2004年6月30日  伊藤整文学賞[日常・随想]

第15回の伊藤整文学賞評論部門に川村湊(かわむら・みなと)氏が選ばれ、それを祝う会が開かれたという報道が今日の毎日新聞の夕刊にあった。近年まれに見る朗報といえよう。毎日新聞の文芸時評に毎週書いている人ではあるのだが、そう人口に膾炙した人とはいえぬ川村氏をよく知っているのはほかでもない。私はこの人とPTAで同期(っていいかたあるのかな?)なのである。向こうは覚えていないだろうが。

この人の長男と私の子供が、小学校で同じクラスだったという訳。そのとき感心したのが、川村氏は見事なまでにその子供たちに自分の筆名(湊というのは筆名なのだ)と統一的な名前をつけておられたということ。具体的に述べるのは控えるが、湊にセットになるにふさわしい海っぽい名前を、その一子、二子につけておられた。

自分の筆名にフィットした名前を順に子供につけていく、というコンセプトが素晴らしい。まして川村氏の遺伝子を引き継いでおられるお子さん達のゆえ、実に優秀なので私の子供なんか、どうやってもあいつに勝つのだと必死に勉強する目標になったのである。でも勝てなかったようだけど。遺伝子決定論を実践的に打ち砕くのは難しい。

今日の毎日新聞夕刊を見ると、隣人だった頃とは比べ物にならないスマートな体型である。完全に体勢がひっくり返ってしまっている。あの頃こちらは現役トライアスリートだったものなぁ。肥満対処という面で完全に負けている。川村氏の成功を寿ぎつつも、なんだか物寂しくなってしまう夏の夕暮れという気分。花でも買ってきて妻と眺めようか。

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2004年6月29日  10kmの差[医学・科学関連]

パートで行っていた職場を変えて1ヶ月、今までの病院の患者さんもなんとか大過なく引き継ぎ、新しい診療圏の症例も増えてきて思うことは、たかが10kmの差というのは大きいのだということ。

今までの病院と今度のところでは、都心までの距離でいうと、その差はたった10kmなのだが、個々の症例のバックグラウンドがコロリとかわるのである。ごくごく印象的にいえば、「土の香りがしなくなる」とでも表せばいいのかも。

基本的には日本中どこにいったって、人々は狭い世間のしがらみへの反発と依存のなかに生きているわけで、その葛藤の質とかがそうそう変わるものでないのは自明の事である。ましてその病像までもが変わるわけではない、といいたいところなのだが、正直いうとちょっと変わるのだな、これが。

都市に生きる疎外された人々は、より都市文化に影響された脱構築的病像を示すといえば安っぽい社会学的分析にピッタシカンカンなのだが、事実は全然そうでない。実にストレートで開けっぴろげな、昔ながらの身体症状を伴うような不安症状や精神的虚脱を示して病院を訪れる人が多いのだ。脳器質疾患まで古典的教科書的症状を示しているようにさえ思える。

その理由を考えてみるに、主要なものは医療機関の表面的な対応であろう。精神科疾患の受け皿が、少数の古典的収容所病院と、一般病院やクリニックに二極化していて、本格的な精神病的錯乱でない限りは、敷居の低い後者に対応されることが多いため、「狂える人へのメタモルフォーゼ」といでもいう極限的パフォーマンスを演じることへの覚悟が、今ひとつ成立しにくいのではないか。

都市部に多いメンタルクリニックの隆盛は結構なことではあるのだが、そこでの医療はどうしてもファーストフード風になるためか、どうも今ひとつ具体的問題解決能力に欠けるところが目立つような気がする(もちろん、そうでないところもあるけど)。そういうところを沢山経てきた患者さんは、薬にたいする断片的な不信感だけをつのらせるが、そもそもちゃんとした診断すら受けていない場合がある。

わかりやすい症状をパーッと手堅く示せば、適切な医療に行き当たる機会も増えるだろうという、やむにやまれぬ願いがあるのかもしれない。現状の精神科医療では、不十分な医療環境で、不当で不要な拘束をうけるような事はまずなくなったといえるのだが、そのことが逆に医療側にも医療を受ける側にも、緊張感を失わせる結果になっているのかな、なんて考えたりする。

もっとも、今のところには重度の病態をも含めた診療体制があるわけではなく、一般病院で対応できるレベルだけを見ているのだから、私の印象というのも、そういう御気楽な限界の中だけのことであるのだが、案外、全体に通じる事ではないかとうすうす感じている。

駆け出しの頃、伝統的文化の色濃い田園地帯で診療していて、キツネ付きやら天狗付きが毎日のように押し寄せ、なんじゃこりゃと当惑していた昔が懐かしい。都市化というのは、要は単純化の事だったのですな。

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2004年6月28日  パッションは一人にては成らず[ニュース]

今年の3月、米国メイン州ハートランドに住む23歳の男が、隣市の救急病院に自殺未遂のために運び込まれた。男は自らを手製の十字架にクギでうちつけようとしていたのだった。

警察発表によれば、男は幻覚状態にあり「コンピュータに神の像をみた」と主張している。彼は木材を二本用意して十字架のかたちに組み合わせ、それに遺書を書いたあと、片方の手をクギでうちつけた。

その時点で、彼は残ったもう一方の手をクギでうち止める方法がないことに気づき、救急車を呼んだのだった。駆けつけた救急隊員は木材の一部を切り取り、手が釘止めされたままの彼を救急病院に搬入した。

以上、" Religion in the News"のこちらの記事より。ここは「中には事実もある」というコンセプトなのだが、調べて見れば一応本当の話らしい(根拠はこれ)。自分で両手をクギ打ちするのは無理としても、片方をクギ止めした後、どうやって救急車を呼んだのか、ちょっと不思議。携帯電話もってたんですかなぁ。なお、自殺を図った男は例の「パッション」を見たわけではないとのことだ。

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2004年6月27日  歌舞伎座ファン感謝祭[日常・随想]

朝方、寝坊して新日曜美術館を見損ねたので、夜8時から見はじめたのはいいのだけれど、「新撰組!」とザッピングしているうちに疲れてしまったのか、またも途中で寝込んでしまい、目覚めたときには「歌舞伎俳優祭:歌舞伎座ファン感謝祭」なる、かなりの珍品企画番組をみることになる。

何年か前に「ベルサイユのバラ」のパロディをやっていたのは見た事があるんだけれど、今年の企画は悪ふざけがさらに進行していて、映画とのコラボレーションまでやる手の込み方。勘九郎がプロデュースしているとの事だが、日本文化の本質は悪ふざけとパロディだというのがよくわかる物件といえる。

水谷八重子みたいな新派の人まで出てくるので、もしかしたら藤山直美もでるかもね、と思ったら本当に出てくるところがすごかった。「もしもし、お父さんですか?」の芸は不滅である。むしろ、ジャニーズやお笑い系が出なかったのが不思議。伝統芸が隆盛な様子をみるのは悪い気分ではないが、変に妥協した雰囲気かどうかはギリギリのところ。

でも、柄本明であろうと松竹新喜劇であろうと飲み込みそうなエネルギーというのはやはり感じますな。日本の基本的ビジネスモデルとして、今後も成立する形態なのかもしれない。

2004年6月26日  ヤマンバ目撃[日常・随想]

都内に某用件でお出かけ。TVでは聞き知っていた「ヤマンバ」化粧のオネーチャンと生まれてはじめて遭遇する。あれは絶滅したと聞いていたのだが、不意をついて突然眼前に現れるとやはりかなりのインパクトである。どんなメイクをしようと勝手であるが、人ごみの中でヘアスプレーを振りまくのは破壊活動の部類に入るのではないだろうか。

なんであれ、美醜ではなく、所属というか、自分の徴付けということを主目的にした化粧をするというのは、近代的思考ではなく神話的思考に分類される思考形態であろうから、彼女らもまた、近代の閉塞性に気づいた人たちの一人なのだろう。それ以上の具体的展開を望みたいものだ。

2004年6月25日  カイエ・ソバージュ1[本とか映画とかTVとか舞台とか]

カイエ・ソバージュ(1)「人類最古の哲学」(中沢新一:講談社メチエ)を読む。そのあと5巻まであるシリーズも半分ほどは読み終えたのだけれど、なんというか、神話の構造主義的読み取りの入門書という感じに終始するのがあっけないほどである。大学の講義をまとめたものらしいので、わかりやすく原則にそって説明したということなのかもしれない。

