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更新日記

 2002/02/28

二月ももう終わり。今月はついに、ここ以外の記事更新ができませなんだ。三べんほど書きだしたんですけどね。

ひとつはロボトミーもの。ロボトミーというのは、確かに近代医学の犯した間違いの代表選手ではあると思うのだが、その意図というのはじつに素朴なもので、一種の伝説になっているような「悪魔の手術」といったおどろおどろしい目論見とは無縁の、一種の隙間手技だったのだというようなことを書くつもりだった。もちろん、軽率な試みが、無批判に熱狂的支持をうけ、全世界的に拡がっていくところは、近代医学というよりは人間の本性自体の問題点が露呈しているようにも思うのだけれど。これはほとんど書けているけれど、もひとつひねりがないので熟成させているところ。

もう一つは「人はなぜ酔っ払って愚かなことをするのか」ということへの考察。アルコール疾患治療経験などからも思うことを書いてみようと思ったのだが、途中で放り出してある。

最後はいわゆる「ハゲ」に関する伝説の考察。それといわゆる代替治療によくある、「骨のゆがみ」病因論の検討など。これらは程々にまとまるだろう、とおもったらそれ以上の努力をする気がなくなった。

さしあたって、一月二月の「日記」からいくつかの記載を「本、TV」と「雑感」のほうに手直しの上アップすることで、更新したと言うことにさせていただきます。

 2002/02/27

三浦雅士の「青春の終焉」(講談社)という本を読みかけていて、これがまた大部な本なのだが、世代的には著者に数年おくれるだけの私には、はしがきの数ページで引き込まれてしまう内容で、同時に、こんなこと言っちゃ不遜ながら、たぶんこの後はこう続くのだろう、とほぼ展開が予想されてしまうものでもある。

三浦によれば、「青春」もしくは「青年」という概念は18世紀ヨーロッパを起源とし、日本では江戸中期にその萌芽形態がみられつつ、定着するのは"Youth"の訳語としてそれらの言葉がもたらされた以後である。そして、それは「かって、疑いもなく、異様なまでの輝きをおびていたのである」が、1968年というはっきり指摘できる年を最後に、消えて行ったのだと。

三浦は、「青春」は産業資本主義と軌を一にして世界に浸透していったとする。それが無効になったのは、脱産業化と大衆消費社会の出現のためだとする。そして鬱屈した自意識をかかえこんで高揚する「青年」は消え去り、成熟していないというだけの意味である「若者」がそれにとってかわったのだと。

まだそこまで読んでいないのでなんともいえないが、このあと、三浦は文学作品の中に出てくる青春を論考し、青春という言葉が最後の輝きをしめした時代として60年代を考証していくらしいのだが、やはり最初に示される「青春」一般がすでに死滅した、という提示以上のインパクトにはかけるといわざるを得ない。

この関連で「青春という亡霊」(古屋健三:NHKブックス)というのも平行して読んでいるのだが、こちらも同じく「青春」という言葉の歴史を論考したものだが、文学作品の読み込み方が、三浦よりていねいな印象がある。その分、なぜ「青春」が生まれ、そして消え去ってしまったのか、というのがよく判らない。そうなってしまったんだ、と指摘するだけ。その点、三浦の主張は彼の世代的体験を軸にしているので、こちらにも了解しやすいのであろう。単に古屋と目線が違うだけのことなのだけれど。(古屋氏はかの福田哲也サンの師匠なんだそうな。彼なんかみてると、いまだ青春真っ盛り、とおもいますがね)

思いつきとしては、彼らが言っていることは、分裂病の軽症化とか、境界例の出現とその関連状態の増殖といった精神医学上の現象と、パラレルに語れる部分があるのではないかな、なんて考えたりするのだが、私の能力ではあまり実りのあるものにはならないような。

 2002/02/26

なんだかんだ言いつつも、若手ミステリ作家ではこの人が最高だとおもっている殊能将之氏のオフィシャルサイトを見ていたら、氏は最近「チューブ入りアンチョビ」の存在を知って驚愕した、という意味の記載があってこちらも驚愕した。彼は絶対料理が好きな人だと勝手に決めていて、食材を集めたりする趣味があるに違いないとおもっていたからだ。なんにも根拠はないのに。

あれがあると便利なんですよね。ちょっと加えるだけでパスタ、スープ、煮物と簡単にイタリア味になるし、味噌や醤油と発想が似ているので日本人にも違和感がない。イギリス製のアンチョビソースというのも割合簡単に手に入るが、こちらはより工業製品化していて、もひとつ味に面白みがない。まあイギリスだから仕方がないけど。でも代用にはなりますが。

犯人はアンチョビペーストの存在を知らず、被害者のイタリアンレストランのシェフが殺された時間をごまかすために、自分で料理してアリバイ工作をはかるのだが、名探偵は料理の味見をして、既製品ではないアンチョビを入れたものであることに気づき、そのトリックを見抜くってのは使えませんかな。

 2002/02/25

2月11日に書いた「オーロラの彼方に」の再放送をやっていたので、WOWOWで視聴。ニュースで見逃した前半部をみて、多少は疑問解消である。主人公の殺人課刑事は親父の残した家にそのまま住んでいて、アンテナタワーもその当時のまま、という設定なわけね。あれが30年も持つとは思えないけれど。

細かいことはよしとして、基本的にこの映画がもくろんでいるのは、アイルランド系中産階級という、米国のある意味での二次的保守階層のよりよき追憶の日々を回復する、ということなんだろうな、と感じた。気になったのは、60年代後半に、あそこまで黒人にたいして社会が開かれていたのだろうか、という点。

対WASPという姿勢もあるのだろうが、そりゃちょっと自分らを美化しすぎだろうが、と思わないでもない。

 2002/02/24

西洋式バスの使い方に、もうひとつ納得がいかないのは私だけではないとおもう。日本式のかかり湯をしないとか、お湯をあふれさせるといけないとか、カーテン閉めて縁は浴槽に入れろとか、しっくりこないことは数多いが、とりわけ中でセッケンをつかうという問題の存在が大きい。

これは日本人にとってはタブー侵犯的快感の要素もありつつ、やはりそうリラックスにつながるようにも思えず、お湯がもったいないというしみったれ感覚もよびさます。何より、そのセッケンをどうやって洗い流せばいいのかという問題があって、これを日本人的清潔感覚を納得させて解決する方法はないのである。

お湯を抜き、シャワーでセッケンを落とせばいいではないか、といわれるかもしれないが、排水にはけっこう時間がかかる。バスタブの中でセッケンまみれになって、ぼんやり待っているのはかなり間抜けな絵柄だ。まだお湯が抜けていない状態でシャワーを浴びると、さらに排水に時間がかかり、結局足の周りにはセッケンがついたまま出ることになる。

そこで片足だけまずきれいにし、浴槽をまたいでのこった片方を持ち上げながらシャワーにくぐらせる、という高等テクニックが必要になるのだが、これはきわめて危険な行為である。ここですっころんだらそのダメージは並ではない。これを使い慣れている欧米人は、どうやって解決しているのか、というのが長らく謎だった。

その謎が解けたのはそう昔のことではなく、しかも、少なくとも私にとっては解決にならないのである。つまり、欧米人は体にセッケンがついていることなど、まるで気にしないというだけのことなのだ。だいたい皿洗いの後で、洗剤をあまりゆすがないような連中なのである。体についたセッケンなんか気にするはずがない。どなたか洋式バスを完璧に使いこなす、日本人むけマニュアルを提示していただければ、と思うものだ。

などと考えつつホテルをチェックアウト。秋葉原によって帰る。秋葉原ではXboxの売り出しセールみたいなことをしていたが、そんなに繁盛している様子はなかった。Xboxといえば私はこのCM(1.8M。要Windows Media Player)が大好きなのだが、TVではみたことないのが残念。

 2002/02/23

今夜、都内で友人と食事する約束をしていたのだが、急に別の友人からも飲み会の誘いがあった。どうせならと一緒にやってしまうことになり、腰据えて飲むことになるならと、ホテルを取ることにしたのだが、直前だったためかいつも泊まるような安ホテルが取れない。受験シーズンですからな。仕方なく都庁横のホテルになったのだが、ここが「全室インターネット対応」をうたっているのですわ。

払った分のサービス以上は全て受けないと気がすまない、という関西人主義者として、ノートPC担いでいくことになるのは必然。というわけで、これはホテルの小部屋でアップしておるのです。便利でいいと喜ぶべきか、なんでわざわざめんどくさいことを、と思うか難しいところ。

といいつつ、実際に利用して見るとLANコネクタが部屋に用意されているわけではなく、内線を利用したVDSLが組んであるということ。利用者は申し出てVDSLモデムを借りるのである。頼むとボーイさんがうやうやしくモデムを運んでくるのだ。宿泊費の5分の1は取り戻した気分である。正直言うと、ちょっとめんどくさいぞ。

 2002/02/22

昨日の映画感想で、このサイト的には書き忘れてはならなかったのが、あれは「満月の魔力」というものを前提に作られた、都市伝説映画であるということ。映画は、回想部分を別にして、木曜深夜から日曜早朝までの50時間ちょっとの時間経過だけをおっていて、土曜の夜は満月だという設定になっている。そして登場人物はみな、満月の夜にはおかしなことがいっぱい起こると、本当に信じているのである。

フランクはその満月の夜に、無理やり、なかばは自発的に、勤務につかされる。そしてその月の魔力にせかされてか、いかれたホームレスへの尽力的顧慮をほどこし、さらには以前命だけは救った昏睡患者に、虚無的超越的解決をあたえるという、双極的な逸脱的行為にはしり、結果として自己救済をえる。説明がないから何の事やらわからんと文句いえば、救急パラメディックたちの内的妥当的構造を前提にしてつくっているんだ、と監督は言うかもしれない。

でもやっぱり、それでは主人公の内面が煮詰まっていく背景としては弱いといわざるを得ないけれど。

 2002/02/21

救命士 (原題"Bringing Out the Dead "1999年米映画。監督:マーチン・スコセッシ)

借り物DVDでの視聴。かのマーチン・スコセッシが監督し、脚本はポール・シュレーダー、ということは76年の「タクシー・ドライバー」黄金コンビ。その上、舞台はニューヨーク、ヤク中、売春婦、ホームレス渦巻く街を「流す」(向こうの救急車って、流し営業してるのね)救命士が主人公となると、かの名作への自己オマージュなのだろう、もしかしたらそれを上回る傑作なのでは、という期待で見たのだが、ありていにいってなんじゃこら、である。

そもそも、NY自体が90年中ごろにえらくおしゃれな街に変身してしまったらしく、タクシー・ドライバーやこの作品に見られるような猥雑さは見る影もないらしい。したがって映画冒頭に「これは1992年当時のNYを舞台にした……」などと無粋なテロップがはいり、うそ臭さ全開の導入となってしまう。

主人公は救命士のフランク(ニコラス・ケージ)で、こいつは喘息発作の少女の挿管処置で、もたもたと食道挿管ミスを繰りかえしているうちに死なしてしまった、という負い目のため、すっかり神経症状態。街いく人がみなその少女にみえるわ、自分を責める幻聴が聞こえるわで、辞めるきっかけをつくろうと無茶ばっかりしている。同僚はほとんどぶっ飛んだ連中ばっかで、さっぱり助けにはならない、という設定。

