TVを見ていたら、鳥インフルエンザ問題の発端となった、京都の養鶏会社社長が逮捕されたというニュースをやっていた。鳥インフルエンザと疑いながら、それを隠蔽した疑いなのだという。国家というものは法によって律せられるべきだと思うのだが、こういう場合に警察が関与して何かメリットがあるのだろうか、まるっきりわからない。大体、お巡りさんたち、あんたらは感染症の専門家なのかね?大体、犯罪行為というなら、危険な感染症の移入を知らせなかった行政の責任はないのだろうか。
これに近い疑問は最近の「事件」に常について回る。例の六本木ヒルズの事件も、確かに痛ましい出来事だとは思うものの、落ち着かないガキが引き起こす可能性は常にあり、かつそれに保護するべき周りの意識が足らないことによる事件だと思う。ガキはバカなので、何をするかわからないのは自明で、大人がそれをコントロールせねばならないのは当たり前だ。危険性なんて、あらゆるものの周辺にある。
アホはそのアホ行動を展開する意味において、常人の考えを大きく超えるアホな行動をとる。商品のレベルで、アホなガキがあらゆる意味で守られるべきだなんて言う奴がいたら、そいつは自分で責任を取ることすら考えられない、単なる無責任野郎である。そんなこと、無理に決まっているではないか。
今回の事件に関連して、「被害者」だと主張する家族の、責任者に対するまるっきり礼を失した態度なんぞを見ていれば、どうせろくな教育をしていないのがうかがえる。別のビルで、勝手に回転ドア内ですっころんだだけのガキの家族までもが被害届けを出すという話を聞くと、慰謝料が沢山もらえたらいいね、でも恥ずかしくないのかいと言いたくなる。
世の中には危険性は満ち満ちていて、それに全ての安全性が保障されるわけがない。そこで自分の家族に最低限の安全性を担保するのが、現実社会での「家長」に課せられた課題だ。その辺がちゃんとやれないヘタレが、社会にその機能を求めるなんてのは、ふざけてんじゃないよと言われても仕方がないと私は思う。
といって、一方では犯罪被害者の側にガマンだけを強いるような世論や実際の行政運用があるという、訳のわからん実態もある。この辺が理不尽な事件に対して、法的対応が人々に信用されていないという内容を反映している理由だろう。何であれ、法的な規定をこえて、つまらん責任者探しをするのは、辞めるべきだ。ごく普通の生活者に、すべての事態展開可能性を知っておく義務を科しても、それは無理というものだ。
昨今の個人的責任をとう風潮が確定したら、一番困るのは行政従事者だと思うのだが、その辺は自覚しているのだろうか。もしかしたら、自分らは関係ないと思っていないだろうか。真面目にやっていたつもりなのだが、こんな結果になるとは思っていなかった、というような事態は全部あんたらの「犯罪行為」として裁かれる可能性があるのですぜ。その辺、わかってるの?
前回、アトキンスダイエットというのは、いわば糖尿病のときのエネルギー代謝と同じような状態を作り出すものだと述べた。もちろん糖尿病では血中にブドウ糖がみちあふれている状態なのに、インシュリンが働かないために組織が糖を利用できない状態であり、アトキンスダイエットでは糖に分解される炭水化物の摂取量をへらして、低血糖状態を作り出している点が違う。
しかし、身体の側はエネルギーを確保しないといけないので、両者とも、脂肪やたんぱく質を分解してエネルギーに変えているという状態は同じだ。いわゆる絶食や超低カロリー食では、たんぱく質分解も結構進むので、筋肉組織などもやせ細り、結果として代謝量の減少をまねき、リバウンドの原因になる。アトキンス系では蛋白と脂肪はたっぷり取るため、この点は回避される(らしい)。
高校の生物で習うので覚えておられる方もおられるだろうが、炭水化物とたんぱく質のエネルギーは1gあたり4Kcalで、脂肪のそれはほぼ10Kcalである。脂肪はエネルギーに富む物質で、飢えに苦しむ危険を幾多となく迎えた動物種は、大多数がこの脂肪をいざという時のために蓄えるように設計されていて、人間は特にその点が念入りなのである。
糖の利用ができないとき、主要なエネルギー元は脂肪に切り替わる。そのメカニズムはいろいろあるらしい。関与する局所ホルモンがいっぱいあって、中には抗肥満薬として使われる可能性がある物質もあるようだ。アミノ酸も1部は糖に変換されてエネルギーに動員されるが、そう効率がいいものではない。脂肪は糖に変換される部分と、遊離脂肪酸として直接TCAサイクルに入ってエネルギーになる部分があり、後者のほうが割合は大きい。
ただ、そのためには糖由来のオキザロ酢酸という物質が必要で、この量には限界があって、余った遊離脂肪酸経由の物質(アセチルCoAという名前、どこかで聞かれた事があるだろう)は縮合してケトン体になる。このケトン体はそれ自身エネルギー源になり、とりわけ脂肪酸が超えられない脳血流関門も越えて、脳細胞のエネルギー源にもなる。また、ケトン体は満腹中枢を刺激して、空腹感を抑制する作用もある。
ただ、これらは酸性物質なので、体の酸塩基平衡をみだす事がある。腎機能低下があるような場合、ケトアシドーシスという命にかかわる病的状態を呈する可能性もないではない。このダイエットの注意として、水分摂取を増やして酸塩基平衡を正常に保つようなどといわれるが、このへんはちょっと注意が必要なところであろう。
いくら炭水化物を取らないからといって、脂肪とタンパクとり放題というのでは、あまった部分はまた脂肪として溜め込まれるのではないか、と思ってしまうのだが、脂肪細胞への脂肪酸取り込みはインシュリンが関与しており、炭水化物を抑えるこのダイエットでは、インシュリン分泌量が少ないため、取り込みも少なくなる。また、脂肪酸から脂肪を合成するときには、糖由来の物質が必要で、やはり脂肪合成は抑制される方向に向かう。
てなわけで、このダイエット法はこと減量ということに関して、表面的な合理性を貫壁に保っているのである。自分で納得するためにいろいろ資料を集めてみたが、普通の臨床レベルの生化学常識からは、ツッコミするのは難しい。気になるのは、使われなかった脂肪酸はどこに行くのだろうと調べても、はっきりしたことがわからなかった点。腸から排泄されるなんて、怪しいダイエットサイトには書いてあるのだが、そんなことあるかねぇ。どんな形であれ、食ったものはエネルギーとして使い残せば身体にたまるはずなので、その辺が今ひとつ説得力不足である。
このダイエット法に対する正統的な栄養学や医学の批判というのも、結局はそこに集中している。レビューもいくつかあるが、短期的には成功するが、長い時間をとればあまり成功していないという言うものが多い。まあ、たしかに私なんか毎日フライドチキンとベーコンエッグばっかり食ってるので、鮭茶漬けとタラコおにぎりの夢見るようになってますものなぁ。たいがい、こっそり炭水化物食うようになりますぜ。
でも、たった10日ほど過ぎただけなのに、なんとなく減量できてきたような気もしないではないので、せめて1月ぐらいは真面目にがんばってみますか。結果は追って報告ということで。
ちょっと前にダラダラ書いたように、私はいわゆる正統的ダイエットというには少々逸脱した側面のある、バランスのいい普通の食事と相当過激な運動という組み合わせで、かなりの減量を成功させてきた。しかし、あちこちに故障ができ、過激な運動ができなくなると、少しバランスを考えた程度の食事では、ジリジリというよりはドンドン体重が増えるのである。
かなり極端な低脂肪食とか、ほとんど居直りに近いブックスダイエットなども手がけてみたが、まるっきり成功しない。大体、人間というのは我慢に我慢を重ねるようなことには向いていないし、楽にできるようなことなら目的が実現できるはずもない。ブックスダイエットなんぞ、もっともらしいことすらその理屈にはなく、そもそも相撲取りと同じような食パターンでやせようなんて、はじめから無理に決まっているわけだ。
というわけで、最後の砦がアトキンスダイエットである。健康ということさえ無視すれば、これでやせられるのは自明なのである。というのは、我々はこれと同じ原理で、短期間にげそげそ痩せていく人をいつも見ているからである。それは何かといえば、コントロール不良の糖尿病だ。
糖尿病では、Ⅰ型Ⅱ型の違いはあれ、組織に糖を取り入れるインシュリンが働かなくなるので、血中に糖がいくらあふれていようと、その糖はほとんど利用できず、組織は脂肪(部分的には蛋白質)の分解のみによってエネルギーを得なければならない。アトキンスダイエットで炭水化物を極端に制限した状態と同じになるわけだ。
精神科疾患を持つ患者さんには、なぜか糖尿病を合併している人が多く、我々も結構この疾患の管理に頭を悩まされる。普通の内科医に治療を依頼しても、治療合理的に協力するのが患者というものだと信じきっているので、自己破壊的なことを平気でするような患者の面倒までは見られない場合が多い。大体、スラムみたいなところでカツカツで暮らしているような人に対して、のんきな「食事指導」をしてことたれりとするような想像力欠如を見ていると、ああ、こいつに頼むだけ無駄だったと思い知る。
私たちが見ているような精神疾患合併例では、一切食事療法を守れない人もいて、130kgもあった体重が半年の間に半分になったような人も見たことがある。アウトになればそのときと、ほとんどヤケクソで見ていたら、その減量のおかげでインシュリン感受性を取り戻すのか、ほとんど耐糖能が正常化してしまう場合もある。
そういう場合はかなりの負担を体に強いているので、やせたというのはむしろ症状といっていいのだが、中にはそれでけろりと問題が消失するような例があるのが面白い(と言っては何だが)。長期的にはまたいろいろと、ややこしい事がは出てくるものの。純粋に体重を減らすという目的なら、この減量メカニズムを使わない手はなく、事実それが効果があるとして、否定的評価にもかかわらず利用されているわけだ。
