第二部が公開されているというのに、DVDでいまさらの視聴である。この映画についてはいろんな人がさんざん語りつくしているので、私などが何をいうのも間抜け感がつのる。ネットでざっと見る限り、大体7:3ぐらいの割で積極評価派と当惑派に分かれるのだが、監督の本音では、その割合は逆であって欲しかったのではないか。こんな引用とコラージュに満ち満ちた個人映画を、65億円もかけて大真面目に作るという豪気さに、ただただ恐れ入ってしまう。
細かな整合性など知ったことかと、力技で話を進めていくというのは、例えば鎌倉時代の兄弟テロリストの話を江戸の郭を舞台に展開するような、歌舞伎の手法と同じといえる。単に粗雑なだけの筋運びというのはよくお目にかかるが、粗雑さが適度の抽象性を獲得しているのは、もともと狙いが「どこかで見たようなカッコいい立ち回りをばんばん繰り広げる」というところだけにあるからであろう。
コアな映画ファンには、細かな引用もとネタが何であるかを当てる楽しみもあるのだろうが、その境地に至るのはほとんどの一般観客には不可能なので、大雑把なところでもう少しサービスしてくれてもよかったのではないか、というのがわずかな不満。せっかく主人公があのイエロージャージを着ているのだから、やたらに背の高い敵をだすとか。
ほかに思いつくのは次の二点。(1)ゴーゴー夕張の武器は「ヨーヨー」であるべきだった。(2)オーレン・イシイとの日本庭園での一騎打ちの際、刀の鞘を捨てたイシイに対して、「敗れたり!」というブライドのせりふが欲しかった。それを受けて、イシイが「えっ!どこ?」と着物のほつれをさがすボケをかませば最高だったんだけど。
ここのところ休日を無為に過ごしてばかりいるので、今日は朝から根性出して上野までお出かけ。東京都美術館でやっている「栄光のオランダ・フランドル絵画展」がお目当てである。一応目玉はフェルメール「画家のアトリエ」なのだが、ルーベンスとかレンブラントとか、ブリューゲル(ただしヤンのほう)などの小物もあって、なかなかのお値打ちだと思われたのである。
混雑を予想して朝一番の入場にしたが、そう人大杉でもなく、まあまあの鑑賞環境であった。目玉のフェルメールはいうに及ばず、小物と予想したものもかなりの重量感のあるものが多かった。「花のブリューゲル」なんて呼ばれて、親父の名前で食いつないだように見られているヤン・ブリューゲルの、まさにその花の絵もあったが、本物を直接見ると細かな羽虫や毛虫なんかが書き込まれているのに気づき、圧倒的なメッセージ性を感じるのである。やっぱ、本物を見ないといけないのですな。
さて帰ろうかとぶらぶら歩いていたら、国立科学博物館で「スター・ウォーズ サイエンス アンド アート」なる展示が開催中であるのに気づく。ついでだからとそちらにも入場。先ほどとはガラリと客層が変わり、ガキ連ればっかりだったが、こちらはこちらでなかなかの満足。あの映画にこめられた執念は、一枚の絵にストーリーをこめようとしたフランドルの画家たちのそれとまるっきり同質なんですな。
そのあとコリアンタウンで、あんたら、昼からそんなに食って飲んででいいのかい、という不審の目を無視して焼肉バカ食い。伝統的常磐線酔っ払いオヤジに成り果て、家に帰り着いて大爆睡。夕方やっと起きだして借りてあった「キル・ビルI」を見る。フランドル絵画、スター・ウォーズ、キル・ビルと、思い入れの構成という点ではほとんど同じような努力をしている作品群に、どっぷりとつかった一日であった。
「キル・ビルI」については、後日もう一度触れるつもり。ヘタな日本語が入るので気持ち悪いとか、日本文化を完全に誤解しているなんて評価を聞いていたので、そう期待していなかったのだが、信じがたいほど面白い映画でありました。
TVをぼんやりみていたら、ケーブルのミステリィチャンネルというところで、エイリアン・アブダクションに関する番組をやっていた。アブダクションといっても色々あって、宗教的回向体験に近い、ある種の真理に触れられた喜びを得られるものと、悪夢そのものの精神外傷を体験するものとの、二極に分かれるもののようだ。
また、現在的体験としてのアブダクション(もしくは至高存在による招待)だけでなく、過去にそうされていたことに急に気づくという、「捏造記憶」喚起という型式での体験という側面もあるようだ。あとの場合は、ほとんど外傷的体験であるらしい。すごい真理に過去に触れていたのだ、と想起することはまずないようだ。
私がどこかで読んだ報告では、エイリアンに拉致されて、身体の中をいじくられたというような体験は、ほとんど入眠-出眠時幻覚によるものだと主張されていたような気がする。私は自分自身が入眠-出眠時幻覚をよく体験する体質なものだから、この説明は実によくわかるように思う。
入眠-出眠時幻覚に陥るときは、まず全身の金縛りではじまり、そのあと意思に反する身体の移動、他者からの身体的干渉をしばしば経験するものだ。やたらに説明的な幻聴を伴うことも多い。少なくとも日本では、この体験は超自然的というか、霊的な解釈をされることが多く、これをエイリアンの干渉だと捉える人は、見た事が無い。
そもそも、この体験というか症状はある種の遺伝子セットと関連しているらしく、白人よりは黒人に、黒人よりは圧倒的に黄色人種に多いものであることが判明している。米国白人の場合、滅多に起こらぬだけに、伝統文化的な解釈というよりは、マスコミに頻出するイメージで修飾構成してしまうのかな、などと思うのだった。
逆に、捏造記憶というのはあまり日本では見られぬもので(妄追想は珍しくもないが、似ているようで全然違う)、これは妙なセラピストが誘導してありもしない性的虐待なんかの記憶を作り出したりする機会が少ないということでもあるけれど、先ほどの入眠時幻覚とおなじように、遺伝子構成とも関係する可能性が高いのではないかと思われる。毛唐ってどんなインネンつけてくるかわからん、というコトですな。
そんなことを考えながら番組を見ていたのだけれど、そこでは全くそういう視点は紹介されず、心理学者みたいなのが出て来てはいたが、アブダクション体験者が精神疾患ではないことだけを強調していた。なんだかなぁである。精神疾患でなくても、ミクロ的な幻覚妄想ぐらいはありえるのが、人間の難しいところなんですがねえ。
ときどき、ネタパクりに利用させていただいているX51.orgの4月25日の記事に、BBCの記事を引用する形で、「美容室脳卒中症候群」というものについて触れられていた。なんでも、美容室でシャンプーされるとき、首を後ろにそらせるため、「頸動脈が無理に延ばされ、最悪の場合、それらは裂けてしま」い、結果として脳卒中をおこすというのである。
X51.orgの記事はかなり意訳されているが、この部分に対応するBBCの記述は、"If your neck is stretched and it kinks for a long time - as happens during hairwashing - you stretch the arteries and if you are unlucky you can tear them." であろうとおもわれ、確かに「動脈が裂ける」という危険を指摘しているように読める。
でも、動脈がまともに裂ければ脳卒中だの何のいう前に、かなりヤバい事態だけどねぇ。おそらく、動脈硬化が進行した人の場合、内頚動脈の辺りに血管の狭窄が来ていることがよくあるので、首の位置によっては完全閉塞したり、肥厚した血管壁の一部がはがれて、脳血管を詰まらせてしまうような危険性を指摘しているのだろうが、それを一般的なことであるかのように書くのは、無用の不安をひきおこすだけのように思われる。
ちょっとした首の伸展ぐらいで循環障害を起こしたり、塞栓を起こしたりするほど硬化が進んでいる血管なら、別に美容室に行かなくても発作は起こりうるだろう。天気はどうかなと、空を見上げただけでもその可能性はある。確かに日常生活で首の後方過伸展を長時間続けるようなことは、美容室でのシャンプーぐらいしか思いつかないが、実際そんなにその状況ばかりで、やたらに発作を起こすものだろうか。
BBCの記事には97年に、ランセットではじめて「美容室脳卒中」が報告されているとあったが、残念なことに抜粋もない小ネタ論文で、同じような症例報告も数例あるものの、やはり内容までは確認できない。向こうの美容院業界は、この「症候群」についてかなり警戒しているようすで、発作を防ぐため、シンクに仰向けに首を突っ込まなくても髪の毛が洗えるようなケープまで売り出されている。