この第一巻ではもっぱら、民話のシンデレラを題材にし、さまざまな民族に伝えられたそのバリエーションを紹介し、神話的原像をさぐるというかたちで講義が進む。貧富や美醜という現実的な不均衡を媒介するという機能にとどまらず、生と死という絶対的不均衡すら媒介する神話的構造がそこに見え隠れしていることを示すのである。

途中まで読んだ限りでは、後に続く巻もさまざまに題材を変えて、この「対称性の回復」という神話的テーマを解説しているようだ。このシリーズには共通の前書きがあって、著者の全体的な意図を示しているのだが、それによれば新石器革命という人間の基本的文明を作り上げた「野生の思考」という能力は、神話や儀礼のなかに如実に示されており、近代の科学革命もその能力の延長にあるとされる。

そして、新石器的な文明を否定して成立したのが、第一次形而上革命である一神教で、それをさらに否定した第二次形而上革命が、先ほどの科学革命なのだという。そして現在は過渡的であって、科学革命の成果がほぼ出尽くす予感が広がり、第三次形而上革命の可能性をうかがう時代なのだとも。

じゃあ、科学がその原型を借りているという「野生の思考」には限界があるわけね?と聞き返したくなるが、著者は平気なもので、「一神教の開いた地平を科学的思考によって変革することによって」その第三次形而上革命の見通しが得られるようなことをいう。なんかこのあたりは少々混乱してませんかといいたいが、多分こちらの理解力のなさに由来するのだろう。そのへんはあいまいに、神話的思考の原点に立ち戻ることで、現代の閉塞状況に風穴を開けられるというムードで読み続けることにしている。

私なんかは決め付け的に、人間の脳というハードウェアには、世界を対照的バランスをたもった秩序として認知し、その原理にそう価値観をも生む生得的な構造があるのだが、一神教や資本主義経済という現実的非対称性とのミスマッチが、種々の脳内不具合を生むのだろうという「と」理屈を以前からひそかに暖めている。差し当たってのミスマッチを乗り越えるためには、対称性の世界にいったん立ち返るしかないと考えていたりするのだが、いかんせん、近頃の脳科学が次々に脳の非対称的原理ばっかりを発見してくれるので(欲望というのは遺伝子というモジュールに乗っかって、外部からやってくるようなのだ)、どうも旗色が悪い。

私らの分野では、精神疾患の症状論を、神話的な秩序回復を図ろうとする、はかないパフォーマンスとしてまとめなおすことはそう難しい作業ではない。10数年ほど前のニューアカブームの頃には、出来の悪い試みの論文がいくつか出たこともある。業界では皆、なかったことにしているけれど。精神分析と同じように、いかに見事に妄想の構造分析をしてみたところで、別にそれはある種の趣味的解釈の一つになるだけなのだ。間違うと「へたった脳みそのやることは、未開思考に似てしまうんですな」で済まされてしまったりするぐらいで。

そういう個別的分野でのつたない経験があるものだから、中沢がこのシリーズで提唱するように、いまさら構造主義的素養を背景にした神話的思考の回復をしたところで、そんなに「新しい地平」なんてものを切り開けるのかいな、と冷ややかに眺めてしまう。しかし、不徹底なまま放り出した負い目のある立場としては、ついつい気になってこっそり読んで、パクり戻すネタはないかとうかがうのである。そういう成果が得られそうなら、また報告ということで。

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2004年6月24日  週刊投票箱[夢]

「選挙をエンターテインメントに!」というコンセプトの雑誌が発刊された、というTVニュースを夢の中でみていた。

「プリンセス、プリンスたちの横顔」というグラビア記事では、二世三世候補たちを完全にセレブとして扱っていて、逆にその意外な交友関係とか閨閥が知られて実に興味深いのであった。

創刊号の目玉は、「格闘技系候補の強さを実証する」と称して、出馬を予定しているプロレスラーの試合に、新米記者が乱入するというもの。当然、身体の貧弱な記者がギタギタにやられるのだが、素人相手のファイトをどううまく盛り上げるかというところが議員としての適格性につながるのだ、というような内容にそこそこ上手にまとめられているのだった。

案外、こんな雑誌本当に発刊されるかも知れませんな。

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2004年6月23日  ネタが古いぞ「トリビアの泉」[日常・随想]

今日の「トリビアの泉」で、一青窈(ひとと・よう)の歌のテンポを落として再生すると、平井堅が歌っているように聞こえるというネタをやっていた。これ、2年近く前に「できるかな?」に書いてあった内容のパクりですがな。

「できるかな?」がそこで扱っていたのは、「竹内まりあ」の音程を下げると旦那の「山下達郎」になるというもの。スペクトログラム波型の比較までやった本格的なものだった。付随的に「鬼塚ちひろ⇒平井堅」変換も示されていたが、二組とも実にそっくりになるので感心したものだった。

「トリビア…」では一青窈の曲いじりだけをやって、あまり類似の根拠をしめしておらず、こういう話題ではよくTVに出てくるSという「音響研究家」の「きわめて珍しい」というコメントだけを紹介していた。都合のいいことだけをいってくれる専門家というのは、実にありがたいものである。

たしか私も「できるかな?」の記事に感激して、ピッチ調整のできるソフトでいろいろな曲を聴いてみたものである(記事はこちら)。あんまり決まった例は見つからず、せいぜい「桑田佳祐のピッチを上げると坂本九になる」というのを見つけたぐらい。「トリビア…」もインチキっぽい専門家のコメントなどでお茶を濁さず、もっと多様な展開をすればいいのにとおもう。もしかして、小出しにしてネタつなぎするつもりかも。

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2004年6月23日  失われた夜[日常・随想]

新しい職場で、救急状況でのアルコール疾患への対応、というテーマでレクチャーを頼まれ、適当に誤魔化して恰好をつけたのはいいのだが、終わった後で飲み会に誘われてしまった。送迎ありという条件につい乗ってしまったのが運のつき、「ホヤの進化論的位置付け」について語っていたあたりの記憶を境目に、気がつけば朝になっている。

状況を勘案すると、そう遅くもならずに帰ってきて、それなりのルチーンはこなしていた様子である。ちゃんとこのMTにもドラフトが入っていたぐらいで。その内容はとても公表できるようなものではなかったので、一応アリバイだけを記しておく。

しかし、直前のレクチャーで自分が言っていた病的酩酊パターンを、そのまま実行していりゃ世話はないわ、ホンマ。

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2004年6月21日  Happy Hacking Keyboard[PC・MT]

アマゾンでiPod関連の小物を買ったら、1000円のギフト券がついてきた。使用期限がそう長くないので、必死になって使い道を考え、Happy Hacking Keyboard Lite2というキーボードを買うことにした。日本語配列なのに、カナ表示がない。どうせローマ字入力しかしないので、あのカナ表示は確かにウザい。

本当は無刻印モデルというやつを買って、わざわざ人に使わせてうろたえるところを見てやろうという意図だったのだが、そもそもそれでは自分も使えないのが明白なので、思いとどまってカナ無しレベルに抑えたのである。

ところがアマゾンの商品表示というのはわかりにくく、今日届いたキーボードをみれば確かにカナ表示ナシではあったものの、それは単なる英文配列キーボードなのであった。どこで間違えたんだろう。返品するのもわずらわしいのでこのまま使うことにするが、やはりIMEの起動やBSとDeleteの挙動の違い、#=¥”~()@あたりの配列違いで少々わずらわしい。昔、マックを使っていたときはこれだったような記憶が、だんだん戻っては来ているんだけど。

スペースバーが大きいという知覚的バランスの問題や、変なところを押してしまって、カナ入力が直らなくなってあわてる事が無い分(あれはよくあるトラブルなのに、解決法がなかなかわからないのは不思議である)、英文キーボードもそれなりにいいのかなと、おのれの粗忽を慰めてみる。

ま、キー入力のほうはどうせそう早くもなく、多少遅くなろうがそう関係ないので、これでいいか。

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2004年6月20日  春の夜の夢の浮橋とだえして[本とか映画とかTVとか舞台とか]

寝起きの頭で新日曜美術館をみていて、どういう脈絡で出てきたのか、「春の夜の夢の浮橋とだえして峰に別るる横雲の空」という藤原定家の和歌が紹介され、妙に気になったので早速検索。要は、さっぱり意味がわからなかったのである。