私はその否定的評価も認めつつ、これなら体重は減るに違いないとも思っている。では、低炭水化物高脂肪高たんぱく食でなぜ体重がへるのか、その理論的な側面のおさらいを次回に述べてみたい。
発展途上国の人々は、今なお貧困と抑圧に苦しんでいて、その最大の被害者は子供たちである。世界の人口は増え続けていて、これは飢えを満たす必要のある対象がどんどん増えているということだ。はたして、貧しい国々の子供たちを救う方法はあるのだろうか……。
解決策はここにあるのだ、とこのサイトは主張する。スイスの「少年兵士利用促進連合」("The Coalition to Promote the Use of Child Soldiers")というサイトである。世界の国々が、0歳から18際の子供たちを兵士として使うことを奨励することを通じて、人間性の援助に貢献する非営利団体だとのことだ。
彼らの目標は、世界の人々やその政府に、少年兵士を普及させることが、子供たちに自らの社会への関わりを持たせ、彼らに食物、教育、行動能力、收入、そして成熟を同時にあたえられるという事実を知らしめることにあるという。
兵士に採用することで、子供たちは社会的な弱者の立場から、むしろ資産ともいえる立場になる。自分たちの国のよりよき目標に向かって戦うことで、自立した生産的市民の一員になれるのだと。
彼らが兵士になることで、彼らが職を得られるだけでなく、発展途上国に兵器を輸出する西側諸国の軍需産業に対しても、これは莫大な利益を提供する。ごく少数の犠牲者が彼らの間に出るとしても、それは有効な人口調節機能をも果たす。家族の価値は高まり、戦士の英雄的伝統は受け継がれる。人間の権利を戦いとるというのは基本原理なのだ、と。
なお、彼らの団体名はこちらにかなり似ているが、全く別物なので注意してほしいというただし書きもついていた。
これを紹介していたTHE MUSEUM OF HOAXES(最近ここのパクリばっかし)では、ジョナサン・スィフトが書いた,「貧家の子女がその両親ならびに祖国にとっての重荷となることを防止し,かつ社会に対して有用ならしめんとする方法についての私案」(こちらの下の方に概括あり)と同じような風刺としているのだが、控えめに貼り付けられた少年兵士たちの写真、それも例外なく銃をもってあどけない笑顔をむけたもの、をみていると、案外本気で提案しているのではないかと思えてくる。
いくら合理的解決とはいえ、犠牲が出ることを前提にしている点が難なので、ここは世界に例のない「戦争を目的にしない」軍隊組織である、わが自衛隊の活動とドッキングさせていけばいいのではないか。今回のイラク派遣のような、自衛隊の海外派遣に当たっては、命令指揮系統と兵站のコア部分だけにして、後は全部現地で子供や老人などの弱者を臨時採用するのである。
なにせ世界で一番高給取りの軍隊である自衛隊のこと、日本人自衛官一人分の給料で子供たち100人以上は優に雇える。そこで基本的訓練と教育を施せば、直接的な経済支援だけでなく、後々までつながる人脈も形成できて、いいことばかりではないだろうか。イラク復興にこれほど合理的な支援は無いような気がするのだが、コイズミさん、ちょっと考えてみませんかね。
このサイトも、開設してすでに4年とちょっとになる。もっともその2年近く前から、職場の広報サイトのコラムとして原型記事は書いていたわけだから、古参サイトといってもいい(誰もいってくれないので自分で書いておく)。日記という形で毎日書くようになってからでも3年半ほどだから、自分でもよく続いているものだと思う。
「更新日記」というのは、メインのサイト記事更新を知らせるという意味でつけたのだ。編集後記というつもりである。でも、すぐにそれではネタが二ついるということに気付いてしまった。それなら日記にとにかく記事の原型を書き、後でそれをリファインする事にすれば、少なくとも一日にネタは一つで済むということから今の型式になった。
ところが、サイト全体の構築にはGoliveというやたらに大仰なツールを使っていたため、いい加減なことをでっち上げるにせよ、毎日いちいちメインのマシンの前に陣取らないといけない。そのうち軽いエディタで追加記事を書いて、適当にあちこちのマシンからアップするようにはなったものの、やはりちょっとめんどくさい。CGIでどこからでも気軽に更新できればとおもって、簡単なCGIを導入したこともあるが、イマイチ感が付きまとい、昨年からMovable Typeを使い始めたというわけ。
だから、Blogという形式的なことはまるきり意識しておらず、複数の職場や自分の家から更新ができるという利点と、多少レイアウトがいじれる(これだってCSSをちゃんと使えば思うがままなんだろうけど、お化粧に必死になるほどヒマでもない)ことだけで採用したのだった。だからTrackBackだの、RSSがどうしたのというようなことには関心もなかったし、現にまだあまりよく判っていない。
ところが、実際この型式を使いはじめると、そういう機能がなかなか便利なだけでなく、色々な利用法があるようにも思えてくる。それ以外にもMyClipのような付加機能サービスを提供してくれるところもあり(使い道がイマイチわからんけれど)、なかなかそれなりに面白そうにも思えるのである。型式が内容にも影響する可能性を提供しているということであろう。
もっとも、私の書いているようなヨタ記事はほかの人に問題提起しているわけでもない、自己完結系の言説なので、Blogという型式から得られるメリットがどこまであるかは多少疑問ではある。なんであれ、ネタに詰まればBlogという型式についてのメタ記述で、かなりの量の文章を何回でもデッチ上げられるという点で、これは人類史に残る大発明だと、いまさらのように確認するのである。
メタブログという言葉はこちらの記述から。「おじさん達にとっての巨人戦」というのは秀逸な指摘でありましょう。使い道わからんなんて書いたが、こういう書き手を見つけ出せるのがMyClipの利点ということなのかな。サイトにクリップを表示する意味まではわからんが、当面利用させてもらおう。設定したパスワード、明日にも忘れてしまいそうだが。
さて、だらだらと面白くもないスポーツ狂いの話を書いてきて、結局帰着するところは「運命というのは変えられないらしい」というもの。自分がやりたいことだけをやって、それが健康にも役立つなんてこともないようだ。体重を減らそうとヒーヒーいいながら泳いだり走ったりしていた段階から、それが快楽になってしまったところで健康というものとは無関係になってしまったわけ。
少なくとも、約20年間のスポーツ三昧は、私に時間管理を常に意識する生活スタイル(といえば聞こえはいいが、要はいやなことは極力やらずに済ますということ)と、スポーツ医学や栄養学の知識をたっぷり与えてくれた。他人の例ではなく、自分の問題にどう対処するのかせまられると、学習効率というのは飛躍的に高くなるのである。もちろん他人にも適用可能なので、思いがけず商売の助けになったのは言うまでもない。
しかし激しい運動をしていた頃、食事ということに関しては、私のやってきたことは結局食べたいように食べるということだけであった。そんなわけで、運動量を減らさざるを得なくなってから、体重が元の黙阿弥になるのもまあ当然であろう。これではいかんと、オーソドックスなモノからトンデモ系にいたるまで、いろんな食事プランに挑戦したが効果が出るまで続けられたものはなかった。ちょっと前までは、やりたいことだけをやって減量できていたのに、なんでそんなクソ面白くもないことをしないといけないのか、と思ってしまうのである。
そんなわけで、自分の商売の関係でも、人に減量をすすめる言葉にはあまり力が入らない。バランスよく食事をとって、適度な運動を、ってなことで減量できるわけがないのは知り抜いているのである。といって、やせようと思ってプールに通っているんです、というオバサンに、アップ500m、バタ足500mのあと、1分30秒もちで100mインターバルを20本、というような「処方」するわけにもいかない。
身体のつくりを運動で変えようとおもえば、その程度の量をやらないと無理なのである。ジョギングならまだ誰にでも出来るが、それでも一日10kmは走らないとはっきりした効果はでないだろうし、それが出来るようなら、すでに健康志向とは別の世界に入り込んでいるということだ。それが出来る人はやればいいと思うし、それはかなり素晴らしい体験をもたらしてくれることを保障してもいいが、やはり「健康のため」とは少し違うことを知っておくべきであろう。
書き始めた時は、ダイエットの理論的考察を意図していたのだけれど(題名、全然中身とちゃうやないかい)、いつの間にやらスポーツオヤジの挫折物語になってしまった。このバックグラウンドを踏まえた上で、なぜ一般的にダイエットは成功しないのかという話をそのうち展開するということで、尻すぼみに文章を終えさせていただく。
なお、現在は「余丁町散人」氏の影響で、いわゆる「アトキンスダイエット」に挑戦中なので、これを掉尾を飾る成功例として報告できればとおもう。トンデモ系ダイエット(失礼)挫折例が一つ増えるだけかも知れないけれど。
そんなわけで健全スポーツオヤジと化していた私であるが、もともと運動能力が乏しいため、タイムを競うというレベルには全く達しない。そこで種目を増やして変化を楽しもうと、ロードレーサーを買い込んで、自転車競技まではじめる。
