に上るのがリビアで、そこのトップであるカダフィ大佐の動向というのはよく注目される。たびたび言及されるのが何で「大佐」なんだ、ということで、リビアには大佐よりえらい軍人はおらんのか、とよく言われる。
軍人の階級呼称というのは実に錯綜していて、例えば英語ではCaptainが陸軍では大尉なのに、海軍では大佐だったりして、はて、カダフィ大佐はキャプテン・カダフィなのか、カーネル・カダフィなのか、砂っぽいリビアだから海軍なんかなさそうな気もするし、まさか大尉で国家元首はやってないだろうと思ったり、いや、たしかヒットラーは軍では伍長を名乗ってたんじゃないか、などと混乱してしまう。
軍事オタクは浜の真砂ほどいるとおもうが、なかなかここら辺の明解な説明をネットで得るのには苦労し、現状の解説すら探すのは難しい。ここあたりが一番親切かも。結局、塩野七生サンの本なんかで、やっとその歴史的由縁がわかったぐらい。要はローマ帝国の軍制に、近世以降の機能的傭兵部隊長である、カーネルとその私兵の呼称が一緒くたになったわけね。下っ端の兵隊をなんで"Private"というのか、不思議で仕方なかったのだけれど、傭兵が語源ということなら納得である。よくそんな呼称をいまも長らえさせているものだ、とは思いますが。旧日本軍の階級呼称が一番その意味では合理的かも。
カダフィ大佐も、そのあたりをよく承知の上で、機能的な意味での軍隊最上層にいる、という事を強調しているんでしょうかね。
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2001/10/22 |
どうにも更新が滞っているので、ここで中途半端に書いた本の紹介文を「本、TV」のほうに転記してごまかす事にした。ちゃんと書き直しすべきなのだが、ほとんどそのままである。大上段にテーマを決めて長文を書こうと思っても全然パワーが出ないので、当面この型式を使わせてもらうかもしれない。「雑感」なら、これですぐ二つ三つ増やせそう。全く本末転倒になってしまっているけれど、ご容赦を。
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2001/10/21 |
掲示板の方で紹介があった、英国での「羊と牛の脳を取り違えて狂牛病研究5年間」は、まことに示唆するところ大である。なんぼ最新テクニックを使って分析研究しても、もともとの対象がデタラメなら何の役にも立たないということのいい見本。
これに近い研究は、こと精神医学の分野になるといくらでも発見できる。診断に恣意的な部分が多々あるため、病人の脳みそに何か特別の物質的変化を発見したといっても、それがある疾患全部に適用できるかどうかはまた別の話なのである。恣意性を排除するためにICD-10とかDSM-IVなどの診断基準が導入されたわけだが、特に後者は疾患同一性の思い込みが先行したもので、深く考えないで診断をつけたり、役所への報告を適当にでっち上げるのにはまことに便利だが、個々の症状レベルから基本的な障害を考察することには全く役立たずである。
私が師事した指導医は、大雑把な診断で区分けされたグループの身体的異常を取り出すような研究を、「精神病院の便所の研究」と呼んでバカにしていた。様々な病型や個別的変異、社会的背景を無視して、「頭がおかしいからと入院させられた」という一点で区分けされているに過ぎない人々の、何か共通した身体的な変化を見つけたといっても、それは精神病院の肥溜め内容物を分析しているのと同じだというのである。揺らぎのなかに幻を見ることはあっても、まず生産的な結果は出ないだろうと。実際、私がこの業界に入ってからも、分裂病に特徴的とする様々な身体的異常の発見が喧伝されたことは何回かあったが、いまも確実とされているものは皆無に等しい。
ある時点での症状の揃い方で診断をつけ、その診断名にもっとも効果があるとするエヴィデンツをもつ治療手段を対応させればOK、病因の研究にしても、その治療の効果から逆に考えれば根本的異常が発見できるというものならば、この業界これほど楽なものはないのですけれど。
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2001/10/20 |
「電卓を叩いてわたる」ということわざがあるのだそうな。1ch.tvたちあげの目論見から来たそうだが、なんかまるっきり勘違いしているような。インフォーマルなコミュニケーション手段を持ちたい欲求は、誰しも持っているものだと思うが、それはあまり明示的にしたいようなものではないはずで、まして小学校の児童会みたいな建前を強制されれば、2ちゃんねらーならずとも反発したくなるのは当然というもの。商売にしたいなら、なにかひねりが必要で、あまりにも約束された破綻であるような気がする。
冒頭のことわざは、「大して才覚もないくせに、程ほど時代に寄り添って破綻をせずにやってきた器の小さい商売人が、見当外れの事業を目論む(でも失敗して手ひどい目に会う)」という意味に定着するのではないか。
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2001/10/19 |
けさの新聞によると、厚生労働省は新変異型CJDの診断技術研修のため、専門医を英国に急遽派遣することにしたらしい。厚労省の御用をつとめる専門医でも、新変異型CJDの診断は困難であるらしい。
昨日の県民だよりに書いてあった「日本では新変異型クロイツフェルド・ヤコブ病にかかった人はいない」というのは、単に「日本では新変異型クロイツフェルド・ヤコブ病の診断確定が出来ない」ということでしかないのは明らか。私一人がヤブだと言うことではない様なので、一安心。
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2001/10/18 |
けさの新聞に「県民だより」が折り込まれていて、これがすべて「狂牛病」に関するものだった。要は牛肉の検査体制が整ったので、安心して食べてよい、という内容である。いままで、感染の危険など全く無頓着に、他の国では使わないような危険な飼料を見逃しておいて、今後は大丈夫といって誰が信用するものかと思うが、その他のQ&Aなどを見ても、全篇多幸的なまでの安全宣伝で貫かれている。
気になったのは、「日本では新変異型クロイツフェルド・ヤコブ病にかかった人はいない」、というくだりである。昔、研修医のときみたCJDは、確か30代初めの人だった。その頃はまだ病原体がウィルスだと思われていて、当然、プリオンのパターンによる分類なんか出来ないので、臨床症状と脳波所見だけでCJDと診断し、サブタイプなんて分ける事はなかった。今だって、死後神経組織からプリオンを分離して、そのパターン解析するところまでやる医療機関がどこまであるだろうか。当然、変異型があるもないも、確定的な事を言うことは難しいはずだ。
大体、普通のレベルの診断でも、かなり派手な症状を示して安静がとれない人の脳波はアーチファクトだらけで、なかなか教科書的なものを確認するのは難しい。末期になると今度は特異的所見が乏しくなる。ほとんど早い経過と多彩な神経症状、というところで診断している例が多いのではないか。
老人痴呆を診ていても、かなり進行が早く、派手な神経症状がいっぱい出現する例があり、そういう場合、突き詰めた診断をつけようとはまず思われないので(少なくとも私は)、CJD類縁疾患を見逃していることもあると思う。一度こういう人の死後、せめて病理診断をつけようと思って、大学に解剖の依頼を出したら、感染危険性を理由に断られた事があった。連休の前日だったのがまずかった。仕方なく、遺体引取りにきた葬儀屋さんに一応の注意をして、たっぷり時間をかけてウェルダン火葬にするようお願いしておいたけれども。
CJDは届け出伝染病になっているが、結構診断基準にうるさい事を言われる割に、別に行政側がなにか特別の配慮をしてくれるようなこともないので、間違うとほかの患者家族がパニック起こすだけになる危険もあり、バカ正直に届出しても何のメリットもない。今みたいに注目を集めているときならそれなりの配慮もあるだろうが、普段なら誰も読まない記録ファイルに綴じこまれるだけの事だ。対象患者とその周辺の背景を検討するのと、職場で新しい危険がでないように対策を講じるぐらいが、普通の対応になるのではないだろうか。自分のやり方はそんな具合なものだから、行政のきれい事発表はとても信ずる気にはならないのです、やはり。
まあ、今の状況で10代、20代の人がドンドン進行する神経症状と痴呆を示していれば、そりゃ私だって何とか専門施設(と言ったってそんなもの、どこにある?)に移してもらうその一点のために、行政と交渉しますけれど。
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2001/10/17 |
一昨日の"Dialy"の件で、某大手業界紙を例としてあげたのだけれど、考えてみればあれは"Daily"の誤記であって、別に"Diary"の誤記ではありませんわな。間抜けなのは大して変わりませんけど。
メールで知らせていただいた方、ありがとうございました。
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2001/10/16 |
今夜も言語ネタ。
