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またまた職場のDVDライブラリからの借り物。題名からして、ユダヤ人とアイリッシュのしがないフォークデュオが、フロックで人気者になる話に違いなかろうと思ったのだが、ケースの解説を読めば、91年に出たミステリィ、「秘密の友人」の映画化なんだと知ってビックリである。数年前に小説のほうを読んでいたので、それとの比較という、結構楽しい視聴ポイントが得られた意外作といえようか。(参照はこちら)
映画は小説のほうとはかなり設定が違っていて、主人公の精神科医ネイサン(マイケル・ダグラス)はえらく金持ちだし、単なるグッド・パパだけでは収まりそうにない風に見えるナイスミドルである。原作では、全然はやらない零細クリニックをやっている、さえないハゲオヤジだったはずなんだけど。
10年前に銀行を襲って、貸し金庫から1000万ドルもする赤ダイヤ(そんなものあるのか?)を奪ったギャング集団がいて、そいつらが仲間割れして、かんじんのダイヤがどっかに行ってしまうのである。主犯たちは、隠し持つ元メンバーを殺して、もうちょっとでそれを取り戻せるはずがうまくいかず、刑務所に行くことになる。
殺されたほうの男の娘が、どうも赤ダイヤのありかを知っているらしいということだけはわかっているらしいのだが、そのとき8歳だった娘のほうはPTSDになってしまって、精神科の治療施設を転々としているのである。18になったその娘をたまたま預かった精神病院が、ネイサンの元の勤務先で、主治医からネイサンはその娘の診察を依頼されるのである。
ネイサンは正しくも、この娘は精神病を詐病していることを見抜くのだが(そりゃ、どう見たって素人がイメージするキチガイをやってれば、詐病だと思うしかないですわなぁ)、まあ感謝祭の前の日だったので、またゆっくりと見ましょうという話で誤魔化しておくのである。
そうしたら、感謝祭当日の翌日早々、ネイサンの8歳の娘が誘拐され、「娘から6桁の数字を聞き出せば娘を返す」という犯人からの指令が来る。どう見たって、主治医もグルでないとこういうすばやい展開はありえないのだが、ネイサンはなぜか途中まで気付かない。娘が誘拐されて、混乱していればこんなもんですかなぁ。
犯人グループはネイサンのアパート(というにはいささか豪華だけど)から、病院まで、えらくハイテクな監視盗聴網を張り巡らしていて、一挙一動を監視されているので余計な事は出来ないという設定。主治医は愛人の研修医を人質に取られていて、やむなくネイサンを巻き込んだことになっている。理由はただ、ネイサンは腕がいいということだけ。まわりがバカばっかりという可能性は高い。
たまにパニックになるだけで、基本的には正気の娘が相手なので、ネイサンは難なく娘が知っているという秘密に迫るのだが、先ごろ出所したばかりの犯人グループにすれば、その娘が鍵を握っているのはわかるにせよ、ダイヤのありかが6桁の数字にかかっているというようなことを知る理由など全くないのが、この脚本の根本的破綻部分。小説のほうは、この辺に関しては、もう少しちゃんとした筋立てがあったような記憶があるのですけどね。
しかし、原作の小説には、もっとどうにもならぬ破綻があったのですわ。それは秘密を知る娘は分裂病だとされているのに、作者のほうはそれと多重人格障害との区別が全く付いていなかったという点。さすがにあれはまずいということで、映画化の際に、基本的には詐病の神経症圏という設定に変えたのだろう。「ダーティ・ハリー」の2だったか、3だったかみたいに、この辺がデタラメでも映画に出来るというような、ノンキな時代ではなくなっているということですな。
原作ではさえないオヤジが、知能犯で、かつ冷酷な犯人グループと必死になって戦う一生懸命さが、破綻があるなりに好感が持てたのだけど、この映画ではその一生懸命さは主人公の奥さんに移しかえられているような印象である。
91年の原作のときには、アパート各室に、わからぬように監視カメラをおくことなんか出来ないというのが、解決に向けての一つの洞察になっていたのに、この映画では、なんでそんなに準備する余裕があったんだろうと思うほど、徹底的なハイテク監視網が出来ているのが面白い。10年で技術はそこまで進化したんですねぇ。
ところで、この映画の邦題、「サウンド・オブ・サイレンス」ってなんだったんでしょう。じぇんじぇん根拠ないぞ。いずれにせよ、B級ミステリィにおける破綻の質と量の積は、設定を多少変えても保存されるという、擬似的パスカルの法則を発見できたような気がするのがうれしいところ。
投稿者 webmaster : 2003年08月12日 22:17