最近の子どもの名前には、漢字に奇妙な読みを振ったものがよくあって、万葉仮名以来の伝統に裏打ちされた教養を感じさせて秀逸である、といいいたいところだが、実際はほのぼのとしたヤンキーテイストを感じさせることのほうが多く、当の子どもたちの将来をふと憂いてしまうこともある。具体的にあげつらうのは避けるけれど。
似たようなことはアメリカでも進行中らしい。もともと欧米圏のファーストネームというのはバリエーションが少なく、聖人の名前をいただいてくるか、ファミリーネームの加工で済ます場合が多いのだが、最近、かなり豊富化されてきていると聞く。
そう多い例とはいえないまでも、目立つのが「ブランド」を名前にする例なのだという。アメリカの命名事情について書かれたオーストラリアサイトの記事によると、2000年の社会保障記録によれば、49人の赤ん坊がキャノンと名づけられ、11人がベントレー、ジャガー、ゼロックス、ティンバーランドが5人づつ。
キャノンなんて、もともとある名前のような気もするのだが、命名した親はカメラのキャノンを意識しているということらしい。中にはゴーダとか、ボローニャなんてのもある。これは出身地にちなんだのではなく、チーズとソーセージから付けられたそうだ(どうしてそう断言できるのかは不明)。
シャネルという女の子はまだそう奇異でもないが、カムリという男の子は、高校生ぐらいになって日本に来るとサンザンからかわれそう。
米国命名協会の幹部は、こういう現象について好意的にとらえている。「変わった名前をつけるのは、最近の世代の親たちの特徴です。番号とかコードなどに我々が既定されていると感じるようになればなるほど、我々は世界に対してユニークな名前を示す必要があるのです」
2000年の記録によると、24人の子どもが「ユニーク」と命名されているそうだ。
ヴェルタ・エスパーニャも終わり、今年の自転車ロードレースのメイン行事はすべて終了である。TdFでランス・アームストロングのいいアシストをつとめた、USポスタルのロベルト・エラスが、見事に1位。前日までわずか28秒差で2位につけていた地元のイシドロ・ノサルが、最終日に仕掛けるのではと思っていたのだが、そんなところでアホなアタックかけるのは、日本式無駄頑張りの評価にはなっても、ヨーロッパ合理主義とは相容れぬものらしい。
今年のヴェルタはなかなかいいレースだったようだ。ウェブでの文字報道しか見ていなくても、それが伝わってきた。まさか、日本でアニメになったから、やる気になったというわけではないだろうが。昨年惜しいところで優勝を逃したエラスが、今度はその逆をついて勝利を得たというのもあるし、ちょっと二線級の選手ばかりという雰囲気を打ち破るだけの、若い選手の台頭も見られた。
なんと言っても不思議なのが日本のTV報道である。驚くことに、昨日からヴェルタの録画中継を始めたのだ。なにも、普通のネットワークのゴールデンタイムにやれといってるわけではないのだ。CSやケーブルTVで細々やる分には、別にリアルタイムでやったっていいじゃないか。数時間遅れで深夜にやるという方法もあるだろう。
ジロ・デ・イタリアを同じようにずらして放映したときは、ああ、こうやってTdFと継ぎ目なしに放映するようにして、自転車レースの雰囲気を盛り上げようとしているのだなと、好意的に見てやったのだけれど、今度の時間差攻撃は全く理解不能だ。もしかしたら、デジタル放送とかでリアル放映していたところがあって、そのためこんなにずらしたのだろうか。
リアルでやると経済的な損失があるということなら、金を出せといわれても困るが、その分補填するべく呼びかけ団体の一員になるぐらいのことはするので、ぜひ正直にその困難性を公表してくれると有り難い。
でも、普通に考えるなら、ヴェルタ・エスパーニャの結果を知りたいような人間はまずネットで確認しているはずなのだ。レースも終わってしまい、興が失せた段階でわざわざ放映なんかしても、見る人を減らしているだけのような気がするのだが。
おざなりに設置していたCGIによる自己登録式リンク集に、最近商用宣伝サイトばっかりが登録されるので、新規登録停止にしていたところ、それでも新規登録してくる連中がいる。登録者のIPから判断するに、わざと無関係な商用サイトのURLを複数貼り付ける人までいるようだ。
そうやってこまめに登録するような宣伝代行業をやっているのか、嫌がらせのつもりなのか、なんともいい難い。商用サイトでも、それなりに面白い情報を伝えてくれるようなところもあり、資料として役立つこともあるので、すべて御断りしているわけでもないつもりなのだが、やはり利用されるだけというのはそう気分がいいものではない。
そもそも、新規登録画面が出ないようにしたつもりなのに、なんで登録出来るのかが不思議だった。これはサーバーに直接侵入されたのかと、少々あわてたのだけれど、他にはいじくられたところもない。しばし考えてみて、CGIのURLに直接登録モードの引数を入れたのだということに気づく。利用しているのが結構有名なフリーソフトだし、そちらへのリンクは示しているのだから、どんな引数にすればいいかは一目瞭然。というわけでCGIそのものに手を入れて、新規登録を不可能にする作業を二日酔いの頭でする羽目に。
昔からサイトといえば必ずリンク集を作るのが定番だったが、自分ではよく読みに行くところだって、そんなもの利用することはない。話題のなかで参照されているサイトを確認することはあっても、Googleがある時代に、他人が興味あるというだけのサイトをみたって仕方がない。惰性で設置していたリンクCGIだが、ちょっと有り様を考え直さないといけないかも。BlogRollingみたいなものだけにしますかね。もう一つ仕組みが判らんのだが。
「阪神優勝祝賀会兼日本シリーズ先行残念会」なる催しをやることになり、夜は都心(といっても西荻ですが)におもむかねばならぬので、手抜きネタのアップ。引用はこちら。
オーストリアのザルツブルグから北北西に30キロほど離れた、ドイツとの国境近くに"Fucking"という町がある。地図でもわかるように、街道を300mも歩くと終わってしまうような小さな村である。興味のある方はこちらで詳しく検索のほどを。
ここがその英語圏での有名な意味のおかげで、思わぬ人気スポットであるそうな。町名が書かれた看板はしょっちゅう盗まれ、立て替え予算だけでも大変だという。この村は6世紀に開かれたが、その功労者が"Focko"という人だったため、彼にちなんで"Fucking"という名前になったそうである。なお、現地ではこれを「フーキング」と読む。
一番の人気は街道筋に立てられた交通標識で、そこには"Fucking"の町名標識に並んで、"Bitte, nicht so schnell!"(お願いね、はやいのはイヤよ)とかかれている。
土産物屋で看板や標識売ればいいのではないですかね?FuckingタルトにFukingクーヘンもついでに。もちろんFuckingワインも。
こちらの掲示板で紹介されていたもの。
この世に再びつかわされたイエス・キリスト自身になって、聖ペテロがリストに上げた敵、ユダヤ人、イスラム教徒、異教徒、無神論者、反体制主義者、フェミニスト、ホモセクシャルたちを殺戮していく3Dシューティングゲームが発売準備中であるという。題名は"Jesus Freakin"、チャンスはない、命乞いは無用だ、終末はわが手にあり、というのが宣伝コピーの一部。