Linuxディストリビューションの一つ、MandrakeLinuxだが、私はあれを「まんだらけLinux」と読んでいた。古川社長、こんなところまで手を伸ばしていたのか、と。
以上。
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2001/10/15 |
いわゆる「日記サイト」を眺めていると、かなりの率で"Diary"を"Dialy"と誤記しているのを見かける。Googleで"Dialy"を検索すると、じつに三万七千件以上の"Dialy"を発見することができる。中にはこういう大手まで、ヘッダータグ内とはいうものの、誤記している例がみつかる。日本人にとっては"L"と"R"は鬼門みたいなものだからな、とは思うものの、これだけ多くの人が間違うのも珍しく、もしかしたら"Dialy"という単語があるのではないか、と心配になってしまう。(似た例では"Link"と"Rink"が有名だが、これは五万件ちかい)
辞書を引くと、これに一番近いのは"Dialysis"である。本来は半透膜を使った生化学的実験操作のための造語だろうが、医学畑では腎不全患者に対する血液透析のことをいう。むかし勤めていた病院で、この治療を受けていた人のメンタルケアをしていたことがあり、そのうち自分でも基本的な操作や、簡単な血管外科処置ぐらいはやるようになった。おかげで、いまでも薬物大量服用による自殺未遂にもあわてなくてすむ。透析器があれば、だけれど。
慢性腎不全でこれを受けている人は、週に三日は半日以上機械にしばりつけられるし、厳重な食餌制限などもあって、きわめてストレスの高い生活を強いられる。うつ状態や一過性の意識変容などの、精神科的合併症を起こすことも稀ではない。精神症状が起こってから精神科的治療をするよりも、透析療法にともなう困難と、その限界をちゃんと説明し、過程で起こる細かな問題をないがしろにせず話し合うことが根本的対処になる。その病院でも、精神症状を示す人の主治医はいつも同じで、その人自身にある種のコミュニケーション障害があるので、さっぱり改善していかない。結局自分の信頼できる医師に主治医交代してもらうか、自分で身体治療のレベルからかかわることになる。
リエイゾン精神医学、という領域があり、身体疾患治療過程での精神科合併症を取り扱うのだが、私はこの立場には極めて懐疑的である。身体科医師がちゃんとした対応すればよいので、おかしくなったらはいお願い、というのは例外的であるべきだ。しかも、大概の紹介患者は本来の治療へのちゃんとした説明など受けておらず、漫然と抗不安剤が処方されているだけだったりする。病院管理者の立場なら、根本的な対処ができるかもしれないが、一診療分野として対応しても、アリバイ的かかわり以上のものにはまずならないと思う。
なんて、グズグズと愚痴めいた話しに広がっていってしまった。もともと書こうと思っていたのは、"Dialy"というのは、透析を受けている人の闘病日記の題名にいいのではないかな、ということだけ。
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2001/10/14 |
代行当直シリーズも今日で一段落。ここまで拘束が続くと、多少の当直手当ぐらいでは換算されないところ、より根源的な互酬性感覚の部分に不安定さというか、一種の債権意識を持ってしまう。もっとも、やたらに暇な当直で、それ自身に価値のあるサービスというよりは、ほとんど儀礼的労働である。だからこそ現世的財貨だけではない(もちろんそれもなし、と言われたら困るけど)、何らかの象徴的返礼を期待する気分になるのも無理からぬところであろう。私の場合、日ごろの業務の手抜きとして、その返礼が自主的に実現されることになるんだなぁ。
なんだかダレてしまってM・モース「贈与論」ふうに、都合のいい理屈をとりとめなく考えるばかり。
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2001/10/13 |
職場には残飯狙いの野良ネコが数匹住み着いていて、周りの人もあそこなら程ほどにネコも生き延びられるだろうと思うらしく、時々捨てていかれる。多少ミバがいいのは誰かが拾っていくらしく、突然いなくなるが、大概のネコはふてぶてしい野良になるか、病気を抱えて弱っていって、やはり突然いなくなる。最期ぐらいは人の目に触れたくないのだろう。
2週間ぐらい前からここの野良グループに、一匹の仔猫が参入し、おそらく出産後しばらくは飼われていたらしき様子から、まことに愛想がよくて、ついつい情にほだされて家に連れ帰ってしまった。家には悋気あふれる先住ネコがいて、この春に同類が死んでからはそれは勝手に暮していたので、ちょっとまずいかなと思っていたら、果たして排除姿勢を崩さない。そう言えば死んだ連れ合いが数ヶ月遅れで来たときも、体型的優位が相手に生じるまでこいつは攻撃の手を緩めなかったんだったな。
どうにもダメなら動物里親のボランティアに頼んで養子先を見つけるしかないが、捨てられるまでの生育環境がよっぽどいいネコだったようで、愛想のよさが並ではないだけに、なんとか同居したいものだと思う。先住ネコの愛想悪さへの方策を考えたほうがいいのかな。
小ブッシュ氏は、こんな感じで世界を眺めているんだろうか、と突然思ったりした。
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2001/10/12 |
職場にやっと常時接続環境が整う。と言っても700k台のスピードである。これで月に20万ほど取るのだから、なめられたものだ。向こうの言い分では、ADSLやらCATVとは質が違うと言うのだが、5千円足らずで、アクセス集中期にもかなり安定して2M近くが出ている自宅の環境を考えると、どこに質の違いがあるんじゃいと言いたくなる。
早い時期に高速光ファイバー網を普及させると、確か前首相のときに約束していたような気がするので、こんなぶったくり専用線を使わされるのは、短い間だけのことだと思いたい。コイズミさんはそんなの知らんというかしら。
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2001/10/11 |
コイズミ米国パシリ政権は、テロ対策に熱心な姿勢を演出するためか、アフガン、パキスタン出身者を中心に、中東からきた人々に、難癖をつけては拘束しはじめるという暴挙にでたらしい。実際の対テロ効果とは関係なく行われる、こうしたインネンつけ入管行政の強権化は、さまざまな問題があるとはいえ、対外支援政策のおかげでかろうじてつなぎとめられている日本への信頼を打ち砕くものでしかない。普段外国人犯罪予防にはまるっきり無力なくせに、こうしたスポット的嫌がらせのレベルだけで対応してどうするつもりなのだろう。
この政策への不支持を表明するため、今日の昼飯は近所のパキスタン料理店に出かける。
店は公安警察からの不当な攻撃に備えるためか、客が何とか入れる程度のバリケードで守られ、ウエイターは手にカラシニコフをたずさえて、ピリピリとした表情で注文を取る。店内には土嚢や銃弾が積み重ねられ、臨戦態勢になっている。カウンターに立てかけてあるのはスティンガーミサイルであろうか。壁の飾りも取り外され、ビン・ラディン氏とセサミストリートのバートがならぶ写真に掛けかえられている。
なんてことはもちろんなく、店員はいつも以上にフレンドリーで、客は大入り大繁盛であった。味も相変わらず言う事はなく、たっぷりとした量と質のコストパーフォマンスを満喫させてくれる。この料理のうまさが続く限り、こんな田舎でも彼らは受け入れられつづけるだろうな。
ヨーロッパ中世が自閉している頃、寛容と柔軟性で、ギリシャ・ローマの知恵を人類に引き継ぎ、独自の科学文化を発展させてくれたイスラーム世界の豊饒を、自ら否定する原理主義者連中にも困ったものだが、彼らと同じ土俵に立って戦争を宣言することでしか、自分の立場を定められない愚かな西側権力者はもっと話にならない。敵がいないと自分たちが危ういと言う意味では、原理主義者も、高度資本主義社会指導者も、同じ危機に面していると言えるのだろう。
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2001/10/10 |
連休とか職場旅行などで当直体制に無理がきて、日ごろサボリっぱなしの私のほうに代役が集中し、しばらく一日おきに当直である。前の病院とくらべて救急は無いも同然で、小遣い稼ぎにもなって、おまけに禁酒も守れるし、のんびり本読んで寝ているだけに近いのだが、やはり拘束される気分がよろしくありません。
それにしてもヒマで、ダレてしまって小難しい文章など頭に入ってこない。あまりの手持ちぶさたに、フリーセルなんぞを強迫的に繰り返してやりはじめる。こりゃいかん、さっさと寝たほうがよさそう。
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2001/10/09 |
昨日は一度更新しない事の言い訳を書いたあとで更新する、という無様な真似をしてしまった。しかも、全然違う文脈で用意していたネタだったのに、単純に昔話になってしまったのが残念。
