終日だらだらとコタツにすわりこみ、ノートパソコンにぽつぽつ打ち込みながらTVを見て、ミステリとか業界系啓蒙本とかを同時に読み続けるが、さすがにここまで集中を欠くと、個別的なことを覚えておくことはちょっと無理。
TV局は自分のところの番組の予告編しかやっていないというのと、ただ時間経過のままに人が行き交って、出るだけ人が出てきたら事件は片付く、というタイプのミステリは、さっぱり面白くないということと、職業的な事柄に関して、自分にわからないようなことは高名な専門家だってわからないのだ、ということが頭に残るだけ。(ただ、高名な専門家は、私なんかが「いやはや難しいものですな」と済ましてしまうところでも、きっちりともっともらしい文章に仕上げて商売にするところが違うけれど。)
ちょっと面白いようなネタも一つ二つ見つけたのだが、この弛緩状況ではまとめ上げる気にもならず、中途半端なまま今年の更新はおしまいに。現在、二冊目の本を出す話が持ち上がっていて、いろいろ考えたのだけれど、やっぱり一冊目の落穂ひろいでいくしかないという現実的判断に落ち着き、選んでもらった記事の書き直しの真っ最中。努力とか忍耐というものの配給にかなり限りがある私なので、どうしてもこちらは手抜きになってしまう。原稿のほうは手抜きではないのかといわれると、やっぱり手抜きなんだけれど。
国連かなにかの査察団の一員となって、中東某国首都の空港を査察しにいくという夢を見る。
民間航路専用といいつつ、軍事使用されている疑いがある、というのである。えらく派手で薄っぺらい建物の横に、なぜか漢字で「忠魂」と書かれた石碑があるので、これが軍事空港の証拠かなぁなどと写真をとったりする。しかし、かんじんの施設は、つぎはぎだらけのアスファルト舗装がされた短い滑走路が一本あるだけ。こんなものゼロ戦ぐらいしか発着できないぞ、いい加減に見回って早く帰ろうと思っていたら、向こうの軍人さんがなにか騒いでいる。
滑走路上に何箇所かあるマンホールのふたが紛失していて、滑走路が使用できなくなっているというのだ。滑走路にマンホールなんぞ作るなよと思いつつ、これが査察団の仕業だなどと因縁つけられても困るな、と自分たちの乗ってきたランドクルーザーをみれば、きっちりマンホールのふたが入っているではないか。車にはちゃんと鍵をかけておけ、ということだなと思う間もなくあたりは騒然となる。
お前らを破壊工作の疑いで拘束すると向こうの軍人が言い出し、赤いターバンをまいたえらく腹の出たTVアナウンサーがマイクを突き出して感想を求めるので、「こういう安っぽいトリックをしかけるような国家は恥を知るべきだ」といおうとして、"It must be shamed to make such a cheap trick, "という風に受身でいうべきか、国家名のほうを主語にしたほうがいいかといいよどむ。大体、ここなんていう国だったっけ。
こんなのが初夢でなくてよかった。
昨夜、どうにも断りきれなかった飲み会に出てしまったおかげで、せっかくのお休み第一日は二日酔い耐久大会である。呻吟しつつ、高校ラグビーなんかをたらたらと見続ける。
ちょっと前にワールドカップを見ていたおかげで、高校ラグビーのレベルというのは結構低いといえる程度の審美眼というか、そこそこの岡目八目的意見を言うオヤジ観戦者になっているのである。
なんと言っても高校生では身体ができていないので、走れる筋肉デブ同士が激突する醍醐味にかける。それでも、自分が住んでいる街の高校が出ていて、しかもそこが「頭わる系ぶちかまし」ラグビーを展開している様子なので、これは面白いと応援していたが、身体貧弱系頭ちょっとまし系のハンドリングラグビーに惜しいところで負けてしまった。
見ていて思ったのはラグビーの審判というのはえらくコミュニケーション能力を要求されるということで、笛吹いて一言二言いってればすむというものではないらしいのである。ルールがあれだけコロコロ変わるのだから、決まりきったコールではすまんのでしょうな。
<例>君たちね、ずっと言ってるでしょう。ジャージはちゃんとパンツに入れろって。4番、なんで何度も言わすの?キャプテン、徹底してよ。わかってる?そういう態度ならこちらにも考えあるよ。それそれ、それも言ってたでしょ。危険なプレーだって。ちゃんとやってよ。それ、そこ、もっと下がるんだよ。肩に力いれて、もうちょっとこらえるの、スクラムはそういうものなの。さあ、ラックだ。後ろからだ、後ろ、それではダメなの。8番、早いんだよ。そっちからではダメでしょ。後ろから、回って回って、走るんだよ。何、ここでキックえらぶの?ハイハイ、やんなさい。これ、また言わすの、ジャージはちゃんとパンツに入れなさい。
どうもラグビー審判というのは、ゲームとは関係ない、選手の人格部分まで指導する権威があるらしい。私も余生はラグビー審判を目指してみようかな、なんて考えてしまうのだった。ルールはいまだによくわからないのだけれど。
Movable Typeがアップデートされていたので、早速ダウンロードして修正作業。形だけは今日まで仕事なんだけれど、休みの間に呼び出されるようなことがないようにと、念には念をいれて仕事仕舞いの準備をしていたおかげで、なーんもすることがないのである。
アップデートついでに、停止しているコメント機能の復活とかを考えてみたのだが、こういう言いっぱなし系の駄文を連ねているだけなので、今までどおり日記CGIとしてだけ使う形態を維持することにした。「鶏頭を割くに牛刀をもってする」ならぬ、「駄日記を書くにMovable Typeをもってする」ということわざができそう。
なお、暮れ正月は特に予定もないので、酔いつぶれてアウトにならない限りは更新はそのまま続ける予定。
例のDecember0000はそのままだし、アップデートしても別に全然変わらんわと思っていたが、Entry作成はちょっとやりやすくなってますな。フォントがすこし大きくなったというだけのことだけど。
<12月27日、カリフォルニア州サクラメント発>(引用記事はこちら)
サクラメント市の医学研究所に自らの遺体を献体した男性の家族が、研究所を訴える手続きを進めている。この夏、研究所に以前勤めていた解剖助手が、その遺体の一部を盗んで隠し持っていたことが判明したのである。
アラン、デビッド、スコット、そしてテリーのホイッテン四兄弟は、サクラメント高裁に、彼らの父親の頭部が、11年にわたって前職員の作業小屋に置かれていた事に対する、管理不行き届きと精神的苦痛への賠償を求めて訴えを起こした。
賠償額は明記されていないが、訴訟は遺体持ち出しの当事者である前助手、デビッド・ローレンス・ビールにも向けられている。
「彼の行いは違法なものですが、それは彼の職務とも、研究所の活動とも無関係なのです」、病理解剖部門の責任者、ロバート・ウッズは述べる。献体窓口の責任者は、訴状が届いていないことを理由に、コメントを拒んだ。
ビール元助手は、11年間の間に、研究所で行われた解剖の際に残差物として出る臓器や組織を、総量にして150ポンド{約70kg)以上盗んだとして起訴されている。彼が5ヶ月前に逮捕された後、彼の所有地4ヶ所に分散されて置かれていた遺体残差物が発見された。ビール被告は無罪を主張し、現在余罪と共に審議されるのを待っている。警察によれば、彼はそれらの残差物を使って解剖技術を磨いていたと言っているそうだ。
ホイッテン兄弟の弁護士によれば、家族はとても傷ついているとのことだ。彼らの父親であるオジー・K・ホイッテン氏は、90年の12月に大腸癌で死亡した。彼は生前研究所に対し、書面で自らの遺体を癌研究に寄付する事を申し出ていた。
研究所の病理解剖部門は13年前に発足している。ビール元助手は90年から11年間ここで働き、解剖や手術の際にでる残差物を火葬処理する際の事務手続きを行っていた。
訴えは、研究所当局が家族に対して、ホイッテン氏の遺体の一部を大切に扱うと確約することも求めている。頭部が発見されたとき、アラン・ホイッテン氏は郡検屍局に、防腐処置された頭部の確認を求められたそうだ。
訴えでは、研究所自体の管理不行き届きのために、ビール被告やその同僚たちが遺体残差物をいいかげんに扱っていた(現在は改善されているということだが)と主張されている。
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役にも立たんものを一所懸命に盗んでため込むという、一種の強迫的な病的盗癖が時々報告されることがあるけれど、解剖で出た残差物を盗むというのはね。もっとも、訴えになった例では、頭部が丸々盗まれていたというのだが、なんでそんなものが保存されていたのかが判らん。犯人が勝手に切り取って持って帰ったなら、意味不明ながらかなり大胆な行為で、管理不行き届きを問われるのも当然。
実際、学生実習でもない限り、切り取ってわざわざ保存した臓器標本であっても、まず使い道なんかないし、興味も持たれませんからなぁ。誰もそんなもの欲しがらない、というのを前提にした管理されているところがほとんど(要はほったらかし)。病的な執念の前に、専門家と一般の感覚のズレが明らかになった例と言えるかも。
またまたBMJクリスマス特集論文からの引用。今回はワーグナーのオペラ、「トリスタンとイゾルデ」を薬理作用的に分析する試みである。(元論文はこちら)
一般的に、オペラというものは、作劇法という観点から見れば、まるっきり破綻しているものが多い。このストーリー展開は、小学校の学芸会でも通用しないぞ、といいたくなるようなものもあるが、実際に見ていると、派手な衣装と音楽という、祝祭感覚の氾濫で引っ張っていかれるので、ドラマツルギー的な疑問というのはそう出てくる幕がないのである。
