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私は自分の臨床スタイルを身につける過程で、実にたくさんの師に恵まれたと思っている。特にリスペクトすべきだと思っている数人の中で、特別の位置を占めるのが、大学で神経内科を教わったT教授である。
人にものを教える立場にある方のスタイルというのは、大体4っほどに分類できるようで、神がかり的カリスマタイプ、雷親父タイプ、近代的合理主義派、素朴人情派というところだと思う。このT教授の場合は、すべてのタイプをあわせ持ち、おまけに常に豹変し続けて回りを混乱させると言う、いわばトリックスター的教官とでもいうべき存在だった。
川端康成と澁澤龍彦にバートランド・ラッセルをつき混ぜたような風貌で、常に不機嫌そうに額にはしわが刻まれていて、実際、いつも不機嫌なのであった。講義は決してわかりやすいとはいいがたく、何よりも、順番に回ってくるプラクチカントと呼ばれる臨床講義当番が学生たちの恐怖を呼んでいた。
その当番にあたると、学生は臨床講義で供覧される症例の病歴をまとめ、診察をして所見をとり、その疾患一般についてもそこそこの教材になる程度のまとめを作ってレポートしなければならない。学生のやることであるから的外れになるのは致し方なく、他科の講義では教官はそういうつたないレポートを苦笑しながら聞いて、そのあといかに我々が無知であるかをじんわりと説いてくれるのが普通だ。しかし、T教授の場合はそうはいかなかった。
講義の三日前ぐらいにはレポートをもってお伺いを立てに行くのだが、これがまず一度でOKになることはない。前日の夜中まで、迷惑顔の患者さんに頭を下げて、所見とりをさせてもらうこともまれではないのだった。準備万端と思えたら、急に「患者さんの都合で、別の症例にする」などと、直前に変更されてあせってやり直しを迫られることもあったりする。
外来実習のときはひどかった。教授が診察室に入ってくるなり、「何をそんなところに突っ立っているんだ!」である。あわててイスを取り出して座ると、「誰が座っていいといった!」、あせって立ち上がろうとしていると、「バタバタしてるんじゃないよ!ホコリがたつ!」と怒鳴られるのである。こんな風に書くと、当時も今も、人のいう通りにはしないことをモットーにしている私が切れてしまわなかったのが不思議ともいえる。
他の学生には目茶苦茶評判の悪いT教授であったが、その理不尽ともいえる無理難題には、なんというか一種の様式美とでもいえるものがあった。是と答えれば杖で打ち、否と答えれば杖で打つ、さていかにせん、というような禅問答のごときユーモアが、そこに感じられないでもなかったのである。外来での一件など、ほとんどクレージー・キャッツのコントを手本にしたとしか思えない。
意識的にやっていたのか、無意識だったのかはしらないが、目先の出来事でパニックにならず、常に本質を見すえよというメッセージが、そこにはあったのだろうなと私はおもう。実際、その後似たような状況におかれたとき、一番役に立ったのがT教授から与えられた無理難題の記憶なのである。
T教授はその後、中央の大学に教授として戻られた。「あいつは所詮、田舎にきたのがいやで当り散らしていただけなんだよ」と当時の同級生たちは言う。確かに不本意さはあったかもしれないが、おかげで特異なその学識に触れられたことは私にとっては幸運だった。彼が戻った大学教室のサイトを調べると、そこでは彼の赴任後、「一時の混乱」があったと記されていた。中央に戻られても、あの無理難題禅問答系教育スタイルを続けておられたのかな、それをちゃんと受け止められない連中がいたのかな、などと想像するのである。
ついでにそのお名前で検索をかけてみると、でてきたのはなんと「2ちゃんねる」の医師板での雑談だった。私の世代の神経内科医には、オールマイティに内科医としてできる医師が多くいて、出身大学もバラバラなのだが、みなT教授の門下生だという、本音の感想が書き込まれていたのである。
なるほど、あのスタイルはやはり本物なのだ。願わくば、そのよき教えの何分の一かでも、私が受け継ぐことが出来ていればいいのだが。
投稿者 webmaster : 2004年03月04日 23:48
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T教授はまさしくそれと同じタイプでしたね。あんまり脱線はしなかったけど。質問されてちょっと気の利いたことを答えると、「お前、それ知ってるなら当然これも知ってるよな。知らない?じゃ聞いた風な事言うんじゃないよ」とボロクソ。知らないと答えればもっとボロクソなんだから、結局調べまくって自分の論理を用意しておくしかない。
でも、このやり方についていけず、うろたえるばかりで、結局うつ状態になって別の大学に移っていった同期の研修医もいましたが……。
投稿者 Webmaster : 2004年03月05日 22:05
また余計なこと書きます。
祖父は帝国大学工学部の出身で、戦時中は軍属として大陸に渡りぶいぶい言わせていたそうですが(話に聞く当時の羽振りの良かったこと)、戦後は教職も勤めたその祖父がふと
「人に何か教えられるだなんて幻想は捨てるべきだ。丁寧にプログラムされた抗議など論外である、学生に考える隙が無いではないか。
僕が教わった教授にとんでもない人物が居てね、脱線はする、順番は気まぐれ、指名して即答できなければ猛烈に腹を立てるという素晴らしい講義だったが、彼の門下生は出世したね。何しろ片端から自力で調べ上げなければとても彼にはついていけなかったからね。」
その祖父も鬼籍に入って久しいです。
投稿者 小狸工房 : 2004年03月05日 19:57