少なくとも、最近この業界に参入した人がこういう例に出くわすことは、もうないのではないか、と思ったりする。急いで書いたので、ちょっと意味が通りにくいところが多々ある。金もなく一年ちかくA氏が生き延びられたのには、サンプルで納入された「酒米」があったのと、義母が置いていった食材があった。彼は調理されたものは食べなかったが、手を加えられない食材は受け入れた。シールされたソーセージとか、加工食品一般は。だから薬を混入させると言うセコイ方針が通用しなかったのだけれど。
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2001/10/08 |
連休こそは放り出してある更新記事をまとめよう、と思っていたが、結局一日家にこもってPC設定をいじるだけ、という実りのないオタクの業に終始してしまう。MTUとRWINをここのいうままに変えたら、3〜4割がた接続が早くなったのは儲けモノ。こちらではRWINをやたら大きくしても限界があるということだったが、一桁以上大きい米国方式の方がやはり早い。ADSLとCATVの違いなのかな、よう判らんが。
昨日までの話に少しだけ追加。
生物進化の過程で、違う種が似たような外観を獲得することはよくあり、それは生きる環境への適応という機能的な必要に迫られてのことと言うのが一番だとは思うが、独創的形態の開発よりは、既存形態のパクリの方が楽、という事情も大きいに違いない。中には生存機能と全く関係ないのに類似していたりする事もあり、ライエル・ワトソンなんかが神秘的なとり上げ方をする。
人間の認識を介在させて、何らかの意味を見出そうとしても詮無き事で、ここは素直に「自然はウケ狙いのためにはパクリも辞さない」と捉えておくべきかも。それだって「意味」だけれど。
なお、気を取り直して昔話をまとめ、「雑感」のほうにアップ。「夢のお告げ」と言うところに焦点を合わせて、「都市伝説」のほうに持っていくはずだったのが、苦労した記憶ばかりがよみがえってきて、ああいう形にした。
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2001/10/07 |
昨日の話の続きになるのかどうか。
分裂病の発病初期には、基本的な機能や因果に結ばれていたり、無関係だったりする外界のさまざまな要素が、形態的類似とか、名称のダジャレ的一致によって、思わぬ関係性を見せることに深く心動かされる精神状態になるようだ。その衝撃は、詩的感動と科学的発見の喜びを一緒にして、なおかつ、既存の常識が通用しない新しい状況に自分が立たされていることから来る、深い恐怖と絶望をもごたまぜにしたような根底的なものらしい。これに肩を並べられるのは、宗教的ビジョンを一気に得る回向体験のようなものだろうが、それが病的なものと区別がつくのかどうかはちょっと疑わしい。
分裂病の場合は、何らかの生化学的偏位が脳内に起こっている、と考えられていて、そうした新たな関係性発見そのものが世界の意味全体を変容させるわけではない。しかし、正常範囲の人にもこれに近い体験は見られることがあり、なによりも、物まねとかダジャレが普遍的娯楽として成立する、ということ自体が、既成のものではない意味とか関係性の発見を人が常に求めている事を示している。それは逆に言えば、この世界が何らかの秘められた意味をほのめかす雰囲気を常にかもし出していて、その手がかりがあちらこちらに放り出されている、というエンターテインメント構造をもっていると言う事ではないだろうか。言語の存在を抜きにしても、世界はダジャレの卵なのである。
こんな事を考えたのは、掲示板で書いた「フルーツ・ポンチ事件」の画像入り記事を見たからである。切り取られたペニスとしか見えぬ、この菌類の塊は、この世界が本質的に備えているダジャレ構造の証左のように感じられるのだ。
疲れているのかな、なんだかドンドンと思考がトンデモ化していってる。
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2001/10/06 |
一昨日の日記でふれた「気を操る武道家」は、この手の人には珍しく、胡散臭いところをことさらに目立たさせるようなことをしない人で、淡々と気を放出すると称するパフォーマンスをしていた。「宇宙の根源は『気』なんですよ」という、いかにもな主張も、こういう人がいうとそんなものか、と思えてしまう。詐欺の手口で基本なのは、何よりも「この人に限って」と思わせることらしいけれど。
昔、妄想形成のメカニズムをいろいろ考えていて、エントロピー増大の法則にもかかわらず、この我々が住む世界では、あらゆるレベルで秩序が自然と生まれて進化していくように出来ているのだ、と感じた。この宇宙そのものが、物質の進化系なのであって、トータルでの増えつづける混沌のことは度外視して時間が進行しているともいえる。もっとも、妄想の場合は、それを担う人によっぽどエネルギーが無いと、そのうち増えたエントロピーの処理が出来なくなって、取り散らかした断片に解体していくのだけれど。
妄想とは言わぬまでも、都市伝説やデマに典型的なように、偶然が取り結ぶ、多彩にして、無関係な出来事から、さまざまの物語がつむぎだされ、幻の意味が見つけ出されるのは、この宇宙の設計原理からすれば、至極まっとうなことかもしれない。そういう秩序の形成原理が現象世界を支配しているように見える事を、「気が全ての根源」と言い換えるのも、そうトンデモ指向と非難せずともいいかな、と思ったりする。
そういえば、「宇宙の本質はダジャレである」とするSFを、読んだことがあったような。そちらのほうがより真理に近いのかな。
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2001/10/05 |
気がつけば、もう一ヶ月近く記事更新をしていない。テロ事件で、自分なりにこころ落ち着かぬ気分が続いていたこともあったが、二つぐらい考えていたネタが空振りだったのが痛い。掲示板に書いた、「フルーツポンチ、チンポコ混入事件」も、あんな結果になるしなぁ。小ネタからでも、やり直しをはかるしかなさそう。
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2001/10/04 |
何と言うことであろうか。ふとCATVのパンフを見たら、ヴェルタ・ア・エスパーニャの放映がとっくの昔に始まっているではないか(本当は9月30日に、ゴールしているんだけれど)。あせってチャンネルを合わせたが、既に7日目の個人タイムトライアルである。このレースはジロとツールの人気に邪魔されて、ほとんど二線級扱いであるが、本来はヨーロッパの自転車三大レースの一つなのだ。
もっとも参加するチームのほうもエースは投入しないし、何より主催者側が、数年前からジロとかち合わないように、5月のサン・イシドロ祭りにゴールする伝統すら放棄して、この季節にやるのだから、私なんかのレベルのファンが忘れてしまうのも仕方ないかもしれない。
レースの映像を見ながら、スペインには本当にスペイン瓦の家がいっぱいあるんだ、と感心しながら見ているぐらいなんだものな。本来なら山岳スペシャリストのボテロという、いかにもスペイン名前の選手が今日は勝って、めでたしめでたしではありました。ジロやツールでおなじみの有名選手はほとんど出てないから、単純な蘊蓄すら披露できないので、今度の休みにでも自転車雑誌の立ち読みして情報を仕入れにゃならん。
ところでTVと言えば、ちらりと見た、たけしの「そこが変だよ日本人」と言う番組で、「気で人を操る武道家」というのが出ていたのだけれど、ああいう怪しい技で操られる側の人が、皆申し合わせたように、ハリセンで張り飛ばされるチャンバラトリオとか、欽ちゃん走りをしてきてコケる人、みたいな定型的動きをするのが不思議だ。なるほど、というしかないような「理性を失った人」のお約束行動を示すのだ。あの手にいちいちインチキだとか、ヤラセだとか言う趣味はないのだが、ある種の「物語」という、お決まり既成概念に、何らかの方法で依拠しているものである事だけは間違いないと思う。
ああいう風に、二者関係を短時間で仕切って支配するテクニックというのは、精神科医は絶対習得すべき技術だろうな。
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2001/10/03 |
掲示板の方で紹介されていた、「一分間に36匹ゴキブリを食べてギネス登録された男」のことなんかを調べていて、「へそのゴマ」(だと思うがよく判らん。"belly-button fluff"へそにたまる屑?)をビンに溜め込んで、同じくギネス登録された人もいる事を知った。ここの真中のほう参照。
ある種の痴呆症状の初期に、収集癖という症状が出るのは知られていて、全く無意味(としか思えない)品々をやたらに持ってきては部屋いっぱいに溜め込んだりすることがある。本人に意味を聞くと、「今の自分が何かを感じた、そのあかしにするんだ」などと、洒落たことをいう場合もあるし、多くは言語的能力の低下もあって、説明できないことの方が多い。
客観的にもほどほど価値のあるものを集める人も含めても、他人には今ひとつ理解しがたいコレクターの心理というのは、この痴呆病者とかなり似たところがあるように思う。それは具体的なモノに、自分のありようを封じこめようとする、かなり空しい試みである。有限の自分と言う存在を、少しでも無限の側に引渡したい願望なのだろうが、それが曲りなりにも実現できる事物では、金とか宝石とか、一般的財貨になってしまい、個別性を担えなくなる欠点がある。と言って、なんじゃそれはと思われるような、オタク物品では人には理解されないし、何より永続性が保証されない。