ヒットラーとコイズミ首相が好きなことで知られるワーグナーのオペラもその例に漏れず、必然性だのを問い出せばきりがない物件なのだが、その重厚な音楽を聴くだけでも「感動」の側に容易に引き込まれる不思議な体験ができる。考えてみれば、ヒットラーとコイズミ首相も、まるっきり破綻した政策を掲げながら、感情的なアピールは末期まで結構維持できていた(後者を過去形で語るのはおかしいけれど)という点ではよく似ている。
「トリスタンとイゾルデ」というのは、王に輿入れする他国の王女イゾルデと、彼女を護衛する役目の武人トリスタンとの悲恋物語である。かって戦地で傷を負ったトリスタンの手当てをして以来、ひそかに彼に恋心を抱いていたイゾルデは、薄情にも自分の上司なんぞと結婚させる役目をかって出てきたトリスタンと無理心中を目論み、毒薬を飲ませようとするが、侍女の機転で媚薬とすりかえられる。
媚薬のおかげでタガの外れたトリスタンは、もともとの片思いと薬で、完全に吹っ飛んでしまったイゾルデと肉欲の限りを尽くすのだが、やがてそれは上司の王に知られ、刺客の手によって粛清されてしまう。王は最後はふたりをゆるすものの、イゾルデは恋人の死骸を抱きつつ、最後には息を引き取る(というか、そんな風に受け取れるラストになる)。
あらすじだけ書けば、イカレたねーちゃんに片思いされるとひどい目にあう、人生どこに災難が転がっているか判らないという、他山の石教訓オペラであるわけだが、その強引な筋運びの根幹を成している「媚薬」について考察しているのがこの論文である。
そもそも、無理心中のつもりで飲ませようとした薬は媚薬にすり替えらているのだから、トリスタンが王の刺客に殺されるのは仕方ないとして、イゾルデまで死んでしまうのが解せない。ワーグナーフリークはこのあたりを、愛によって支えられた「意志」によって命をたったのだと主張するのだが、そんなアホなことがあるわけがないのだ。
このBMJ論文は、毒薬にも媚薬にもなりえるナス科植物から得られた抗コリン作用をもつアルカロイドがその「媚薬」であったのだと推論する。ナス科植物には毒性アルカロイドを持つものが多く、花岡青洲が麻酔に使ったチョウセンアサガオや、アトロピンやスコポラミンを含むハシリドコロなどが有名だ。ジャガイモもナス科だが、ソラニンという毒物を持つことがあるのが知られている。「秋茄子は嫁に食わすな」というのも、ナス科植物がもつ潜在的危険性を古人が知っていたからこそ、言われるのだろう。
この論文の著者は、中世の媚薬はしばしばナス科植物から得られた抗コリン作用を持つアルカロイドであり、19世紀にはそれが大衆的な知識になっていたことを指摘している。そして、オペラの脚本の考察から、トリスタンたちの症状がまさしく抗コリン作用薬物から説明できるとする。最後のイゾルデの不可解な死も、抗コリン薬物の中毒症状として説明可能であると。
だからなんなんだ、と言ってしまえばそれまでなのだが、ワーグナーのオペラにも結構合理的側面はあるのだと再認識できるのが面白いところなのかなと。その信奉者に置かれても、決意だ、意志だ、感動だ、などだけではなく、そこそこ納得できる理屈の側面も検討していただければ有り難いかな、なんて控えめに感じてしまうのであった。
BMJクリスマス特集号論文。ここ百年間のオーストラリア対ニュージーランドのラグビー公式戦を取り上げ、医学論文などでしばしば使われる、データを恣意的に引用することで都合のいい結論を導く手法の例を示すのが目的だという。いわゆるEBMへの嫌味を意図しているようなのだが、例にあげているラグビーのAUとNZの因縁対決自体にかなりの思い入れがあるらしく、狙いがどこにあるのか良くわからなくなっているところがある。著者はオーストラリア、ニューキャッスル大学医学部公衆衛生教室(Population Healthをそう呼んでいいんだろうか?)の助教授。元論文はこちら。
1903年から2000年の間、両国間では114ゲームが行われ、NZの76勝に対し、AUは33勝で、引き分けが5試合であった。著者たちは、ゲームをあらかじめ定めたクライテリアによって、いくつかのグループにわけた(ルール変更を基準とした年代、ホームかアウェイか、など)。そのグループ分けは相互排除的ではなく、ひとつのグループが他のグループの一部を含んでいることもある。その上で、各ゲームグループの得点差の平均値と標準偏差を計算した。
その結果得られたグラフがこれである。以下、考察の部分をある程度忠実に訳してみる。
医学研究においては、このラグビーでの結果と同じように、最近の結果を選択的評価することができるが、そうすることで異なる結果を検討できなくなってしまう。グループ比較によって示されるエビデンツと、研究者の先入観とが、選択的評価へしむければ、それ以外のデータは無意味になってしまう。
例えば、薬剤放出型の冠動脈ステント(閉塞部に埋め込む再閉塞防止の内張りみたいなもの)の評価をするとき、昔からのバルーンを使った冠動脈拡張術の蓄積されたデータを使って、何をすることができるだろう?医学的治療は時とともに改良されることはないのだろうか?古いデータは捨て去ることはできないが、それらがより新しい治療法の結果を予見する助けになるだろうか?(ウェールズの黄金時代を思い出されたい)
医学とラグビーの類似点は厳密には成り立たないが、形式的には同じであろう。よっぽど熱心なAUサポーターでもないと、長い間NZが覇者であったことを否定などしないだろう。しかし、2003年のワールドカップで示されたように、今日のAUチームのほうが優勢であるのは明らかだ。お互いのファンたちがなんだかんだと言い合っても、所詮空騒ぎである。薬剤放出ステントと内科的療法のどちらを好もうと、結局イングランドチームのことは考えに入ってはいないのである。(引用ここまで)
医学研究における治療結果比較でしばしば使われる恣意的なグループ分けをして、しかもあまり意味がないような比較をして、一部の優位性をエビデンツだと取り上げるやり方にたいする皮肉らしいが、この百年間のAU対NZの試合結果や、もちろん今年のワールドカップのことなどは当然周知の事として例えにされているので、流し読みしただけではなんだか全然判らない。昔と今を比べたって、回顧にはなっても、今後の事に役なんかたたんぞと言いたいのだろうな、とは思うのだが。
読者のコメントがいくつか寄せられているが、例えのほうに引っ張られてしまっていて、「NZが強かったユニオン制ラグビーのことだけを取り上げているのはおかしい。AUが強いリーグラグビーのことも考察しろ」とか、「NZチームといったって、トンガ、サモア、フィジーとの連合軍じゃないか」といった反応。ちょっと例えに凝りすぎて、本論の方の展開がおろそかになった1例といえようか。
幼少期に適度に感染と付き合うことがアレルギー疾患の発生を予防するらしいということは、「笑うカイチュウ」という本で有名な藤田紘一郎医科歯科大教授も主張しておられる。これにはオリジナルがあり、その数年前にロンドン大学のStrachanが、アレルギー疾患である枯草熱(これは『花粉症』と言った方がわかりやすい)の発生と家族サイズには関連があることを見出している。
兄弟たちからの不潔な接触が多くなる大家族育ちの場合、明らかにアトピー性疾患の発生がすくないのだそうだ。当然、生まれ順とアトピー発生にも関係があり、長子はアトピーもちであることが多いという。藤田紘一郎氏に言わせれば、長子のときは一生懸命哺乳瓶を薬物で殺菌したりするが、二番目以降は親が面倒になってやらなくなるのでアトピーになりにくいのだそうだけど。我が家などははじめから面倒だったので、全然そんな殺菌手順なんかやらなかったおかげなのか、子ども達はアトピーなんか無関係に育ちましたが。
とにかく、適度にバッチく暮らすということの健康への寄与というのは、かなり常識になりつつあるといってもいいのだが、今回のBMJクリスマス特集号に論文を寄せたPerkin,Michael R.は、それに加え、さらにサッカーのポジションと生まれ順の関係についての敷衍的論考をおこなっている。
というのは、著者のPerkinには3人の息子がいるらしいのだが、彼らがサッカーをやるときは、一番下はいつもキーパーをやり、年かさがストライカーをやりたがるのだそうだ。この傾向が一般的であるかを確かめるため、著者は英国プレミアリーグの20チームに質問し、選手たちの兄弟構成を調べた。2チームは回答を拒否し、もう1チームは直接選手に聞いてくれと答えたそうである。著者はディヴィジョン3の24チームにも質問し、総数で232の選手についての情報を得た。その内訳はゴールキーパー23人、デフェンダー72人、ミッドフィルダー68人、フォワード69人である。
その結果、ポジションと家族のサイズには明らかな関連が見られた。キーパーの平均兄弟数は1.13であったが、デフェンダーは1.79で、ミッドフィルダーは2.4、フォワードは2.0であった。キーパーは一人っ子の場合が多いということだが、これは兄弟がいないためにローテーションができなかったということの表れであろうと考察されている。
一人っ子である場合を除いた全例のうち、長子は68選手、真ん中が54選手、110人の選手が末子であった(男の子だけを考察しているらしい)。しかし残念ながら、生まれ順によるポジション分布との相関は確認できなかった。フォワードが長子である率は幾分低いという結果だけが得られたが、統計的有意性は充分ではなかった。
