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2003年07月06日  「光あるうちに」 [本とか映画とかTVとか舞台とか]

一昨日、いわゆる「京都本」の事についてちょっとふれ、自分ではそういうものを買わないことにしていると書いた。京都近郊で育っただけで、街中で暮らしたのも短い間だった私は、自分でも京都人だと思っていないし、何より京都のお町内で千年以上も代を重ねて暮らしてきている本物の京都人がそれを認めないだろう。京都人として京都本をよみ、批評するような行為はまさしく松岡正剛氏のような真正京都人にして、かつ意匠の人が適任で、私らみたいな似非京都人は、そもそもそういうものに近づくべきですらないと思うからである。

でも、よそ者として京都に接したからこそ見えたと思えるものもある。また本物の京都人以上にその地にこだわり、彼ら風の態度を装ったりしてしまういやらしさを持ってしまうのも自覚する。ほかの地にはまずないこうした傾向を人にもたらすのは、やはり京都という、ある意味、日本の都市文化のプロトタイプを提供している土地の特殊性がなせる技であろうか。

さて、タイトルにあげた「光あるうちに」は、中世史家の横井清氏による、部落差別問題を中軸にすえた論文集である。史学的に差別問題を考察するばかりでなく、いまそこにある具体的問題とも往還する語り口は、氏が単なる浮世離れした学者にとどまらず、差別問題に具体的にかかわる姿勢を貫いてこられることからは必然であろう。生きた学問というのはこういうものを言うのだと思う。

この本には別扁として「京都幻像 -ある小宇宙」という文章が収められており、これは氏が生まれ育った京都をその体験から記述した、画期的な京都論になっている。名所案内はもちろんの事、「ぶぶ漬け」も「はんなり」も出てこないが、ここまでに京都を生きた町として描いた文章をしらない。どんな京都本にも書いていないが、そこで生活した体験のある人なら、言語化できないまま胸にしまいこんでいる京都がそこにある。

JRの京都キャンペーンにこころ動かされ、休日にかの地を訪れようと思われる方は、凡百の京都本などには眼をくれず、是非この本の「京都幻像」の部分だけでいいから読んでもらいたいと思う。単なる観光を超えて、京都という都市空間が、典型的な日本人の精神構造の隠喩であることを体験できる糸口になると思うからだ。もちろんそれは、人と社会の暗部を覗き込む、かなり怖い体験なのであるが。

投稿者 webmaster : 2003年07月06日 21:34