この辺のバランスがなかなか難しいところで、個別性が重視されるようになったとはいっても、へそのゴマ数年分のコレクションでは、誰もその価値を認めないし、その思い入れが共有されることはない。このコレクターがいくらギネス登録されていたって、本人の死後まず遺族はこんなもの、捨てますわな。
私自身、数年ぐらい前まで読みもしない本を集めるのが一種趣味だったが、その基底に存在する収集癖の黒い影に最近気付き、読めるものしか買わなくなった。老後に読書三昧、なんて考えても、どうせ老眼がもっと悪化して出来はしませんがな。じたばたせずに、無意味である事の喜びを感じていきたいものだと思う、今日この頃。
昨日の「イズムの街」の件だが、なんぼなんでもあれはおかしいと思い、例えば「リズムの街」の見間違いではなかったか、と考えてみたりした。「リズムの街」にしても何となく妙で、中央の公園に標準時計でもあって、その時計に合わせてみなが出勤したり帰宅したりするような、おせっかいな管理主義を連想してしまう。
googleで調べるとやはり「イズムの街」は実在し、私の見間違いではなかった事がわかった。「長征の街」とか、「住まい、統一戦線」とか、「気分はマッセン・ストライキ」なんて建売住宅街があっても、もう驚かないぞ。
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2001/10/01 |
左翼趣味話題が続いているので、ついでに。
所用があって、職場から車で一時間ほどの距離にある小都市まで出かける。そこの近くに、ミニ開発の建売住宅群がただいま売り出し中で、その名前がなんと「イズムの街」。うーむ、イズムかい。イズムというのは広義には、何とか主義とか、何とか説と言う意味でつかわれ、たぶんコピーを考えた人間は、しっかりとした見識に基づく主張のある暮らしをはぐくむ街、というような感じを表したかったのだろう、と好意に解釈したい。
でも、少なくとも昔からの慣用では、イズムという言葉は「共産主義」の文脈で使われてきたはずだ。多少のゆれはあるにせよ、コミュニズム、マルキシズム、スターリニズム、トロッキズム、マオイズム、といった範疇だ。昔は党派の機関紙に、「共産主義」というそのまんまのものがあって、それを「イズム」と呼び、別の党派では「共産主義者」と言うのを出していて、「イスト」と呼ばれていた。もちろん、そんなのを読むのはセミプロで、大概の人間は関係なかったのだが、そう言う言葉の使い方だけは知っていた。
それが今や、不動産屋さんのコピーにつかわれる、ちょっとハイソな言葉になったわけだ。もちろん、この不動産屋さんが、共産主義革命運動の拠点となるような街づくりを意図している可能性もあるわけで、私の感慨はまるで間違いなのかもしれないのだけれど。
"Alcoholism"とか"Parkinsonism"のイズムだったら、もっとやだな。
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2001/09/30 |
日曜夕方出勤→当直である。朝の混雑が避けられるから楽でよろしい、とうそぶいてみても、ちょっとしたことにやたらに腹が立ち、いい歳して夜勤などせにゃならん悲哀が身にしみる。職場につくまでにベルリンマラソンが終わるのではないか、と気が気でなく車を飛ばし、なんとか後半の見所に間に合う。高橋尚子の怪物ぶりには舌を巻くが、なんとしても許せないのが、TV局がやたらに某アナウンサー(あの傍若無人ズラ疑惑野郎のオグラだ。わたしゃあの男の顔を見ると、数日は気分が悪い)を大物ぶらせていること。
祝福されている高橋選手に、「高橋さん、スタジオに小倉さんがいます」ってなんなのよ。小倉がいようが宇治金時がいようが、番組の進行係にすぎんだろうが。アナウンサー風情が、でかい顔してお褒めの言葉なんぞいう立場ではないだろうが。せっかくの快挙が、あの不遜ズラに汚された気分で、不愉快至極。この不愉快さを仕事に持ち込まんようにせにゃならんと、マスコミゴキブリの頭からズラをむしりとるイメージ療法を三セットほど実行する。いかん、余計腹が立ってきた。
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2001/09/29 |
昨日は二時間ほど音声認識ソフトで遊んでいただけなのに、今日は喉がヒリヒリ痛くて、声がかれてしまっている。今日は使用を断念し、いつもの雨だれタイプ。
掲示板の方でちょっと書いたことで思い出した話を。知り合いに、学生時代、*核派活動家として、珍しく結構真面目に政治運動をやっていた奴がいて、一時は生死をも知れぬ非公然の闘いに出るのだと、えらく張り切りまくっていた。私みたいに無原則で口も尻も軽いような人間に、そう言う事をペラペラ喋ってしまうあたりがすでにナンだが、とにかく本人は大真面目だったのだ。友人たちと、「祝出征」のタスキでも作って、万歳三唱で送り出そうと提案したが、さすがにそれは却下された。
半年もせぬうちに、そいつはキャンパスに舞い戻った。英霊にもならず、結構なことであったが、彼は何となく照れくさかったのか、今までのようには親密な付き合いは戻らぬまま、卒業してからは音信不通になっていった。
お互いにいい歳になったころ、ひょいとその男から連絡があった。今は雪国で知られる地方に居をかまえ、私なんかよりよっぽど地道に暮していると言う。最近は競技スキーに目覚め、シニアの国体選手も目指すレベルなのだと。オフシーズンのトレーニングについて聞いてくるので、アルペンをやるにしても持久力は大事だから、ランニングが基本だろうな、と答える。スキー場を利用した、クロスカントリー走などは特に効果的だろう、とも言い添える。
その男、しばし沈黙して言うことには、「もと中*派だけに、クロカンだけはご勘弁を」。
このオチ、何人の人に判ってもらえるだろうか。
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2001/09/28 |
私はあまりキータイプが得意な方ではない。当然話したりするよりはずっと遅いし、手書きとどっこいどっこいである。しかし、字が絶望的なまでにヘタクソで、自分でもあとで読めなかったりする。もう二昔近く前にワープロというものがあるということを知ってから、その目的のためだけに、コンピューターを使ってきたといってもいい。
一応、タッチシステムらしき指使いが出来ないでもないのだが、完全に手元を見ないですむ、とまではいかないので、ミスタッチが頻発する。もっともそういうものを修正しながら書いていくことが、ほどほど推敲のかわりになっている。これでミスなしに話し言葉のスピードでバシバシとタイプできるなら、それは素晴らしいことだろうが、文章を思いつく能力がそれについてこられるとは思えない。
こんなことを書いたのは、知人が親切にも、「音声認識ソフト」を勧めてくれたからである。試用してみて、いいようならもっぱらそれを使うようにすればどうか、というのである。
実は4年ほど前に、この音声認識ソフトというものを使った経験はあるのだ。テレビでSMAPの草ナギ君だか、香取君だかが宣伝していた奴である。正直言って、このソフトはまるで使い物にならなかった。エンローリングという自分の言葉をPCにおぼえこませる作業に結構時間がかかり、なによりもその作業を行っている時の気恥ずかしさがただ事ではない。しかもその作業を行った後でも、そのソフトが打ち出す文章は、まるでシュールリアリズム詩歌のようであった。そのまま自動記述させるにまかしておけば、面白いかというとそんなことはなく、乏しいデータベースを、ただでたらめに打ち出しているだけなのだ。
その点、試用させてもらってるこのソフトは(特に商品名は秘す)格段の進歩である。エンローリングにあたる作業は実に短時間で済み(それでも十分恥ずかしいが)、何よりその認識率が抜群である。その上、かな漢字変換がIMEの数十倍は賢い。もっとも、ほとんどゼロで除算しているようなものではある。
ここまですべて、音声認識ソフトで書いてきたのだが、使い方をよく理解していないために起こる不都合さを除けば、ほとんど言うことはない。ときどき、窓の外をいく通行人が、気味わるげに家をうかがっていくという欠点はあるが。
これからのPC入力はすべてこれになっていくに違いない、ほとんどボイジャーの世界である、と言いたいところなのだが、それはやはり無理だろう。こういうものは、上肢の機能に障害がある人の補助具としては有効だろうが、多くの人の場合、手入力に代わるものになるとは思えない。日本語のように、同音異義語が多くて音だけ聞いていては十分意味を取りにくい言葉の場合、しゃべる前に文字イメージをまず作ってから話していたりするので、音から文書を作っていくという作業は多くの人にとって不自然と感じるはずだ。文字→話し言葉→文字と、わざわざ余計な工程が入ってしまう。
そんなことを言いながらも、慣れれば何のことはないのかな。現にだらだらとここまで書いてきたのだから。腕も指も疲れずで結構なことだ、と言いたいが、のどはカラカラ、首筋はパンパンである。こんな形で「言文一致」を実践することになるとは、思いもしなかった。なぜかとてもフィジカルに疲れる作業である。