ただ、日本のアマチュア自転車ロードレース界は少々オタク系の雰囲気が強く、レーステクニックを素人同士が広く共有して底辺を広げていこうという姿勢があまりない。市民レースは古参のコア連中が、レースの作法も知らない素人を邪魔にするばかりで、あまり楽しくないのである。ロードレースの難しいテクニックを捨象した自転車パートを持つ、トライアスロンのほうに素人が押し寄せたのも当然である。
私も自分で可能な種目だけで成り立つトライアスロンにのめりこみ、今までの健康目的という運動から、レース出場のための運動という風に、完全に目的と手段がひっくり返ることになる。トライアスロンでは、そこそこのところで完走を目的にする程度なら、スピードよりもとにかく持久力が大事なので、インターバル練習なんか絶対やらない私の練習法でも十分楽しく参加できる。
といいつつも、いささか常軌を逸した距離(私は、水泳3.8km、自転車180km、そしてフルマラソンというロングタイプだけを目的にしていた)をこなさねばならない競技なので、並みの練習をしていたのでは完走どころか、生還すらも難しい。スポーツクラブで普段練習する時でも、負荷をかなりあげたエアロバイクを一時間こいで、その後トレッドミルで10km走り、それから2kmは泳ぐという、ショートレース程度の無茶な練習を週4回以上やっていた。休みの日には、雨でもなければ200kmほどロード練習をする。
このおかげで、ふだんの時間管理はとても上手になった。というより、レースに関係しないことは、ほとんど通り一遍ですますだけという生活だった。このころはトレーニングだけで一日2000カロリー近い消費をしてしまうので、気を付けていないと体重が減ってしまう。ランニングなら有利だが、水泳では浮力が少なくなってしまうし、自転車でも多少体重があるほうが、少なくとも下りは有利で安全性にも役立つ。そのために、炭水化物を中心にいつも食い放題という食生活を続けたわけだが、本来の好みともあって実に満足だった。
このころ、日本国内だけでなく、海外のレースをいれたら全部で30レース近くは出場しまくり、いつも後半3分の2あたりの順位というところでフィニッシュできていたが、その成績よりも何よりも、レースを軸にした生活は実に楽しいものだった。今までの人生を通じて、あの頃ほど充実していたことはなかったといえる。
ところが人間は歳をとるもので、そんな無茶な生活もいつまでもやっていられなくなる。疲れがなかなか取れなくなり、トレーニングをすればするだけ調子が落ちるようになってくる。トレーニングの質の問題かと、筋トレを取り入れたりするが、やることすべて裏目に出て来ると言う感じである。練習量も減らさざるをえなくなり、その一方で食生活は相変わらずの食い放題メニューなので、体重もじわじわ増え始め、ますます疲れやすさがひどくなるという悪循環である。(この項続く)
30台半ばにして、私はかなり健康状態に不安を持つようになった。階段を上がったり、ちょっと長い距離を歩くだけで息が切れるのである。何より、持っていた服が次々に入らなくなる。デパートに行けば、隅っこのほうにあるキングサイズコーナーに連れて行かれ、えらくダサいものしかないところでの選択を強いられる。
真剣に減量を考えるようになり、はじめたことはもっともオーソドックスな、「運動」であった。まず、昔多少やっていた水泳をはじめる。初回は市民プールで3回ほど往復しただけで、帰り道、車のハンドルを切るのに往生するザマであったが、何べんかやっているうちに、すぐに慣れてしまった。
それでも週に二日ほど2~3km泳ぐようになっただけで、3ヶ月ほどで5kg近く減量できた。普通なら大成功である。でも、フォームの基本がすでにそれなりに出来ているので、普通に泳いでいるのではそれ以上の負荷にならないのである。減量傾向はすぐに頭打ちになり、さらなる対策を強いられる。
職場の同僚たちがジョギングを始めるというので、それにも参加することにした。これもはじめのうちは泳ぐ距離ほどにも走れないが、すぐに結構走り続けられるようになる。もっとも、きわめてゆっくり、いわゆるLSD(long, Slow, & Distance)という走りである。1時間で10km走ればハイペース、というものだ。プロのマラソン選手の半分以下のスピードだ。
これを加えることで、半年で10kg減量することが出来た。ベルトなんか、ゲソゲソと穴が縮まるのだ。まさに快感である。このあたりで週のうち4日はジョギングし、2日ほどはプールにいくという健康生活になっていた。もう精神病理学や構造主義の辛気臭い勉強なんぞやってられるか、80年代中期は肉体の時代だぞ、という気分である。実際、思考の枠組みさえ変わるような気がしていたのである。
食事のほうは全くいじらず、運動をするようになって、その量はさらに増えた。というより、いつも食い続けでないと持たないのである。スナック菓子などをいつもボリボリ食べながら日々をすごしているのに、体重は減ったまま何とか維持できていた。
でも、こういうトレーニングを続けるには、それなりの目標が必要である。健康のため、やせるためというのでは続けられないのだ。手近な市民マラソンに次々にでることで、動機付けをしていたのだが、病膏肓にいたるというか、次第に嗜癖の段階に達してきて、さらに極端に走ることになるのである。それが与えてくれた甘き至福の生活はいまも夢に見るほどなのだが、残念ながらそう長くは続かなかった。(以下は次回)
私の人生というのは、実に肥満との戦いに明け暮れた人生といってもいい。母親が言うには、私が生まれた戦後数年の頃は、多少の経済的余裕が出来始めたためか、保健所や関係機関は育児について、「とにかく太らせろ」と指導していたという。各地で「赤ちゃんコンテスト」なるものが行われ、それで何を競ったかといえば、ただその肥満度なのであった。そして、私はそこで生まれながらにして、常勝チャンピオンであったのだそうだ。
ほんの少し前まで、国民の多数が飢えて死ぬのでないかという不安があった時代なのである。何とか持ち直してきたとはいえ、いつまた危機が来るとも知れない。食べられる時にはとにかく食べさせろ、脂肪をためこませて危機に備えろ、という国家方針がそのバックにあったらしい。
「団塊の世代」という、最近はまことに評判の悪い世代があって、狭義には「1947年(S22)~1949年(S24)生まれ」を指すらしく、広義にはその前後3年ほどのプレ、ポストも含めるらしいので、私なども晴れてポスト団塊世代にはいるわけだ。
この連中を生まれ年以外の基準で定義するなら、「食える時に食っておかないと不安になる」世代とまとめることが可能だと私は思っている。「ご飯を残すとお百姓さんに叱られるよ」なんてしつけの言葉は、おそらく昭和30年代には消失していたはずだ。我々は、まさにそういう価値観の中で育ち、出されたものは全部食うことを美徳としている。その割には、卑しくみえるのがいかんけど。
その中でも、ポスト団塊の世代は、実際に栄養状況も改善してきた時代に生まれたこともあり、とにかく脂肪細胞を増殖させられた。これが中年以降の肥満傾向に関して、決定的なハンディになるのである。脂肪細胞というのは、一度身体についたものは決してその数が減ることはない。個々の細胞が蓄えている脂肪の量が変わるだけで、絶対的備蓄能というのは、当然細胞数が多いほうが高い。
そんなわけで子供の頃から、やせ型とはお世辞にもいえなかった私の体重は、30台を過ぎた頃から爆発的に増え始めた。食うことも好きだし、食い物を作ることも好き、珍しい食い物を見つけたり、食い歩くことも好きで、酒も飲めばお菓子も食べ、アンコロ餅とテキーラがあうなんてことを見つけて喜ぶ人間が、適正体重を維持できるはずがないのである。ここで何もせずに放置していたら、今頃は糖尿病にでもなって、かなり不自由な生活を強いられていたであろう。もしかしたら脳梗塞でも起こしていたかもしれない。(以下次回に)
ロイとミッチは映画プロダクションを開くため、北カリフォルニアの田舎町からロスに出ることにしていた。彼らは自分たちの脚本アイデアを書き留めるため、Blogspotという無料ブログサービスに自分たちのブログを開設した。来週はロスにたつという週末、彼らは近くのキングス・キャニオン国立公園にキャンプに出かけた。ロイのガールフレンド、ジーナとその友人、レイチェルも一緒である。先月の18日に書きだされた彼らのブログは、そんな彼らの高揚した気分の日常を描く文章ではじまっている。
ところが、次の23日のエントリーでは、その様子は一変している。「もし誰か読んでいたら、希望はまだある。時間も残されている。我々は閉じ込められた。助けが必要だ。S-O-S」。彼らはキャンプ場のサービス棟に、窓に板を打ち付け、ドアには卓球台を立てかけてバリケードを作り、立てこもっているのだという。
彼らはその日、午前3時ごろ、ゾンビの一群におそわれた。レイチェルはゾンビたちに食いつかれ、ジーナは森に逃げ出した。ロイとミッチはジーナを連れ戻すことも出来ずにサービス棟に逃げ込み、バリケードを築いたのである。サービス棟には自家発電装置があり、食料も豊富に備蓄されていた。電話は不通であったが、ネットに接続できるPCがあったため、彼らは自分たちの開設していたブログを通じて、自分たちの状況を説明し、助けを呼ぶことにしたのである。
ゾンビたちは動きが鈍く、共同行動が出来ないらしい。もう一月近くにらみ合い状態が続いている。ロイとミッチはブログやメールを通じて助けを呼ぶが、誰も反応してくれない。レイチェルも今はゾンビの一員と化し、無残な姿で建物の外を徘徊している。ジーナの行方は不明である。ネットニュースではキングス・キャニオンの近くで爆発事故があったらしいことと、北カリフォルニアで人が食われる襲撃事件があったことが断片的に報じられるが、詳しいことはわからない。
