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こういう事件があると、私なんかも専門家の1人だと思われるらしく、なにか気の利いたコメントでもあるのではないかと、いろいろ質問されたりするのでかなわない。時事には基本的には触れないといいつつ、こういうことにはまるきり無能なのだということを告白するつもりで、ある程度意見をまとめておきたい。
まず、結構あちこちでいわれるように、子供が殺人やそれに準ずる悪質犯罪を犯すということ自体はそう不思議なことではないと思う。こういうサイトをみると、むしろ最近はまれになってきているとすらいえる。今回の事件では、きっかけがサイト掲示板の書きこみだったということで、ネット社会の歪みだの何だのというところに、話が無理やり持っていかれそうな雰囲気があるが、まず何の関係もないといって間違いないと思う。
私自身、つまらぬメールのやり取りでケンカを仕掛けられたり、逆襲したりの経験も数あるが、あんなもの、腕力を介して渡り合うわけでもなし、たんなる下手な修辞のエスカレートに過ぎないし、現に数日もすれば忘れてしまうようなものだ。大きな掲示板なんかで、ちょっとイカレた荒らしサンが特定され、住所氏名が晒されていたりする事があるが、実際に暴力事件に発展したことなどない。あるわけがない。たかが言葉にすぎぬものに、直接行動を惹き起こす力なんてないのである。
やはり行動そのものを惹き起こすには、人間の生理(心理の間違いにあらず)に働きかけるものがないといけない。それはふつうなら具体的利害であるわけだが、それと同等の脳内過程を生み出すような精神疾患とか、閉ざされた人間関係内のゆがみというようなものも動因となる。なにより、対等な関係性を維持する意図というのは、予想以上に突発的な逸脱行動の原因となりうる。
経済的要素はもちろん、性的な要素すら希薄な前思春期というものは、人間関係というものが異様に単純な格子状配列に還元されるもので、そこでの対称性を維持する努力というのは、成員にとって最優先なのである。かってその小社会を形成していたことのある私たち自身、その事実を覚えている人は少ないのだけれど。
一時ACというキーワードが世にはびこった事があるが、あれも性格特性として貧困化して理解するのでなく、本能的な対称性維持努力として一般的に捉えるべきものだと私は思っている。あんまりスカな親との対称性維持を続けているうちに、天秤台がへしゃげてしまったわけ。
そういう「と」系理論の開陳はまた別の機会にするとして、私のこういう事件への具体的な方策は至極簡単なものである。要は多様なプラットフォームを用意するというだけのこと。学業とかスポーツだけでは個人差が大きすぎ、そこでの対称性維持はなかなか難しい。ネットなんてなかなかいいと思うんだけれど、ガキどもはむしろ密室的に使っているらしいので、もっと開かれた使い方を指導する必要はあるだろう。
あとはまあ、料理だとか、ゲームとか、株売買とか、あちこちでやられていることは一杯あって、そういう多様性は明らかに今のほうが上なので、それが実際に少年犯罪が減ってきている理由の一端になっているのだと思う。
というわけで、これ自体はたしかに悲しい事件ではあったものの、恐れることなく子供たちの生活価値の多様性を追及していけば(ただ、学校がオモテでやることではダメで、裏ルートの多様性でないとあんまり効果はないと思うが)、そんなにひどいことになるとも思えないというのが、私のはなはだ楽観的な意見である。
投稿者 webmaster : 2004年06月06日 23:56
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