2004年5月31日  ハトが前後に首を振るわけ[ネタ]

一日前にふれた「ハトはなぜ首をふるのか」について書いてあった元新聞記事を、やっと見つけた。29日の毎日新聞「科学・いま&未来」というところにあった、「なぞなぞ科学」という囲み記事であった。ところが読み直してみると、一昨日に私が書いたような内容とは大きく違っていたのである。

ハトをトレッドミル上で歩かすと、首振りしないというところまでは同じであったのだが、その理由というのが「眼球運動の代替動作」ということ。要は鳥類は目を少ししか動かせないので、移動する物や景色を追えないため、かわりに頭を動かして相対的に視野を安定させているわけである。

人間が横に移動する電車をみるとき、目で進行方向に動きを追ってはさっともとに戻す「列車眼振」というのを起こすが、それと同じようなことを首の動きでやっているわけ。人間が列車眼振のかわりに、首の動きで同じことをやったら、ナポレオンズの首回転マジックになる。

というわけで、私が読んだつもりでいた「継続的視覚変化を逐時的に処理する能力はハトの脳にはない」などというのは全くのデタラメな脳内産物でありました。心ならずも誹謗することとなったハトの皆さんには、謹んでお詫び申し上げるしだいだ。

もっとも、鳥類の視覚認識が大雑把なのは事実で、基本的な雛形パターンのいくつかに合致する刺激を選択して再構成しているとはいえ、その要素分析と再構成の精度は、人間よりはだいぶ落ちる。その辺の中途半端な知識が書いてもいなかった内容を勝手にデッチあげてしまったのであろう。「視覚 円滑化 ハト」なんぞといくら検索しても出てこないはずだよ。

真面目なコメントを頂いた方々にも、謹んでお詫び申し上げます。でも、多くの鳥類は基本的にパラパラ漫画的世界に住んでいる、という直感は正しいような気がするなぁ。

2004年5月30日  締め切りクリア[日常・随想]

例の鑑定書2通を必死になって書きあげる。資料は全部揃えてあったので、実際にまとめるだけの作業だったのに、やはり締め切りを意識しないとやりとおせないというのが情けないところ。実際は、片一方のほうなど締め切りに遅れてしまっているのだし。せめて誠意を少しでも示そうと、書きあがった鑑定書を郵便局の休日窓口にもって行く。

その後、なんとなく中途半端になってしまったので、サイト記事の移動作業。MTをカテゴリー別に保存する設定にしておけばいいようなものだが、なんとなく惰性で手作業を続けている。なんでこんなスタイルにしたのか、自分でも忘れてしまっている。ちゃんと推敲して、完成度を高めようというようなつもりがあったはずなのだが、実際はほとんど手直しする事も無い。これではいかんなぁ。あ、そういえばちゃんと原稿の形にして、2度目の出版に持ち込む話もあったんだったっけ。こちらこそ締め切りが過ぎてしまっているけれど。

単純作業の連続のおかげか、なんか考えもまとまらなくなっているので、今日はさっさと寝ることに。

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2004年5月29日  ハトはなぜ首をふるのか[ネタ]

ハトなどの鳥類が歩くとき、前後に首を振るのはよく知られているが、あれにどんな意味があるのかという研究をしている人というのも、世の中にはいるらしい。確か今朝の新聞にその研究内容が書かれていたと思ったのに、今現在記事を見つけられないのが不思議で、ネット検索でも元研究を見つけられないのだった。

子供のころ科学雑誌などでは、ハトのあの首の動きは確か「人間が手を振るのと同じ」と書かれてあった覚えがあり、そんなものかなと納得していたのだけれど、今考えてみれば自分でも「なんば歩行」を意識して実行していたりするのに、鳥類だけ古典的な説明で済むわけもないのだった。

新聞記事の記憶だけでいうのだが、トレッドミルでハトを歩かせると、あの首の動きは見られないらしく、あれはもっぱら「視覚変化の処理」にかかわる動作だというのである。つまり、継続的視覚変化を逐時的に処理する能力はハトの脳にはないので、なるべく視野を変化させずに維持するために、あの首振り運動があると言うのである。

前進時には首をゆっくり後退させていって視野を維持し、それが出来なくなると、仕方なくぱっと前に動かすわけで、要は最近の3Dゲームをちょっと前のビデオボードでやっているような、カクカクとした動きで脳内処理しているわけである。もしかしたら、そういう視覚変化の連続性すら、ハト本人(?)には自覚されていないかもしれない。

外界を連続的映像として把握するということ自体、かなりの進化の結果として獲得されたものであり、それとは全く無関係に、ハトに見られるような地球上での位置を知覚する能力がある、ということを知らしめてくれるという点で、この研究は素晴らしい洞察を与えてくれるものだと思う。でも、その進化の恩恵をうけているはずの私なのに、それが一体どこに書かれてあったのか全く思いだせないというのが、かなり不思議だともいえる。

2004年5月28日  今日は何の日:水爆特許申請の日[今日は何の日]

第二次大戦中、米英によって進められていた原爆開発計画、いわゆるマンハッタン計画の中心的存在の一人であった物理学者、クラウス・フックスは、同僚の数学者、フォン・ノイマンとともに、58年前の今日、水素爆弾の特許を申請した。

「今日は何の日」というのはネタ切れの時に使いやすいので、あちこちのBLOG、日記サイトがよくとりあげる。この「水爆の特許申請」というのも、検索すると数ヶ所で取り上げられていて(ただし英語サイト)、どちらかというと、専門バカ科学者の傲慢みたいなニュアンスで扱われている。でも、ちょっと調べてみると、この特許申請には、大量破壊兵器の独占に走る米英に対する、クラウス・フックスの精一杯の抵抗があったようなのである。

クラウス・フックスは1911年、ドイツで生まれた。学業優秀な秀才であったが、彼の学生時代の最大の関心は政治に向いていた。彼はドイツ共産党のメンバーとして早くから活動し、1933年、ヒットラーが政権を握ると弾圧を逃れて英国に亡命する。彼の物理学者としての栄光は、この亡命以後に花開くのである。

1943年、彼は他の英国人物理学者と主に米国に赴き、原爆開発計画に従事する。彼の能力は同僚みなが認めるものであったようで、原爆の具体化に大きな貢献をしたようである。しかし同時に、彼はこの頃からソ連の秘密諜報員と接触しており、完成した長崎型原爆に関する文書をひそかに渡していた。戦争終了後、フックスは、マンハッタン計画の進行中に他の科学者たちがうすうす気づいていたことを完全に理解していた。すなわち、核融合を用いたより大規模な破壊兵器の可能性である。

1946年4月、ロスアラモスで開かれたこの超兵器に関する秘密会議に出席したフックスは、そこに提出された水素爆弾に関する基礎的資料を再検討し、その1か月後の5月28日、フォン・ノイマンと共に、水爆の創始者として特許申請するに至った。これがどのように扱われたのか、調べた限りではどうもはっきりしない。おそらく正式には受理されなかったのであろう。

彼は英国に戻り、再びソ連の諜報員と接触を再開し、核兵器機密を流しつづけた。そうして1949年には機密漏洩罪で逮捕され、14年の懲役をいい渡された。まだソ連は米英と建前上同盟国であった時代なので、反逆罪には問われず、死刑を免れたのだった。

フックスは9年で釈放され、英国を出て東ドイツで余生をおくり、1988年、77歳で一生をおえた。彼は共産主義者としての信念を貫いて、核機密を提供していた。彼にとっての「正義」の側が、この兵器を持っていないと世界の平和は保てないと信じたのであろう。かの「水爆特許申請」も、核兵器技術に対するイニシアティブを握れば、米英による水爆開発の独走を食い止められると思ったのかもしれない。

実際、その後の長い冷戦構造を作った張本人がフックスだと言えるわけだが、結果論からすれば、彼の行動がなければ、50年代、60年代の東西対立、また民族独立運動の過程で核兵器が使用されていたのは間違いないと思われる。そうなっていれば、もっとすっきりした世界になっていたよ、と言えるのかもしれないが。

そんなわけで、この「水爆特許申請」の背後には、かなりの政治的意図があったわけだ。多分私が、ネットで十数分調べて分かるようなこと以上の事情もあるに違いない。それでも何となく間抜けな印象をもつ出来事であるのも事実である。何より、もし特許が認められていたとしたら、その特許料はいったいどういう根拠で算定されるのだろう。敵国破壊により創出される利権や、核威嚇によって得られる経済援助のうち何%といった基準だろうか。そのあたり、考え出したら夜眠れなくなってしまいそうである。

(参考)クラウス・フックスの簡単な伝記はこちら
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2004年5月27日  チワワは犬にあらず??[ネタ]

以前も何度か引用したことのあるX51.orgの5月26日の記事に、「チワワは犬に非ず」という興味深い記事が出ていた。米国シアトルのフレッド・ハッチンソン癌研究センターの研究者が、この21日に出されたサイエンスに発表した論文をもとに、誇張した冗談ニュースで有名なWatley Reviewが面白おかしくでっち上げたものを和訳したものである。

ハッチンソン研究所の論文は、人間の疾患モデルに使う目的で、犬の遺伝子解析をした結果を報告したもので、犬という種の来歴を遺伝子から探るという趣向のものである。こちらになぜかPDFファイルの原文があるので参考にされたい。こちらはプレス発表だが、こちらのほうがもう少し簡潔かも。正直言って、これが犬を疾患モデルとしてつかうことと、何か関係のある内容なのかと、ちょっと頭をひねる物件だけれど。

