どこかでも書いたが、私の科学技術とか、さまざまな知識に対する興味というか、方向性というのを形作ったのは、子供の頃読んだ少年雑誌の解説記事であった。そういう記事には小松崎茂なんかのイラストが添えてあったりしたのだが、どうも私は映像認知に欠陥があるらしくあまりそれには関心がもてず、もっぱら記事の内容自体に夢中になったものだった。
今覚えているものでは、例えば「イタリアの不老不死の研究」なんてのが印象的である。身寄りのない子供を全く教育せずに育て、一定の年齢に達したら電気的な手段で老人の大脳パターンをその子供に移しかえる。白紙の意識になった老人の肉体は「硝酸で処理して消滅させる」、なんて怖いことが平気で書いてあった。かのオウム教団では、修行中の事故死とかリンチ死を誤魔化すために、死体を薬剤で溶かしたりしたことがあるらしいが、絶対その発想の出所は同じ少年雑誌の記事なのではないかと思ったものだった。
さて、そんな記事の中に「台風を科学の力でコントロールする方法」もまた書かれていた。いくつかあったはずなのだが、覚えているのは二つである。一つは発生直後の台風の目あたりに、小型の原爆を放り込むというもの。核エネルギーの前に、自然エネルギーなどたちどころに吹っ飛んでしまう、というのだ。子供心にも、これでは上昇気流があおられるばかりで、さらに強力な台風になって、しかもそれが放射能で一杯という、はなはだ厄介なものになるのではと思われた。
もう一つの方法は、低気圧の発生そのものを阻もうという、結構理詰めの方法だった。台風が発生する海域に大量の油を流し、海面からの水蒸気発生をブロックすればいいというのである。これを読んだのは伊勢湾台風という巨大台風が日本を襲い、かなり悲惨な被害をもたらした直後で、我が家も水没して家財道具から何からパーになったので、そんな素晴らしい方法があるならぜひとも実行するべきだと思ったものだった。
実際、その後台風というのは、波はあるもののそんなに来なくなり、たまにやってきても、伊勢湾台風やそれ以前の巨大台風と比べれば、かなり控えめな被害しかもたらしていない、という印象があるのだ。防災対策が進んだというのもあるだろうが、私はこれには絶対、高度成長のおかげで海洋汚染がすすみ、少年雑誌に書いてあったような「台風制御法」が、図らずも成り立ったからではないかと思っている。
したがって、今年の台風ラッシュの原因も明らかであろう。環境汚染対策のおかげで海洋汚染レベルが下がり、海面から蒸発する水蒸気の量が増えて低気圧発生のチャンスが増えたに違いない。これ以上の台風被害を食い止めるために、日本政府はぜひ抜本的対策を行うべきだ。原油をたっぷり積み込んだ退役寸前の巨大タンカーを数隻、南鳥島沖あたりで転覆させるだけでいい。
これを実行できれば、コイズミさんも歴史に残る事間違いなしである。今やってるほかの政策だってこれと似たようなものなんだから、思い切ってやってみたら?
1859年の今日、ドイツ、ゲッチンゲン大学の化学研究者、アルバート・ニーマンはコカの葉から、アルカロイドC17H21NO4を単離抽出することに成功した。ニーマンはそれをコカインと命名し、強力な局所麻酔剤としての効果を確認した。
なお、ニーマンはこの発見の2年後にわずか41歳で死んでいるが、その原因は不詳である。なお、彼は「ニーマン・ピック病」に名前の残る小児科医、もう少し世代の若い同名のアルバート・ニーマンとしばしば混同されるが全くの別人である。
コカインはその後合成が可能となり、ババリアの軍隊で兵士に対して戦闘力を増す薬物として19世紀末に使われたりしたが、これが嗜癖性薬物として流行するのには、かのS・フロイトの「功績」があったことはあまり知られていない。
フロイトは1880年代にコカインについて研究し、うつ状態や神経症への効能を主張して、自分でも常用し、妻や友人、そして自分の患者に対してもその使用を勧めていた。疼痛性疾患を抱えていた友人の生理学者、エルンスト・フォン・フライシェル-マルホフはフロイトに勧められるままコカインを常用するようになり、深刻な中毒症状を呈するに至った。ほかにも中毒症状を呈する人がフロイト周辺には頻発し、彼はかなりの非難を浴びることになる。
しかし、彼自身やその妻(こちらについては議論あり)はかなりの常用者であったにもかかわらず、全く中毒症状を示すことはなかった。彼は死の直前まで、コカインの積極的な効能を周囲に主張していたという。ま、人によりけりということらしいですな。私はこの手の薬はすべて合法化するべきだと思っているので、なんともない人もいるということを示してくれただけでも、フロイトはえらいとおもいます、ホント。
アルバート・ニーマンがコカの葉からうまく抽出したので 8月30日はコカイン記念日
7月と8月の記事を各ジャンルに移動する。最近この作業が滞りがちで、それはあまり意味があるとは思えなくなってきているからだ。MTをジャンル別のアーカイブをつくる設定にすればいいだけのことではないかなと、ずっと考えているのだが結論がでない。
ジャンルに移すといっても、そう適切な分類が出来ているわけでもなく、文章のリファインもいい加減になってしまっているしね。もうトップページをMTにして、今までのはすべて過去ログということに切り替えようかとも考えるのだが、サイトというのはまず表紙があるのものだという固定概念からなかなか自由になれまへん。
でも、常に最少の努力で物事に当たることをモットーにしている私としては、いい加減に結論を出すべきであろう。なるべく早めに、MTをメインにしたサイトの模様替えをやるということを宣言しておこう。MySQLデータ修正もついでにやろう、この際。
「最上のWebサイト」、8月27日の記述が面白い。ご本人は理論物理出身の認知神経科学研究者なのだが、ニューロンの興奮を、それが運ぶ情報という観点から見なければいけないことを正しく指摘しておられる。私の知る限り、こういう視点で神経科学をやっている人はほとんどいないと思う。