すると専門家によるこういう解説ページが出てきた。そこには「新古今和歌集中随一の秘歌とされ多くの秘伝口伝を抱えているいわゆる難解歌」とあるので、私に意味が分からなかったのも当然であろう。解釈についてはさまざまな意見があるようだが、上の句と下の句に時間的ずれがあるとする説が有力らしい。

「夢から覚めて起きだし、明け行く外の景色をながめたら、峰に雲がたなびいていた」ということだと。「枕草子」の「春はあけぼの。やうやうしろくなり行く、山ぎはすこしあかりて、むらさきだちたる雲のほそくたなびきたる」がこの歌の前提になっているともいわれるらしいが、そういわれればそうかと思いつつ、なんとなくこの歌の奇妙な雰囲気を、屁理屈で説明しただけのように思わないでもない。リンクしたページの著者はもっと深遠な解釈に組するのだが、そちらのほうはなんだかさっぱり分からない。

そういうブンガク的な感慨とは別に一番興味を引かれたのが、定家の孫である藤原為顕によるこの歌の批判であった。為顕によれば、この歌は「乱思病」の典型だというのだ。「乱思病といふは、うたの心も聞こえず、理もなきうたなり」。理がない、つまり論理が一貫していないというのだ。論理を軸にして言葉を飾っていくのが和歌で、「理のきこえざらむは、歌にあらず。よくよく嫌ふべきなり」とまで、大家である自分の爺様を批判するのだからすごい。

為顕はほかにも「同詞の病、同字の病」という和歌の病をあげている。残念なことにこれらについてはちゃんと解説されている文章を見つけることはできなかったが、何となく想像できないこともない。音韻連合の妙で作られたような和歌のことをいうのであろう。駄洒落系和歌というわけね。それも芸のうちではないかとも思うが。

なんでそういう古典文芸論みたいな、柄にも似合わないことに興味を持ったのかというと、これはつまり精神分裂病の症候論に通じるところがあるからだ。分裂病の基本症候には思考障害があって、これは連合弛緩というような堅い言葉であらわされるのだが、要は思考を論理的にまとめることができなくなり、形態や音の類似という、駄洒落っぽい関連に思考内容が引っ張られていく傾向をさしている。まさしく為顕のいう「同詞の病、同字の病、乱思病」なのである。

鎌倉時代の歌人が、分裂病の症候論につうじる記述をしていたというのがまことに感慨深い。もちろん、それは和歌という言語的創作について述べているのであって、分裂病について語っているわけではない。しかし、言語活動というものが陥る可能性のある病的パターンを取り上げたという意味では、分裂病の症候論を完成させたクレペリンやブロイラーに先立つこと六百年である。これで為顕がもっとやわらかい和語でそれらの「病」を命名してくれていたら、業界術語に取り入れるべく微力を尽くすのだがと、少々残念。

元の「春の夜の夢の浮橋とだえして……」に話を戻せば、この歌の持つ奇妙な雰囲気というのは、まさしくその「乱思病」ゆえではないかと思うのだ。目覚めたばかりの軽度意識水準低下状態で、夢の浮橋というようなあいまいな言語イメージが、遠くの峰にかかる雲の形態と混じりあうような思考の解体状態、いうならば日常の意識の中に立ち現れるヌミノーゼ的な瞬間が、うまく表現されているのではないだろうか。

確かに為顕のいうように、この歌は観念連合弛緩の典型なのだが、定家はまさしくそれを描きたかったと思うのだ。それゆえにこそ、この歌が難解といわれつつも名歌として人々に記憶されつづけているのであろう。なんてこといいつつ、私は今朝までまるっきり知りませんでしたが。

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2004年6月19日  MovableType3.0のバグ[PC・MT]

新し物好きというだけの理由でアップデートしたMovable Typeなんだけれど、どうもあちこちバグだらけである。それも、Ver.2.6xにあったバグが増幅されている様子なのがかなわんし、それ以上にスキルあふれるユーザー達が、全然それには無頓着であるというのが一番不思議。

私が気がついているバグでは、まずエントリーのプレビューで、タグが追加されているとデタラメ表示になり、しかも再編集モードに戻るとタグの中に元々入力していたデータが失われるという、致命的とも思える物があるのだが、バグフィックスを提唱しているような、エキスパートと思える人々は全くそれを問題にしない。

そういうエキスパート達はコメント入力あたりの不具合にもっぱらバグフィックスの妙技を工夫してくれているのだが、そんな瑣末なことより、自分の入力したエントリーをちゃんとプレビューできない、という問題のほうが深刻だと思うんですがねぇ。彼らは自分の文章を推敲するようなことはしないのかしら(お前はそれをやっていてこの程度のクソ文章を書くんだね、というツッコミはナシ)。

ほかにも入力モードでの画像名の間違いなんかもあるが、これは単純なので素人にも治せるので、触れるまでもないということのよう。私の気づいたプレビュー時の不具合も、ごく単純にド素人でも直せるたぐいのコトなのかもね。ここ一月近く、ここの文章が妙だと気づかれた人がいたら、それはプレビューできないからだと言い訳しておこう。

やっぱり7月には出るという、日本語版の有料バージョンを買って、ちゃんとサポートしてもらうのが、素人の選ぶ道なんだろうか。もちろん、私の設定がはじめからデタラメであるという、文句言うのがおこがましいというレベルの問題なのかもしれないのだけれども。そのあたり、もし詳しいかたがいたら、こっそり教えていただければあり難い。

6月20日付記:一番気になるのが、MTログインの画面で、WinXP+IE6.0だとIDとパスワードの入力フィールドの大きさが違って表示されることで、同じIE6.0でもWin2000ならそうならない、というのが面妖である。それでなんか具合悪いのかといわれたら、別段なんでもないのだけど。
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2004年6月18日  「忠実な猟犬」映像版[ネタ]

loaded_dog.jpg

画像が二日続いたので、さらにもう一押し。かなり以前に「忠実な猟犬」という、ダーウィン賞経由のネタを紹介した事があったが、あれのギャグ版映像というだけ。映像はこちら(AVI型式、約800KB)。

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2004年6月17日  馬鹿な大統領でごめんなさい[ネタ]

tombihn_s.jpg米国、ワシントンに「トム・ビーン」という、コンピューター用のバッグなどを作っている会社があるのだそうだ。そこのサイトをみればわかるように、ゴツい化繊布で機能的なものをつくるメーカーである。私の使ってる「ユニクロ」製よりは、どっと価格帯が高めである。

そこのバッグは一応布製なので、洗濯時の注意書きタグがついているのだが、この春ごろからその内容が話題になっているという。クリックで拡大してもちょっと読みにくいが、最後にフランス語でこう書かれているのが何とか読み取れると思う。"NOUS SOMMES DESOLES QUE NOTRE PRESIDENT SOIT UN IDIOT. NOUS N'AVONS PAS VOTE POUR LUI."

あえて訳せば、「馬鹿な大統領で申し訳ない。彼に投票しちゃいなんだけど」というような意味といえるか。トム・ビーン社によれば、これは全くの社内向けのジョークで、PRESIDENTというのは創始者のトム・ビーン会長のことを指しているのだと弁明しているんだが、それをそのままとる人はまずいないだろう。

このジョークというか、現大統領への政治的からかいを商品に入れるというのは、これが初めてではなく、1年前にこれと同じ意味の文章を数ヶ国語で書いたTシャツというのがすでに売られていて、結構評判になっていたそうである。創始者と10人足らずの縫い子だけで20年ほど前に創始されたというトム・ビーン社は、このメッセージのおかげか最近売り上げを急速に伸ばしたそうである。

しかもついでとばかりに、この洗濯用注意書きを拡大印刷したTシャツまで売り出していて、こちらで通販しているので、御希望者は是非御購入を。製造が追いつかず、2週間ほど待たないといけないらしいが。同社の掲示板には賛否両論の意見が寄せられているが、結構真面目に議論が進行しているのが興味深い。まあ、妙なウヨ厨みたいなのもいるようだが。

明示的ではないものの、ここまでのおちょくりが商売を助けるという状況は、現プレジデントにまずいものといえるのか、それとも逆に余裕の表れか。コイズミさんなら、有名税だといって済ませるだろうけど。

(引用はこちらから)