前のトラビスは孤独な都市生活のなかで、じわじわと狂気を発展させ、異常行動を準備していくのだが、こちらははじめからほとんど擦り切れ状態で、最後はケッタイな衝動的行為(といいつつ計画的でもあったようだけど)を通じて自分を何とか取り戻す。その辺の経過がまるっきり説明省略されていて、見ているほうは当惑するしかない。まあ、世の中あんなに必死に任務に向かい合っていたら、持つものも持ちませんわなぁ、多少の逸脱ぐらいないと、やってられまへんがな、ということで済ますのかな。

とにかく見つづけるのも苦痛、というほどではなく、タクシー・ドライバーとくらべるから肩透かし、というだけ。ただ、ニコラス・ケージの真面目なのか不真面目なのかわからない風貌ではかなり損をした、と思うけれど。風貌と言えば、スコセッシ監督は荒井注ににている。けなしたりすると、なんだこの野郎、と怒鳴られそう。

 2002/02/20

報道によれば、ブッシュ政権は金大中氏を完全に見限っていて、その後を受け継ぐ勢力との下交渉をしているというのだが、たしかに共同記者会見を見る限り、その関係はチグハグであるようだ。でも、金大統領の弱々しいながらも毅然とした態度は評価されるべきだ。どこやらの首相がみせた、あたまなぜてもらって喜色満面、という情けなさとは大違い。

情けなかろうがへつらいであろうが、中長期的国益(といって、エスタブリッシュの利益という意味ではないんですが)にかなえばよしとは思うものの、改革ポーズでごまかして現状維持をはかるもくろみ以上のものがあるとはとても見えないのが困ったもの。だいたいブッシュ政権自体、米国の国益に沿ったことしているか?エンロンの件など見る限り、短期的な関係者利害は精一杯追求してるみたいだけれど。

といって、現首相氏のポーズというのも重要で、たとえばムネヲ氏的昔ながらの利益誘導タイプしか後はないのだから、とっかえればよしというものでもない。トリビアの正しさに舞い上がって、全体がぼやける某二代目も困ったものだし。

散髪屋で政治談議しているおっさん達にだって現状のおかしさは見えるのに、じゃあどうするんだ、という落としどころが見当たらない、というのが今の危機なんでしょうなぁ。適当な落としどころを見つけてくる、というのがいままでの保守政治というやつだったわけなんだけど。こうして無責任に茶々入れようと思っても、そう面白くもないあたりまえになってしまう、というのがどんづまりを象徴している。

 2002/02/19

おしゃれな都心地区に住んでいる知り合いが、行きつけの飲み屋に行こうと思ったら、ブッシュがくるからと追い出されてしまった、と憤懣やるかたない文面のメールを送ってくる。真意は「自慢」であるのがミエミエなので、そう同情もしないのだが、それではじめてブッシュ訪日を知った自分がちょっと間抜けなようにおもう。

あわてて真面目にニュースを見ると、今日か明日には韓国のほうに回るらしい。あちらではすでに訪韓阻止の大衆行動がおこってるとのこと。ブッシュが来るのは、日本政府がブザマな追随関係をさらして恥をかくいいチャンスだ、と私は思うのだが、日本でのいろいろな勢力の政治的動きが全く報じられなかったのが不思議だ。勝手にしなはれ、と皆思っていたのだろうか。

たしかに、「訪日阻止(ホウニチ ソーシー)」って言葉、デモの掛け声としては情けないんですよね。「アンポ(一拍抜き)フンサイ」の力強いエイトビートを失ったことが、政治の季節退潮の一番の原因だったりして。

 2002/02/18

ときどき読書指導の手紙をくれる友人から、バレンタインディのプレゼント(たぶんそうだと思うが自信がない)が届く。イノダのコーヒーである。あんまりコーヒーを飲まない私だが、ここのコーヒーはけっこう好きで、昔は本店にもよく行っていた。あのあたりの知識人系スタイルを真似したいという、情けない俗物意識がその動機の九割をしめている、と感じつつ。内心そう思っていても、味まで好みになってしまうのが不思議である。

友人はそこらあたりも覚えていて、からかい気分で送ってくれたのだろう。今回の読書指導はミシェル・ウエルベックの「素粒子」。こんなの読み通せるだろうか、と思いつつアマゾンで注文するが、この書名で検索すると百冊以上の科学読み物が出てきて、どこに目当てがあるのやら、という状態になってしまう。「小説」というジャンルをはじめから選べばよい、というのに気づくまでえらく手間取る。

あ、そういえば以前この人が読めといっていた「おまえはケダモノだ、ヴィスコヴィッツ」の感想もアップしていないなぁ。よく判らんからアラスジでごまかす、という手も使えんしなぁと、イノダの香り高いコーヒーをすすりながら、ちょっとため息をついたりするのだった。

 2002/02/17

恋のからさわぎ(1999年米映画。監督:ジル・ジャンガー)

先々日WOWWOWで視聴。シェイクスピアの「じゃじゃ馬ならし」を、ハイスクール学園ものに翻案したもの。舞台になるパドゥア高校ってのが、ハリーポッターを撮ってもいいんじゃないか、と思うぐらいの荘厳なつくりになってるのが面白い。

男嫌いの変わり者の姉がデートするならお前もしていい、と父親から事実上デート禁止令を言い渡されている女の子のために、彼女に一目ぼれした転校生が、札付きの不良を雇って姉とデートさせる、という他愛のない話なのだけれど、シェイクスピアがネタ元ならそれなりに小技がちりばめられているだろう、と最後まで見続ける。結局ゴシックな校舎とバカ話の対比以外には、たいした小技も大技も出て来はせず、こんな映画商売になったのかいな、と多少の当惑を残すばかり。もちろんTVで見る分には充分ですけど。

考えてみればこうした学園もの、というのは米映画のひとつのジャンルといえるが、日本映画には同じようなものがない。「若大将シリーズ」とか、「金八先生」があるだろうと言われるかもしれないが、学園を完結した社会として描いていないところで決定的な違いがあるように思う。学園生活を全世界として生きる人物の視点がないのだ。日本で対応するのは唯一、「ちびまるこちゃん」だけではないかな。

その違いを生み出すのは、日本の学校制度がその中に自立した社会を形成しておらず、そうさせていく意図すらないことだ、といえる。そこで生まれる物語は必然的に、ある制度なり倫理なりにアノミー集団を服従させるような新兵訓練ものとか、制度から大きく逸脱した特殊例の非現実的活躍を描くようなものになる。「ちびまるこちゃん」がそこから逃れられたのは、小学校低学年と言う設定のおかげで、主人公周辺だけに限定して「社会」を取り出したからといえよう。

などと小難しく考えでもしないと、これをアハハと見ているだけでは脳みそにスが入ってしまいそう、という危機感をもたらしてくれる点では名作。原題の"10 Things I Hate About You"というのは「じゃじゃ馬ならし」の"Taming Of The Shrew"の洒落になってるというんだが、TとUの音だけみたいな。

 2002/02/16

つまらんネタがないではなかったのだが、掲示板で西丸四方氏の死を知らせていただいたので、一言お悔やみを述べたい。

この人がいなければ、私は精神医学の道を選ばなかったろう。その最期を、自分を放逐した大学病院ですごされた、と言うところで精神科医らしい余裕を感じる私である。

 2002/02/15

昨日間抜けにも、円周率にかんして「ランダムに続くはずの数列のあちこちに見知った数字列が現れている」なんてこと書いたのだが、考えてみればランダムに続くからこそ、一定の確率で任意の数列が出現するのですな。数学常識のなさを暴露してしまった。

それぞれの桁に、0から9の数字が出てくる確率は10分の1だから、12345になる確率は10の5乗分の1、n個の数列なら10のn乗分の1というだけのこと。123456なら100万分の1の確率だから、100万桁では出てこなくても不思議はありません。ちなみに昨日紹介したサイトの1000万桁検索なら、123456は12回、1234567でも1回出現する。ほぼ確率どおり。あたりまえか。

1000万サンプルぐらいでも確率のゆらぎは平準化されないらしく、たとえば0000000から9999999までの7桁を検索してみれば、2222222は一度も出現しないが、9999999などは4回もでてくる。だからなんなんだ、と言われても困るが、ゆらぎの中に何かのしるしを読み取ろうとするのは、人間のサガというやつなのかな、と思ったり。

 2002/02/14

以前、http://3.14159265358979323846264338327950288419716939937510582097.orgという円周率羅列表示サイトを紹介したのだけれど、いまそこへ行こうとすると強制的にGoogleのπ関連リンクに直接飛ばされてしまうみたいだ。Javaとかをオフにしてもそうなるので、一体どうやっているのだろう。

なんでそんな所へ行こうとしたのかというと、たまたま「世界一つまらないホームページ」というところに行き当たったことによる。そこも円周率100万桁を表示しているのだけれど(すいません、ネタばらしして)、それをじっと見ていたら、ランダムに続くはずの数列のあちこちに見知った数字列が現れているのに気づいた。自分の家の電話番号とか、誕生日とか。

ブラウザの検索を使って調べると、たとえば12345という続きは、100万桁のなかには8回現れる。123456になると出てこないが。これはもっと多くの桁で確かめるべきであろう。そこで上のサイトへもう一度行こうと思ったわけ。残念なことにそこには行き着けなかったのだが、Googleのリンクをたどると、同じようなことを考える人は数多いのだ、ということがわかる。

例えばここは、円周率1000万桁の中から任意の数字列を検索するサービスを提供してくれている。ホントになんにもすることがない、というときには恰好のヒマつぶしになりますのでどうぞ。

 2002/02/13

最近、本屋というところにほとんど行かなくなった。近所の店は雑誌とタレント本しか置いてないし、街なかの量販店には駐車場がないし、たまに行ったとしても、たしかに大概の新刊本は置いてあっても、総花的すぎたり分類がデタラメだったりするので、目当ての本を見つけるのに時間がかかりすぎる。

昔なら、とにかく手元においときゃそのうち読むこともあるだろう、なんていって買い置きしていた時代もあるわけだけど、残り時間を意識する年代に達するとそういうわけにも行かない。せいぜい新聞の書評欄をみてネット通販を利用するのが書籍購入のメイン手段となってしまうのだが、この方法ではまず思いもかけない面白本、などというものを見つけるのは無理だ。

他人が薦めている本をありがたがるのもちょっとしゃくなので、いわゆるネット立ち読みができるシステムを出版社自体がもっと本格的にはじめて(ここなんか先行的にやってるみたいですけど)欲しいものだ。

その前に、未読本を片付けるのが先だってのはわかってますがね。

 2002/02/12

医療費自己負担率の変更問題で、いわゆる「抵抗勢力」と首相との攻防が激化し、解散に向かう動きすら出ているというのだが、これ、本当だろうか。

大体、健康保険本人からさらに自己負担を多めにふんだくろう、という動きがなんで「改革」なんだ。ほかの税金無駄遣い是正に関しては次々に先送りしておいて、いざ国民収奪の方向になるとやたらにその改革なるものを急ぐってのはどういうわけだ。