ニューロンというものは興奮するかしないかのどちらかで、それだけなら1ビットの情報しか運ばない。それが何らかのまとまった情報を担うためには、単位時間内での発火頻度のパターンか、他のニューロンの発火との組み合わせパターンがコードになっているはずである。現在の脳科学では、そういったところはあいまいに無視されていて、個々のニューロン発火と、それが次に伝達されるのをアナログ的に検討している場合がほとんどである。
精神医学のレベルにまで降りてくる理論になるとそれは顕著で、例えば向精神薬はシナプスでの興奮伝達の閾値にかかわると説明されるのだが、まるで神経伝達物質そのものが情報であるかのような扱いをされている。SSRIのんでセロトニンがまったりと増えてくれば、気分爽快、生きてく意欲が出てくるなんて説明では、ニューロンというのは単なる内分泌器官であるということになってしまう(もちろん、そういう側面はあるけど)。
ニューロンの活動を情報量の観点から検討するというのは、絶対に脳科学に新しい知見をもたらすに違いないと信じているんですがね。自分でもそういう方向からの検討というのは必要だという直感はあったんだけど(アリバイを示すなら、こことか)、頭のつくりが粗雑でやりぬけまへんでした。ぜひ最上氏にはそのあたりの先駆者として、活躍してもらいたいものだと思う。できれば、スカスカ頭にも理解できるように噛み砕いた説明を早めに日記に書いてね。

軍事オタクならずとも、多少は心が躍る特殊塗装を施されたヘリコプターの写真。”9・11を忘れるな!”風愛国主義的テイストにあふれたサイトにかかげられていて、そのキャプションがふるっている。「この特殊塗装されたヘリコプター、Mi24は現在アフガニスタンに派遣されていて、現地では多大な衝撃を与えている。素晴らしい塗装だ。さあ、眼を覚まして悪人どもがこのヘリをどんな風に眺めているか、見たくはないか??」
確かに見事な塗装で、米国の象徴である鷲を表現しているように見える。これでゲリラはびびりまくるぞ、神よアメリカに祝福を、と勇ましくあおっているわけだけれど、冷静な人のほうが多いらしく、いくつかのサイトでこの写真の出所が暴露されている。
これはハンガリー空軍のMi24で、航空ショー(このページ、なんか変な声が出るので注意)向けに特殊塗装を施したものだとのこと。軍事マニアはヘリの写真をちらりと見ただけで、その垂直安定版に書かれたマークから、米軍ではなくハンガリー軍だってのがわかるらしい。
なんであれ、偏狭なショービニストに見当外れな押し付けをされるまでもなく、その力技塗装は見る価値ありますな。よくみりゃ結構かわいいし。
「キマイラの新しい城」と一緒に注文していた、「ケルベロス第五の首」(ジーン・ウルフ:国書刊行会)を読み終える。72年に書かれたSFなのだそうで、やたらに装飾華美な文体で、クローニングによって世代を引き継ぎ、植民惑星で怪しげな生業を続けている一家を描いた第一篇に始まり、型式も文体も違う他二編が続く中篇集である。
注:以下はある意味ネタバレなので、注意されたし。でも、この程度のこと知ってたってそう変わりはせんですけどね。
はじめの話の舞台になった植民惑星の双子惑星の原住民の物語が第二編で、それを書いたのは前の話にも出てきた人類学者だということになっている。神話とも民話ともつかぬ冒険叙事詩みたいな形式になっていて、どうも私はこれと似たような話を同じような文体で書かれたものを、高校生の頃「SFマガジン」で読んだような気もする。あんまり自信はないものの。
最後はその人類学者自身がどうも主人公になっているようで、カフカの「審判」のパロディみたいな不条理逮捕劇が、視点や時間軸がカットバックされながら断片的に示されて、最後にはあろうことか何の解決や謎解きもなく、あっさりと話は終わってしまうのだった。もちろん、どういう風にもとれるほのめかしがそこらじゅうにちりばめてあって、それはSFネタ部分の謎とも入れ子になっていて、まことに重層的な構造を呈しているのである。
訳わからん映画について、「筋なんて関係ない。格好よくて美しい映像がそれなりの流れで続けばいい」なんてよくいわれるのだが、それを敷衍すると、言語によって美しく意味ありげな世界がつむぎだされていればそれでいいのだ、と考えればよろしいのですかな。さりげない謎の提示と、それに関する回答のほのめかし(それもどうとでもとれるような)があちこちにあるのだが、細かな表現や言い回しにどれだけ気づくかの記憶力テストみたいなもので、正直いって、訳者自身によるあとがきとか、この辺の解説ぐらいを読んでおかないと、なんじゃこりゃで終わってしまうのは間違いない。
アイオワ州タスキギーより--タスキギーに住む14歳の少年がその母親に訴えられるという、かなり珍しい訴訟事件が起こっている。母親は息子がリモコン電子機器を用いて神の名を騙り、精神的苦痛と金銭的損害を与えたと主張している。しかし、息子側はそれに対して児童虐待があったと逆告訴している。
「僕は母親が食事時にお祈りするのをやめさそうとしたんだ。でも逆効果になっちゃった」、トビー・アダムス少年(14)はそう語る。彼はテープレコーダーとトランシーバを組み合わせたものを食卓の下に隠しておき、神を自称して母親に金や物をよこすようにと毎晩要求していた。
「騙し取られたものはすぐに取り返すつもりです。息子は私を騙していたんですからね」、母親のロレッタ・アダムズは語る。彼女は神の声がだんだんと小さくなっていくまで、食卓の下を覗き込んでみようとも思わなかったという。「最初に聞いたのは、お祈りや神への感謝をいちいち食事時にやるなというものだったんです。それはとっても大きくてはっきりしていたので、はじめは幻覚だと思って、息子にも聞こえているかと確かめたんです」。
「僕にも聞こえるよといって、ママには神様の言うことを聞いて、毎日やってる迷信みたいな御祈りを止めたらといったんだ。でもこれは間違いだったね。ママは前よりももっとしつこくお祈りするようになったんだもの」、そうトビーはいう。しかたなく実利をとることにして、トビーは機械を通じて、息子に色々なものを買い与えるように、というアドバイスをすることにした。