Watley Reviewはその元論文が自己目的化して、あんまり関係ないところに着地したのを皮肉るつもりだったのか、これにとんでもない内容を付け加えた。主著者によれば、「今回特に大きな発見は、現在人気を集めているチワワ種が元々は齧歯類(げっしるい、ネズミ、リスなど)の一種であり、それが何世紀にも及んで犬のように育てられた結果、現在の姿になった」と主張しているというのである(訳文はX51.orgから)。

さらに続けて、「ラサアプソはチベットの雪ウサギ、ペキニーズは中国の水生ネズミ(ドブネズミなど)、シーズーはヤマイタチ、ヨークシャーテリアはハト」を起源にもっているともされる。もちろん、元論文にはそんな驚天動地の主張はなく、ごく普通に、古代からの4っの大まかな起源を主張しているに過ぎない。

主著者の名前をそのまま使っていたり、論文内容をそのまま引き写しているところもあって、何かの拍子にここのページにたどり着いた人にとってはかなりの混乱を引き起こすものだが、まあ冗談サイトだと知れ渡っているし、ほかの記事をみればそれは丸わかりなので、問題にもならないのであろう。日本だって、東京スポーツの一面記事をみて、あれはデマだと本気で怒る人も、あのまま信じる人もいない。

ところが、X51.orgの場合、結構な割合でそれを信じ込む人がいる様子だ。200近いコメントやトラックバックがあるが、3分の2ぐらいはそのまま素直に受け取っているようだ。否定する人も、妙に真面目になって「ありえない!」とする立場の人が多く、なんでこんなジョークにそんなに必死になるのだよといいたくなってくる。

もちろんX51.orgの管理人は確信犯なのだろうが、スタイルとしてまったく直接的批評や解説をいれず、ただ文体を面白おかしくすることでジョークをにおわせる手法をとっているものだから(多分)、信じ込む人にせよ、否定する人にせよ、妙に生真面目な反応をしてしまうのだろう。まあ、こんな呑気なことで渡り合うのも平和な証拠なので、すれっからしになるまで、議論するのも吉かとおもえる。

遺伝子レベルに刻印されているのか、もっと違うレベルなのかは知らないが、種を越えた形態の類似というのは確かにありますな。ある種の貝類と***の類似性とか、キノコと###の類似とか、あれには絶対なにか生命の本質に迫る意味があると、私は昔から信じているんですがねえ。誰か研究してないかしら。老後はそんなこと調べて暮らそうかな。

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2004年5月26日  着床前診断[医学・科学関連]

TVニュースで、人工授精させた受精卵の着床前診断を産科婦人科学会に無断で行ったとして、学会を除名された医師たちが学会を提訴したというのをやっていた。それを受けることを望む夫婦五組も訴訟に加わったのだという。(新聞報道はこちら

遺伝疾患を抱えつつ、自分たちの子供が欲しい人がこれを受けたい理由というのはわからないでもないのだが、受精卵が4個に分裂したところでそのうちの一つを丸々持ってきて検査に使う、というのは大丈夫なのかと素直に思うし、深刻な遺伝子疾患なら、かなりの確率で診断できるのは事実としても、100%ではないのも引っかかる。

実際、これが日常的に行われるようになったら、男女の生み分けに使われるようになるのはまず必定だ。一番簡単だし。多少根拠の怪しい遺伝子の問題点(ガンとか、アルツハイマーとか、精神疾患とか、肥満とか)にも拡張され、生まれる前に排除しようとする動きも出てくる可能性は高い。

今続々と発見されている遺伝子上の疾患親和性のほとんどが、全体的な生物機能との関連性の中で検証されているわけではない。例えば、アルツハイマーになりやすい遺伝子セットが、別の面ではかなり有用な働きをしていることだってありえるわけである。そういうものを、今わかっている知識だけに基づいて排除すると、これはかなりヤバい結果になりうる。

一部でいわれるような、富裕層だけが利用して遺伝子エリート階層を作るのではないかというようなSF風の不安に関しては、私はまずありえないと思う。遺伝子ごときの選別で、そんな前向きのメリットが得られるわけがない。はっきり知られている遺伝子疾患の回避が可能なだけだろう。メリットに付随するデメリットはまだまだ知られていないし、多分どんどん研究が進むにつれて、それらはかなり複雑に絡み合っていることがわかるはずである。

なんでそう思うのかといわれたら、そう根拠はない。例えば遺伝子異常の典型であるダウン症の人がしめすこの世ならぬ優しさとか(そうでないのもいるが)、精神疾患を持つ人に見られる、ある意味での有能さなどを見ていると、この平衡原理はかなり細かなところまで一貫しているのではないかと感じる、というのが根拠といえば根拠である。

そんなわけで、胡散臭いぞとは思う一方、重度の遺伝子疾患の回避のために、高い金をはらって人柱になりたい人がいるのなら、その人たちのための商売があってもいいのではないかなと思う。多分そんなに切れ味のいい結果も見せず、まずい結果も多々でてきて、訴訟やらの騒ぎがいくつかおこり、幻想も程ほどのところに落ち着いていくだろう。

それはさておき、TVニュースでこれをやっていてたとき、アナウンサーは「着床前診断」を何度も「ちゃくしょうまえしんだん」と読んでいたのだが、これが正式の呼び名なんだろうか。ほかは全部音読みで、「前」だけ訓読みというのがよくわからん。そういうものなのか、アナウンサーがケッタイな具合に読んだのか、字面でしか知らないので判断しようがありまへん。

2004年5月25日  成年後見用鑑定書[日常・随想]

成年後見制度適用のための鑑定書を二例同時に引き受けてしまい、まあ、締め切り前になればなんとか書けるだろうとタカをくくっていたら、その片一方は締め切り日がとっくに過ぎ、もう一つも今月末であるのに、今日になって気づいてしまう。

言い訳するわけではないが、昨年の10月に裁判所から電話で非公式に依頼を受け、正式な依頼書が届いたのは今月中ごろなのである。こののんびりペースなら、せめて一月ぐらいの余裕があるだろうと勝手に決めていたのがまずかった。

二例とも外来の患者さんで、しかも痴呆性疾患がらみで施設入所している人なので、くわしい情報を知っている人がいつもいっしょに来るとは限らない。鑑定書に要求されるのは現在の判断力と責任能力、そして今後の見通しなので、生活史やら家族構成が詳しくなくても、いいといえばいいのだが、「詳細不明」連発の公式文書というのも情けない。自分なりに事情を把握したうえでないと、本人を守るためという建前とはいえ、その法的権利にかなりの制限を加える根拠になる材料をだすのも気が引ける。

しかもその二例とも、成年後見制度をつかって、なんかメリットあるのかしら、と思うような例なのだ。疾患のために完全な判断力をうしなっているとはいえ、妙な浪費をしてしまうとか、怪しい連中に財産のっとられそうだとかの危険はありそうにもない。ただでさえ疎遠になっている家族が、この制度を使えば本人の死を待つまでもなく、さっさと縁を切れると誤解しているのではないかと思えるふしもある。

上のリンクは法務省による解説で、以前の「禁治産」制度との比較には力が入っているのだが、実際、この制度を適用された人がどのように具体的に保護されるかというのは、あんまりよく分からないのである。司法書士会によるこちらの説明をよむと、「自分たちが後見人になってあげるから大丈夫」という風にしか読めない。なんか、法務関係者のために小粒な新利権を開発しただけではないのかな、なんて思えてしまうのである。

まあ、そういう形で老人たちの貯めた金を流通にまわすのも、景気回復には必要なことなのかもしれない。何となくこの制度には穴があるようには思えるのだが、そこそこの鑑定料という形で分け前が入るとなると、問題点探すのにも腰が入らない。文句いわずに文書書くことにしようか。

さてさて、「出生地は不明であり、生下時、生育時についても詳細は不明である。学歴ははっきりしないが、20才になったころには働いていたらしい。結婚は20代後半とされるが、本人にはその記憶はなく、死別したものと思われる配偶者についての具体的情報もない」、うーん、この調子で続けると「公文書不実記載」に問われそう。

2004年5月24日  グータン[医学・科学関連]

殊能将之さんの日記で知ったのだけれど、今フジテレビ系で「グータン」という「精神分析バラエティ」なるものが放映されているのだそうだ。惜しいことに今までその番組を見たことがなく、殊能さんの短いコメントやら、ネットでわかる程度のことを前提にするだけなのだが、TV視聴者、というより大衆一般の専門的科学に対する幻想を実にうまくとりあげた、プロならではの企画といえると思う。

世の中で妙な事件がおこると、精神科医や心理カウンセラー(リアル社会で会った事が無いんだが、どこにいるんだろう)なる肩書きの人があらわれて、専門的見地から何か高遠な解説をくだすのは今までもよくあった。わかりにくい事件であるほど専門家が重用され、その内容はともかく、お墨付のある人が説明したということで、奇怪な出来事でも人々がなんとか受容していくきっかけになりえたわけである。