はじめの仮説とは反対のあいまいな結果は出てくるわ、そもそも、アトピーとの関連で書き出された論文が、いつの間にやら生まれ順とサッカーポジション適性の話だけになっているではないかと、思いっきりツッコミたくなる内容である。本当は著者の仮説が証明されて、キーパーは末子が多いのでアトピーは少なく、ストライカーにはアトピー罹患者が多いなんて結果が得たかったんだろうな、と好意的にはみてあげたいのだけれど。
多分一番興味があったのは、自分の子どもたちをどのポジションに置くのがいいか、ということなんでしょうけどね。
今まで3回ほど、祈祷による疾病治療効果を検証しようとした論文を紹介したことがある。一般的な医学治療を受けている患者群と、それにくわえて祈祷者によって病気の平癒を祈ってもらう群を比較するというものである。一番初めに紹介したときには完全なキワモノ論文だと思っていたが、二度目の時には、かなりの数の研究がなされているのを知って、ちょっと驚いたものである。
そんな中で、2001年、BMJのクリスマス特集号にのった論文は文字通り驚天動地モノであった。こちらの3番目に簡単な解説をつけているが、もう一度しつこく書くならば、この研究は現在進行形の病気治療に対しての「祈り」の効果を見るのではなくて、すでに過去となってしまった治療に対しての「祈り」の効果を見るものだったのである。
1990年6月の時点で敗血症となって入院した3000余りの症例を、10年後にランダムに2群にわけ、その片方に対して平癒を願う祈りをささげるのである。もちろん、この時には治療はとっくに終わっていて、多くは治癒しており、不幸な転帰に終わった人もいる。ところが祈祷された群の入院日数は有意に短く、死亡率もわずかに低いことが示された。治療の10年後におこなわれた祈りが、時間をさかのぼって「治癒効果」を示したともいえる結果が得られたのだ。
この論文には現時点で90近いコメントが寄せられていて、当惑を方法論的な疑義で包み隠したような反応がほとんどであった。論文の形でこれをフォローしたものはほとんどなかったが、今年のBMJクリスマス特集号に、ようやく肯定的にとらえる論文が載せられている。
肯定的とは言っても、祈祷群と非祈祷群への振り分けのさい、本当にちゃんとしたランダム化ができたのか、大体祈祷者といったって、どの程度の専門家がどの程度真面目に祈ってくれたかわからんではないかという、当然の疑問はきっちりと指摘されている。後者のほうは「真面目にやった」といわれたら検証のしようはないが、前者の場合、元論文に書かれていた「コイントス」では、ちょっと手先の器用な人の手にかかれば、いくらでも操作は可能になる。
そういう疑問を勘案しても、祈祷者の祈りが過去に影響しうるということは事実として認めようではないか、というような結論である。その根拠というわけではないが、超ひも理論のような物理理論にだって、意識や実在というようなことは判らないのだから、というようなありがちの理屈がくっつけられているのは少々難ではある。
臨床記録はどこでも保存してあるのだから、あとはサイコロふって2群にわけ、坊主か神主か神父さんを呼んできたら、追試は比較的簡単にやれると思えるのだが、全くその後追試もされないというのは、元論文が示唆する、時間をさかのぼって因果が働くという現象への拒否感であろうか。今回の論文のように、一つの調査研究の評価を述べるだけのために長い論文を書くというのは、医学業界ではそうないことである。神秘主義と中途半端な物理理論を適当につないだ、ちょっと前のニューアカ連中が書きそうな内容とはいうものの、ある種、勇気のある態度といえぬこともない。
考えてみれば、私らもマージャンなんかしているときには、とても引いてきそうにもない牌であっても、気合を込めれば何とかなると少なくともそのときは信じるというか、実感しているわけだ。祈りとは少し違うが、意志の力は積まれた牌の山という、過去に決定された配列すら変えるという信念は、それほど奇矯なものでもない。
このネタでいこう、とすでに」決めている状況はあきまへんな。そのうちに取り掛かろう、と思っているうちに時間は過ぎていく。出たとこ勝負でないと日々をこなしていけない、ってのはかなり以前から気がついている私の根本的欠陥なんだけど、結局そのままで行くしかないらしい。
てなわけで、更新はお休み。東京裁判の被告とされた連中の処刑とか、ゴッホが耳をちょん切った日だとか、書こうと思えばネタはあったんですけどね。今ひとつ本気になれない話題でした。
ふと、明日は休みだというのに気がつき、気分は丸儲け。夕飯時に大酒飲んでしまい、BMJ論文なんか訳すのはちょっと困難になったので、小ネタ写真と記事紹介でごまかすことに。
まずは米軍が開発した最新のステルス戦闘爆撃機F-22の写真。ありがちなネタとはいえるものの、大真面目にやるところがなかなか面白うございます。
次はかってのソ連共産党機関紙「プラウダ」が、昨日の「スターリン誕生日」を祝う記事。スターリンに寄り添われて、実に迷惑そうな顔しているプーチン大統領の表情がよろしい。もちろん今のプラウダはスターリンを無批判に持ち上げたりしてはいない。他人事のように「コミュニストだって、かってのリーダーを愛してはいない」なんて言うのはどうかと思うけれど。
私自身は、世の中に政治的な課題があるとしたら、スターリン主義を排除することがすべてだと思っている。おそらく近代が生み出した最大の極悪人なのだが、自分も含めてあらゆる人がその資質をタップリ持っているというのが一番厄介なところだとおもう。自分のやっていることの正当化、合理化、神話化で事態を誤魔化し、都合が悪くなると強権的逆ギレで反応するという奴。コイズミ君なんて、最近は完全にこれ。
ところで、TVみていたら「ロボコン選手権」なるものをやっていたのだが、あそこで使われていたマシンは果たして「ロボット」だといえるのだろうか?全部リモコンで動いているだけではないか。
しばらくネタを考えなくてもいいように、BMJ論文の紹介を続ける予定。本日は実用的なところで、「車の色と怪我人が出るような交通事故との間に、関係はあるのか?」という研究である。一般的に、暗い色の車は見えにくいので事故が起こりやすいとはいわれるが、どの程度本当なのか、本当だとしたらその危険性はどのぐらい増えるのか、なかなか気になるところだ。著者たちはニュージーランド、オークランド大学公衆衛生学教室の研究員。(元論文はこちら)
著者たちは、1998年4月から1999年6月までのあいだに、オークランド地域で起こった571例の交通事故(運転者もしくは同乗者が一人以上怪我を負って病院に搬送されたか、もしくは死亡したもの)を取り出した。その総数は571件であったが、車の色は4例において不明であった。
一方、同時期にオークランド地域で車の運転をしていた一般運転者から、ランダムに選択して得られた588例を対照群とした。対照群の車の色は全例判明している。途中で別の色の車に買い換えた人はいなかったらしい。この対照群の車の色割合と、事故群の色割合を比較して、色別の傷害事故発生率に差があるかどうかを検討しているわけだ。
事故と関連がある他の要因として、運転者の年齢、性、教育レベル、民族性、6時間以内の飲酒状況、薬物使用、シートベルト着用、週にしめる運転時間、運転スピード、車の年式、エンジンのサイズ、事故の時間、天候など、他にもいっぱいあるが、統計的にその程度が知られている事故増加要因がある場合は、その危険性を補正したデータとの比較も同時に行っている。
それらの要因で補正した場合、数が一番多い白い車の事故率を1とすると、もっとも傷害事故が多いのは茶色で、2.1倍という結果が出た。ついで黒が2.0倍、緑が1.8倍であった。青、黄、赤、灰色がそれぞれ0.9、0.8、0.7、0.6で、いずれも白い車より傷害事故率が少ないという結果がえられた。一番少なかったのは銀色で、0.4倍の傷害発生率であった。著者たちは銀色の車で傷害率が明らかに低いことの理由を説明していないが、傷害事故を減らすために、銀色の車をもっと増やすよう提言している。
この論文に対して、ウェブにアップされた12月19日だけで、実に10人の反応が寄せられている。そのトップを切っているのが、「夕方にメタリックシルバーの車を運転していて、それが全く見えなかったらしい歩行者をはねそうになった」というもの。他にも2名が、銀色と灰色は曇天や夕方には見えにくいと、この論文の調査結果に疑義をはさんでいる。
確かに私の経験でもそう思うのだが、この論文が調べているのは車に乗っている側が傷害を負う場合だけで、車が歩行者や自転車に乗っている人をはねる事故のことは考えていないらしいのが、ズレを生んでいるのかもしれない。銀色の車に乗っていると、日ごろからチョコチョコとぶつけられる機会が多いので、自然と安全運転するようになる、という可能性もある。
銀色というとメルセデスがこれである場合が多いので、周りの車がヤーサンではないかと敬遠するのが理由、ってわけではないですわね。
昨日に続き、BMJのクリスマス特別号論文の紹介。医学的研究というか、日常的な医療手段効果判定レベルでも正統的な方法論としてみなされるEBM(Evidence Based Medicine:証拠に基礎を置く医学)という立場は、確かに形式論理的には正しいものなのだが、同時に常識というか、人間の健全な判断力というものは無視しているともいえる。昔からの経験的論理を愛する人々からは、からかいというか、その形式性への反駁があるのも事実。