新品の高価なスニーカーに始まり、プレイステーションの最新型などのさまざまな物品を経て、やがて現金が毎晩食卓の上に置かれるようになる。「ママが寝た後、僕は下におりていってお金をいただいてたんだ。ママは神様はサンタクロースみたいに入ってきて、ミルクを飲んでクッキーを食べると思ってたんだけど、それは神様用に残しておいたよ」。
トランシーバの電池が切れてきたことで事態は最悪の展開を迎える。ロレッタが食卓の下を覗き込み、神の声の出所を知ったのもその時であった。「二階にいって、私を騙した息子をベルトでさんざんぶっ叩いてやりました」。
トビーは教師の一人に事件の顛末を訴え、それを報告された児童虐待防止機関の命令で、自宅から保護センターに移された。「ママに叩かれるのが怖い」、そうトビーはいう。「騙したことは悪いと思うけれど、ママは許してくれないんだ」。
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引用は"Religion in the News"より。ここには神様がらみの面白いニュースが一杯あるのだが、管理人自ら「これらのなかには本当に起こったこともある。どれがそうなのかは自分で考えるように」とはじめに宣言している。したがって、上の話も本当かどうかは、よくよく自分で考えていただきたい。
6月から行くようになった病院の仕事にも、かなり慣れてはきたのだが、そこは院内どこでもネットが使えるようになっていないという決定的な不備がある。手元にネットにつながったPCがないと、私は満足に仕事ができないのである。カルテや文書の漢字が書けないし、薬の在庫もよく知らないので、いちいち電話で確かめないといけない。最近は診断書を書いていても、ICD-10コードで病名を記せ、なんて要求をされることまである。そんなの、覚えているわけがない。
辞書とか參考書類を診察机に置いておけばいいとはいえ、かなり珍しい合併症を抱えている人が訪れたりするとき(不思議なことに、私にはこういう事が良くある。自分の知識の幅が狭いだけかもしれんけど)、禁忌とか特別の注意を知るためには、ネットほど便利なものはないのである。救急対応を第一としている病院なので、同僚たちは自分の専門に関しては打てば響くレスポンスを鍛えている人ばかりで、じっくり調べないといけないようなことはほとんどないのであろう。
まして週2日しか行かないのに、漢字が書けん、薬の名前を忘れる、なんて理由で診察室にLANを引けと要求してもあきれ果てられるだけだろうから、ここはそうすることで病院側にも何らかのメリットがあることを強調する必要がある。そんなわけで、院内イントラネットのサンプルを作ってデモをおこない、経営陣にアピールすればと思いつく。医局と経営者の部屋には外のネットにつながるように、小規模ながらLANは引かれているのである。これを拡張して、院内の連絡体制を作るように主張すればいい。
というわけで、ほとんどポンコツのPCを担いでいって、イントラサーバーに仕立てることにした。入退院報告とか、さまざまな委員会議事録、各部署からの連絡、理事長の御言葉などを共有すればいい。ここははやりのブログ型式にして、いろんな立場で情報発信できるようにしておけば、ど素人にも管理しやすいであろう。そう思ったのだが、なかなか一筋縄ではいかない。Movable Typeは個人が自分のサイトに使うだけならフリーだが、商用では有料である(病院内の連絡ってのも、やっぱ商用になるんだろうね)。
あくまでフリーにこだわれば別の選択もあるが、PerlでなくてPHPだったり、RubyやMySQLがいるなどと、帯にみじかし襷にながしである。ヨタヨタのWindowsマシンで、そんなもの動くのかという気もするし。Perlで動いて、そこそ小奇麗で、管理が簡単で汎用性が高い、なんて都合のいいアプリはないものだろうか。もちろん、フリーが条件。
なんてことを書いているが、実際はApacheとWinperlをインストールして、ごく簡単なCGIを動かすところにたどり着くだけで、ほとんど24時間TV並みの苦労をしているのである。やっぱ、口先で誤魔化して導入を強引に決めてもらい、業者に作業をさせるのが順当というものですかなぁ。
殊能将之の新作、「キマイラの新しい城」(講談社ノベルス)がアマゾンから届く。かなり複雑な構成なのに、ビールかっくらいながら、オリンピックをちらちら見つつ、というまことに不真面目な態度でも、登場人物の配置とか、物語の構造を見失わないでもすむのがありがたい。作者の巧みな具体的イメージ喚起力のおかげだろう。
千葉の山中に、フランス中世の破壊された古城を移築し、テーマパークをつくった企業の社長が、かっての城主の幽霊に憑依されてしまい、幽霊が要求する謎の死の解明のため、名探偵石動戯作が登場するという話である。
ほとんどの叙述は、社長に憑依した幽霊の視点で、それはまったくの中世フランス人が驚きをもって現代日本を見るという内容なのである。固有名詞以外の日本語はちゃんとわかる、ということにはなっているけど。この人は密室である塔の中で背中から剣で刺し貫かれて死に、魂は浮かばれることなく城とともに彷徨っていたのである。
ミステリィなのだから、当然こういうのも全て叙述トリックなのだろうという先入観で読んでいったのだが、ある意味そうであったともいえない事もなく、実際の「解決」は次元が違うところにおさまるというのが、いかにも殊能将之らしい。おいおい、こりゃ詐欺だぜ、ともいえるが。
何であれ、石動戯作が示す密室トリック破りの推理は、それ自体が密室ミステリィ総体の批判になっていると思える。全然なんにも解決されていないのに、感動的な脱力感を味わえるという点で、稀有とはいえないまでも、そう滅多にお目にかかれない怪作だろう。