この問題での自民党内抵抗勢力という連中がまたウサンくさい。なけなしの給料から保険料をたっぷりさっぴかれ、さらに自己負担まで増額される勤労者側からの反対意見を代弁しているとは、とても思えない。そういうことされたら患者が減ってこまる、という医師会とか製薬資本の側に立って反対しているという図式を演出しているつもりなのだろうけれど、医師会なんていまや圧力団体としては落日だし、製薬会社は厚労省とうまくつるんで、効きもせんつまらん薬に高薬価さえつけてもらえばいいのだから、こんなところにしゃしゃり出てはこないはずだ。

こういう方向になっていけば、個人加入の保険をみな頼りにしだすはずで、青息吐息の生命保険会社なんかは大歓迎の政策のはずだから、きっとかなり多額の献金が「自己負担を増やす政策支持」目的でなされているに違いないのだ。そういう流れにうまく乗れなかった要領の悪いバカ議員か、何らかのポーズのために反対しているのに違いない。

つまり、この間のざまですっかりあらわになった、「コイズミは改革なんかと無関係な時間稼ぎタレントでしかない」という事実を、なんとかごまかすための自作自演がいまの健康保険問題での抵抗勢力のこわもてなのだ、と私は思う。露骨な国民収奪政策を、改革と言いくるめるためにやっているだけ。彼らはそのうち、執行部と手打ちをして、痛みを分け合う改革なるものに同調すると予言してもいい。実際は痛みをおうのは国民だけですがね。マスコミは解散までありえる、なんぞと見当外れに危機をあおって、煙幕の片棒を担いでいる。無能なのか、グルなのか。

ええい、横丁のオヤジ風に妙にまじめに分析してしまったのも腹立つぞ。

 2002/02/11

「オーロラの彼方へ」(2000年米映画。監督:グレゴリー・ホブレット)

昨日WOWWOWで視聴。ジャンルを強いていえばSFということになるのだろう。1969年、NYメッツがワールドシリーズに出場した年、野球選手を夢見ていた六歳のジョンは、消防士の父を殉職で失う。三十年後NY市警の殺人課刑事となったジョンは、物置で父親が趣味にしていたアマチュア無線の古ぼけた機械を見つける。おりしも季節外れ場所外れのオーロラがNYに出現し、その無線機からは三十年前の父親の声が聞こえてくるのだった……という話。

主人公が父親の殉職をタイムパトロールがいたら罰せられるような手段で回避し、めでたしめでたしと思っていたら予想もしなかった次なる難題が、という感じで、ちょうどバックトゥーフューチャーみたいなのりで話は進む。こちらは、もちょっと深刻ですけどね。歴史を変えても、変えた本人の記憶は変わらない、というタイムパラドックス回避になってるのかならないのよくわからん設定、というのも同じ。

物置から出てきた無線機というのが、あんまりちゃんと写してくれないのではっきりいえないが、コリンズ社のKWM-2という名機ではないかと思うのだが、あれは確か電源部は別だったはずで、単体でどうして機能するのだろうかとか、だいたい殺人課の刑事がのんびりアマチュア無線という趣味の世界などに浸れるものだろうかという疑問があって(実は最初の二十分ほどをオリンピックのニュースのため見ていない)、それにしては家に立派なアンテナタワーがあったな、などと疑問は尽きないのだ。

VOX(音声コントロールで送受信を切り替える装置)を使ってる様子もないのに、ほぼ同時相方向通信しているのも妙ではある。でも導入部にそれなりの説明があったのかも知れず、自分のせこい理解で小賢しい難癖つけるのは、昨日の妙な「医師」サンの専売特許にしておこう。

でも、無線機のカバーをはずしたとき見える真空管の、ほのかなフィラメントの明かりがとってもチャーミングで、これを経験するために、いったいどれだけの時間を昔浪費しただろうか、なんていう思い出をたっぷり想起させてくれるものだったので、私の中ではこの映画はとても素晴らしい出来であったと分類されるのです。

 2002/02/10

せっかくの連休第一日目だったのに、所用で都内に出かけなければならず、疲労困憊で帰ってきてここの掲示板を見てみれば、みょうなクレームというか、難癖がアップされている。患者のプライバシーを侵害して、神にでもなったつもりか、というえらく尊大な書きぶりだ。

私が症例について書くときは、こういうオープンな場所であることは充分考慮して、もとの事実関係の雰囲気をそこねない程度に背景をかえ、時間的場所的な部分でのあいまい化、もしくは置き換えを出来るだけ行ったうえ、時には致し方なく症状レベルでの組み合わせすら変えることがある。

精神医学関係の症例研究論文では、一般身体医学のように性別年齢既往症だけで済ませるというわけにも行かず、かなり詳しい生活歴を添える必要があり、その辺で皆苦労しているようだ。業界人しか見ないからいいといっても、大きい図書館に行けば読めるのだから、ストレートに書くわけにはいかないのである。

などといいつつ、中には丸わかりの論文も結構ある。かなり昔だが、「残留日本兵Y氏とO氏の比較精神医学的研究」なんて論文があった。まあ、あそこまで有名人になった彼らにはプライバシーはありえない、という意見もあるだろうけれど。

どうでもいいところに小言いうことで、自分の精神安定をはからねばならない悲しい人はどこにでもいるもので、勝手にやってなさいとしかいえないが、あなたのような人が考える程度のことは、とっくに書くほうが意識しているというのも忘れないで欲しい。

それにしても、投稿題名と内容のずれから想像するに、兎に角なにかクレームつけたかったが、さしあたって内容を思いつかなかった、ということなのだろうが、どんなタイプの人なのだろうか。ここでちょっとおちょくったスットコドッコイ系マスコミ精神科医か、必要もない医療行為で既得権商売しているオーソドックス系か、興味津々。

 2002/02/09

ネタ系論文探しに重宝しているBritish Medical Jounalだが、今回はまじめな記事を。いわゆる風邪に対する薬物処方に効果はあるのか、というランダム化比較研究のレビューで、なかなか考えさせられるところが多い。

結論から先に言えば、風邪症状に対する鎮咳剤(セキ止め)の使用はやめたほうがいいというのと、そのほかの薬(抗ヒスタミン剤とか、喀痰融解剤とか)についてははっきりしたことはいえない、というもの。

こんなことバラすと驚かれるかもしれないが、病院で採用している風邪薬は普通、二種類だけである。ひとつはPL顆粒という抗ヒスタミン剤と少量の抗炎症剤二剤の合剤で、もうひとつはダンリッチという鎮咳剤と抗ヒスタミン剤、抗コリン剤の合剤である。前者には鎮咳剤がないので、別の咳止めを組み合わせ、後者には抗炎症剤が入っていないので、痛みが強かったり、熱が出ていたら抗炎症剤を別に足したりする。

病院ではさまざまな手段で治療が受けられるはずだと思っていても、内容はその程度のものなのだ。もちろん、漢方に習熟しているような医師は、かなりきめ細かく病期を判断して、独自の漢方処方をする。私は抗ヒスタミン剤にやたらに弱いので、鼻かぜを引いたら葛根湯か小青竜湯を規定の三倍ほど飲んでしのぐことが多いけれど、それはただ眠くならないから、という理由だけ。放っておいても治るときには治るし、続くときには続く。

市販の風邪薬には実に色々な成分が少量ずつ入っているが、病院でああいう風に枯れ木も山の賑わいのごとく処方しようとすると、服薬だけで腹いっぱいになるほど薬が増える。しかも先のBMJのレビューからすれば(もちろん、医師ならだれでもうすうす感じていることだが)、咳止めは無意味だし、そのほかの薬もなんともいえないのである。

それは熱がガンガン出たり、咳で夜も眠れぬ、というときに症状を緩和して体力温存をはかる、というのは意味あることだと私もおもう。でも、病院に風邪でくるかなりの部分の人は、「ひどくならないうちに早く治しておこうと思って」などという。医療機関の客寄せコピーの代表が、早期発見早期治療であるが、すくなくとも普通の風邪にかんしてはこれは全くのウソ。早めに薬を飲んでどうなるものでもないし、ちょっと弱りかけているときに、本物の強力なウイルス感染者と出くわす危険の多い病院などにやってくるのは、全くの無意味。

そりゃ世の中には運の悪い人がいて、風邪症状がちょっと続いていたかと思うと、本格的な症状が出てきてたちまち危篤状態ということもある。でもその人が軽症期に医療機関に来ていても、やはりとおりいっぺんの無意味処方がされるだけで、まず重症化の兆候が見つかることはないだろう。持病などがある場合はまた別だけど。

というようなわけで、そう重症でもない風邪ぐらいで病院を利用するのはやめたほうがいい、というのが今日の提案。鼻水ぐずぐずで、ちょっと頭ぼんやり、という程度なら、私のお勧めは「タイガーバーム」とかメンタム類を胸にぬりこんで早めに寝るというもの。もちろん、かぶれが出るような人は別途工夫を。

 2002/02/08

院内の医者や管理職呼び出し用に構内PHSが導入され、各自PHS子機をありがたく拝領する。医局で昼寝しているとき、他人あての電話でいちいち起こされることが少なくなるのでけっこうなことである。ところが初期設定の呼び出し音が内線とおなじなので、混乱いちじるしい。

必死に検索して楽譜提供サイトをみつけ、外来の空き時間に呼び出しメロディの入力をする。単音しか出ないのが残念だが、サティのグノシエンヌとジョプリンのエンターテナー、ついでに気分転換用にこんなのも入力しておく。何やってることか。

 2002/02/07

書き忘れたが、昨日紹介した本の著者はいわゆる「経験治療」や「私の処方」を攻撃し、客観的基準のあるEBM(Evidence Based Medicine)を唯一無二のものだとする。これにもかなりの勘違いがある、と私は思う。大体、この著者は欧米を医学先進国だと思っていて、これらの国がEBMを全面的に取り入れているから日本もそうすべきだという。たしかに、金とマンパワーを湯水のように使う先進医療はこれらの国が上だろう。しかし、総合的効率性と平等性という観点からすれば、日本の医療はそう捨てたものではない。平均寿命を見れば一目瞭然だ。

少なくとも米国の医療制度、とりわけ精神医療の分野は惨憺たる失敗、というのが専門家の間では定説である。かの国のホームレスたちは、かなりの部分、医療制度から疎外された精神障害者がしめる。中産階級以上の階層は、日本の十数倍の医療費をはらってそれなりの先進医療を受けることも出来よう。そうでない人々にとっては、医療は限られた救貧施設や、気を緩めると臓器刈り取りを狙われるようなところで受けるしかない。

それはさておき、EBMである。客観的とは言うものの、統計的に示された薬効とか治療法の有効性というのは、他人がさらに他人に対して行ったある時点での結果であるに過ぎない。物理学の実験をしているのではないのである。再現性とか、普遍性などだれも保障しない。統計的傾向でしかないのである。

EBMによる処方なり、治療法の選択というのは、極端に言えば、「ほかの人には効くんだから、あんたにもそれが効く」という右へ倣えの押し付けである。それに、EBM的検証が、こまごまとした条件選択にすべて用意されているわけではない。たとえばある薬の有効性をEBMが示唆しているからといって、至適投与量まで検証している事はまれである。