でも、何度もいうようだが、シャンプーで首をそらすぐらいのことで脳卒中発作を起こすリスクが高いような人なら、すでに医学的管理の対象なのであって、姑息なことしてもしかたないとおもいますがなぁ。動脈硬化があふれる毛唐の場合は、こうでもしないといけないのかもしれないが。
そのうち日本でも、美容室でしつこく動脈硬化の有無を調べるような問診をされるようになるかもしれない。シャンプーの前に、CTや頚部の超音波診断うけないといけないといわれたりして。うーん、これは例外的症例をネタにして、美容院業界を脅して医療需要を作り出そうとする、医療業界の陰謀ではないかという気がしてきたな。

自宅近くのひなびた商店街にあるお店。ネーミングもさることながら、昼間見る限りではまるで焼け跡闇市のカストリ飲み屋である(本物を見たことないけど)。
だいぶ前から濃い酒が飲めなくなっていて、しゃれた料理とワインかなんかを、ちょびっとずつ取り合わせて供してくれる店があればな、と思っているのだが、田舎町にはなかなかそういうところがない。いわゆる「居酒屋」はまったく苦手だしね。
あえてこういう名前をつけて、私の求めているような店であることをアピールしていてくれている穴場なのかもしれないので、忘れぬように写真を撮っておいたというわけ。でも、入っていくにはかなりの勇気がいりそう。
MTBの整備というか、レストアに近い作業も終了し、天気も心臓の具合もいいのでちょっとポタリング。タイヤもオフロードパターンからスリックタイプに変えたので、異様にペダリングが軽くなった。午後一杯、すこし足を伸ばして50kmほど走ってみたが、大きなトラブルもない。
ぶらぶら走るだけのつもりが、次第に本気で走りたくなってくるのだが、それで困るのがそういう目的のコースが、こういう中途半端な都市近郊にはないということ。もちろんダートはないし、国道では交通量が多すぎるし、といって生活道路では障害物やら急な飛び出しもあって、かえって危なかったりする。
派手なサイクルジャージにヘルメット、というようなスタイルなら周りにそれなりの「本気」信号を送れるのだが、街乗り用のMTBに普段着ではその辺はちょっと弱い。といって、本気スタイルでトロトロ走っているのも、なかなかツラいものでねぇ。まして、本気の本気になってロードレーサーのほうまで持ち出して整備するとなると、生活のほとんどを自転車いじりに費やさないとイケない。
これが車やモーターバイクなら、いくら凝るといっても専門家に任せるしかない部分が多いが、自転車の場合は比較的安価に必要機材もそろえられ、自分で相当の部分までいじれるだけに、凝り始めるとこればっかりやってることになりがち。
言ってみれば、PC使いこなしと似たところがあるのがこの世界。そういえばアップルコンピュータは自分のところの製品設計思想を、自転車をモデルにしていたとも聞く。残念なことに、普通のママチャリみたいな自転車ではなく、やはりかなりのメンテナンスが必要なレース用自転車を想定していたようで、誰もが気軽に専門知識なしに使えるというわけには行かなかったようではあるが。
なんであれ、3時間足らずのトロトロ走行とはいっても、ジムで固定バイク漕いでいるのとは違い、歩行者やほかの乗り物への配慮を色々としないといけない実走は、身体疲労とはレベルの違う独特な疲れが残る気がする。そんなわけで、帰ってくるなり明るいうちからビールを飲み始めてしまうのも、そのまま酔っ払って寝てしまい、こうやって夜中におき出してあわててこんな記事書いたりしているのも、いたし方のない必然なのである。
最近かまびすしい「自己責任」のあり方について、実に示唆的な出来事がオランダで起こったようだ。ネタ元はかのダーウィン賞サイトのこちら。オランダの元記事はこちら。
-------------引用開始------------
車を運転するというのは退屈な作業である。オランダはブレリックにすむ19歳の我らがヒーローは、その問題について根本的解決を見出した。彼はイースターの夜、国道を運転しているとき、同乗している二人の友人に、あるスタントを見せて印象付けようと決心した。
彼はクルーズコントロールを時速35キロに設定し、運転席から一度外に出て、走って車を追いかけ、もう一度乗り込むという離れ業を見せようとしたのである。しかし、彼の時速35キロというスピードへの見積もりは、ちょっと甘かったようだ。彼は車から飛び出すと同時に、アスファルトに頭をひどく打ち付けることになったのである。
彼は今重態となって病院にいて、その容態はかなり危機的であるようだ。彼の脳障害の程度を気にする人もいるだろうが、もともと彼の脳はそう機能はしていなかった。何であれ、彼はダーウィン賞のページを飾るにふさわしい人といえよう。
-------------引用以上------------
「自己責任」というのはこういう例のことを言うのではないかな、なんて考えるのと、運転手が飛び出した車に乗っていた二人の友人というのは無事で済んだのか、というのが差し当たっての私の興味ではある。
一昨日、かなり部分的な経験に基く「印象」から、無責任な想像を書き散らしたら、予想外の反応があって少々あわてている。大概の「臨床的知見」と称するものは狭い経験をもっともらしく言い立てているものがほとんどなので、オレはこう思うぞということでかまいはしないのだけれど、文献的な裏づけが形だけでも出来れば説得力が増すかと、仕事もさぼって文献検索の一日である。
結論として、特定のペットへの態度と何らかの疾患への結びつきを示唆するような学説を見つけることは出来なかった。1998年にシドニー大学で行われた「動物、公衆衛生、公共政策シンポジウム」での基調報告が、動物と健康のかかわりという研究に対する総合的レビューとしてよくまとまっていたので、以下の概説はそれを利用させてもらっている。
それによると、高齢者の生活全般に関するクオリティ・オブ・ライフ(QOL)の問題として、ペットの有用性を調べるような研究はほどほどに存在する。その多くの主張は、ペットと一緒に暮らしている高齢者は、社会とのつながりが緊密で、他の家族メンバーとの関係もよく、そもそも、社会的階層もより高いとする。まあ、当たり前といえば当たり前。
身体疾患に関しても、同様の肯定的結果を掲げるものが多い。心疾患の際、その救命率を調べると、ペットオーナーのほうが高いのだそうだ。精神疾患に関しては、入院患者や施設入所者にたいするペット療法の効果という形での検証が中心になる。これは普通の高齢者施設でのペットの導入がかなり有用であるのと比べ、今ひとつ明確な効果は示せないものが多いようだ。それらの施設で働く人に対しては、はっきりとしたストレス対策となるらしいのだけれど。
繰り返すようだが、これらの研究では「ペット」でひとくくりされていて、その種類についてはあまり区別されていない。どうも犬の場合が多いらしいが。いわゆるコントロール群を作ることを意図したらしい研究で、一般の高齢者施設に観賞魚の水槽を導入した場合と、そのビデオ映像を流す場合との比較というのがあったが、傑作なことに、ビデオ映像のほうが圧倒的な好影響を入所者に残したそうである。観賞魚ってのは、ペットというより、映像として機能しているんですな。
というわけで、「痴呆性疾患の人には猫嫌いが多い」という、私の大胆な決め付けを文献的に支持するものは得られなかった。もちろん、高齢者一般への健康に対するペットの有用性が示される一方で、痴呆性疾患への効果がイマイチはっきりしないということから勘ぐれば、かなり牽強付会とはいえ、ある程度は私の印象も正しい部分があるのかな、とは思える。
あとは個別例について地道にデータを集めるのと、何らかの統計的調査を行う機会をうかがうということだろう。それにしても、うちの病棟の介護猫は最近色気づいてしまって、職務を放棄して外に飛び出してはメス猫追いかけるばかりである。ちゃんと去勢手術受けさせたのにな。患者さんが関心持たないというより、あいつが患者さんに関心持ってないだけかも知れん。
バナナ・ガードなる商品の通販サイトが"The Museum of Hoaxes"で紹介されていて(4月20日の記事)、一応本物の製品であるとはされているものの、少々皮肉なトーンでネタ系商品であるかのような書き方がされている。
そもそもそのバナナ・ガードとはどんなものかというと、バナナを学校や職場に持って行くたびに、傷ついていたり潰れていたりしてイヤになっている人に贈るユニークなデバイスということである。これさえあれば、バナナの持ち運びと貯蔵を安全に行えて、いつでもどこでも完全なバナナが味わえる特許製品だ。
この製品はほとんどのサイズのバナナに適応するようにつくられていて、バナナからでるエチレン(だったっけ?)がこもって変色や熟れすぎがこないように、通気孔まである芸の細かさである。色も9色揃っていて、さまざまなコーディネートが楽しめる。