昨年も、EBMをある腫の宗教にみたてた論文が掲載されたBMJは、ある意味極端なEBM的立場に対する批判的勢力の急先鋒であるのだが、今年もその立場は変わらないようだ。この論文はEBM原理主義を装って、そのナンセンスさを告発するという手法を用いている。(元論文はこちら)
論文の著者はケンブリッジ大学の産婦人科学教授と、国民健康サービス機構公衆衛生部会の研究員である。題目どおりの事故防止への医学的提言としてこの論文が採用されたとはとても思えず、この雑誌の編集者たち自身、すきあらばEBMへの有効な反論を意図していることがうかがわれる。
論文の骨子だけを以下に述べる。
パラシュートは高所からの降下時に、死亡や重篤な傷害を防止する手段として使用されている。しかし、その効果を客観的に判定するという作業は、今までおこなわれてきたとはいえない。高所からの落下時において、パラシュートを使わなくても死亡に至らなかった事例はあり、パラシュートの使用によって引き起こされた事故というものも存在する。
パラシュートの効果を客観的に判定するためには、適切なメタ‐アナリシスに基づく、ランダム化比較試験が必要である。さまざまな手段で文献検索を行ったが、結果的傷害の評価を客観的に設定し、パラシュート使用時と、擬似的手段使用時の結果を、100m以上の高所から降下した状況をもちいて客観的に比較した、適切な研究報告を見出すことはできなかった。
したがって、パラシュートの使用は純粋に経験的なものであって、たまたま良好な結果が出た例から事後的に正当化されるに過ぎない。介入的手段の正当性はランダム化比較試験によってのみ判定されるという立場に立つ人々は、高所からの降下においては、パラシュートを使わずに率先して飛び降りるべきであろう。(最後は多少面倒になったので、かなりはしょった)
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英国式皮肉と韜晦に満ち満ちた論文であるが、その意図はあきらかだろう。いわゆるコモンセンスというものを否定する極端なEBM的な立場は、上のように戯画化された内容よりもバカバカしいことを主張していることも本当にあるのである。
といって、昔からの慣例的な治療手段とされるものが、無意味であるにもかかわらず、疑われもせずに使われているということも実際にあるわけで、EBMという立場がまったくスカなのかというと、そうでもないのがまた難しいところ。結局最後は、豊かな良識に支えられたコモンセンスで判断するしかない、というところなのですな。
最近、ごく普通の医学雑誌になってしまった感のある"The British Medical Journal"で、ここしばらく引用することもなかったが、この20日に発行されるクリスマス特集号は久々の圧巻である。私の医学センスなどは軽く飛び越えた大論文がメジロ押しで、どれから紹介していいか迷うほどだ。
さしあたっては小品から、というわけで「彼らの心はいつまで続いたか?タイタニック事故から」("How long did their hearts go on? A Titanic study ")をまず紹介したい。外傷性ストレス体験がその後の健康状態に影響し、その体験者の余命も短くなるという説に対する検証を意図したものであるが、その題材に、かのタイタニック号の沈没事故(1912年4月18-19日)を用いている。
題名の"How long did their hearts go on? "は、97年の映画「タイタニック」の主題歌、"My heart will go on"をもじったもの。論文の中にも、タイタニック号の事故を扱った、他の映画の題名をうまく盛り込んであったりするような遊びが見られたりする。著者はカナダ、マックギール大学の疫学教室の教授と学生たちである。
著者たちは乗客情報を、"Encyclopedia Titanica"というウェブサイトから得ている。タイタニックの乗客やクルーたちにかんする、最も正確な情報を集めているところなんだそうである。そこから500人の生存乗客のリストを得て、435人について追跡調査が行われた。といって、彼らの生年月日とその死亡年齢をたしかめて、1912年から2003年までの、事故のあった日における彼らの生存率を計算しただけのことなんだけれど。
1等と2等乗客の大半は米英国人で、3等乗客はヨーロッパから米国への移民であった。この構成に対して、その社会背景も換算した対照グループを得るのは難しかったため、次善の策として、当時の米国とスウェーデンの統計から、タイタニックの生存者とほぼ同じ年齢と性割合をもつ2グループを作り、比較した。
そうして作られたのがこのグラフである。一見して明らかなように、乗り込んでいた等級とも関係なく、タイタニック号生存者のその後の生存率は、対照グループとほとんど差が見られず、わずかではあるものの、高い傾向すらみられる(統計的に有意なのは1等と2等の女性乗客だけ)。
論文の最後は映画「タイタニック」への言及で結ばれている。「生存者たちはその後の人生が一般と比べて短かったわけではないが、主題歌の歌詞のように、いつまでも続くというわけにもいかなかった」。少々強引かつ恣意的なデータ収集が目立つとはいえ、ごく常識的結論に至ったといえましょうか。
「父は側近に裏切られた!」と告発する、フセイン元イラク大統領の長女、ラガドさん。
どこかで見た顔だと思ったら、オセロの中島にそっくり。そちらは適当な写真がなかったが、アングルとかコスチュームさえ工夫すれば、ほぼ同じといってもいいのでは。芸名をラガド中島にして、ぜひ中東ネタを展開してもらいたい。
(実はちょっとその方向で漫才ネタを考えてみたのだけれど、あまりにも不謹慎なものになったので削除)
12月14日から三日間にかけて、イタリア全土で世界初とも言える、TV視聴者によるストライキがおこなわれ、成功裏に終了した。参加者はほぼ50万人近くに達したという。(こちらを参照のこと)
これは今月はじめ、イタリア上院で「テレビ・ラジオ制度再均衡法」(ガスパリ法)という法律が通過したことへの抗議としておこなわれた。ご存知のように、イタリアの現首相、ベルルスコーニ氏はイタリアのメディアのほとんどを直接的、間接的に支配しているといわれるが、この法律の成立によって、堂々と独占を合法化でき、首相がオーナーという現状では、報道検閲と同じ事態になる危惧がある。
呼びかけ団体は、現在ベルルスコーニ首相が所有しているTV局3局をボイコットするように呼びかけ、参加者たちは美術館や図書館、劇場、レストラン、スポーツ施設で時を過ごした。このストライキの成功をくわしく伝えているのは、イタリア共産党の機関紙「ウニタ」の記事なので(それもAltavistaのItalian to English翻訳で読んでいるので、イマイチ意味がわからんところが多いけど)、多少その報道は割り引いて読む必要はあるとはいえ、TVというものに対する世界初の実質的大衆行動が行われたことには、ひとまず快哉を叫びたい。
それにしても情けないのは日本の報道機関で、大統領が法案成立に必要な書名を拒否したところまでは報道していても、系列TV局に遠慮したらしく、この反TVストライキには全く触れていない。独占されていなくても、その腐り具合はさらに進行しているということのよう。

アメリカのNASAと、ヨーロッパ天文連合ESAが共同で打ち上げた太陽観測衛星、SOHOから送られてくる画像に、かの赤鼻のトナカイが顔を覗かせているというので、いくつかのBlogサイトなどで話題にされていた。
そういわれれば、そう見えないこともないというレベルではあるけれど、なかなか楽しい。これは紫外線写真なんだそうで、このトナカイ型の暗い部分は、「コロナ・ホール」だとのこと。そこから磁力線が放出されているらしいが、何のことやらようわかりません。なお、この画像も含めたSOHOからの画像はこちらで閲覧できる。
上のサムネイルをクリックすると、トナカイ図柄の輪郭が追加された画像がポップアップするので、参考までに。殺伐とした昨今、たまにはこういう罪のない画像もいいものです。世の終わりをもたらす黙示録の獣だ、なんてこと言い出す人がいないのがよろしい。
水戸黄門の特別ドラマぐらいしかみるものがないので、借り物DVD劇場に切り替える。サッカーやらイラク情勢やらで、一週間前に借りていながら今日までみる気にならなんだ物件。
「SF映画の三大金字塔」の一つとされる、「惑星ソラリス」のリメイク。金字塔の後二つはなにかというと、「2001年宇宙の旅」と「ブレードランナー」とのこと。自分では「月世界旅行」と「カリガリ博士」、「メトロポリス」だと思ってましたよ。
何であれ、えらくカルト的人気をほこる先発作品があるので、一部にはえらく悪評フンプンの映画らしいのだが、結構面白かったというのが正直な感想。タルコフスキーのほうはやたらに思わせぶりな映像ばっかりで、今ひとつだった記憶がある。小説のほうはそれなりに楽しめましたが。
シカゴの救急病院をクビになったG・クルーニーは、小児救急医から精神科に転向し、未来世界で暮らしていたのだが、あるときオカマのKABAちゃんにそっくりな女性としりあい、結婚生活を送ることになる。ER時代の女グセの悪さも見せず、地道に家庭を築こうとしていたG・クルーニーであったが、相手のKABAちゃん風女性は情緒不安定で、ケンカの挙句に家を飛び出したジョージが恐る恐る家にかえって覗いてみれば、嫁さんは自殺してしまっていたのであった。