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2004年6月16日  猫Blog[ウェブサイト]

ripley_the_cat.jpg

世界初(かどうかは定かでないが)、猫自身によるBlogの登場である。リプリーというオス猫が、ちゃんと自分でタイピングしているとのこと。どのエントリーにもコメントがいっぱい付いているが、リプリーによる返事はないようだ。

コメントに返事書くのは大変なんだよね。私もあんまり真面目にコメントバックしないので、ちょっと親近感がわかないでもない。

こちらからの引用。

2004年6月15日  ガイアの夜明け-さらば大病院??[医学・科学関連]

TV東京の開運なんでも鑑定団をみていたら、不覚にも途中でうたた寝してしまい、気がつけば次の「ガイアの夜明け」という番組のイントロ部分になっていた。不祥事相次ぐ大病院をはなれ、中堅医師たちが患者のための医療を目指し、次々に地域にその実践の場所を移しているといったレポートであるらしい。

ところが、前半は「開業は夢でした」と語る、30始めの若い耳鼻科医師の新規開業エピソードなのである。多少のリスクをかけて、個人経営に乗り出す話であって、オヤジが脱サラでラーメン屋を開く話とまるっきり同じである。新しい医療のかたちを求めるような内容があるとは思いがたい。どうせ番組にするなら、思うように患者数が増えない医師が、カリスマ耳鼻科医のところに修行にいくという、「貧乏脱出大作戦」をなぞった格好にしたら面白かったんだけれど。

後半は、在宅治療に進出したいセコムのビジネス戦略の紹介になっていた。先端医療への幻想だけでは医療経営が引っ張れなくなってきて、そこそこのローテク人海戦術にまだ商売のネタがありそうだという、落穂ひろいの発想なのだ。そんなこと、昔からやられてきたことではないかといわれそうだけど、人が家族に看取られながらなじんだ環境で死んでいくというのが、必ずしも当たり前のことでなくなっているのも事実なのだ。

番組のほうはそのあたりを上っ面だけ触れて終わるのだけれど、こういう中途半端な作りこそが、医療に対する一般的幻想がいかに強固なものかを、逆に示してくれているといえる。まして、私がひそかに目標にしている、「すべての人に野垂れ死にの権利を取り戻そう」というテーゼなんぞ、永遠に受け入れられることはありそうにない。

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2004年6月14日  精神鑑定の勘違い[医学・科学関連]

例の佐世保の小学生による殺人事件で、加害者の女児に精神鑑定が行われることになったそうだが、どうもそれを報じるマスコミのいうことがまるで見当外れ。被害者の父親を批判するようなことは言いたくないが、この人は某新聞の記者だったにもかかわらずというか、それゆえにというか、鑑定が真実の解明に役立つことを期待するというような、典型的な勘違いを表明していたりする。

精神鑑定とは、早い話がビョーキかどうかを見極めるだけのものである。事件の真実なんかと、何の関係もないのだ。対象者がある時点で、一人前の責任能力を持っていたかどうか判定(それだってハッキリ判るわけがないのだが)をするだけ。まして刑法上、加害者とされる女児の責任能力が問われないのは初めからわかっているのだから、全く法的に意味のない作業である。これを決定した裁判官は、基本的な法知識がないのではと疑いたくなる。

命令された精神科医のほうは、いい小遣い稼ぎになるから受けるだろうが(たぶん2~3百万は取るだろうね)、病的であるか否かということに絞った、分をわきまえた鑑定をする人なのかかなり気になるところ。バラエティに出てきていい加減なことをいうような精神科医に、心の底で嫉妬しているような人だと、くだらん類推を詰め込んだトンデモ鑑定をしてしまうので、ヘタレ裁判官の責任逃れに利用されてしまったりする。

精神医学というのは、精神疾患の診断と治療のためにある技術学問なのであって、人の心の中を興味本位にのぞきこむことの役になど立たないのである。そんな当たり前のことがいい加減にされるのには、そのあたりであいまいな幻想を振りまくことで下らん商売している連中の策謀もあるのだが、そういうのに手もなくダマされるマスコミや、それに影響されるヘタレ法曹関係者の責任も大きい。当たり前の意見のほうが奇異に思われるというのは、ホント、かなわんよ。

2004年6月13日  Fucking村の改名騒ぎ[都市伝説・デマ・トンデモ]

数日前のX51.orgに、こちらでも以前に取り上げたことのある、オーストリアのFucking村についての記事が取り上げられていた。(こちらの記事はこれ

中身は英国のニュースサイト、Ananova記事の訳文で、あの町の住人たちが改名に反対する票を投じたことを告げるものなのだが、どうもその記事の起承転結が妙なのである。住民の多くが反対票を投じたというのなら、一体誰が改名についての住民投票を提起したのだろうか。その動機も、経過もよくわからない。町長も先頭にたって改名に反対していたらしいし。

検索してみると、このFucking村での住民投票の一件はあちこちで取り上げられているが、すべてAnanovaの記事が出た後の日付である。そこの画像をそのままパクったものも多い。以前からこの村の名前について解説してあったサイトで、近況としてこれが報告されている例は見つからなかった。(こことかここを参照のこと)

だいたい、Ananovaの記事に書いてあるこの村の名前の由来も、その歴史も、私が以前に知ったものとは全然違う。Ananovaでは、百年前にこの地を開いて住み着いたFuck家にちなむと書かれているが、ここは11世紀にはFuckingという名が定着していて、それは6世紀にここを開墾したFockoという人物に由来するものであったはずである。

また、同じような改名の是非を問う選挙がFucking近くの"Wank am see"(Wankにはマスターベーションの意味がある)や"Petting"、"Vomitville"(嘔吐村)、"Windpassing"(オナラ)でも行われたという。しかし、こういう珍地名について面白おかしく取り上げたサイトは数多く、それらを調べた限りでは、国境を接するドイツのババリア地方に"Petting"という町があるのは確かであるが、そのほかのものは創作っぽく、住民投票云々の話もどっと信憑性が落ちるのである。

複数のサイトを参考にする限りでは、性的な意味に取れる地名で有名なのは、先ほどのPettingと、フランスのPussyとCondom、カナダのDildo(張り形)ぐらいであろうか。ペンシルバニアにはIntercourseという町もあるそうだが、単なる交際の意味なんだろうし。こちらには、いろんな意味での世界珍地名が網羅されているので御参考までに。

もっとも、網羅といっても、曼湖もキンタマーニ高原もエロマンガ諸島も取り上げられていないので、えらく片手落ちとはいえるのだけれど。

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2004年6月12日  ドメインあわやパー[日常・随想]

レンタルサーバー会社から、「カード引き落としが出来ないからちゃんと手続きしろ」という連絡が入る。先月もおなじ連絡があって、カードの有効期限更新があったからなのかなぁと、サーバー屋さんのCGIからカード番号を再入力をしたばかりだった。

なのにまた何を寝ぼけたことをいってきているんだ、ちょっと前に管理サイトの模様替えがあったようなので、そのためにデータが失われたのかな、それにしては毎月ちゃんと引き落としされているんだがと訝しんでしまう。

もしかしたら手続きやり直しを装ったフィッシング詐欺ではないかと、完全に疑心暗鬼に陥ってしまったところで、ふと、これはサーバー使用料の引き落としでなく、ドメイン登録料のことではないかと思いつく。ドメインを取ったとき、確か5年分先払いしていたような気がするのだ。あれからもう5年たったんですなぁ。

そこでドメイン管理のCGIにアクセスしようとしたが、普段のサーバ管理とID、パスワードが違うのを思い出す。当然そんなもの忘れてしまっているし、メモなんか取っておくわけもない(取っててもなくしているし)。先ほどまで詐欺かと疑っていたことはナシにして、サーバ会社に問い合わせ。多少のやり取りののち、無事にドメイン更新にたどり着く。

あのまま、相手のミスに違いないとふてくされていたら、今月中にもドメイン失効の羽目になっておりました。身辺管理の破綻という奴が、じわじわと進行している兆しであるようで。

(付記)考えてみれば、ここははじめ前の職場のサイトに小判鮫していて、独自ドメインをとったのは2001年の半ばだった。登録料も3年先払いしていただけ。年に11ドルという格安なんだけど。ちょっと前のことを忘れるというのは、かなりヤバい兆候ですな
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2004年6月11日  役割の回復[医学・科学関連]