味方になるのは聖書原理主義者、テレビ伝道師、共和党員、キリスト自身がよみがえらせた歴代法王やヒットラーのゾンビたち。使える武器は伝統的な石にはじまり、スコップ、こん棒、剣、もちろん突撃銃、拳銃、グレネードランチャー、火炎瓶に爆弾までお好みのものが選べる。これらの武器を駆使して現代のソドムとゴモラをさまよい、2千年まえの恥辱をそそぎ、背徳の民どもに対価を払わせるのがミッションである。スクリーンショット(?)はこれ。
「発売元」のサイトでは、ゲームは現在発売準備中とされ、Tシャツやマグカップ、マウスパッドといった関連商品しか売り出されていないが、若干のゲームシナリオの修正が終われば、大々的に売りだされるという。
むこうには、保守的教会をおちょくるようなものとか、あえてタブーに挑戦するようなフエイクサイトがよくあり、例えばこんなところが有名だが、このゲーム会社サイトも多分同じ狙いで、そこそこのヒネリをきかせて作ったのだろう。昔、マックのソフトで、神になって人間を絶滅させるさまざまな手段を下界におくるというゲームがあったが、そのあたりが発想元になっているのかも。本当に発売されたら、ちょっとやってみたくならないでもないゲームではあります。
ドイツの、ネオナチがかりの陰謀論や、トンデモ科学心酔者によって管理されているらしきサイトに掲げられた、「極秘」写真(クリックで拡大)。
「これは完全に真正な写真だ。これはチリのある発掘現場で得られたもので、極秘とされている。そして、同じようなものはドイツでも極秘とされて存在するのだ」というキャプションが添えられている。
何しろドイツ語なので、かなり気合を入れないとほかの説明まで読む気にはならないが、要はかっては巨人族や小人たちが栄えていて、それらの骨はたまに見つかるのに、学者たちは歴史がくつがえされたりしないように、またダーウインの理論を正当化するため、そういう資料を隠してきた。人々は真相に目を向けて、歴史の正しい姿に気付かねばならん、というような意味のことが書いてあるようである。
写真そのものはどう見ても、フォトショップによるやっつけ仕事みたいですけどね。世紀の大発見になるかもしれない巨人の骨をスコップで突っつくはずがないし、掘っている人間の回りには、なんか不連続な線が見えるし、てなところが。ドイツ人なら、もうちょっとマイスターぶりを見せてもいいような。
ほかにも笑かしてくれる記事がありそうなんだけれど、ドイツ語苦労して読んでも、ヤオイさんとかの類とほとんど変わらなさそうで、ちょっと努力対効果比は乏しそう。

今日は何の日。
1988年の9月24日、「ソウルのゴッドファーザー」、ジェームズ・ブラウンは、PCPでハイになった上、非登録のピストルとショットガンを振りまわして、自分の事務所に隣接する保険会社で開かれていたセミナーに乱入し、自分専用のトイレを使ったといって参列者を脅した。その後、自分の車に乗り込んで逃げ出したJBは、90分間のカーチェイスを警官隊との間に繰り広げたあげく逮捕された。
家宅侵入、脅迫、銃砲不法所持、麻薬使用などの罪に問われたJBは6年の刑と6000ドルの罰金を宣告されたが、3年後に仮釈放された。写真は逮捕直後のもの。さすがに貫禄充分。
引用はこちらから。
せっかくの休みなのに体調が悪く(といって、単なる二日酔いなんだけど)、スポーツクラブはお休みにして読書。そう考えもなく買った、恩田陸という人の短編集である。(祥伝社文庫)
知り合いに、*田睦という人がいて、あれ、あの人本書いていたのかと手に取ったのが購入理由である。睦でなくて陸なのだというのは、読み終わってから気がついた。
短編集なのだが、一連の話の主人公は退職判事ということになっていて、その人が経験する日常的な出来事や追憶の中で「事件」が起こるのである。都築道夫に「退職刑事」というシリーズがあるが、あれからパズル要素とか曲芸的なレトリックをさっぴき、ねちこい心理描写や根拠に乏しい決め付けを盛り込んだらこれになるかな、という感じ。正直いって、読み通すのはかなり辛かった。
解説を書いた西澤保彦という人が、別の人がこの短編集を評して、「謎の捏造」と「解明の恣意性」という言葉を使ったことを紹介しているが、不思議なことにそれを「ほめ言葉」のようにいうのである。この二つの言葉はこの小説群を実に的確に評していて、追憶から適当に材料を拾い出して謎を提示し、論理抜きにそれを解決するという、読者おいてけぼり系「ミステリ」であると指摘しているとしか思えないのだけれど。
不謹慎ながら、患者さんの中にはこれと似たような印象をもつ人がいるな、というのもある。過去の体験をかなり歪んだ形で追想し、そこに自己憐憫をこめた問題点を一人語りし続けるタイプの人である。基本疾患によって、その過去の歪み方はそれぞれであるのだが、その追憶が余人の視点など全く拒否する絶対性を持っているのは共通している。
その追憶に共感できたり、それなりの解釈を持ち込んで操作対象にしうると考えるような治療者なら、そういう人を歓迎するのだろうけれど、私みたいな俗物治療者は、まあすんだことはしょうがありませんなぁ、今困ってることからかたずけましょうや、と適当な薬物処方で御退散いただくだけ。本音をいうと、こちらの態度のほうが当の本人にたいしても利益がよっぽど大きいと信じてますがね。
そんな職業的感想が先に沸いてしまい、あまり素直には楽しめなかった一品。余計なことだが、30代の兄妹が二人で、しゃれたレストランで一時間半の間に3本ワインを開けるという描写があるのだけれど、おそらく作者自身の酒豪振りが反映されたとおもわれる、そのヨーロッパ人並みのアルコール処理能力にはただ感嘆。
オーストラリアの牧場主が、嵐のあと、牧場の見回りをしていたところ、落ちてきた木の枝に直撃され、意識を失ってしまった。
彼は10年来、ルルという名の雌カンガルーをペットにしていて、ルルはいつも彼の後をついて歩いていた。ルルはこの時、主人を守るように付き添い、犬のように吠え続けた。その鳴き声を聞きつけた家人によって、牧場主は危機を脱することが出来た。記事はこれ。ビデオ画像もついている。
しかし、カンガルーって、鳴くのかね。
などと書いていたのだが、アサヒ・コムの報道では「カンガルーが、約300メートル離れた農場主の家まで走り、ドアを前脚でノックして異常を知らせた」となっている。こちらのほうが圧倒的に忠カンガルーぶりが強調されている。さて、事実はいかに?(9/23 10:25am追加)
以前、咳による自己救命法のチェーンメールを紹介した事があったが、それについて専門家が国際学会で肯定的な意見を出したというので、ちょっと話題になっている。
この"Cough CPR"とは、心室細動や重症の房室ブロックという、心停止が突発的に起こる不整脈に対して、強い咳をしつづけることで一種の自己心マッサージをおこない、意識消失するのを防ぐというものだ。以下に99年ごろに循環したという、チェーンメールの内容を再録する。
これは真面目な話しだ…。今は午後4時17分、あなたは車で家に向かっている。今日の仕事はいつになくきつかった。ノルマは厳しく、上役はまったくこちらの事情など考えてくれない。不満をならべだすときりがなく、あなたはいらいらと車を進めている。突然、あなたは胸に強い痛みを感じる。それは腕からあごのあたりにまで広がる。一番近い病院まであと10キロ、そこまで持つだろうか?どうしたらいい?あなたはこの前心肺救命処置の講習を受けている。でも一人で、しかも自分自身に何が出来る?