結局判断するのは「経験」なのだ。客観的基準といっても、主観的判断の材料でしかなく、自分の経験を反省材料としながら「私の処方」を鍛えていくしかない。もちろん最終的にそれを判断するのは投与される患者側であるが、残念なことに彼らは自分の例しか知らない。自分の経験をわかりやすく情報として示せないような治療者は困ったものだし、鍛えた職人芸へのリスペクト(もちろん、そうする事は厳しい批評が前提だ)を知らぬ、かたくなな人はもっと困ったものなのである。

私は以前、医療に患者側の全面的コントロールが必要だと主張している知識人が、とあるボッタクリくそまずレストランの提灯もち記事を何かに書いているのを読んだことがある。鍛えられたシェフの技には、客はただ礼賛の声を上げるしかない、というようなことをいっていた。おや、客に食材と料理法を決めさせろ、というのではないのかね、と思ったものだ。

 2002/02/06

「精神科医はいらない」(著者:下田治美 角川書店)

著者はうつ病の治療歴があるんだそうで、何度かの再発をへるなかで、精神科医の中にはとてつもなく臨床能力がおとる人間がいる、と言うことに気づいたようだ。それ以上に、そもそも精神科医の専門知識というのはまるっきりたいしたことがない、というのにも気づいたようだ。しばらくプロとして患者をやってればわかるようなお寒い知識を振り回して、でかい顔をし、しかもかなりの確率で、その単純な作業すらこなせない奴らがいるというのに彼女はいたく憤激しておられる。

そうだなぁ、ごく基本的なことさえ押さえておけば、精神科医というのはそれほど新知見をフォローしておかないといけないってこともないし、他科と比べて時間的にも余裕があるし、よっぽどのチョンボをしない限り、訴訟にさらされることもないものなぁ。中途半端な事情痛から、あんなこと誰にでも出来ると思われても仕方ないなぁ。実際、やろうと思えば誰にでも出来るのだし。

私は精神科医の仕事と言うのは「何にもしないこと」だ、と割り切っていて、患者側の自己決定を見守ることがなしうるすべてだと思っている。そこでつまらん虚飾をして、なにか能動的に人を変えていけるかのようにいう連中は気に入らないし、付き合いもしないし、当然競い合って誰も読まない論文かいたりもしない(だれも読まないサイトつくったりするけど)。

著者が槍玉にあげている、マスコミに売れることを自己目的にしている(とおもえる)医師たちや、有名人ではないがその位置をねらっているらしきスットコドッコイ連中のバカさ加減を見聞きする機会にも多く恵まれ、その一部には実際にえらい被害を受けたこともある。でも、バカはどんな業界にもいるはずだし、たまにはそのバカの役回りが、自分に回ってくることだってある、というのは自分の職業に誠実であろうとしている人間は多かれ少なかれ感じることではないだろうか。

この著者は論理と言うものにはあまり関心がないようで、本の内容は上に書いたようなはなはだ正当ともいえる怨念以外は、すべて支離滅裂のオンパレードである。彼女がまな板に載せるのはもっぱら精神療法派の医者たちで、フロイトを評価するようなその前時代センスをあざけり、身体的精神医学の正当性を繰り返し、分裂病研究はいまやクレペリン再評価の時代とまでいう。

精神医学はいつだって身体的研究を軸に進んできたし、フロイトなんぞが中心になったことなど一度もない。アメリカで隆盛を誇ったように見えるのは、一種の社会文化的現象であって、あちらだって精神医学の本流はそんなところにはなかったのである。決して治らない脳病という、クレペリンの確信のもとに研究がされていた。もちろんいまも同じである。

彼女が憤る精神医学の現状をつくったのは、まさしくそうした身体的精神医学を中心に進んできた正統的学界それ自体なのだ。彼女はどうも精神分析のような治療手段を僭称する精神療法と、もっと一般的な精神療法や、カウンセリングと俗称される対応の区別は全くつかないようで、それはそういう立場の言葉を定義もいい加減に、適当に都合のいいところたけ拝借してきてデタラメをいっている、彼女の批判対象がそうなのだから仕方がないが、一言でいえばいい勝負である。ここまで感情論だけで無論理な悪罵の連続を見ていると、田中前外相にとっちめられる外務省官僚の気持ちがなんとなくわかるような気になってくる。

細かなことをいってもしょうがないのだが、彼女が例に挙げる知り合いの知り合いという分裂病症例はそもそも診断からしてデタラメに思える。当然治療もデタラメのようで、かなり特殊な医療との依存と反発関係にはまり込んだ人なのではないか(もしかしたら、かなり作為的に)。どうもその人の精神医学理解が著者にかなり影響を与えているようなので、ちょっとめぐり合わせが悪いな、と言う感じ。別に示されている「悪性症候群」の例もちょっと噴飯ものである。一晩点滴しておさまる、あんな気楽な「悪性症候群」があったら楽でいいだろう。

「人格障害」という診断名への噛み付き方、「人格が障害されているというなら、さぞかしあなた方は立派な人格をお持ちなのでしょうね」というような言い方は彼女の没論理の典型である。あなた、勝手に自分の理解の方向に意味をねじまげて、そこで見当外れに怒ってみたってしょうがないでしょうが。だれも「人格者」などというときの意味で「人格障害」と言う言葉を使ってないのだから。

まあ、ある種の精神科医たちにはかなりダメージを与える本であろう。これに反論できないような人はまず転科した方がいい。どうせ別の科でもたいしたことないでしょうけどね。ここで著者の主張を肯定的に取り入れて結びとするならこうなる。精神科医はいらない。ただ臨床医がいるのだ、と。

 2002/02/05

昔マックOSの機能拡張パネルに"Bongo Bob"というのがあって、起動のたびに気の効いた箴言を表示する、というものだった。その言葉のひとつにこんなのがあった。

「アメリカンフットボールは、合衆国社会がかかえる二つの暗黒面を集約している。――暴力の賛美、そしてうちつづく会議という二点を」

昨夜のスーパーボールを見ていて、本当にそのとおりだとしみじみ思ったものである。

 2002/02/04

米国の節分とでもいうべきGround Hog Dayだが、今年は警察官だけでなく州兵まで出動して、厳重な警備のもと、にぎにぎしくとりおこなわれたとのことである。この行事の主役であるウッドチャックにはフィルという名前がつけられていて、今年は特別にこんな声明を発表したそうである。

「神よ、この自由と勇気の国で、洞窟ではなく自分の穴ぐらで、安逸に眠り、ビンラディンよりも快適に暮らしていることに感謝します」

なお、フィルのご託宣によれば、今年は厳しい冬がさらに六週間つづくそうな。

 2002/02/03

日曜日で、かつ節分なのである。近所のスーパーに買い物に行くと、切っていない巻き寿司を大々的に売っていて、しかもそれにはなんと「恵方のわかる磁石がついている」そうな。

京都の町屋の一部ではこの風習があるというのは聞いたことがある。たしか年によって違う歳徳神というのがいる方向にむかって、巻き寿司をくわえて一気食いするのだ。でも京都でも広い範囲で行われていたわけでもなく、まして全国的ではなかったはずなのに、こんな関東の片田舎でそれに出会うのが驚きである。大体、去年はこんなセールやってなかっただろうが。

何が何でも個人消費を増やしたいと言う怨念は、こんな一部の風習まで一般化させようとしているのか。そこまでやるなら、ぜひ前日のGround Hog Dayも取り上げて欲しかった。それでは何か買わせることが出来ないからダメかしら。

 2002/02/02

また天下一品の話で恐縮なのだが、あそこのラーメンは急性膵炎の危険もある一方で、明らかに依存傾向を顧客にもたらしていた。一度食べると、しばらくして、なんとなく食べないではいられなくなるのである。あれは絶対酸化した油脂にそういう効果があるのだ、と自分では信じている。(今現在はどうだか知らないよ)

私がいた大学は、某旧制高校が一前身になっていて、そこにはある作家が青春時代をすごした事で有名な寮があった。もちろんそれは私の時代にもあったのだが、新制大学に移行する時に全く違うものになっていた。その近くに、旧制寮の時代にまかないをしていたと称する爺さまがやっているテンプラ屋があった。テンプラと言っても、野菜のきれっぱしがいくつかと、動物タンパク系といえばぜいぜいチクワで、それにみそ汁とご飯がついて六十円、という定食をくわせる店なのである。(昭和四十年後半と言うことを忘れずに)

脳血管障害をわずらっていた爺さまがテンプラをあげるさまはとても危機感にあふれ、その店で食事をするのはある種の集団的黙契の側面があった。何よりもその店のテンプラ油は、旧制高校時代から同じものであったに違いないと思わせる暗黒の濁りを呈していて、それはそれである種の天然ソースの機能を果たしていた。

この店のテンプラ定食をしばらく食べないでいると、明らかな禁断症状がおこるのである。変にいらいらし、何を食っても満足感がなくなる。それが日曜日の閉店日などに重なると、安酒でもあおってひたすら耐えるしかない。あれがどういう機序によるものか、考察できるかたは教えていただければありがたい。

それが不快な体験だったか、と言われるともちろんそんなことはない。その禁断症状に、利用者たちはそれなりの連帯感と相互意識をかんじていたのである。正直言って、せいぜい十数回食べただけの天下一品にいまだにこだわるのも、学生時代に百回以上は食べたそのテンプラ屋の体験を思い起こさせてくれた、と言うだけの理由なのかもしれない。

 2002/02/01

考えてみれば、ハマムラのラーメンには焼き豚も入っていなかったような気がする。ナルトに菜っ葉の切れっ端、シナチク(あれ、これって使っちゃいかん言葉だろうか)だけだったかも。昭和四十年代前半に、たしか一杯八十円だった。ラーメンというものに支払われるべき妥当な値段は、いまでもこんな所だろう。その点、タイ、韓国の輸入インスタントラーメンは、作る自分の時間給を付加してもこれを守っているのがえらい。

京都のラーメンというと、以前も書いたことのある、一部にカルト的人気を誇る「天下一品」をさけて論ずるわけにはいかない。この店の前身が出来たのは昭和四十六年で、私が十年ほどして関西圏に帰ってきて、大学街をうろうろするようになったときには、そう立派ともいえぬ本店がそこそこの人気を集めていた。

そこのラーメンスープは脂肪とコラーゲンがねっとりとからみあった独特のもので、麺だけ食べてしまったあとでも箸が立つほどなのである。味のほうも濃厚だが、さすが関西系なのでだしは濃くて塩味はひかえめ、という奴である。でも、学生や大学周辺関係者がそこに集まる理由は味というより、値段が安いことと、やたらに腹持ちがいいことだと言えるだろう。私はそこが「ネギ入れ放題」だったのが一番気に入っていた。しかし体調不良のときにそれを食べると、たちまち急性膵炎様の腹痛発作を起こす危険があったので、かなり根性をいれてそれに向かう必要があった。フォイパンという膵酵素阻害剤の前投薬をしておくと、その危険を軽減できることも発見したので、人にもそうするよう助言している。

京都の人たちは自分たちの伝統をその排他的イケズ精神で守りながら、ある程度の割合の異端を受け入れると言うバランス感覚も保っているのである。天下一品はそうした構図の中でうまく自分の位置を定めることが出来た。したがって、あのチェーンが京都から出ることはけっしてないだろうと私は予想していたのに、関東に進出しているのをこの目でみたときは本当に驚いたものだ。