掲示板で、「へべれけ」という言葉の語源についての議論があり、「ギリシア語で言う『女神のお酌』に由来するという珍説」が紹介されていた。ギリシャの女神で「ヘベ」といえば、私らの業界でおなじみのあのHebeに違いない。精神分裂病の中でも最も難治性の思春期発症型、Hebephrenic typeのHebeである。ゼウスとヘラの娘で、青春を象徴する女神なのだが、オリンポスの神々の集まりでは、もっぱらネクターという酒のお酌が仕事という、えらく軽い扱いを受けている神様だ(クリックして現れる写真は、両親にお酌するヘベを画いた古代の陶器)。
へぇー、そんなのが「へべれけ」の語源だといわれるのかと、少々複雑な思いである。というのは、私が研修医だった頃、ヘベフレニックタイプというのはある意味、「呪いの刻印」みたいなもので、そのプレッシャーをごまかそうと、「ヤバイまでにへべれけってますよ、あの人は」なんて軽口の符丁を仲間内で使っていたものだったからだ。
詳細を確かめようと「へべれけ 語源」で検索してみれば、驚くことに、語源うんちくを語るサイトがたくさんひっかかり、すべてこのギリシャ語源説を主張しているのだ。別の意見は唯一、「へべれけ=屁々れ気」というものだけであったが、これにはまったく根拠の説明はなく、単なる一発ネタらしい。ギリシャ語説の方は、いくつかの語源辞典でも取り上げられているのだという。もっともらしく"Hebe erryke"=「ヘベのお酌」というギリシャ語そのものがなまって「へべれけ」になった、という説明を添えているところも多かった。
でも、この"Hebe erryke"というのは、どう検索してみても他言語サイトでは確認できなかった。ギリシャ語って発音記号みたいな文字で書くのだし、これは一般アルファベットでの書きなおしだろうから、多少のずれはあるかと、ちょっとづつ変化させたもので調べたのだが、先ほどの日本語サイト以外はまったく出てこない。やけくそで、"hebe serve drink greek"などと、とっかえひっかえして調べてみたが、似たような発音でお酌を表す表現が、他の言語圏にも伝えられている例を発見することはできないのである。日本だけに伝わるギリシャ神話のトリビア派生物なんてのが、ありうるかねぇ。
グーグルでちょこちょこ調べたぐらいでなんともいえるものではないのだが、「へべれけ=ギリシャ語源説」を主張するサイトの文章が妙に画一的で、どうも同じネタ元からの引用を思わせる。そのネタ元というのは、どうもこれ(よみうりTV系のラジオ局がやっているトーク番組のアーカイブ。リアルプレイヤーのストリームで30分近くあるので、ヒマなときだけクリックされたし)ではないかとも思うのだが、単なる推測であって根拠はない。
結局真相はなんだかよくわからないが、都市伝説一般にいえる"Too good to be true"の原則からすれば、懐疑的になるのも致し方のない説であろう。私らの使ってた符丁が一般化した、てなことはないだろうしね。諸説に詳しい方がいれば、ぜひ御教示いただきたいと思う。
幾何学的作図を使って、64は65に等しいことを証明するアニメGIF(216K)。GIFは日本製らしいが、出所不明。問題自体は、昔から少年雑誌の付録なんかでおなじみ。私の知識体系の8割はその手の子供向け科学記事から成り立っているので、こういうのは得意なんですね。
この証明の誤り(というよりゴマカシだけど)はこちらを参照のこと。方眼紙を自分で切ってやってみれば、一発でわかりますが。
元ネタは相変わらずこちら。
5年前の今日、地球は突然黒い虹のような物質に取り囲まれ、その引力によって大気を奪われて全生命が絶滅した。当時、200ほどのスペースコロニーで暮らしていたわずかな人類だけが生き残り、社会と生命圏の再建に乗り出したのである。21世紀の今日、我々が今のような理想社会での安逸な生活を享受できるのも、わずか5年前の大絶滅という悲劇の上に成り立っていることを忘れてはならない。
なんてことを予言していたのが、1950年代に米国TV放送業界で一世を風靡していた自称霊能者、チャールズ・クリスウェル・キング(通称、驚きの予言者クリスウェル)であった。クリスウェルはもともと、ニュースショーのお天気キャスターであったが、ある日、手違いで予報データが届かない事があり、しかたなくあてずっぽうで予報したところこれがすべて大当たり、それ以後彼はTV霊能予言者としてのキャリアを展開することになる。(参照はこちら)
かの「史上最低の映画監督」エド・ウッドとの交友でも知られているそうで、彼の映画のナレーターとしても活躍している。クリスウェルの予言はほとんどB級ホラーSF映画のあらすじみたいな内容ばかりで(例えば、1980年11月21日、突然噴出した有毒ガスのためにゾンビ化したピッツバーグの住民が、通りで人を襲いだす、なんて内容)、エド・ウッドとの親和性も納得できる。しかし、当時のTV界では抜群の人気を誇っていたのだそうだ。そういえば映画「エド・ウッド」でも、怪しげなキャラとして登場してましたな。
何であれ、今日が大絶滅の記念日でなくてよかったね、と胸をなでおろそう。え、そんなことなかったなんて思っているが、本当は理想社会をつくったテクノクラートたちが、人工生命に捏造記憶を持たせているだけなんだよってか。なんか、ついでの発想まで類型化させるパワーが元予言にはあるみたい。
夏休みが終わっても、結局そう変わらぬ生活で、グダグダとオリンピックなんかを見ている。6時間の時差というのは微妙で、どうもリアルで見られる競技に偏りが出るような気がする。ここのところ、もっぱら見ているのは柔道なのだが、これはこれでなかなか面白い。カラー柔道着が導入されて、見分けのつかん毛唐同士の対戦でもわかりやすくてよろしい。カンフー映画なんかでは、たいがい色つき道着を着ているほうが悪者なので、どうも応援にバイアスが入ってしまうのが難点だけど。
私は高校生のとき、正課で柔道を習わされた。大規模高校だったので、体育授業はなるべく狭いところでやれる種目で済まそうということだったのであろう。オリンピックの試合を見ていても、道場の独特なむっとした湿気とか、万年床みたいな臭いがフラッシュバックしてくるのが不思議である。真面目にこの競技をやっていた人なら、もっと奥深く楽しめるのだろうなと思う。