自責と落胆の日々を送るジョージの元に、惑星ソラリスの周回軌道ステーションで研究生活を送る旧友から、助けを求める知らせが寄せられる。そこでは妙な現象が起こっていて、収拾がつかないので助けに来てくれという内容。早速出かけていったジョージがみたものは、血塗られた二つの死体と、まとまらぬことを言うばかりの生き残りのクルー、いるはずもないガキが走り回る姿であった。そして到着早々、ジョージのところに現れたのは、死んだはずのKABAちゃん妻であった。
というわけで、小説や前作で、あまりによく知られているストーリーなので、謎を小出しにしてじらす手法も使えず、さてその驚愕の真実とは、といってCMを入れるわけにも行かず、あっさり謎があらわにされ、それをどう始末するかと言うところに的がしぼられるので、実に判りやすい。99分というコンパクトな作りも好感が持て、これで「愛」のはかなさと、それを失う「悲哀」の厄介さがほどほどに表現されているのだから、実に好ましい。
何を勘違いしているのか、「水戸黄門」で3時間引っ張るこの御時勢、すっきりまとめるだけで映画は面白くなるということの証左であると思われる。でも、前作の内容を優等生が上手ににレポートにまとめただけ、という気もしないではないけれど。
でたらめが書き連ねられた和英辞書を出版したいたずら者のために、騒動が巻き起こっている。(Yahoo! TVより)
アメリカ旅行にそなえて、このでたらめ辞書でまじめに勉強してきた数千人の日本人観光客が、わが国で人に話し掛けるなり、冷たく無視されたり、笑い者になったり、手ひどく殴られるという事態が起こっている。
「この辞書を作った人間は、明らかに騒動を引き起こす目的だったようです」、ニューヨークのホテルでコンシェルジュとして働き、日本からのVIP訪問を数多くアレンジしてきた、ジャクリーヌ・ポースマン女史はそう語る。
「例えば、日本人が『トイレはどちらですか?』と尋ねようとすると、この本が教えるのは『あなたのお尻を撫ぜていいですか?』というものです。『あなたに会えてうれしい』というところは、『あんたの息は水牛だってダウンさせるほど臭い』なんです。」
この辞書は過去に少なくとも5万部が売られており、日本政府はすでに販売禁止の措置を取っているものの、なお古本屋では売りつづけられている。
大使館には2300件もの事件報告が寄せられている。
この手の込んだでっち上げの背後に誰がいるのか、誰も知らない。著者-発行者として、「M.L.タナカ」という名前だけが書かれた人物は、日本の観光事業当局に恨みを抱いてる人物ではないかという意見もある。80年代に日本車のために失業した、自動車産業の労働者だともいわれている。
先のポースマン女史はこう述べる。「アメリカ人が東京の国技館に行って、『カッコいいぞ、頑張れ』といってるつもりで、『デカいケツだ、頭に乗せてみな』などといえば、どんなにおかしなことかと思いますわ。反対の立場で考えれば、面白いではすみません」。
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いくら英語に弱くても、「愛しているよ」と「首をちょん切るぞ」の違いぐらいわかるぞ、と思うのだが、そうまじめに取る事も無く、これはYahooニュースの中のWeekly World Newsからの引用部分。ガセを前提にした、それこそCamp Humorを追求している新聞なので、フィクションだと注を入れる必要もないわけ。
まあ、日本人の英語能力というものをネタにして、日ごろサンザン悪口言いまくってるからこそ出来る冗談記事なんでしょうが。
友人と都内で会食。そのあと、知り合いの知り合いという縁で、前にも聴きに行ったことのある、女性ジャズボーカリストのライブに付き合う。
若い頃ならあれこれ見聞きするのは楽しいのだが、、年とってくればよっぽど上質の体験させてくれるものでないと、バカバカしいと思うだけなのがいけません。
下らんもの見るぐらいなら、家で寝てるほうがマシだもの。そういう意味では、今日のライブはいちおう基準値ギリギリの体験。私の意欲低下レベルを踏まえるなら、かなりまともなものにはいる。でもそのパフォーマンス自体はそう素敵なものではなかった、と正直に言うしかない。
もちろん、身近な知り合いもいて、こちらも都内に住んでいて、相手も身近に生活しているなんて条件があれば、充分支援する対象にはなるんだろうけどね。ここらあたりの町内会の役員やらされるほどの不愉快なことでもなし、投げ銭ぐらいしておくべきだったかなと、ちょっと後悔。
日記型式のサイトで、一番熱心に読んでいるのは殊能将之さんのところである。なんといっても、日ごろのお惣菜のヒントに役立つという直接的な有用性に満ちているし、さらっと書いてあるTV評もすばらしい。
そんな殊能日記に、今日はこんなことが書いてあった。TVタレント(女優というべきか)の川島なお美についての意見である。「わたしは川島なお美はそんなに嫌いじゃない。『安っぽいセレブ』というコンセプトはみごとなまでにテレビ的だし、キャンプ・ユーモアの味わいすらあるから(叶姉妹も同様)」。「安っぽいセレブ」というのは、的確なタレント批評だと思うのだが、「キャンプ・ユーモア」がわからない。
隠遁して自然の中に庵を結び、そこはかとない天然の妙を味わうような、そんな竹林の七賢みたいな境地のユーモアかとも思ったが、川島なお美と叶姉妹に、それはまったく当てはまらないような気がする。というわけで、早速、大検索大会である。
キャンプ・ユーモアでGoogleを引いても、知性とユーモアで捕虜収容所を生き延びた人の記録とか、まさしく言葉どおりキャンプ運営の仕方を解説する、ユーモアあふれる講演記録などが出てくるばかり。前者の意味で、過酷な状況で悲劇のなかに諧謔を見出すような態度なのかとも思うが、川島なお美にそれが適当なのだろうかと考え込む。叶姉妹ならある意味当たっているような気もするけれど。
"camp humor"で検索しなおすと、実にたくさんのヒットがあり、それらを流し読みしてみるが、どうも原義がイメージできない。意味は周知のものとして使われているようだ。そのうち、TVのバットマンシリーズの解説にこの言葉が使われているのをみつけた。いわく「このシリーズは子供にはコミックスのドラマ化として、大人には"camp humor"を楽しみつつ、ゲストのセレブをめでるという鑑賞法がある」というような意味。
どうも、「キッチュ」というのとも微妙に違う、わざとらしさをあえて楽しむような、ジャンルとして確立されたユーモア感覚らしい。camp humor系の芸人というのもいるとのこと。そこで英和辞典を引いてみると、campには「わざとらしい, 大げさな, 時代がかった, 不調和な」というような意味もあるのを発見。まず辞書を先に引くべきでした。
私が無知なだけなんだろうが、殊能さんの博学にはホントいつもおどろく。作家には「さん」などをつけない決りがあるようだが、彼には自然と尊称をつけてしまいます。ただ、川島なお美と叶姉妹がcampなのはそのとおりだと思うが、ユーモアはあまり感じないな。いじられることを承知の上でのcampということで、企画の勝利ということではないのかと。
こんなこと書きつつ、"camp humor"の用例を読んでいくと、結構ゲイ関連のジョークとか(辞書には、campに「(ホモなどが示す)女っぽいしぐさ」なんて意味もかかれている)、それこそ強制収容所を舞台にした喜劇(例えば「ライフ・イズ・ビューティフル」など)について、この言葉が使われているのを発見してしまい、なんだか自信がなくなってきた。殊能さんにメールでも出して聞けばいいようなものだが、それも恐れ多い。どなたか詳しい方がおられたら、教えて。
処方箋の書き方に基準がイマイチはっきりしないところがあるという話をしたのだが、そもそも、慣用的に使われているフォーマット自体、漢方医学の伝統と明治以降のドイツ医学が入り混じったもので、日本式の書き方では海外で通用しないという奇妙な現状がある。
私は東大植民地の地方大学を出たので、日本で一番標準的な処方箋フォーマットをつかっているのだと思っている。基本的に、ドイツ語略語を使うやり方である。例えば痛み止めのロキソニンを、一週間食後に3錠飲んでもらおうと思ったら、以下のごとき書き方をする。
Rp) ロキソニン3Tab
3xn.d.e.x7T.D
ちょっと昔の医者だったら、はじめの3xはAuf dreimalと書く人もいる。n.d.eというのはnach dem Essenの略である。食後ということ。寝る前ならv.d.s.で、vor dem Schlafの略である。同じことをラテン語の略でp.c.(post cibum)、h.s(hora somni)と書く慣習がある大学もあるようだ。ちょっとスマートかもしれない。
これは日本語で書けば分3食後という意味なのだが、よく考えてみればこのドイツ語略語での書き方はおかしいのだ。Auf dreimalにせよ3xと簡略化して書くにせよ、上記の薬を3回、全部で9錠飲めといっていることになる。寝る前に一回飲めという場合は、問題ないのだが。
ヨーロッパではどうか知らないが、アメリカではここのところはかなりはっきりしている。向こうでは一回分の薬の量を書いて、それから飲み方を指示するという書き方をする。その際、ラテン語の略語を使う場合が多いようだ。さっきの痛み止めならこうなる。薬の名前はカタカナ書きのままだが。
Rp) ロキソニン1T
t.i.dx7days Disp #21
t.i.dはter in dieというラテン語で、1日に3回という意味。それを7日間、総量で21錠という記載になる。おそらくドイツ語で処方箋を書く場合も、これに準ずると思うのだが、何故か日本ではまず一日量を書き、分服という意味で3xと書くのでややこしい。もっとも、海外からの紹介状をもらうと、まず薬の量に関しては一日量で書いてあって、直感的にはこちらのほうが判りやすいのは向こうでも同じらしい。