たいがいの人は、これはネタ商品だと思うかもしれないが、以前ランニングやら自転車にこった経験がある身としては、細かな需要にこたえてくれた画期的商品だと感心するばかりである。バナナは運動の途中に糖分と電解質を補給するのに理想的な食品なのだが、その持ち歩きにはなかなか困難が伴う。潰れたり変色しているバナナを、背に腹はかえられず仕方なく食べるのが現実だ。これがあれば、かなり快適な補食ができたろうに。
もちろん、普段の弁当の付け合せとか、ピクニックのお伴にも最適だろう。惜しむらくは合衆国外では手に入らぬようで、どこかが代理店になって大々的に輸入してくれればいいと思う。もっとも、これを使ったからといって、現・近代最大のアポリアである、「バナナはおやつに入るか」という問題解決にはなんら役立たぬので御注意を。
最近、もしかしたら医学上のパラダイムシフトにつながる大発見の糸口をつかんだのではないか、という気になりかけている。というのは、私の職場には老人痴呆病棟があるのだが、そこでちょっと前から、「動物療法」の名目で猫を飼うようにしているのである。もっとも「動物療法」というのはほとんど理由付けで、病院にやたらに捨てられる猫のうち、多少愛想がいいのだけでも養ってやろうという目論見である。
愛想がいいように見えても、野良猫暮らしが身に付いた猫はなかなか病棟に居つこうとせず、一代目、二代目の猫は無断離院を繰り返した挙句、適当な相方を見つけて逐電してしまった。不妊手術やら予防注射やらに結構物入りだったが、そういう理屈は通じないのが猫の猫たるところである。
三代目はほんの仔猫のときに捨てられていたので、病棟の中だけを生活圏にするのが刷り込まれたらしく、ちゃんと職員の休息所の片隅に定めたトイレの場所も守り、看護詰め所のカウンターで看板猫の機能を立派に果たすようになった。職員にも可愛がられ、福利厚生にはまことに役立っているようである。回診のときなど、さっそうと先頭を歩いていくので、「財前教授」と呼ぼうと提案したが、すでに「タマ」というベタな名前がついていたので却下されてしまった。
ところがである。患者さんたちはほとんどこの猫に興味をはらわないし、露骨に嫌う人が多いのである。痴呆にもその病像に色々あるが、多幸性が目立つような人から、攻撃性が前面に出ている人まで、猫が近づくと嫌がる人がほとんどなのである。もちろん中には可愛がってくれる人もいるが、かなり例外的で、その比率は1:9というところである。
残念ながら猫好きの人の統計的比率はしらないが(ネットで調べたがわからなかった。犬好きよりは少数派らしいが)、10人に1人しか猫好きがいないということはないだろう。現に、面会に来た家族たちは、カウンターで寝そべっている猫をみても嫌悪感を示すようなことはなく、「ペットまでいるんですね」と喜んでくれるのである。
これは面白いと思って、外来で経過を見ている痴呆疾患の人たちにもこの点を確かめるようにしているのだが、やはりほとんど猫好きはいないのである。ある老婦人の場合など、旦那が猫好きで家をほとんど猫屋敷にしているが、自分は猫が近づいてくるだけで身震いするほどで、離れに避難して家庭内別居を何年にもわたってやっていたという例もあった。
犬の場合はどうなのだというのも気になるが、こちらはあまりハッキリしない。家では飼っているという場合は結構あるが、それでもあまり中心になって世話をしていたという場合は少ないような印象はある。
もっと多数の例を取り出し、無作為抽出したコントロールと比較しないと確かなことはいえないが、少なくとも検証すべき、「痴呆性疾患の人には猫嫌いが多い」という仮説をたてるには充分な印象は得られるようにおもう。もちろんこれは仮説であって、それが統計的に成り立つかどうかは別の話。ましてやその仮説を裏返して、「猫が好きな人はボケない」とまで主張しているのではないので御注意を。
承前。有名人と運転手というのは欧米ジョークでよく使われるネタらしく、何種類か聞いたことがある。その中で私が一番好きなのはこういうもの。どこに書いてあったかは忘れたので、引用元は示せない。
アメリカを訪問したローマ法王が、NY空港からリムジンにのって国連ビルに向かっていたときのこと。運転手のあまりの安全運転に業を煮やした法王、運転手を怒鳴りつける。
「何をトロトロ走っているんだ。私がかわりに運転する」
法王にそう言われては逆らえず、運転手はしかたなく後部座席におさまる。法王はとんでもないイタリア式運転で、信号も車線も無視したデタラメを繰り返した挙句、白バイに止められてしまう。
運転者と後部座席をじろりとにらみ、誰が乗っているかに気がついた白バイ警官、表情をこわばらせて本部に無線連絡をとる。
「こちら55号、無謀運転の車をとめたが、ちょっとまずい事態になった。とんでもないVIPにあたっちまったらしい」
「どうしたんだ。大統領かドナルド・トランプの車でもとめたのかい?」
「それよりヤバそうだ。何者かはわからないんだが、只者ではないらしい。なにしろ、そいつはローマ法王を運転手に使っているんだ」
昨日4月18日はA・アインシュタインの命日だった。そこで彼をしのんだジョークを紹介。(引用はこちら)
アインシュタインが講演旅行をしていたときのこと。彼は講演が嫌いで、早く研究室に帰りたくて仕方がなかった。今日も退屈な集まりに向かおうというとき、アインシュタインは自分の運転手に、講演はもうあきたとこぼした。
「いい考えがありますぜ、先生」。運転手がいうには、「オレは何度も先生の講演を後ろで聞いていたので、先生のかわりに講演できますよ」。運転手はちょっとアインシュタインに似ていないでもなかった。アインシュタインは大笑い、「そいつはいい、それでいこう」。
講演会場に着き、アインシュタインは運転手の帽子と制服に身を包み、部屋の後ろのほうに陣取った。運転手は見事にアインシュタインのスピーチをとりおこない、いくつかの質疑応答までこなした。
そこにある有名な教授が、反物質の生成に関するきわめて難解な質問を皮切りに、あれやこれやと、聴衆も大したものだと思うような質問をくりだした。運転手はまったくたじろがず、質問者を冷たく見据えるとこういった。「教授、その御質問にお答えするのはきわめて簡単なことなので、そこに座っている私の運転手に代わりに答えさせましょう」。
天気もいいし、心臓のほうもまあまあの調子なので、久しぶりにMTBを物置の奥から引っ張り出してポタリング、と思ったのはいいが難問山積。かなり長い間放ってあったので、タイヤは劣化しているし、ディレイラーの動きもぎこちない。電装品関係は全滅で、サイクルコンピュータ(といっても速度計だけど)もブザーも電池切れ。大体、ビンディングペダル(靴と一体化するやつ)にしているのに、肝心の靴が見つからん。
ここはサイクルショップを見つけて、パーツや用具を補充するしかないと、ネットで検索すると自宅のすぐそばにあるのを発見する。なんでわざわざネット検索なんかするのだ、自転車屋さんなんかそこら中にあるだろうに、と思われるだろうが、それがなかなかそうは行かないのである。
今はMTBタイプの自転車でもフツーの自転車屋さんに置いてあるが、昔はマニア向けのスポーツサイクルを扱うところでないと手に入らなかった。ましてそういうマニア系MTBのパーツ類の補充ということになると、取り寄せばっかりになってしまい、さっぱり話が進まない。チューブなども規格が違い、普通の自転車屋さんには、それ用の空気入れすらなかったりする。
スポーツサイクル専門店が身近にあって、そこと懇意になっておかないと、スポーツとして自転車を楽しむのは難しい。古くからの自転車屋さんには、ママチャリ売るのがメインではあっても、スポーツサイクルに詳しくてメンテナンスも出来る人は多いが、だんだんそういう店は見つけにくくなっている。パーツを取り寄せてもらっても、それを組むところまで頼めなかったりすることもある。
勢い自転車をスポーツとして楽しむ人は、自転車メンテナンスのかなりディープなところまで出来るようになる場合が多い。私もパーツさえ揃えば、一から自転車を組むぐらいのことは出来るようになった。もちろん、スポークを編んでホイールをつくることも含めて。スポークがホイールに固定されている部分はナットになっていて、少しずつ回してバランスをとるのだが、まるでピアノの調律をやっているような繊細な作業になる。
プロはその辺で実にいい仕事をするのだが、そのせいなのか偏屈者がやたらに多いのが難点だ。そういう技術は徒弟制度みたいなところで習得するしかないような面もあって、新規開業の際には人間関係をうまく扱わないと大変らしい。客のほうもかなり遠慮しないといけないような専門店も、実際結構多いのである。