それがこの番組では、そういう構造を幾分かは受け継ぎつつ、さらに世俗化させて、タレントの性格とか対人行動原理のようなものを精神科医が読み取って解説するという内容になっているらしい。それをやるのがNという精神科医で、私よりは一回りほど下の世代に属する人のようだ。自分のクリニックを開業しつつ、大学で教え、マスコミ(芸能界といったほうがいいのか)にでて、漫画の原作までやってるらしい。クリニックの方、はやってないのかしら。自分の経験から言えば、非常勤講師の手当てとか、印税なんて知れてるよ。医業のほうが圧倒的にコストパフォーマンス高いんだけれど。

この番組の企画は確かにプロならではと思うのだが、やはりそれがよって立っているところは「幻想」でしかない、というのは業界人として指摘しておくべきであろう。精神医学は精神疾患を診断し、治療するための学問であって、普通レベル以上に社会適応している人について、あれこれ詮索をするための手段ではない。N氏がどれだけ見事にタレントの性格傾向を描き出そうと、それはN氏なりの人間批評めいたものであって、精神医学とは無関係なものだ。

簡単に言えば、職業的精神科医というのはビョーキの人だけを相手にするということだ。おもしろおかしく人の行動類型を説明するのには、正統的精神医学はそんなに役に立たないのである。古典的な精神分析理論などを持ち出せば、多少はそれに類したことが出来ないでもないだろうが、そんなのはもはや食傷だろう。ラカンでは何いってるかわからんし。

番組サイトから読み取るかぎりでは、N氏はビジネス心理学という形で世俗化した某人格理論に依拠しているらしい。あのへんはド素人威嚇という言う同じ狙いをもつものであっても、フロイトやユングみたいに、墓掘り人がやたらに競合していないので、まだ食傷するほどではない。結局最後は「自己実現」みたいな話になるので、説教臭くていかんが。うつ病の回復期とか、思春期の一時的ゆらぎみたいな例をケアしていく時の、雑談的ネタにはなるけれど。

かなりインチキがあるにせよ、精神科医がその職能とされるものを通じてタレントになるというのは、今までになかったパターンであるので、N氏には是非がんばってもらいたいものだ。勘違いのためであろうと、精神科医を目指す人が増えるかも知れず、業界発展につながる可能性もあるからである。その「芸」がさらに高められるよう、僭越ながら協力を惜しまぬ心積もりである。といって、番組みるのを忘れないようにするというだけですが。

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2004年5月23日  Movable Type Ver.3.0D[PC・MT]

結局、フリー版のMovable Type Ver.3.0も目立たぬように提供されていることがわかったので、早速手に入れてバージョンアップ。そうしたからといって別に何かいいことがあるわけでもないが、どうもこういうのはやっておかないと、取り残されたようでシャクなのである。

今度のバージョンアップでは、コメントスパム対策のため、コメントを入れるためにはTypeKeyに登録しておくことを求めるような設定ができるらしい。そういえば数回そんなスパム広告がコメントに入っていたような気もする。滅多にないようなことに、そんなめんどくさい設定変更なんかやってられないので、単にバージョン表示がかわるだけの改変である。

うーん、どうも"3.0D"のDがダサいなぁ。例の"December 0000"は同じだし。もっともあれはMySQLのほうにゴミが混じったせいらしいので、当面なんともやりようがない。リビルドのたびに削除するという手もあるが。日本語版の正式リリースを待って、ちゃんと金出したうえでサポート受けるしかないかも。もっとも、Telnetが使えないサーバーなので、どうやって修復するのか見当もつかんのだけど。

今まで"December 0000"が表示されていて、からかいコメントが入った後、それが消えているBLOGも見た事があるんだが、どうやって直したのかな。メールで聞いて見ればよかった。どこだったかもう覚えていないのだし。

それと、ものはついでという感じで、BLOGGERに「別館」をつくった。どうせそんなに書かないとは思うものの、サーバーがアウトのときなどの緊急避難に利用させてもらうことに。

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2004年5月22日  iPod[アートとかグッズなど]

この間のPCトラブルに付き合っていて感じたことは、もうちょっとリスク分散をする必要があるということ。もっぱらオーディオ機器として、添え物のように使っているMacに切り替えるのも一つの選択かと、シェアウエアなんかを導入してみたのだが、どうもうまくいかない。インストール段階で止まってしまうアプリケーションが一杯あるのだ。

頭にきて色々調べると、どうもOSXをインストールしたとき、ファイルシステムにUNIXを選択したのが原因らしい。なんとなく、そうしたほうがカッコいいような気がしただけで、全然根拠なんかなかったんだが、それではインストールさえ出来ないソフトがあるんですな。そんなの、選択の段階で警告してくれないとわからんぞ。

「あなたは知識もないくせにUNIXファイルシステムでフォーマットしようとしていますが、それでは多分かなりのアプリケーションがインストールすら出来ません。それでもフォーマットを続けますか?」というダイアローグ出してくれないと、ド素人は何もわからんではないか、と逆ギレである。

ファイルシステム変換ツールはないかと調べたが、どうにも見つからず、結局フォーマットからやり直しすることした。細かなアプリや設定が変わるのも腹が立つので、ちょっと考えて出した結論が、この機会にiPodを買って、バックアップに使おうというもの。ずっと買おうかどうか迷っていたので、いい機会のように感じたんですな。

というわけで、清水の舞台からヤマダ電気に飛び降り、iPodゲットである。久々に理解しがたいマニュアルを読み、バックアップを取るまでに約二時間。バージョンがかわって表示が違うのも無視したマニュアルで、そもそもiTuneを媒介にしないとダメというのが今ひとつ自明性を欠くところである。

それでも一応、OSXの再インストールも含めて、全作業が半日以内に出来たのは立派であった。そんなにアプリが入っていないからだけれど。もちろん本来のMP3プレイヤーとしてもなかなかの機能で、早く買っておけばよかったなと、少々後悔である。ちょっとした「気分」に同調できるなら、アップルの製品はとても使いやすいのだけれど、そこまで行くのに必要なのは、変にロイヤリティをもった商品ユーザとしてのスキルだというのが少々しゃく。

ジャンク掻き集めでそこそこ動けばいいわという、「ブリコラージュ」感覚には今ひとつそぐわないのがアップル製品の欠点である。開発者たちは当然、そういう精神に充ち溢れているんだろうけれど。何であれ、こんな小さなモノに数万円使うという事態の前には、なんか価値観の変換をした気にならんと、私みたいな小心者にはつらい。そういうわけで、OSX for PC/ATが発売されたら、たちまちジャンキーになってしまうのは間違いないので、関係者はそこんとこ、よろしくお願いします。

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2004年5月21日  「地域医療の使命」のお笑い[医学・科学関連]

けさの毎日新聞に、「地域医療の使命」なる署名記事が載っていた。大阪編集制作センターの千葉修平という記者が書いたものである。これは「京都府舞鶴市の市立舞鶴市民病院で内科医10人全員が3月末で一斉に辞職し、新任の副院長らも4月末に辞意を表明、病院機能の一部がまひする事態が続いている」ことによせて書かれたとのこと。そういう事態の原因は「『理念』と『経営』との対立だ」とこの記者は言う。

「さまざまな外来や入院患者に対応する『総合内科』を続けたかった現場医師らの医療理念。得意分野を限定して収益性の高い『専門内科』中心に転換しようとする病院の経営方針。この間の溝が大きくなった」からだというのだ。おかげで病院側は外来を制限し、内科入院患者をすべて転院させたらしい。これもみんな病院が、収益性ばかりを考えた結果だのこと。

おいおい、馬鹿なことをいうのもいい加減にしろよといいたい。どこの世の中で、田舎病院が変に専門化して経営効率があがるというのだ。実際の経営シミュレーションを大雑把にでもやってみるという程度の検証をする誠意など、この記者には全くないらしい。日ごろ、神話化したような理屈で病院叩きばっかりやっているから、理念と経営の対立なんて間抜けなことをいって平気でいられるのだろう。

医療経営において、何がいちばん大事かというと、それは理念を明確にし、それを人々に分かりやすく掲げることである。もちろん、その理念というのは利用者が求めるものに即応しつつ、それを半馬身ほどは超えたものである必要がある。単に「待たさず、すばやく、いうがままに治療してくれる」、というようなものだけではダメなのだ。ハッタリでもいいから、行く末を任せようと思うにたる信頼を得ることが必要である。

舞鶴のような規模の地方都市なら、辞めた内科医師たちが追求していた「総合内科」の方針はまことに現実的なものだと思う。やたらに専門細分化したって、こんな田舎でどれだけ適応例が集まるというのだ。いちばん効率のいい総合病院形態というのは「野戦病院」である、というのは医療業界では常識である。高度専門治療が必要な人は、どんどん後方専門病院にいってもらえばいいのである。

舞鶴市民病院のサイトをみれば、医師辞任の影響で混乱しているのか、もう一つサイト構造が良く分からないが、その設備をみれば別に無茶苦茶専門化したものがあるわけではない。病院当局が専門化を図るために、アホみたいな設備導入したとも思えない。あの程度なら、いわゆる総合内科をやるのにちょうどいいではないか。ライナック(放射線照射装置)はちょっと余計なようにも思うが、結構昔からありそうな物件にみえ、今回のことと関係あるとは思えない。

大体慢性赤字体質というが、大概の自治体病院というのはバブル期に無意味な拡張をやっていて、何より仕事をしない事務方が溢れかえっているのもよくみられ、なんぼ診療で実を上げようと黒字転換などできるわけがないところがほとんどである。病院当局が専門科造設でそれに対処しようとしていたのなら、昔のバブルの夢からまだ醒めていないということに他ならず、辞めた内科医たちの感覚の方がよっぽど正しかったように思う。

