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私の勤めているような田舎病院でも、パラメディカル系の研修生がしょっちゅう回ってきて、教師の真似事をしなければならないこともしばしばある。自分のデューティワークでも、出来れば他人に押し付けたい怠け者の私としては、かなり親切心がないと出来ない他人の指導というのは、苦痛そのものである。来年ぐらいからは、医師の卒後研修まで引き受けるという話なので、考えるだけで気が重い。
それはさておき、自分の経験から言えば、医学知識というのは落差が少ないところから来たもののほうが、よりよく身につくという気がする。学生時代、教授達がよく言っていたのは、「君らは私らの言うことは覚えもしないくせに、ちょっと上の先輩などが言うことはすぐ本気にするので困る」というもの。実際そのとおりで、同じことを習っても、教授と卒業したばかりの親しい研修医では、あとからのほうが圧倒的に理解度が高まる。
教えるほうが未熟なほど理解しやすいというのは、ほかの分野でもあるのだろうか。初等教育の場なんかでは絶対そんなことはないような気がする。でも、米国の医学研修制度はこの原則を巧みに利用していて、医学生の病院実習をペーペーのレジデントが担当するし、そのレジデントをスタッフレジデントが指導し、という具合にカスケード式とでもいえる教育体制がある。「ER」みてても、そういうシーンありますね。
いわゆる大家とか、ベテランの教える知識というのには、ある種の哲学といえばおおげさだが、長年の実践に支えられた価値観が色濃く付随していて、単純な情報として受け取りにくいのである。純粋なコアになるマニュアル情報だけを、アンチョコ風にサッと提示してくれないと、ああでもないこうでもないという韜晦ばっかりが目に付いてしまうのである。
もちろん、そういう価値観というのは大事で、それがないところで知識だけ振り回しても空回りになるのは当然なのだが、その部分はやはり自分で試行錯誤を繰り返した結果でないと身にはつかない様に思う。ましてや、純粋なノウハウ情報部分がないと、そういうものに至ることもないのだから、とにかく一旦はマニュアル習得しなければならないのは当然である。
昔、教師をやらされたときはこの原則がわかっていなかったので、付け焼刃の理念的なことをずいぶん吹聴するばかりのいやな教え手であったろうと反省している。最近、どうしても人に教えなければならないときには、診断や治療に関する基本的なマニュアル情報に徹するように心がけているのだが、残念なことに、相手がパラメディカルではあまりこれが必要ではないというか、あんまり関係なく、向こうの知りたいこともそうではないのである。
特に理学療法士や作業療法士とか、心理療法士の研修過程の方々は、「治療方針」ということに妙にこだわり、やたらにこれを聞いてくるのだ。私は大雑把な治療デザインということはそこそこ考えるが、「治療方針」なんてものを考えたことがない。強いていえば「病気がよくなればいい」というだけだ。まして精神疾患という、もう一つ治療手段が乏しい分野なので、自分が相手のためと信じてやっていることが、本当にメリットになっているかをよく考えないといけない。余計なことをやらず、相手のためになると信じることだけをやるといえば全てのケースに対する治療方針になってしまう。
目的を絞って操作主義に徹するというのは、パラメディカル分野では大事なのかもしれないが、そんなかかわりで何か目的が達せられるほど、精神疾患は甘いものではないのですけどね。しかたなく、治療的介入の意味を問うような、禅問答みたいなレクチャーをする羽目になり、何言ってるかわからんという不満に満ちた学生さんの尖り口を観察するだけで終わりがち。
もうちょっと何か新機軸の指導の切り口をつくらないと、お互い不愉快なばかりの研修になってしまいそう。今度は多少のちぐはくは承知の上で、ライフヒストリー聞き取りあたりに絞ってコメントしていくようにするかな。といって、ケースが痴呆老人だったりするとこれも無理なんだしね。ホント気が重い。
投稿者 webmaster : 2003年06月23日 22:33