まだ経験されたことのない方は、ラーメンという食い物の問題ではなく、日本文化を考察するつもりで一度天下一品に向かわれてはいかがか、と思う。その際、かかりつけ医にたのんで、フォイパン投薬をしてもらうことも忘れずに。

 2002/01/31

借りてきたDVDを見ようとおもったのに、なぜかTV東京のラーメン王選手権なんてものをみてしまう。ラーメンというのはたしかにある状況で食えば圧倒的にうまいものではあるけれど、あそこまでギンギンに命をかけて作られ(ているように演出され)ると、ちょっと堪忍しておくれでないかい、と言いたくなってしまう。軽いものにやたらに馬力を注ぐ、というのは日本文化の一つのパターンかもしれない。

味の好みというのは子供のころの体験に負っているところがおおきく、私がラーメンといって今もイメージするのは、昔京都駅の食堂街テナントに入っていた「ハマムラ飯店」という中華料理屋のラーメンである。透明なスープにまっすぐな細麺が入っていて、ナルトと薄い薄い焼き豚だけがそえられていた。「札幌ラーメン」などのクド味系がはやりだしたのはその数年後で、はじめてそういうものを食べたときは、なんと濃厚にしてボリューム豊かな食い物だろうと感心したが、すぐに飽きてしまって、かのハマムラ系の味を探したものだったが、残念なことにその頃の生息地ではそういうものにお目にかかれなかった。

したがって、やたらに高額そうな食材が脈絡なく組み合わされて作られるようなラーメンにはバランスの悪さしか感じず(おつゆにマスカルポーネクリームなんぞ浮かしたラーメン食ったら、私はまず吐いてしまうぞ)、当たり前のラーメンが食いたいな、とおもうだけである。それも、飲み会のあととか、そう食欲もない日曜の昼間とかに。

少なくともえらそうな態度で客を睥睨するようなオヤジのいる店に、行列つくって食べに行くような馬鹿馬鹿しいことだけはできない。大体インスタントでも充分うまいもの。かなりハマムラとは雰囲気は違うものの、エースコックのワンタンメン関西味(インスタントラーメンって、関東と関西で味が違うんですぞ)が一番くどくなくていい。韓国製とかタイ製は、スープを煮込んだらダメなんて思い上がったこといわないので、味のことを別にすればこれまた好ましい。

ハマムラ飯店自体、いまもそのままあるのかどうかよく知らない。昔は京都の地方紙なんかには、中国帽をかぶった男の顔が、ハマムラというカタカナで描かれている、いま考えるとやたらにインパクトあふれる商標の宣伝が載っていたものだけれど。いまネットで調べると、ハマムラそのもののサイトはなく、そこの新店をプロデュースしたらしき会社のサイトしかない。例の商標もみにくいけれど見られないことはない。

 2002/01/30

ちょっと前まで、日本における精神医学的処方の定番は多剤併用で、十種類ちかくの薬剤を細かく組み合わせて投与する、なんて人はざらだった。最近保険制度で多剤併用が若干収入の面で不利になる計らいがされるようになり、この傾向はかなりおさまってはきているが、それでも古い精神科医ほど多剤併用する、といっていい。

おそらくこれは漢方医学の影響があるに違いない。そこでは種類の違う同効薬草を何種類も組み合わせるというのは常套手段で、それぞれは決定的効果には乏しいから、少しでも薬効をあげたいという願いがそうさせるのと、それなりの経験的な積み重ねがその妥当性の根拠になるのだろう。

欧米の精神科医の処方はそれに比べると単純なもので、まず日本では当たり前の抗パーキンソン剤の併用というのをまずやらないし、向精神病薬を二種類以上併用することも標準ではない。クロールプロマジン1200mg、それも座薬で投与、なんて処方を見ると、頭に効かすべき薬をケツからそんなに入れるのかよ、なんておもってしまう。そういえば、注射に近い速効性があるはずなのに、座薬の向精神薬は日本ではほとんどない。私も若いころはなるべく単剤投与というのにこだわったが、やはりそれには限界がある。

雑誌などを見ると、最近は向こうでも多剤投与をする傾向が出てきているようだ。副作用の調整がそのほうがやりやすいし、単剤多量投与よりは、少量多剤のほうが長期的影響が少ないのではないか、という反省なのだろう。日本の場合は、少量多剤というよりは、大量多剤に安易に走る傾向が多々あり、それは是正される必要があると思うが、昔の職人芸的多剤併用の妙はけっして否定されるべきではないのに、先の保険制度などでママコ扱いされているのはちょっとなんだかな、と思う。新薬なども、単剤投与を標準にしているものがあるが、そんな薬に限ってさっぱり効かんのですわ。

もちろんこれは標的となる精神状態を踏まえた上での、向精神薬療法の範疇だけで言ってることであり、あっちが悪いこっちも悪いといって、わけのわからん薬を山ほど飲ますことを正当化しているのではないのでご注意を。

 2002/01/29

来月からCATVが増速という話だったのだが、今日から下り8メガになったと連絡が来た。体感的には全然早くなった気がしないが、計測サイトで調べると、今までの倍にはなってはいる。どうもこういう風にサービスを小出しにされると、素直に喜ぶ気になれず、もっと早くやれなんだのかよ、と権利意識ばっかり肥大するのが困ったところ。

なんかダウンロードでもして、便利さを満喫しようとおもい、68Kマックのエミュレーションソフトをいただいてくる。フリーなので妙なところが多々あるものの、デスクトップに古いMacOSがアプリケーションとして立ち上がって大感激である。昔はこの不安定さに泣かされたものだが、今見ても感じられる粋さは逆立ちしてもWindowsでは得られないものだ。なんて言って、こんなもの、何に使えばいいんだ?

 2002/01/28

昨日の文は予定稿で、午前中にアップしたのだが、そういうときに限ってネタを思いつくものだ。「不思議の国のアリス症候群」はかなり前に経験した症例だが、ほどほどに収まるところに収まったのをたまたま確認できたのでアップした。あれでやっぱり普通の精神疾患だった、というのでは困りますからなぁ。

確認するために「不思議の国…」をgoogle検索したら、あまりにふざけた扱いのサイトを発見し、しかもよく読んでみたら、某研修医がやっているサイトだったので激怒してしまった。病名の面白さだけをあげつらって、ギャグにしているつもりらしいのだが、まるっきり笑えないそのうわすべりのセンスには、あきれ果てるしかない。本当のことを言うと、ちょっと病理的な側面も感じていて、さわらぬ方がいいかな、と思うのでリンクもしない。調べればすぐわかるので、確認したいかたはどうぞ。いわゆるテキスト系として、ああいうのがアクセスを集めているらしいのだが、悲しいことである。要は皆、バカばっかりなんだね。

ほかには全豪オープン男子決勝のこととか、暴力行使には抑制メカニズムがかけているらしいこととか、雪印食品事件で急にでかい顔して立ち入り検査している農水省のこととか、ネタにすれば数日分もったのに、惜しいことをした。

 2002/01/27

サイト開設二周年記念日である。

その一年半前ぐらいから、前の職場の広報サイトに「都市伝説」紹介コーナーを作っていたり、さらに前にいわゆるパソコン通信にアップしていた文章もあったりで、この二年ですべてをはじめた、というわけでもないのだけれど。

目標は数十人ぐらいの好事家あいてに、かなりかたよった関心内容の文章を披露する、というものだったのだけれど、予想外のアクセスをいただくこととなった。実用的知識が書いてあるわけでもないし、一部のメガアクセスサイトのように、ある種のパフォーマンス表現を意図しているわけでもない。妙な経緯で新聞に取り上げられたりしたのが原因だろうが、まことに面映いことである。

これ以上大手になることもない、というのも確実だろう。世代的必然というか、とっくに死滅している古典的教養というものへ、なんとなくこだわる姿勢がでてしまうのを自分でも感じていて、そのあたりのウザさに敏感な人は多いと思うからだ。

それにしても、ここ最近は本来の記事更新が遅れっぱなしである。「医学常識のうそ」みたいな内容で、ほとんど頭の中で出来上がってるのが三つ四つあるのだが、それを実際に書くというのはまた全然違う作業なんですな。そう期待している人もいないだろうけれど、そのうちぼちぼち書きますので。

 2002/01/26

昼からあせって帰って、全豪オープン女子決勝を見る。

リアルタイムのWOWWOWでは最後のセットしか見られず、後は録画の民放で見るといういびつな見方をしたのだけれど、昔から、映画を映画館で見る時だって、途中から見て途中まで一応確認、なんて見方が全然気にならないほうなので、これでいいのです。

2セット目でほとんど勝機をつかみながら、ジャッジの妙にはばまれたあげく、ブータレ小娘化してしまったヒンギスが負け。薬物との戦いで根性つけたカプリアティが、とちゅう死んだふりしつつ勝ったのはえらい。でも、あの気象条件なら、プロとして鍛えている同士では、体脂肪率が高いほうが勝ちますわなぁ。

しかしそれにしても、何であんなクソ暑い状況で我慢しながら試合しないといけないのだろう。マラソンやってるのではないのだ。ナイトゲームにするとか、室内試合にしてエアコン効かせてやればいいではないか。あれでは村上龍いうところの、ベースラインに陣取って強打で返すだけの、「ドブさらいテニス」をやる連中が圧倒的に有利ではないか。

私自身、スキルを競うスポーツがまったくダメで、持久力勝負なら多少は楽しめる、という人間なのだけれど、それでもテニスまでその範疇にされてしまうのはなんだかな、という感じ。スキルも天与のものなのだけれど、それ以上に天与のものである体力勝負でないと、人は納得しなくなっているのかもしれない。

 2002/01/25

昨日一日がかりであつめたファイルだが、やはり昨今の医療機関にたいする風当たりの強さをかんがえると、どんなかたちで外部化するやもしれないということになり、廃棄することになった。一日がかりといったって、ダウンロード設定して放っておいただけですけどね。なんとなく、川にもんどりの仕掛けをつくって魚をつかまえた昔を思い出して、ちょっと楽しかったのだけれど。

ファイルのなかには、解剖学的限界に挑戦している、なかなか意欲的なものも多かったのに、もったいない気もしないではない。でもそういうもの見ても、単なる知覚として大脳皮質が刺激されるばかりで、まったく視床下部あたりには届いてこないのがさみしい。

 2002/01/24

昨日の反省から、院内イントラネットのPCをダウンロード禁止設定にしまくったのだが、考えて見るに、人がエロにはしるのはこれ根源的といってもよく、すべて禁止してしまえば、ネットに興味をもつ機会を奪っているようなものではないかともおもえる。

ここはセキュリティに影響がない程度に、多少はそういうものにも接する環境を用意すべきであろう。そこでWinMXなどを駆使して、汚染されていない健康的エロファイルを収集し、厳重な管理の元に閲覧可能にすることにした。

と言うわけで「マル秘」とか「流出」とか、「お宝」なんぞというキーワードで動画ファイルを集めているわけなんだけど、なんだかだんだん空しくなってきたぞ。それにしても、その手のものが山ほどあるものだ。ネットの普及で一番打撃をうけたのは、エロ本業者だろうな。