ねらい目の店はセミプロ系というか、趣味でレースをやっていて、フツーの自転車屋さんで基本的な技術は習得していて、自分でスポーツサイクル店を開業したというようなところである。つくりがコジャレていて、ヒップホップなんぞが店に流れているようなところがいい。大した技術はなくても、小物系への目利きが広く、まず形から入るほとんどのマニアには必要充分なのである。
さて、自宅そばのショップはどんなところであろうかと、ちょっと不安を感じつつ訪問するが、イタリア語のしゃれたショップ名で見当をつけていたとおり、セミプロ系であった。あまりフリの客は相手にしないという、マニア向けショップの伝統は多少感じるものの、最低限のホスピタリティは保てている。自転車ライフの再構築の足がかりにするには、まあそこそこの店であろうと思われた。
そんなわけで、ショップの見繕い、買ってきたパーツの装着作業で一日があっという間に過ぎてしまい、結局自転車には乗らずじまい。ブログでメタブログ記述が中心になってしまうようなものだな、とちょっと苦笑い。さあ明日からは自転車通勤だ、と決心したのだけれど、明日は雨らしいので、まあ、ちょっと様子見。
例の「ミラーマン事件」、私にはかなりの衝撃だった。もちろん、大学教授ともあろうものが……、という驚きではない。私は長らくあのU氏を、まったく別の生活史と人格をもった人として理解していた、ということに気づかされたからである。
U氏はTVのコメンテーターとして高名であるが、私はこの人が出てきた当時から、ちょっと名前が似ていないでもない、「植島啓司」という人物(頭一字しか一致しないけど。あ、四文字だというのと)がマスコミに売れるようになったのだな、と理解していたのである。
植島啓司は比較宗教学者で、いわゆる「ニューアカ」ブームのころその周辺にいて、死とエロスがどうしたこうした、というような難解でありつつも、スケベ趣味からだけでも読めるような文章を大量生産していた人である。私も何冊か、なんじゃこりゃと首をひねりながら読んだものだ。
それがである。TVでは彼は(というか、私はU氏=植島啓司と思い込んでいるので)エコノミストと紹介され、ごく普通の財政出動論というか、要は自民党の野中青木ラインを正当化するような論理を述べるばかりで、国際情勢とか一般的な問題については実に当たり前というか、何の独自の論理もない(掲示板で『模範囚的』という表現があったが、実に的確といえる)常識論を語るのである。
精神の奥底にあるエロスと破壊への誘惑をあれほど強調していた人が、現実的な問題についてはこれほど平板なところに落ち着くのだな、これは当たり前さの中にこそ、狂気のポテンシャルが秘められているという実践的表現なのかもしれん、そんな風に受け取っていたのである。多数派の常識論おそるべし、いつまでも若造っぽい屁理屈なんぞこねていてはいかんのだという、現実の重層性の象徴として、私はあのU氏の言動を捉えていたのである。あの事件のおかげで、私の妙な思い込みは完全に一種の妄想発展であることが明らかになってしまった。ま、訂正可能であるところが、妄想とはちがうのだけれど。
もっとも、平板な常識論的態度にはある種の狂気が秘められているというのは、本物のU氏が身をもって示してくれたことだ。私、ある意味で予言者的な資質があるのかも知れんなぁ、なんて思ってしまったものである。
1か月ほど前から左の画像(クリックで拡大)がネットに流通するようになり、アメリカのイスラム教徒社会に憤激をよんでいるそうな。海兵隊員がイラクの(と思しき)少年二人とサムアップサインを作って、にこやかに並んでいるもので、普通に見れば、米軍さん、イラク民衆に受け入れられて良かったねという写真なのだが、問題は少年が掲げている段ボールに書かれた文章。
海兵隊員が書いたと思える筆跡で、"Lcpl Boudreaux killed my Dad, th[en] he knocked up my sister!"(ボードロー兵長は僕の父を殺し、姉を強姦した!)、と書かれているのである。少年たちが英語が読めないのに乗じて、自分の戦争犯罪を自慢している記念写真を仕立てていると受け取れる。ネタ元はこちら。
これを見たThe Council on American-Islamic Relations(米国イスラム協力会議でいいかな?)は、この4月初め、報道機関に声明をだし、この写真の真偽を調査するように海兵隊に求めた。海兵隊側の記事はこちら。腰の引けた「軍事活動」しかしないくせにえらく秘密主義のどこやらと違って、軍の報道機関がこんな風にオープンなのは、何はともあれ誉めておきたいものだ。海兵隊はボードロー兵長(現在は退役して予備役になっている実在の人物だとのこと)から事情聴取をはじめており、事実の確認を行って兵長の処分を検討すると発表していた。
ところがそうこうするうちに、二番目の写真が出てきたのである。こちらは初めの写真とまったく構成は同じで、ただ段ボールに書いてある文句だけが違う。"Lcpl Boudreaux saved my dad then he rescued my sister."(ボードロー兵長は僕の父を助け、姉の命も救ってくれた)と、まるきり正反対な内容で、少年たちもクルド人だと説明されていて、信憑性もこちらの方が高いように思われたのである。
報道によれば、海兵隊の調査はすでに終わったらしいが、その結果はまだ発表されていない。兵長の軍務記録などを調べたら真相は一発でわかるような気もするのだが、簡単に本物とか偽物とかいえないような、複雑な事情があるのかもしれない。まさか真相はこれだった、なんてことはないだろうけれど。
(注:粗い解像度のおかげで、作り物かどうかはここで示した画像からは判定不能。興味ある方は、より高解像度の画像を掲げているところをご検討のほどを。こことかこことか)

何かと色々あったので、ニワトリとしての精一杯の誠意を示そうということなのか、バーガー・キングがやっているらしいキャンペーンサイトがこちら。
サイトを開くとニワトリの着ぐるみ男があらわれ、下の入力欄にいれた命令に即した動きを見せてくれるというもの。
もちろん英語で入力しないといけないが、簡単な動詞だけのときと、副詞をつけたときの動作が微妙に違うのが面白い。"Walk"といれると、素っ気なく部屋を一周するだけだが、"Walk gently"だとそれなりにしゃなりしゃなりと歩き、"Walk like a Japanease"ではなんだか妙な具合に歩いてくれる。
やたらにトラフィック過剰な様子で、まるっきり命令を無視することもあるので、粘り強く待つ必要もあるようだ。ニワトリ着ぐるみ男が、世界のあちこちからくるコマンドを、間抜けにもぼんやり突っ立って待っているわけもなく、動画ライブラリィがコマンドの意味解析に応じて切り替えられているのだと思う。バーガーキングの表示ははじめにちょっと出るだけなので、これ、宣伝キャンペーンの役に立つのかなと、多少心配。
それにしても、英語で何らかの動作を命令するというのは、案外難しいことですな。
デンマークの兵器メーカー(?)、ノース・エンパイア社は、かねて開発中の新兵器、ID狙撃ライフルのプロトタイプをこの4月に発表した。この銃は遠距離から、GPSマイクロチップを標的人物に埋め込む目的で使われる、非殺傷兵器である。
テロリストと思しき人物にGPSチップを埋め込み、その人物の行動を観察することで治安コントロールに使うというもの。ライフルには、行動追跡用のソフトウエアも付属している。なお、このたび発表されたプロトタイプでは、チップが標的に打ち込まれたときの衝撃は蚊に刺された程度で、初期型にあった瞬間的な痛みすら感じないように改良されているという。
これが本当なら、某国周辺で起こっているような人質事件解決には、なかなかの威力を発揮するでしょうがなぁ。容疑者に打ち込んでもよし、被害者になりそうな人には、国境近くではじめから打ち込んでおけばよし、というわけ。なにせこの非常時なので、許可もらうのも面倒だものね。
これを紹介していたのは例によってここなのだけど、そこではインチキの証拠はないと書いてある。でも、どう考えてもインチキですわな。チップが遠距離を直進するためにはある程度の重さが必要だろうし、それが当たって皮膚にもぐりこめば、「蚊が刺した程度」ではすまんだろう。
ノース・エンパイア社は、2002年に北京で開かれた「2002警察装備博覧会」(リンク切れ。2004版はこちら)に、自社製品を出展したと主張しているのだが、本当に参加したのなら、それ自体、一種のコンセプチュアル・アートをねらった冗談の可能性もある。中国の皆さん、そういうのには弱そうだものね。
