例の「イグ・ノーベル賞」を選定することで知られる科学雑誌、"The Annals of Improbable Research"(AIR)のサイトにこんな論文が載っていた。
"Feline Reactions to Bearded Men"(ヒゲをたくわえた男性に対する猫の反応)というものである。何でも、1958年にBoone という研究者が「きれいにヒゲをそった男性にたいする猫の反応」という古典的な論文を書いているのだそうで、それ以来これを受け継ぐ研究がさまざまに続けられているということだ。これはそのうちの一つというわけ。
この研究の骨子は、数種類のパターンのヒゲ男性の写真を多数の猫に見せ、その反応を統計的に解析するというもの。そのパターンというのが、"Runkel""Crafts""Despradelle""Pritchett""Wiener"の5種類というのだけれど、残念なことにどういうスタイルなのかよくわかりまへん。論文からは、"Runkel"と"Despradelle"に一番激しい反応を示したということになっていて、どうも顔半分が濃く長いヒゲで覆われているタイプのようだ。両者にたいして、猫の脈拍と呼吸は著明に増え、瞳孔は散大し、写真に対して明らかな攻撃行動を示したという。
だから何なんだ、と言いたくもならないではないが、たとえ無意味であろうがこうやって論文の題材を見つけて、何であろうが書くという事が科学業界では唯一評価される根拠になるのだから、これでいいのです。これを掲載したAIRはスタッフによって、この内容をさらに敷衍した研究(この写真を見れば中身は一目瞭然なので、説明は略)を展開しているだけでなく、更に「猫のボクシング映像(QT型式:約1.25M)に対する人間の反応」を調査研究するという提案さえしてくれている。どなたか、この呼びかけに答えて、この研究を引き継ごうとする方はいませんかな。私は紹介するだけで充分栄誉なので、それ以上の事をしようとは思いませんが。
Boone, Patrick, "Cat Reactions to Clean-Shaven Men," in Western Musicology Journal, March/April 1958, vol. 11, no. 2, pp. 4-21.
私は他人がどんな主張をしていようとそう気になるほうでもなく、まして論争を吹っかけたりするのもきらいな(めんどくさい)のだけれど、たまたま見かけた個人サイトの記述を見て、こりゃちょっと指摘しておいたほうがいいような気がした。検索して元サイトを見つける人がいるといけないので*、文章は所々変えてある。
「的中率が90%の検査で癌だとされた人は、『確率90%で癌』と言えるか? 回答はNOだ。というのは、癌患者は全人口よりもずっと少ないから」、こういってこの人は「シミュレーション」を始める。
*こっそり悪口いうのも陰湿なので、やっぱり元リンクは示しておくことにする。
「ある村の人口を1100人とする。この中に仮に癌患者が100人いるものとし、村の人全員に的中率90%の癌検査を行う。的中率は90%ということは10%は外れる、ということ。だから1000人のうち900人は『健康』と診断され、100人は『癌』と診断される。100人の癌患者のうち、90人は正しく『癌』とされるが、10人は『健康』と診断される。つまり、この村には『癌』とされる人が全部で190人いる。したがって、的中率90%の検査で癌とされても、それが本当に癌である確率は190分の90である」。
これは、絶対に一見つじつまがあっているようなインチキ議論をする、ネタ志向なのだと思ったが、そもそも一見しただけでもつじつまがあっていないので、当惑するしかない。しかも、プロフィールをみてもっと驚いたのは、これを書いた人は数学科に在籍する学生だということ。おいおい、大丈夫か?
どこが間違っているのか指摘するのもアホらしいが、最大の勘違いは「適中率90%の癌診断では、なんともない人10%を癌だと過剰診断する」と言うところだろう。10%の見逃しがあるということは、10%余計に異常を発見するということと同じではない。医学的な知識の問題ではなく、常識レベルの論理学である。False PositiveとFalse Negativeの違いなんてのは、システム論みたいなところでも重要なんじゃないかなぁ。ほかにも、「癌でなければ健康」という分け方はかなり疑問だが、そんなことは言っても仕方ない。
ほかの記事を読めば、なかなか鋭いことも言っているが、肝腎の数学的推論(と言うほどでもないか)でこんなこと書く様では、ちょっと淋しいぞ。まぁ、この手の恥ずかしい体験を繰り返して、人は大人になってゆくものなんだけど。私なんか、今でも似たようなことやりますが。
最近、フォトレタッチソフトというものがやたらに普及したので、それほどすごいとも思えなくなっているのだけれど、写真を全面的にデフォルメまでしてくれるのはそれほどないように思うので、ここで紹介。
まず正面から撮った写真を用意して、それをこのサイトにアップロード、そしてその顔貌が属するカテゴリー(例えば、アフロ-カリビアン系とかコーカソイド、東アジア系とか)を選び、その上で多少の修正(目と口の位置の調整)をしたら、細工の方向を選べばOK。
ここでは例として、我が国の某指導者を選ばせていただいた。元写真はこれ。先に示したのは「エルグレコ風」なんだけど、どう見ても貧乏神にしか見えません。もちろん、画像変換処理のためであって、コイズミさんのせいではないですが。まあ、ポートレイトというものが、その人物の本質を明らかにすることはあるものですけれど。
ほかにはこういうモジリアーニ風とか、漫画風とか。個人的にはアフロ風コイズミが一番似合っているような気もする。モジリアーニ風はなかなか趣があるのだけれど、漫画風のほうはスタジオ・ジブリの悪役にしか見えないのがちょっと気の毒。ここのサーバーはやたらに混んでいる事が多いけれど、ぜひ、御自分の写真などでお試しのほどを。
もうずっと前に書いたと思っていたら、これにはまだ触れたことがなかったのに気づいたので、今更ながらに取り上げることに。都市伝説についての質問メールは、これに関するものが結構多いのだ。
この伝説は、飼っているペット、猫とかプードルとかの小型犬、をシャンプーしてやったあと、早く乾かそうとして電子レンジの中にいれ、破裂させてしまうという、まことにもって無邪気な無知と残酷さがあいまった内容で、その気色の悪さのために妙に頭にイメージが残るものである。
この話を日本で聞くときは、「アメリカでのバカバカしい訴訟」という文脈で聞くことがほとんどで、まず日本の話として聞くことはない。これをやってしまうのは大概は婆さんと言うことになっていて、その婆さんはレンジの会社を訴え、多額の賠償金を得るばかりでなく、「生き物を乾かす目的でレンジに入れないでください」という注意書きをつけ加えさせるのである。訴訟社会アメリカを揶揄する小話として、結構信じられているから不思議だ。