日本の中でも、分3を3xなどと書かない地域もあって、そういうところに移動すると薬剤師さんは理解してくれても、看護スタッフなどはかなり混乱する。よく間違えないものだと思う。ところが注射処方箋の場合は、どんなところでも、あくまで一回に打つ内容と量を指定するのだから、一体原則はどこにあるのだ、といいたくなることもある。
処方箋の書き方で一番感動したのは、阪大系病院の独自記載である。なんと言っても、適塾以来の日本型プラグマティズムの総本山で、そこが編み出した表記法の合理性にはいささか度肝を抜かれるほどだった。
例えば、食後投与の場合は、n.d.e.だのp.c.だのというような、大和心のますらおぶりに欠ける書き方などしない。「食後すぐ」からとられたのであろう、「ス」というカタカナを変形した記号を使うのだ。スの上辺を延長して、処方薬のグループ化をするための傍線にもつかえる。「フ」というカタカナであることもあったような気がするが、これはきっと「服用」ということだけを指示していて、食後食前どっちでもいい、ということなのだと思う。勘違いかもしれないが。横長の十字みたいなのもあったが、きっとあれは「食間」だろう。
眠前に飲む場合は「ネ」である。この場合もネの横線を延ばして、傍線としてつかう。薬自体の表記もしばしば漢字による簡略化が使われ、例えばアリナミンFなら「有F」だったりする。それも、薬の量自体もその漢字表記に含まれている。有Fスで、アリナミンF3T3xndeを意味するという超合理性なのだ。コランチルという胃薬なんか、「叱」という漢字になっていて、「コラ!」ってことなんだろうが、プロの関西人を自称する私にも、ちょっとこれにはついていけなかった。
阪大系の病院で働いたのは二年足らずだったこともあり、くわしいことは忘れてしまった。ちょっと検索してみたら、ここで紹介されている。そのサイトでも、コンピュータ入力が一般化するようになると、そういう表記は消えていくのではという危惧が表明されているが、確かに同感である。あの表記は、日本が生んだ伝統医学医療文化として、ぜひ保存していただきたいものだとおもう。
ようわからんニュースというのはあるものだが、これもその一つ。こちらの掲示板の情報から。
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<12月5日:ロイター発、ヒューストン>チーズバーガーにマヨネーズをつけることを要求し、マクドナルドのマネジャーを車でひいたテキサスの女性に対し、10年の刑がいいわたされた。
ウェイネッタ・ノーラン(37)は木曜日の判決言い渡しの際、何の感情も見せなかった。裁判でマクドナルドのマネジャー、シェリー・ジェンンキンズが述べたことによると、ノーラン被告は要求したマヨネーズを彼女から渡されたにもかかわらず、怒り狂って犯行に及んだとされる。
「私は彼女が要求したものは全部渡したんです。マヨネーズ、マスタード抜き、タマネギ、できることはなんでも。マヨネーズ、マヨネーズ、それでも充分じゃなかった」。法廷の外で、ジェンキンズはそう記者たちに語っていた。
ノーラン被告はこの4月23日に起こした事件に関し、加重傷害を宣告された。被告は、マクドナルドの従業員から、チーズバーガーにはマヨネーズがつかないといわれたことに立腹し、バーガーをドライブスルーの窓から投げ返したと目撃者は語る。
マネジャーはチーズバーガーにマヨネーズを添えて彼女をなだめようとしたが、ノーラン被告は警察が呼ばれるまで要求し続けた。マネジャーが外に出てノーラン被告の車のナンバーを書き留めようとしたところ、被告は車で彼女を襲い、骨盤骨折を負わせた。
被告は法廷で、チーズバーガーにケチャップをつけようとしていて起こった偶然の事故であると抗弁していた。
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掲示板で語られていたことによれば、被告は事件当時、妊娠7ヶ月であったそうで、妊娠時の精神不隠を主張する弁護方針がありえたのではないかと、多少の同情が集まっている様子。私なんかも、バイトの低脳クソ小娘が、何の機転をきかすこともできずにマニュアルどおりの対応するのに、確かに頭にくることがよくありますがね。それにしてもやることが派手。
程度を超えたわけのわからん要求に対して、当座を誤魔化すだけの対応するとろくなことはないというのは、私も自分の仕事を通じてよくよく思い知っているのだが、やたらハードに接しても具合悪いのが困ったところ。パワーで圧倒できる状況が即座に作れたらいいのだが、いつもそういうわけにはいかん。
常に柔軟に、どちらかといえば妥協的な対応をむねとしておいて、それに付け込んで不当な態度に出るヤカラには、やりすぎにならない範囲で断固たる処置をするというのが、一般的理不尽要求への基本なんだけど、なかなか難しいものです。アメリカのような超大国にして、あのざまですからなぁ。まして先送りと当座のごまかししかしてこなかった連中をトップにいただいている国では、適切なモデルはとても望めまへん。
ロイターの報道によれば、12月中旬に発刊される"Biological Psychiatry"において、小児期からのリタリン投与は、脳機能に対して長期の影響を及ぼすことが示された論文が一度に3本掲載されるとのこと。
肝腎の"Biological Psychiatry"のサイトをみても、その中のメインとなる論文は予定稿としても触れられていないのだが、ロイター報道によれば、それはハーバード大医学部のW.カールゾンのグループによるラットを使った研究であるようだ。(判りにくいリンクをたどり、やっと見つけたのがこちら)
カールゾンらは、幼若ラットを2群にわけ、人間の思春期に当たる期間、一方にはリタリンを、もう一方には食塩水を注射した。そして、ラットが成熟した後、「獲得性無力」の評価をおこなった。これは、ストレス下で課題を断念する程度を調べるものらしい。えさにたどり着く迷路に電気ショックでも流すようにしておいて、その粘りと頑張りをみるようなものですかな(と思ったら、無理やり泳がせて、あきらめて溺れるまでの時間を計るというものだった。こんなテストに付き合わされるラットはお気の毒)。
その結果、成長期にリタリンを投与された群の「獲得性無力」は明らかに増加していた。コンジョなしネズミに成り果てていたということらしい。これは抑うつ傾向に陥っていることを示しているとカールゾンらは主張している。
もっとも興味ある所見は、リタリンを与えられていたラットは、コカインが含まれた餌を好まなくなる傾向があるということだという。ラットは一般的にコカインが好きらしく、これを褒賞刺激にできるらしいのだが、成長期にリタリンを与えられていると欲しがらなくなるそうな。ほかの二つの研究もそれぞれ、早期のリタリン摂取が全般的な褒賞刺激への反応低下をもたらすことと、ドーパミン系ニューロンの反応性変化が起こることを主張している。
もちろん、この研究は成長期のリタリンは、今まで考えられていた以上に、脳に長期間の影響を与えるということをいいたいのであって、子どものときからリタリンを与えておけばコカイン嗜癖になるのを防げるということを実証しようという意図ではじめられたものではない。(でも、この思いがけない結果は、もっと別の視点での研究展開を可能にするような気もするが)
一部マスコミがいうようなリタリン排斥の理由の一つが、リタリンはコカインをはじめとする、ハードドラッグ嗜癖への入り口になるというものだったわけで、それを判りやすく示そうとしたら、えらく思いがけず逆の結果が出たというものではないかと想像する。大体、中枢神経系が完成されるのがかなりおそい人間と、生後短時間で交尾まで可能になるラットを一緒くたにするような、えらく大雑把な実験計画で、一般的な薬物への不安に乗っかった、かなり安易な意図が透けて見えるように思える。
「小児ー思春期の脳の神経化学と機能的特徴や、精神刺激剤が脳の発達に及ぼす影響について、いかに我々の知識が限られているかを、これらの研究は思い起こさせてくれる」というコメントが専門家によって寄せられているが、まこと、正直な感慨といえる。少なくとも、一方的に一つの薬を悪者にしておけばすむような問題ではないので、毎日新聞の山本紀子記者とか、アホなジャーナリストをあおっている一部の精神科医は、虚心に元論文に当たって熟考して欲しいものだ。
私は原著読むために本登録する金出すのがもったいないので、こういう報道とか抜粋で我慢しておきますけど。
TVをぼんやりみていたら、某病院の放射線照射量ミスについての調査報告が報道されていた。放射線技師が、医師の指示とは全然違う基準で放射線を当てていたというもので、素人目にはありえないようなミスと思われるかもしれないが、医療の実情を知るものとしては、やっぱ、放射線でも同じなんだねぇ、と安堵(?)の声が漏れてしまう出来事である。
そのニュースでも関連事項として、処方箋記載が必ずしも正しく薬剤師によって読み取られていないことが例にあげられていた。こちらのほうが一般の医療機関利用者にとって切実な問題で、結構これで事故が起こっているのに、全然対応策がとられないという不思議な状態が続いている。