彼らは数人組で行動する。ショッピングセンターなどでカモを見つけ、まず一人のメンバーが近づいて、着ている服になにか汚物のようなものを塗りつける。別のメンバーが親切を装ってその汚れを指摘し、あわてている被害者の金品をうばう……、というのはヨーロッパなどで、よく日本人がカモになる、スリ集団というか、カッパライグループの手口であるが、南アフリカになるとちょっと最後のプロセスが複雑になるようだ。(元記事はこちら)
その手口は、親切を装って近づいていった犯人の一人が、汚れを指摘するところまでは同じであるが、そこからがちょっと複雑になる。その男は被害者にこう説明する。「さっきの男が塗りつけたのは魔法の薬で、あなたの持っているお金をただの紙切れに変えてしまう呪いをかけたのだ。私がその呪いを解いてあげよう」と。
犯人は被害者をトイレなどに連れて行き、お金を封筒に入れさせて、自分の尿をかけるという呪いを解く儀式をさせる。目を閉じて祈りをささげるような手順もあって、その際に封筒はもともと紙切れしか入っていないものとすりかえられるわけである。
場合によっては、呪いは銀行に預けている金にまで波及することがあるので、出来るなら全部おろしてここに持ってきたほうがいいといわれる被害者もいて、なんとそれにまんまとのってしまう人がいるというのが不思議なところ。
何人組みかで行動するなら、手荒く奪い取るほうが速いと思いますがなぁ。こうした黒魔術の伝統文化をリスペクトすることは、犯罪としての洗練度がたしかに高いとは思うものの、その分被害者への露出度も高くなって不利になるような気がするのだが。
もしかしたら、その手でこられたらしょうがないわと被害者が納得してしまうとか、お金が紙にかわってるのを見て、「ああ、あれだけ一生懸命に呪いを解いてくれようとしたのに及ばなかったか」と、犯罪だと認識されないという効果があるのかも。
突発的飲み会に誘われ、しかも車の運転のことを考えなくてもいいという条件だったため、気がゆるんだらしく、午後7時頃に、これはちょっとペースが速いなと自覚したところまでは覚えているが、気づいたら朝であった。うーむ、いったいどんな言動をその間していたか、かなりの脅威である。自分の主体性を脅かされるような精神疾患を持っている人は、こういう恐怖と日夜戦わないといけないのだろうなと、いまさらのように思い入れを深くするのであった。などと、他人事のように醜態を取り繕う。
というわけで、記述が一日途絶えるのも不愉快なので、タイムスタンプを捏造して記事を書いておく。最近、こういうバカ飲みをしてしまっても、二日酔いにはならないのが不思議である。絶対的飲酒量が減っているせいでしょうな。
「ごめんください、神様」
「またお前か、モーゼ」
「そのとおりで、主よ」
「何時だと思ってるんだ、モーゼ。またコンピュータの調子が悪いのか?」
「なんでそれがお分かりで、主よ」
「私にはすべてがわかるんだ、モーゼ。忘れたのか?」
「へえ、忘れてました」
「用件をいってごらん、モーゼ」
「でも、あなた様にはすべてお分かりなんでしょう?主よ。お忘れで?」
「モーゼ!!」
「お許しを」
「いいから用件を言いなさい、モーゼ」
「その、質問なんですが、主よ。あなた様が私にメールしてこられた例の10の物件なんですが?」
「十戒のことをいっているのかね?モーゼ」
「へい、それで。あれは大事なものなんですかね?」
「『大事なものなんですかね?』とはなんていいぐさかね?モーゼ。大事に決まってるだろ。そうでなければわざわざメールなんかしないよ」
「お許しを、主よ。実は、あれをなくしちゃったんです。犬に食われたとでも言い訳しようかとは思ったんですが、あなた様にはお見通しだろうと……」
「何だね、『なくしちゃった』とは。ちゃんと保存しておかなかったというつもりかね?」
「へい、忘れておりまして」
「常に保存を忘れるでない、モーゼ」
「へい、承知で。前にもそういわれまして、そうしようとは思っていたんですが、忘れたんですな。でも、なくす前に何人かに転送してたんです」
「じゃあ、再転送してもらったんだろう?」
「さすがによく御存知で。それが、戒めなんぞ聞くわけないって野郎が一人おりまして。あの物件の言葉は変えちゃダメなんでしょうか?」
「モーゼ、意味を変えなければかまわないよ」
「その野郎がいうには、あなた様の姿勢が、その、ちょっと厳しすぎるんではないかと。それで呼び方を『10の提案』とか、『差し当たって気に留めてほしい事柄』に変えればどうかと」
「モーゼ、その話は聞かなかったことにしておくよ」
「それは『ダメだ』って意味でございましょうなぁ。それでね、その野郎は私めがスキャムを送ったっていうんですが、何のことでしょう?」
「それは『スパム』だと思うぞ」
「へいへい、そうでした。それで、私はそんなもん食わないぞ、だいたいそんなものをメールで送る方法なんか知らないと返信したんですよ」
「そうしたら向こうはどういったね?」
「御存知でしょうに。奴はあなた様の名をみだりにつかい、なんというかその、疫病を送りつけてきやがったんで。それが例の10の物件が消えた理由ってわけで」
「疫病ではない、ウィルスだよ、モーゼ」
「なんだっていいんですがね、コンピュータってのはちょっと扱いかねますわ。石板のほうに戻していただけませんかね。持ち運んで毎日読むにはちょっと重いが、あれならなくしませんので」
「私たちは新しいやり方を使うんだよ、モーゼ。コンピュータをね」
「そうおっしゃられるんではないかと、ビビってました、主よ」
「モーゼ、困った時にはどうしろと教えたかね?」
「まずこのネズ公をもって、コンピュータを操作しろと」
「それはマウスだ、モーゼ。ネズ公ではない。マウス、マウスだ。それからどうしたのかね」
「それからサポートセンターに電話しまして。あなた様より詳しいだろうとおもいまして、それにあなた様の時間を割いては申し訳ないと。ところで、ノアの箱舟にはこのネズ公は積まれていたんで?」
「マウスだ」
「もう一つお聞きしたいんですが、なんであなた様はこれをカエルと名づけられなかったんですか?」
「私が名づけたのではない。人間が決めたのだ。そうしたければカエルと呼んだってかまわんよ」
「なるほど、そうでしたか。きっと御婦人がアダムにマウスと呼ぶようにいったんでしょうな。たぶん、コンピュータのひとつをリンゴと呼ぶようにしたのも、御婦人でしょうな」
「お休み、モーゼ」
「ちょっと待ってくださいな、主よ。マウスをちゃんと使ったら動き出したみたいで。物件のいくつかが読めるようになりました」
「どの項目だね?」
「どれどれ、『汝、いかなる墓所からも画像を盗むことなかれ』ってのと、『汝、隣人の妻の個人情報を流出させるなかれ』ですな」
「コンピュータのスイッチを切りなさい、モーゼ。別の石板を送ってあげるよ」
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こちらからの引用。訳しているうちにどこが面白いのかわからなくなったが、いまさら別のネタは用意できません。
一時はまっていたGrand Theft Auto IIIというゲームは、プレイヤーがチンピラになって組織のボスから与えられる犯罪をやりとげ、立派なギャングスターに成り上がるというものだ。ゲームの舞台となる街は結構広く、止めてあるのをかっぱらったり、運転者を脅して奪ったりして車を手に入れないと、ほとんどの任務はこなせない。車に乗っている時にはカーラジオが鳴ることになっていて、何局も選べるが、デフォルトでは80年代初期のヒット曲を流しているDJ番組がかかる。
そこで女性コーラスによる、かなり印象的なサビが繰り返しかかるのが気になっていた。そのサビ部分は"Video Killed the Radio Star"であると聞き取れ、何のことやらわからぬままに、普段の鼻歌になっていたほどである。そこしかかからないので、ゲーム用に創作したのかな、とおもっていた。検索してみりゃよかったな。
たまたま殊能将之さんのサイトで、世代的な記憶にあるヒット曲ということで、「ラジオスターの悲劇」という曲に触れられていた。もしかしたら、私がサビの部分しか知らないあの曲は、これかもしれないと、Bugglesというそのグループ名をたよりに某手段を駆使してみたら、まさしく、"Video Killed the Radio Star"という、私がゲームでで覚えたあの曲を視聴することができたのである。