精神科医という仕事を選んで、今まで数回ぐらい、肉体的脅威にさらされたことがあるが、その際一番役に立ったのがこの柔道の技であった。精神疾患の患者さんたちというのは、まず自分から積極的に暴力に走るような人はいないが、境界領域というか、シャブ中のヤーさんとか、ある種の意識障害に陥っている人は、自分の置かれている状況を適切に判断できず、Fight & Flightを必死になってやろうとする結果、えらく暴力的になってしまうこともある。
こういう状態に対して、柔道の押さえ込みや関節技というのは実に有効で、相手に傷害を与えることなく無理のない制圧が出来るからありがたい(相手が凶器を持ってると別)。なにせ向こうは病人なので、多勢に無勢、一時的制圧さえすれば十分なのである。もちろん、そういうハードな方法というのはやむをえずせまられた場合の最後の手段で、相手がどんなに不隠で暴力的になっていても、あくまで穏健な説得を使うのが王道であるのは当然。こういう時の対応指示をするときは、ほとんど気分は佐々淳行。どこか警備会社の顧問にでも雇ってくれんかしら。
それはさておき、高校のときの柔道教官は、オリンピック強化対象に選ばれたこともある(代表までにはならなかった)人なのだが、この人がまた困った人で、教えてくれることは裏技ばかりなのだった。試合の時には相手のズボンというか、下のステテコみたいなモノを締めているヒモが蝶々結びかどうかをまず見据えよ、なんていうのである。蝶々結びなら、組みに行くときそれをほどいて、ずり落ちるズボンにあわてる相手を攻撃せよ、なんてことばっかり教えてくれた。
その人が教えてくれた「技」のなかで、いまだにその合法性が疑わしいというか、冗談だったかどうかも定かでないことがある。それは、「寝技の際、自然にほどけた帯なら、それを使って相手を縛るのも許される」というものである。寝技では「縛り技」というのがあるというのだが、これは本当なのだろうか。オリンピックの試合では、そういうのを今のところ見たことがないんだけど。エキスパートの意見を聞きたいとも思うが、それ以上に見事な縛り技一本で金メダルを取る選手を、自分の目で確認したい気持ちのほうが大きい今日この頃なのである。
近代言語学の基礎をつくったソシュールは、言葉を形成する音素の連なりと、それが示す概念との間には本来何の関係もないということを「発見」したのだそうである。「いぬ」という言葉と、あのキャンキャンいう動物との間には必然的な結びつきなどなく、音素の集合がつくる体系と意味される側の物事の対応関係があるだけなのだと。
素人にすればそんなものかと思いつつ、なんとなく腑に落ちない感じは付きまとう。ましてや言霊の力などを信ずる人には受け入れにくい話であろう。かの吉本隆明も、そういう素人の一人であったらしく、これに関して「言語にとって美とは何か」という、かっては自称インテリ必読とされていたトンデモ本を書いている。
私も昔読んだ覚えはあるのだが、言語以前の内発的な感動を示す歓声とか吐息が言語として発展していくことだってありうる、というようなことが書いてあったような、そうでないような。初めて海を見た人間が、その広大さを目にして「うっ」と息を呑む、それが「ウミ」という言葉につながった、なんて書いてあったんじゃなかったかな。当時、感想代わりにつくった川柳が、「クロマニヨン 海見て ムムっと腰抜かし」。
それはともかく、発せられる言葉そのものが記号としてではなく、それ自体何らかの意味を持つという考えは人の心をとらえて放さないものらしい。密教真言なんて、まさにそれを突き詰めたものといえるだろう。知覚科学をやっている人にも、そういう方向での研究というのは魅力的な物らしく、今月11日、NewScientist.comが伝えるMITの脳知覚科学部門の言語学者、Amy Perforsの研究もそれを追及したものといえる。
彼女たちはhotornot.comという一種の出会いサイトに、24人の男女の顔写真を間をおいて投稿した。写真には、母音や子音の種類、ジェンダー親和性などを考慮した名前が書きこまれていて、閲覧者が発信する10段階の評価を統計的に比較検討するというのが実験内容である。(同じ写真にランダムに別の名前をつけて投稿したのか、という点が記事を見ても元レジュメ(PDF)をみてもよくわからんのが難点。どうもそうではないらしいが。)
その結果、男性においては前舌母音(日本語とは多少違うが、あえていえば「あ」「い」「え」)の名前の持ち主が、後舌母音(同様に「う」「お」)の持ち主よりも、有意に高い評価をえた。例えば、ポールよりはマットのほうが好まれた。そして女性の場合は、男性の場合ほどではないものの、やはり有意にその逆の結果が得られた。ベスよりはスージーのほうが評価が高かったのである。
子音でも、閉鎖子音(p音やb音なのかねぇ)と共鳴子音(たぶんl音だとおもう)で、男性の場合前者が好まれ、女性の場合はその逆という結果が得られたが、母音の場合ほどはっきりしたものではない。著者たちはこの実験をもって、ソシュール言語学の基本的な主張、意味するものと意味されるものとの恣意性という前提に、限定的ながら実証的に反論したとする。
名前なんかはやりすたりがあるしね。芸能人とかの連想もあるだろうから、母音と子音の部分だけは考慮した、ランダムな名前でもつくって実験しないと意味がないのでは、と思ってしまう。例えば日本人の名前を使うぐらいの工夫しないとマズイのではないかな、というようなツッコミは容易であるものの、言霊の力に魅せられ、それを究明したい人はどこにもいるのだと感心させられる研究であろう。
そういえば、私の戸籍名は完全に後舌母音だけで構成されておりますわ。改名したほうがいいかもしれないと、前舌母音だけの名前を考えてみたら、いいのがありました。当サイトお勧めの魅力たっぷりの男性用究極前舌母音名前は、「袈裟吉」、これですよ。