心臓発作を独りで生き抜く方法
独りでいるときに心臓発作をおこしたら、この文章を思い出されたい。人間の心臓が突然鼓動を止めると、何の助けもない場合、意識消失までには10秒しか残されていない。そんなとき、激しくせきをし続けることでその人は自分の命を救うことが出来る。せきをする事で呼吸は維持されて酸素供給が行われ、せきで胸腔内圧が高まるために心臓の血液拍出も保たれる。誰かの助けを得るか、心臓がふたたび正常に動き始めるまで、せきは2秒に一度以上の割で続ける必要がある。
せきによる胸腔内圧上昇と、それによる心臓マッサージ効果は、心調律の再開を促す効果もある。こうして患者は電話をかけるなり、助けを呼ぶなり出来るようになる。
この方法を出来る限り多くの人に伝えてほしい。それが彼らの命を救うのだ。
これに対して,専門家の意見は冷ややかであった。たとえば米国赤十字は、わざわざこの方法についての否定的意見のページを用意している。米国心疾患協会でも同じような解説があるが、こちらはちょっと分かりにくい。よく読めば、この「咳による自己救命法」には効果がある可能性はあるが、一般的な救命テクニックをややこしくするので、救命法として教えるのは適当でないというような妙な書き方になっている。そして、心電図モニター下で、心血管造影をやっているような状況なら、これは効果のある方法だろうとされている。誰もいないところで心停止を起こしかけたときの対応法に、なんだか妙な方向からのケチつけのように私には思えるのですがね。
今月の2日、ウィーンで行われた欧州循環器学会の席で、ポーランドの循環器専門家、シュレジエン医科大学のタデシュ・ペテレンツ教授は、不整脈による突然死を防ぐのに、この"Cough CPR"がきわめて効果的であると述べた。彼は不整脈による意識消失歴のある、115例の自験例に対して、症状の前兆などを説明し、"Cough CPR"のやり方を覚えさせた。その結果、この患者たちは総数で365回の発作を起こしたが、、全ての発作はこの"Cough CPR"によって乗りきれ、医学的対応が必要だったのは73回の発作例だけだったという。
ペテレンツ教授はこう語る。「この咳自己救命法は一般大衆に教えられるべきです。多くの人々は自分の心疾患に気づいていないし、意識消失が最初の症状としてあらわれ、そして最後の症状になることが多いのです。悲しいことに、人生もそこで終わるのですが」
しかし、他の専門家たちはなおこの方法には懐疑的である。症状の予兆を一般患者が知るのは困難だろうし、効果も正しく判定されていないというのがその理由。好意的な意見も、「咳救命法」を行った患者たちが、本当に不整脈を起こしていたかという検証がないので、今後の研究が必要としている。
心電図モニター下ではそれなりに有用とまで認めつつ、この方法に専門家がいい顔をしないのがとても不思議だった。一人でいるときに発作がおこって、そのままアウトになってしまうより、やれることは何だってやればいいと思うんですが。不整脈ではないような心臓発作の場合に、意味なく胸腔内圧を高めてしまって害が出る可能性を恐れているのかと思ったが、反対する人でも「害はない」という点では一致しているらしい。純粋に、どこの誰とも分からん人間による、チェーンメールなんぞで提案されたのが不愉快ということのようだ。「専門家」というのは、何よりも「自分たちによる事態のコントロール」ということを優先するのです。当然、患者の命よりもね。
押入れの奥から昔のカセットテープがダンボール一箱分出てきて、もう聞くことも無いだろうと処分しようと思ったが、なんとなくもったいないので何本がみつくろって車に持ち込む。
私は昔から田舎暮らしばっかで、音楽を聴くのは唯一の移動手段である車の中だけといっていい。CDが無かったころは、LPレコードからテープに録音するというのがヒマなときにやる作業のおもなものだった。まあ、それはウォークマンを使っていた人も皆同じだろうけれど。
で、昔のテープを聴いてみる。もう20年以上も前のテープなのに、劣化もせずにちゃんと使えるのが驚きである。これがCD-Rならこうはいかんだろう。テクノロジーってのはむしろ退化しているのだな、とちょっと感心してしまう。
70年終わりごろから80年はじめにかけて、よく聞いていてたのが渡辺貞夫とか、ラリーカールトンとか、いわゆる「フュージョン」などと呼ばれていた類のものだが、今聞いてみるとまるでスーパーマーケットのBGMである。よくこんなものを金出して買って、テープに録音しなおすようなバカバカしい作業をやっていたものだとあきれてしまう。それこそBGMなので、うるさくもなく適当に流しておくのにはよかったのだろう。
自分はそんなものを粋がって聞いていたのだな、さぞかしつまらん若造だったのだなと、聞いているうちに気分が落ち込んできてしまう。今だってつまらんオヤジなんだけど。しかし、50年代ジャズとか、60年ロックは今聞いたって感動ものなのに、この時代のはやりもの音楽というのが、極端にツマランものばかりなのにはいささか驚きである。こういう薄っぺらな文化がつのってバブルに流れ込み、皆そろって大コケしたということなんだろうと一人納得する。
でも「スネークマンショー」が全部揃っているのもみつけたので、そちらは今後愛聴盤になりそう。「宮川左近ショー」のテープだったらもっとよかったんだけど。
海外記事の紹介ばっかり続いているので、さらにもう一押し。引用はこちら。
去る8月18日の月曜日、ヒューストンのセント・ジョセフ病院で、外科研修医がエレベーターのドアにはさまれたまま引っ張りあげられ、頭部が切断されて死亡した。彼の遺体はエレベーターシャフトの底で発見されたが、下顎以下しか残っていなかった。頭部のほとんどの部分はエレベーター内に残っていた。
エレベーターの中には、病院の女性従業員がいたが、途中停止したために医師の頭部と一緒に20分閉じ込められ、消防隊によって救出された。彼女は深刻なショック状態におちいり、同病院の救急部で治療されたが、同日退院した。
被害者の医師は日系のヒトシ・ニカイドウ氏(31)で、今年テキサス・ヒューストン医科大学を卒業してセント・ジョセフ病院での研修生活をはじめたばかりだった。ニカイドウ氏の父親も高名な医師で、息子の死を解明するために、弁護士とエレベーター事故のエキスパートを雇い、調査活動をはじめたという。
その後、この事件に関しては若干ミステリアスな要素も出てきているらしい。当初、ニカイドウ医師は普通に乗り込もうとしていて、急に閉まったドアにはさまれたという目撃証言があったのが、後になって、彼は閉まりかけたドアを無理にあけ、上昇中のエレベーターに乗ろうとしていたという目撃者があらわれたり、彼の血液から高濃度のアルコールが検出されたというような報告が出てきたりしている。
ニカイドウ家の弁護士は、後からの目撃証言の矛盾点に反論しつつ(確かに動き出したエレベーターに乗るのは、さすがに無理なような)、アルコールが検出されたという血液にはDNA鑑定をするように求めている。訴訟に持ち込まれるのは当然なので、すでにつばぜり合いは始まっているわけ。
なお、アメリカではエレベーター事故によって、1年間に30人が死亡し、1万7千人以上が怪我を負っているそうである。
別に昨日の話題を踏まえているわけではないのだが、英単語つづりの脳内変換を前提にしたような化粧品ブランドがあって、それに対して「良識派」が抗議運動を展開しているという話。
Target Corp.というアメリカの日用品販売チェーンがあり、そこは関連子会社をいくつも運営しているのだが、その一つにMarshall Field's という、本社よりは多少差別化を図ったような商品を売るところがある。そこがさらに若年層向けの化粧品会社を運営していて、その名前がFCUKというわけ。こういう業界にはくわしく無いのだけれど、イトーヨーカ堂みたいなところが、ちょっと専門的なブランド店をつくり、さらに実験的アンテナショップ経営に乗り出しているような構造かも。
そして問題が、その孫会社である化粧品会社が名乗る"FCUK"である。一応、"French Connection United Kingdom"の頭文字ということになっているのだが、昨日の話を参照しなくとも、これがFUCKと読まれることを狙っているのは明らかであろう。Flashばかりで構成されていて、読みにくいことこの上ないそこのページを読んでみると、もともとのFrench Connectionという没個性的な名前に、無理にUKを付け足したのが察せられて、その意図はあまりに露出しすぎともいえる。
しかも、男性用商品は"Fcuk him"、女性用は"Fcuk her"である。知り合いにリンク紹介するのを"Fcuk a Friend"、"Fcuk buddy"と書く念の入れよう。そのコピーも、"sent to bed"、ベッドにいざなう香りとでも訳しますか、そのものズバリのイメージ付けだ。これに保守的道徳にこり固まっている連中が反発しないわけがなく、OnemillionDads.comというサイトを先鋒にして、抗議運動が巻き起こっているというわけ。
OnemillionDads.comというのは、超保守のプロテスタント層が中心になった、アメリカ家族協会(American Family Association)が運営しているらしい。多少スベリ気味のブランドイメージ戦略のあざとさと、百年一日の退屈な保守層の道徳訓話が対になって観察できるという点で、それなりに興味ある現象といえようか。
某ニュースサイトで、本家スラッシュドットでにぎわっている話題が紹介されていた。それはまずこちらが取り上げたもので、英国の言語学研究者が発見したという「所見」を、ソース抜きで紹介したもの。
"Aoccdrnig to a rscheearch at an Elingsh uinervtisy, it deosn't mttaer in waht oredr the ltteers in a wrod are, the olny iprmoetnt tihng is taht frist and lsat ltteer is at the rghit pclae. The rset can be a toatl mses and you can sitll raed it wouthit porbelm. Tihs is bcuseae we do not raed ervey lteter by it slef but the wrod as a wlohe. ceehiro."