更新ネタに使おうかと思ったけれど、イマイチふくらましようがないので没にした話題。
米国CIAが先ごろ開示した秘密書類の中に、こんなものがあった(AcrobatReaderが必要)。60年代、冷戦華やかなりし頃、CIAが計画していたスパイ作戦の一つについての書類。固有名詞などは削除されまくっているのだが、おおよその大意は掴める。
「聞き耳ニャンコ」(Acoustic Kitty)作戦と名づけられたその作戦は、ネコを訓練して諜報対象のもとに忍び込ませ、首輪に取り付けた電子機器によって盗聴するという、セコイのか稀有壮大なのかよく判らないものである。結構な予算を使って検討したらしいが、結論は当然のごとく、「あまり現実的ではない」というもの。気まぐれなネコに、諜報員の役割が果たせるはずもない。
何といっても傑作なのは報告書の結びで、「この研究をすすめてきた人物の熱意と想像力は、科学的パイオニアの鑑といえよう」というもの。有効性なんかは考えなくてもいい時代だったわけね。昨今の殺伐とした状況を思うにつけ、こんな間抜けな作戦を大真面目に考えられるのは、諜報活動にさえ、人類の発展というような幸福な物語をこじつける事が出来る時代だったからなのだろうな、と感じ入るしかない。
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2001/09/26 |
掲示板の方で「開業直後に院長が自殺した精神病院」の話を披露したら、その債務を引き継ぐ家族への同情論を引き起こしてしまったようだ。
親族の作った借金のために破滅するごく普通の人々というのは、明らかに金融機関がわに有利になるためにでっち上げられた「都市伝説」そのものである。返せない借金のために破滅する事など、よっぽど気の弱い人でもない限り、現実にはない。返せないなら、返せない、それだけの事だ。
たとえば、病院を開設するために十億の借金をしたとして、それが不良債権になって親族に突きつけられたとしても、十億以上の資産を持っている人ならいざ知らず、大概の年収数百万の人間がどうやって返すというのだ。無理に決まっているではないか。何のために担保を取っているのだ。そう言う連中に裁判でも起こして返済を強要しても、有効性はないのだから、程々の現実的な話になるだけの事である。多分、裁判費用なとを考えて、保証人であろうが債権放棄になるだろう。まともな金融機関であれば。まともでないところなら、はじめから回収できる分しか貸さない。
金を貸した連中というのは、商売になると思ったから貸したのであって、商売というのは必ず儲かるものではないのは当然の理だ。意図した商売がうまく行かないからといって、そんなことまで他人が責任持つ必要はない。自分の損は自分のリスク、関係もない親族にガタガタ迫る根拠などない。売掛金だって同じことだ。いままでさんざん取引で儲けておいて、最後の一月や二月の支払いにグズグズ言うのはどんなものか。
ここで困るのはむしろ小額の借金である。数十万レベルが一番まずい。こういうのに返還訴訟起こされると払わない理由がなくなるので、借金するときはできるだけ多額のモノにまとめる努力をしておかないといけない。債権買い入れしてくれるような、フットワークの軽い友人がいればいい。つまらん借金申し込むより、こちらで動いてもらうようにすべきですな。
年収数倍はまだ不安範囲なので、年収10倍以上ならまずそれは返済とは無関係と言う事で、のんびりしていればよろしいのです。億を越えれば金は金でなくなる、と言う原則でのんびり行きましょう。あ、しょうもない生命保険なんて、入ってはいけませんよ。
(なお、個別的事例に質問がきても、まず返事しませんので、御納得の程を)
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2001/09/25 |
「墜落のある風景」(マイケル・フレイン:創元推理文庫)
表紙にアレンジされたブリューゲルの絵の断片をみて、これは失われているブリューゲルの絵をめぐる謎解きで、その帰属をめぐって殺人事件の一つや二つがあるに違いない、と勝手に決め付けて購入。きっと図像学や図像解釈学の蘊蓄がたっぷりあって、もしかしたらダイイングメッセージと結び付けられていたり、あるいは絵のテーマにそった「見立て」連続殺人事件があるのかも、などと想像だけが先行する。
読んでいくと、サバティカル休暇をとっている哲学者が主人公で、フランドル絵画について哲学的な観点から本を書こうと思っているがさっぱり筆が進まず、田舎に執筆活動に専念しようと引きこもるという、先の予想にピッタシの展開。
厚かましい隣人に招かれて、絵の鑑定モドキをやらされるのだが、そこでまさしく、ブリューゲルの有名な季節連作の失われた一枚とおもわれる絵を発見する。よしよし、気の毒だがこの隣人の命は風前の灯だろう。密室で奇妙な扮装の死体となって発見される隣人、そして絵も消えているに違いない。主人公はその死体が、イカロスの墜落を模していることに気付き、それを手がかりに次々と謎を解いてゆく……はずだよな。
ところが実際は殺人事件は起こらず、主人公は無知な隣人から絵を巻き上げるべく、手の込んだ詐欺行為を企画する、という話が進むのである。あまりにも類型的な先走り想像をしてしまったため、けっこう面白くはあった内容が、ことごとく肩透かしのように感じられてしまった。ブリューゲル自体に関する蘊蓄はそれこそ山盛りで、これが笠井潔なら、紹介されているブリューゲル=異端派説などを使って、過去に絵が失われた理由と、現在の殺人事件の謎解きを結びつけた、なんだか判ったような判らんような話にまとめるのだろうな、と思ってしまう。
お約束の話に持ち込もうと思ったらいくらでもできるのに、敢えてそうしないところが英国式感覚か。原題は"Headlong"(軽率)で、これを邦題のように訳すのはなかなかの才覚。もちろんこれはブリューゲルの「イカロスの墜落」からきていて、原題をうまくイメージ化している。(もしかしたら、イカロス=軽率という、それこそ図像学的連関がもともとあるのかもしれないけれど)
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2001/09/24 |
NY在住の方からメールを頂いていて、例の事件以後の生活変化と空虚感について率直に吐露されているのだけれど、どのように返事を書くべきか見当つかないと言うのが正直なところ。このサイト記事に対しての感想に対して、返信したのが事件の真っ最中、というタイミングの悪さだった。ふだんTVもあまり見ないものだから、事件の事は翌朝まで知らなかった。
私自身は、事件の原因は煎じ詰めれば米国自身が作り出したもの、という意見をもっているが、同朋を、友人を失った人々の悲しみはそれとは無縁なものだというのも、もちろん判るつもりだ。歴史の冷酷な流れを押しとどめるのは、ただ個々人の嘆きと悲しみだけなのだけれど、それが本当に機能するのは、無情な歴史が落ち着いてからのことなんだよね。
一般論ならいえるのに、多少でも当事者になる人に具体的な事をいえないのは、日本人独特の総論的態度だけれど、この歯切れの悪さは決して恥ずべき事ではない、と私は思いたい。
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2001/09/23 |
「黒い仏」(殊能将之:講談社ノベルズ)
アマゾンからメールがきて、テロ事件の影響で発送がかなり遅れるとのこと。地元の本屋に運良くあれば注文をキャンセルしようと出かけたが、取り揃えが気の毒なほど悪い近所の本屋に、目的のモノがあるわけはない。
前に「美濃牛」で懲りたはずの、殊能将之のこれがあったので、ちょっと迷ったが買ってしまった。見開きに子規の俳句なんか添えてあって、前作に出てきたバカ俳句が絶対二つ三つあるに違いない、と言うだけの期待で買ったのだが、そんなものは全然ありませなんだ。そればかりか、前作以上に購入した事を深く後悔させられた。
「美濃牛」はけっこう面白かったのだけれど、言うならばエッシャーの絵を模型で再現する手法、ある一点から見たときだけ、矛盾に満ちた絵面が成立するようなやり方を読者に強いるもので、うまくミスディレクションする努力などは一切放棄しているのががっくりだった。一応読者にすべての情報を(少なくとも手がかり程度は)開示しておくのが、ルールと言うものだろう。
この本の場合、もはやミステリィとしての構造すら目的にされていない。なんだか壮大な似非世界観みたいなものが暗示されていれば有り難がる、お馬鹿な人たちはこれでもいいのだろうけれど、それなら「本格ミステリ」云々の宣伝するのはいかん。既存型式を打ち壊す目論見なのかもしれないが、読者の未熟に期待する了見はいただけないぞ。
それでもこの作者の器用さとか、少なくとも文章の上での破綻のなさというのは大したもので、読みつづけるのも苦痛だと言う事はない。最近、ウェブ上ではティーンズ文庫というのか、昔なら「中学三年生」夏休み特大号についていたような、どうにもつまらない小説群を評論するのがはやっている様なのだけれども、その手のレベルよりは格段に上であることは間違いない。
鋭いな、と思った記述は次の二点。
(1)刑事はお互いをあだ名で呼ばない。
(2)若い坊主のカジュアルスタイルは、一般的にかなり派手である。