問題は何点かあるのだが、主要なものは、散剤で処方される薬物の場合、製剤としての量なのか、薬効量をいっているのかが明確ではないということだ。例えば、ハロペリドールという向精神病薬の常用量6mgを処方するとき、普通は処方箋にハロペリドール末6mgと書く。ところが、中には親切な医者がいて、ハロペリドール末0.6というふうに製剤量を処方箋に書くのである。どの製薬会社もこの薬の細粒を1%で製品化しているので、細粒0.6g=薬効量6mgとして問題ないのだが、0.6=薬効量600mgととる人がいないとは限らない。もっとも、1%散剤で600mg出そうと思うと、一日量は細粒60gになるわけで、これはまず間違えようがない(でも、私は同種の間違いを見つけたことはありますが)。
それが、含有率10%の散剤だったりすると話はややこしい。例えば抗てんかん薬のアレビアチンは常用量が300mgぐらいである。これを10%散剤で処方するには3.0gが必要になる。ところが、アレビアチンはちょっと前まで原末(つまり100%)も使われていたので、これを10%末と同じ量だす間違い(つまり10倍量ということ)はそこら中で起こっていた。その対策として、10%散剤に統一されたのはつい最近である。しかも、そうなった後は、アレビアチンをいくら処方してもさっぱり血中濃度が上がらない、ということがよく起こるようになった。
明らかに、原末あつかいされて10分の1の量しか調剤されていないのだ。1%散剤みたいに、極端な量の差にならないので、そのまま通ってしまいやすい。私は間違えられないよう、アレビアチン300mg(ジフェニールヒダントインとして300mg)などとしつこく書くこともあるが、それでも間違えられ、最近ではこれを散剤で処方することは止めた。抗てんかん薬には66.7%散なんて妙な含有率の薬も多く、これは薬効量でこれは製剤量などと、はなはだ判りにくい慣用があるのだが、是正への動きはまずない。少ないほうに間違えられるのはまだましともいえるが、それで発作頻発するのはたまらん。
抗生物質でも同じである。セフゾンという抗生物質の細粒は10%であるが、セフゾン細粒2.0と書く人と、セフゾン細粒200mgと書く人にわかれる(後者のほうが多数派だと思っていたが、前者も結構見る)。初めから区分けされた製剤なら間違えないが、そうでない場合も多いわけで、ホントにちゃんと処方されているか、疑心暗鬼になることもある。
処方箋の書き方はこうしなければダメという基準がなく、いままでこうやってきたという惰性だけがそれを決めているといってもいい。今までのやり方を共有できない人がそこに入ってくると、たちまち混乱してしまうのである。混乱だけならまだいいが、薬によっては命にかかわるのが一番の問題だ。
ニュースでは、医師のうち、ちゃんと処方箋の書き方を習ったのは少数みたいなことを言っていたが、そんなはずはない。薬理学のつけたし授業で絶対やっているはずだが、まだ基礎医学を習っている時にあんな授業やってもほとんど意味がないので、臨床系の授業が始まってから、ちゃんと教えるべきであろう。
さしあたっての解決策として、商品名で書かずに成分名で書くようにして、原則として量は力価で書くということにすればいいのだが、同じ成分の薬剤でも、製薬会社によって明らかに効果に差がある場合が困る(稀だが)。それに、ビオフェルミンみたいな微生物製剤とか、半分がやさしさで出来ている薬の場合なんか、どう書けばいいのか困ってしまうし。まあ、えらい人がどこかで考えてくれているのだろうが、ちゃんと基準ができるまでは最大限の注意を払うしかない。
処方箋の書き方には出身大学によってかなりの差があって、学問文化の違いというのを感じさせてくれ、それはそれで面白いものだ。それについては後日。
書くことがなくて、当直の夜にDVDを見ていることなんかをバラしたら、結構意外に思われてしまったようだ。いつもあんなものなんですけどね。今の職場は一般科もあるとはいえ、やはり精神科主体の病院なので、そんなにすることなんかない。多くて数人の時間外患者をみて、あとは病棟からの問いあわせに電話指示するぐらいのもの。
もっとも、以前は救急を売り物にする総合病院のいくつかで仕事してきているので、夜中に救急車を8~9台受け入れるんなんてこともしょっちゅうあった。でも、それを「忙しい」と思ったことはあまりない。どこかでかいた覚えもあるが、身体疾患の処置というのは手順が決まっていて、なーんも頭を使う必要がなく、次から次に救急患者が来ようと、決まりきったことをやっていけばいいだけなのだ。時間が早く過ぎるので、かえって楽だともいえる。
手術が必要な外科疾患とか重度外傷だったら、指し当たっての応急処置をして、あとは外科医を呼ぶかその設備のあるところに転送すればいいので、むしろラッキーという感じである。あとあとまで責任持つこともない。内科系疾患で特殊な処置、例えば緊急ペーシングがいるとか、冠血管の拡張術をやらねばならんような場合だって、全体的な見立てさえ立てれば、差し当たっての適切な応急処置をやっておいて、専門医に後日まかせればいい事で、専門的高度処置が今すぐ必要なんてことはまず例外である。
事態の評価と今後の予測をしっかりしておけば、バタバタ走り回ることもないのだが、なにか世の中の人には、この商売というものを、患者の状態の微妙な変化に一喜一憂しながら全生活をささげているような誤解があって、医者の側もそういう物語に乗っかって、自分の仕事を崇高なものに見せかけようとしているような印象がある。
それはお前が精神科という、どうせそう治りもしない患者を相手にして、鍵かけて独房に放り込んでおけば一件落着、というような呑気な領域をやってるからだ、といわれる向きもあるかもしれないが、案外そういうものでもない。マニュアルというものがそう確立しているわけではないこの領域では、忙しそうにしようと思ったらいくらでもやれるし、いままで一緒に仕事してきた人にもそういう人はいっぱいいた。
何であれ、私は今までの人生の半分以上この仕事をやってきているのだが、「忙しくて困る」という経験をしたことがない。予測を大きく外れる事態や、突発的例外事項が時折起こるのは事実ではあるが、普段からそれを盛り込んだスタイル(つまりいつでもブラブラしているということなんだけど)で仕事をこなしていたら、大概のことはそれですむものである。もっとも、朝だけは人より早くきて、その日の仕事を一度イメージトレーニング的になぞっておく、という作業はしたほうがいいけどね。バタバタしている医者に限って、まず間違いなく朝の出勤が遅いというのは、かなり早いうちにえた洞察でありました。
というわけで、昼休みに薬屋さんなんかがやってきて「お忙しいところ恐縮です」と面会を求められると、嫌味もいい加減にしろよと思うばかりなのだ。あんたそれ、人が昼寝してたり、PCゲームやってるのを見てていうわけ?
新聞を読んでいたら、盗聴指示でつかまった武富士の会長が、「右翼、暴力団、警察をうまくつかえ」と部下に教えていたという記事が出ていた。
なんでも、右翼は暴力団に弱く、暴力団は警察に弱く、警察は右翼に弱いので、うまくそれらを使いこなして物事を収めるのが大事だと教えていたそうな。すばらしい洞察というべきであろう。これは遊びのレベルに取り入れて、ひろく国民的知恵として共有されるべきである。
舞妓さんとお茶屋遊びするとき、「とらとら」という伝統的ジェスチャーじゃんけんの演目があるのが知られている。屏風をはさんで、舞妓さんと客が三味線のお囃子にあわせて、虎、おばあさん、和籐内(槍使い)の格好で顔を出し、勝ち負けを競うもの。これと同じ要領で、手を口に添えてアジっている格好が右翼、胸の前でドスを抜く格好で暴力団、敬礼させて警察ということにして、「とらとら」と同じルールでやればいい。
でも、せっかく時事を取り入れるんだから、もっとルールを複雑にして、多人数で遊べるようにするのも楽しそう。「武富士」そのものと、「マスコミ」というのも要素に取り入れよう。武富士ははじめの三者全部には単独なら勝つが、マスコミが加わっていると急に弱くなり、マスコミは相手が武富士単独なら、アイコになるだけ、というようなルールはどうかな。賭け金があれば半分もらえるというのでもいいか。
そこまで複雑にしなくても、はじめのルールでいいから、ぜひ忘年会などに取り入れて楽しんでいただきたいと願うものだ。
当直なのだが、幸いにも今のところまるっきりすることはなく、だらだらとDVDのダブルヘッダー鑑賞にいそしむ。
まずは「マトリックス・リローデッド」。冒頭、オートバイが空から降ってきて、ライダーがキッチリと雲竜型で決めて着地するシーンにまず大笑い。そのあとも、100人スミスとネオの大立ち回りや、怪しい踊る宗教の総本山みたいなザイオンの描写とか、そんなところで長谷川伸風の夫婦情話がはじまる唐突さがとても楽しい、いうならば言語的ギャグを排したSFコメディ映画だった。キアヌ・リーブスの仏頂面は、ハロルド・ロイドを意識しているんでしょうかね。何のオチもなく、3作目に引き継がれる宙吊り感覚も素敵。
そのあとは「TAXI-3」。これは1作目、2作目とも、「アホは勝つ」というテーマを高らかに歌い上げたアホ賛歌で、なにしろフランス人のやることだから、多少の違和感も仕方ないのだと割り切れば、純粋に楽しめるシリーズだったが、3作目にもなると、作る側もアホでいいのだと居直ってしまったらしいのが、ちょっと残念なところ。「アホにはアホはやれまへん」という、藤山寛美の言葉を思い出し、初心にかえってやり直してもらいたいものだ。
こんな二本立てを見ていたおかげで、もうちょっとでたけしの「誰でもピカソ」を見逃しそうになる。今夜はあのソプラニスタ、岡本知高がでるんですよね。何があってもその体格だけは観察しておかないと。
なんて書いていたのに、番組ではなぜか森山良子がクリスマスソング歌ってるんだが、どうなってるの?