老人痴呆病棟で実習していた、作業療法士過程の学生たちの実習終了レポート評価におつき合い。6ヶ月に一度ほど回ってくるのだが、そのおおかたは見当外れとはいえ、それなりに意外な面をついてくる(こともある)実習生の意見に触れると、逆にいろいろと考えさせられる機会になる(こともある)。

以前、「治療方針」についてたずねられて当惑する、という話を書いた事があるが、相変わらずそれは同じであるものの、「病をえた不運と、避けがたい悪化とその結果としての死を、本人とそのサポーターたちが受容する過程を援助しつつ、いくぶんかでも状況の固定、もしくは改善を希求する」などと、回りくどく返事するようにしている。「よくなりゃいいけど、ちょっと無理なので、ま、いいかと思える余裕を皆に持ってもらう」では、意味はほぼ同じでも、身も蓋もないといわれてしまうので。

今回のレポートはどれも公式的に評価するなら優秀といえるものばかりだったが、どうもあまりに定式的なのがこちらのヒネクレ根性に引っかかる。なんといっても気になるのが、どれもこれも「患者さんの役割の回復を図り」と判で押したような文句が入っていること。いつごろから始まったか定かではないのだが、看護学とかリハビリ理論にいわゆる社会学的なアイデアが盛り込まれるのが普通になっていて、どうも学校でも教えられるらしいのだ。

そういう理屈からは被治療者への援助目的というのは、その人の社会的役割の回復ということになり、病棟のなかで以前果たしていた社会的役割の回復契機をつかませることが、作業療法や生活療法、ひいては治療全体の戦略ということになるのである。もちろん、それはそのとおりで、どこにも間違いはない。社会的役割を果たしている人というのが、健康な人と同義に語られるのだから、役割回復というのは健康を取り戻すということに他ならない。

これが外科の手術後のリハビリなら、別に社会的役割をもってくることもなく、以前の身体的能力の回復をいえばいいわけだが、痴呆老人の能力を元に戻すことは現実には不可能なので、「社会的役割」などとあいまいにいっておけば、身体的リハビリと同じ枠組みで語っているかにみえ、専門家が仕事できる振りの余地が生まれるわけである。いうならば、一応方針を示したぞという、アリバイ作りなのだ。ふつうならため息一つついて見逃すところだが、今日はなんとなく機嫌が悪かったのでネチこく責めてみる。

「あなたはこの老人の社会的役割の回復をいうが、そのためには元の能力が戻ってこないといけない筈。それはどうするの?」その返事はもちろん予想範囲。「いえ、能力の回復は不可能にしても、かっての役割に近いものならいいと思うんです」、「近いものとはなんですか?」、「仕事を通じて、人々に喜ばれ、受け入れてもらえるという実感です」、「実感?根拠のない妄想をもてばいいと?」、「いえ、やはり具体的に受け入れてもらえる内容も必要で……」、「人々に受け入れられるような仕事が出来れば、こんなところに入院していないだろ。だいたい、90近くにもなった人に、まだ仕事させるの?」、「いえ、仕事そのものでなく、あくまでそれを通じた役割を……」。

もうこのあたりで相手は半泣きになっているので、意地悪はやめて概説にはいるのだが、普段は建て前的な「役割」理論に近いことをいわないでもない手前、ここから一般的な医療的姿勢を導くのはなかなか難しい。「甘く美しき野垂れ死をすべての痴呆老人に」、なんて風に口滑らしたら、変わり者と思われるだけなんだし。受け入れられるぎりぎりのところは、上に書いたような「受容論」になる。

「受容」なんていうけれど、痴呆が進行していく人を相手にそういうこというのも建て前だろうと、引っかかる向きもあるかもしれないが、それが案外そうでもないのですな。お互いなすことをなし終えたという、非言語的共感に結ばれることもあるから、この商売はそう空しくならずに済むのである。

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2004年6月10日  ラッセル・ワトソン[日常・随想]

フィリッパ・ジョルダーノやサラ・ブライトマンみたいな、クラシック・クロスオーバーと呼ばれるような女性歌手が最近はやりなので、同じような位置付けの男性歌手も出てくるだろうと思っていたら、やはり続々と売り出されてきているようだ。

4月に日本で公演し、そのコンサート評がえらく好意的だったラッセル・ワトソンのCDをアマゾンに注文していたら、やっと今日届く。輸入版を注文したので、例の輸入規制法案という世紀の愚法の上程があったため、業者が躊躇していたのかもしれん。

早速聞いて見るが、予想以上の張りと艶のある美声に大満足である。いわゆるクラシックファンなら、こういう分かりやすさは嫌悪するんだろうが、結局は時間つぶしのエンターテインメントなんだから、安易も迎合もありますかいな。気楽に楽しめればいいわけで。

男性歌手でこの路線をねらったというと、少々いわゆる「カンツォーネ」に傾いているとはいえ、アンドレア・ボチェッリもそう。でも、事故で失明したという不幸な経緯とその風貌が、偶然にも麻原彰晃を連想させるという不利を背負ってしまっていて、市場的な成功に不安を感じさせてしまう。私は大好きなんだけど。

マニアックなところでは最近話題のイアン・ボストリッジだが、この人は哲学と史学をまず修めたというそのインテリ性が、大々的に売れるには邪魔をしてしまいそうな気がする。この前、TVでこの人のコンサートをやっていたが、ジム・キャリーを意識しているのか、要所で顔の反面だけを歪める芸が決まっていた。あのへんを強調すれば大ブレイクにつながるかもしれない。

日本にも、こういう傾向の歌手がどんどん出てきてくれないかと願うものだ。「新撰組」の主題歌をうたっている、ジョン・健・ヌッツォなんか、そういう風に売ればいいのに。まあ、この前彼がTVに出ていたときは、蟹江敬三のそっくりさんだと思ってしまったけれども。錦織健では出川哲朗と区別がつかんのだし。

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2004年6月 9日  iPodその2[アートとかグッズなど]

なんとなく義理(?)で使っているiMacのシステムを再インストールすることになり、バックアップHDDの代わりにもなるかと思って買ったiPodだが、予想外の使い勝手のよさにとどまらず、単なるMP3プレーヤーを超えた商品としての展開力が感じられ、昨年のFOMAにつぐ、本年度の買い物ベスト1の座を獲得しそうな勢いである。

手持ちの主なCDなら、ほとんどコピーしておけるその容量と操作性のよさが、いわば量を質に転換するようなところがあって、音楽との付き合い方がかなり劇的にかわる。今までは拝聴させていただくという感じだったり、聞きたくもないが流れてくるので仕方なく聞いているという、二つの態度に分裂しているところがあったが、いつも個人的データベースを持ち歩いて、積極的に自分から選択して聞くというのが、相当の自由度のもとに可能になるのである。

田中康夫がだいぶ前に書いていた、「たまらなくアーベイン」を、そうセコイ作為なしに実践できるという感じである。もちろん、彼とはかなり音楽選択が違うのだけれど。まあ、いい歳のオッサンがイヤホンつけてブラブラ歩いているのはザマがいいとは言えず、補聴器と間違われるのがせいぜいなので、車のなかで聞くという使い方になるのは仕方のないところ。

今まではCDを車の中に持ち込むと劣化してはイカンと、CD-Rにコピーしたりしていたが、どうもああいう作業は時間ばっかりかかってスマートでない。これならiMacにCDを突っ込んでいくだけで、かなり短時間で曲リストつきのコピーができるのである。カーステレオから聞くために、カセットテープ形の接続アダプタを買うか、FMトランスミッタを買うか迷い、汎用性を考えて純正のiTripを買い込み、さらに物入りになってちょっと痛かったが。

欠点は電池の減りが異様に早いことで、結局車用の電源セットまで買い込む羽目になったが、今までのようにあちこちにCD-Rが山ほど詰まっていて、しかもその半分は傷だらけになって音とびだらけというようなこともなくなり、まことにすっきりまとまった。しかし、これでも多分過渡的な商品なんだろうな、とは思う。将来的には、こんな風に個人的データベースとして持ち歩くようなことをしないで、ネットでオンライン共有するという方向に行くのだろうな。

