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2004年06月11日  役割の回復 [医学・科学関連]

老人痴呆病棟で実習していた、作業療法士過程の学生たちの実習終了レポート評価におつき合い。6ヶ月に一度ほど回ってくるのだが、そのおおかたは見当外れとはいえ、それなりに意外な面をついてくる(こともある)実習生の意見に触れると、逆にいろいろと考えさせられる機会になる(こともある)。

以前、「治療方針」についてたずねられて当惑する、という話を書いた事があるが、相変わらずそれは同じであるものの、「病をえた不運と、避けがたい悪化とその結果としての死を、本人とそのサポーターたちが受容する過程を援助しつつ、いくぶんかでも状況の固定、もしくは改善を希求する」などと、回りくどく返事するようにしている。「よくなりゃいいけど、ちょっと無理なので、ま、いいかと思える余裕を皆に持ってもらう」では、意味はほぼ同じでも、身も蓋もないといわれてしまうので。

今回のレポートはどれも公式的に評価するなら優秀といえるものばかりだったが、どうもあまりに定式的なのがこちらのヒネクレ根性に引っかかる。なんといっても気になるのが、どれもこれも「患者さんの役割の回復を図り」と判で押したような文句が入っていること。いつごろから始まったか定かではないのだが、看護学とかリハビリ理論にいわゆる社会学的なアイデアが盛り込まれるのが普通になっていて、どうも学校でも教えられるらしいのだ。

そういう理屈からは被治療者への援助目的というのは、その人の社会的役割の回復ということになり、病棟のなかで以前果たしていた社会的役割の回復契機をつかませることが、作業療法や生活療法、ひいては治療全体の戦略ということになるのである。もちろん、それはそのとおりで、どこにも間違いはない。社会的役割を果たしている人というのが、健康な人と同義に語られるのだから、役割回復というのは健康を取り戻すということに他ならない。

これが外科の手術後のリハビリなら、別に社会的役割をもってくることもなく、以前の身体的能力の回復をいえばいいわけだが、痴呆老人の能力を元に戻すことは現実には不可能なので、「社会的役割」などとあいまいにいっておけば、身体的リハビリと同じ枠組みで語っているかにみえ、専門家が仕事できる振りの余地が生まれるわけである。いうならば、一応方針を示したぞという、アリバイ作りなのだ。ふつうならため息一つついて見逃すところだが、今日はなんとなく機嫌が悪かったのでネチこく責めてみる。

「あなたはこの老人の社会的役割の回復をいうが、そのためには元の能力が戻ってこないといけない筈。それはどうするの?」その返事はもちろん予想範囲。「いえ、能力の回復は不可能にしても、かっての役割に近いものならいいと思うんです」、「近いものとはなんですか?」、「仕事を通じて、人々に喜ばれ、受け入れてもらえるという実感です」、「実感?根拠のない妄想をもてばいいと?」、「いえ、やはり具体的に受け入れてもらえる内容も必要で……」、「人々に受け入れられるような仕事が出来れば、こんなところに入院していないだろ。だいたい、90近くにもなった人に、まだ仕事させるの?」、「いえ、仕事そのものでなく、あくまでそれを通じた役割を……」。

もうこのあたりで相手は半泣きになっているので、意地悪はやめて概説にはいるのだが、普段は建て前的な「役割」理論に近いことをいわないでもない手前、ここから一般的な医療的姿勢を導くのはなかなか難しい。「甘く美しき野垂れ死をすべての痴呆老人に」、なんて風に口滑らしたら、変わり者と思われるだけなんだし。受け入れられるぎりぎりのところは、上に書いたような「受容論」になる。

「受容」なんていうけれど、痴呆が進行していく人を相手にそういうこというのも建て前だろうと、引っかかる向きもあるかもしれないが、それが案外そうでもないのですな。お互いなすことをなし終えたという、非言語的共感に結ばれることもあるから、この商売はそう空しくならずに済むのである。

投稿者 webmaster : 2004年06月11日 20:33

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