去る11月27日の感謝祭に、ブッシュ大統領がバグダッドを「電撃訪問」して、兵士たちと歓談したのは広く報道されるところである。この訪問は完全に秘密裏におこなわれ、公式的にはその時間、大統領は自分の牧場で静養していて、しかもわざわざ訪問時間に会わせて、海外派遣されている兵士たちに声明を発表すると事前報道されていた。
実際にこの極秘バグダッド訪問が発表されたのは、専用機が帰途に着いたことを確認してからだというのだから、「敵を欺くにはまず味方から」も徹底している。訪問を内部的にでも明らかにすると、「今からブッシュが行くから、ミサイルで撃っちゃってくれる?」と、誰かがフセイン残党に電話しそうな雰囲気があるのではないか。
差し当たっての結果論としては、超大国の元首にはふさわしくないコソコソ策動であったにもかかわらず、この訪問は大当たりであった。危険をも顧みず、敵地に自ら乗り込み、兵士たちに大盤振舞したというイメージができたのである。直後の世論調査では、ブッシュの支持率は数ポイントも上がった。
そのイメージ作りにかなりの働きをした、大統領が七面鳥のローストを抱えて笑みを浮かべている上の写真だが、これは実は全くの偶然の産物であったことを政府筋が明らかにした。写真を見ると、まるで大統領が七面鳥の丸焼きを抱えてバグダッドを訪れ、それを兵士たちにふるまったように思えてしまうが、あれは単にバグダッド空港のカフェテラスに、この季節には置いてある、飾り用の七面鳥なんだそうである。
この訪問を手配した人間も、そこに七面鳥の丸焼きがあるとは思っておらず、ブッシュがそれを抱えてパフォーマンスしたのは、単なるその場の思いつきだったという。そういうことを即座にやれるのが、ブッシュの才能といえなくもない。実際に兵士たちにふるまわれたのは、カフェテラスで供される細切れの七面鳥だったとのこと。記事はこちら。
それにしても、一週間もたってから、あれは大統領が用意したものではない、なんていまさら発表するのがかえっていぶかしい。あんまりあざといぞ、というような声がでたのだろうか。手詰まり状況でこっそり訪問、七面鳥以外の対応方針はなし、どうもそれもその場のパフォーマンスだった、というのではまずいので、衷心からの兵士慰問だという話に、こじんまりまとめようというところか。それとも内部的にも、いい加減あほらしくなっているということか。
こういう時のために、劣化もせず、いつでも持ち歩けるパフォーマンス用食材見本を、大量に合羽橋あたりで買い付けて、ホワイトハウスに寄贈しておくぐらいのことは、コイズミさん、やっておくべきでしたね。腰の入らない自衛隊なんか送るより、よっぽどブッシュ支援になりますぜ。
こちらからの引用。以前から同じ記事はあったが、最近改訂された模様。もともとは、英語の誤用を集めたユーモア本から医学カルテに関する記載だけが抜き出されて、チェーンメールになったものらしい。日本語にするともう一つ面白くなかったり、よく判らないものもあるが、そのまま訳出した。
1.彼女は苦悶や悪寒戦慄は示さなかったが、夫によれば、昨夜ベッドでは非常に激しい興奮を示していた。
2.患者は左側を下にして一年ほど寝ていると、胸の痛みを覚える。
3.翌日、ひざはかなりよくなったが、三日目にはそれは消えてしまった。(ひざの痛み、とすべきなんでしょう、多分)
4.患者は涙ながらに泣き叫び続け、見るからに元気がなかった。
5.その女性患者は、93年、私が診察するようになって以後、ずっと抑うつが続くようになった。(原因はあんただよ)
6.退院時の状態:生存しているが、私の許しは得ていない。
7.健康そうな69歳のおいぼれで、しっかりしているが忘れっぽい。
8.患者は解剖を拒否した。
9.患者には自殺歴はない。(自殺企図歴はない、ということなんだけど、これは日本でもしょっちゅう見るうっかり記載)
10.患者は他病院に白血球を置いてきた。
11.患者の病歴で特記すべきなのは、3日の間に40ポンド(約18kg)やせたことだけである。
12.患者は朝ワッフルを食べ、昼にはアノレキシアを食べた。(ちょっと無理して訳してます)
13.我々が彼女を妊娠させるよう努力すべきだ。
14.夫との間で妊娠できないのだから、君が頑張るべきだ。
15.彼女はつま先が下垂したために、麻痺している。(原因と結果が逆)
16.ERで彼女は検査を受け、成人指定とされて帰宅した。(X-rayとX-rateの間違い)
17.皮膚は湿って乾燥している。(皮膚といっても広いから)
18.場合によって、常に予期せぬ頭痛がある。
19.患者はしっかりしていて、反応がない。
20.直腸診では、甲状腺の大きさは正常だった。
21.彼女によれば、人生ほとんどの時期、便秘していて、離婚するまで続いた。
22.紹介された患者さんは、理学療法のために、私たちの車の下にいます。(carとcareを間違えただけ)
23.両乳房は同じ大きさで、対光反射と輻輳も正常。(breastsとpupilsを間違えたわけだけど、よっぽど前者のほうが印象深かったんでしょうな)
24.生殖器は、サーカス並みのサイズであった。(circumcize(割礼)をcircus sizeと秘書が聞いてしまったらしい)
25.検査データは愛人機能障害を示した。(LiverとLoverのミス)
26.患者は腸切除をうけたが、その代わりに株式ブローカーの職を得た。
27.皮膚:幾分青白いが、存在している。(なにか主語が落ちたのか?)
28.骨盤検査が、床の上でおこなわれる予定だ。(これは多分、病棟という意味のfloorでしょうな)
29.その患者はブランク博士の診察を受け、彼は腹部検査をするべきだという意見で、私も同意した。(これ、どこが間違っているかわからなかった)
30.大きな茶色の便がホールを歩き回っていた。
31.患者には10代の子どもが二人いたが、ほかには異常はなかった。
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直接関係あるかどうかは別にして、最近、同僚のカルテ記載で一番受けたのはこういうもの。
「患者は太もも近くまで破れ目の入った不潔なジーンズの上から、レースのようなスカートをはくというビザールな格好で診察室に入ってきた。衒奇的行動?もしくは感情鈍麻による服装への無関心」
日ごろ大学で研究生活していて、若い女性の流行なんて知らないんでしょうね。突っ張った女の子がそれなりに自己主張しているのと、病的基盤のある衒奇的な行動の違いというのは、言葉ではなかなか説明しにくいが、その辺を直感的に理解できるかどうかというのは、この商売では大事なところなんですがね。
世界に3人、日本に1人しかいないという触れ込みの、男性ソプラノ歌手、岡本知高のCDをかう。いわゆるカウンターテナーではなく、声変わりが来なくて、ボーイソプラノのまま成人し、ソプラノの音域をはじめから持っているという、たぐいまれな資質に恵まれた歌手だとのこと。
この人を知ったのは、朝の通勤時間に聞いたFM放送なのだけれど、紹介された岡本知高という名前からはちょっと違う雰囲気の声、例えば森久美子サンみたいな感じの人で、実際、披露されたのはそんな感じの歌だった。迫力のあるソプラノ、というものですね。解説で、裏声ではない男性ソプラノというのを聞いて、いささかビックリ。
そのFM放送では身長体重を聞いていたのだけれど、結構ヘビーなんだなというのは覚えているんだが、実際の数字をわすれてしまった。公式サイトで本人が挨拶しているムービーがあるので参照してほしいが、伊集院光か、ホンジャマカの石塚程度の体格の持ち主には見える。
大体、デブ系の男は(人のことは言えませんが)声が甲高いもので、伊集院光も石塚も、三瓶にせよ内山君にせよ、その傾向があると言って間違いはない。岡本知高の場合も、思春期にアンドロゲン系のホルモンがどっと出てきたときに、それが脂肪組織に吸着されてしまって(アンドロゲン自体、脂質なのでそうなっても不思議はないと思える)充分声帯にとどかず、声変わりというような身体変化がそう強く起こらなかったのかなんて考えるのであった。
なんていいつつ、sopranistで単純に検索してみるだけで、世界に三人のはずがゾロゾロとこのたぐいの人は出てきて、しかもデブ系ばかりがいるわけでもない様子である。岡本知高が小児期にわずらったという、ぺルテス氏病のことまで検討してホルモン系の問題を考えたのに、いささかがっかりであった。
なお、岡本知高の歌自体は、かんじんの高音域に結構不安定さがあるような気がしたのけれど、何しろiMacでiTuneを使ってセーブし、クラゲ+ヤリイカスピーカーで聞くというインチキなことをしているので、文句をいうのは気の毒とも思える。二年ほどスイッチ入れたことのないアンプに火を入れて、いっぺんじっくり聞いて見ましょうかね。
カナダの会社が販売している、Magic Cone™と名づけられたこの製品は、女性の排尿を男性に準じる手順で済ませるための、簡易補助具である。立体構造を保つように工夫された、この紙製のロートみたいなものを局部に沿えることで、女性が立ったまま排尿することが可能になる。
衣服の着脱が簡単になるのと、いちいちお尻丸出しにしてしゃがみこむ必要がないこと、特に公衆トイレなどで便器が不潔な時、それにふれずに済むので衛生を保てるというのがセールスポイントである。スキーやハイキングのおともにもどうぞ、という触れ込み。使用法のFlash画像はこちら。
脳血管障害などで身体にハンディがある人にも、結構有用であるようにも思える。オムツは念のために使用していても、なるべくちゃんと自分で排尿したいという希望を持つ人は多いもので、介助もより簡単に出来そう。
通販でも買えるが、日本での一般的普及のために、どなたか代理店になられたらいかがでしょう。日本での商品名は、そう、「立ちションメイト™」というのではいかがか。