「ピタゴラスの定理」で知られるピタゴラスは、数学者としてだけでなくピタゴラス教団という宗教団体の主宰者として有名である。イタリア南部のクロトナに本拠を置いた彼の教団は、数千の信徒を抱えた巨大学問都市の様相を呈していたらしい。彼の教団にはよく知られる「豆を食べても、触れてもいけない」というものをはじめとし、奇妙なタブーがいくつもあったが、その中に「家の中にツバメの巣をつくることを禁ずる」というのもあったそうだ。
ツバメに「巣を作るな」といっても通じないだろうから、教団メンバーたちはツバメが家に飛び込んできたら追い払い、巣をちょっとでも作りかけていたらそれを壊していたのだろう。彼の教団は基本的に魂の輪廻転生をその教義の基本においていて、犬をいじめている人に、それは私の友人だった魂が宿る犬だからやめろと文句をいったりするぐらいで、人間と動物の違いは言葉がないだけだと思っていたらしい。だから、ツバメの生活圏を奪うようなこういうタブーは、まことにつりあわないように思う。
先に紹介した中沢新一の「人類最古の哲学」(カイエソバージュⅠ:講談社新書)では、この理由をツバメがそなえる神話的で両義的な仲介機能で説明する。神話的論理に対抗して、純粋な論理による世界の解明を求めたピタゴラスには受け入れがたい性質なのだという。なにせ、教団では朝起きてまずやらねばならぬことは、寝ていた布団をくるくると丸めて、寝相の跡が残らないようにすることだったというぐらいだ。寝ているときの理性欠除の痕跡など、絶対引きずってはいかんという訳だ。迷信でしかない神話思考なんぞ受け入れられるか、というコトなのだと。
なんでツバメが両義的かというと、春の訪れとともに突然飛んでくるそのすばやさが、彼らは冬の間魚となって水の中で暮らしていたためだと人々に思われていたこととか、泥を練り合わせて巣をつくるその姿が、人間の土器作りや左官業を連想させる、つまり自然の存在でありつつ「文化」をになっているように思われたからなのだそうだ。ほかにも、大食漢であることからそのカンニバル性格が死を連想させたとか、それは水界=死という連想でさらに強化されたとかいうのだが、正直言ってツバメで死を連想するのはちょっと無理なように思う。文化と自然の仲介といったって、ハチだのアリだのクモだのと、もっと連想として適切なものはありそうだという気がするのは私だけだろうか。
じゃあそのタブーの本当の目的はなんだったのかというには、あまりに漠然とした知識しかないのでどうにもならないのだが、ことは案外単純な自然保護概念だったのではないか、というような気がしてならない。どうもギリシャやイタリア地中海沿岸というと、昔も今のミコノス島みたいな街があったようにおもえるが、たぶんそんなに違ってはいないだろう。ああいうつくりだと東南アジアで産業になっている、イワツバメを呼び寄せるマンションみたいに、やたらにツバメが来てしまうのではないだろうか。大体、どんな種類のツバメが生息しているのかもよう知らんのだけど。
仮にイワツバメがきて、たっぷり海草製のツバメの巣を作ってくれても、中国人ではない悲しさ、食い物にしようとは思わんでしょうしね。収拾がつかないほどツバメが来ても生息環境は悪くなり、結局絶滅の危機が来るだけなので、あえて調和を重んじたピタゴラス教団は住居内にツバメを入れさせないように訴え、彼らの生息地の分散化を図ったのではないか、というのがかなりいい加減な推測。
当然、このタブーはほかのタブーと一連のものだろうから、かの「豆を食うな」というのとも関係があるだろう。次はそちらからの考察をつづけてみたい。考察、というにはちょっと口はばったいが。
投稿者 webmaster : 2004年08月06日 23:33
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