これのバリエーションである、「マイクロウエーブ中継局、もしくはレーダーサイトで電磁波ビームを浴び、内臓を焼かれた技術者」という話は日本の話としても結構聞くのに、ちょっと不思議だともいえる。労働災害という雰囲気のため、より信憑性が増すのであろう。少なくともlこちらのほうは、労災をめぐる訴訟になったという話では聞いたことがない。
都市伝説研究者のジャン・H・ブルンバンはその著「消えるヒッチハイカー」(新宿書房)のなかで、この伝説の原型を60年ごろの「運の悪いペットの不幸」においている。この頃アメリカの一般家庭に普及しつつ、実際はあまり使われていなかったガスオーブンや乾燥器に入り込んだペットが、間違って焼かれてしまう話である。
それが電子レンジに変化したのは70年代半ばらしい。やはり、それらが猛烈な勢いで普及し始めるころのことである。一般社会に浸透してきた新しいテクノロジーへの不安が、それぞれの時代において伝説として形をとったことがうかがわれる。
私のところには、こういうことが「あったのか、なかったのか」と詰問調の質問メールが来ることもあるが、別にそういう統計を取っているわけではないので、正確に答えるのは難しい。少なくとも、無知と善意からペットをレンジに入れた人のことが、メディアに報じられた事はないとだけは記しておこう。
当然、ぬれた髪を乾かすためにレンジに頭を突っ込んだ金髪女性もいなければ、すばやく日焼けするためにレンジに潜り込んだ人もいない。故意の動物虐待として、これをやった人はいるらしいが。
なお、この伝説は"Feo Y Loco"というバンドによって、"Microwave Cat"なんていうレゲェ曲になっているので、ストリーミングでお楽しみいただきたい。私にはどこがいいのか良くわからんが。
画質はイマイチな割りに少々サイズは大きいが、このニュース番組の1コーナーをまず見ていただきたい(フラッシュ型式:約5.7M。ループになっているので注意)。女性キャスター二人に促され、オハイオ州の天気予報を始めた男、どうも様子がおかしい。セリフは棒読みだし、何より原稿からまるで目を上げる事が出来ない。
予報画像の前に突っ立って邪魔はするし、やっと気が付いたはいいが今度は変なところから出てくるし、どう見てもスタンダップ・コメディのピン芸人である。これは本当のニュース番組なのだろうかと、かなり疑うのだが、ある意味ではこれはちゃんとした公共放送の番組なのだそうだ。
これはオハイオ大学のテレコミュニケーション・センターというところが、学生たちの演習用として、24時間放送をオハイオ州とその近隣に提供している、TV局の放送で流された番組のひとこまなのである。だから先ほどの芸人風予報士も、女性キャスターもみんな実習中の学生なのだ。
なんであれ、かの予報士実習生はこの分野には全く適性がないのは明らかだと思えるので、なにか別のキャリアを見つけるべく努力したほうがよさそうである。どう考えても芸人が一番だとおもうけど。
関係ないが、オハイオ大学はアテネという街にある、というのが我々日本人にとってはちょっと面白いところか。まあ、パリもペキンもあちらにはあるんだけど。
元情報はこちらから。
1953年、シアトル。11歳のジェームズ・マーシャル・ヘンドリックスは、街角にあるコーラの自動販売機の前で迷っていた。一方にはコークの販売機、そして反対側にはぺプシの販売機が向かい合っているのである。どちらを飲むかさんざん迷った末、ジェームズ少年はぺプシを選ぶ。
ぺプシを飲みながら、ジェームズ少年は販売機の隣にある楽器店の白いエレキギターに見入る。そこに流れてくるのは、かの「パープル・ヘイズ」の導入部。この時、ロック・ギターの革命家、ジミ・ヘンドリックスが生まれた、と思わせる作りである。
一方、ジェームズ少年がコーク販売機を振り向くと、そこには古めかしいアコーディオン店があり、情けなげなアコーディオンによる「パープル・ヘイズ」の一節が聞こえてくる、というオチ。
このCMは昨年冬に開催されたスーパーボウルに流すCMとして、ぺプシが作ったものだという。今も北米ぺプシのサイトで見る事が出来るが、こちらにもリアル・プレイヤー版のファイル(約1M)をアップしておいたので、お暇な方はご鑑賞を。
ジミヘン11歳といえば、前年に母をアルコール中毒で失い、親父はといえばほとんど家にも帰ってこないろくでなしで、高齢の祖母に育てられながら貧しさの中で辛酸をなめていたころである。映像のような安穏とした雰囲気の子供時代を送っていたわけはないと思うし、なにより名が売れてからの彼も、決してCMに使われるようなタイプの音楽家ではなかった。そんなことはもはや関係なく、彼の天才だけが評価される時代なんですなぁ。なにせ、半世紀近くの時が過ぎたのだからと、柄にもなく感慨を覚えたので、ここに紹介する次第。
そんなCM、ずっと日本のTVでもやってたよ、ということならゴメンなさい。
「愚か者死すべし」(原尞:早川書房)を読む。
日本を舞台にしたハードボイルドってのは、かなりのギミックを駆使しないと成立しにくいわけだが、この原尞の探偵沢崎を主人公にした連作は、そのあたりを直球剛速球の一本調子で攻めてくるという、ある種パラレルワールドSFの色合いすらある珍芸シリーズといっていい。
いままで3冊ほど出ているこの沢崎長編シリーズを私は全部読んでいるはずなのだが、なーんも覚えていないのは、それがまさしくこのリアル世界とは無関係な完全フィクション世界の出来事を描いたものであるからだろう。それもSFみたいに明らかな特徴がない擬似的同時代なものだから、ますます覚えて置きにくいのだと思える。なんてこと言いつつも、この手の本を読む誘惑には抗しきれないのが情けない。なんせ、ヒマだからねぇ。
さて、今回はこの国ではありえないハードボイルド倫理原則に凝り固まったタフな探偵が、頼まれもしない事件に首を突っ込み、警察以上の大活躍をする話で(もっとも、今回の事件ははじめから警察がらみなので、そこで彼ら以上の能力を見せないとストーリーにならんのだけど)、それも怪しい筋からいくらでも大金手にする機会があるのに、自分のルールをかたくなに守る原理主義をあくまで追求する話である。
今までの話を全然覚えていないので、前と同じかどうかは確証はないのだが、当然警察という大組織の鼻先をかすめて活躍するためには前もってのネタの仕込みというものが必要になるわけで、その辺はうまいことある種の「叙述トリック」を紛れ込まして処理しているのが見事というか、ルール違反というか。