私にも、最後の"ceehiro"という謎の単語以外はちゃんと読める。(初出サイトはロシア語なんだけど、サイト案内の要所が日本語記述になっているのは何でだろう?)
英語では、単語のはじめと終わりの文字さえちゃんとしていれば、あとは文字の順序なんかデタラメでもちゃんと読める、何故なら人は単語を全体として認識していて、ちゃんと個別文字まで読んでいないという主張である。残念なことに、英国の大学というのはどこで、研究者が誰なのかというのはわからず、それを次々に引用しているBloggerたちや本家slashdoterたちも、勝手な憶測をくわえているばかりである。
こちらのBlogでは関連の言語学資料をあたって、かなりくわしく検討していているが、ある程度類似しているといえないこともない概念を主張している言語学者がいることは認めつつ、結局、「都市伝説の一種では」という結論になっている。
しかし、現に私みたいないい加減にしか英語を読めない表意文字文化人間にも、上の文章がそう苦労なく読めるのは確か。英語みたいに、一定の冗長性をもった音素表記だけで成り立つ言葉の場合、多少の文字揺らぎなどは自動的に吸収してしまうような機構が脳に組み込まれるのかもしれませんなぁ。そのあたりが、逆に読字障害者が向こうに多い理由になるのか、なんて考えたり。
なんていいながら、「おこめ券」の看板を街角で見るたび、ドキンとしている私なのでありますが。

1945年9月、ハーバード大学で開発中だった電磁リレー方式の計算機、マークIIで見つけられた世界初の「バグ」。コンピュータの不具合の原因として、「バグ」という言葉が使われたのも、その対処を「デバッグ」と呼んだのも、このときが最初だそうな。そりゃまぁ、「虫」と「虫を取り除いた」ということなんだから、当たり前だけど。
とっくに別のところで報じられているとは思うものの、書くこともないので紹介。引用はこちらから。向こうの軍隊というのは、気のきいた情報を提供してくれるものですな。
こちらの記事を各ジャンルに振り分ける作業を、コロッと忘れていた。仕方なく午後はその作業。MOVABLE TYPEを導入してからは、どうも意味がないような気もするのだが、やはり移動の際にそれなりにチェックしなおして、手を加えるというのはしたほうがいいようにも思える。古典的な読み物をまとめていく感覚から自由で無いというか、あえてそれにこだわっているというか。
MOVABLE TYPEを導入とはいっても、テンプレートを簡略にしまくったおかげで、コメントがあってもアーカイブのほうに保存されなくなってしまい、コメントは入れられないようにして運用しているのだけれど、これも本来のWeblogという観点からは邪道であろう。もっとも、私、"trackback"だの、"Syndicate this site (XML) "なんて書いてあるような機能について、さっぱり判っていないんですけれどね。
なにしろ古典的読み物感覚から脱していないので、コメントはいままでの掲示板なりメールで、ちょっと距離を置いた形でいただくほうがいい、なんて適当に言い訳しているわけ。
「症例A] (多島斗志之:角川文庫)
この前、都内へ出たときまとめ買いをしていたミステリ系の文庫本を消化しようと、一番気が乗らないこれから読むことにしたのだが、一時は頭の中でツッコミが輻輳状態になりつつも何とか読み終えることが出来た。
表紙カバーによれば、主人公の精神科医が「美貌の十七歳の少女・亜佐美を患者として持つ」ことになることからはじまる物語であるという。小説家にありがちの、精神科疾患とか、その治療環境に対する微妙な誤解が満ち満ちた気色の悪さを覚悟していたのだが、気合をもってあたれば、まあ何とか受忍範囲といえた。
海岸沿いに立つ、つぶれたリゾートホテルを利用して作られた精神病院に赴任してきた主人公の榊は、そこに仮名で入院している少女・亜佐美を受け持つ。この病院は200床を10人もの医師で濃厚に見るという、採算無視の「良心的」経営がされていて、榊の受け持ちも20人だけ。病棟管理の仕事もほとんど無い様子で、定期的面接さえしていればいいらしい。これで給料が世間並みなら、何がなんでも働きたいものだとおもわせる。
亜佐美を診ていた前任者は自殺したということになっていて、なんやら怪しげな雰囲気が流れていないでもないのである。前任者は亜佐美を分裂病と診断していたが、その独特のコンジョわる行動の連鎖から、榊は境界例ではないかと疑う。居合い抜きの達人だったりする女性臨床心理士、広瀬は解離性同一性障害(多重人格障害)の疑いを指摘し、精神分析療法をやらせてくれといって、榊と対立する。
このあたりの微妙なうそ臭さを、的確に表現するのは難しい。分裂病と境界例の鑑別がつかないなんてことはそうあるものでもないのだが、あったとしても治療にかけるパワーの覚悟の問題でしかない。いま現在の状態から来る問題をどう処理解決していくかということが本筋なんで…、といいつつも、先の読みというのも大事で、診断なんかいらんといってるわけでは無いのだけれど…、てな具合でこちらもはなはだあいまいなので、そりゃ違うぞと決め付けられないというのが正直なところ。
でも少なくとも、境界例と多重人格の鑑別が問題になると思っている人はいないだろう。だいたい、両者は合併しても全然不思議はないし、そもそも、人知れず多重人格を来たすなんてこと、あるとは思えんが。それになんぼ精神分析が嫌いだからといって、診断がつかずに困っているのなら、なんだってやってみればいいと普通思うんではないですかね。まして、他人がやってくれるというのだ、楽でいいじゃないか。
こんな話がずっと続けばちょっときついなと思っていたら、もう一つのストーリーが別に進行するので、なんとか耐えられるのである。そちらは上野にある古い美術館の女性学芸員が主人公になり、かって同じ美術館で働いていた亡き父親のところに、同僚から来た古い手紙に書かれていた、収蔵物の贋作疑惑を追うという趣向。
この二つのストーリーがいつしか交錯し、榊の前任者の死とか、病院にかかわる謎の一部とか、収蔵物贋作問題にもそれなりの決着がつき、亜佐美の病にも新しい切り口が見つかってよかったねという話に何とか収まるのである。もう一つ病院側のほうにちょっと余計なサブストーリーがあって、そいつがのどに引っかかったサンマの骨みたいな違和感を残すのであるが。
警察小説を本職の警官が読めば、かなりの違和感を感じるであろうし、この小説にしたって、私が耐えられた理由になった美術館側のストーリーは、そこで働く人から見ればかなりケッタイなものであろう。ここは精神科医療を舞台にした、異次元世界のSF心理劇だと思って流すしかあるまい。精神病院というところの、表面的観察はなんとか出来ているという点は評価すべきであろうか。
でも、未熟な治療者が引き起こすドジをもって、「正常と異常の境界とは、<治す>というのはどういうことなのか?」なんて、笑かしてくれるようなこというのだけはやめた方がいいと思うよ。