背景画像を正月用から変更。どこかのフリー素材だったんだけれど、忘れてしまった。勝手に使うな、と思われた方は連絡を。

 2002/01/23

医局の共用PCの具合が悪いというのでみてみると、ダイアルQ2につなぐタイプのエロサイト接続ソフトが数種類デスクトップに鎮座している。電話線につながっているわけではないので、料金請求される心配はないが、システム健康度なんか念頭にないプログラムだろうから、調子が悪くなるのは当然だろう。一応ウイルスチェックはOKだったが、スパイウエアは数個以上仕込まれていた。

あちこちの大学から日替わりで来るパート医の仕業にちがいないが、まるで間抜け厨房の技である。比較的PCを日常的にさわる連中でこれなのだから、ネット詐欺をもくろむ連中にすれば、まだまだ商売のネタはつきないというところなんでしょうな。とりあえずそのPCはファイルダウンロード禁止にしておいたが、そこらあたりはこちょこちょいじってくれる人が結構いるのもまた事実。

 2002/01/22

仕事をいい加減に済ませて早く帰り、オーストラリアンオープンを観戦。

昔、スイス国旗をひっくり返した商標で有名な、某特殊法人職員だったころ、することのなさにあきれはて、同僚とテニスばっかりしていたことがある。その割にはうまくならなかったのは、テニスというゲームをするにはそれなりの特権的肉体がいるのではないか、という思い込みがありすぎたことによる。

やはり中井喜一系で、かつ金持ちでないといけないのではないか。成城のテニスクラブに、せめて赤いゴルフのカブリオレで訪れるぐらいの余裕は必要だろう。ゲームの後はダブルスのパートナーと、キャンティで晩飯食って、そのままそさくさと夜の麻布に消えてしまわないとな、なんて思っていたため、もひとつ習熟が出来なかった。

そうした田舎もの根性をひっくり返してくれたのは、村上龍であった。彼の「快楽のテニス講座」は、田舎ものの貧乏人がもつテニスに対する引っ掛かりをすべて払拭してくれた、革命的図書と言っていい。なんせ、不細工なデブ親父がテニスをしてもいいよ、とヴィジュアルに示してくれているのだ。こんなありがたい本はない。いまは絶版になっているようだが、これは絶対世の中のヴィジュアル優位のスカ男どもの陰謀に違いない。

その意味ではちょっと違うのだが、今日の準々決勝に出てきたコーベックというアンちゃんはなかなか気に入った。もちろん私なんかと比べれば圧倒的ビジュアル優位ではあるものの、相対的劣位をちゃんと意識し、とんでもない配色のウェアで対抗しようとしている、その空しさがいい。勝ったのかどうか、確認する気にもならなかったその小物ぶりもいい。

 2002/01/21

昔話で三日もたせようと思っていたはずなのに、ネタをころりと忘れてしまっている。仕方がないので小ぶりの都市伝説の紹介を。

アメリカの宇宙開発事業では、本筋のロケットや軌道誘導技術のほかに、さまざまな関連技術が開発された。その中のひとつに、極端な温度変化に耐え、真空の無重力状態でもつかえるボールペンの開発というのがある。NASAはその開発に100万ドル以上を費やした。いっぽうロシアではこれをもっと簡単な方法で解決した。彼らは鉛筆を使ったのである。

無駄なことに金をつかった間抜け話、として語られるのだが、実際はNASAも、ジェミニ計画までは鉛筆を使っていた。鉛筆では折れた芯が浮遊して、機械のすきまに入ってショートさせたりするのと、アポロ1号の火災事故によって、絶対燃えない筆記用具の開発が必要とされたというのが真相。開発も外部のボールペン会社で、NASAが金を出したわけでもないそうな。

かのWWW.TOMOYA.COMで、接点復活剤として鉛筆を使うテクニックが紹介されていて、実は私も子供のころからそういう使い方をしていたのだが、たしかそれは無線雑誌の読者投稿で知ったと思う。もしかしたら、幼少のTOMOYA氏が投稿していたのかもしれない。最近それをやってもさっぱり効果がなく、どうしたのだろうとおもっていたら、昔のような黒鉛と粘土でつくられた芯ではなくて、樹脂で黒鉛を固めたタイプの鉛筆をつかったからだったんですな。

 2002/01/20

承前。

昭和四十五年五月のことである。「瀬戸内海シージャック事件」というのが起きた。強盗事件をおこしたチンピラが、追いつめられて瀬戸内海の遊覧船をのっとり、逃亡手段などの要求をしたが、警察の狙撃隊に射殺された事件である。

それ自体にはいろいろ評価があって、ここで述べるには適当でない部分がある。警察の対応の正当性に関しても色々な論議があった。最近タレント化している佐々淳行という元警備官僚は、この事件で人権派から訴訟があったことをもって、その後にあった浅間山荘事件における警察の腰引け対応を説明しているが、実際は違うとおもう。派手な銃撃戦などやって、反乱学生をヒーローにしないことだけが彼の任務だったのだろう。それ以上に、反乱学生に生命という代償を払わせてまで事態を収集する責任をとる自信がなかったのだろう。その方針の不徹底さが、無意味に末端の警官の生命を奪ったわけでもあるが。

それはさておき、私の母親はこの事件の直後、またもや手紙をよこした。それには近況をとう文面があって、最後はこんな俳句で締めくくられていた。

春の海 同じはたちの子と思う

その事件を知らないと理解できないという、俳句としては致命的な欠陥がある稚拙なもの(大体、五月なら「夏」だろう)だが、学生運動もどきに明け暮れていた私は、翌日から少しは授業に出るようになった。

 2002/01/19

私が生まれたのは、転勤ばかりしていた父親たちが寓居していた、某ど田舎県のど田舎町だったのだが、その町は最近とある漫画で人気が復活した某歴史的人物の生まれた町でもあった。しかもその町には、その歴史的人物の生家が残り、子孫も暮らしている。

しかも私が生まれた同じ日に、その子孫の家ではやはり男の子が生まれているのである。田舎のことなので同じ病院だったため、地方新聞が取材にきて、ぶざまに新生児室で寝ている私たちの写真を撮っていったらしい。

高校生のころだったろうか、母親が地方新聞の切り抜きを送ってきた。それには「*本*蔵の子孫、窃盗で逮捕」とあった。同じ日にうまれた新生児室仲間が、いかんことをしでかしたらしい。「お前はどうもまずい星回りにうまれてきているようだから、注意するように」と添え書きされていた。

母親の忠告は、その後かなり正しかったことが証明される機会が二度ほどあり、これからもないとはいえない。生年月日だけで人生を占うような企てを見るたびに、それを思い出す。

しかしこちらでも言われているように、その占い、何書いてあるかさっぱりわからんぞ。

 2002/01/18

だからそれは、かのCIAも昔、似たことやろうとして失敗してるんだって。
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ピーターズ・フレンズ("Peter's Friends" 92年英 監督:ケネス・ブラナー)

昨日、CSN1ムービーチャンネルにて視聴。冒頭、大学生仲良し劇団グループが、大晦日パーティでバカ芸を披露しているシーンではじまり、10年後、そのうちの一人、ピーターが爵位を引きつぐ機会に、昔の仲間を自分の館によんでパーティをひらく、という「グランドホテル型式」に、去りゆく青春の感傷を皆であたためあうという要素をくわえた映画。

シェイクスピア役者として知られるケネス・ブラナーが監督・出演していて、当時の嫁さん、芸達者のエマ・トンプソンとか、「ホゲホゲ法律事務所(これはCATVで放映されていたイギリス馬鹿コメディ)」のイメルダ・スタウントン(この人、『恋に落ちたシェイクスピア』で乳母役やってた)なんかも出ているので、もっぱら舞台俳優向けの相互扶助映画なのだと思う。作りもとことん舞台劇風。

集まった仲間たちは、さすがにケンブリッジ大学卒、程ほどの成功者ばかりなのだが、10年の間にそれぞれの風雪を蓄積していて、さまざまな事情を抱えている。それぞれのサブプロットを、カットバックもつかわずにうまく説明しつつ、全体の流れをつくっていく手法は、最後あたりでちょっとだれるとはいえ、見事なものである。

「ハワーズ・エンド」とか「日の名残り」などの(大概の人はこの二つ、ゴッチャになっていると思うが)、イギリス貴族文化ものが好きな人は、特に気に入るに違いない。「TVチャンピオン・パチンコ王選手権」ぐらいしか見るものがないのか、とがっくりきていた夜にこういうのがあると、ホント得した気分。

それにしても、ケンブリッジ大学の終業時期は大晦日なのだろうか。

 2002/01/17

いわゆるメールマガジンというものにいつのまにか登録していることがあって、なんでこんなものが来るのだろう、といぶかしがりながらも、ネタになるのではないかとそのまま放置、という例も少なくない。

キャラの売り込みと、くだらん著書の宣伝をわざわざ読んでやるほど私は心が広くないはずなのに、某マスコミ精神科医のMMがくるのは、多分酔っ払ったときに登録したのだろう。サービス業者としてほとんど役に立たない毎日を、この人などはどうやってごまかして生きていっているのだろう、という興味があったんでしょうなぁ。長らくそのMMを読んでみて、鈍感であること、というのがその秘訣らしいというのがわかったのが収穫。

某陰謀論的ニュース解説MMがくるのも不思議である。この人は、人間のゲノム解析がなんかすごい医療上の技術革新であるかのような見当はずれの思い込みをしていて(それで特定の企業グループが世界を支配できるとも思っているらしい)、変な小説もどきも書いているのだが、瀬*なんとかサンなどの書いている噴飯ドタバタ思いつきバイオ紙芝居より程度が悪い。もちろん*名氏ほどの筆力にも恵まれていないので、誰も相手にはしないのだけれど。

なんて言いながら、やっぱり登録したのは自分でしかありえないわけで、この手の愚昧が気になる未熟さから自由になっていない、ということなんでしょうなぁ。

 2002/01/16

今の職場はいわゆる「電子カルテ」の導入をもくろんでいて、私はその選定と導入手順をかんがえる役回りをおおせつかっているわけなのだけれど、これがなかなか難題である。こんなもの導入するために、人の意見なんか聞いていたら永遠に実現できないので、トップダウンで既成事実化するしかない。その点私は、委員会とか会議なんかを生理的に受け付けず、民主的に皆の総意をまとめていくことに何の意義も見出せない人間なので、選定係には最適なのかもしれない。

今のところ某大病院で稼動中のシステムを、ウェブベースで動くようにしたものが第一候補なのだが、これを開発した会社は病院に納入した実績がない。そこが売り込んだのか、目をつけられたのか、医療関連部門を充実しつつある、某警備会社がここのシステムを使って、電子カルテのASPサービスをはじめた。専用線でプライベートネットをつくり、その内部に個別医療機関をおく方式のため、セキュリティは申し分ないのだが、営業マンの話を聞いていて、これはいうならば、その警備会社が病院をフランチャイズチェーン化するという話なのだな、と気がついた。

今のところは医療情報管理と医事業務サポートにとどまるようだが、営業マンの言葉の端々に、金融バックアップもふくめた経営代行への意欲が見え隠れしている。そりゃそうだわな。病院の商売にかかわる情報をすべて集中管理して、それをもっと有効につかわぬ手はない。