でも、誰もが事件発端の記述で思いつく疑問を、無理やりミスディレクションするのがかなりミエミエで、あれ、なんでそっちのほうに話が進むのかいな、と思うのは避けられないのではないかな。あ、こりゃ一人称記述がトリックなんだと思うのも当然。ほとんどの人は結末もかなり見透かせるだろうし、事実そのとおりに収束してしまうのである。
そういうところや、いくらパラレルワールド系ハードボイルドであろうが、依頼に来た小娘が初対面の探偵に「あなたは……、十代のころの父に、暴力団に入れとすすめられるような年齢には見えないわ」なんて言葉を真っ先に言い出したりする、言語的不自然さはちょっとつらい。
でも、全体の筋立てには、昨年ちょっと話題を呼んだ警察プロジェクトX小説ともいえる、「半落ち」に対する嫌味が絶対契機になっているに違いないという、根拠もなければいささかネタバレ的な感想を覚えるのが、もひとつ不満ながらもあくまで好感の範囲内で読み終えられた最大の理由。
ネットマップサービスというのはあちこちで提供されていて、ほとんどの場合、無料で細かな地図情報を得られて実に便利になったものだと実感する。もっとも、ほとんど飲み屋での待ち合わせに役立つぐらいで、そう生活の質そのものを高めるという程のものでもない。最近は車のGPSについているような路線経路情報を提供してくれるようなサービスもあって、こちらのほうはなかなか役に立つこともある。
かのマイクロソフトが提供している路線情報サービスは、こういうサービスを北米とヨーロッパの主な地域に拡大して提供してくれるのだが、あの会社のやることには意地悪なツッコミが入る風潮がある昨今、かなりマニアックな検証がされるのもまた致し方なく、こんなバグを指摘するチェーンメールが駆け巡っているという。
まず、件のMS提供の路線情報サービスサイトに直行していただきたい。その上で、出発地"Start"の選択ウインドウで"Norway"を選び、"City"のところに"Haugesund"を入力する。そのほかは空欄で可。それから目的地"End"には同様に"Norway"を選び、"City"には"Trondheim"を入力する。ほかは空欄で可。これで、スカンジナビア半島の北海に面した小さな町"Haugesund"から、海岸線にそって東北にむかって800kmほど離れた同じノルウェーの"Trondheim"までの道のりを尋ねた事になる。そこで"Get Directions" のボタンを押すと、得られるのは上の地図である(1月24日23時現在、これはまだ是正されていない)。
この地図によれば、ハウゲズンドから一路南西に北海を渡って英国に行き、そこからロンドンにまっしぐら。英仏海峽を渡ってフランスにいたり、ベルギー、ドイツを経てデンマークから再び海を渡り、スウェーデンからスカンジナビア半島を横断してノルウェーのトロンドハイムに至るという、実にほとんど二日がかりの道筋を指示されることになるのである。
10年ぐらい前に、GPSコンピュータというものが車につき始めたとき、私も新し物好きの本能でそれがついた車に乗っていた事がある。しかし当時のCPUでは絶対的パワー不足は否めず、普通に地図を表示するぐらいならそれほど不都合はなかったものの、目的地までの経路を表示させようとしたら実に時間がかかった。その上ソフトもイマイチで、例えば東京-横浜間を指定したら、いっぺん栃木のほうまで出かけるような経路を指示されて目を白黒させた事がしょっちゅうあったものだった。
こうしてネット上でもそうしたサービスが簡単に受けられるような時代になっても、同じようなバグと言うか、不具合が今も続いているのは、コンピュータなんてものに、そんなに依存してはいけないのだよ、所詮、人間の知恵は穴があるものなのだからという、先達であるMS社の深遠な教えがバックにあるに違いない。むしろ、アセってミエミエの経路を尋ねて何になる、頭冷やしてゆっくり世界を見て来いよという、実に温かい人生の教えすらそこから感じられるように思うのだが、いかがなものであろうか。
引用はこちらから。

もう2年ぐらい前に、ヨーロッパのサイトで見つけたCM動画なんだが、ちょっと面白いような気もするので紹介。すでに見たことある人はごめんなさい。(動画はこちら。AVI形式で約2.6M)
偉大な指導者をたたえる市民パレードの練習をしている人々。イマイチ動きが鈍いので、指導係の軍人から怒鳴られっぱなしの青年。自分の分の行進用パネルを持たされ、不機嫌な様子で自分のアパートに帰り、ベッドにもぐりこむ。
さて翌日のパレード。軍人たちに続き、偉大な指導者の写真を組みたてるパネルをもって行進する市民たち。でも、例の青年はベッドで眠りこけているので、彼の分のパネルは欠け、偉大な指導者は「歯抜け」になってしまう。ベッドでなお眠りこける青年の顔がフェードアウトし、「保険、入ってますか?」のテロップ。
北朝鮮をおちょくっているのは明らかなものの、ヨーロッパ人(これはオランダのCMらしい)から見ると、中国も北朝鮮もほとんど区別がついていないというのがよくわかる物件。むしろ、そのほうが健全なのかもしれないけれど。
レディ・グレイをたっぷり注いでしまって起動しなくなったノートマシンの修理が終わったのはいいのだが、そのあまりの高額修理費にいささか精神変調をきたしてしまう。新品買ったほうがまし、とついつい「毒食らわば皿まで」パターンに走りそうになったが、ぐっとこらえて泣く泣くノートを請け出す。それでも丁度この機会にというわけで、無線LANアダプターも11/a/b/g対応のものに換装することに。結局、「毒食らわば」行動規範はきっちり温存されております。
さて、アダプターも買ったのはいいのだが、どこにも取り付け方が書いてない。検索してみると、メーカーのサイトからPDFの保守手順をダウンロードしないといけないらしい。そいつを探したり、CDスロットのないサブノートにどうやってドライバをインストールするのか、というあたりの難問をクリアするのに、結局半日かかってしまう。
無線LAN再設定をしていて気が付いたのは、私が住んでいるような住宅地でも、家庭用と思える無線ネットワークが飛び交っているということ。それもほとんどが、初歩的セキュリティ対策すら施されていない。正直いって、無線アダプターさえ買えば、プロバイダに加入する必要がないぐらいである。ウインドウズ・ネットワークもほぼダダ漏れにしてあるので、結構危ない書類も覗き放題だったりする。
これは今後、新しい形で近隣のトラブルの原因になるのではないかと少々心配である。大体、チャンネル数が足らなくなったらどうなるのだろう。今だって、家の周りには5種類ぐらいの電波が行きかっているぞ。
てなことを書いたエントリーを22日の夜にアップしていたはずなのに、朝起きてみたら跡形もない。保存するのを忘れてクリアしてしまったらしく、これは書き直し。もうちょっとヒネリのきいたコト、書いてたような気がするんだがなぁ。
ところで高橋源一郎さん、あなたそれ、捻挫じゃなくて痛風発作じゃないですか?