昨夜、久々に当直をしていて、10時過ぎから急にくしゃみと鼻水が止まらなくなり、机の上にたまたま抗ヒスタミン剤のサンプルがあったのが運のつき、軽はずみにも服用してしまう。眠気が少ないという新薬だったが、やがてねっとりとした眠気が押し寄せてくる。幸い夜中に用事はなかったものの、朝になっても眠気が取れず、うつらうつらしながら仕事をする羽目に。
私は昔から、抗ヒスタミン剤にやたらに弱く、風邪薬なんか飲むと気持ちの悪い眠気、というより意識自体が狭まる異様な感覚にとらわれ、しかも一回飲んだだけでも二日はそれが続く。何回かひどい目にあっているのに、ついつい「新薬」ということで油断してしまった。
ちょっと体がだるい、鼻水っぽいという理由で病院にきて風邪薬を求める人が結構いるが、あの人たちはこういう風にはならないのだろうね。眠気が出ないか確認するようにしているが、そういう訴えを聞いたことがない。そういう人なら薬を求めに来ないだろうけど。
昼になっても眠気は続き、車の運転もやっとこさ。帰り着いてそのまま夜までぐうぐう寝てしまった。なんか、夢も見ない特殊な感じの眠りで、全然爽快感が無い。何かの脳内レセプターに、がっちり薬が食い込んできているような感覚である。
というわけで、夜中に起きだしても文章まとめることが出来ず、翌朝に書いているという次第。まだ薬理作用が続いていることが、文章見て客観的にもわかるのが面白い。
<モスクワ発ロイター・9月11日>
モスクワのボリショイ劇場は、アイスクリーム好みのために重くなりすぎて、パートナーが持ち上げられなってしまったバレリーナとのあいだで、派手な悶着を起こしている。
ロシアでも有名なバレリーナの一人、アナスタシーア・ヴォロチコーヴァは、先週、彼女がチャイコフスキーの「白鳥の湖」の舞台に上がる12時間前に、劇場側が電話をかけてきて、出演に及ばぬと通告してきたという。
彼女は木曜日、報道陣に対して、クビになったと語ったが、劇場側はそれを否定する。彼女をもちあげることができるパートナーが見つからないので、別の契約を提示しただけなのだと。
「ボリショイの男性ソリストには、彼女と踊ることを納得してくれる人がいないのです。とりわけ、今の彼女の肉体的状態ではね」、ボリショイ劇場のディレクターはそう語る。
ヴォロチコーヴァは他のバレリーナより背が高く、低脂肪フローズンヨーグルトを選ぶようにしているとはいえ、アイスクリーム嗜癖であることを自認している。「私はアイスクリームが大好きなの。アイスクリームなしの人生なんて考えられないわ」、彼女は報道陣への声明の中でそう語っている。
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これだけ読むと、なんか頭の軽そうなバレリーナが、身体管理できないのに、あまったれを主張しているようなニュアンスなのだけれど、BBCニュースを参考までに読んでみると、彼女が10年来パートナーにしてきたエフゲニー・イワンチェンコが、彼女をリフトしようとして膝を痛め入院したが、ヴォロチコーヴァはそれを「ボリショイがパートナーを隠した」と非難していると報じられている。
彼女は体格が人並みはずれているだけでなく、かなりキツめの性格の持ち主でもあるらしく、ボリショイ相手に最後まで戦うと宣言し、彼女の支持者が劇場にピケットラインを張るまでの騒ぎになっている様子。いろんなところでアイスクリームフリークであることを宣言しているのは事実ながら、問題はそれをやめてちょっと痩せればいいといいというようなレベルではなく、芸術への意思には現実的条件のほうが従うべきだとする、超越的芸術至上主義が背景にありそうである。もちろん、人気プリマのわがままと、そう区別がつくものではないものの。
同じスパムを受け取っておられる方は多分数多いと思うが、しつこく3度も来たので腹立ち紛れに紹介。スパム主に協力してやっているようなものだけれど。カリフォルニア知事選に出たアーノルド・シュワルツネッガーを利用して、「阪神優勝」と同レベルのせこい商売しようというつもりなのか、本当に選挙運動の一環なのかははっきりしまへん。何の政策的訴えもなく、単にTシャツ売る狙いだけの選挙運動というものもないと思いますが。
なんであれ、"Hasta La Vista"がどうして「地獄で会おうぜ」と訳されたのかは不思議ですな。スペイン語というのは、普通の米国人にとってはそんな語感でとらえられるものなんでしょうか。
イギリスの古い言い伝えに、「アヒルの鳴き声はこだましない」というのがあるんだそうである。アヒルとカモの区別もつけないような連中に、よくそんな細かな観察が出来たものだと感心するのだが、とにかく昔からそういわれ、今もなお信じられているとのこと。
今月8日のBBCニュースで、その言い伝えを音響学的に検証した、サルフォード大学音響学教授である、トレバー・コックス教授の実験が紹介されている。コックス教授は、デイジーという名前のアヒルを使い、まず無響室でその鳴き声を録音し、それから残響の長い部屋で同様のことを行った。それのち、元のデイジーの鳴き声を、コンピューター処理によって、さまざまな状況に置かれた場合にシミュレートした。
その結果、アヒルの鳴き声も立派に反響することが確かめられたという。なんだか、えらく当たり前のような気もするが、「アヒルの鳴き声はこだましない」という言い伝えが確立している文化では、たぶん意味ある実験なのであろう。
しかし、この言い伝えにはそれなりの真実もあることが同時に確かめられたのも事実らしい。というのは、アヒルの鳴き声というのは速いスピードで減衰するので、残響がかえってきても長めに鳴いているように聞こえるだけなのだそうである。
記事のリンクにはコックス教授の録音したアヒルの鳴き声と、それに残響をつけたリアルオーディオ音源があるので参照されるといいが、それを聞いても全然ピンと来ないのは、こちらが異文化人であるからか。「音響学」と聞くと、某居酒屋のCMに出てくる有名学者を思い出して、はじめから眉に唾つけてしまうから、という解釈もあったりして。
アヒル鳴き 霧の都に こだま無し Webmaster
(参考記事はこちら)
CATVの日本映画専門チャンネルで視聴。1982年に作られた、「幻の超大作」である。監督は黒澤明と「七人の侍」の脚本を共同でかいたことで知られる橋本忍で、これが初監督作品なのだそうだ。
冒頭、女性が白い犬とジョギングをするシーンが延々と続く。幻の湖とは琵琶湖のことで、この女性は春夏秋冬の琵琶湖のほとりを、ただただ走るのである。何しろ北琵琶湖の方まで走っていくので、市民ランナーとしてはかなりの実力を持っている人であろう。片道50kmはあるぞ。少なくとも犬はばてるだろう。
やがて、この女性は雄琴温泉で働くトルコ嬢(現在はソープ嬢と呼ばれるが、映画作成当時はそう呼ばれていたのでそのままに)であることが明らかになる。そこはお城仕立てで、働く女性たちはみなお姫様コスプレで現れるのだ。彼女はそこで、源氏名「お市の方」と呼ばれている。この職場がやたらに業務研究に熱心で、サービス業の鑑みたいなところだ。録画して病院に持っていき、職員に見せるべきだった。