私に言わせれば、地の利に恵まれない田舎自治体病院の生き残る道は二つしかない。一つは事務方などの非収益部門の徹底的な人員整理で、経営効率化を図ること。医療收入よりも人件費がすでに上、という病院がゴロゴロあるというのは異常である。もう一つは、高齢化して既得利権にすがるだけの存在になっている、大方の開業医たちの生態圏を乗っ取ることである。特に今後老人の在宅ケアの必要性は格段に増えるので、そこに病院が入り込めないと厳しい。もっとも、手のかかる世話だけを引き受けて実をとる選択もありうる。やる気のある開業医たちは、それなりに個人専門商店化して頑張るだろう。

なんであれ、疾患に対して柔軟な対応を臨機応変にとることが大事で、総合的な視点を持つ医師が増えるのは、経営の観点からしても萬萬歳のはずなのだ。あ、それ専門でないからしらんというような医者が、バランスを欠いた一方的な医療を患者に強いるようなことを「高度医療」と称しているのでは、商売になどならないのはあたりまえなのである。

人員整理といっても、医療従事者はナンボ仕事しない人であっても存在するだけでも收入を生む。医者が多すぎてつぶれた病院というのは聞いたことがない。5人ぐらい入院患者をみていれば、自分の給料ぐらい稼げるのだから。その点、いくら事務方が張り切ろうとも、医師や看護婦さんがいないと医療收入にはならないのである。ただ舞鶴市民病院の場合、今年3月まで内科医が10人もいたとのことで、ちょっと医師配分に問題があったように感じないでもない。サテライト診療所つくるとか、工夫はあったのではないかねぇ。

まあ、詳しい事情を知っているわけでもないので、一般的なことしかいえないが、新聞記者のあまりにつまらない先入観というか、まるっきりものを考えていないクリシェだけの記事で間違った認識を得られることのないようにと長文を書いてみた。新聞記事にツッコミいれると、ちょっと前に身の程しらずの悪口かいた「極東ブログ」みたいな雰囲気になりますな。だいぶ格調はおちるものの。

2004年5月20日  パンク侍、斬られて候[本とか映画とかTVとか舞台とか]

毎日新聞の日曜日書評に、町田康の「パンク侍、斬られて候」(マガジンハウス)が激賞されていて、ついついアマゾンに注文してしまった。この人の文章は時々新聞や雑誌で読む事があるのだが、面白いなと思う一方、なんとなく買ってまで読む気はしないというのが本音だったのである。理由はなんとも言いようがないが、こんな風に気になるけれど、まず読まないという作家は誰しもいるものだろう。私の場合は橋本治とか、中島らもとか、この人であった。

それでも、本は火曜日の夕方に届き、読み出したらたちまちハマってしまって、一晩で読んでしまった。中里介山の「大菩薩峠」のパロディではじまり、半村良の「妖星伝」風の味付けやら、企業小説へのおちょくりみたいな雰囲気まであり、最後は永井豪風の全破壊で終わるという、まことに盛り沢山の趣向である。登場人物同士が延々とメタな会話をし続けるのも、単なるお笑いを超えている。

しかもそのほとんどの展開が、まったくその場限りの音韻連合と観念連合の進行に任せて行われているかに見える。一応「時代小説」なので、やたらに難しい熟語や言い回しも混ぜ込まれているのが芸が細かい。「猖獗」なんて言葉、ふつう使わんぞ。だからストーリーというのはあって無きがごときもので、お約束のように流れていくかと思えば、突然「浪人者が飯屋で、『おやじ!酒と飯だ!』といったとき、出てくるものは何か」というような非常に気になるトリビアに引っかかったりするのである。

一応大まかな進行は、掛十之進という超人的な剣の使い手である浪人が、「腹ふり党」という邪教の進入を防ぐといって黒和藩に詐欺的に取り入ろうという話である。隣藩でこの腹ふり党は一時猖獗を極め、危機的な状況をきたした事があるが、掛はこれをアドバイザーとして駆逐した経験があるというのだ。黒和藩には内藤帯刀というキャリア系家老と、体育会系人脈をバックにする大浦主膳という家老の対立があり、内藤はこの掛という詐欺男をつかって大浦を追い落とせると思いつく。

腹ふり党というのは、この世界は間違って作られたうえに、一匹の巨大な条虫に飲み込まれた偽りの世界であるという教義を持った教団である。リズミカルに腹をふるというようなアホらしい行為をこの条虫は嫌うので、一切の秩序を捨ててアホなことをしまくっていれば条虫が苦しがってこの世界から排泄されて、「御糞」という本来の存在になれるというのである。

内藤はすでに鎮圧された隣藩の腹ふり党の元幹部で、内通して司法取引で助命された茶山半郎を掛に命じて連れてこさせ、藩内でやらせの布教活動を行わせる。前もって大浦に腹ふり党対策への反対意見を表明させておき、危機の責任を問うという搦め手作戦である。これは見事に成功し、あわれ大浦は失脚、猿回しをやるための猿まわ奉行なるものに降格されてしまう。

ところが茶山によるやらせ布教は成功しすぎてしまい、黒和藩には近在近郷のアホとバカが集結して、腹ふりをしながら大破壊活動を展開しはじめる。それを鎮圧するために内藤たちは意外な援軍を得て大決戦に及ぶ……、というような話である。こうまとめるとまことに波乱万丈の大活劇のように思われるだろうが、話がそういう具合に進行するための細かな条件というのは全くご都合主義というか、適当なところで超能力者は出てくるし、主要登場人物が幼馴染だったり、なぜか言葉をしゃべる猿がでてくるし、まるっきり必然性などありはしないのである。

その違和感あふれる連続の不連続感を楽しむのが、この小説の醍醐味と言うことなんだろうな、というのが読後感。実に面白かったのだが、正直言って、「一度読めばもういいぞ」というのが冷静な判断である。同質以上の驚きを与えてくれて、しかも別趣向というのを、次々に考え出すというのは絶対無理ではないだろうか。今度この人の本を読むときは、ごく普通の小説を書いたとされる時であろうと思う。

また思わぬことではあったが、かなりはじけた文体だなと、結構興味を持って読んでいた個人サイトのいくつかが、結局この人の文体の真似をしていたのだというのに気づく。書いてあることは全然どうでもよかったが、文体が面白かったから読んでたのに。おかげで、暇つぶしに読みにいくところが少なくなってしまったのが残念。

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2004年5月19日  コメ支援[社会・歴史]

デマなのか単なる噂なのか、それとも情報リークで免疫をあらかじめ作っておこうという官邸の深慮遠謀なのか、コイズミさんが再訪朝する際に、あちらに約束したのが25万トンのコメ支援だという報道を見たような気がする。そもそもそれ自体が私の妄追想かもしれないけれど。

コイズミさんのいいところは、政策の破綻をつまらない屁理屈で言いくるめようとする歴代政権のマネをしないことで、現状がワヤであっても、「これでいいのだ」というバカボンのパパ的肯定的態度を崩さないところにある。ごまかしと責任逃れということでは同じことであるが、そもそも、責任っていったって、どうすりゃいいのよ、ねぇ。政治なんて行き当たりばったりなんだという正しい認識を拡めたという、すごい貢献をした人だと後世に評価されると信じているんだが。

そんなことはどうでもよく、ここで問題にしたいのは、25万トンのコメ支援というのは、実際にはどういう実体的な意味をかの国にもたらすのか、という点である。こちらのサイトを参考にすれば、2000年のわが国での1人当たりのコメ消費量は約65kgである。これは戦後最高であった(たぶん史上最高でもあろう)、1962年の約半分であり、戦前戦後の食糧事情が悪いときよりも消費量は低いのである。

ちなみに62年のコメからの1日当たり摂取カロリーを計算すると約1300Cal、2000年のそれは約700Calである。1日の必要カロリーを1800Calとすれば、現在はコメから40%弱をとっているだけなのである。その理由を簡単に言えば、コメ以外に食うものが山ほどあるわけで、総摂取カロリーは増えているのは当然。別に皆でダイエットに励んでるわけではない。

現在の北朝鮮の状況は、日本の62年当時よりももっともっと厳しいであろうが、そこは何とか最低限の副食などは自力確保していただくとして、コメだけで1日1000Calをとれば何とかなるだろう。そうすると大体国民1人当たり1年に100kgのコメを用意しなければならない。今回の報道にあった25万トンのコメというのは、そこから計算すると250万人が1年間飢え死にしないですむ食料援助ということになり、これはほぼ平壌市の人口に一致する。

逆に言えば、年間25万トン程度の支援をすれば、北朝鮮は自国の首都で餓死者が出るというような、国家の体面を保てなくなるような事態を回避できるのだ。日本のコメ生産量は年間1340万トンなんだそうで、先ほどの消費量からすると半分しか使っていないことになる。もちろん、工業用消費があるから、丸々半分残るという事はないだろうが、多少がんばれば北朝鮮全体の消費をまかなうぐらいのことは出来そうである。休耕田も多いことだし。