カナダの総合情報サイトBAYTODAY.caは、1998年度にイグ・ノーベル賞安全工学部門を受賞した著名な発明家、トロイ・ハーツビース氏(41)が、壁を通して向こう側の物を見ることが出来るという画期的大発明をなしとげた(と主張している)ことを報じている。
ハーツビース氏がエンジェルライトと名づけたその装置は、まず分離機と呼ばれる光源部分と、偏移グリッド、及び光線の制御装置(その仕組みは極秘とのこと)の3部分からなる。これを作るのには3万ドルの資金と、900時間が費やされた。この装置のアイディアは、ハーツビース氏がみた夢から得られたものだという。
「一年半ぐらい前に夢をみたのさ。この発明のほとんどはその時完成したようなものだ。ただの夢、でもそれですべての仕組みがわかり、こいつが可能になるのを知ったんだ」、彼はそう語る。この発明にはフランス政府が関心を寄せ、すでに4万ドルの資金援助を受けているという。ほかにもサウジアラビアの諜報機関からも接触がある。
この装置の実験にはMITの研究者も立ち会っており、先のMIT顧問であったゲーリー・ドリィフュースは「これはノーベル賞に値する。物理法則はハーツビース氏の言うように書き換えられるべきだ」と激賞していると言う。
彼の装置から出る光線を物体に当てると、その部分は透明になり、例えば壁にあてるとあたかもそこに窓が出来たかのように見えるのだという。自分の家の実験室の壁で試みた時、「まるでそこに何もなくて出入り口が出来たように見えるんで、確かめようとして拳骨で壁を叩いたら、もうちょっとで骨を折るところだったよ」と彼は語る。
しかし、実験中に彼は、この装置に思わぬ闇の機能があるのを知ってしまった。この装置から出る光線は、他の電子装置の機能を止めてしまうのである。また自分の身体に光線をあてると、やはり透明化して身体の深部が見えるようになるのだそうだが、それを続けていると強い倦怠感に襲われるのだという。自宅の金魚鉢に光線をあてると、金魚はみな死んでしまった。
ハーツビース氏はこの装置の危険な側面を悟り、今は装置を分解している。フランスから正式に招かれ、公的な研究が開始されるまで再組み立てはしないつもりだと言う。そこで専門家によって、危険な作用は取り除かれるであろうと期待している。
「兄貴はオレの発明が売れるなんてのは、水の上を歩くのと同じだといってたもんさ。でも、オレは今、確かに水の上を歩いているんだよ」。
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以上、BAYTODAY.caの記事をかなりいい加減に抄訳。このトロイ・ハーツビース氏という人は、「グリズリーに襲われても怪我をしない防護スーツ」の開発で98年度のイグ・ノーベル賞に輝いた人で、その延長線上のような「磁気応用の防弾クッション」というリゴラスな研究も続けておられるのだが、こんどはずいぶんファンシーな科学技術(?)に挑戦したものだと感心する。スーパーマンの超能力みたいなものにいくつになっても憧れる、純な心の持ち主なんでしょうな。
この人は気付いていないみたいだが、間違うとフランスに殺人光線兵器を独占されてしまう危険性もあるので、バカバカしいと一笑にせずに、たっぷり眉に唾つけながらも関心をそそいでいきたいものだ。
イグ・ノーベル賞サイトWhat's Newから。
ご乗客の皆様、本日は台湾華信航空を利用いただき、まことに有難うございます。ただいま機は離陸準備のため、滑走路進入路で待機いたしております。そのまましばらくお待ちください。
えー……、なお……、機の右側座席にお座りの乗客の皆様、その……、右前方にあります、えー……、わが社の航空機の、その……残骸にかんしましては……、無視していただくよう……、お願い申し上げます。
1999年8月22日、バンコックから香港に向かった華信航空642便は、おりから接近していた台風による横風で、着陸寸前で右に傾き、エンジンが滑走路に触れて右主翼が離断、機は完全にひっくり返った状態で滑走路右側の緑地に突っ込み、そこで火災をおこした。乗員乗客315名のうち、3名が死亡するという、事故の規模にしては比較的軽い被害に終わったのは幸いであった。
写真は事故当日、その事故現場を、同じ華信航空の旅客機が滑走路に向かっているところ。機内放送のほうは単なる想像。でも、普通こういう事故があったら、空港はしばらく閉鎖されるような気もするが。写真はAirDisaster.comより。
引用はこちらから。
アナウンス内容は上のサイトのパクリなので、オリジナルのアナウンスを別館にアップして置きました。
ロンドン(多分)の街を軽快に走るフォルクスワーゲン・ポロ。ドライバーはなぜか迷彩服にアラブ風のスカーフをまいている。とあるオープン・カフェの前に止まるポロ。ドライバーは小さなスイッチのようなものを取り出すと、それをしばらく眺めた後、ボタンを押す。車内に閃光が走り、小さな爆発音とともに、かすかにゆれるポロ。
そこで字幕、"Polo. Small but tough." (ポロ。小さいが頑丈)
映像はこちら。QuickTime型式で約2.5M。
なんと自爆テロをネタにして、コジャレた映像でCMに仕立てるとは、さすが世界のVWと感心しつつも、ちょっとこれでは顰蹙を買うばかりではないかと心配してしまう。実際、これはleeanddan.comという映像クリエータ企業が売り込み用につくった、デモ映像なんだそうな。潜在的な顧客を想定して、「こんなものだって作れるよ」という見本というわけ。でも、ちゃんとVWのロゴも使っているし、ほどほどの内諾は得ているんでしょうけどね。
現在はleeanddan.comのサイトからも削除されているようで、ちょっと悪趣味が過ぎたかなというところだろうか。この会社、以前フォードのボツCMを作ったところと同じではないかと思う。まるっきりセンスがおんなじだもの。ま、イギリス人のセンスというものは、一般的にああいうものなのかもしれないが。
引用はこちらから。
BMJの最新版を読んでいたら、"Minerva"という医学情報四方山話みたいなコーナーの一段落に、「しゃっくり」の治療で苦労する話が書かれていた。さまざまなやり方を試したが全く効果がなく、昔からの言い伝えにしたがって、「酢を飲ませる」という方法で改善したというものだ。
この「しゃっくり」というのは、診療科にかかわりなく対応を迫られることが結構多い割にはあまり関心をもたれない。一応スタンダードだとされているやり方も知らない医者が多く、何をやってもよくならないのに業を煮やして、「どうせ死にはしないから」などといって知らん振りする奴までいる。そりゃ、検査したって異常値は出ないしね。
ネットを調べるだけでも、あまりまとまらない医学的な対応から民間伝承までがほとんど同じ比重で見つかるので面白い。少なくとも私が標準的対応として教えられたのは以下のやり方で、ラッキーなことに今までのケースではすべてこれで何とかなった。普通は(1)プリンペラン(吐き気止め)の静注。それでダメなら(2)コントミン(抗精神病薬のクロールプロマジン)を少量の生理食塩水にといて点滴。最近、クロールプロマジンの注射薬は発売中止になったらしいけど。それでもダメなら(3)キシロカインを1mg/kgで点滴。というようなところが救急の初歩で教えられることである。私らは向精神薬なら平気で使う癖が出来ているから、まずこの(2)のところで大胆に薬を使うので何とかなるのであろう。
大概の当直医は、筋弛緩すればいいと言う発想から、まずはじめにセルシンを打つという安易なことをしてしまうが、これは呼吸が止まるぐらいの量を打たない限りまず効果はなく、普通の投与レベルでは抑制が取れるためか、余計に症状が激しくなるものだ。同じ系統の薬でてんかん治療に使われるクロナゼパムを使うという手もあるらしいが、そう画期的な効果があるとは思えない。それはもちろん、全身麻酔を使えば完全にしゃっくりなんか止まってしまうが、「牛刀をもって鷄を裂く」の感が強いのと、醒めるときに元の木阿弥になる事があるのが難点。ブスコパンみたいな腹痛に使う鎮痙剤は、教科書には有効と書いてあるが、実際にあれがしゃっくりに効いたのは見た事が無い。