そこでは、作り手や演奏家の権利を守るためのシステムが考えられないといけないのだが、今みたいに、クリエーターというよりは、それに寄生している連中の利害ばかりを守ろうとするような反応がメインでは、当面その辺は難しそうである。でも、iPodがもっと売れてその革新性に触れれば、必然的に人々はその次の段階を求めるようになると思いますがな。目先の利害のために、もっと豊かなビジネスチャンスをつぶすことのないよう、その手の業界の人には充分な検討をお願いしたいものだ。

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2004年6月 8日  天地有情[本とか映画とかTVとか舞台とか]

自宅になぜか南木佳士のエッセイ集、「天地有情」(岩波書店)が置いてあった。家人が図書館で借りてきたとのこと。このほとんど同世代の医師作家の書いた文章は、新聞や雑誌に掲載されたものを拾い読みすることはあっても、その本をまとめて読んだことはなかった。いままでその単発文章を読む限りでは、それほどその生真面目パワーをヘヴィーには感じられなかったのが、まとめて読んでみれば、あわやノックアウト寸前ともいえる迫力を覚えてしまったのであった。

エッセイ自体の優秀さについてはまたおいおい触れるとして、一番印象深かったのがその題名になっている「天地有情」という言葉であった。本人の説明によれば、それはなんと哲学者の大森荘蔵の文章から由来したものなのであった。南木佳士は大森をしばしば引用するのだ。人間は天地の風情に感情を投影するのではなく、天地そのものがすでに情をもっていて、人はその一部を分け与えられているに過ぎない、というような意味らしい。

大森荘蔵、私にはこの人はある意味、精神外傷そのものなのである。この人の本を訳わからぬまま、一体何冊読んだろう。解説本を読んでもなお理解できないその時間論あたりははじめからあきらめるとして、「天地有情」という言葉の背景である、自然科学の前提とされている他我の分離への批判も私には理解できなかった。

いわゆる科学的分析的客観主義を、日常的な主観のあり方の諸相と対比して解体するという意図はわからないでもないのだが、そもそも、人間の知覚というのはそれ自体現実と同じものではないわけで、というよりある種の情報圧縮をやっているからこそ知覚になるわけで、日常的であろうが科学的であろうが対象化=情報化であって、それはすでに加工されたものなのではないだろうか。

南木はその本の中で、「言葉は状況の一部に過ぎない」という大森の言葉も引くのだが、状況というものだって、人間がそう捉えるものはすでに抽象化されていて、言語的な構造に置き換えられているといえるのだから、大森がいい、南木が捉えなおすほど天然自然のものでもないと思うんだが。

何しろこちらは大森をサッパリ理解できなかったという負い目があるものだから、どう考えても順序がひっくり返ってるだけだと思える、「世界は感情的なのであり、天地有情である」という言葉を確信的に引く南木の豪胆に、ひたすら驚くのである。

そこまで思い切れる南木が、効果が限定されているのは織り込み済みと思えるガンの化学治療を専門としていて、それに傷つき、疲れ果てたポーズを示すのに疑問を感じるのだった。ポーズといえば失礼だが、割り切らないとしょうがない領域をやっていて、そんなに参ってしまわないといけないかねぇ、と思わざるを得ない。

文章力はもちろんのこと、本職に対する誠実さと真摯さも明らかにむこうが数百倍上なのだが、それが現実的矛盾を解決する方向に向かっていないように思えるのである。なにかその誠実さが、変に濫用浪費されてしまっているというか。私みたいにおちゃらけでやっていかないと、そりゃうつ病も遷延するぞ、そのへん誰か指摘してやれよと、その静謐な文章を前に、ひとりイライラしてしまうのである。

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2004年6月 7日  「カサブランカ」、レーガン主演予定説の真偽[都市伝説・デマ・トンデモ]

レーガン元アメリカ大統領死去をうけ、関連の話題を。

かの名作映画、「カサブランカ」は、ハンフリー・ボガードではなく、ロナルド・レーガン主演が予定されていたというのはよくトリビアとして語られる。ちょっと検索してみるだけで、この映画を解説しているいくつものサイトがその説を紹介していて、多少のバリエーションはありながらも、かなり詳しい「予定キャスト」の説明がされている。例えばこちらではレーガンとヘディ・ラマー、こちらではレーガンとアン・シェリダンという配役が予定されていたと記されている。

しかし、こちらの記事によれば、幾度となく映画トリビアとして開陳されたその話は、単なる誤解というか、背景を充分考慮していない短見に基づくものらしい。

映画「カサブランカ」が初めて計画されたのは、1941年の12月のことである。当時、ワーナーブラザースの主任プロデューサーであった、ハル・ウォリスの発案によるものだった。彼の意見でワーナーは、ヴィシー対独協力政権支配にあった仏領モロッコを舞台にした原作、「皆はリックのところに」を2万ドルで買い取った。

ところがウォリスはその2週間後にワーナーを退職し、独立プロダクションを開いて、その施設を使って映画を撮るという契約を、ワーナーと交わしたのである。それまで映画会社のものであった映画制作が、はじめてプロデューサー主導システムにとってかわられたのである。これが多少の混乱を招いた。当然、まだほとんどの映画製作は映画会社が取り仕切っており、「カサブランカ」の場合、初期のプレス発表は映画会社によってなされた。

1942年1月、「ワーナーは仏領モロッコを舞台にした活劇、『カサブランカ』をアン・シェリダン、ロナルド・レーガン、デニス・モーガンらの競演で製作する」というワーナー発の公式記事がでたのは、そういう事情のもとであった。つまり、製作者のウォリスは、まったくこの記事内容にはかかわっていなかったのである。

一方では脚本はこの時点で部分的にも出来上がっておらず、ハル・ウォリスはそのプロデューサーシステム初の作品を二本抱えていたため、配役も当然決まっていなかった。映画会社がその発表でレーガンたちの名を出したのは、上映間近の彼らの主演映画の宣伝のためであった。

しかも、仮にウォリスがレーガンを使おうと考えていたとしても、そのチャンスはなかった。彼はすでに陸軍少尉として招集されており、製作中の映画公開までの一時的猶予でワーナーに在籍していただけで、とてもそれから製作される映画に出演することなど出来なかった。

実際、ウォリスの発言や残されたメモによれば、彼がボガード以外の配役を考えていなかったことは明白であるそうだ。ワーナーのほうは、ウォリスに何度か別の配役を示唆したようではあるが。それまでのシステムでは、俳優たちもそれぞれ映画会社と契約していて、会社側のプログラムに基づいて映画に割り振られていた。契約映画会社が違うと、どんな人気俳優であっても競演することも出来なかった(日本では近年までこのシステムが続いていた筈である)。

それがウォリスのはじめたプロデューサーシステムでは、俳優たちは所属会社から離れて個別の映画制作プロと契約することになった。プロデューサーは自由に配役を企画でき、映画はよりその作品性を高めることが出来るようになったのである。

つまり、レーガンが「カサブランカ」に主演する予定だったという噂の根拠は、それまでの映画会社によるプログラムピクチャー制の名残であった、適当な新聞発表だったわけである。歴史のIFというのはよく語られることで、この噂をもとにして「もしレーガンが『カサブランカ』に出ていたら」という小話もあちこちで語られる。

もしそうなっていたら、誰にも記憶されない冴えないB級メロドラマがひとつ生まれただけのことではないかと思うのだが、中にはレーガンが大スターになって大統領にならないので、冷戦構造も脱却できず、ソ連との一大決戦が勃発する、なんて内容のIFまで出てくるのである。

しかし、この場合に限って、IFはどうも成り立たないようだ。あの映画が名作として人々に記憶され、レーガンが政治家としてのキャリアを歩んでいくには、やはりそれなりの必然があったのである。レーガン氏の、俳優で成功するには不十分ながら、大統領をこなすには必要充分であった演技力と感動喚起力の思い出に。"Here's Looking at You."