ほぼ1週間の間、まとまったことは一切しないですごしたので、痴呆化がどっと進んでしまった感じである。本を1、2冊読んだぐらいで、たまに買い物にいって、昼寝して、夕方になったらビール飲みながら料理作り、後は飲んだくれて寝るだけ、という生活だったものなぁ。
何か記事を書こうかと思ったけれど、ネタもみつからんし、文章もうまくまとまらないので、別館の方の更新だけ。
形ばかりの夏休みが取れることになり、某所でなーんもせずにブラブラする計画。考えてみれば、なーんもせずにブラブラというのは、普段とまるっきり変わらんのだけど。というわけで数日間更新はお休み。
ツバメの巣の話からピタゴラス教団のタブーを考えてみようと思ったわけだけれど、どうもアヤフヤな決め付けになってしまった。やはりここは有名な「豆を食べても触ってもいけない」というタブーのほうから、順繰りに考えていくべきであったかもしれない。この豆に対する禁忌は徹底していて、なにせピタゴラスは暴徒の群れに襲われて、豆畑の前まで追い詰められ、そこを横切っていけば逃げられるのに、「豆には触れない」というタブーを守ってそこにとどまり、殺されたというほどである。
しかし、なんとなく妙な話ではある。見渡す限りすべて豆畑、というようなところに追い込まれたってことなんですかね。教団メンバー以外の人々は、やはり豆を大量消費していたということでもある。今だって、地中海系の料理には豆が沢山使われますからなぁ。そんな中、豆を喰うな、触るなというのだから、かなりの偏屈と思われても仕方がない。
中沢新一は「人類最古の哲学」のなかで、この豆タブーをこう分析している。いわく、豆というのは神話的思考の大好物であった。節分では豆をまいて邪をはらうし、同じような儀礼はアメリカインディアンにも見られる。季節の変わり目の儀式、つまり死と再生を象徴する場にふさわしい霊力をもったものだととらえられていたのだ。また、豆というのは女性的豊饒をも象徴している。女性器の一部のスラングであるのも世界共通だ。女性の中の男性性を指すというわけだ。同時に男性器の睾丸を意味することもある。つまり、男性の中の女性的なものを指すという、全く逆の意味すらもつ両義的なものなのだ。
死と生、男性と女性という対立を媒介するような両義性というのは、ひたすらに純粋な論理を追求していたピタゴラスにには到底受け入れられなかった、彼にとっては豆は悪魔的な恐るべき存在であった、というのである。構造主義的な分析というのは、そこはかとない胡散臭さが常に伴いつつ、まあよく屁理屈をつけたものだという芸へのリスペクトで納得するようなところがあるが、これはそう芸が細かいとはいいがたい。ツバメの巣の禁忌といい、どうも単調な印象が強い。
中沢によれば、ピタゴラス教団は男性だけで結成され、メンバーには極端な禁欲が要求されたというのだが、ざっと調べると当時の宗教的結社の中では例外的に女性に開かれていたようだし、ピタゴラス自身、60歳のときに教団メンバーの女性をめとり、7人の子をなしたとされているので、そんなに修道院みたいなところではなかったようだ。そんななかで豆に対するタブーがえらく厳格なのは、どうも不思議である。
ほかの食生活に関するタブーも結構珍妙で、パンを裂いて食べてはいかんなんてのがある。直接かぶりつけということなのだろう。ほかには動物の心臓と脳を食べるな、というのがある。逆にいえば肉は食べてもよかったわけだ。魚は控えろといわれていたようだが、これも少しは食べていいことになる。豆というのはソラマメの一種らしく、これにはアレルギーを持つ人がいるのと、酵素欠損のために食べられない人がいるので、ピタゴラスはそういう体質だったのではないかという意見もあるらしいが、自分が食えないからといってほかの人間にもそれを強いるというのは、なんぼカルト教団だといっても少々器量が小さすぎるような気がする。
彼の教団は政治的には貴族制への回帰を求める反動派だったらしく、一般大衆への受けはあまりよくなかったようだ。門弟になろうとしても、テストはえらく厳しく、学科で通っても人相学みたいなのでケチをつけられて落とされることもあり、落とされた連中が反対派に回ることもしょっちゅうだったという。ピタゴラスが命を落とした暴動というのも入門を断られた人間が組織したもので、具体的な利害対立というより、「お高くとまりやがって」という反感が原因なのである。
おそらく、「豆を食べない」というのも、一般大衆との違いを生活のなかで示す手段だったのではないか、というのが私の推測である。"Bean Eater"というとアメリカ白人が中南米のインディオ系に対して蔑称につかうことがあるが、そういう感覚は古代ギリシャ-イタリアにもあったのではないだろうか。一般大衆は蛋白質をもっぱら豆からとっていて、精神的にも生活様式でもエリート貴族であろうとしたピタゴラス教団の人たちは、貧乏人は豆食ってなさい、おれたちゃ下々とは違うからね、とその食生活にタブーをつくったというのが私の考え。
本当はマービン・ハリスばりに、豆を食べないことで生じるベネフィットを示したかったのだが、何ぼ考えても思いつかなかった。ま、そういう戒律を持つ生活文化は生き延びなかったのだから、それも当然といえるのだけれど。
「ピタゴラスの定理」で知られるピタゴラスは、数学者としてだけでなくピタゴラス教団という宗教団体の主宰者として有名である。イタリア南部のクロトナに本拠を置いた彼の教団は、数千の信徒を抱えた巨大学問都市の様相を呈していたらしい。彼の教団にはよく知られる「豆を食べても、触れてもいけない」というものをはじめとし、奇妙なタブーがいくつもあったが、その中に「家の中にツバメの巣をつくることを禁ずる」というのもあったそうだ。
ツバメに「巣を作るな」といっても通じないだろうから、教団メンバーたちはツバメが家に飛び込んできたら追い払い、巣をちょっとでも作りかけていたらそれを壊していたのだろう。彼の教団は基本的に魂の輪廻転生をその教義の基本においていて、犬をいじめている人に、それは私の友人だった魂が宿る犬だからやめろと文句をいったりするぐらいで、人間と動物の違いは言葉がないだけだと思っていたらしい。だから、ツバメの生活圏を奪うようなこういうタブーは、まことにつりあわないように思う。