BMJにも書かれていた、少量の酢を飲むというのはかなり効果があるように思う。救急車を呼ぶぐらい困り抜いたしゃっくりに襲われたら、ダマされたと思って試す価値がある。一般的な「息詰め」、およびそれを促す一連の動作、例えば頭を下にしてコップの向こう側のふちから冷水を飲む、なんてやり方は世界中の伝承になっているらしいが、パニックになりがちの状況で、冷静さと息詰めを同時に促すという先祖の知恵であろう。もちろん、ビックリさせるという手もある。でも一発勝負だから難しい。その目的で友人を銃で脅し、射殺してしまった人もいるらしい。多分しゃっくりはきれいに止まっただろうが。
「柿のへた」を煎じて飲むというのもよく効くらしく、昔同僚だった内科医が薬局に「柿のへた」を常備するように要求し、薬剤師からそんなものどこの製薬会社から買えばいいんだとこぼされて参った事がある。でも、しゃっくりが続いている人が受診してきたとき、悠長に柿のへた煎じている余裕はないような気もするが。
しゃっくりで注意すべきものは、まれに横隔膜直下の肝腫瘍とか膿瘍が横隔膜神経を刺激していることが原因のものが存在することだ。私でもその類のケースを2例ほど見た事があるのだから、これは結構多いのかもしれない。真摯に相手の苦痛を解決する姿勢ががないと、医者が好きな「早期発見」も出来ない訳である。たかがしゃっくり、されどしゃっくりというところであろうか。
加入しているCATV会社がやたらにデジタルにすることを勧めるので、ついその気になってOKしてしまう。パート先をかわったおかげでDVDライブラリもちの同僚がいなくなってしまい、全然映画の類を見なくなってしまったので、多少はそのかわりになるかと思ったのも一因。
今までより月に1000円ほど負担が増えるが、視聴できるチャンネルが結構増えるので、その分は取り戻せるだろうと思ったわけ。ところが実際は地上局とBSのデジタル何局かが増える程度で、新着ソースなんかを見ようと思えば、結局追加の料金がかかる仕組みなのだった。
実はデジタルに切り替えようと思った最大の要因は、TV横に置いてあるCATVのチューナーが猫の御座所になっていて、いままでのアナログチューナーだとやたらに小さく、まことに窮屈そうにしていたのが気の毒だった。パンフによれば、デジタルになるとひとまわり大きくなるというものだから、猫もそこでゆっくり寝転べるだろうという目論見だったのである。
以前、ブラウン管TVがへたってしまったので液晶TVに切り替えたら、それまでその上を寝床にしていた猫がTVに飛び乗ろうとして思いっきり大コケして、それ以来いじけて温かいながらも狭いチューナーの上で寝ていたものだから、なんとなく負い目があった。せめて広い寝場所を用意してやろうと、かねがね思っていたのである。
ところが驚いたことに、デジタルチューナーというのは熱を出さないのである。いくら長時間つけっぱなしにしていてもひんやりしたまま。工事終了を待ちかねてチューナーに飛び乗った猫も、顔をしかめて違和感を表明するばかりなのであった。おかげでまた猫に借りが増えてしまった。なにかこれを挽回する方法はないものであろうか。人生というのは常に打ち続く難問の集積なのだと、いまさらのように思い知るのである。
去る1月6日のBBC記事より。
ケニヤで津波にあって母親を失ったカバの子供が保護され、それをゾウガメが育てているというニュースである。約一才になるカバの子供がインド洋近くの海岸で野性動物保護官によって発見された。前日の津波によって海に流され、何とか岸にたどり着いたものとみられ、ひどい脱水状態に陥っていた。
保護官は12月27日にカバをモンバサにある保護センターに移し、オーエンと名づけて養育することにした。オーエンはたまたまセンターにいたムジーという100歳になるゾウガメ(♂)になつき、ゾウガメのほうもいつも母親のように連れ添っているとのことである。
センターの係員によれば、彼らは眠る時も食べる時も一緒なのだそうで、このまま一緒にいるようなら見学者に公開することも検討中とのこと。なお、オーエンにはそのうち正式にカバの養母をつけることも計画されている。
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以上、悲惨な津波関連のニュースの中ではまことにハート・ウォーミングな話なんだけれど、どうもマユツバ臭いような気もする。大体、オーエン君がセンターに移されたのが12月27日だというんだが、これは津波襲来の翌日ではないか。ケニアでも結構な被害はあったはずで、カバに関わっている余裕があったのが不思議。それに、カバは海岸にはいないと思うし。内陸の湿地帯まで波が来たというのなら、ますます国中大被害だろうし。
どうも、津波の話題に乗じてこのカバとゾウガメの仲良し状況を商売に使おうとしているではないかなと、かなり懐疑的。そういえば、今回の津波で野性動物がほとんど被害にあっていないなどと、超常現象みたいに取り上げている報道もあったような気がする。こちらはその点、そんなアホなこと*はいっていないだけマシか。
*なんぼアジアが動物の宝庫であっても、野性動物と人間の住んでいる場所は違うし、平均生息密度のことを考えれば、そこらにうじゃうじゃ動物の死体がないのは当たり前。そんなことでつまらん超常現象信者になるヒマがあったら、後片付けの手伝いにでも行きなさい。
「ペインクリニック-神経ブロック法-」(第2版)[監修:若杉文吉;医学書院]
いわゆる読書感想とはいえないので、このカテゴリに入れるのはどうかとも思うのだが、自分の人生に大きな影響を与えた本ということで、ちょっと触れてもいいような気がするので紹介してみる。医学教科書というのは単なるマニュアルなので、差しあたっての役に立つことが書いてあればそれでいいわけだが、なかなか判りやすい本はないもので、何種類かをあわせ読んでやっと大まかなところがわかるなんて事はざらである。その点、少なくとも神経ブロックという手技に関しては、この本はまことに痒いところに手の届く説明がしてあって、私みたいな門外漢にも実に役に立つものであった。若杉一派というのは、多少「と」系の言説でも知られていて、その辺が私の波長に会うのかも知れないけれど。
普通に精神科の医者なんかしていると、身体疾患のことはほとんどノータッチでもかまわないというような風潮が日本の精神医学業界にはあるくせに、その一方で精神科医療はまず単科精神病院で行われているという現状がある。そういう陸の孤島みたいなところだから、そこを仕切る精神科医は身体的プライマリケアレベルでも万全かといえば、もちろんそんな事はなく、ほとんど無医村だというのは関係者ならみな知っていることである。
私自身、研修医のころ、自分は本格派精神病理学系の治療者になるのだから、学部で習ったような卑俗な身体医学なんぞにかかわらないのだという決心を持っていたものだ。例えば脳外科医は「首から頭のてっぺんの間30cmだけを診る」なんて豪語するのだが、それを真似るなら、精神科医は「目の上から30cm以上を診る」という風に考えていたわけだ。ところが数年間本格派の精神病理で身を立てようとしている間に、どうもその方向性は間違っているとは言わないまでも、かなりバカバカしい努力のように思えるようになった。
実際、もっぱら総合病院での精神科医療を任されていると、長期入院を前提にしたいままでのスタティックな精神病理学というのは、目の前の患者をみる事の役にもあまり立たないのを実感する。そのあたりで、言うならば「本格派」から「ハードボイルド派」に宗旨替えすることになるわけ。入院させて鍵かけてしばらく薬漬けにして落ち着くのを待つというのではなく、差しあたってグズグズあれこれ訴える人に何をするのかということが問われるわけである。