それならこの連中の軍門に下ることもない。初期投資はかさむが、カルテサーバーを設置して、周辺の医療機関に電子カルテのASPサービスを提供すればいい。警備会社系の五分の一ぐらいの価格でやっても、いわゆる病診連携もスムーズになり、紹介率もアップして充分元が取れるのではないか。いくら電子カルテ導入で合理化できるとはいえ、あまった事務職員の首をすぐにきるわけにも行かないのだから、こうした事業部門を立ち上げて吸収すればいい。

営業マンの話を聞きながら、そうした妄想が次々にわいてきて、自然とにこやかになってしまい、それを商談順調のしるしと受け取ったらしき相手と、同床異夢の笑みをかわしあう冬の午後であった。

 2002/01/15

私の住んでいる街にも8MのADSLが使えるようになったというメール広告があり、今のCATVから鞍替えしようと思った直後に、CATVのほうからもメールがあって、下り8Mに増速するのだという。もちろん積み増し金などない。それでもCATV網のほうは個別のサーバーを置けない仕様なので、ADSLにはぐっとひかれるのだが、ISDNでさんざんユーザに無駄金つかわせた既得権ズブズブ団体に依拠するのが、もうひとつ面白くない。

正直言って、ファイルダウンロードにしたって、今の2Mならほとんどの場合、ボトルネックは別のところにあるわけで、自由度が大きいほうが商品価値がたかく、かたくなな自社ネット内唯我独尊論を主張するCATV屋さんのほうが勘違いしているとしかいえない。そもそもこの調子で増速していけば、オンデマンドビデオ配信などすぐに可能になる。マイナーTV局ごっこなんか必要なかろうと思うのだが、そのあたり自覚して方針を定めているのだろうか。

徹底的高速化、古典的芸術作品(オーディオ、映画etc)のデータベース化、独自サーバーの自由化、そのサポート体制の完備、あたりをちゃんとやれば、電話回線なんか恐るるに足りず、と思うのだけれど、あきませんかなぁ。

 2002/01/14

二日ほど前のTVで、「アポロ計画はでっちあげだった」という内容の番組をやっていた。たしかアポロ11号の成功直後にも、おなじようなトンデモ系否定をきいたことがあるし、数年周期で似たようなことがいわれているはずだ。ウェブを見まわしても、この主張をするサイトを見つけるのはたやすい。(

昨年三月にFOX‐TVが、自分のところでやっているX-Fileのてこ入れをかねて特集番組をやったようで、この前の日本の番組は、ほとんどそのパクリのようだ。他人の企画を上っ面だけなぞって、バカタレントに「うっそー」と唱和させておけばいいのだから、TV屋というのは気楽な商売である。

この手のイカレ告発への細かな反論はすでに十分なされている(こことか、ここを参照)。大雑把なことをいえば、五十万人以上が参加した大プロジェクトで、その究極の目的である事業そのものがマボロシであるためには、実際に事業をおこなう以上のとてつもないエネルギーがいる。

たとえば無意味な事業を、国家的プロジェクトといいくるめて税金をかすめとり、仲間内で甘い汁をすいあうというのはよく聞く話ではある。でもその場合、事業そのものが、実際に実行されるからこそ、その虚構は成り立つのだ。嘘は目的にあるので、事業そのものにあるわけではない。

その意義はどうであれ、宇宙船を月にうちだすには、トップの限られた人間だけでは何も出来ない。多くの人が部分的にかかわり、かなりの人が全体を統括して眺められる位置にいたはずだ。それらの人が告発にかかわっているだろうか?巨額のボーナスが彼らに支払わられたのか?FBIとかMIB(みたいなもの)が恐怖政治をひいているのか?そんな様子はどこにもない。

枝葉末節の矛盾(だと勘違いしているだけなんだけど)を指摘すれば、全体の布置すら否定できると考えているその能天気ぶりは、「ユダヤ人虐殺はなかった」とか「南京大虐殺はなかった」などと、思いつきの証拠なるものを振りかざして主張する人々と、かなりかさなる部分があるようだ。

 2002/01/13

月曜日が休みの連休一日目という、まことにめでたい日にあたり、いつもの「二日酔いでふらふら目覚め→午後までぼんやり→スポーツジムで大汗かき→ビールかっくらって、いつの間にか居眠り」という不毛のパターンを脱することにして、「東京都庭園美術館」におでかけ。

いくつかそう面白くもない絵画なども展示されているが、ここの売りはやはり建物とその周辺の庭園それ自体で、日本にのこる数少ないアール・デコ建築を観察し、それを可能にした戦前の上流階級文化の香りの一端をうかがうだけでも、半日つぶす価値が十分あるところだと思う。

入り口近くのカフェで昼飯をくったのだが、ここが今シャンパンフェアをやっていて、午後六時以降なら、千五百円でモエ・エ・シャンドン飲み放題なのだそうだ。モエなら安売り酒店でも三千円ちょっとするから、数杯以上がぶ飲みする自信がある人なら絶対お得です。でも、六時半にはしまったりして。(ちゃんと九時までやってます)

 2002/01/12

足のカカトがあんまりガサガサするので、どうなっているのかと見てみればえらく角化がすすんでいて、一部はほとんどアカギレ寸前になっている。どこかで書いたように私は風呂に入るのが大嫌いで、ほとんどシャワーで済ませてしまうため、ゆっくり入ったお湯でやわらかくなったカカトの角化部分を軽石でこする、なんてことをしないのが原因だろう。

こういうときは尿素軟膏を使うのが定番とされているのだが、残念なことにあれは浸透力がイマイチで、厚く角化したところにいくら塗ってもなかなか改善しない。日ごろからせっせとケアしてりゃいいんでしょうけどね。あれが短期間で有効になるのは、四肢体幹の乾燥性掻痒症だけだろう。

じゃあ、どうすればいいかというと、古典的なワセリン、ラノリン系の保湿剤と、サリチル酸系の皮膚軟化剤をあわせた軟膏を使うのが一番なのだが、最近の医者はまず処方しないので、普通の薬局には微妙に違うものが民間処方薬としておいてあっても、処方箋指示を出すとそんなもの出来ないといわれたりする。しかも、その民間処方剤はびっくりするほど高額だったりする。ヒマな人は、「ワセリン ラノリン あかぎれ」などとGoogleで検索してみたらいい。もし保険調剤すれば、十分の一以下の値段で同じものが出せます。そのうえもちろん保険がきくので、ほとんど負担はない。

しかし、古い大学病院などでは、古典的保湿軟膏が約束処方で作られていることがあり、これがなかなか役に立つ。以前の職場には九州大学OBがいたことがあり、「九州大学アカギレ軟膏」なる秘薬処方を伝えていた。いまいる卒後間もない医師たちがあれを絶対処方しているはずはないと思って薬局に潜入してみれば、果たして外用薬棚の奥のほうに、使われていない「九州大学アカギレ軟膏」が鎮座しているではないか。(たぶん同じようなものは、古典的約束処方として大概の大学とか病院には伝えられているはず。使いたい人はメールしてもらえば処方内容を教えます、といって、そんな大層なものではありませんけど)

さっそく自分用に大量処方し、数日使用したら、カカトはすでにすっきりである。あたらしい薬だけが効くというものではないのですよ。なお、処方内容を書き写して今の職場の薬剤師に伝えたら、迷惑顔で「こんなもの作れません」といわれてしまった。めったに使わない製剤が結構使われているからなあ。こんな風に失われていく薬物療法というのは数多いのだろうなと感じつつ、自分用には確保できたからいいわ、と利己的満足にふける私だった。

 2002/01/11

昨日のオイルにかんするサイトのリンクが、肝腎のところから外れていたので修正しておいた。

「最近の車は整備などしなくても、10万マイル(16万キロに相当)は走るように作られている。タイヤは7万5千マイルから10万マイル、不凍液なら15万マイルはもつ」という出だしでこの文章ははじまり、その会社の合成オイルをつかえば、さらに長期間、安全につかえるとしている。そして、大手メーカーはもちのいい合成オイルではなく、わざわざ劣化の早い天然オイルをうりつけ、ユーザーをカモにしているという、一種の陰謀論めいた展開があるのだが、そのあたりを信じるかどうかは別にして、一部の人がいうような頻回のオイル交換が意味のないものであることには耳を傾けてもいいと思う。

それに関連して、ガソリンスタンドでやたらにエンジンルームをあけさせるのもよしたほうがいいと思う。どうせ訳の分からん添加剤をいれろだの、何かを交換しろだのと、セールスの材料にされるのが関の山。いつも車の調子に注意をはらって、自分で自動車学校でならったレベルの点検しておけばいいのです。

病院でも検査を勧める本音は、検査の点数稼ぎと、いりもしない薬のませるのを正当化する目的がほとんどであるのと同じこと。

 2002/01/10

PC一般にかんしての指南サイトにさせてもらっているWWW.TOMOYA.COMなのだが、このところ掲示板で車のオイル交換についての論議が盛り上がっている。意見のほとんどが5千キロぐらいで交換しろ、という内容なのだが私はこれには疑問を感じる。

そこでも書いてあったのだが、最近のBMW車は3万キロに一度だけオイル交換し、それ以外はするなということになっているらしい。たしかメルセデス車も2万キロあたりでの交換を勧めていたような気がする(日本のディーラーはそういわないけれど)。環境汚染の影響を考えれば、その方向性が当然だろうし、それでもまだ不必要な気がする。

私はというと、オイルはまったく交換しないことにして30年以上車に乗っているが、トラブルが出たことは一度もない。昔は10万キロも走れば新車に買い換えるようなバカなことをしていたが、最近は必要性にあわせて車を選んでいるので、今乗っている車などはへたり果てるまで使うことになるだろうが、オイルのほうは車検のときに仕方なくエレメントといっしょに交換するぐらいですますだろう。もちろん、オイルが減ればつぎたしますよ。

通勤の足につかうぐらいのごく普通の乗り方で、オイル交換しないと車の性能がおちるなんてことがあるわけがないと思う。F1レーシングカーだって、オイル交換なんかしないぞ。エンジンを交換したりするけれど。

ちょっと調べてみたらこういうサイトを発見した。最後は自分の会社のオイル宣伝になるところがちょっとなんだが、その主張はまことにもっともであるように思える。

 2002/01/09

新聞にトミカというおもちゃメーカーの、ビットチャージーというラジコンカーが人気になっているという記事が出ていた。そのサイズもびっくりだが、私らの世代からすれば夢のようだったラジコン自動車が、たった三千円弱で買えるというのがおどろきである。

なによりもこれは「猫じゃらし」になるに違いないという霊感をえた私は、さっそく近所のトイザラスにおもむいて買ってきてしまったのであった。

結論。やはりメカっぽすぎるのか、ネコはおびえるばかりである。それにあのサイズでは板の間でないとうまく動かず、びびってコタツに逃げ込むネコを追撃できない。結局子供のころ、ラジコン玩具を買ってもらえなかったくやしさがわずかに解消されたか、というだけ。