こうしてロイとミッチは、外の見張りとネットでの情報収集だけの生活を強いられることになる。彼らは映画のうんちくを傾けて、ヒーローが自分たちを救いに来てくれないかという夢想したり、あまり役に立たないゾンビ対策サイトを読んだりしていることを、日々そのブログを通じて報告しているというわけだ。
おそらく、「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」にヒントを得た、アマチュア映画のプロモーションの意図があるのだろうが、現在進行形のブログをそれに使うというのは、状況設定の陳腐さを救って余りあるアイデアではないかと思える。もっとも、ブログ記述のほうはだんだんダレてきたのか、21日など、ニュースサイトみたいに「吸血鬼キラー、同僚を撃つ」という記事を紹介していたりするけれど。今後、どういう展開-収束に向かうのか、ちょっと興味がもてないでもない。
ただ、Blogspotのサービスをうけるときは、はじめにサイト名を決めておかないといけないらしいのだが、脚本草稿アップのために開設したはずなのに、survivezombies.blogspot.comはちょっとマズイのではないかと思うけれど。
THE MUSEUM OF HOAXES に紹介してあったもの(3/20)。
妙な夢を見た。
元巨人の定岡が映画をつくったというので、なぜか業界人風の態度で試写会に行くのである。映画の舞台は東京なのだが、主演女優は若い頃のアンナ・カリーナみたいな外人美女で、それにからむのはやはり毛唐の男で、会話もすべてフランス語なのであった。
女優がアンナ・カリーナ風だからゴダールのような映画かというとそうではなく、えらくあっさりした情景がオサレに切り替えられて積み上げられていく、「男と女」を思わせるつくりで、私のような世代には実にこころよい映像なのだった。
小奇麗なオフィスで働くアンナ風美女のところへ、毛唐男が粉かけに通っていて、コジャレた会話を重ねつつ、男はなにか国際的陰謀みたいなのに偶然巻き込まれ、結果として都心部での大規模な核テロにかかわってしまうというような話であった。ラストは核爆発で壊滅する都心の情景であるが、それをものすごく美しく撮ってあって、定岡監督、タダモノではないなと感心してしまうのであった。
試写会後、記者会見がおこなわれ、あの定岡があのとおりの情けな顔で現れ、記者の質問に答えるのだが、やはりいつものバラエティ番組と同じような間抜けな受け答えしか出来ないのであった。定岡の隣にはなぜかナベツネ氏が座っていて、「このように意外な才能を見出せたのはまことに喜ばしい。今後、世界にうってでる定岡君のため、讀賣新聞社は総力をささげたい」と、なんだか後見人のようなことを言い出すのである。
人は見かけによらないのだ、可能性というのはどこに転がっているのかわからないのだと思いつつ、なぜか気持ちはえらく暗澹となって目覚めたのであった。
2月末にフランスのカンヌで行われた3GSM国際会議で、独創的付加機能を持った携帯電話が数多く発表されたと報じられ、話題になっている。記事はパリ在住のジャーナリスト、デビッド・ベンジャミンによるもので、CommsDesign.comやEE Timesに配信されており、多くのBlogにも転載されている。(以下抄訳)
その記事によると、会議場の展示ブースでは、世界各国の携帯電話メーカーが新製品を競い合ったという。その主なものは次のようなものであった。
百科事典のエンサイクロペディア・ブリタニカがすべてビデオ画像で記憶されている、エンサイクロフォン。
スタートレックに出てくるフェーザーのようなデザインをもち、スタンガン機能が付加されているデフェンダーフォン。
スイスの時計メーカーが出展した製品は、アラーム音による目覚まし機能ではなく、100種類以上の子守唄を奏で、持ち主を眠りにつかせる機能をそなえている。
持ち主の声を、物音や周囲の人のざわめき、通りかかったプードルの声に偽装するベントリロフォン。
10メートル先の壁に画像を投影できる、プロジェクター機能つきのXパンドラキャム。
この超音波はボイスコントロールで発生するようになっていて、使用者は情事の際、ベッドの枕元においておけば、ある種の嬌声に反応して自動的にスイッチが入るという。同社は主にヨーロッパでの販売をもくろんでいるが、米国での発売予定バージョン、”チャスティティ(純潔)3000”の開発にも取り掛かっている。これは超音波発生に先立って、宗教音楽を流すことで性欲の抑制を図るようになっているそうだ。
同社首脳は、製造販売に当たって3G規格を採用する大手の企業と組むことも検討中である。同社がもっとも希望する相手は、"Siemens"であるそうな。やっぱりね。
最後がオチで終わるところを見ても、この記事は完全なジョークであるようだ。エイプリル・フールにはまだちょっと早いけれど。記事の脚注には、「皮肉屋の著者、デビッド・ベンジャミンは、技術関連の記事をしばしばラッダイト派の視点で書くことがある」と記されている。ところで、"Siemens"オチの説明は、しなくてもいいよね?
Emacsというオープンソースエディタ(それにはとどまらず、ある種のOSみたいな機能もあるらしいが)を使いこなしておられる方なら、添付されているファイルの中にクッキーレシピが書かれたファイルがあるのを御存知だろう。どのOS版でも、実行ファイルと並んだディレクトリィ、"/etc"のなかにあるので、御持ちの方は御確認を。ファイル名はCOOKIESである。(その内容はこれ)
そのテキストによると、アメリカにはミセス・フィールズという大手のクッキー店のチェーンがあり、そこにある人が電話して、クッキーの作り方を聞いたのだそうだ。一応タダというわけにはいかないだろうと、10ドル程度の請求を予想していたところ、カードから引き落とされた額はなんと200ドルであった。その人は頭にきて、200ドルで手に入れたそのレシピを、あちこちにばらまくことにした。それがこのクッキーレシピだ、というのである。
テキストにもこれは伝説だと書いてあるが、多額の金を請求されて怒り心頭という設定の書き手がつづるうらみつらみまであるので、間違うと事実だと勘違いしてしまいそうである。Emacsの開発者たちは、オープンソースアプリケーション配布に当たって、なんでこのあまり上品とはいいがたい都市伝説ストーリーを添付したのだろう。
この「馬鹿高レシピ伝説」は、店の名前やお菓子の種類、請求額などを微妙に変えつつ、アメリカでは50年以上にわたって語り継がれているものだ(参照はこちら)。思うに、PCソフトウェアの世界で、まさしく伝説で語られるクッキー店とほとんど同じことをして稼ぎまくっているともいえる某社の存在が、この古典的伝説を意外な添付ファイルとして復活させたということなのかな、と。
もしかしたら、某巨大掲示板あたりですでに有名なのかもしれないが、そこまでチェックしていないので、もし陳腐化しているものだったら御免なさい。
英語圏のチェーンメールに、日本の地下鉄で、弱者優先席がこんな表示をされているというのがはやっているのだそうな(画像をクリックすると拡大)。
日頃、いつも目にしているはずなのに、一体どんな図柄だったかサッパリ覚えはないのだが、少なくともこんな怪しいものではなかったとも思う。一応、向こうのチェーンメールにも、画像左から、(1)腕を怪我した人、(2)赤ちゃんを抱いた人、(3)妊婦、(4)足を怪我した人と、キャプションが入っているのだが、「日本人というのは妙な連中だ」と揶揄する効果を狙っているようだ。毛唐連中は、日本人なんてサルの親戚だと思っているのだから、こういう妙な表示しているのも当然と思っているのだけどね。
もちろん、本物はこちらのほうなので、惑わされないように。
外来を改装するので、不要なものを整理したいと看護婦さんが言ってくる(私はいまだに『看護師さん』という言い方が出来ない)。以前からまったく使われていないものが入った大きな戸棚があって、邪魔でしょうがないのだという。「なんか、子供のオモチャみたいなのが一杯詰まっているんですよ。捨ててもいいですよね?」
中をのぞいてみれば、ミニチュアの人形とか、動物とか、家とか乗り物の玩具みたいなものが山ほどつまっている。いわゆる箱庭療法の用具であろう。すべて、ほとんど使われた形跡のない、実にきれいな品ばかりである。
この箱庭療法用の道具というのは世界規格があって、まずその箱庭を作る場になる砂を敷いた砂箱というのがあり(大体数十センチ四方である)、そこに人形とか樹木、動物のミニチュア玩具のようなものを並べて心象風景というか、小さな世界を形成するのである。しいて言えば芸術療法というか、ある種の創作療法といえる。そう分類すると気分を害する人もいるので、あくまで箱庭療法だ、と言っておくしかないのだけれど。
これを使う立場には、多少の分派があるらしいのだが、大体はクライアントに自由に箱庭を作らせ、治療者はそれに関して若干の質問や受け取った感じを述べるぐらいで、ほとんどそれに介入することはしない。写真を撮って記録するぐらいである。クライアントのほうは自分の作った小世界を介して、自分の統合を取り戻していく(といいなぁ)というわけ。
正直言うと、かなり「と」の要素の強いユング派の治療戦略の中でも、これは特に「商売」指向が強く、アホみたいなというと悪いのだが、これにつかう木の箱とか玩具類というのは、目の玉が飛び出るような値段がつけられている。木の箱だって、別に匠の手によるいい仕事のもんでもなく、玩具類もグリコのおまけみたいなモノなのである。それなのに、マニアックな分析用の、奇矯なミニチュアもそろえたセットだと、80万円以上するのである。「開運鑑定団」も驚きの価格である。(参考にこちらなどご覧あれ)