もちろん、精神科薬物療法の見立ても素早くないといけないし、合併しないことのほうが珍しい身体的な症状にどう適切に対応するかということが問われる。そういう時、かなり役に立ったのが「ペインクリニック」の手法であった。大学時代にかなりユニークな麻酔科の教官と知り合い、一般的な身体医学の考え方とは違うアプローチを聞かされていたという経験が役立った。少なくとも薬物療法という点では麻酔科医と精神科医というのは、使う薬も同じようなものなのである。我々はまず局麻剤は使わんけど。あ、てんかんの重積で使うことがあるか。
そんなわけで、肩こりやらめまいやらのぼせやら、あまり身体科で相手にされない症状を訴える人が多い精神科通院者に対して、神経ブロックは実に役に立った。といってもそれほど専門的なことをやるわけではなく、せいぜい頚部の星状神経節ブロックぐらいである。それでも必要に迫られて色々やっているうちに、どうにも麻酔科医がいないときの代理ぐらいは出来るようになるのだから不思議なものである。もちろん、自分からその役を志願したりはしないけど。
そういう時、この教科書はまことに実践的な指針になったのである。普通の麻酔はまた別だけど。もともとこの本は薬屋さんの宣伝パンフレットに起源があり、薄っぺらいその本は実に判りやすくまとめられていたものだった。80年ごろに普通の教科書になったとき、、むしろクダクダしくなって余計わかりにくくなった感があったものだ。第1版がどこかに行ってしまって、購入しようと思ったら4年前に改訂されているのに気が付いた、という次第。一番初めのパンフ時代が、やはり最も判りやすかったという伝統はそのままのよう。
しかし、この第2版は別の意味で革新的なのである。それは、その中に「電気けいれん療法」の手順についての記載があるからである。いわゆる電気ショック療法、通称電パチである。もちろん麻酔科医によるものであるから、適応はあくまで疼痛であるが、その機序にうつ状態が関与しているものを想定しているのは当然。しかも、専門職のやることであるから、ちゃんと全身麻酔をかけて筋弛緩薬を使い、呼吸管理をしたうえで、全身けいれんを起こさないやり方をちゃんと解説してくれている。
精神科医にはどうにも治療で行き詰まるとこれに頼る連中が結構いるくせに、私なんかが見よう見まねでやってきた、この修正非けいれん手順をちゃんとやれる人間がほとんどいないのである。今のところ、日本の医学教科書の中で、この修正電気けいれん療法の手順を体系的に述べているのは、実にこの教科書の2版だけで、私としてはいままで個人的に散々世話になってきた本が、思わぬところで実力を発揮してきたのに、いささかの驚きと喜びを感じざるを得ないのである。
というわけで、この修正電気けいれん療法を知るためだけにでも、世の中の精神科医に買ってほしい一冊ということでここで紹介したわけである。そう厚い本でもないのに、税込み9450円というのはナンボなんでもと思うのと、非優位脳への一側性刺激が説明されていないのが難点といえば難点。でも、その程度の事は経験豊かな専門医であれば、創意と工夫で充分応用可能だろう。もちろん、修正型とはいえ、やらずに済ませるならそれに越したことはないのだけれど。
1月14日に発刊された"Science"最新号によると、ある種の抗てんかん薬を組み合わせたものを投与された線虫は、その寿命が最大50%程度長くなることがわかった。ワシントン大学医学部の分子生物学薬理学研究所のコルンフェルド博士たちのグループは、Caenorhabditis elegansという線虫に、さまざまな種類の薬剤を組み合わせて投与し、老化過程が抑制されるものを発見する実験を繰り返してきた。
Caenorhabditis elegansというのは1mm程度の大きさの雌雄同体線虫で、寿命が3日半ぐらいのため、遺伝学の研究によく使われる生物である。ゲノム配列がすでに決定されていて、老化遺伝子も同定されているため、老化研究には使いやすいのであろう。
コルンフェルド博士たちが投与した大部分の薬剤は老化をとどめることが出来ないばかりか、毒性を発揮することもしばしば見られたが、現在も使用されている抗てんかん薬であるエトサクシミド(ザロンチン®)とトリメタジオン(ミノアレビアチン®)の組み合わせに3,3-diethyl-2-pyrrolidinone(これ、どうもイソジン®の近縁物質のよう)を加えたものを与えると、線虫の平均寿命と最大寿命は有意に増加した。もちろん、その生物活動性や基本的機能には何の影響もなかったという。
コルンフェルド博士は、これらの抗てんかん薬剤の寿命延長効果は、神経機能の活動性を制御することに由来すると考えている。また、老化を最終的にコントロールする遺伝子の働きは線虫でも哺乳類でも同じであることから、これらの結果が人間にも適用できる可能性を示唆しているという。
なお、私は"Science"の無料閲覧登録しかしておらず、読めるのは抜粋だけなので、内容の詳細については"Nature"の最新号に載っていたこの論文の解説を主に参考にしているため、多少のニュアンスの違いがあるかもしれないことをお断りしておく。
さて明日にも、長寿を求める人々が抗てんかん薬を求めて病院に押し寄せるってなことはないでしょうな。もし飛びつきたい人がいても、今のところ上の二つの薬には「寿命の延長」という効能は健康保険では認められていないため、自費になってしまうのでご注意を。もっとも、二つとも古い薬で、薬価はほとんどタダ同然ですが。
Kerry Kornfeld, et al. "Anticonvulsant Medications Extend Worm Life-Span":Science, Vol 307, Issue 5707, 258-262 , 14 January 2005
職場で使っているデスクトップに力不足を感じるようになり、そろそろグレードアップせにゃならんとかねがね考えていたのだが、どうも思い切りがつかないでいた。なにせ、M/Bこそ3代目だが、ケースと電源は6年近く使っていて、その他のパーツ類もジャンク箱の底からかき集めてきたものばかりである。ペン助4号に底上げするとなると、なんか妙な追加の電源がいるし、メモリも今までの備蓄品がつかえない。何だかんだと新調すれば、数万程度では済まなくなってしまうのである。
そうこうしていたらアップルがMac miniなる新製品を出すと言うアナウンス。おかげで正月からどっと困ってしまった。このMac mini、余計なキーボードやディスプレイがついておらず、値段もスペックによるが5万円台から入手可能である。惜しむらくはCPUがG4で、圧倒的な速さと言うわけには行かないのが難点だが、今までのペン助3号数百メガよりはましであると思える。ちょっと自信はないけれど。
なんと行ってもデザインが斬新である。もちろん、デザインは機能とは関係ないだろうし、大体、いままでオンボロケースにガラクタ叩き込んだようなPCを使っていて、なんとも思わなかったくせにいまさらそんなものにこだわるのも妙な話だが、やはりカッコいいものはいいのである。2年前に買ったiMacのおかげでOSXにもそこそこ慣れているし、メインマシンをこいつに変えてもまず困ることはないだろう。
というわけで、アップルストアの画面を開いたり閉じたりして、注文ボタンを押そうか押すまいかと昼間から逡巡しつづけているのである。初期不良もこわいし、G4の1.4GHzぐらいでは力不足かも知れんし、ここは身近に人柱を置きたいところである。どなたか敢えて人柱志願の方がおられたら、ぜひアドバイスをいただきたいものだ。まあ、実際に売り出されるのは今月末なので、巷の風評情報をたっぷり集めることするけれど。
二日酔いにはならなくなった、などと書いていたのだが、急性アルコール脳症はきっちり遷延していたようで、今日はやることなすことまるっきりまとまらない。全然集中できないので、ひたすらルーチンワークをこなすだけに専念し、早めに仕事をおえてPC相手に単純作業で時間つぶし。