この曲は70年代末に出たものらしい。50年代のポップスを擬古して(そう思うだけ)、チープな雰囲気をことさらに強調したつくりで、いわゆるテクノのはしりといえるものだろう。この時代、私はまったくこの手の音楽を聞かなかった。60年代ロックは人並みに聞いたのに、その後出てきた連中にはまったく興味がなかった。最近やたらにはやっているクィーンなんか、全然聞いた事も無く、フレディ・マーキュリーをはじめて知ったのが、「魁!クロマティ高校」経由だったぐらいで。
私の同世代には、同じような軽音楽(こういうと違うような気もするが)に対する態度をとる人が多い。基本的にはジャズが趣向で、ロック系は60年代だけ、というやつである。いわゆる団塊の世代に対する定義は数多くあるが、世俗的音楽への趣向という面からも特徴付けることができるかもしれない。それがちょっと下の世代から、余計に疎まれる原因のひとつなのかもしれない。
ジョン・レノンが70年代末に、「なんてつまらない10年だったんだろう」という意味のことを言ったのは有名な話だが、その気分はやはりよくわかるのである。ついでに言えば、80年も、90年も、もっとつまらなくなってきて、2000年代に至ればスカみたいなもんだとも思っているわけで。
それは、ジジイが最近の若い連中はなっていないというのと同じだよ、といわれるかもしれないが、それだけではないと思うんだけどねぇ。それこそ、本格的ジジィになりつつある証拠なのかも知れないが。
何であれ、"Video Killed the Radio Star"のサビ部分はすばらしい。惜しむらくは、その部分しかすばらしいところがない、という欠点があるけれど。
基本的には政治的な問題には口をはさまないというスタンスなのだけれど、この問題が何らかの形で決着というか、展開を見せた時になって、知った風なことを言う誘惑に駆られそうな気がするので、ここで一応の姿勢というか、トホホな意見しか持っていないのだということを自己暴露しておいたほうがいいように思う。
まず前提として、私は今のような形で自衛隊がイラクへいったのは間違いだと思っている。あんな腰が入らない、形ばかりの軍事行動をして米国のご機嫌を何で取らねばならないのかという定型的な類「反米」的態度もあるし、それ以上にイラク復興ということについて、何の役にもたたないと思うからだ。
そのくせ政府は中途半端な姿勢を合理化し、、軍事行動ではないのだ、復興人道支援なのだのおためごかしである。軍隊を派遣するのだから、こうなればアラブの反米勢力とは対決するしかない、一連托生なのだから甘っちょろいこと考えずに、いかれたイスラム原理主義者一掃のために一億火の玉の精神で事に当たれ、とでもいうならまだ支持してもいいと思える。
イラクを本気で復興させたいのなら、巨額の経済援助をすればいいではないか。それも妙なヒモ付き援助ではなく、純然たる「喜捨」として。イスラムの教えにもかなうのではないか。ドルを買い支える資金程度をそのまま民衆に配れば、思わぬところで円経済圏が拡大し、内需刺激に準じた効果が出るのではないか。金が足らぬなら、古米、古古米を配ってもいいではないか。食糧庁の倉庫カラにしてもっていけば?ちょっとセコイが、一石二鳥だ。
そういう援助が犯罪組織やテロ集団にわたらぬように、充分なガードが必要になるだろうが、その時こそ武装介入の名目も立つというものである。それをほとんど何の役にもたたない形で軍隊を送り、隊員はというと風呂に入ってリラックス、子供とTV電話して涙ぐんでみたりの情けなさで、イラクの民衆からはさっぱり感謝もされないというのでは、何のことやらわからんではないか。
ただ、今回の拉致を理由にした撤退というのはやはりナシであろう。それでは、派兵自体の無意味さが覆い隠される。正しい事をしているが、人質の命を救うためには仕方ないというようなヘナチョコにヘナチョコを重ねる論理をつかえば、なんぼなんでも日本という国は末代まで馬鹿にされまくる。別にそれだってかまわんのだが、やはりそこまで腰砕けになるなら、もう税金の残りを国民に均等分割して国家解散した方がましだ。赤字だったっけ。
人質救出の秘密交渉(やられているとして)の範囲で身代金とか最終的撤退が提案されることがあっても、人質と交換に即時撤退ということは現実に無理だし、やるべきでないと思う。人質見殺しという意見かといわれたら、そう取られても仕方がないということになるが、拉致した側にしても、単なる殺し屋集団ではなく、それなりに政治的効用を考えているはずだから、かえって自分たちの孤立につながるかもしれない行動を軽々しく取るとは思いにくい。まあ、ゲームのさい一番始末が悪いのが、最適化行動を選べないアホタレが相手の場合なので、これがそのケースである可能性もあるけれど。
また、拉致された人たちが単なる民間人や政府関係者ではなく、イラク民衆のために直接行動をおこそうという立場(それに近い人も含む)の人であったということは、日本に拡がっていた漠然とした反米親アラブ感情を、反テロリストに一本化する可能性も高い。政府がそれを見越して、強硬な見殺し策を取るかもしれないという予想もある。拉致された人々が少々危機感に欠けていたのは事実ながら、それは政府が人道支援なのだ、軍事行動ではないのだと、いい加減な取り繕いしていたのと相似形である。
なんであれ、現実の社会問題にかんして、まるっきり厨房まるだしの意見しか持てないのが悲しいのだが、プロである連中までもが同列のようにみえるのはもっと悲しい。場当たり危機対応が招く結果に、一時の感情論でねじ伏せられてしまうようなことにはなりたくないので、あえて間抜けな意見を書き連ねてみた。
昨年6月に発売されたフォードの小型ハッチバックセダン、"Ka"の高性能版、"SportsKa"の英国版宣伝ビデオクリップが話題になっているそうな。宣伝代理店によってつくられ、実際に英国フォード公認ウェブからダウンロードができていたヴァージョンはこれ(ファイルサイズ約1Mバイト:Windows Media Playerか、それ相当のmp2ファイルを閲覧できるアプリが必要)。
道路にとめてあるSportsKaに向かってハトが飛んでいくと、急にボンネットが開いてハトが叩き落とされるというもの。うーん、ちょっと悪趣味ぎりぎりかな、なにせイギリスだものな、という印象。
ところが、このビデオクリップをつくった制作チームは、悪趣味度をさらにパワーアップしたヴァージョンをつくっていた。これは実際には採用されなかったが、最近になって、それがあちこちのウェブサイトで公開されたのである。
このヴァージョンは、家の前に止められているフォードKaの周りを茶トラ猫が歩いているシーンではじまる。車のサンルーフがひとりでに開き、中をのぞきこむ猫の首が急に閉まったサンルーフにはさまれ、切り落とされるというもの。最後にでるコピー、「Kaの邪悪な双子」というのはハト版と同じ。
コンピュータによる作画のようで、血がでるわけでもなく、かなりコミカルな味付けがしてあるものの、相当のグロではあるので、ご覧になりたい方は、充分覚悟の上でダウンロードしていただきたい。(ファイルサイズ約1Mバイト:ファイル型式はハト版と同じ)
英国フォード社は、このビデオクリップの由来を説明するとともに、、それが不採用になったにもかかわらずネットに流出した経由を徹底的に調べるという声明を出しているが、案外、噂が噂を呼ぶという「ウイルス様」宣伝効果をねらった、計画的確信犯ではないかという観測も渦巻いているようだ。
確かに話題は呼ぶだろうが、これで売れるようになるかねぇ。
体調不良のせいか、妙にストーリー性のある夢をみた。
アルカイダ関連のテロリストが日本国中に展開してしまい、米軍は日本政府は頼りにならぬと、あちこちに基地出張所をつくり、軍事行動を展開することになる。私は嘱託の臨時戦闘員に任命され、とある山村に派遣されるのである。
どうも、以前米軍配布の無料ゲームをダウンロードして、そこそこステージが進んでいる連中を選んだようだ。指定された出張所は、"USARMY"と書かれたでかい看板がかかっているだけの、古めかしい藁葺き屋根の農家である。着任報告なんてどうやるのだろうと思いつつ中をのぞくと、一応軍服は着ているが、頭には農協の帽子をかぶった、田舎のおっちゃんがいるだけである。
「こらようきやはった。まあ、お茶でものみなはれ」といって、秘書をよぶ。秘書というのがあき竹城みたいなオバハンで、こいつが妙になまめかしい目つきで、私に体を変に押し付けたりしながらお茶を出すのである。
「後家さんですよってに、期待してますのやろ」と上官は耳元でささやく。「ゆっくりしてもらいたいとこやけど、役場の裏山にどうもテロリストがおる様子なんですわ。いま消防団が山狩りしとりますさかいに、追われてでてきたとこをズドンとお願いしますわ」。