先に紹介した中沢新一の「人類最古の哲学」(カイエソバージュⅠ:講談社新書)では、この理由をツバメがそなえる神話的で両義的な仲介機能で説明する。神話的論理に対抗して、純粋な論理による世界の解明を求めたピタゴラスには受け入れがたい性質なのだという。なにせ、教団では朝起きてまずやらねばならぬことは、寝ていた布団をくるくると丸めて、寝相の跡が残らないようにすることだったというぐらいだ。寝ているときの理性欠除の痕跡など、絶対引きずってはいかんという訳だ。迷信でしかない神話思考なんぞ受け入れられるか、というコトなのだと。
なんでツバメが両義的かというと、春の訪れとともに突然飛んでくるそのすばやさが、彼らは冬の間魚となって水の中で暮らしていたためだと人々に思われていたこととか、泥を練り合わせて巣をつくるその姿が、人間の土器作りや左官業を連想させる、つまり自然の存在でありつつ「文化」をになっているように思われたからなのだそうだ。ほかにも、大食漢であることからそのカンニバル性格が死を連想させたとか、それは水界=死という連想でさらに強化されたとかいうのだが、正直言ってツバメで死を連想するのはちょっと無理なように思う。文化と自然の仲介といったって、ハチだのアリだのクモだのと、もっと連想として適切なものはありそうだという気がするのは私だけだろうか。
じゃあそのタブーの本当の目的はなんだったのかというには、あまりに漠然とした知識しかないのでどうにもならないのだが、ことは案外単純な自然保護概念だったのではないか、というような気がしてならない。どうもギリシャやイタリア地中海沿岸というと、昔も今のミコノス島みたいな街があったようにおもえるが、たぶんそんなに違ってはいないだろう。ああいうつくりだと東南アジアで産業になっている、イワツバメを呼び寄せるマンションみたいに、やたらにツバメが来てしまうのではないだろうか。大体、どんな種類のツバメが生息しているのかもよう知らんのだけど。
仮にイワツバメがきて、たっぷり海草製のツバメの巣を作ってくれても、中国人ではない悲しさ、食い物にしようとは思わんでしょうしね。収拾がつかないほどツバメが来ても生息環境は悪くなり、結局絶滅の危機が来るだけなので、あえて調和を重んじたピタゴラス教団は住居内にツバメを入れさせないように訴え、彼らの生息地の分散化を図ったのではないか、というのがかなりいい加減な推測。
当然、このタブーはほかのタブーと一連のものだろうから、かの「豆を食うな」というのとも関係があるだろう。次はそちらからの考察をつづけてみたい。考察、というにはちょっと口はばったいが。
今住んでいる家には、毎年玄関にツバメが巣をかける。たっぷりフンを落とされるので、掃除がわずらわしくはあるのだが、やはり親ツバメのかいがいしい世話にこたえて、子ツバメが驚異的なスピードで生育し、巣立ちしていくところを見るのはなかなか感動的な体験で、出来る限り協力してやろうという気になるものだ。
昨年は巣を作っている最中にカラスに襲われたらしく、営巣を諦めて別のところに移動したようで実に寂しかった。今年は4月はじめに巣を再建し始めたのはいいが、やはり1度カラスに襲われ、哀れにも卵が落ちて壊れていた。今年も諦めるのかと思っていたら、6月ごろから2度目にチャレンジしたようで、5匹ほどの子ツバメが生まれ、あっという間に大きくなって巣立ちしていった。フンで汚されなくなったのはいいのだが、なんとなく子供達が独立しつつある自分の身と同一視してしまい、ちょっと寂しい気分にならないでもない。
人間の生活圏に営巣することで外敵から逃れようという戦略をとるツバメというのは、なかなかの策略家であると思うのだが、それは人間が文化を確立して他の生物種たちへの支配権というか、生殺与奪権を得てから後のことだろう。それまではツバメの先祖はどうやって自分の子供を育てていたのだろう。人間のほうも、ツバメを自分の生活圏に受け入れることに、どのようなメリットを感じていたのだろうか。
日本では大概の地方で、ツバメが家に巣を作ることを吉兆とする言い伝えがあるのだが、考えてみればツバメは益鳥だから歓迎されるというような、あんまり有効とも思えぬ機能的な理由付けしか聞いた事が無い。そういえば、かのピタゴラス教団は家にツバメの巣が作られることを戒律で禁じていたと聞く。向こうは勝手に作るのだから、そういう戒律を守るためには、ツバメが巣を作り出したらそれを壊すという、かなり非情な行為をしろということになる。万物の調和を唱えた教団にしては、えらく狭量な行為を強いるではないかといいたくなる。
ちょっと前に読んだ中沢新一のカイエ・ソバージュの第一巻「世界最古の哲学」に、たしかそのあたりの考察が書かれていたが、今ひとつ納得しがたかったような記憶がある。ピタゴラス教団が豆を食べるのを禁じた理由についても考察されていたが、やはりそちらも受け入にくかった。というわけで、自分で考えてみた「ツバメの営巣を禁じる」「豆を食べてはならない」というピタゴラス教団の戒律の成立理由について少し論じてみようかな、なんて予告してみるのだった。あんまり期待される様なものではないけれど。
小説とかドラマで、車のガソリンタンクに砂糖を放り込み、その車を使用不能にするという策略がでてくることがある。ガソリンに溶け込んだ砂糖がエンジンで焼け付き、オーバーホールしても直らないような損傷を与えるというような話になっているものだ。
犯人一味を立ち往生させるための素人探偵のアイデアにとどまらず、これはかなりタチの悪い嫌がらせとしても使われることになっている。高級車をもっているイヤミなプレイボーイとか、金持ちのバカ息子への意趣返しとして、この密やかな破壊工作が行われるのだと。
フィクションなんかではそんなものかと見逃しているわけだが、冷静に考えてみるとこの話はかなりおかしい。そもそも、タンクは施錠されている場合がほとんどだし、偶然開いていたとして、砂糖はガソリンに溶けるだろうか。溶けたとしても、エンジンを焼け付かせるまでのスラッジになるためには、かなり大量の砂糖がいるようにも思うし、そんな量を放り込む手間だけでも大変だろう。