そのあたりで阪神ヤクルト戦を見てしまったので、話はよくわからなくなるのだが、多分続けてみていてもわからないのは同じであったと思われる。彼女の飼っているジョギング犬シロがなぜか出刃包丁で滅多刺しにされて殺され、お市の方は復讐を誓い、独自捜査で相手を特定する。
なんでも相手は有名作曲家であるらしく、東京まで出かけた甲斐もなく、そこの事務所のブロックにあって接触は出来ないが、以前トルコの同僚であったアメリカ人女性とばったり遭遇、彼女は実はCIAのエージェントであった(なんでやねん)。彼女の協力で相手の身元はすべてわかってしまう。
その後、主人公は地元の信用金庫の行員と恋に落ちて婚約したり、戦国時代に悲恋の末に殺された女性の生まれ変わりであることがわかってみたり、その悲恋の相手の笛の名手というのと北琵琶湖パークウェイのあたりで再会してみたり、阪神が大逆転されている間に実にいろいろのことが起こっていて、なんだかさっぱりわからぬまま、例の作曲家が、お市の方の前に客として現れるのである。
そこからが本編といってもいい。襦袢みたいな着物に足袋というスタイルで、出刃包丁を帯に差し、逃げる作曲家を追うお市の方。作曲家もジョギング愛好家という設定なので、延々と琵琶湖岸の追跡シーンが始まる。
前半、スローペースの探りあいではじまる展開だが、湖岸から国道161号線に戻るあたりでペースはあがり、堅田の街中に差し掛かると、ほとんど中距離レース並のペースになってしまい、北琵琶湖まで往復できるウルトラマラソン系のお市の方は、オーバーペースでバテバテ。
しかしそれは作曲家の方も同じ。琵琶湖大橋の登りでペースダウンしたところを一気にお市の方に抜かれ、あえなく立ち止まってしまう。勝利に万歳して喜ぶお市の方。振り返りざま、出刃包丁抱えて丁寧に二度刺しで作曲家の息の根を止める。二人のトレーニング量からすれば、途中でオーバーペースはあったとはいえ、たかが数キロ走っただけであのへろへろはちょっと情けない。
最後はなぜか宇宙空間になり、「地球防衛軍」レベルの特撮で、スペースシャトルから出て宇宙遊泳する先ほどの「笛の名手」。琵琶湖の真上の静止軌道(赤道上でないとそれは無理だと思うが…)に笛を置き、なんやらわからん情緒的なことをつぶやいて映画は終わる。
この映画が作られていたころ、まさしくこのあたりに住んでいたので(撮影現場に通りかかったこともあったぐらいで)、まことに懐かしい風景がいっぱい出てきて感無量でありました。公開当時、一週間で上映が打ち切られ、ビデオ化もされなかったといういわくつきの「幻の怪作」とされ、好き者たちのB級映画祭なんかで寂しく上映されていただけだと聞くが、ちょっともったいないような気がする。
これは単純に、日本人の好きな女子マラソンと時代劇を、そこそこのソフトポルノ兼ミステリィ風の話と掛け合わせたら受けるだろうという、かなり素朴な狙いのもとに作られた映画だと思うのですがね。その意味では、もう少し本格的にランニングシーンを撮るべきであった。主人公を和服みたいな格好で走らせるなら、やはり「なんば走り」させるべきでしたね。あのランニングフォームでは、すぐに帯がほどけてしまうぞ。
午前中、超特急で回診を済ませて都内に向かう。田舎者の悲しさ、30分以上早くつきすぎてしまい、放送局近くのド○ールで、くそまずいコーヒーを飲みながら時間つぶしする羽目に。この前都内で用事があったとき、スターなんとかという似たようなセルフサービス喫茶店に入ったものの、あまりのまずさに閉口したのだけれど、ここも全く同じ味だったのには驚いた。談合でもしているのだろうか。
そのうち放送30分ほど前になり局に入る。販促キャンペーンになるかもと同行してくれた出版社の担当者も来ていて、番組構成担当者と落ち合う。スタジオのそばで雑談。本番に向けて程ほどのウォームアップする仕事も構成の仕事らしく、調子に乗ってウダウダいっているうちに本番の時間。
吉田照美という人は、そういえばTVなどでも何度か見たことがある人だ。画像で伝わるわけでもないのに、表情やアクションでうまく雰囲気をもちあげる技はなかなかのもの。もう一人の小俣雅子という女性パーソナリティは、ちょっと前にタモリがTV東京でやっていたクイズ番組の回答者だったなと、かすかな記憶がよみがえる。
一応台本らしきものは渡されていたのだが、大筋を追うだけで、ほとんどその場で適当な会話をしているうちに本番は終了。なんか、さっぱり要領をえないオダ上げてただけ、みたいな気がしますな。直前に、出版担当者が提案した、聴取者への「死体洗いのアルバイト」本プレゼント企画みたいなものまで追加され、ラジオ番組というのはかなりその場限りの工夫で作られるものらしい、という洞察が得られたのが本日の収穫。
あと近くのレストランで、担当者と「二作目」の検討なんかして帰宅する。さて、「二作目」があるかどうか、予断を許さぬ手に汗握る展開といえるかも。
大学で統計学を教えておられるという方から、以前の「プラセボをめぐる論争」にたいして意見メールをいただく。メール原文を転載するのは控えるが、要は私があそこで二つの勘違いをしているという指摘である。
勘違いも何も、私は統計学などには全く無知なので、元論文のごちゃごちゃした統計学的な説明部分はすっ飛ばして、「プラセボには一般的にいって、臨床的にパワフルな効果があるという証拠はほとんどな」く、「臨床試験の際などのほか、これを使う正当性はない」という著者たちの結論を、ちょっと断定的に書いただけである。たしかに「プラセボにはどのような客観的効果も認められない」とまではいっていないのだけれど、使うべきでないという結論がある以上、同じようなものだとアバウトにまとめたわけ。
メール主の統計学者氏は、あの論文をよむかぎり、プラセボ効果は否定し得ないもので、要は「検出力が足りない」のだといわれる。結論も、証拠が上がらなかったという「検定の特性」を踏まえたもので、それを報道した新聞記者はその「検定の特性」を知らなかったから、あの論文を「プラセボ全否定」だと誤解しただけだと。新聞記者の無知として、私の無知だとはあえて指摘されないのが奥ゆかしい。
しかし私には「検出力が足りない」とか、「検定の特性」というような専門用語の意味がわからないので、この方の指摘も当然今ひとつよく理解できない。メールの最後には、統計学をよく知らないなら、質問すれば教えてあげると添えられているほど、ある意味親切なものなのだが、統計学的にはかなり検討の余地があるという考察があったにせよ、別に報道した新聞記者が結論書いたわけではないのである。「臨床使用の正当化は出来ない」という、著者たちによる結論があるのはどう理解したらいいのだろうか。
勘違い指摘のもう一つは、いまは医師による薬の説明義務があるのに、薬でもないものを処方する医師などいない、というものである。うーん、そういわれてもねぇ。現に使われているんだからしょうがない、としか答えようがないのです。頭がいい人というのは、一つの原則があれば、どこでもそれは徹底されていると思ってしまうんですかね。