私の意見を言えば、こんなものでよくなったと言える様な人は、十分な余裕と時間をもって自分を見つめる機会さえ与えておけば必ずよくなると言い切れる。アホな治療者による強引な介入のために、せっかくの回復チャンスを奪われるということが、このやり方なら比較的起こりにくいので、そのあたりはメリットといえるかもしれない。これを使って、なおかつアホをやる人もいますが。
それにしても、こんなもの誰が買わせたのだろう。数年前まで勤務していたという、マスコミ精神科医をやってるあの人かなぁ。変な神話的形象のミニチュアまであるので、一番高いフル規格版を買ったのであろう。もっとも、アリバイ的にすら使いこなせなかったようではあるが。
いまの心理スタッフに使ってみないかと勧めたが、まったく興味はない様子。どうせ仕事なんかないのだから、空振りでもいいからと、経験のつもりでじっくり症例を追ってみるのもいいのだけれどねぇ。病棟の片隅で関心も向けられなくなっている人に、無駄とは知りつつさまざまなアプローチをするような経験がないと、仕事している振りだけのインチキ専門家で終わるんだけど。
一応、関連大学の心理学教室に寄付を打診してみることにしたが、どうも誰も興味を示しそうにない。哀れな箱庭用具類は、このままではキャラクター類は保育所の玩具に、砂箱のほうは老人病棟で飼っているネコのトイレになってしまいそうである。砂箱だけでも5万円ほどするので、そういう豪勢なトイレが使えるネコは果報者じゃとは思うものの、少々もったいないと思わないでもない。専門家からの譲渡依頼があれば、職権濫用を承知の上で検討するので御連絡のほどを。
アソシエーテッド・プレスが3月15日に報じたところによれば、カリフォルニア州オレンジ郡アリソ・ヴィージョの町当局は、DHMO(一酸化二水素)の危険性をかんがみ、製造過程でDHMOが使われている発泡スチロール製カップの使用を禁じる条例制定にとりかかっていた。
その過程で彼らが気づいたのは、DHMO(一酸化二水素)とは、短くいえばH2O、水であるということであった。
「ちょっとまずかったね」、と町長のデビッド・ノーマン氏はいう。「条例作成をしていた担当者が、どうも調査を誤ったみたいだ」。担当者はあちこちのウェブに転載されている有名なデマ記事、「香りも味もない物質、間違って吸い込むと死の原因になる危険物質、一酸化二水素」に、あっさりダマされてしまったらしい。
結果としてこの町は、今週、町の主催行事での発泡スチロール製カップの使用を禁じる条例案を議会に出すことにしてしまった。禁止する理由は「人間の健康と安全を脅かす」可能性がある物質が製造過程で使われているということだったとのこと。
---------以上、こちらからの引用--------------
かなり前に、こちらでもこのDHMO記事は取り上げた事があるけれど、本気にする人がいまだにいるんですなぁ。鳥インフルエンザで、「肉や卵は食べても大丈夫」といくらいわれても、買い控えが起こるのも仕方がないといえますか。
PCは結局、再インストールの羽目に。ブートHDDを読んだり読まなかったりという不隠な挙動に関して、FIXBOOTだのFIXMBRだのとわけのわからん操作をやってみたものの、結局ハード的に逝ってしまっているらしいという結論。
たまたま娘のPCいじりをしたときに、偶然の一致で異常がでた、というコトなんでしょうかなぁ。仕方なくヤマダ電気で一番安いHDDを買ってきて、換装。不思議なことに、いかれたほうはブートはしないが立ち上がったOSからはその内容が読める。どうなっているのだろう。
OS再インストールして、今までのHDDからデータを移すという作業で、丸々3日間もかかってしまった。おかげでわけのわからんクズファイルはすべて放棄。こうやって2年に1度ほどのクラッシュのおかげで、ある意味でのデータ管理が出来ているわけですな。ナイル河の氾濫で文明を維持していたエジプトみたいなものだ。それよりは、時折の大火とか地震、戦災による壊滅で都市機能の刷新を図ってきた、東京というべきか。
まあ、何とかOSも回復し、最低限のデータは取り戻したのだが、メールなどは一部どこかにいってしまった。返事できない人もいるので、心当たりの人は再メールしてください。アップデート作業が残っているので、この文章はまだノートからやっているわけなんだけど、別にずっとこれでもいいような気になってきたな。
巨乳の女性、とりわけ豊胸術をうけた人にとっては、胸の谷間のしわというのが問題になるそうだ。とくに寝ている間、その部分のしわ形成が進むらしい。それを防止するグッズがこちら、"Cleave le Fairé"(なぜかフランス語。うるわしの胸の谷間、というところか)というもの。
しわ防止だけでなく、快適な睡眠にも役立つのだそうだ。なんとなく、寅さんのお守り袋みたいに見えるが、寝るときにしか使わないのだから問題はないだろう。ホワイトデイのプレゼントにいかがでしょう。ちょっと間に合わないか。
PCのトラブルは予想以上に深刻で、丸1日修復にとられてしまった。よって"THE MUSEUM OF HOAXES"の記事引き写しでおしまい。
3年前、近所にセルフサービスのガソリンスタンドが出来たが、はじめのうちはあまり客が来なかったらしく、「1ヵ月の間に1万円以上給油したら、3000円分の洗車カードをプレゼント」という販促キャンペーンをやった。そこしか利用しない私はらくらく基準をクリアし、カードをもらったのである。
今日給油していて、車中に「バカ」「オ○○コ」という落書きがあるのを発見して、久しぶりに洗車してみようと思ったのであった。乗り込むとき、車に身体が触れると土ぼこりだらけになるというのも、多少困る。
洗車機にカードを突っ込むと、「残金2400円」という表示がでた。洗車1回で200円なので、今日が3年間で3回目ということだ。車がしゃべることが出来たら、「オレはモンゴルの遊牧民かい!」と思いっきり突っ込んでいるだろうな。いいじゃないか、遊牧民で。車存在の本質を生きているのだよと、心の中でなだめつつ帰途に着いたのであった。
メインのPCがまだ回復しないので、資料の必要なネタを書く余裕がありません。
去る3月9日、eBayオークションに「イボ」が出品された。切除したイボ=尋常性疣贅の組織標本というのではなく、出品者の右足に今現在できているイボそのものだとのこと。
「右足にできた中古のイボを提供します。ええ、本当ですよ。説明を飛ばさずに、よく読んでください。
これはジプシーの言い伝えとされる民間療法のテストです。論理的にして、高い知能と感受性をもちつつ、ほとんどイカレている私の友人がとてもよく効くイボ治療だと主張する手段です。それは『イボを売れば治る』というもの。そこで私は半信半疑ながら試してみることにしました。もし落札者が興味をもたれるなら、この2004年度イボ大売出しの顛末をつまびらかにすることにやぶさかではありません」。
以下説明が続くのだが、要はこの出品者は「イボは売れば治る」という言い伝えを検証するためにeBayに自分のイボを出品した、実際にイボを落札者に送るわけではない、支払いは現金でなければいけない、購入した人はコインを送ってほしい、そして、届いたコインはショッピングモールのトレビの泉もどきに投げ入れるとか、砂漠に埋めるなどの方法で捨てることになる。そうしたときに初めておまじないが成立するらしい。
イボの治療にはかなりおまじないが利くというのは、以前にも皮膚科の友人から聞いた事がある。妙な先端的治療手段よりも余っ程利くので、その友人はほとんどそれだけでやっているそうな。はじめのうちは漢方的外用療法として「ハトムギを練ったものを塗る」ようにしていたのが、ハトムギを煮ておくのが面倒になって、ワセリンのような基質軟膏を使うようになったが、ほとんど治療成績は同じだったとか。大体の場合、数日のうちにコロリととれるのだそうで。
こちらの皮膚科サイトでも、「子供には『イボイボ飛んでけ。』などのオマジナイをさせる。成人の場合テープなどに「イボ無くなれ。イボ消えろ」などを5分間録音させてそれに唱和させる」という、かなり大胆な補助療法が書かれている。何が何でも液体窒素や抗がん剤のようなものを使うという態度より、よっぽど好ましい。
西洋ではこのeBay出品者が確かめようとしているような、イボに対して象徴的商行為を加えるというおまじないがあるらしい。ネットオークションという手段でもそれが有効なのか、興味深深である。なお、このオークションは最低入札額1セントで始められたが、日本時間12日午後11時現在、1ドル50セントにまで上がっている。入札者にはいったいどんなメリットがあるんだろうかと、ちょっと考えないでもないのだが。
娘のPCをいじってから、自分のPCが具合悪くなってしまった。HDDの内容を確かめるために、自分のPCにつないでみたりしたのがイケなかったようだ。人の不用意さを笑えませんわ、ホンマ。どうもBIOSに入り込む悪質なものをひろったみたいで、デバイスを読んだり読まなかったり、まるっきり挙動不安定である。
別のPCでBIOSをダウンロードして、入れなおしということになるんだろうけれど、最近、BIOSもライブアップッデートというので楽をしていて、やり方を忘れてしまった。人間、便利なものに慣れると、いざ危機が来るとまるでいけません。
というわけで、ノートPCでこれは入力中というわけ。さて、BIOS探して修復作業をやろうかな。あ、今気づいたけれど、このノートPC、フロッピーのスロットがついてないぞ。
すでにあちこちのニュースサイトやBlogで取り上げられているので、いまさら話題にするのもなんだが、このサイト的にはやはり一応触れずにはすまぬ問題であろうと、遅ればせながら紹介することに。
カリフォルニア州立大学、UCLAの医学部で、かなり困ったスキャンダルが発覚した。学生実習用にと篤志献体された遺体が、担当者によって横流しされ、結構な額の金品に換えられていたと言うのだ。(報道記事はこことか、こことか)