役場の屋上に陣取り、M82狙撃銃を構えていると、カモ柄軍服に目だし帽という、明らかにゲームのキャラそのままのテロリストが二人ほど山から狩り出されてきて、カラシニコフ乱射のかいもなく、私に撃ち倒されてしまうのであった。
そのあと村の体育館のようなところで"WELCOME USARMY"の垂れ幕のもと、大宴会になり、人々は口々に私をねぎらうのである。「米軍はんのおかげでこの村にもやっと元気が出てきましたわ、月に一回はこのイベントですさかいにな、若いもんも帰ってきてほんまに万々歳や」と。
そして急に声をひそめてこうもいう。「ほんまはいうたらあかんのやけど、一番えらいのはアルカイダはんやね。あの人らがきてくれはるからわしらがうるおうわけで。亡くならはったテロリストはんらは、村の神社で守り神になってもらいますんや。有難いこっちゃ、ナンマンダブ、ナンマンダブ」。
村人皆が念仏を唱えはじめるのを見つつ、ここまで不謹慎な夢を見るものかねと、いささか自分にあきれながら目覚めるのであった。
パートで行っているほうの職場にオーダリングシステムが部分的に導入され、労働強化が著しい。いままでブラブラしていただけみたいなものなので、その程度のことには付き合うのが筋とは思うものの、とりたてて何のメリットもなく、ただ診療時の手間が増えるだけというシステムはやはりかなわない。
これが電子カルテシステムにでもなっていれば、まだメリットはある。すべて院内ネットに情報が集約されるし、昔のデータも(ちゃんとコンバートされていればだが)参照しやすく、へたくそな文字で悩まされることも、悩ますこともない。でも、電子カルテではなく、オーダリングなんだよね。こんな中途半端なものを売りつける会社の気持ちがわからんし、それを導入する側のほうはもっとわからない。
今までは医者がカルテに診療内容を書いて、それから医事課職員が請求額を拾う作業をしていた。もちろん、処方箋、検査伝票でほとんどのものは明示されているので、一部の処置とか指導料、私の場合なら「精神療法」といったものを拾うだけである。それがオーダリングシステムになると、医師はカルテを書き、オーダリングシステムに処方内容や処置内容の二度書きをしないといけない。医師が医事課の作業を診療中にやるわけだ。
もちろん、二度書きをなるべくしないでもいいように、オーダリングに打ち込んだ処方内容がシールになって打ち出されるというような工夫はあるのだが、いままで走り書きすればすんでいたものがいちいち不自由な入力方法を強いられるので、時間がかかって仕方ないし、しかもこれがいくら慣れても速くならない仕組みなのだ。
というのは、こういうシステムは基本的にPCに慣れていない人が使うことを想定しているので、マウス操作の要素が大きく、そのくせキーボード操作へと流れる部分とのつなぎがイマイチぎこちない。こんなもの、ショートカットで操作できるだろうと思う部分があっても、まず用意されていないのだ。いくらPC不案内な人でも毎日使わざるを得ないのだから、いつかは慣れるのに、そういう学習効果をほとんど考えていない。入力スピードに限界が設定されているわけだ。
これはたまたま導入されたシステムがタコなだけだろうと言われるかもしれないが(確かにその要素は多いのだが)、私自身メインの職場では電子カルテ導入の責任者をしていて、各社のデモに付き合った経験からいえば、ほとんどの製品がそうなのである。ごちゃごちゃメニュー選択が出るのではなく、普通にテキスト入力の雰囲気でつかえ、必要に応じて補助メニューが呼び出されるようなつくりが望ましいのだが、そういうものはまずない。Movable Typeを見習えといいたくなる。
今回、オーダリングシステムをまず導入し、電子カルテシステムに持っていこうというのがここの病院の狙いらしいが、それでは同じ会社のシステムしか導入できないので、はじめから選択を狭めてしまっているのも戦略としてはまずい。オーダリングは医事課作業の合理化という意味しかなく、どうせ余っ程慣れてこないと実際の省力化は無理なのだから、医者に苦労させるつもりなら、電子カルテの方を優先したほうがメリットはある。
もちろん、電子カルテ機能だけあってオーダリングの機能がないようなシステムは実際にはないので、同時導入ということになるのだが、点数拾いの作業はあとで事務がやるという運用もあるわけで、入力作業のボトルネックを出来るだけ少なくして、差し当たっての流れを維持するというのが一番スムーズな導入方法であると思う。導入資金のことは考えていないが。
件の職場も、システム屋さんのバイト大動員で入力ヘルプして、医事課員フル稼働で穴にそなえる体制で、いつもの流れより2割のろいというところに、運用後数日で収まってきているらしいので、まあ目出度い船出ということではあろう。半年もすれば皆慣れて、紙運用とほとんど同じ人手と時間でこなせるようになるだろう。何のために導入したのか、ということはまた別の話。
ヒマな時にアクセスログをみて、リファラーをたどったりすることがあるのだが、そこで結構同じような紹介のされ方というか、感想を記してあるのに気付くことがある。いわく、「膨大なテキスト量」というのである。「こんな事をしている時間があるのが不思議」というのがそれに続く。
まあ、5年も同じようなことやっているので、たまったテキストが多くなるのは仕方ないのだが、実際にこのよしな作業に1日でどのぐらいの時間をかけているかというと、文章を書くことだけに限れば、大体30分ぐらいのものだ。
もちろん、ネットは1日中使っていて、外来中だってPCと首っ引きである。だって、珍しい病気の分類とか、薬の名前や用法を忘れることはしょっちゅうで、そういうものを確認するにはネットほど便利なものはない。自分ではよく知っているつもりの疾患でも、常に最新の知識を維持しつづけるというのはなかなか難しいことで、現場にいてそれを確認するのは、ミスやひとりよがりを防ぐのに実に有効だ。
もちろん、はじめからグーグル相手に、たとえば「うつ病 治療法」なんて調べていたらいくら時間があっても足らないので(患者さんにはどっと引かれてしまうだろうし)、適切な参照サイトのURLがいつも出てくるように、院内では自分のブックマークがどのPCからでも見られるようにしてある。
こういう業務用サイトだけでも、結構、へぇーと思うような発見はあるもので、暇つぶしサイトからの雑学とか、ネタになるかもという思いつきについて、昼休みにでもちょっと検索を重ねると、まあ、なんとか記事の一つ程度にはまとまるものなのであるし、自分のやっていることを別の視点から見ることは、逆に仕事自体の反省や豊富化にも役立つのである。
昔は、紙文献を相手に似たような作業で、論文モドキのでっち上げしていたわけで、その頃からすればむしろ圧倒的に省エネというか、片手間作業であって、そこには苦労とか努力がまったくない。などといいつつも、いざ文章にまとめようとしたら、先ほどのしゃれた思いつきと思えたものが、まるで使い物にならないことに気付くのはしばしばである。
というわけで、それなりの苦心をすることもないではない。まして体調が悪い時など、関心が外部に向かわず、こういうメタ記述を連発してしのがざるを得ない。誰も本気で読んじゃいないよというのは判っているのだが、一度でも正当な理由なしに例外を作れば、それがずっと続くのは間違いないのだ。まあ、そんなことをやっているもので、メールや掲示板でのレスポンスも悪いのだと、多少の言い訳をしておこう。
花見がわりにもなるかと、地元チームのサッカー試合の観戦にお出かけ。しかし昨日までのポカポカ陽気はどこへやら、冷たい小雨が朝からぱらつく最悪の天気である。行いが悪いせいなのか、今までサッカーを見に行く日には必ず雨が降る。
気温もやたらに低いので、エベレスト登山のような格好して出かけたのだが、それでも寒くて寒くて、試合中は悪寒戦慄に耐えるばかりでありました。おまけにチームは逆転負けで、意気上がらず家に帰りついたら疲労困憊でそのまま寝込んでしまった。今やっと起きだしたものの、とてもネタを考える余裕はありまへん。あ、不整脈まで起こってきたので、はよ薬飲んで寝よ。
福井県立大学で「宇宙空間プラズマ物理学」(なんやそれ)を研究しておられる若手教官、中村匡さんの「極端大仏率!」という日記(雑文?)サイトをずっと読ませてもらっている。大学教官の日記は面白くてためになるものが多いが、「極端大仏率!」はそのなかでも一番のお気に入りなのである。
その中で、3月末に書かれた「中村・大谷理論」が実に興味深い。私も何度かいい加減に触れたことのある、「子供のころのほうが、時間がたつのが遅かった」という体験についての記事である。俗流の心理学では、これは「人間は今まで生きてきた時間との対比で時間の経過を感ずる」と説明される。5歳の子供にとっての1年は人生の5分の1だが、50歳のオッサンにとっては50分の1でしかない。その時間経過が10分の1と感じられるのも当たり前だ、というのである。