食い物のうらみというのはいつまでも残るもので、ここで太っ腹を示しておけば円滑な関係を築くのに重要な役割を果たすのは間違いない。わけのわからんヤミ送金を黙認して軍事装備されるより、コメをたっぷり贈ればいいのではないか。兵糧に使われるといっても、ミサイル揃えられるよりましでしょう。変に備蓄されないように、「サトウのごはん」みたいな、保管期限があるような形で贈れば効果的かも。当然、パッケージには「日本国民からのプレゼント」と派手に書いておく。ちょっと重くなり、輸送しにくいのが欠点だが。

ほんの一世代前まで、梅干と塩昆布ぐらいでバカ飯食って、結構効率的に繁栄を準備してきた我々なのである。隣国の人々に、今は苦しいだろうがこれ食って元気出してくれと支援をすることぐらい、そう無理でもないのだから、もったいぶることはないとおもいますがなぁ。

2004年5月18日  頻回[ネタ]

一昨日の日記で、「頻回」という言葉を不用意に使ってしまったのだが、これは本来特殊医療業界用語なので、普通の文脈では使わないようにしようと思っていたのだった。それを知ったのはちょっと前に来た医療関係の宣伝用MLで、業界系ウンチク紹介という囲み記事だったのだけれど、30年以上普通の漢語だと思って使っていた私には、ちょっと目からウロコであった。

実際、「頻回」の意味を普通の辞書、例えば手近にあった「広辞苑」「岩波国語辞典」で引いても載っていない。あちこちのオンライン辞書を引いてみると、三省堂のディリー国語辞典を使っているオンライン辞書ではダメ。ただ、gooのオンライン国語辞書は同じ三省堂の「大辞林」だそうで、そこでは意味が引ける(インフォシークでも同じ辞書を使っている)。しかし、その文例はやはり医療業界用例のようである。

Googleで「頻回」を検索すると、889件のページが表示されるが、数例の中国語ページを別にすれば、すべてが医療関係のページであった。一つだけ、「信号待ちでの消灯はやめよう!」というところが出てきて、「頻回な消灯・点灯はバルブの寿命を縮める」という車のヘッドランプの取り扱い説明書内容が説明されているのだが、このサイトもよく見れば、「交通安全と医学」という、病理医によってつくられたものであった。おそらく「何度もつけたり消したりすると……」という記述を、「頻回な消灯・点灯」という医療業界用語風に翻訳したのでは、と想像してしまう。

中国語サイトに出てくるぐらいだから、本来はちゃんとした漢語なのかもしれないが、「頻りに」という副詞がつくのだから、「回」は動詞であるべきであろう。あわせて「頻回に」と副詞として使うのは少々おかしいのである。Googleには戦前の医学博士論文にこの言葉が使われている例がでてくるので、かなり昔から医療業界用語として使われている言葉のようだ。

薬屋さんの宣伝MLで教えられるまで、これが普通の日本語ではないということに気づかなかった自分にも驚くのだが、そこまで昔から一部業界で使われていた言葉なのに、一般化しなかったというのも少々不思議である。やはり、閉鎖的な世間だった、ということなんでしょうね。

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2004年5月17日  サーバーダウン[PC・MT]

10時前ごろからサーバーがダウンしてしまう。その直前に下らんことを書き始めていたが、全てパー。もう一度思い出して書こうとおもっても、同じようなことはもう書けないのが不思議である。書けたとしてもどうせしょうもないことなんだけど。仕方なく別のことを書き始めたのはいいが、マウスの横っちょについているボタンを不用意に押してしまい、入力ページが切り替わってしまい、しかも回復できないのである。

この前買った新型のマウスには、こういう機能がついていたわけなんですな。ブラウザの「戻る」「進む」が手元でやれるわけだ。意識的に「進む」「戻る」をやったのなら、なかなか便利だといえるのかもしれないが、入力中によそ見していてサイトが切り替わり、何か変なキー動作をしたらもう回復不可能だということに、まさしくそういう現象が起こった後に気づいてしまった。MOVABLE TYPEには天敵のような機能なので、これはなんとか停止しないといけないが、ドライバを入れずに使っているので止めようがない。

どうせドライバソフトのCDなんか、どっかに行ってしまっているしなぁ。いざとなればダウンロードすればいいやという気でいるから、管理がまるっきり出来なくなっている。OS入れ替え騒ぎでも、必要なソフトに限って紛失していて、昔々のMacOS7.6なんてCDは捨てられずに置いてあったりするのだから、どうにもならん。

それにしても、何かし始めるとそれを阻害するような出来事が続けて起こるとか、必要なものだけみつからなくなるという現象があまり続くと、なんらかの外部的「悪意」というものをマジに想定するようになるのが、面白いというか不思議というか。

痴呆老人の「物盗られ妄想」というのはよく知られているが、ああいうのは人間に普遍的な原型思考なのかもしれんなぁ。単に「常識」に抑圧されているだけで。原型なんて言葉を使うと、ユング派みたいに思われてしまうのが不愉快だが、ああいう安易なとらえ方ではなく、もっと脳のハード面の機能に密着したものとして(例えばPCのBIOSみたいな機能として。安易かなぁ)、あの手の神話的思考を考え直すことが出来るかも知れんな、などと「と」系のヘタレ考察にふける真夜中なのであった。

2004年5月16日  Movable Type 3.0[PC・MT]

おそらく、Movable Typeを使ってサイト構築している人間が、首を長くして待ち望んでいたに違いないバージョンアップがようやく発表されたようだ。なんで待ち望むかというと、ブログ構築への自己言及がひとつのスタイルになっているMovable Type使いにとっては、少なくとも数日分のネタになるからである。

ホントはマイナーチェンジを頻回にやってくれたらいいのだが、それはちょっと虫がよすぎる。ただ、今度のバージョンアップで気になるのは、今までの「非商用利用は無料」という原則がどこかにいってしまっているように見えることで、これは発表されたのがデベロッパーバージョンであるからだと思いたいが、違ったらどうしよう。無料バージョンはきっちり機能限定される、なんてことであってもヤだな。

今までも寄付を募っていたので、40~50ドルというところを考えていたが、デベロッパーバージョンは初期セールでも69.95ドルという値段である。そうたいした額ではないとは思うが、タダだったものに金を取られるというのは、関西人感覚には実に厳しいものがある。それも、太っ腹のつもりで出そうと思っていた金額より上だというのがいかん。シックス・アパートの日本法人サイトには「個人利用は無料」と何度も強調してあるので、それを心の支えにしておきましょうかね。

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2004年5月15日  クリストファー・プリースト[本とか映画とかTVとか舞台とか]

どうも自分では読む規準を決められないミステリィ/SFなんだが、殊能将之さんのウェブで4月後半に紹介されていた、クリストファー・プリーストの文庫本「奇術師」(ハヤカワ文庫 FT)、「逆転世界」(創元SF文庫)が近所の本屋においてあったので、早速購入。患者があまり来ない当直の夜に、二冊とも読了。

なにせ少なくとも「奇術師」のほうは、あの殊能将之氏じきじきにお褒めの言葉が出ているのだから、面白いに決まっていると信じたのだ。それも、SFファンにもミステリィファンにもおすすめというようなことが書いてあったように思ったので、必死に読んだのだが正直言って今ひとつであった。

19世紀末から20世紀にかけて、「瞬間移動」ということをネタにした、ボーデンとエンジャという二人の奇術師の反目というか、抗争を軸にした物語なのだが、一部はある意味でのトリックにつながる、入れ子になった叙述構造になっている。ところが、その記述トリックがすでにバレバレで、これはわざとミスディレクションするためなんだろうな、と思っていたら別にそうでもないのだった。

同じに見える人物が、あるところから別のところに瞬間移動するといったら、合理的解決はひとつしかないありえないわけで、ボーデンという奇術師はその古典的な方法で名声を博しているのである。それに対して、反目するエンジャという奇術師は小説の上でしか成り立たない対抗ネタを使ってそれを圧倒し、それゆえに意外なカタスロフ(このあたり、どう言えばいいか微妙)が生じるというような話である。

殊能将之氏は、二人の奇術師の「謎」に対する態度を、SFとミステリィに対する微妙な好みの差に分類するわけだが、正直言ってどちらの好みからみても、そう興味を保てるモノではなかったように思う。あ、よく読めば「本格ミステリ読者もSF読者も、『奇術師』の語りにいらだつかもしれない。本格ミステリ読者はタネが明示されないことに、SF読者は文字どおりに受けとれないことに」と、ちゃんと書いてあるわ。「だからこそ、どちらの読者にとっても読む価値はある小説」だというレトリックだったんだ。

私としては、叙述トリックレベルがミエミエのボーデンのほうの記述にどんでん返しがあるのか、と思って読み続けたので、エンジャのほうの非合理系パートに物語的オチが置かれたのが意外という印象だった。はじめから非合理なんだから、「オチ」の質を期待するほうが無理ということか。「向こうの囲いにUFOが着陸したね」「そうだよ。危険だから近づかないで」「ハイわかりました」、ってな感じか。

純然SFである「逆転世界」のほうは全く語るべきことはない。「奇術師」のエンジャのパートだけが分離したようなもので、SF系屁理屈を展開しているのかと思えば、オチの部分でえらくツマラン事実が解明されるという構造を持つだけの物語である。ハード面の屁理屈展開も今ひとつでありました。表面的合理性がすっきりしていないと、こういうのは面白くないんですよね。

いまどき、こういう話に感心する人がいるんですかな。オチのあとでも矛盾として残る細かな点について、主人公の怒りに満ちたツッコッミ咆哮で済ませるという処理法に関しては納得したのだけれど。「なんでやねん!!」といっておけば、どんな破綻があっても回収しえるということですな。