これはまず、UCLAから遺体の一部を持ち去り、研究機関や医療機関に売りさばいていたアーネスト・ネルソン(46)という男に、大学当局が遺体パーツの返還を求めた動きから表ざたになった。ネルソンは逆切れし、大学に24万ドルの金を支払えと要求した。大学はこれを支払うつもりであったらしいのだが、ネルソンはこれをロサンジェルス・タイムズに暴露するという挙にでたのである。
ネルソンの主張では、彼は6年にわたって関連部署のトップの許可の下に、代価を支払って公然と遺体を持ち出していたのであって、違法に進入したわけでも盗んだわけでもないとする。彼が持ち出した遺体の一部(もっぱら四肢の関節部分が中心だったとのこと)は800体に及ぶ遺体から取り出されたもので、作業も献体部署のプロトコールに従って、遺体安置所の冷凍庫の前で堂々とやっていたのだそうだ。
警察当局は先の日曜日に、ネルソンと献体管理部門のトップであるヘンリー・リード(54)を逮捕した。二名は翌日には保釈されている。リードの容疑は窃盗、ネルソンは盗品故買の罪状で、リードが2万ドル、ネルソンは3万ドルという保釈金の額からすると、ネルソンが主犯格とみられているようだ。
UCLA医学部は1996年に献体者の家族から、遺体を実験動物の死体と一緒に焼却したという件で訴訟を受けており、エンバーマーの資格を持つリードをこの部門のトップとして雇い入れ、献体の扱いに慎重を期す対策をとっていたのだが、それが裏目に出たということか。今回も早速、献体者の家族から集団訴訟が起こされるとのこと。
以前にも、病的盗癖の対象として献体の臓器や解剖残遺物を盗んでいた人の話を紹介したことはあったが、今回はれっきとしたビジネスとして展開されていた。前回は「役にもたたん」とか「使い道がない」などと、病的動機ですべて説明していたのだけれど、手術の練習用などで結構需要がある、というのが新たな発見である。一部のニュースサイトでは、移植用の臓器売買と混同していたところがあったが、もちろん、そんな目的には使えない。
UCLAは年間平均で175体の篤志献体を受けるのだそうで、1学年たしか120人ほどのはずだから、1人で1体解剖しても余りまくる。学生実習用という縛りもあるし、保管場所の問題もあるし、まかせるから程々にうまく回転させておいてくれよと、あいまいな管理が逮捕されたトップに一任されていて、そこにつけこんだブローカーがいたという風に理解できるのかな、と。
死体洗いのバイトはないが、死体横流しのバイトはある、というのが当サイトの結論。
下の子供のほうが先に学校をでて、やれやれ、生物種としての責任の一部は果たしたな、と思っていたら、学校に残ると言い出す。要はていのいい(よくもないが)フリーターということだ。強いて言えば美術創作系の勉強をしていることになるのだが、普段やっていることはPhotoshopとCADをつかって妙なものを作画しているだけである。一日中PCの前で作業しているだけなのに、恐ろしいほどPCに関して無知なのであきれてしまう。
二日前に突然PCを担いで帰宅してきたと思ったら、「最近PCの動作が遅くて困る。なんだかわけのわからないダイアローグ(ちなみに、ダイアローグなどという気の効いた言葉は当然彼女は知らない)がでて、最終的にはエラーがでるばかりだ」などと訴えるのである。
同級生で一番PCに詳しい男に頼んだら、アップデートとデフラグをかけてくれたが、何も解決しない。当たり前だ。仕方なく起動させてみると、まあものすごいダイアローグ地獄で、おそらくワーム、ウイルスてんこ盛り状態であろうと思われた。定型的作業でかなり削除できたものの、考えてみればこのPCは7年ほど前に私がはじめて組んだシロモノで、鉄人28号みたいなごついケースに入った、K-6の400MHzという貧弱なCPUで、必死の軽量化工夫を加えているとはいえ、ちょっと最近の肥大化したOSやアプリケーションにはきついのであった。
「こんなの使っているのは私だけだよ」とごねるので、一応卒業記念ということで新しいPCを組んでやることにしたのである。イタリア旅行させるよりは安上がりなので。それでも、ジャンク箱ひっくり返しPCではなく、ちゃんと最近のM/Bを買ってきて、CPUも新品、HDDもタップリ余裕をみる。ケースも多少は見栄えのする、少々高めのスマートな奴に決めてみる。それでも予算は5万円以内なので、要所は結局ジャンク箱由来になるものの。
ハード組み立てはいいとして、OSインストールしてそれにアップデートをかけて、今までのPCのHDDからファイルを取り出して、という作業が実に大変。アプリケーションのインストールも怪しいレベルなので、およそすべて仕立ててやる必要がある。いかんいかん、こんな「尽力的顧慮」をしているから上達しないのだと判ってはいるが、ぐちゃんぐちゃんになることを受容しつつ「垂範的顧慮」するような正しい態度はとりにくいものだ。
てなワケで、明日にも担いで持って帰ると主張する子供のために、最後の作業である。職場であまっていたOffice2000Personalを(その理由はXPにするから、というのが泣かせる)、コッソリちょろまかしておいた先見性にほくそえみつつ、インストールを続けるのであった。
動物の本能行動の変化にウイルスが関与しているらしきことを示唆する論文が出版され、報道でも大きく取り上げられて話題になっている。2月後半に出たばかりの「ウィルス学雑誌」に発表された、東大大学院細胞生理科学研究室久保教授らのグループ(主著者はどうも藤幸知子さんという、大学院生(?)のよう)による、「攻撃的働き蜂の脳内に同定された新しいピコルナ類似ウイルスについて」という論文。(アブストラクトはこちら)
ミツバチの働き蜂は、ふつうスズメバチからは逃げるが、巣の入り口にいる門番蜂達は逃げることなく、自分の死をも恐れず敢然とスズメバチを攻撃するのだそうだ。研究グループは、こういう攻撃的蜂の「利他的」行動を説明するのに、その脳内に特別な遺伝子があるのではないかと探していたところ、ピコルナウイルスと呼ばれるRNAウイルスに類似したRNAを発見したというもの。もちろんこれは普通の働き蜂には見つからないそうだ。
グループはこのRNAに「覚悟」RNAと命名し(もっとも英語論文でKakugoと書いてあるので、ホントに「覚悟」かどうかは不明だが)、本能行動の変化にウイルスの媒介があるのではないかと示唆している。簡単に言えば、ウイルスの形で外部から遺伝情報を仕込まれて、固有行動が変化するということだ。この発想は、今西錦司あたりから来ているのかねぇ。
ミツバチのようにその社会構造があって、任務分担がはっきりしている種の行動変異がウイルスによってなされるとすれば、全体としてそれを調整しているのはどういうメカニズムなのかという疑問が次にでてくるし、最低限そのウイルスの動態というか、どうやって一定の割合で感染を維持しているのかという問題があるが、アブストラクトだけではそこまでわからない。
ドロナワでミツバチの行動について調べてみると、働き蜂ははじめのうち巣の中で働く内役蜂なのだが、やがて外役蜂に移行するそうである。このとき、20%が1日か2日の間、門番としての勤務体制につくという。こいつらが攻撃蜂ということになるが、その攻撃性が死ぬまで固定されているのかどうかが、ドロナワ検索ではちょっとわからないのが辛いところ。
元論文には抽出した覚悟RNAを普通の働き蜂の脳内に注入したところ、著明な覚悟RNAの増加が見られたという記述はあるのだが、肝腎の行動パターンに変化があったかどうかということまでは確かめられていないようだ。
常識的に推論すれば、ウイルスという形で攻撃遺伝子を受け継ぐ、栄えある戦士グループがいて、何らかの手段でそれを次の世代に感染させる行動がコードされているのか、あるいは他の生物種をウイルスの保存維持に利用しているということになると思うのだが、そのへんは遺伝子研究だけで解明できることではないのは自明。
結局、こういう先端的な所見というものも、ミツバチ社会を地道に観察して、その集団行動を綿密に調べるという行為が一方になければ、なんだか「と」じみた妄想が刺激されるばかりになってしまう。そんなわけで、私みたいな尖端科学と無関係な人間が、しょぼしょぼとカルテ記載を続けることにも、脳科学の赫々たる成果を別の面から支えるという、それなりの意味があるのだなと一人確認するのであった。
だらだらと昼前に起き出し、朝飯兼昼飯を食いつつ、琵琶湖マラソンを観戦。このレースは私にとっては単なるレースを超えて、東大寺のお水取りとか、お彼岸のような季節行事となっている。もっとも、トップ選手が出る割にはタイムはイマイチだし、時期的なことから、今年のようにオリンピック出場選手選考というような、変な政治的役割をになうことが多くて、かんじんの面白さには乏しいレースなんだけれど。
まして今回はその選考レースという側面も、高岡寿成の欠場という事態のため台無しである。日本最高記録を持つ高岡なんだから、オリンピックぐらい出してやればいいじゃないか。やたらに選考レースの勝負にこだわる陸連の気持ちがわからん。低レベルの駆け引きで勝つことが、そんなに大事なのかね。などと、ちょっと高岡を応援。何しろ高校の後輩なもので。さっき知ったんだけど。
などといいつつ、昔すんでいた街を見る楽しみがあるので、このマラソン観戦ははずせない。スタートから12キロちょっとの地点にある「セーヌ不動産」の看板を見ないと、春が来るような気がしない。TVカメラも、ここは必ず写すことにしているようで、今日もそれまで選手の表情をアップにしていたのに、ここの前で急に引いて長々と「セーヌ不動産」の看板を写していた。NHKなのに。