そこを中村氏は、米国ジョンホプキンス大学の大谷晋一博士との共同研究の結果を踏まえ、物理学徒らしく定量的に検討しておられるのである。詳しくはそのページを読んでいただきたいが、要は「体感時間の増加分は実時間に反比例する」として、それを微分方程式に置き換え、解をえたものである。このままの規定だと、生まれた直後の体感時間は無限大に発散してしまうという問題もあり、多少の手直しもあるのだが、それで得られた解が示すのは、体感年齢は対数関数で増えていくということである。実に体験からも自明のことと納得できる結果であろう。
中村氏が作ってくれたCGIフォームで計算すると、私の体感時間での人生終了率は91%であった。あと30年ほどダラダラ生きたとしても、今までの体験時間の1割ほどをすごせば、この世界からは退散せざるを得ないのである。まあ、そんなものであろう。それ以上うっとうしく生き延びても、ろくなことは無いのは間違いない。
中村氏も指摘しているが、人間というのは基本的に物理量の知覚を対数関数的に行う。例えば音の強さはデシベルという単位を使うが、あれは音圧の比率を常用対数でしめしたものだ。10倍を1ベル=10デシベルというわけ。2倍ならlog2≒0.3で3dBとなる。これは掛け算を足し算でやれるという利便性もあるが、それ以上に人間の知覚が、そういうふうに対数的に出来ているわけである。10倍になって、やっと1目盛り上がるというように感じられるということだ。
さて、ここからが私の知見である。この対数関数的知覚がもっとも具体的に感じられるのは、「金銭感覚」であるというのが私の発見である。1万円で感じられるリッチさの倍を体験するためには、2万円ではダメなのである。10万円必要なのですな。50万の給料をもらっている人は、これが100万になったら、倍のリッチさが体験できるだろうと思うだろうが、それは甘い。3割ほどのリッチさを経験出来るだけだと思っておくべきである。
日本経済が高度成長を始めた頃、時の池田内閣は「所得倍増計画」というのを提唱した。しかし、本来のリッチさは、それでは獲得できないはずなのだ。池田首相は、国民に正しい認識を与えるためには、「リッチさ3割増計画」とそのプランを示すべきであった。ネットで調べた公務員の給料をインデックスにすると、あの頃からはちょうど10倍になったと言えるが、それがやっと実感2倍に当たるわけである。その意味では、池田勇人氏の所得倍増計画は、やっと平成の世になって達成されたと言うべきか。
私としてはもうひとつ、金銭感覚の部類ではあるものの、女性のゴージャスさに対しても同様の対数感覚が適用できると思っている。付き合っている女性のゴージャスさは、その女性を満足させる必要金銭の対数比によって定義できるというものだ。あなたが見栄をはって、女性のために数万円のディナーを用意し、50万ほどの指輪でもプレゼントしたとする。その彼女に倍するゴージャスさをもった女性にふさわしい対応をしたいと思えば、その倍ではダメなのだ。対数的倍、すなわち10倍が必要なのですな。
100万レベルの宝石なんぞで満足する女性は、しょせんチープ系なのである。叶姉妹やプリンセステンコーなんてのを引っ掛ける連中は、油田や島をプレゼントしているでしょう。仮にそれらが10億円だとして、100万円のプレゼントでなびいてくれる人と、彼女らのゴージャス差は30デシベルの違いということになる。この場合、ベルという単位は今ひとつふさわしくないので、ゴージャスとか、カノーとか、テンコーという単位を使えばいいと思うのだが、認めてもらえるかどうかは、専門家に任せたいと思う。ちなみに、私は10デシゴージャスというか、10デシカノーのネーちゃんに、一時困らされた事があったということを正直に認めておきます。
いささか遅ればせながら、先ごろ一審判決が下った「仙台筋弛緩剤事件」について触れたい。これについては、この事件の実情をあまり知らないまま、欧米でよく起こるこの手の事件とほとんど同一視して、いささか決め付け気味にヒンシュク文章を書いていたこともあり、何らかの意見を追加したいと思う。
あんまり真面目にニュースを追っていないのに、こんな事いうのも何なのだが、検察側はこの事件を単なる「サイコ野郎による愉快犯的行為」として立件したようである。「危機管理のゲームだった」という言葉が端的にそれをあらわしている。待遇や副院長の医療姿勢への不満というのもあげられていたようだが、それが関係ない人を殺してもよいとする理由につながるとはいえず、こいつは訳わからんことする奴なのだ、で済ましているように思えるのだ。
それに対して弁護側は、「事件そのものがなかった」と主張した。突発的急変は全部自然過程や、それにうまく対応できなかった医療ミスが原因だというもの。この主張は、必然性なき殺人という検察の立てた構図に対しては、それなりのインパクトをもつものだと思うが、ほとんど検討されなかったようだ。自白の任意性とか、薬物が検出されたとする鑑定の怪しさなどについては、裁判官というものは警察-検察の言うことを丸呑みしてしまい、あまり自分で考えることなどしないようだ。
正直言って、報道される被告人の態度にも不可思議なところが多い。かなり過酷な取調べがあったようだが、だからといって「やっていない」ことを「やった」と自白する必要はないのではないか。小林多喜二の時代ではあるまいし、違法な取調べに対抗する手段はいくらでもある。ましてかかっている嫌疑は殺人である。警官がどんな甘言を弄しようと、高圧的に出てこようと、ないことを認めてしまえば身の破滅なのである。
これは全くの想像なのだが、被告が患者たちを恣意的に殺傷する観念を持っていたのは事実なのではないかと思う。そう根拠は無いのだけれど、取調べ状況で記憶の再現なり捏造がいったんは成り立ったという経過が、そう判断する理由である。もちろん、実際にそれを実行に移すために超えなければいけない溝はかなり深いわけで、そこにはやはり説得力のある説明がいると思うが、検察の立証や判決の中にはそれは無い。
生殺与奪権の夢想で代償されている屈折した有能感覚というのは、実は結構この業界で目にするものなのである。もちろん、普通は「オレがいるからここの救急患者は死なずにすむ」というような方向で示されるもので、その気になればみんな原因不明で死なせることだって出来るなんて意識する人はいないのだが、基本的にはそれらは同じようなものだ。
医療現場の片隅にいる有能な職人という自己評価が、人の生死を支配できる万能感につながることはありえることで、時にはそれを本当に実行に移す人が出てくるのもまた事実(ここなど参照のこと)。ただ、実行に移すには、それなりの必然性をもったストーリー、もしくは別要因があるはずで、こいつがやったに違いないという決め付けを前提にして、状況証拠を積み重ねればよしとするのは、少なくとも私が考えるような人間理解の態度ではない。裁判とはそういうものなのかもしれないが。
パーキンソン病は、振戦と筋強剛を主徴とし、しだいに行動が緩徐となり無動に至る可能性のある疾患である。欧米での発症率は60代以上では1%といわれ、以前は日本の10倍といわれたが、最近ではわが国の発症率も急増している。
ブラウン大学医学部神経学教室のジョセフ・フリードマン教授は、パ-キンソン病の発症因子に、エイリアンによるアブダクション体験が関与しているという実証研究を報告している。フリードマン教授によれば、エイリアンによるアブダクション(誘拐)は、米国民の2%が体験しているとされるが、その体験者の多くが、後にパ-キンソン病を発症することが多いと統計的に証明されている。
アブダクションはしばしば全身の麻痺にはじまり、UFOへの牽引体験に続くのだが、フリードマン教授は、エイリアンによるこの操作は、脳幹黒質細胞への直接支配が何らかの形で行われており、それが非可逆的ダメージを残すのではないかと推論している。欧米と日本との間に存在する発症率の差も、アブダクション体験の比率差によって説明が出来るということだ。
フリードマン教授は、こうした「人為的操作」がパーキンソン病の発症危険因子であることが実証されれば、逆に発症予防や治療への大きな手がかりが得られたことになるとしている。また米政府に対して、エイリアンによるアブダクションの情報をもっと開示すべきであると強く要求しており、今後の動向が注目されている。
本当にロードアイランド医学雑誌2003年4月号に掲載された論文。実は内容がリンク切れでよめず、以上の中身は完全に想像ででっち上げたもの。