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2004年6月 6日  小学生「死亡」事件について[社会・歴史]

こういう事件があると、私なんかも専門家の1人だと思われるらしく、なにか気の利いたコメントでもあるのではないかと、いろいろ質問されたりするのでかなわない。時事には基本的には触れないといいつつ、こういうことにはまるきり無能なのだということを告白するつもりで、ある程度意見をまとめておきたい。

まず、結構あちこちでいわれるように、子供が殺人やそれに準ずる悪質犯罪を犯すということ自体はそう不思議なことではないと思う。こういうサイトをみると、むしろ最近はまれになってきているとすらいえる。今回の事件では、きっかけがサイト掲示板の書きこみだったということで、ネット社会の歪みだの何だのというところに、話が無理やり持っていかれそうな雰囲気があるが、まず何の関係もないといって間違いないと思う。

私自身、つまらぬメールのやり取りでケンカを仕掛けられたり、逆襲したりの経験も数あるが、あんなもの、腕力を介して渡り合うわけでもなし、たんなる下手な修辞のエスカレートに過ぎないし、現に数日もすれば忘れてしまうようなものだ。大きな掲示板なんかで、ちょっとイカレた荒らしサンが特定され、住所氏名が晒されていたりする事があるが、実際に暴力事件に発展したことなどない。あるわけがない。たかが言葉にすぎぬものに、直接行動を惹き起こす力なんてないのである。

やはり行動そのものを惹き起こすには、人間の生理(心理の間違いにあらず)に働きかけるものがないといけない。それはふつうなら具体的利害であるわけだが、それと同等の脳内過程を生み出すような精神疾患とか、閉ざされた人間関係内のゆがみというようなものも動因となる。なにより、対等な関係性を維持する意図というのは、予想以上に突発的な逸脱行動の原因となりうる。

経済的要素はもちろん、性的な要素すら希薄な前思春期というものは、人間関係というものが異様に単純な格子状配列に還元されるもので、そこでの対称性を維持する努力というのは、成員にとって最優先なのである。かってその小社会を形成していたことのある私たち自身、その事実を覚えている人は少ないのだけれど。

一時ACというキーワードが世にはびこった事があるが、あれも性格特性として貧困化して理解するのでなく、本能的な対称性維持努力として一般的に捉えるべきものだと私は思っている。あんまりスカな親との対称性維持を続けているうちに、天秤台がへしゃげてしまったわけ。

そういう「と」系理論の開陳はまた別の機会にするとして、私のこういう事件への具体的な方策は至極簡単なものである。要は多様なプラットフォームを用意するというだけのこと。学業とかスポーツだけでは個人差が大きすぎ、そこでの対称性維持はなかなか難しい。ネットなんてなかなかいいと思うんだけれど、ガキどもはむしろ密室的に使っているらしいので、もっと開かれた使い方を指導する必要はあるだろう。

あとはまあ、料理だとか、ゲームとか、株売買とか、あちこちでやられていることは一杯あって、そういう多様性は明らかに今のほうが上なので、それが実際に少年犯罪が減ってきている理由の一端になっているのだと思う。

というわけで、これ自体はたしかに悲しい事件ではあったものの、恐れることなく子供たちの生活価値の多様性を追及していけば(ただ、学校がオモテでやることではダメで、裏ルートの多様性でないとあんまり効果はないと思うが)、そんなにひどいことになるとも思えないというのが、私のはなはだ楽観的な意見である。

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2004年6月 5日  馬鹿が戦車でやってくる[社会・歴史]

現地時間6月4日午後(日本時間、本日早朝)、米国コロラド州グランビィでおこった、手製の装甲ブルドーザーによる町の打ち壊し事件は、どうも実行犯(52)の死で幕を閉じたらしい。TVでは報じていたのに、なぜか日本のウェブ報道が鈍いのが不思議。こちらでは早速とりあげているけれど。

この町で車の(多分)マフラー販売業を営む52才の男性が、自分の店の隣にコンクリートプラントがつくられることに反対して起こした訴訟に負け、反対に浄化槽基準を守っていないことに罰金2500ドルを課せられたことに激怒したのが、この行動に出たきっかけとのことだ。

男は25mmの鉄板を溶接し、50口径ライフルも装着した装甲ブルドーザーを作りあげ、隣のコンクリートプラントを始め、町の有力者が経営する地方紙の社屋、市役所と図書館、元市長宅などをぶち壊しまくった。警察は銃撃や、重機による阻止を図ったがまったく歯が立たず、SWATの出動を要請して数度の重火器による攻撃を行ったらしい。

結局、装甲ブルドーザーは、店舗裏の建物に突っ込んで身動きが取れなくなった。警察がそこで男を射殺したとされている報道もあるが、いまいちハッキリしない。実行犯の自殺をほのめかす報道もある。(こことかを参照のこと。ビデオもあってなかなか迫力満点)

詳しいことは今後の報道を追うとして、これを聞いてまず思い出したのが、題名にした「馬鹿が戦車でやってくる」という、ハナ肇主演の日本映画(64年)である。これはかの山田洋次監督のシリーズものの一つで、あの「寅さんシリーズ」のプロトタイプとなった映画である。深夜映画で何べんか見た事があるのだが、変わり者のいじめられキャラが、耐えに耐えたのち、最後に戦車で町の大破壊を図るという、まさしくこの事件と全く同じ構図をもったストーリーであった。(こちらを参照のこと)

コロラドの田舎町で、山田洋次のこの映画が放映されたことが事件のきっかけだった、なんて話だったら面白い(といっては不謹慎だが)んだがなぁ、と感じた次第。実行犯は誰も傷つけていないという分別も、不幸中の幸いである。アメリカの保守本流地帯でおこったこの事件が、虐げられた人のゴマメの歯ぎしりパワーを知らしめてくれるのなら、この事件にも多少の役割があったのかな、なんてさらに不謹慎な考えが浮かぶのだった。

2004年6月 4日  謎の戦闘映像[都市伝説・デマ・トンデモ]

The Museum of Hoaxes、6月3日の記事より。

その男はエリック・ブルダートンと名乗っている。彼は高度の安全保障にかかわる極秘業務についているという。彼がウェブを通じて事実の一部を明かそうとしていることそれ自体が、彼の仕事を危機に導く可能性があり、それは彼自身の生命の危険をも意味する。それでも彼は、より普遍的な責任を感じて、この映像(QuickTimeムービー、約5M)を世に問うのだという。(そのサイト自体ははこちら

映像は数人の武装した男たちがこもっている建物に、外部からロケット弾で攻撃が加えられているところから始まる。男たちは一見アラブ風のスカーフを首に巻き、カラシニコフ銃をもっているが、明らかにネイティブな英語をしゃべっている。男たちは建物から脱出しトラックで逃げるが、ジープにのった攻撃側は、ロケット弾を乱射しておいかけてくる。

実際に見ていただければわかるが、カメラは男たちと一緒に移動しており、飛んでくるロケット弾や、それが爆発して飛び散る破片はどう見ても作り物とは思えない(本物を見たことないが)。エリック・ブルダートンはこの映像について、「この男たちが何者なのかは知らないし、彼らを攻撃している連中についても、なぜ彼らが狙われているのかも知らない。これがどこであるのかも知らないが、中東のどこかであろう。言える事はただ、これが極めて重要なものだということだ」と書き添えている。「沢山の人がこれを知ることで、それは秘密でなくなる。協力して欲しい」とも。

さてさて、これは何なんだろう。出来のいいフィクションムービーを、もっともらしい見せ方で極秘映像に仕立てたのか、それとも本物か。本物だとしたら、英語をしゃべるあのアラブ風傭兵たちは、どこで何をしていて、誰に攻撃されていたのだろうか。かなりの陰謀論的筋書きを妄想してしまいそうな物件であるのだが、全く真偽の程は不明である

映像のリンクはすぐに切れそうな気がするので、こちらに保存しておいた。気安くそんなことすると、えらくヤバいことになったりして。

(追記)やっぱりこれはガセでした。今年の8月に公開予定の映画"September Tape"のプロモーションとのこと。「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」の二番煎じで、噂による宣伝効果をねらったものですな。タリバン放逐後のアフガンに入ったジャーナリストが誘拐され、その様子を移したビデオテープが発見されるというような内容らしい。こちらに公式サイトがあるので参照を。ちらりとでも陰謀論親和的になったのがお恥ずかしい。
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2004年6月 3日  六本木ヒルズ[日常・随想]

今日は職場の「創立記念日」ということでお休み。どんな理由であれ、休みというのはいいもので、創立された記念日だけでなく、創立しなかった記念日も作ってくれたら、一年中休みになって丸儲けなんだがな。まあそういう訳にも行かないだろうから、三百数十分の一の儲けで我慢し、朝寝もほどほどにして、六本木ヒルズの森美術館でやっている「MoMA展」を見に電車でお出かけ。