というわけで、返事には多少皮肉な調子が混じらざるを得ないものとなった。おおらかに受け入れていただけることを願うばかりである。
メール有難うございます。
私は統計学については全く無知ですので、例にだした論文はざっと読んではいますが、プラセボは盲検の際に意味があるだけだという主張なのだと素直に読んだだけです。
統計的な結論は別にして、プラセボ効果というものを、医療幻想から分離するのは不可能だという思いが私にはあります。盲検の手順にしてみても、「どんな薬が処方されるか説明することが義務づけられている」原則からいえば、かなりゆがんだものといえないでしょうか。
薬でないものを「あたかも薬のように言う医師」は現実にはいっぱいいます。たとえば、乳糖やビタミン剤をパニック発作の際に屯服で与えるというのはよく見られます。パニック発作のように、直接的に生命には影響がなく、時間がたてばおさまるものなのだから、患者を納得させるために使うのだという理屈です。
こういうのは、いわゆるプラセボ効果とは別であることは承知しておりますが、基本的に医学的管理下にあれば安心なのだという幻想を強化するだけで、患者の自己治癒への道を思いっきり阻害していると私には思えます。
こういうことをいうと気を悪くされるでしょうが、私は統計学というのは修辞学の一部だと認識しており、その枠内での無知に関しては全く恥じる気もありません。確かにあの文章はつたないものですが、主張の大枠はその無知からきた誤解ではないのです。
ああ、統計学というのは修辞学の一部だなんて、ケンカ売ってるようなものだな、せめて医学の業界では程度の限定しておけばよかったなんて、いまさらくやんでも遅いか。
本来の目的であった、データ共有とか、プリントサーバの設定なんかは全然すすまず、というか、マニュアルがないのでさっぱり判らん。manコマンドで調べろということなんでしょうな。インターフェースはたしかに優しいつくりだが、使いこなすにはLinuxに習熟している必要があるということのよう。OSXと似たようなポリシーといえようか。
しかも、ダウンロードできるソフトの中に、オールドスタイルの3Dアクションゲームである、DOOMとかQUAKEがあるのを発見し、落としてきたのが運のつき、10年遅れのゲームフリークである。これはこれでいい使い道ができたということかな。
そういゃ、昔、メマイがでるまでやってたことがあったな、なんて懐かしく思い出すのだった。何ももたらさない時間消費とはいえ、視覚能力をたかめるというお墨付もあるので、ちょっと安心。でも、脳のほうで視覚を処理する能力は高まるかもしれないが、眼というデバイスそのものにはかなりのダメージがあるのは間違いなさそう。
竜胆の花暗きまで濃かりけり 殿村菟絲子
Linxの操作性をたかめ、限りなくWindowsに近くしたというふれこみの、LindowsOSなるものが発売されたというので、早速購入する。
実は昔使っていたマザーにセレロンを載せたPCを組んでいて、それに雑誌の付録でついてきたLinuxをインストールしてはいた。型落ちとはいえ、結構しゃきしゃき動いてくれはするのだけれど、メインに使おうという気にはなれない。普通にアプリを使っている分には、KDEなら操作性はほとんどWindowsと同じようなものだが、ソフトのインストールはめんどくさいし、ちょっと細かなことをしようとすると、ゴチャゴチャとCUIで訳の判らん呪文を入力せねばならんしで、とても付き合いきれない。
その点、このLindowsOSなら、そのあたりは簡略化されているらしく、なにより、6800円でファミリーライセンスというのがありがたい。それにClick-N-Runという形でアプリケーションのダウンロードがサポートされていて、使いたいソフトを指定すれば勝手にインストールまでしてくれるとのこと。そちらのライセンス料を入れれば1万5千円近くなってしまうのだが、2~3台にインストールして、ソフトをばかばかダウンロードすれば元が取れそうだと、思い切って張り込んでみる。
で、結論。USBマウスを認識しなかったという点を除けば、OSのインストールは実に簡単で、デスクトップも洗練されていて、付録Linuxにあるような読みにくいフォントでもなく、OSXみたいに瀟洒な表示がされる。職場で今後PCを増やすときには、こいつを採用しようかなとおもうほど。ブラウザとエディタが使えりゃいいんだから、それにポッテリ肥満OSを大枚はたくのはいい加減馬鹿馬鹿しい。
Click-N-Runの方はというと、確かに便利ではあるが、ダウンロードできるのはフリーソフトばっかりだった。インストールの簡便さを考えても、1年間のライセンス料を払うのは無駄でしたね。一ヶ月だけの短期ライセンスというのがあるから、それを追加すればよろしいという結論。購入を検討している方があれば、参考に。
竜胆は若き日のわが挫折の色 田川飛旅子
無料登録した"Nature"から、いろいろと内容紹介メールが来るようになったのだが、そのなかで興味ある記事を見つけた。「ビデオゲームは視覚能力を高める」という記事である。
この記事は、本年5月に掲載された「ビデオゲームは視覚の選択的注意力を高める」という論文の解説である。
解説記事のほうでは、もっぱら車の運転とか、飛行機の操縦などへの効能が中心に書かれているのだが、元論文はアブストラクトから類推する限りでは、注意欠陥障害を持つ人に対するリハビリ効果をうたっているようである。それも、いままで試みられてきたような知覚訓練より、よっぽど包括的ではっきりとした効果を持つと主張されている。
脳波への無知に居直って「ゲーム脳の恐怖」なんてインチキ本をかくセンセイも世の中にはいるのだけれど、こういう論文を丹念に読んで検討したりすることはまずないでしょうな。あの人の場合、ちゃんとしたケース検討なんかしていないのだから、それ以前の問題なんだけど。
なお、この目的のためにはゲームならなんでもいいというわけではなく、例えばテトリスのようなゲームは役に立たず、もっとリアルな3Dアクションゲームがいいとのこと。ゾンビがわさわさと出てきて、次々に撃ち殺すようなゲームが一番いいらしい。
文化放送の「吉田照美のやる気MANMAN!」というラジオ番組のスタッフから連絡があり、来週の月曜日に出演して欲しいとのこと。一応、準匿名の立場でやっているサイトとはいえ、ラジオならそのスタンスは一貫できるので、お受けすることにした。月曜日は比較的時間が自由になるのも大きい。
午後2時20分からの「午後2時の興味津々 」というコーナーで、何項目かの「都市伝説」について質問に答えるというものになるそうだ。その項目というのは……、あ、聞いてたのにもう忘れております。40分ほど時間があるらしいのだけれど、そんなに持ちますかなぁ。実際は数分程度で、適当にリクエストの音楽かなんかの間に、ツマとしてはさまれるだけなんだろうけど。
こういう時、自分ではちゃんと標準語をしゃべっているつもりでも、関西弁のアクセントがそこここに残ってザマがよくないので、初めから日常モードの関西弁で行こうかどうかと、今から本気で悩んでいるところ。