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2001/09/22 |
老人病棟に勃発した疥癬騒ぎもようやく終息してきて、新しく症状を示す人はいまのところないのだが、どうも自分の方があちこち痒く、虫刺されみたいなブツブツがでる。定型的な疥癬症状ではないし、庭木の枝切なんかさせられてからのことでもあるので、対症療法に終始していたが、どうにも気色が悪い。
そこで「北欧人のサウナ好きは疥癬対策」、という根拠のない決め付けに基づいて、サウナを使うことにした。通っているスポーツジムにはサウナがあるのだが、運動の後にそんなものに入ると脱水は悪化するし、クーリングのためにもならんし、なによりそこを好む人々は、運動施設を主に利用する人とは少し違う層を形成している。いままで全く利用した事はなかったが、この際非常時である。
さてその結果であるが、週3回、数分の使用でカイカイは全快である。あまりの効果にあきれるほどだ。ただし効能の鋭い治療法には必ず副作用が伴うのは世の常。脱水がひどくなるのでついついビール消費がふえ、泥酔してはそのまま寝込んでしまう結果につながる。数日前の記憶障害も、それが遠因である事は明白だ。
少なくとも病院に導入すればその点は何とかなるので、これは本気で老人病棟サウナ新設を上申すべきであろう。
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2001/09/21 |
昔からの友人から手紙が届く。友人自体数えるほどしかいない私には珍しいことに、女性である。メールでなく、手書き紙媒体で便りをくれる人は家族以外この人だけだ。それは私が恐ろしく筆不精で大概の手紙には返事もしないものだから、手紙のやり取りなどはほぼ絶え果てているからで、年賀状だって出す相手はもはやこの人を除いてはいない。
やり取りと言っても、こちらは年に一度か二度書くだけで、それも「そろそろメールをはじめませんか?」と電脳アリ地獄への誘いが主な内容だったりする。最近はポスコミというけったいなサービスで、広告だらけの失礼な葉書を送ったりするのに、怒りもせずに手紙をくれる。
この人の手紙は、まず「この本が面白いが、当然お前はすでに読んでいるだろうな」というチェックである。今回は「おまえはケダモノだ、ヴィスコヴィッツ」についてであった。丁寧にも、本の一部分をコピーして、その裏に私信が書いてある、という念の入れ方である。もちろん私は題名すら聞いたことがなかったので、あせってその日のうちにAMAZON.COMに注文する。読んだら感想を報告せにゃならんが、ネタ仕込みを手伝ってくれていると思うことにしよう。コピーの部分だけでも、全部を読みたい気分にさせられたし。
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2001/09/20 |
ZDNNによれば「フランスの外科医療チームがビデオ/電気通信技術を使い,ニューヨークからロボットを操作してフランス国内にいる患者の胆石を除去するという遠隔手術に成功した」とのこと。(リンクはどうせすぐ消えるので張らない)
かかった費用は100万ドルだそうな。胆石というと、外科研修医が虫垂炎の次にやるような手術だ。普通にやってたら費用は1000ドルかからんだろう。「ITバブル」というものが崩壊するのはあたりまえですわな。つまらん事にわざわざ無駄な金掛けてるだけなんだから。
ブロードバンド網を使ってオンデマンドビデオ配信するより、近所の貸しビデオ屋に行く方が、単位時間あたりの情報伝達量ははるかに大きい、と言ったのは「インターネットは空っぽの洞窟 」のクリフォード・ストールだけれど、それよりもよっぽどバカバカしい「快挙」ですな、これは。
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2001/09/19 |
どこだったかよく覚えていないのだけれど、ある個人サイトで「ごんべさんの赤ちゃんがかぜひいた」という歌に付いて触れられていた。多分この元歌である「リパブリック賛歌」が、例のテロ事件の追悼式などで歌われるシーンがニュースなどによく登場するので、アメリカ人がその歌にもつイメージと、日本での使いまわし状況がかなり違うのにインスパイアされたのだろう。なんせこの歌は「おたまじゃくしはカエルの子」だったり、「ヨドバシカメラ」のCMソングだったりもするわけで。
そこでは、「それであわててシップした」という、最後の歌詞についての疑問も表明されていたようにおもう。なんで風邪に湿布なんだ?と。
でも、風邪に湿布というのは民間療法では定番と言っていい。湿布というのはその字が表すとおり、湿った布のことだから、例えばぬらしたタオルで熱を下げることは湿布そのものだ。この延長には、コンニャク湿布とか豆腐湿布とか、おそらく熱伝導効率とか、入手の容易さから定番になっていったと想像されるものがあり、漢方概念を援用して、発汗作用を期待したと思われるショウガ湿布とかネギ湿布なども使われる。それらにどこまで妥当性があるのか一律にはいえないが、少なくとも害があるようなものではない。こうした気遣いの伝承が共有されている家族と言うのは、最近とんと見る機会がないけれど。
同じメロディーで、共和国の栄光がたたえられ、一方では幼子への精一杯の気遣いが歌われる。まことに対比的にして、彼我の違いを際立たせてくれるように思える。
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2001/09/18 |
同時多発テロから一週間、なおくすぶりつづけるWTCの瓦礫。
はなはだ間抜けにして不謹慎な感想で申し訳ないのだが、今回の事件に限らず、ビル火災のたびに感じるのが、あれは一体なにが燃えているのだろうという疑問である。むしろ今回ならジエット燃料が燃えているのだろうと思えるが、それにしても量は限られているだろうし、類焼するものは何だろうかと考え込んでしまう。ビル内装というのは可燃物なのだろうか。カーテンとかカーペットは最近防炎だと思うし、オフィスの机が全部木製ではないだろう。プラスチック製品は燃えるだろうが、どんどん燃え広がるほどの密度はないのでは。防炎処理、なんてのは結局ウソなのかもしれないけど。
一時暖炉のある暮らし、というのに凝った事があって、そう寒くもない頃から火を入れて喜んでいたのだが、その経験から言えば、そういう目的で作られているものでも、そこで火を起こし、薪に引火させ、それを維持しておくのはけっこう大変な作業だった。放火犯なんかが、マッチ一本であっさり家を丸焼けにしたりするのが、不思議でならなかったものだ。
まして鉄筋コンクリートだったり、鉄骨総ガラス張りだったりするビルである。どうやったらあんなに燃え上がるのだろう。事情を知ってる人からすれば度し難く、くだらない疑問だとは思うのだが、あまり納得のいく説明がされているのは見たことがないような気がする。
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2001/09/17 |
コストパフォーマンスよさげなチリワインをみつけ、味見をすればまさしく見込みどおり、こりゃいいわとぐびぐび飲んでいたらなぜかそのまま記憶が飛んで朝になっていた。ワイン一本で脳内リセットがかかるはずもなく、これは調子に乗って焼酎にでも移行し、逆行性に記憶消失したに違いない。二日酔いしていないのが不思議だが、これは最近、絶対的アルコール摂取量がどっと少なくなっているからだろう。
なんかここに書く事を思いついた瞬間だけの記憶があるのだが、全く内容は不明。とても面白いのに断続的にしか書かれないのが残念な、ここの内容に関することだったような気がするのだけれども。
「都市伝説」の記事のために買った「Fの性愛学」のなかに、66年に出た、フランス・ギャルの「アニーはロリポップが好き」と言う歌が紹介されていた。
「アニーはロリポップが好き。アニスの味のロリポップ。アニスの味の麦芽糖がアニーの喉を過ぎていくとき、彼女は天国にいる」
フランス語なのに小銭の意味でわざわざ"Pennies"を使っていたりして、もはや隠喩にもなっていないほどの露骨さなのだが、ロリコン向けカマトトムードで売り出した当の彼女は意味が全くわからず、当時のメディアには棒付キャンディをほおばる彼女の写真があふれたという。(ちなみに原題の"Annie aime les sucettes."で検索したら、そのものズバリの題名をもつロリ志向エロサイトが見つかった)
彼女はいまやフランスではポップス界の大御所らしい。ネットを調べるとかなりの数のファンサイトもあり、Audiogalaxyでもファイルがいっぱい見つかる。この曲や、日本でけっこうヒットした「夢見るフランス人形」なんかの頃はお仕着せタレント丸出しだが、時代をおうごとにだんだん本物のアーティストになっていく様子が面白い。
しかし実を言うと私は、フランス・ギャルというあざとい名まえもあり、60年代当時、洋モノタレントなら何でもありがたがった風潮に乗っかった日本製フランス歌手だと思っていたのだった。日本語バージョンがすぐ出たりしたし。しかも私はこの人が80年代初め頃、関西方面のTVで洋タレをしているのを見た記憶があるのだ。お昼のクイズ番組かなんかで、桂文珍あたりと達者な日本語で掛け合いしていたと思うのだがなぁ。これも妄追想かしら。