たしか、社会学系のSFってのがはやった時代があるように思うのだが、こういうのを踏まえてそういうのは生まれたんだろうなという印象。現実は、差し当たっての生存のためと信じることについて、人はアホなことでもやり続けるということは証明済みで、この話なんて案外教訓的ではあるのだけれど。ただし、正しいからといって、面白いわけではないわけで。

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2004年5月14日  "Kick Your Ass"[都市伝説・デマ・トンデモ]

kick_ass_s.jpg昨年9月、カリフォルニア州のウェブ報道機関KGET.comに、画像が添付されたメールがとどいた。カーン郡の保安官パトカーを写したものだった。その側面に貼られたステッカーには、"We'll Kick Your Ass"と書かれてあった。「ケツを蹴っ飛ばしてやるぞ」という慣用罵り言葉を使って、「犯罪を徹底的に制圧する」というような、勇猛果敢な姿勢をあらわそうとしたのかなと受け取れる。まあ、えらく下品ではあるが。

バンパーステッカーにやたらに凝るアメリカ人のこと、パトカーにこの程度の文句が書いてあってもそれほど問題にならない国民性らしく、KGET.comは保安官事務所の取材はしたが、記事にはしなかった。

そのとき取材を受けた保安官は、自分はこれに関係しておらず、すぐに責任者を見つけ出して是正させるというような受け答えをしたらしい。先週になって、KGET.comがもう一度確かめたところ、あのステッカーをはった車両責任者の巡査長は、誰から命じられたか忘れたが、保安官でなかったのは確かだ、と答えているとの返事だった。

今週火曜日になって副保安官からメールがあり、それを命じたのはパトロール隊長(commander となっているが、前後文脈からすればこの辺の中間管理職みたい)だと、件の巡査長が思い出したという。そこで翌日この隊長に取材すると、自分が命じたのでないという返事。「ボス(つまり保安官)が、こいつがいいねといったから、そうしただけだよ。保安官は自分の言葉の重みをわかってないみたいだ」。

ご存知のように向こうの保安官というのは選挙で決まり、部下といっても基本的にライバルなので、「悪いのはあいつだ」になるわけですな。記事の論調も、"Kick Your Ass"を問題にするというより、責任転嫁をもっぱら非難している。仲間内でうやむやにしようと、責任者のせいにしようと、責任逃れの隠蔽体質というのはどこの国の公務員も同じだというのが、むしろホッとするような気分である。

なお、上の写真をクリックして現れるパトカーの画像は、もともとの画像にフォトショップでさらに改ざんがなされたものなので御注意を。"And take your doughnuts too!" (おまえのドーナッツも食っちゃうぞ!)はさすがに書かれていない。本物はこちら

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2004年5月13日  PCその後[PC・MT]

真夜中までかかってWinXPをインストールし、アップデートを済ませたのはいいが、ふと見ると起動HDDのドライブレターがC:からD:に変わってしまっている。気色が悪いので、レジストリをいじって直したら、また起動しなくなった。途中までは進むが、「認証情報と食い違う」の何のというインネンダイアローグが出て、どうにも先にいかない。

ここで完全に頭にきて、WinXPにはもうたのまぬと、元のWin2000に戻して再インストール。けったいな認証も求められないし、機能だって殆どかわらず、むしろよっぽど軽くて速いし、いいことだらけなのである。修復機能といったって、起動しないようなトラブルでは役にたたんのだし、小手先のせこいオカズ機能は殆どフリーソフトで代用でき、しかもその方がよっぽど便利だったりする。

そんなわけで、何のための1万4千円あまりであったのかと、いまさらのように自らの無意味な新らし物好きの遺伝子をのろうのであった。あ、今度はOfficeがうまく動かない。中途半端に前のファイルが残っているせいかなぁ。一度徹底的にアンインストールしないといけないのだろうか。この際、OpenOfficeにでも切り替えようか。

またまた全然関係ない話なのだが、かのイカンザキさんたちも国民年金を払っていなかった件で、公明党は内部的処分をすることで対処するという報道があった。その処分というのが「譴責」だというのだが、これ誰がそれをやるんだろう。やはり、かの名誉会長サマじきじきにお叱りの声をいただくんだろうか。

2004年5月12日  PCトラブル[PC・MT]

メインに使っているPCが、ウィンドウズアップデートをした直後からご機嫌を損ねてしまう。その直前に、よく分かってもいないのに、レジストリィいじくったりしたのと重なってしまったからなのかなぁ。何とかの何とかというファイルがないという表示が出て、まずそれをメモでもしておけばいいのに、修復作業なんかやりだすものだから、話はますますややこしくなる。

WinXPには修復機能がついているはずなので、ちょっと前の状態に戻すはずだけでいいとおもっていたら、Disk Errorが連続するようになり、先に進まないのでレストアもクソもない。そのくせCDで起動して回復コンソールをつかえば、ちゃんと中身は見えるのだ。

けったいなコマンド作業をいろいろやってみたが、結局起動しないため、修復インストールということになってしまい、このままの調子だと一晩つきあわされそうである。XPはヤンペにして、WIN2000にもどすべきであったなと、作業開始後に思いつくがもう遅い。インストールがすんでも、もう何度も修復ばっかりしているので、最後の認証を電話でやらねばならんようになっているんですわ。商品経済の原則からみれば、なんぼなんでもXP以降の認証システムというのはやりすぎだとおもうな。

全然関係ない話だが、世の中には陰謀論者という人々がいて、どんな事件も「それで誰が得をしたか」という視点から見ることを勧めるのだが、今回のイラク抵抗勢力によるアメリカ民間人殺害は、明らかに捕虜虐待で窮地に陥った米国には助けになっているわけで、あれはアメリカの謀略だということになってしまうのではないだろうか。ついでに言えば、捕虜収容所での虐待問題も、イラクの反アメリカ感情に一気に火を注いだわけで、あれはイラク抵抗勢力の謀略、ということになるんでしょうかな。なんかきりがないような。最後は「ユダヤの陰謀」に帰着させればいいのか。つまり最後に一番得をする、ユダヤ陰謀論者の陰謀だということですな。

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2004年5月11日  パート先変更[日常・随想]

いまパートで週二日、半日だけ行っている職場を変えることにした。思い起こせば10数年前、関西地方でのんべんだらりと暮らしていた私が関東地方に出てきたのが、今の病院を立ち上げる手伝いをするためだったわけで、感慨もひとしおである。

非系列の地方中規模病院で、大学などの全面的なバックアップがあるわけではないので、たとえパートであれ細々と続けていた精神科系医療が途絶えることになり、患者さんたちには多大の迷惑をかけてしまうのがなかなか辞められない理由であったのだが、今とそう遠くない場所にある病院から誘いを受けたため、思い切って移る決心をした。

まあそれでも、お年寄りなんかは簡単に通院先を変えられないだろうし、一部には多大な不具合が出るのはさけられない。私の場合、出来る限り個別的持ち味に頼らない医療というのを意識しているのだが、やっぱり主治医があっさり転勤するというのは、被治療者には見捨てられ体験になってしまうのは否めない。若い頃、基本的な距離を置く訓練が出来てなかったためか、転勤後に患者さんに自殺されるという体験がそう多くないにせよある。本当に自分が転勤したためなのかどうかは、確かめようがないけれど。

一般的にいって、被治療者から過剰な信頼を得るというのは、そう難しいことではなく、また正しいことでもない。フロイトがいった意味とはちょっと違うけれど、「隠れ身の原則」は適切な距離という意味で、何より大事だ。患者と治療者はあくまでゲーム参加者なのであって(対戦者ではないので注意)、友人関係でもなければ、師弟関係でもない。この辺をちゃんとしておかないと、患者さんによくないというより、何よりも治療者のほうが参ってしまうことになる。

何度もいっていることだが、私は境界例人格障害と呼ばれる人を診た事が無い。もちろん、そう呼ばれるような行動パターンを、ほかの治療者の前で繰り広げている例ならいくらでも見る。大概の場合、治療関係の中にある支配関係に無自覚な治療者と、親密性を容易に得られる何らかの魅力とか能力を持っていることを自覚していて、それを武器に最大限の対抗支配を試みる被治療者との抗争として理解できるものだ。治療者との対戦ゲームにしてしまうわけ。それが絶望的な試みであるだけに、そのやり口は自爆テロ的なものになりがちで、あらかたの凡庸な治療者は、BPDという呪いの刻印を相手の額に刻むことしか出来ないのである。

私は自分の凡庸性をよくよく自覚しているので、そのような修羅場を取りまとめる自信などまったくなく、治療ゲームにおける自己決定の原則を相手に守ってもらうことを提案するだけだ。これと似た態度には、きわめて狭い受け入れ原則を守り、それが受け入れられないなら知らんといって突き放すというのがあるが、これでは商売が成り立たないのが欠点。ツマランところにリキいれなくても、いつでも大歓迎なんだよという信号を発しておくことは、世のサービス業の基本であるわけで。

なんていいつつ、ついつい受け入れてしまう細かな無原則が降り積もって高エントロピー状態になってしまったので、ここらで河岸かえにゃやってられないぞ、といういうのがこの転勤衝動の正直なところかもしれない。といって、今診ている患者さんの八割は今度の病院に移ってくれるのだそうで、完全にリセットがかかるわけでもないのだけれど。