どうも年末から、妙な消費衝動に駆られっぱなし。

 2002/01/08

がんばらない」について、何が気に入らないのかをもうすこしはっきり書くべきであろう。

取り立てて特別なことでもない医療経営の建前とか、ポーズにすぎぬものを、なにか大層な人のあり方みたいにいわれてもな、とおもう。病院というところは本来、生きるか死ぬか、自分が壊れるかどうかの瀬戸際という、非常時に利用すべきところなので、そんなときに「人との出会い」だの、「人の尊厳」がどうのだのというような世迷い事はでる幕がない。「患者の目線」なんぞで医療がおこなわれていたら、なーんもできゃしませんよ、ホンマ。「専門家の目線」が最優先されるべきものでしょう、当然。

近代医療は疾病を対象化し、個別の患者におこるさまざまな体験を一律に抽象的事実として取り出すことで進歩してきた。あなたの痛み、私の苦しみは、操作可能な抽象的実体なのであって、体験する人からはもはや離れたものなのだ。

もちろんそれは基本的なハードの部分でのとらえかたで、物事にはソフトの部分もあるのは事実。それらが離れがたくあいまって、ある疾病とそれを克服する医療の物語がはじまるわけだ。それは一種のゲームといってもよく、有限の生と避けがたい老化という限界の中で、チャレンジによる一時的勝利とか、手ひどい敗退という結果を追い求めるわけだ。理想的な治療者−患者のタッグが疾病に向かうさまは、まるでブリューゲルの「死の勝利」のなかで、せまりくる死の軍勢に剣を構える騎士たちのように美しい。

確かに今までの医療機関が、客商売という前提を忘れて、患者がわにたいして利益をもたらすわけでもない治療を一方的におしつけてきたのはそのとおり。かなり厳しい結果も覚悟しなければならない医療というゲームに参加する人々には、もっとサービス精神豊かに接するべきなのは当然だ。

私が理想としてイメージするのは、賭場に出入りする旦那衆にたいする極道の態度である。公平性が保障される秩序をまもり、ツキなく往生する客への配慮は忘れず、もちろん無意味な同情をするのではなく、再チャレンジへの意欲をうまく引き出し、当然テラ銭はきっちりいただく。

ゲームだからルールは関係者に熟知され、かつ守られる必要がある。そこらあたりは確かにまずかった面が多い。十分な情報公開と説明が医療側の義務になるし、あまっちょろい幻想をすてて、腰を入れて医療というゲームに参加するのが患者側の態度であるべきだ。

そこをいい加減にした、腑抜けたやさしさ物語ばかりが主張されるのがいやなのだ。もともとの本は決してそんな内容ではないとは思うが、いまの医療の状況では、そういう風にしか理解されないのも悲しい事実。アマゾンのコメント見ても、そんなんばっかし。

あの病院が多くの人の努力の結果、先端設備と関係者の高い士気にささえられる、日本でも有数の優良病院となったことは承知の上で、医療従事者精神訓話だけがそこから取り出されるのでは、あまりに実りがないと思うのだ。

 2002/01/07

奇跡的に渋滞にも雪にもひっかからず、親族のつとめをはたして無事に帰還。車は塩化カルシウムまみれでまっしろけ。つぎに大雨が降るまではこのまま。

さっそくコタツにもぐりこんでTVをつけると、見覚えある人が、あいだみつを風に「がんばらない」と書かれたパネルの前で、「がんばれと強要しない医療」について語っていた。これについては以前ちょっと書いたことがある。

実はこの人の本を読んでいないので間違っているかもしれないのだが、「がんばらない」のはもちろん医療を受けるがわで、医療供給側は当然がんばるのだろう。医療技術神話よりはやさしさ物語のほうがましだとは思うものの、やはり私のようなヒネクレものは、ちょっとカンベンしてくれといいたくなる。

自分自身ががんばらない医療に関しては、私はかなり自負があるんだけれどね。

 2002/01/05

この前のとむらいの四十九日法要ということで、また遠出しないといけない。高速道路わきの街なので、渋滞さえなければ車でいくぶんにはほどほどに便利(電車で行けばこの世の果て)なのだが、この季節もうひとつ難題がある。それは「雪」なんですな。

本州で一番寒いところを通るので、すこしでも雪がふればまず凍ってしまい、道路はチェーン規制ということになる。おりしも冬型気圧配置はきびしく、いったいどうなることか。あ、考えてみれば、チェーンなんか持っていないので買いに行かないと。

というわけで明日は更新お休み。

 2002/01/04

11月と12月の更新日記から、本と映画に関する記事を「本、TV」に移動。書きたそうと思ったけど、やりだしたら面倒だったのでそのまま。だから更新と言うのはインチキ。三が日に酔っ払い頭で読んだ唯一の本については下のごとし。

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「漢字と日本人」(高島俊雄:文春新書)

この著者は、私が関西で最後にくらしていた街の近くに住んでおられるらしい、という理由だけでファンなのである。聞いたこともない高校でも、住んでいたところから来ていたら、よくルールのわからないラグビーの試合でも応援してしまうようなものだ。

そのうえ、内容が誰でも口出ししたがる言語の問題であるのだから、興味はたかまるばかり。もちろん、著者は中国文学・中国語学の専門家であって、門外漢向けにちらりと示される傍証はわかりやすくて深遠、それ以上にことばそのものへの愛情の深さがうかがえる文体が、まことに小気味よい。

内容は著者が別の本でもくりかえし言っておられることで、私なんかもしばしば窃用させていただいている主張をまとめたものだ。それは、日本語の語彙は、音声だけでは意味がとおらず、文字のうらづけなしには成り立たない、世界唯一とも言える言語だというものだ。

言語学は口に出して発音されることばだけを対象にする、というきまりがあって、その前提は、言語は文字抜きで充分役割をはたす、ということなのだが、日本語の場合はちがうのだ。

それは日本語がもともと極めて音韻要素が貧弱であって、そのうえに発達が未熟な段階で、中国語というきわめて成熟した体系の言語に出会い、それがまるっきり法則の違う言語であったにもかかわらず、その文字システムを頂いてしまった、というのが第一の原因。第二の原因が明治維新で、ヨーロッパ語を翻訳するために和製漢語を創作しまくり、日本語語彙の大部分がそのときの創作漢語によって占められてしまったためである。

脈絡なしに「インビなセイコウ」といわれても、「淫靡な性交」なのか「隠微な性行」なのか文字をしめされないとわからない。実際は前後関係や言いまわしのポピュラーさなどから、みな無意識のうちに判断しているわけだが、その際必ず頭の中では文字が(あいまいではあれ)参照されている、という指摘は鋭い。もっとも、私が入門書などを斜め読みしたことしかないから無知なだけで、日本の言語学では自明のことなのかもしれないけれど。

日本人の多くが(少なくとも私は)、外国語習熟が極めて困難なのも、この「文字を頭の中で参照しようとする」くせと関係があるのではないか、と私はおもう。まえに短期間ドイツにいったとき、はじめはまるっきりチンプンカンプンだったドイツ人たちの言葉が、滞在一週間目ぐらいに部分的に聞き取れるようになったのだが、そのとき頭の中を"Dieses Museum ist sehr gut."などというような教科書の例文がテロップのように流れていくのを確かに感じたのだ。逆にいうと、そういうテロップが流れてくれるようなことばでないと、さっぱりわからんのだけれど。

言語学者たちが、この本の内容にどのような評価をするのかはしらない。でもいいじゃないか、ルールをしらないスポーツ試合だって、縁のある人たちがやっていれば応援したくなる。まして自分の体験にてらしても納得がいってしまうような内容なら、そこはありがたく拝聴すべきだろう。

なお、著者はそういう日本語の宿命にたいして、「腐れ縁」なのだから付き合っていくしかないといい、漢字の制限などによる「国語改革」には批判的(と言うより嘲笑的)態度をとっている。もちろん、無意味な漢字多用もつよく批判していて、文体もその原則をつらぬいている。私もまねしているつもりなんだけれど、ちょっと原則がわからないところもある、というのが正直なところ。

 2002/01/03

気がつけばもう休みは終わりで、明日は仕事に出なければならないではないか。この数日いったい何をしていたのか、と思い出そうとするのだが、さっぱり記憶にない。明日は不燃ゴミの収集日にもあたっていて、その内容から判断すると、シャンパン3本、ワイン6本を消費したのは間違いなさそう。普段飲まない銘柄ばかりなのに、よく味を覚えていないのが悲しいな。

ところで、おせちにあきた人向けのお料理。「カレー雑煮」(一人前)。

インスタントでも何でもいいから200cc程度のダシをつくり、醤油とか日本酒を適当に放り込んで澄まし汁をつくる。

残り物のカレー汁、もしくはカレーのレトルト一人前を暖める一方、餅を適量(馬鹿食いしたい人は数個、程々の人はそれに応じて)焼いておく。焼けた餅をドンブリにいれ、澄まし汁をまずはったところにカレー汁をいれる。

だし汁とカレーというのは意味不明にあうので、当然カレー雑煮もメチャうまである。

これは漫画の「包丁人味平」でおぼえたもので、30年近く過ぎているのに、正月の定番になっているのが情けないというか、何というか。

 2002/01/02

今日は当然、「箱根駅伝」往路。2区で有力選手が故障でリタイア、というマスコミ的にはむちゃくちゃおいしい事態が起こり、レースそっちのけで取材が集中するザマに鼻白み、TVはやめにして家人と買い物に出かける。

不況とはどこの話じゃい、といいたくなるほど街には福袋を抱えた人があふれている。こちらも負けじと、「冷凍ピザ詰め合わせ福袋」なるせこいものを買い、昼飯に。

午後はまたまたDVDで「カサブランカ」。日本語字幕と英語字幕を切り替えながら名セリフの検討を。"Here's looking at you, kids."がなんで「君の瞳に乾杯」なのかと、考えこむ。

 2002/01/01

コタツで寝転がってDVD鑑賞ができるようにと、暮れに韓国製のDVDプレイヤーを一万足らずで買っておいたのが大正解、この正月はDVD漬けである。

まずは「ハンニバル」(2001米。監督:リドリー・スコット)。ビロードっぽい仰々しいつくりの箱に、メイキングの映像の分まで別ディスクにして収めてある。どうせそんなもの見もしないので、実にもったいない、といって借り物なんだけれど。

原作をかなり手短にまとめてあって、主人公のしつこい了解心理学的な部分がない分、浅薄さから多少自由になっているのかな、と思える。ハンニバルのクラリスにたいする思い入れが、イマイチよく理解できないのは同じこと。

原作ではラストが大脱力だったが、手堅くまとめてあるこちらが多少上。第3作目への余裕を残したというところか。気になるのは、レクター博士が揮発性麻酔剤で被害者を眠らせるところが2回出てくるのだが、あんなに短時間で人が昏倒するというのはちょっとありえない(ここなどを参照されたし)。

それと、蟹江敬三似のレイ・リオッタにレクターが与える仕打ちは、解剖学的にはちょっと無理なような気がする。頭蓋骨の下にはまず硬膜というのがあって、真ん中の部分は静脈洞という太目の静脈になっている。脳に循環する血液はそこに全部あつまるから、硬膜をくるりと取り外してしまえば、血液が流れ出る経路がなくなってしまう。開頭して生かしておくためには、静脈洞は温存させないといけません。

フィレンツェで、ダンテの「神曲」らしきオペラが上演されるシーンがあって、あんなの聞いたことがないな、と思っていたら、この映画のためにわざわざ5分間だけ作ったのだそうな。そういうトリヴィアルな凝り方はさすがにリドリー・スコット。


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