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2001/09/15 |
当直明けで、某所用のため都心方面へと往来しなければならず、疲労困憊。ちょっと前まで持久系スポーツ中毒に陥っていて、常人にはとても理解不能な量のトレーニングを続けていたのだが、結果として明らかな老化進行が来ている。程度というものがある、というのはその通りなのだが、やはり人間というのは生まれた段階で、その人の「分」と言うものが決まっていて、それをどううまくアレンジするかというのが個々の課題になるに違いない、という確信が生まれつつあるのも事実。身体的パワーの発揮という面では(あっち方面ふくむ)、配給をほとんど使い果たしたかな、とおもう今日この頃。
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2001/09/14 |
テロ報復の動きはいよいよきな臭く、反米勢力一掃を目論んだ大戦争に発展する可能性すら見せている。パールハーバーと今回の事件を同一視するような、米国首脳の失言と言うか本音をみていると、あの神がかりジャップ連中だっておとなしい下僕に変身させたんだから、核の2〜3発も食らわせば、アラブ人など聞き分けのいい犬にするのは簡単、と思っているのは間違いないと思う。でもかの地の方々、根性の入り方が私らとは違いますからな。
それはさておき、考えてみれば明日は休日である。土曜日が休日になっても、喜び半減だ。おまけに今夜は当直で、わずか2〜3時間しか休みになったことにならない。公明党さん、土曜日と祭日が重なる場合は、月曜日も休みにしろとまでは言わないまでも、祭日を月曜日に振り替えるような法律をつくってくれませんかね。その手の脱力系政策に関しては、ホント頼りにしてるのだから。
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2001/09/13 |
ニュースによれば、小泉首相は米国への全面協力を直接小ブッシュに電話で伝えるべく、日本以外の各国と電話連絡で忙しい大統領に、10分間だけお声を頂くようお願いして、やっと電話会談が出来たそうである。
イジメでパシリをやらされる中学生だって、もちょっと毅然としているんではないだろうか。ふた昔以上前、某革新政党は基本的な政策として、「対米従属打破」を主張していた(多分今もそうだろう)。日本の支配層が独自利害を追求していないはずはなく、こうした反米愛国論というのは帝国主義への道を開くだけだ、と私などは感じていたし、事実その後の日米経済摩擦の過程では、こちらの感覚の正しさが証明されたような気がしていた。
でもこの間の政治家、官僚の言動をみれば、「対米従属」というのはまさしくそのとおりなのだ、と思う。「鬼畜米英」からのこの転進は何故なのだろう。アラブ諸国などが、比較的良好な対日感情を持っているのは、日本が非戦闘員の大量虐殺などでコテンパンにやられた恨みを忘れるはずはない、という期待なのだと思うが、そうした態度の片鱗すら政治家や官僚に見えないのは不思議な事だ。
一番不思議なのはいわゆる自称「戦闘的右翼」の連中で、まあ、政治的アジなどもする能力がなく、街宣車で鶴田浩二の軍歌を流して走る事しか出来ないのだから仕方がないのだが、米国の覇権主義を批判する運動を展開することすらない。それではスポンサーがつかないからだろうけれど。
もっとも私は、日本は中途半端に対米従属しているからいけないので、半分受け狙いながら、志願して52番目の米州になればいい、と思っているのですけれど。コイズミさん、州知事としては絶対適任だもの。
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2001/09/12 |
ガラスの家に住むもの、人に石を投げるべからず、である。
小ブッシュはこの諺を肝に銘じているだろうか。それとも今までと同じように、せこい慢心をより強く他人に押し付けつづけるのか。この壊れやすい地球環境に住むものは、どんな形であれ他者を尊重しながら生きつづけるしかない、ってことは彼には永遠にわからないような気がする。まして、彼に代表される慢心のアメリカに闘いを挑んでいるつもりの人々も、同じことのような気もするのだが。
あのような理不尽な事件で、命を落とさねばならなかった多くの無辜に対する痛みとはまた別のチャンネルで、もっと沢山の死者が積み重ねられないと、この他者へのいたわりが欠けた強者の歴史の歯車が止まる事はないのかも、と思ったりする。
少なくとも、小ブッシュが見当外れの報復大量殺人に踏み切る事のないことだけを願いたい。非戦闘員の大量虐殺に関しては、米国は老舗と言ってもいいのだから。
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2001/09/11 |
「都市伝説」を更新。だいぶ前にほとんど書いていたのだが、内容が成人指定なのと、「題名」が今ひとつ決まらないのでアップしないでいた。「口淫かろんずべからず」のほうがいいかな。それでは「一寸の」がないし、そいつもパロるのは難しいし、だいたい「口淫」なんてそう綺麗でない言葉にこだわることもないので、もっと別のを、と考えたがろくなものを思いつかない。
「オラールでござーる」では馬鹿だ。「フェラチオの狩る矢のさきにたつ鹿もいと我ばかり物は思わじ」では原典が誰にもわからんし、凝ったわりには露骨だ。大体長すぎる。
なんて事を考えているうち、時間ばかりたつので面倒になってアップ。たまにはこんなので勘弁を。
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2001/09/10 |
なんか体調がイマイチだと思っていたら、唇の端がちくちくし始め、ヘルペスが出来ているのに気づく。30年来の付き合いだが、実に的確な健康チェックになる。これが出るときは、仕事はひたすらさぼり、早寝遅起昼寝を欠かさず、ゆっくり自然回復を待つしかない。考えてみれば普段の生活とほとんど同じであるが、酒も控える、という重要な差があるのです。
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2001/09/09 |
昨日の文章の後段が、なんだかよく判らない。酔っ払っていたわけでもないのに。
個人消費が景気を決定するのは間違いないが、いわゆる先進国は軒並み人口減少傾向にあるわけで、これでつましく暮していたら個人消費が増えるわけはない。日本はその頑迷な移民拒否政策によって、さらに自分の首を絞めているわけで、景気が回復する道理がどこにもない。中国だって、極端な一人っ子政策でそのうち人口減に転ずるだろうから、先がないのは同じだ。なまじ今たくさんの人口を抱えている分、凋落時の悲惨さは際立つだろう。
個人消費を増やすためには、浪費と贅沢しか道はない。消費税ポイントをためると、所得税にまわせるとか、年金の利息があがるとか、特別払戻金がつくというのはどうだろうか。もしかしたらニセ官邸あたりで、すでに主張されているかもしれないけれど。とにかく、宵越しの金は持たない、という生き方を奨励する。その上で国家は、最低限度の文化的生活という奴を保証する程度の役割に徹する。
そんなことが言いたかっただけ。もちろん、緻密に考えているわけではない。
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2001/09/08 |
外務省ノンキャリによるホテル経費水増し疑惑だが、あれはなかなか報道を見るのもつらい事件である。まず、当人が情けない。あんな決まらん男に、宿泊や食事がいくら只だからといって、「水沢アキ風美女」があっさりものになる、というのが寂しい。ちゃんと手当てをもらえ、と私は声を大にしたい。若者雑誌では、どうやって個別性を発揮して異性を獲得するか、というのが今でもメインのテーマなのに、要は中産階級レベル想像範囲上限のセコイ贅沢さしてやりゃいいんだよ、というのはちょっときつすぎる事実暴露ではないだろうか。
多少の個人的経験から言えば、あの手の無責任消費というのは実に気分がいいもので、いわゆるバブルはああした身のほど知らずの背伸び浪費によって支えられていた、と言ってもいいのではないかと思っている。いま昔の夢を求めたい連中は、あのノンキャリ官僚が得た快楽への誘惑を、どうやったら普通の人が自分を責めることなく一般化できるか、という視点が必要ではないか、と思ったりする。
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2001/09/07 |
数日、流し読みしかしていない本のことなどを書いていたけれど、これはまるっきりネタがないのと、そもそも書く元気がないのと、両方による。頭の中が空っぽでも、当意即妙に適当な言葉を並べ立てるというのは、我々の仕事では大事なことだ。毎日とにかく何か書くことにしているのは、その辺の能力がどんどん落ちているので、リハビリのつもりなのである。
純粋精神科診療のときは、えらく鋭くて答えようのない質問を浴びせられても、フムフムと頷いて、「その答えを今すぐ得たい、と思っているのですね?」などと、人工無能風の卑怯なカウンターで逃げるという手があるが、身体科診療のときは、ひたすらもっともらしい減らず口を繰り出しておかねばならない。もちろん、嘘八百ではまずく、ほどほどに真理志向でないといけないけれど。