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2004年5月10日  MRIで双極性障害治療?[医学・科学関連]

理化学研究所脳科学総合研究センター研究員の最上氏の日記より。

最近では、ちょっと大きい病院ならおいてあるMRI装置によって行うことの出来る、「エコープラーナー磁気共鳴分光画像法(EP-MRSI) 検査」をうけた双極性障害(躁うつ病といったほうが通りがいいかも)の人たちに、かなりの割合で気分改善が見られたという論文の紹介である。

抜粋を読む限りでは、30例中23例の双極性障害の人に気分改善効果があったとしている。ただし健康な人との比較とか、ランダム化を意識した双極性障害を持っていて偽のEP-MRSI検査を受けた人との比較はとりつつも、双極性障害というのだから躁状態かうつ状態のどちらかであったと思われるのに、その点への言及がないのがちょっと残念。派手な躁状態のときに、MRIみたいなうっとおしい検査を素直に受けてくれるは思えないので、うつ状態だと考えていいんでしょうかね。

いわゆるECT(電気けいれん療法)にかわるものとして注目されている、 rTMS (repetitive transcranial magnetic stimulation) (連続経頭蓋磁気刺激法)とほとんど同じ効果がそれで得られるというのだが、大体、「エコープラーナー磁気共鳴分光画像法(EP-MRSI) 検査」というのがようわからん。何かの原子動態を画像化する方法なんでしょうかね。私なんかは全体の形態をみるT1強調像と、細かな壊死巣を見るためのFLAIRぐらいしかオーダーしないので、そんな検査の名前すらしらなんだし、当然それで回復傾向が得られたというようなラッキーにめぐり合った事もない。

ただですね。長年重症うつの極にあったような人がMRI検査を希望するというような事があれば、それ自体回復サインのひとつだとも思えるので、ホントにMRIによって改善が得られたのかというのには、かなりの懐疑を覚えてしまうのは確か。MRIというのはいうならば強力な磁場で原子の位置を一定の方向にそろえ、それがウニャウニャと元に戻っていくときに出す電磁波の解析から組織内の位置情報を得る装置なのだから、ついでに脳内の化学物質のリセットもやってくれるのではないかと期待させないでもないが。でも、原子と脳内物質分子では全然オーダーが違うけど。

遷延しがちの重症うつ病をみていると、教科書なんかには書いてない奇妙な現象に出会って当惑することがよくある。たとえば、回復期にてんかん発作を起こすようなことは結構見られるが、普通は「抗うつ剤の副作用」で済まされてしまう。ずっと同じ薬を使っていても同じことがあるので、副作用だけで済ませるとはとても思えない。

私はこの現象について、機能を回復しつつあるニューロン群が、「せーの」とばかりに同期した神経インパルス発射してしまい、それが全般化するのではないかという「と」系の仮説を打ち立てている。そうして患者さんにも協力してもらい、不用意な薬物変更や安易な抗てんかん薬加薬を避けて様子を見るようにしているのだが、同じ発作がまた起こることは滅多になく、明らかにそういう事態を経た場合の回復率は高いように感じている。

私の怪しげな経験は別にしても、まだまだ一般的な臨床の場面(ちょっと高度先端系ではあるが)でも新しい発見をする可能性はあるのだと思わせるという点で、件の論文はなかなかに面白い報告であろう。これがより豊かな治療指針につながることを望みたいものだ。

2004年5月 9日  めまい[医学・科学関連]

朝目覚めて起きだそうとしたら、強い回転性めまいを感じてひっくり返りそうになる。フトンのうえで半座りになったとき、首をぐるりと回したのが引き金になった。数年ぐらい前から、時々こういうめまいが出て、いつの間にか治ってしまうので、そう気にもせずほっぽっているのだが、ひっくり返りそうになる程ではなかった。

めまいの訴えというのは、プライマリィケアの場面でしばしばお目にかかるものだ。症状が激しいときはまるきり身動きもできなくなるし、パニック発作と同じような不安喚起性も強いため、夜中に救急車で受診する例も数多い。ごく稀ではあるもの、脳血管発作やら脳腫瘍というような命にかかわる疾患であることもあって、CTやらMRIやらを大騒ぎでとったりするが、まあ、滅多にそういうもので異常が見つかることはない。

めまいを起こす病気には、有名なメニエール病というのがあるが、定型的な耳鳴や難聴をともなう例はそうあるわけではない。仮にそう診断を受けたとしても、その治療は結局対症療法に終始するしかなく(私の知らない先端医療もあるかもしれないが)、さまざまな治療的工夫がなされている割には、患者側の顧客満足度は低い場合が多い。

大概の場合、患者さんがめまい発作で転がり込んでくると、メイロンという7%重曹水を点滴し(不思議なことに、これが診断などと関係なく、その場限りながらよく効くのである)、2~3種類ある抗めまい剤を処方し、「専門医に相談してくださいね」といって紹介書つきでお帰りいただくという対応になる。しばらくしてしてまた発作をおこしてやってくるので、専門医はどういっていたのかとたずねると、同じ薬を出されただけだったので通うのをやめた、というような返事だったりする。

もちろん、以前から中耳や前庭機能にハッキリとした異常がある場合などは、専門医に任せるしかないのだが、そんな場合は患者さんのほうがすでにエキスパートになっているから、対症療法漬けにしてしまい、正統治療を受ける機会を奪うようなことはまず起こらない(と思う)。

私の場合、プライマリィケアの場面でめまいに接するだけでなく、結局定型的な症状や所見を示さないため、通り一遍な対応ばかりされて患者側がブチ切れてしまったり、身体科医のほうが匙を投げたような例をよく診させられる。身体に悪いところがないのだから、アタマのほうの問題だろう、というのである。これは心身相関ということに対する完全な勘違いであるのだが、そこそこ仕事しているフリしておかないといけない立場では文句もいえず、おとなしく診させていただく。

というのは、定型的なメニエールとか、エプレイ法というかなり効果のある治療手技が一般化してきた良性頭位性めまいのような、ちゃんと身体的な理屈がつけられるものではないタイプのめまい症状は、いくつかの点をチェックして臨めば、かなり簡単に治療(というか、症状のコントロールだけど)できるのである。

いくつかの点というのは、「これは身体だけの問題ではないようだから、精神科なり心療内科で診てもらいましょう」という身体科医の説得を受け入れる、というのがひとつ。困り抜いて藁をもつかむ気分になっているか、自分でも身体的レベル以外の困難があることを自覚している場合である。

その次は、実際にめまいがきっかけであれ、そうでないにせよ、不眠とか食思不振が強く、なにより、めまい発作そのものというより、それが起こるのではないかという不安がメインの問題であることだ。いわゆるうつ症状の合併があればどんぴしゃであるが、必ずしもその必要はない。

大概の場合は身体科医がすでに抗不安剤を処方しているが、それだけではまず改善しない。気の利いた人の場合、SSRIを処方していることもあるが、これもまず効かない。むしろ、飲みはじめに出ることの多い消化器症状のため、余計に訴えが複雑化していたりする。

もったいぶる事も無いのでばらしてしまうと、身体的所見を欠きながら遷延するめまい感に対して著効するのは少量のスルピリド(ドグマチール®、アビリット®)である。50mgから150mgまでの使用量で充分で、少量の抗不安剤、もしくは抗ヒスタミン剤との併用が効果を高めることが多い。一般的な抗めまい剤との併用でも問題ない。

もともと吐き気止めの効果が強い薬で、なんらかの中枢性の効めまい作用があるのだろう。スルピリドはほかにも、車酔いといった動揺病にも著効を示すが、あまりそういう目的でも積極的に使う人を見たことがないのが不思議である。トラベルミンだのなんだのより、こちらのほうが圧倒的に効くんだけどな。

スルピリドという薬は、私が研修医になった年に日本で認可されたので、なんとなく親近感がある。胃潰瘍、胃炎からうつ病、分裂病という適応疾患を持つ不思議な薬で、私は自分の診ている患者さんの6割ぐらいにこれを処方しているような気がする。この薬には猛烈な食欲促進作用があり、体重が増えるほかにも、乳汁分泌とか生理がとまるとか、結構副作用があるのが欠点であるが、そう深刻なものは少ないので、実に使いやすい。

私が使っているように、精神科薬物治療のメイン薬剤となってもいいと思うのだが、そういうのは少数派なのが不思議である。まるっきり鎮静作用がないのと、単味での使用では今ひとつ標的症状がはっきりしないのがいかんのだろうな。でも、寡症状の慢性分裂病で、微妙な脅かし体験だけが続いているような人なんか、絶好の投薬対象なんですけどね。

それは兎も角、精神症状というほどのこともない遷延性めまい感に対するこの薬の効果はかなりのもので、そもそも海外では「抗めまい剤」として使われているのに、国内では適応疾患にはないし(しかたなく「うつ状態」の診断名を追加する)、そもそもそういう報告をみないのが面妖である。

なぜか添付文書の副作用欄に「めまいがでることがある」なんて書いてあるので、めまい患者にこれを処方しているのをみた他科のDr.が、親切にも「これは飲むな」なんて助言してくれることもある。このスルピリドに対する無理解は、精神科、身体科を問わず、日本医療七不思議のひとつであろう。あとの六つは今ちょっと思い出さないが……、あれ、このフレーズどこかでつかったような。