今回はブラウザでサイト表示される際、アドレスの隣に表示されるFaviconをつくってみた。検索すると、とにかくBMPフォーマットで16x16と32x32の画像を準備し、それをアイコン変換ツールでFavicon.icoというファイルにして、ルートにアップロードしておけばいいらしい。題字に使っている古印体フォント(もちろんフリー)の「医」という漢字をつかい、フォトショップ(これもデジカメだかプリンタだかにオマケで付いていたライト版)で画像を作り、@icon変換ツールというフリーソフトで仕上げてアップロード。ヘッダに <LINK REL="SHORTCUT ICON" href="Favicon.ico">なる呪文を書き加えて作業は終了。
ところが、これでブラウザのアドレス窓にFaviconが表示されるぞとおもって、自分のサイトを覗いてみても、今まで通り無粋な白紙にeの文字が重なったマークが表示されるだけである。なんじゃこりゃと作業ミスの検討をしてみるが、余りに単純な工程だったのでミスしようもない。そこでこのFaviconの説明を読み直してみれば、新しく「お気に入り」登録しないと表示されないという仕組みなのだった。Fire Foxのほうでも確認してみたが、やはり同じ手順で表示されるようになって一件落着。
構想3分、延べ作業時間32分、総工費0円という大プロジェクトであったが、なんか得られた結果がやたらにショボく、ますます落ち込んでしまう夕暮れなのだった。
パート先の突発性新年会に誘われてしまい、居酒屋で炙り寿司の起源について、「生のものと火にかけたものの対立」がどうのこうのと、レヴィ・ストロースなんぞをいい加減に引用しながら激論を交わしていたところまでは覚えているのだが、気が付けば布団のなかで病院の処置着のまま寝ていた。ということは、あの格好(参照画像)<注:モデルは記事内容と無関係>で飲み屋に行ったことになるんだが、そのあたりのところも逆行性健忘のかすみがかかっているのが情けない。
それはともかく、最近あちこちで目にする「炙り寿司」というやつ、刺身が苦手な私にも抵抗なく食べられるのでありがたい。刺身が苦手になったのは、大学時代の寄生虫実習という思い出したくもない経験がきっかけなんだが、それ以上に生の魚を包丁で切るだけという作業を「料理」というのは認めがたいという気分もあるのだ。その点、炙り寿司は火を加えるという記号論的な操作を行ってあるので、そういうわだかまりも解消するし、何より明らかに単なる生よりうまいように思うんですがね。日本料理の微妙さがわからん人間のたわごとと言われてしまうかもしれないが。
というわけで、これは12日になってしょぼしょぼと書いているというわけ。最近アルコールの急性毒性のほうに先にやられるようになって、まったく二日酔いというものにならなくなったのがありがたいというか、年取ったというか。
ダラダラ書き連ねてきて、いい加減結びにしないといけないのだが、結局現実にある某県立病院への悪口で終わるしかないのが生産的でない。でも一応言うだけは言っておくと、全県的な救急ネットワークというものを作って今までの収容所型病院体制とは違うモデルの精神科医療を展開するはずだったのが、結局マンパワーにあふれる個別病院がひとつ出来ただけ、というのが実情なのである。そりゃ、そういう風に熱心に患者を見る事の出来る病院があるというのは、一見結構な事に見えるのだが、その努力がかなり自閉的なのと(なんか客観的に示せる成果と言うものがありますかいな)、しかもそれが大赤字垂れ流しの税金だのみで運営されているというところに、当事者たちの自覚がないのが困りもの。
例えば全県の救急窓口であるはずの、そこが自慢する24時間対応の電話窓口に、私がパートで勤務しているような一般病院から錯乱状態の患者の収容を依頼しても、窓口の返事は「かかりつけ医か地域の担当病院に対応してもらってください」で済まされてしまうのである。そんなもの、全く機能していない現状があるから、お宅の病院が大赤字でもいいからと作られたんではなかったかね。
こういう対応が末端でされている事は幹部医師たちはあまり知らないようで、直接あたってみても「自分たちは次々にやってくる救急患者たちに日夜対応しているのだ」という返事が返ってくるばかり。むしろ下っ端の医者のほうが、事務レベルと同じつれない対応をしていることに自覚的で、かつまったく平気なようだ。そりゃま、そうだろう。現実的に、全県で発生する急性期の精神疾患に、たかが数十床しかない病院が対応できるわけはなく、「ベッドがないから御断り」という、どこの病院もやっている返事しか出来ないのは当然だ。
だったら、そういう救急対応施設を全県的に広げていき、ネットワークを実質的なものにしていけばよさそうなのものだが、行政からすれば先進的に見える施設をひとつ作って、大赤字までこかれている現状では、そんな風に歩みを進めていく根拠なんかなく、ポーズさえ維持出来ればいいのは当たり前。彼らには有効な医療体制なんか興味なく、官僚としての建前がつけばそれでいいのである。
そんなところで必死にがんばる医者もバカバカしいが、それ以上にそういうものが精神科救急だと考えるような下っ端医者がそのうちあちこちの医療機関に出てくるのが恐ろしい。連中は自分のやってることをいろんなレベルで検証するという視点などなくて、官僚みたいに建前ばっかりの自己正当化が得意な医者になって行くからである。彼らにとっては、一生続く精神科疾患という桎梏を抱えた患者は、単にさしあたって3月ほど収容して、その後誰かに押し付ければそれで自分とは関係なくなる無縁の衆生なのである。
A医師の理想はある意味では私もかなり共有するところがあるものなのだけれど、やはり精神科疾患、とりわけ分裂病という厄介な疾患を相手にせざるを得ないこの業界では、森は見ているが木は見ていない方策といわざるを得ないと私は思う。昔ながらの収容所型精神病院に半分以上身を置いて、その限界はたっぷりわかっているつもりの私だが、差し当たって分裂病に関してはそういう古色蒼然たる対応以上のものはなかろうと言うのが(勿論、出来る限りの『地域医療』という奴で頑張るのが前提だけど)、今のところの持論である。
なんであれ、某県立精神科救急センターは病床数を今の5倍にして、全県的な困り者患者を受け入れることだけに専念すべきだと私は思う。それなら税金浪費に文句言う人もいないと思うよ。以上、妙に地域的かつ業界人だけの話題を長々続けたことを詫びつつ、結語としたい。でも、大学病院とか地域の公立有名病院とかで、似たような話はどこでもあると思う。
昨日は「流山児★事務所」の2005年新春公演、「桜姫表裏大綺譚」を観劇。ちょっと前にもここの「心中天の網島」を観にいったが、それにそう滅茶苦茶感激してファンになったわけでもないのに、またも出かけてしまうのがこの手の芝居の不思議なところであろうか。
大体、場所からしてシアター・コクーンだとかのしゃれたところでなく、両国近くの東京大空襲で焼け残ったとしか思えないようなレトロな界隈に、怪しく建っている60年代風のスタジオである。バリケード封鎖されたキャンパスを髣髴とさせる小汚いホールに導かれ、集まっている観客を見回せばみな一癖ありそうな連中ばかり。結構芝居を見慣れている同行者によれば、こんなに観客の平均年齢の高い劇団も珍しいとのこと。かなり層が違うにしても、杉良太郎あたりと競合する勢いがあるらしい。
芝居のほうであるが、題名でもわかるように歌舞伎の「桜姫東文章」を題材にしたものである。衆道の契りが現世でかなわぬことから心中した白菊丸という稚児が、某家のお姫様、桜姫として転生するものの、数奇な運命にもてあそばれ、遊女として落ちぶれながら、最後はお家再興を勝ち取るという話である。
それをこの流山児★事務所の芝居では、善玉と悪玉をまったく入れ変えてストーリーを再構成しているのだが、それが成功しているかどうかはなんとも言いがたい。ただ、劇場の雰囲気だけでも60年代末なのに、芝居の組み立てが完全にかっての学生演劇そのまんまなのである。いかにもといいたくなるようなダサい音楽の選択、微妙にもたつく場面の転換、楽屋落ちにしばしば走るクサめのギャグ、映画を変に意識したカットバック手法の多用、などなど。この世界をいまだにそのまま生きている、我らが同世代人たちもいるのだ。