何度か引用したことのある有名何でも質問コラム、"Straight Dope"にこれに関する質問が寄せられていて、回答者は砂糖が固体としてひきおこす障害だけを問題にしている。砂糖はガソリンにほとんど溶けないから、燃料フィルターやキャブレーターを詰まらせる、というのである。その意味では塩でも効果は同じで、砂だっていいわけだがこれは比重が高すぎてダメだとのこと。
毎度の引用サイトでも同じ問題が扱われていて、そこではガソリンに溶け込む程度の微量の砂糖はエンジンに何の影響も与えないということと、多少の砂糖をタンクに放り込んだぐらいではまず燃料フィルターを詰まらせることもないと、より具体的な解説がなされている。
というわけで、恋敵や仕事のライバルに嫌がらせを目論んでいる人は、ガソリンタンクに砂糖という手段はあまり有効ではないということを覚えておいても損はないだろう。先ほどの"Straight Dope"は、エンジンオイル補給孔から砂を入れるというかなり確実な方法を紹介しているが、そんな大胆なことするぐらいなら、直接相手をぶん殴ったほうがよっぽど気が晴れるのでは。
Natureオンライン版が伝えるところによれば、カナダの食品科学者が、インドネシアで産生される世界一高価なコーヒー豆であるコピ・ルワクのうまさの謎を解明したという。コピ・ルワクは、1Kgあたり1000ドル以上の値段で売買される。そのわけは、コピ・ルワクは人間がつくるのではなく、コーヒー豆を食べたジャコウネコの糞から採取されるからである。
当然、その産出量は極めて少なく、1年に230kgほど出荷されるにすぎない。オンタリオのグールフ大学の研究者であるマッシモ・モリコーネは、インドネシア・ジャコウネコがコーヒーに及ぼす作用を検討するにあたり、他地域のジャコウネコ類と比較する手法を用ることにした。彼はエチオピアに渡り、その地域に生息するジャコウネコ類の便から、自生種コーヒー豆を取り出し、焙煎してコーヒーをいれ、味を比較した。
モリコーネによれば、インドネシア、エチオピアどちらの地方のジャコウネコであっても、コーヒー豆に含まれるたんぱく質を適切に分解し、コーヒーに香りとアロマをあたえるのだという。ジャコウネコ類の遅めの消化管運動や、独自の腸内細菌や酵素の存在がそれを可能にするらしいが、それはまたある種のコーヒー豆精製法ともほとんど同じ過程なのだという。
以上、こちら経由で知った記事。中国茶に、うじ虫の一種に茶葉を食べさせて、その糞からつくるというのがあったような気がするが、コーヒーのほうはローストするだけましかもしれませんなぁ。ミスタードーナッツのコーヒーが一番うまいと思っている私には、あんまり関係ないんだけど。
Movable Typeを使い出してから、よく理屈もわからんままにトラックバックという奴が出来るようにしてあるのだけれど、こいつが厄介なことに、半分ぐらいは文字化けしてしまう。Ver.3.0になったら直るかと思っていたがやはり同じ。滅多にトラックバックなんて受けないからかまわんわと、放っておいた。ところが世の中には優秀な人がいて、ちゃんと修正方法を考えてくれていたのだ。
具体的にはこちらの「PublishCharsetがUTF-8以外のとき、コメント・トラックバックの通知メールのタイトルなどが文字化けする」という項目を、まるで理解できぬまま、指示されたとおりにやったところ、見事に解決である。残念なことに、修正以前のトラックバックで文字化けした分までは直らないみたいだが。
この調子なら、例のDecember0000も、そのうち何とかなるかもしれんなぁ。まあ、データを全部エクスポートして、いったんこのブログを削除し、新しく作り直してデータをインポートすれば直ると思うんだけど、めんどくさくて。上のサイトの人に、あつかましく修正法をねだってみようかな。
というわけで、たぶん今後は文字化けしないと思うので、どんどんトラックバックを送っていただければ幸いだ。トラックバックがどういう意味なのか、あんまりわかっていないんだけれど。
まずこちらのサイトをごらんあれ。"Manchurian Global"という、バイオ事業、国際的事業協力、電力網整備の三つをおもな事業内容とする企業の広報サイトを模したつくりである。模したもなにも、徹頭徹尾企業サイトそのものであることを主張していて、どこにもフェイクの断り書きなんかない。満州国際総業と訳してみたのだけれど、適当なのかどうかは不明。アジアでの仕事が多いらしいのだが、満州を名乗る理由が見つからないのが不審な点である。
こちらの説明によると、これはアメリカで公開されたばかりの映画、" The Manchurian Candidate"のプロモーションサイトであるという。この映画は64年にフランク・シナトラ主演で作られたもののリメイクで、もとの映画はIMDbの評価で8.4だというのだから、結構出来はいいらしい。IMDbによればそのプロットは、朝鮮戦争のとき北朝鮮と中国によって米兵捕虜の洗脳が行われたという噂に基づいていて、大統領暗殺者に仕立て上げられた部下を、もとの上官が追うというような話だったらしい。
リメイク版は背景が湾岸戦争になっていて、人格操作のテクニックは先端バイオ技術ということにされているようだ。その技術を提供している陰謀企業が、「満州国際総業」、マンチュリアン・グローバルだということらしい。なんかあらすじ聞いただけでほぼ映画のつくりがわかってしまうような感じがするし、実際、IMDbの評価でも6.6と、元ネタ映画よりかなり下がっているのが気になるが、プロモーション用のフェイクサイトにこれだけの力を入れるそのしつこさには多少感じ入らないでもない。ちょっと前に取り上げた「有限会社ひきもどし」の例なんか、まるで可愛いもので、日本人がいかに淡白な人種かというのがよくわかる物件でありましょう。