昨日紹介した理化学研究所グループによる「躁うつ病の遺伝子研究」について、掲示板のほうで理研によるプレス発表のリンクを紹介していただいたので、それを読んでみてよくわからなかったことがちょっとはっきりしてきたような気がする。
大学というところに籍がなくて困ることは、この生文献に直接アクセスしにくいという点だけですな。月に5千円ほどの利用料で、大学図書館を自由にネット利用できる制度があれば、喜んでお金を払うんですけどね。パシフィック・ウェスタン大学なんか、そういう商売はじめたらいかがでしょう。怪しい博士号売るようなことするより、よっぽど社会に貢献できまっせ。
判明した疑問点の最たるものは、一卵性双生児の遺伝子の違いとは何かという点。それは遺伝子配列ではなく、「遺伝子発現量」なんだそうである。プレスによれば、「遺伝子の発現とは、DNAが、蛋白質を作るためにRNAに転写されることを言います。今回調べた双生児の方々の間で、なぜ遺伝子の発現量に違いがあるのかは不明です」とのこと。その理由がわからないのなら、遺伝子レベルの解明ができたとは、ちょっといえないのではないだろうか。(一卵性双生児でも、DNAの塩基配列に違いがある場合や、染色体に違いがある場合はあるという注記もされている)
それと、日本人で調査した健常群451例と、躁うつ病群197例のXBP1遺伝子の機能低下率は、それぞれ約85.5%と95.4%だということ。つまりXBP1遺伝子の機能低下を持っている人間は、発病しようがしまいが、少なくとも日本人では圧倒的多数派なのだ。もう、オッチョコチョイばっかなんですな。オッド比なんて目くらましで(そういう言い方で数値化するのはわかるんですが)、4.6倍発病しやすいなんていうのは、ミスリードといわれてもしかたない。
この研究の概要をみていると、マスコミが依拠するような高校生物レベルの遺伝子理解というのは、むしろ本質を見えなくする危険が多いということがわかる。先端研究者も、そういう誤解を利用して自分の研究を夢の研究の如く粉飾しているのではないかと、疑いたくなってくるほど。
遺伝子といっても、要はそれが機能するのは生物個体という場の中以外ではありえず、一元的に生物現象そのものを支配しているわけではないのだ。遺伝子の機能そのものの研究が、それが生物の本質ではないということを明らかにするという点で、やはりこれは画期的な研究なのであろう。
なお、XBP1遺伝子というのは、要は神経興奮の累進反応性をダウンレギュレーションすることに関与しているのだろうという私の思い込みは、正しいのかどうかわからない。そうだったら実にすっきりと説明がまとまるんですけどね。
毎日新聞の報道によれば、日本の理化学研究所グループは、躁うつ病の発症の仕組みを遺伝子レベルで解明することに、世界で初めて成功したととのこと。
その論文は、本日発刊された"Nature genetic"電子版に掲載されたとのことなので、早速探してみたが残念なことにアブストラクトしか読めない。それから判ることはほぼ新聞記事程度で、なんだかよくわからないことも多いのだが、おおよそ、精神疾患の身体的レベルからの研究が作業仮説にしている、神経伝達の抑制機能障害ということにうまく合致するように読み取れるような気がする。まるっきり誤解かもしれないが。
理化学研究所グループは、一卵性双生児で、片方だけが躁うつ病を発症した二組からリンパ芽球の提供を受け、その遺伝子配列を検討したところ、XBP1と呼ばれる細胞原形質網のストレス反応を調整する遺伝子機能に違いがあることがわかったという。
一卵性双生児なのだから遺伝子配列は同じはずで、その機能が違うというのは、ふたつの胚に分かれた時点で遺伝子の組み替えがあって変化したということなのだろうか。それとも別要因で遺伝子機能に違いがあるということなのだろうか。XBP1の開始部位に多形性があると書いてあるのだが、あとの多人数の比較調査の結果なのか、双生児研究でのことなのか、もう一つハッキリしない。
18ドル払えば全部読めるのだから、プロとしてはその程度の出費は惜しまず読んでおくべきであろうが、元論文のほうもあいまいに誤魔化しているような予感がしてならない。遺伝子というのはそれが設計図になって、たんぱく質を合成することを通じて機能を発揮するわけで、その合成過程での障害があっても同じ結果になりそうな気もする。
研究グループはこの結果をもとに、400人以上の健康な人と、200人ほどの躁うつ病患者の遺伝子を比較し、患者グループは4.6倍の比率で、XBP1の機能低下があることを見出したとのこと。結構な比率であるが、遺伝子レベルで解明というなら、ほぼ100%がそうでないとおかしいような気もしますがな。まあ、200例も集めれば診断レベルでいい加減なものが結構混じるだろうし、ラッキーで発病しない奴もいるんだよ、とすませばいいけど。
生物現象以外の自然の因果というものは、常に一定の法則に支配されていて、ある因果系列現象が二度目からは条件が変わるということはない。ある物質が発火する温度は決まっていて、何度か同じことが起こっているうちに、「今夜のオレは燃え燃えだぜい!」とばかりに、低めの温度で燃え上がることはないのだ。
ところが、生物現象ではこれはある。その刺激反応系のかなりの部分で、「何度も反応しているうちに、反応域値が下がってくる」という現象が見られるのだ。神経細胞反応のレベルでは「燃え上がり現象」とよばれ、動物行動のレベルでは「学習」と呼ばれる現象がこれである(図式的にいっているので、両者を全く同じものだとするのは無理がある)。
てんかん発作が続いて重積発作になったり、不安発作がどんどんと悪化していき、ちょっとした刺激にも耐えられなくなったり、幻覚妄想がさらなる幻覚妄想の発展をひきおこし、やがては人格荒廃をもたらすこと、精神活動の奔出に歯止めが利かなくなることなど、ほとんどの精神疾患の単一ニューロンレベルのモデルはここにあるのではないかと、昔々からいわれつづけてきているのである。神経の興奮が、さらなる易興奮性をよび、コントロール不能になるという仮説に、実によく合致する遺伝子レベル研究がこれというわけ。
したがって、多少のあいまいさなどは問題にされず、これが脚光を浴びるのはまず間違いない。しかし、よく考えてみれば、それはどう臨床応用されるべきか、見当などつかないのである。遺伝子修復すればいいということ?なんでも、バルプロ酸(デパケン)にはXBP1の機能低下を調整する働きがあるそうで、薬物選択の根拠には役に立ちそうなのだけれど、バルプロ酸はだいぶ前から躁うつ病に対するファースト・チョイス薬剤なんですね。なるほど、あの薬が効くのはこのせいだったのか、と事後的確認するのには確かに役に立つのですが。
仮に、個体レベル丸ごとの遺伝子修復が可能になったとして、それは人類にメリットをもたらすだろうか。それは進化と発展に大いに寄与してきた、オッチョコチョイと調子乗り連中を絶滅させ、人類に沈滞と低迷をもたらすだけのような気がするのだけれど。