展示会のテーマは「モダンってなに?」なんだそうで、ニューヨーク近代美術館の抜粋みたいな内容である。結構有名な作品もそこそこあるのだが、なんとなく微妙に二線級を持ってきたような気もしないではない。レコードのB面に入っている曲ばっかり聞かされるコンサート、という感じである。なんていっても、CDもぼちぼち時代遅れになりかけている昨今、意味が伝わらんか。

なんだかんだいっても、本家のほうをみる予定もないので、こういう機会でもないと本物をみられない。二線級なんていったが、キュビズムと構成主義関連の作品群は、かなり品揃えされていたので、そこら当たりはまあ満足。

それにしてもこの六本木ヒルズというところは、あらゆるところに若い従業員があふれている。あんなにたくさん人を雇って採算があうのだろうか。中でもセキュリティ関連の人の動きは明らかに非能率で、どうみてもわざわざ仕事を増やしているだけである。そのくせ、穴はやたらに目に付く。

そのやる気のなさを見ていると、オサレなところで働けるのだからと、やたらに低賃金で働かせているのではないかとちょっと疑ってしまう。人件費高騰でにっちもさっちも行かなくなった日本経済への、古くて新しい処方箋なのかもしれんが、ダレた従業員が一杯いるという雰囲気はあんまり気持ちのいいものではない。お役所だって最近はもうちょっと仕事している振り見せるものだけれど。

田舎モノが都会のやり方に文句言っても仕方ないので、おのぼりさんらしくビル内のレストランで遅めの昼飯を食っていくことにする。ただそのレストランがイマイチの感じのところばかりで、せっかく都会で数ヶ月に一度の衒示的消費を決めようと思っているのに、それに答えてくれるところが見つからないのが、かえすがえすも残念なのだった。まあ、ジーンズにゴムゾーリはいて出かけている人間がいう苦情ではないものの。

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2004年6月 2日  線維筋痛症[医学・科学関連]

昼休みに自室に戻ると、薬屋さんがデスクの上に宣伝雑誌をおいてくれていた。そこに「線維筋痛症」という疾患についての記事があり、聞き覚えのない病名なので、いつもは読みもせず捨てるだけの雑誌を、昼寝もやめて熟読する。その記事の著者である医師の作ったサイトも紹介されていたので、そちらもざっと目を通す。

それらを読むと、線維筋痛症とは「身体の広範囲に強い痛みを起こす原因不明の病気」であり、検査をしても特別の異常が見つからないものだそうだ。それを抱えた人はリウマチではないかとリウマチ専門医を訪れることが多いため、リウマチ学会を中心に今関心が広がりつつあるという。

でも私、昔からこういう人一杯みてきたし、今もみていますがなぁ。日本の、と限定する事も無いのだが、医療業界では客観的な検査所見がでないものは病気ではないとされることが多く、本人がいくら症状を訴えようと(時には目で見てハッキリした異常があろうと)、検査データとしてそれが示されないものは「気のせい、こだわりすぎ、ストレスのせい」とされることが多い(そのくせ、本人が「風邪だ」と主張すると、熱もないのにヘビーな抗炎症剤と抗生物質どっさり出すような医者も結構いるのだから、わけが判らんのだが)。それでもしつこく治療を求めると、形のないモノを見る唯一の診療科とされる、私らのところへ送られてくる仕組みになっていた。

最近は心療内科というような欺瞞的診療科名が通るので、敷居はかなり低くなっているが、ちょっと前まではこの敷居は非常に高く、ほとほと困り抜いた人しか来なかったため、逆に覚悟が出来るのか、案外治療には簡単に反応してくれたものだ。そういう訴えをする人は、かなり抑うつ的になっているレベルから、痛み以外のことに関心を振れないとうような、余裕を失っているだけの例までかなり幅があり、いわゆる精神科的対応が必ず必要というものでもない。

ごくごく簡単な認知療法的枠組み(といえばもっともらしいが、要は自分の症状を客観化する距離を持ってもらうようにするというだけ)で、必要な人には抗うつ効果のある薬剤をつかいながら、対症療法していくというのが方針のすべてであるが、まあそれで結構何とかなるものだ。もちろん普通の抗炎症剤とか、神経ブロックなども併用する。身体科でよく使われるミオナールなどの筋弛緩薬はふつうまず効かないので、確実に筋弛緩作用のある抗不安剤の使い分けに慣れている我々は、ほんのちょっとアドバンテージがあるといえる。

この状態の本質は、どうも体内知覚の伝達と抑制にかかわる未知のメカニズムの失調にあるらしい(例によって私の勝手な理解なので、眉に唾して読んで欲しいが)。実際に自己免疫疾患を持っている人に、この状態が発症することも結構あるそうだ。免疫システムというのも、要は情報伝達システムにほかならぬのだから、神経系知覚と絡み合っていることは容易に予測される。精神と身体を別のものとして、どちらかだけに問題があるというようなことがいえる訳はないのである。

いわゆる「慢性疲労症候群」ともかなり重複する部分があるとのことだが、そもそも主訴を大雑把にまとめたに過ぎない線維筋痛症やら慢性疲労症候群を、何かの実体だと考えるのが無理だと思える。千差万別の多様な身体知覚の変容という状態があり、その独自性を尊重しつつ、効果的な対症療法を積み重ねていき、背後にある(かもしれない)共通の本体にせまるという戦略が取られるべきであろう。

というわけで、多少の違和感を覚えないでもないのだが、「検査データに現れないものは病気ではない」とする風潮への逆流が生まれているらしいのは、なんであれ喜ばしいことだ。マニュアル優先にならざるを得ない医療現場では、こうした実体的な概念化が先行するのも仕方ないだろう。トータルに疾患を捉えるというのは題目としてよく語られるものの、なんだか気色の悪い「人間的共感」みたいな見当外れに流れがちだ。こういう状態への対応を通じて、多元的に疾患にせまる科学的方法論が浸透していくことを望むものだ。

なんか、もうちょっとおちゃらけにするつもりだったのに、えらく真面目な内容になってしまった。基礎的な文献なんかを丹念に読まず、通り一遍で書くとこういう一見もっともらしいものになるという実例。

2004年6月 1日  新職場1日目[日常・随想]

パートで行っていた方の職場を変えて今日が1日目。今までみていた人たちの8割近くはこちらに来る予定ではあるものの、はじめはゴタゴタするだろうからと、月なかば以降の受診で済むように工作したおかげか、ほとんど仕事がない。

それでもそこそこ新患が来るのと、入院患者のコンサルテーションもあって、全く給料泥棒という雰囲気でもない(筈)。ICUにいくと薬物系自殺未遂(それも常習)が2例もいて、どうもこのあたりが当面の仕事になりそうだなと、少々暗い気持ちになる。苦手なんだよね、こういう人たち。そんなにやりたいなら、元気を出して最後までやりとおせばいいんではと、心の底では思っているわけで。

人生常に行き当たりばったり、という哲学(?)を持っている私には、生きていくことに意味を見出せなくなるという観念がいまいち了解不能である。意味なんかを抱えて、人は暮らしているものなんだろうか。生きのびていく可能性を追求するために冒険するとか、利害反する相手と刺し違えるしかない、なんて状況なら理解も出来るんだけれど。

実際自殺を試みる人で、考えた挙句にそうするなんて人は多数派とはいえない。いろんな軋轢があり、ストレスがあっても、それなりに対応していたはずなのに、突然自殺に走るという例は数多いし、失敗した場合、あとでその時の記憶を欠く人も多い。思いつめた挙句、という例の場合は自殺予防の相談プログラムも意味があるんだろうけれど、私がかかわっているような例では、あんまり役立ちそうにもないのだ。

だからそういう理性的かつ良心的な対応は無意味だ、といっているわけではないが、それだけでは対応できない要素がこれにはあるというのを、ちょっと覚えてもらっておいてもいいかな、と。なんであれ、急にカタスロフが来る例では何をしようもないし、そうでない例には古典的対応を誠意を持ってやり続けるしかない。でも、そういう例に入院を勧めるのだけが方針というのが、古典的対応なんだけど。

少なくとも、強制的収容で問題が解決するわけがないというのに容易に気づくという点で、精神科医が典型的精神科治療施設で仕事をしないメリットというのはあるんですな。なんであれ、私の本格的精神科医療キャリアは総合病院の救急対応から始まっているようなものなので、今度の職場ではその経験を少しでも還元するようにしたいと思うものだ。でも、仕事は少なめにして欲しいが。

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