« 「カサブランカ」、レーガン主演予定説の真偽 | メイン | iPodその2 »

2004年06月08日  天地有情 [本とか映画とかTVとか舞台とか]

自宅になぜか南木佳士のエッセイ集、「天地有情」(岩波書店)が置いてあった。家人が図書館で借りてきたとのこと。このほとんど同世代の医師作家の書いた文章は、新聞や雑誌に掲載されたものを拾い読みすることはあっても、その本をまとめて読んだことはなかった。いままでその単発文章を読む限りでは、それほどその生真面目パワーをヘヴィーには感じられなかったのが、まとめて読んでみれば、あわやノックアウト寸前ともいえる迫力を覚えてしまったのであった。

エッセイ自体の優秀さについてはまたおいおい触れるとして、一番印象深かったのがその題名になっている「天地有情」という言葉であった。本人の説明によれば、それはなんと哲学者の大森荘蔵の文章から由来したものなのであった。南木佳士は大森をしばしば引用するのだ。人間は天地の風情に感情を投影するのではなく、天地そのものがすでに情をもっていて、人はその一部を分け与えられているに過ぎない、というような意味らしい。

大森荘蔵、私にはこの人はある意味、精神外傷そのものなのである。この人の本を訳わからぬまま、一体何冊読んだろう。解説本を読んでもなお理解できないその時間論あたりははじめからあきらめるとして、「天地有情」という言葉の背景である、自然科学の前提とされている他我の分離への批判も私には理解できなかった。

いわゆる科学的分析的客観主義を、日常的な主観のあり方の諸相と対比して解体するという意図はわからないでもないのだが、そもそも、人間の知覚というのはそれ自体現実と同じものではないわけで、というよりある種の情報圧縮をやっているからこそ知覚になるわけで、日常的であろうが科学的であろうが対象化=情報化であって、それはすでに加工されたものなのではないだろうか。

南木はその本の中で、「言葉は状況の一部に過ぎない」という大森の言葉も引くのだが、状況というものだって、人間がそう捉えるものはすでに抽象化されていて、言語的な構造に置き換えられているといえるのだから、大森がいい、南木が捉えなおすほど天然自然のものでもないと思うんだが。

何しろこちらは大森をサッパリ理解できなかったという負い目があるものだから、どう考えても順序がひっくり返ってるだけだと思える、「世界は感情的なのであり、天地有情である」という言葉を確信的に引く南木の豪胆に、ひたすら驚くのである。

そこまで思い切れる南木が、効果が限定されているのは織り込み済みと思えるガンの化学治療を専門としていて、それに傷つき、疲れ果てたポーズを示すのに疑問を感じるのだった。ポーズといえば失礼だが、割り切らないとしょうがない領域をやっていて、そんなに参ってしまわないといけないかねぇ、と思わざるを得ない。

文章力はもちろんのこと、本職に対する誠実さと真摯さも明らかにむこうが数百倍上なのだが、それが現実的矛盾を解決する方向に向かっていないように思えるのである。なにかその誠実さが、変に濫用浪費されてしまっているというか。私みたいにおちゃらけでやっていかないと、そりゃうつ病も遷延するぞ、そのへん誰か指摘してやれよと、その静謐な文章を前に、ひとりイライラしてしまうのである。

投稿者 webmaster : 2004年06月08日 22:23

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://med-legend.com/mt/mt-tbcba.cgi/125

このリストは、次のエントリーを参照しています: 天地有情:

» 即物有情@句をひねる from 株と思索と短歌のサイト
メモ帳をデスクトップに貼り付けて、そこで俳句の在庫管理(平均在庫4首、及び不良品 [続きを読む]

トラックバック時刻: 2006年11月16日 05:14