先日胃腸科の医者に匙を投げられて(と言うより患者側が匙を投げて)私のところにきた人は、「クスリ飲んでも飲んでも調子が悪いと言ったらね、胃カメラになったんですよ。そしたら何ともない、て言われてね。なのに、一応胃薬を出しときますからっていうんですよ。何ともないなら薬なんていらんはずでしょう。そう聞いたら黙ってしまうんですよ」と苦笑しながら訴えていた。
一般科でも、名医と言われる人はまず相手の性格傾向を評価して、その不安がどこに集中しているかを見抜く力をもっているものだ。そこまで望まずとも、正直に「よく分かりません」と言えばすむのにと思うが、それではシャクなのだろうか。定型的な検査と投薬に合わない患者は知らん、というのは困ったものだけれど、考えてみればこの手の人を最近は「エキスパート」と呼んでいるのだなぁ、と気づく。
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2001/09/06 |
昨日書いた「題名を忘れてしまったけれど、けっこう売れた十手者の日記」というのは、「目明し金十郎の生涯」(阿部善雄:中公新書)だった。日記ではなく、「守山藩御用留帳」という陣屋の記録から、江戸時代中期に実在した目明し、金十郎の活動を取り出して描いたもの。目明しというと、TVドラマなんかでは犯罪捜査官の扱いだが、金十郎が実際にやっていたのは、犯罪と言う形であらわれる、共同体のほころびを補修するような活動が主だったようだ。些細な犯罪を起こして、アジールとなっているお寺に逃げ込んだ人に対して、賠償の斡旋をしたり、免責のお墨付をもらったりするような記述があったように思う。
なんだか似たような事をしているものだな、というのが読んだ当時の感想。もっとも金十郎は社会の裏表に通じた顔役、というのが正確なところで、現代で言えば地域選出の議員と、ヤーさんを足して二で割らないような存在なんだけれども。彼らは一方では地元に面倒見のいい有力者と言うような形で生き残り、もう一方では私らみたいな職能に分化した、ということのよう。
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2001/09/05 |
「伊予小松藩会所日記」(増川宏一:集英社新書)
この手の古文書を解題した読み物と言うと、神坂次郎の「元禄御畳奉行の日記」とか、題名を忘れてしまったけれど、けっこう売れた十手者の日記なんかが思い出される。それらが記録者のキャラクターにかなり依拠している面白さだったのにくらべ、こちらは一種の業務記録、四国は今の新居浜と西条市の間あたりにあった「小松藩」という零細藩の記録という、はなはだ地味なものなのだけれども、当時の生活を活写していること、この上ない。
記録したのは武士達なので、起こった出来事への対処を、言うならば行政官僚側の立場で淡々と書き連ねただけのものなのだけれど、私なんかがカルテに毎日書き連ねている情報が、一ヵ月後だって第三者の役に立つようなものにはまずならない(ぜいぜい処方記録と、身体的変化記録の役に立つ程度)のと比べて、記録者である武士たちと、領民たちの生活を生き生きとうかがうことができる。
見当外れのことをする困った少数の連中がいて、目先のことに対処するだけで精一杯で、日常の幸せだけを追う大多数がいる、そしてそんな風に人々がやっている事の織り成す総体が、少しずつ歴史を動かしていく、という実感を感じる事ができる好著である。歴史教育というのは、いろんな視点からの大まかな粗筋を教えるのと、こういうのを味あうのを平行していけばいいのではないかな、なんて考えたりする。
もうちょっと読み込んで長い文章にまとめることができれば、更新も頻回なんだけれどね。そのパワーが今のところありません。
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2001/09/04 |
「パクリの戦後史」(日名子 曉:ワニのNEW新書)
題名を見てドキンとして買ったのだけれど、これは私がやっているようなネタパクリのことではなく、手形パクリをはじめとする、経済詐欺事件をえがいたもの。この本で述べられているのは、国家によるNTT株売却だとか、特殊法人による税金騙し取りのような事例ではなく、比較的小物による一般大衆相手の詐欺が中心である。報道なんか見ていると、何であんなのに騙されるのかと思うのだけれど、その騙しのテクニックというのは、誠意による説得とか、宗教的回向とかというものと全く同じだ。価値のない証券を売りつける人と、ミミズがのたくったような字の人生訓を売る人の間には、主観的にもそれほどの差はないのではないか、などと思ったりする。
詐欺師というのは、被害者を共犯に仕立てるのが上手な人を言うわけで、その点がまずければ単なる強盗である。やたらに上手なら、宗教家とか、起業家とか、革命家と呼ばれるわけである。刑法上、詐欺罪はあまり重罪にはならない(たとえ被害者が一家心中しようと、懲役10年が上限で、騙し取った金は大概の場合、取り得である)が、これはやはり、かれら詐欺師の開発した技術が近代社会を組織してきた、という「芸」へのリスペクトがその背景にあるからに違いない。
それにしても、ワニのNEW新書という名前、もうちょっと考えられなかったのかねぇ。
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2001/09/03 |
「ミステリーズ<完全版>」(山口雅也:講談社ノベルズ)読了。
パンク系とはいえ、ミステリーの形態は維持しているだろうという予想は裏切られ、ミステリーの形を借りたファンタジーというか、取り留めのない不条理譚の群れともいえる短編集である。雪に閉じ込められた山荘。探偵が皆をあつめて「さて」と話を切り出す、これ以上の類型はないところから始まる「解決ドミノ倒し」が一番気にいる。どんでん返しに次ぐどんでん返しで、この作者が究極の夢にしているらしい「読者が犯人」と言うところに持っていく、アホらしい力技がなんともいえない。
しかし、最大のどんでん返しは、読了したあと、同じ本を本棚に発見した事であった。
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2001/09/02 |
「F(口でする)の性愛学」(原書房)購入。BK1あたりで注文しようと思っていたのだが、どうも抵抗があって買っていなかった。地元の本屋にさりげなくおいてあったので、レジに婆様しかいないのを確認してからそさくさと支払いを済ます。書きかけてずっと放り出してある、「都市伝説」の記事がこれでまとめられるかも。
と言って、こういう性幻想にかかわる内容では、好みの要素が強すぎて、一律に論ずる事が難しく、ホントにまとまるかどうかはちょっと不明。ダメだったらせっかく集めたのがもったいないので、マクラにしようと思っていたジョークを紹介しておく。
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クジラの夫婦が泳いでいたら、捕鯨船と出くわした。
旦那クジラがいう。「おい、二人で潮を吹いてあの船を転覆させちまおうぜ」
女房クジラは気乗りしないが、旦那に従い、捕鯨船は見事転覆する。乗り組み員が波間に浮かんでいるのを見て、旦那がいう。「おい、あの憎たらしいクジラ捕り達を飲み込んじまえよ」
女房いわく「私はね、義理で"Blow job"をすることはあっても"SeaMen"は飲み込まないんだ。」
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2001/09/01 |
9月1日。防災の日である。
私はこの日が小泉政権の運命を決める日だと、政権誕生の日から注目してきた。その重要さは、靖国参拝問題の比ではない。
今まで政権の座にある人物は、この日になると作業服とも軍服ともいえぬ妙な制服モドキをきこみ、間の抜けた訓練警報を発令するのである。これが森前総理なら、単なる土建屋の社長が現場に赴いた図ですむ。以前、宮沢元首相があの姿で現れたときは、つぶれかけの電気屋さんが、信用金庫に融資を頼み込む姿にしか見えなかった。旧陸軍の略帽みたいなくしゃくしゃの帽子もいかん。俊英中の俊英として官界政界を渡ってきた人も、あれでは台無しである。それ以来、日本は泥沼に沈み始めた、と私は感じている。
細川の殿様のときは、防災の日ではなかったが、地震の視察か何かであの格好を拒否し、腕まくりしたワイシャツ姿であらわれ、なかなか決まっていたものだった。
それがコイズミである。生半可な格好であらわれられる訳がない。危機に臨んで号令を出すにふさわしい、機能的にして象徴的な格好をしてきてもらわねばならない。世の人はそのファッションを、コイズミ・クライシススーツと呼んで争って買い求め、個人消費はたちまち回復し、株価は二万の大台に乗るだろう。
それがである。彼は歴代首相と同じかの作業服風ダサダサスタイルであらわれ、あまつさえ足元はゴム長であった。コイズミよ、お前もか。あの情けない格好に、「人気だけではなんもできんもんね」という彼の居直りを感じたのは、私だけではないだろう。やはり日本は沈みつづけるしかないようだ。