レースそのものはやはり予想したとおりたいしたことはなく、旭化成の小島が中途半端なタイムで2位になったので、ますますオリンピック出場選考に恣意性が加わることになってしまった。オリンピックなんか、出たい奴みんな出ればいいと思うけどね。自費で行かせればいいでしょ。市民マラソンみたいに、数万人規模で走ると面白いと思うぞ。それが許されるようになったら、私もアテネ目指して今から本格的練習だ。
長島監督が脳梗塞になったおかげなのか、外来にやってくる患者さんがそろって頭のCTをとってくれという。中には、わざわざ新患としてくる人もあって、今日半日の私の指示だけで10件近くのCT撮影という大繁盛である。
老人で、以前軽い脳梗塞発作を起こしたことがある人だったら、経過観察ということで合理化はできるが、若い人で、ちょっと頭がもやもやするとか、めまい感があるという程度の理由でCTをとることにはやはり多少の抵抗がある。もちろん、商売優先なので断ることはありませんが。「撮ったからといって治るわけではありませんよ」と、一本クギを刺してはおくものの。
60台以降の人の場合、多かれ少なかれ脳萎縮ぐらいは認められ、中には小さな梗塞巣が見つかることもそうまれではない。めまい発作だと思っていたものが、多分一過性の脳虚血発作(要は軽度の脳梗塞なんだけど)であったのだろうな、と想像される所見に出会うことも多い。これが今の職場にはないMRIだと、もっと軽度の所見でもとらえられるので、インネンつけて相手をビビらせ、お得意さんに仕立てるのも簡単なのだが、CTだとちょっとその辺はアバウトになりがちである。1度MRIになれると、うすぼんやりしたCT画像読むのはつらいのよね。
大体、そう日常生活を阻害するわけでもなく、重篤な異常に直線的につながると言い切れるわけでもなく、そうなる可能性があるにせよ確実に予防する方法もないような異常を見付けだしても、ほとんど意味はないということに気付く人はあまりいない。もちろん医者を含めて。中には脳ドックのように、人の不安に付け込んで軽微な異常をみつけ、必要もないリスクを強いることが正義であるかのようなことを言う卑劣な医者もいる。
今まで超一流の脳外科医と仕事をしたこともあるが、彼らに共通しているのがこのあたりへの認識。脳ドックをすすめる立場にいたとしても、「商売のため」だと、一定の距離を必ず置いている。ヘタレの脳外科医に限ってこれがなく、所見のあるカモを見つけて無用のリスクにさらすことを使命だと思っている。恥を知れといいたいが、この手のヘタレはそんなことに全く無自覚だ。
まあ、そんな話をし始めても仕方がないので、今日のCT三昧の結果報告である。80%は異常なし、20%は以前から指摘されていた異常がそのままで、全く進行や新しい異常はないというめでたい結果。患者さんも安心し、病院の施設もフル回転し、保険点数も入って言うことなしである。私の半日分の給料を補って余りある稼ぎをしたので、大漁じゃ大漁じゃと満足して帰途に着いたのであった。長島監督が闘病しておられるあたりには、足を向けて寝ないようにしよう。
1953年3月5日、ソビエト連邦人民委員会議長にして、国家防衛委員会議長、赤軍最高司令官をかねていたその名のとおりの独裁者、ヨシフ・スターリンが死ぬ。享年74。公式発表は脳出血であった。
彼は1879年、グルジアに生まれる。ヨシフ・ビサリオノヴィッチ・ジュガシビリが本名で、スターリンは「鋼鉄の男」という意味のペンネームである。一説には、我々が親しんでいる岡田真澄風の男は替え玉にすぎなかったともいわれる。しかし、少なくともスターリンとして死んだ男は、あの風貌の持ち主であった。
その死因については公式発表を信じる人は少なく、さまざまに憶測されているが、側近の第一副首相、ラヴレンティー・ ベリヤによる毒殺説が有力である。この頃スターリンは精神的に完全に混乱し、疑心暗鬼にかられた殺人鬼となっていて、次々に大量粛清を計画していたといわれ、側近たちはこのままでは西側の介入があると恐れたのが動機であったとされる。
秘密警察出身のベリヤはスターリンの死後、クレムリンの実権を握るかと思われたが、派閥争いにやぶれ、その年の内にあわれ銃殺の憂き目にあっている。まあ、彼自身スターリンの命で、時には逆にスターリンを操って、数え切れない無辜を抹殺してきたのだから、因果応報というやつであろう。スターリンの遺体は防腐処置を受け、レーニン廟に運び込まれて、レーニンの遺体と同格の扱いを受けていたが、1961年、フルシチョフによるスターリン批判をうけ、運び出されて埋葬された。
そんなわけでスターリンは、最大2000万人といわれるその被害者の世界記録を、1億以上にまで伸ばす機会を前にしてこの世を去った。それでも人類史上最大の虐殺者といわれるのだから、才能というのは恐ろしいものである。麻原彰晃程度では、とても太刀打ちできない。
麻原で思い出したが、オウム追求で知られるジャーナリストの有田芳生氏は、スターリンの名前、ヨシフをいただいたことで有名だ。知識人にとって、自分の子供がスターリンのようになることが夢だった時代があるんですなぁ。そしてその子供が長じて、不出来なミニ・スターリンを追及するようになるなんて、なかなかの皮肉だと思われる。
私は自分の臨床スタイルを身につける過程で、実にたくさんの師に恵まれたと思っている。特にリスペクトすべきだと思っている数人の中で、特別の位置を占めるのが、大学で神経内科を教わったT教授である。
人にものを教える立場にある方のスタイルというのは、大体4っほどに分類できるようで、神がかり的カリスマタイプ、雷親父タイプ、近代的合理主義派、素朴人情派というところだと思う。このT教授の場合は、すべてのタイプをあわせ持ち、おまけに常に豹変し続けて回りを混乱させると言う、いわばトリックスター的教官とでもいうべき存在だった。
川端康成と澁澤龍彦にバートランド・ラッセルをつき混ぜたような風貌で、常に不機嫌そうに額にはしわが刻まれていて、実際、いつも不機嫌なのであった。講義は決してわかりやすいとはいいがたく、何よりも、順番に回ってくるプラクチカントと呼ばれる臨床講義当番が学生たちの恐怖を呼んでいた。
その当番にあたると、学生は臨床講義で供覧される症例の病歴をまとめ、診察をして所見をとり、その疾患一般についてもそこそこの教材になる程度のまとめを作ってレポートしなければならない。学生のやることであるから的外れになるのは致し方なく、他科の講義では教官はそういうつたないレポートを苦笑しながら聞いて、そのあといかに我々が無知であるかをじんわりと説いてくれるのが普通だ。しかし、T教授の場合はそうはいかなかった。
講義の三日前ぐらいにはレポートをもってお伺いを立てに行くのだが、これがまず一度でOKになることはない。前日の夜中まで、迷惑顔の患者さんに頭を下げて、所見とりをさせてもらうこともまれではないのだった。準備万端と思えたら、急に「患者さんの都合で、別の症例にする」などと、直前に変更されてあせってやり直しを迫られることもあったりする。
外来実習のときはひどかった。教授が診察室に入ってくるなり、「何をそんなところに突っ立っているんだ!」である。あわててイスを取り出して座ると、「誰が座っていいといった!」、あせって立ち上がろうとしていると、「バタバタしてるんじゃないよ!ホコリがたつ!」と怒鳴られるのである。こんな風に書くと、当時も今も、人のいう通りにはしないことをモットーにしている私が切れてしまわなかったのが不思議ともいえる。
他の学生には目茶苦茶評判の悪いT教授であったが、その理不尽ともいえる無理難題には、なんというか一種の様式美とでもいえるものがあった。是と答えれば杖で打ち、否と答えれば杖で打つ、さていかにせん、というような禅問答のごときユーモアが、そこに感じられないでもなかったのである。外来での一件など、ほとんどクレージー・キャッツのコントを手本にしたとしか思えない。
意識的にやっていたのか、無意識だったのかはしらないが、目先の出来事でパニックにならず、常に本質を見すえよというメッセージが、そこにはあったのだろうなと私はおもう。実際、その後似たような状況におかれたとき、一番役に立ったのがT教授から与えられた無理難題の記憶なのである。
T教授はその後、中央の大学に教授として戻られた。「あいつは所詮、田舎にきたのがいやで当り散らしていただけなんだよ」と当時の同級生たちは言う。確かに不本意さはあったかもしれないが、おかげで特異なその学識に触れられたことは私にとっては幸運だった。彼が戻った大学教室のサイトを調べると、そこでは彼の赴任後、「一時の混乱」があったと記されていた。中央に戻られても、あの無理難題禅問答系教育スタイルを続けておられたのかな、それをちゃんと受け止められない連中がいたのかな、などと想像するのである。
ついでにそのお名前で検索をかけてみると、でてきたのはなんと「2ちゃんねる」の医師板での雑談だった。私の世代の神経内科医には、オールマイティに内科医としてできる医師が多くいて、出身大学もバラバラなのだが、みなT教授の門下生だという、本音の感想が書き込まれていたのである。
なるほど、あのスタイルはやはり本物なのだ。願わくば、そのよき教えの何分の一かでも、私が受け継ぐことが出来ていればいいのだが。
今年のグラミー賞で、アルバム・オブ・ザ・イヤーをはじめ、3部門を受賞したOUTKASTというヒップ・ホップのデュオがいるそうだ。私はまったくこの分野について無知で、ヒップ・ホップといっても、定義もよくわからない。アメリカ大都市のストリートファッションに身を包んだ、もっぱら黒人系によるポップ音楽であろうと想像するだけだ。私らの世代、黒人ポップスといえばモータウン・サウンドぐらいしか、頭に浮かびませんからな。
