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「ららら科學の子」(矢作俊彦:文芸春秋)をよむ。この作者は全くの同世代人なので、その小説は以前から気になってフォローしていて、どれを読んでも舌を巻くものばかりではあると思うものの、いつもどこかに違和感が残るのも事実なのだ。
前作の「あ・じゃぱ!(!は同時に『ん』でもある)」は、かなり分厚い上下二巻という構成にもかかわらず、ほとんど二晩徹夜で読み終え、確かそれについての感想はどこかに書き残していたはずなのに、自分のサイトにはアップしていない。おまけにあんな厚い本なのに、もはや見つけることもできないという情けなさ。
戦後日本が東西分断国家になったという設定と、東日本の社会主義政権が、中曽根終身議長が君臨する「統一労働者党」によって支配されていて、その党の機関紙が「統労の斧」という秀逸なネーミングだということは覚えているのに、後半、ドラスチックな国家合同が起こったあと、話がどうなったか、というあたりはまるっきり記憶にないのだった。
まあそのうち見つかるか、文庫にでもなってまた買ったら読み直すことにして、差し当たってはこの「ららら科學の子」である。主人公は作者や私と全くの同世代、大学に入ったらすぐにバリケード封鎖になってしまい、そう深く考えることなく「造反有理」のスローガンに同調して運動の渦中に加わった人間である。
あるとき、バリケードを包囲する機動隊隊員に重傷を負わせてしまい、殺人未遂で指名手配され、中国に密入国する。文化大革命を経験しようという彼の目論みは、毛沢東(とその威を借る4人組)の権力奪還闘争に収束されていくなか、中国南部の僻地に追放軟禁の身になってついえてしまう。
そこで結婚もしてすっかり現地の人になっていた彼だが、妻が都市に出稼ぎにいったまま音信不通になったことをきっかけに、蛇頭の助けをかりて30年ぶりに日本に帰ってくるのである。志垣という、学生時代の友人で、一時は一緒に中国にわたることになっていた人間に連絡を取ると、彼は完全にウラ世界の顔役になっていて、主人公にシェルターと用心棒を与えてくれて、そこからこの小説の本筋である「帰ってきた浦島太郎」の物語がはじまるのである。
30年ぶりの日本が獲得している豊かさに主人公は圧倒されるのだが、正直いって、まあちょっとその辺の記述は類型的であろう。68年といえば大概のものはもう準備されつつあった時代で、そう驚くことがあるのだろうかという気はする。渋谷の雑踏といったって、あの時代の新宿とそう違うものでもないような。ただ、作者が題名にしている、鉄腕アトムに代表される未来への肯定的期待が一気に打ち破られる、という体験は致し方ないだろうとは思うが。
でもそれは、方向性はかなり違うかもしれないが、文化大革命の収束状況とほとんど同じものではないのだろうか。一方が社会主義革命の徹底化という「超近代化」を意図したものの失敗し、一方は超高度成長という近代化を貫ぬこうとし、そしてほとんど成功したという違いがあるだけのことで。
なんであれ、この小説はすべてが隔靴掻痒感に満ち溢れている。主人公に破格の待遇を与える志垣という人物からして、国税調査を逃れてハワイにいるという設定で、携帯電話で連絡を取るだけだし、所在を突き止めるのが目的だったはずの主人公の妹とも、やはり携帯電話で少し話すだけで、しかも電池切れで中断されてしまうのである。
豊かさというのは非常に結構なもので、何もわざわざ貧乏を選び取ることはないのだが、豊かになりつつあった時代にもっていた理想が、豊かさの中でまったく現実化されないという当惑感が、このすべてが不徹底な主人公の行動パターンに現れているのかなという感想である。もちろんそれは、理想だのという青臭いものを持ち出さなくても、社会も自分も若かった時代が、すでに失われているという現実への当惑と解することもできるのだろうが。
浦島太郎や鉄腕アトム(アトムは最後のエピソードで、地球を救うために自分を犠牲にするのである)がアレゴリーに使われているので、ラストに不景気な話が来るのかと恐れて読み進んだのだが、さすがに矢作俊彦、そんな後ろ向きな結末は用意していない。
空を越えて、ららら星の彼方、
ゆくぞアトム、ジェットの限り、
その具体的内容がなんであれ、未来への徹底的楽観をこめながら主人公は自らの行動をおこし、それがいかにショボ臭いものであれ、同世代読者は主人公と自らにエールを送りつつ、この本を読み終えることができるのである。多少の違和感はおいておいて。
投稿者 webmaster : 2004年01月28日 23:35