ところで私自身のめまいはいわゆる良性頭位性めまいの範疇に入るようで、朝からヨガの行者のごとく、エプレイ法のポーズを何度も繰り返したら治ってしまった。スルピリド服用で、例のアトキンス・ダイエットのささやかな成果を、台無しにすることもなさそうで一安心。

めまいに関するまとまった解説というのは案外少ないもので、ここ(PDF)なんかは比較的まし。専門家向けだが、一般的にもわかりやすい(かも)。エプレイ(Epley)法に関してはこちらを参照。
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2004年5月 8日  オールスター演芸笑劇場[本とか映画とかTVとか舞台とか]

例によってぼんやりTVを見ていたら、NHKで「オールスター演芸笑劇場」なる特番(だと思うんだけど)をやっていた。横山たかし・ひろしのような、関東系ネットではあまり見られないお笑いが見られたのも収穫(というほどのものか?)であったが、その手の古典的芸人と最近の若手芸人を一緒にして大喜利をやるという大胆かつ当惑気味な企画が素晴らしかった。日本国民はこういうことのためにNHKに視聴料を払っているのだろうな、多分。

その大喜利をとりしきるためだけに桂三枝を出すという、採算無視の人事も感動ものではあったが、なんと言っても大喜利のお題に「東京ボーイズ」の「謎かけ小唄」を即興でやらせる趣向が並ではない。

そこに出ていた芸人は「昭和のいる・こいる、オール阪神・巨人、今いくよ・くるよ、コメディー№1、横山たかし・ひろし、立川志らく、柳家喬太郎、古今亭菊之丞、林家花丸、林家たい平、ますだおかだ、アンジャッシュ、ハリガネロック、スピードワゴン、バナナマン、江戸むらさき、18KIN、シャカ、飛石連休、エレキコミック(順不同)」という取り合わせである(NHKのサイトよりコピー)。最後の(順不同)がすごい。古典芸人に一応のリスペクトをしているものの、その内部での順列はたぶん年齢だけを基準に処理したようだ。

しかも、若手芸人が結構「謎かけ小唄」の課題に挑戦し、そこそこ小器用にまとめるのである。あの手の芸には接待用のぬるいルチーンが仕込まれているので、そこをうまくつく直観力が優れているんでしょうな。お笑いというのはいくら今風にはじけたものであっても、人間の基本的生理と心理に依拠するものなのだから、こういう伝統は維持されるものなのだと感心したのだった。それが面白いかどうかは、また別の話だけれど。

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2004年5月 7日  立場を明確にするということ2[日常・随想]

承前。一晩頭を冷やしてみて、一体私はあのブログで展開される理屈のどこが気に入らないのか、実はあまりわかっていないということに気づいている。finalvent氏の前提を受け入れるなら、そのロジックは実に明快であり、私なんかには「はぁ、御説ごもっとも」としかいえないものだ。問題は、その前提に私は立てないというだけのことに過ぎない。

戦争なんて、やりたい連中に勝手にやらせておけばいいのではないだろうか。いままでの歴史的な経緯を踏まえるならば、自分たちが当事者にならないように、小ズルいといわれようが、根性なしといわれようが、細心の注意で目先を切り抜けていくのが、私たちにふさわしい身の処し方だと思う。幸い冷戦も終わっていて、意地の張り合いから世界戦争に発展する可能性もそう高くはない。

私だって、しつけの悪いガキに対して、町内の頑固親父が説教かます姿には快哉を叫びたいし、現に日頃の仕事で、家庭内暴力という当事者間の病的悪循環に対して、国家から法的に委託された権限をつかって強制的隔離という暴力的介入をやっているのである。でもそういうモデルを、国家間のレベルに安易かつ無前提に持ち出してくることは、明らかな間違いだと思う。

正義だの人類への貢献だのというような「正しい」主張は、個人的な幻想とか、差し当たっての一国内での取り決め上の題目にとどめておいて、普遍的な真理として登場させるのはナシにしていただきたいと切に願う。それがどんなに冴えた俊英によって提唱されるものであろうと。

ま、こうして読み直してみれば私なんぞの考えることは、昔ながらの非武装中立論に近い、女々しい理屈なのだと自分でも感心してしまう。これで自分の家族が、どこかの国家的犯罪の餌食になったり、テロリストの被害者にでもなれば、この国家の威信にすがり、勇ましい解決を要請したりするんだろうな、と思う。そういう覚悟のなさに居直るヘタレぶり以外に、自分のいるべきところは見つからない。

(注)悪い癖で、本来同類には出来ないような粗雑な主張をするところまで一緒くたにして、「お利口な間抜けぶり」なんて表現してしまったが、「極東ブログ」にはそんな部分はない。

2004年5月 5日  更新再開[日常・随想]

4日もあった休みが、もう終わってしまった。その間、何かしていた筈なのに、全く覚えがないのが不思議だ。なぜか、サイフだけはどっと軽くなっているんだけどね。MOVABLE TYPE導入以後、はじめて記事更新を休んだので、その間にネタが一杯たまったかというと、じぇんじぇんそうではないのもまた不思議。

休みの間に、ここの記事内容についてちょっと考えてみた。今までさんざんろくでもないことを書き連ねてきたのだが、基本的にはそれは「都市伝説」という形で相対化できるような、一見もっともらしい言説の紹介をしてきたつもりである。事実とされているものは、多様な側面を持つということを具体的に示すという意図である。もちろん、ネタ詰まりの時には単なるジョークの引き写しとか、バカ事件報道紹介というような手に逃げたこともしばしばであった。

そういう時でも、なるべく自分なりの視点からの解説を加え、単なる垂れ流しにはならないようにしようとは意識してきたが、もちろん充分でないことのほうが多い。単にオチをつけようとしているだけ、というのが一番多かったりするし。自分の専門に近い分野のニュースというのも結構触れてきたが、これに関しては自分で理解できる限りの批判的読みをしているつもりである。具体的には、「お笑い」として読むという姿勢ということだ。

いわゆる時事、政治ネタというのには真正面からは触れまいとしてきたが、これは私のような見識のない人間がそういうことにかかわると、どこかから借りてきた類型的な立場の押し付け以上のものにはならないのが見えているからである。それでも一部の問題についてはあえて書いたものもあるが、やはりやめておくべきであったなという反省が残る。

最近の個人サイトやBlogには、「自分の意見」をそれなりの論理で、堂々と展開してあるものが目立つように思う。昔、ESSサークルなんかがやっていた「ディベート」のように、ちゃんと資料を引き、予想される反論に対しては、ところを得た(と観客に納得させてしまうような)ロジックでそれに的確に対応するタイプである。情緒ベタベタの日本的風土に、ようやくグローバルスタンダードな「知性」が根付き始めたのだと、この傾向を寿ぐべきであろうか?

しかも、そういう論調のかなりの部分が、妙にエグゼクティブな視点から語られる。「現実的」国家運営を提言し推し進める、えらく大所高所にたった意見である。私なんかは自分が飯を食っている業界内の問題であっても、無責任なこといって茶化すだけなのに、この人たちはまるで憂国の士のごとく、国家を正道に導くべく、建設的意見を述べてやまないのだ。それも、大言壮語とは無縁の緻密さでそれをやる(お笑いレベルもあるけど)のである。

残念なことに好き嫌いのレベルで語るしかないのだが、私はこの手の風潮は好きでない。若造のくせに、利いた風なこといってんじゃないよ、と思う。功なり名とげて引退でもして、回顧録でも書き、そこで同じようなこといっててるなら許せるけどね。頭の中でこしらえただけの自分の立場や根拠に対して、「懐疑」というものを決定的に欠いた、なんとでもこねられるその手の屁理屈なんぞ、自立的なものになるわけがない。せいぜいがクソ政権延命に利用されるのがオチである。現に例の人質事件では、官邸の情報操作に面白いように踊らされているところが多かった。例を挙げてそのお利口な間抜けぶりを指摘したい衝動に駆られるが、不毛なだけだろう。

たかが個人サイトの記事なのだから、何書こうと勝手なのだが、残念なこととにその手の論理を駆使できる人はそうどこにでもいるというものでもなく、結局付和雷同しか出来ない連中がそれを反復増幅していき、、いつの間にやら一定の「世論」めいたものに誘導される危険を感じてしまうのである。これは旧来のマスコミが、知的な前衛となる役割を、惨めにも果たせなくなった結果の表れであろう。

基本的に私の言っていることは、手垢のついた価値相対論であって、絶対的な価値というものをないがしろにしたオールドファッションな寝言だと言われるかもしれない。しかし、私はそれ以外の立場(といって、自分の立場も相対化する原則放棄やダブルスタンダード何でもあり、という卑怯な『立場』なのだけれど)にはどうやっても立てないので、ご立派なことは絶対に語らず、その場のネタと、そのウケにだけ拘泥する姿勢を貫いて(もちろん、時々都合よくブレつつ)いこうと思う。

なんか、話がとんでもない方向に行ってしまったが、今までどおり、くだらんことを書き連ねていくつもりだよという風にとっていただければ幸だ。卑怯かもしれないが、上に書いたような「ご立派サイト」がどういうところをさすのかは明示しない。間違うと自分もそれに近いことをやりそうだなという、自戒のつもりで書いたのだと受け取っていただきたい。

2004年5月 1日  連休[日常・随想]

所用につき、5月5日まで更新休止。

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