ラップという、メロディがあるのかないのかわからんリズムしゃべくりもその特徴のようで、それをやる歌手(?)のことをラッパーというらしいのだが、こちらには平和ラッパの「天王寺のカメ、マメかめまへん…」というイメージを連想したりする。
まあ、なんであれ、商業的にも大成功しているらしい。現にグラミーもとっているのだし。それはいいとして、彼らの受賞アルバム、"Speakerboxxx/The Love Below"のなかに、"Hey Ya!"というのがあって、それにこういう歌詞があるらしい。
Shake it, sh-shake it (Shake it sugar!) Shake it like a polaroid picture
全体の歌詞は隣に住んでいる女の子にコナかけするような内容で、かなりどぎついことを言っているようなのだが、問題は"Shake it like a polaroid picture"である(その前のsugarもたぶんイケナイ意味のスラングなんだろうけど)。ポラロイドのフィルムみたいに、「それ」を振ってくれよというのである。
先月中ごろ、CNNは彼らのヒット曲に関連付け、ポラロイド社はそのサイトで、インスタントフィルムを現像過程で振らないでくれと注意していると指摘する記事を掲載している。日本ポラロイドのサイトをみても「ポラロイド写真は振っても早く写真が出ることはありません」と明記してある。早く現像できないばかりか、写真にむらが出る恐れもあるという。
なんでも、最初期のポラロイド写真は現像が終わったあと、薬品が塗られたシートをフィルムから引き剥がす形式だったため、表面がまだぬれているのを早く乾かすために写真を振るというのが報道カメラマンなどの間で定式化していて、それが最近のタイプにまで引き継がれて、余計なことをする人が多いと言うことである。
OUTKASTの歌とは関係なく、前からこの注意書きはあったのではないかと思うが、歌詞の片言にまで大報道機関が茶々入れしたくなるほど、この手の音楽が影響力を持つに至ったということなのであろう。私も平和ラッパしか思い浮かばないのでは情けないので、ちょっとはこのジャンルに触れてみなければいかん。というわけで、とりあえずP2Pでちょっと試聴してみたけれど、やっぱりウームとしかいえまへん。("Shake it"のサビの部分だけはこちら)
どこの会社の製品なのか知らないのだが、最近TVで「生烏龍」なる飲料水のCMをやっている。おちゃらけた新入社員みたいなのが2~3人、エレベーターの前で、居合わせた社長とその秘書をネタにして騒ぎ、社長に怒鳴られ「生カミナリ怖ぇ~」と、そう怖がる様子もなくざわめきあうというものだ。
その後場面が変わって、懲りた風でもないその連中が、生烏龍がどうのこうのと言っているところでCMは終わるのだが、あれを見るたびなんとなく考え込んでしまう。あれは最近の企業の従業員モラルを、ある程度反映しているものなのだろうか。
ふつう、ああいう具合にトップをからかって喜んでいるような若造社員がいれば、かなり厳しい処分というか、少なくとも始末書ぐらいは出すハメになるのではないかと思うのだが、違うのだろうか。もしかしたら、連中は経営陣非主流派のルートで入り込み、ああいう風に社内で挑発活動をやる任務でもあって、解雇でも言い渡されたらそれを口実に社内の不安定化を図るつもりなのだろうか、それにしてはコンジョなさそうなヘナチョコ連中だ。
あくまでイカレ若造社員を出すのなら、そのイカレ具合がトップの権威に、どういうレベルでもいいから拮抗もしくは圧倒しているような、それなりの安定した構図がほしいなと私なんかは思ってしまうのだが、そういうセンスは古いのかもな。
いかにも無能そうなおちゃらけ若造たちが、ごく普通の企業の中で、単なるおちゃらけとしてだけ存在しているという違和感が製作者の狙いで、21世紀はそういうセンスこそが若者たちに商品購買意欲を掻き立てるのかもしれない、と思い込もうとしてみたりするが、なんぼなんでもという感じである。
どうでもいいようなCMが気になったのは、実は別の理由からである。とある大手ブログを読んでいたらこんなことが書いてあったのである。リンクは示さないでおく。論争をふっかけているのではないので。
「専門家やプロが個人として専門分野について言及することを、私は望まない。大半の専門家が口を重くしている現在でさえ、注意力を欠いた発言が多過ぎる。個人レベルでの発言なんてのはじつにまったく期待するに値しないので、公式情報の充実を強く強く求めたい。後付けでいいから、組織のお墨付きを得てくれ、ということだ」。
この人の言っているのは、Webデザイン業界のことがメインで、そこで働いている人がド素人であることを包み隠しもせずに自分の個人サイトでおちゃらけたコトを書いているということにいきどおっているらしいのだが、自論の展開のたたき台として、「組織の中の研究者・技術者」一般に関して論じている人の意見を引用しているので、だいたいすべての専門家に対しての意見と思ってよさそうだ。私なんか、一番先に叱られそう。
この人はこうも言う。「どんな業界だって、多くの人は大して物を知っているわけじゃないでしょう。何でこの人がこの仕事をしているのか? みたいな事例は多いでしょう。建前でなく本当にスペシャリスト集団の会社なんて、ないと思った方がいい。けれども、そういった現実を包み隠さず消費者に見せてしまうのは間違いだと思う」。
クライアントからすればプロとしてすがるしかない人が、まったくのパースケというのは確かに困るのだが、だからといってそのプロ幻想は守られなければならないものか?パースケがパースケであることを自己暴露してくれているようなサイトは、クライアントにとってその手の組織企業との契約の際には、実にありがたい資料であると私には思えるんだけどなぁ。
それがこの人の意見では、企業内の恥ずかしい話はすべて隠し、建前の公式的意見だけ言って、企業の利害を守るのが従業員の義務だという。つまり社畜に徹しろよという意見だと私は受け取るのだが、それ以外の読みかたはある?
私が「生烏龍」のCMを見て違和感を感じるにとどまらず、「従業員にとっての正しい作法」を訓ずる若い人もいるのだ。なるほど、あのCMはそうした社畜指向が現在の底流になりつつあることを見越した上で、それを批評するものとして提示されていたのか。自らの時代を見る目の欠除に恥じ入る次第である。
この業界では、月初めはやたらに書類書きが多い。保険組合に医療費を請求する「レセプト」提出というものがあるからだ。もちろん、最近は医事コンピュータに記憶されている医療行為が自動的に打ち出され、単純集計とミスチェックは終わっているので、作業は格段に楽になった。
我々がやる仕事はまず、病名の追加と削除という作業である。病気というのは一つの状態がベタでずっと続くものではなく、様々に変化するわけで、時には完全に矛盾するような病状を呈することもある。当然、対応も逆のことをすることだってある。そのままだと、例えば下痢と便秘が同時にきて、下痢止めと下剤を一度に飲ませていたとする奇妙な請求書になったりする。量しか書かないので、時間的な経過までわからないのだ。
ちょっと前なら105円ルールというのがあって、タダ同然の薬の投与については病名を書く必要がなかったが、投与した薬に関しては、すべてを書くことになったため、適応疾患のつじつま合わせに苦労することが多くなった。重箱の隅つつきすると公正になると思ったバカがどこかにいるわけ。
そのあと、高額医療費の場合に(額については県により差がある。月100万を基準にするところもあれば、70万超ぐらいのところもある)、「病状詳記」という釈明文書を書くという作業がある。なんで高額の治療を行わないといけなかったかを、お役人に納得させる文書を書くわけだ。単なるお品書きだけだといちゃもんを付けられやすいので、ナラティブなストーリーを付加するわけである。長期入院の精神疾患ばっかり見ているとまず書くことはないが、合併症を見る機会の多い私は結構書かされる。
これはなるべく畳み掛けるような調子で、とにかくこれらをやらねばたちどころにして取り返しのつかぬ事態になったのだと書き連ねるのがコツである。もっとも私の場合はテンプレート文書を何種類か用意してあって、しかも前月の文書に書き足す形でやるので、あまり時間はかからない。しかし、言ってみれば相手をどう誤魔化すかという無内容な文書を書きつづけるのはそう楽しいことではなく、文体も必然的に役所式になってくるので、虚しくなるばかりである。
というわけで、少し前からあえて文体をパロディにして楽しもうと、裁判官の判決文のように書くことにした。判決文というのは基本的に述語がダラダラと読点で継がれていく、独自の文体であるのはご存知だろう。
「本患者はかねて慢性精神分裂病にて長期入院していたものであるが、○月○日午後3時ごろ、入院中の自室において突然の意識消失発作を来たし、応急処置にて経過観察していたところ、なお意識改善が得られぬため、頭部CTを施行してみたところ、右中大脳動脈領域に広範な脳梗塞発作の所見が得られ、即座に輸液、脳圧降下剤の投与をはじめたものであるが、高度の意識障害のため吐瀉物誤嚥を併発し、重篤な誤嚥性肺炎となっていたため、酸素吸入と抗生物質の併用をおこない経過を観察していたところ、(どっと中略)、よってリハビリ過程に至り、○月末日段階にて、左半身不全麻痺および構音障害をを残しつつも小康が得られたものである」
無内容なことを息をつかさせずに読ませるという目的にはかなり役立つし、言葉の繰り返しが多くなるので簡単に文章を膨らませる。この文体(と言えるほどのものではないが)を使い出してから一度も返戻がないので、結構効果はあるように思う。同業者のかたは使って見られてはいかがだろう。多少遊びはこめられるとはいえ、やはりバカバカしいのは同じことではあるものの。