まあなんであれ、それなりに2時間弱の公演を楽しみつつ、ほとんど末期の衰退を示している両国の町並みの片隅にあった居酒屋で同行者と反省会。本来はエンターテインメントのイベントに結構な金を払って出かけてきながら、何かこうかえって寂しい気分になってしまうのは何故であろうかと、焼酎をしこたま飲んで泥酔するばかりなのであった。
じんま疹もなおったので再開。
約20年前、一応首都圏とされる某県で精神科救急施設が開設されたところから話を再開する。その施設旗揚げの中心人物であったA医師は、その地方では大学や行政、医師会などにも顔が利き、しかも学究肌として知られた存在であった。惜しむらくは精神医学業界では異端とも言える精神分析系を専門としておられ、出身大学ではメインストリームには乗りにくかった。県下では先進的な実践で知られる私的病院に籍を置き、医療を実質的に総指揮する立場にあったが、地域全般の精神科医療体制のお粗末さに業を煮やし、県に入って精神科救急医療システムを作ろうとされたのである。
A医師は、県下で発生した急性期の精神科疾患ならどんな患者でも引き受けるような救急対応病院を作り、そこが同時に他の精神科医療施設ネットワークの要となるように機能すれば、医療の質がバラバラの個別病院の限界を乗り越えられると考えた。一番手間のかかる作業を中核病院がこなし、その後のフォローを個々の病院で行うということだ。長期入院傾向が著しい県下の状況に対し、マンパワーを充分にかけた精神科医療をモデルとして提示でき、全体の底上げも可能になるに違いない。何より、効率的な短期集中医療体制を持つことで、個別病院の負担を減らし、有効なリハビリ治療に専念してもらうことが可能になるのではという見込みである。
A医師にひきいられたスタッフたちは、それは献身的な努力でその構想を実現化するべく働いたものだった。そこには24時間体制で相談窓口が開かれ、県下での救急症例には時を置かない対応が可能になっていた。わずか数十床という病床なのに、医師は10名以上、看護師はほぼ同数という体制で、県下各地から危機状況を抱えて入院してきた人たちに、自己犠牲的な熱心さで治療を行ったのである。
当然、採算というものは度外視であった。わずか数十床では、どんなに濃厚な治療的努力を投下しても、そこから得られる医療収入は人件費にもならなかったはずであるが、A医師は県幹部たちにがんセンターなどの例を引き合いに出して説得した。たとえ今は採算が合わなくても、この体制の有効性が現れてくれば、やがては県下の巨大精神病院の必要性はへり、無駄な医療費が収容所体制を維持するだけに使われることもなくなっていくであろう。10年、20年先をみて欲しいと。
この施設とそれを中心にした救急体制は全国で評判になり、A医師やその右腕の医師たちは、各地でこの実践の成果を講演してまわり、ある意味でひとつの精神科医療モデルとなったのは確かである。別の地域で仕事をしていた私も、同輩の幹部医師の講演を聞いたことがあるが、懇親会でちょっと話してみると、準備段階ごろの元気よさとはうらはらの疲れた様子に気がついた。
考えてみれば当たり前のことなのだ。どこの世界にいったって、たくさん人手をかけて採算を無視した治療をすれば、精神疾患がコロコロ治るなんて話があるわけがないのである。確かに、のんべんだらりと長期入院を続けるばかりの体制より、状態に応じて適切な保護と休養ができ、地域社会でもそこそこの配慮がされるような体制が望ましいのは当然である。だからといって、それに対応した治療成果が得られるかというと、それはまた別の話である。
うつ病圏や急性反応系ならそういうこともありえるが、それは医療体制の問題というより、個々の症例への適切な対応のレベルであって、わざわざ大赤字の医療施設を作る必要などない。私なら、もっぱらそういう症例だけを相手にして、たっぷり儲かる施設を作る自信がある(その時は銀行さん金貸してね)。問題は、圧倒的多数の分裂病の患者さんたちをどうするかということなのだ。
2~3ヶ月急性期治療したら、あとは適当に各地の病院にばらまき、リハビリしてもらえば何とかなるような分裂病の患者さんがいたら一度お目にかかりたい。中にはラッキーな症例もあるが(診断が間違っている場合のほうが多いが)、分裂病の患者さんは急性期を何とか乗り切っても、様々なきっかけで不安定になるものだし、そういう時はまた別の仕事と、下請けに出せるようなものではない。A医師の構想は確かに巨大精神病院での収容型医療に対抗する手段としては有効な面もあるが、ある程度は長期収容も必要となる実情を無視した、結局敗退することがはじめから決まっている戦略なのである。
開設20年をへて、A医師の理想はおそらく変わっていないだろうが、それをかなえる手段であるはずだった救急施設は当然かなり変質してしまっている。その辺のことについては、スタッフの官僚化という必然的問題もあり、次回に少しまとめて結論としたい。
なお、明日はちょっと予定があるので更新はお休み。
精神科救急の続きを書こうと思っていたのだが、某所からもらった「坂角のエビせんべい」を欲どおしくもバカ食いしてしまい、じんま疹が出てしまったので延期。私はたしかにエビにアレルギーがあるが、この坂角の品なら大丈夫だったんだけど。というわけで、本日は休養。抗ヒスタミン剤のおかげで眠くてしょうがありまへん。
尾張なる 坂角せんべい止みがたく 千々にはれたる肌ぞ悲しき
承前。
そんなわけで(どんなわけだ)、精神科救急というのはなんの事はなく、まず薬物の適切な選択というのが第一という当たり前のものであり、考えてみればこれは別に救急に限ることでもなく、精神科医療一般にいえる事である。ただ、ここで注意しないといけないのは、身体疾患に対症療法するのと違い、基本的に対症療法しかない精神科医療の場合、中長期的な対応を必ず視程に入れておかなければいけないということだ。
患者本人だけでなく、その人を支える家族も含めたシステム全体の回復力というものを考え、今後の変化に備える必要があるわけだ。そのシステム自体の病理が患者本人の症状の原因だったりすることも場合によってはあり、単なる対症療法には終わらぬ結果を期待できることすらある。もっとも、これは本来身体疾患においても留意されるべきことではあるのだが。
少なくとも、医療機関が患者の病理性だけを切り離してそれをすべて抱え込んでしまうというのが一番まずく、身体疾患ではそれはある程度成り立つとしても、精神科疾患ではそれはとんでもない間違いの原因を作ることになる。しかも、精神科医療に長年かかわっている関係者の場合、長期入院で慢性化して人格水準がすっかり落ちてしまった人とか、知的障害で子供のころから施設や病院暮らし、なんて人をモデルにした対応しか出来なくなっているので、ビビッドな感覚を持った人間として患者を見られなくなっていることが多い。
つねに口やかましく生活指導をする対象として、患者をみる癖が出来ているわけだ。たいがいの精神科病院では、小遣いの額とか、一日のタバコの本数が細かく決められているが、それは別に分裂病は小遣いやタバコの規制で直ると思ってそうやっているわけではなくて、退行してしまって自己判断が出来なくなっている人に対してやむなく規制しているに過ぎぬのに、充分な判断が出来る人に対しても同じ「指導」をすることが治療だと思い込むアホが医者の中にもいるのだから困ったものだ。*
初発の分裂病の青年だったら、ああいう風にどんどん自己決定の権利を奪われていく体験と、病的な経過によって本来の能力が蝕まれていく体験が重なり合い、その精神が荒廃にいたる道筋が強化されるばかりであろう。一過性の反応で入院させられたり、周期的な経過を持つ疾患の人なら、まったくまともなその判断力からすれば、そうした規制は当然の権利の侵害としか映らないであろう。それに対してつたない反乱を企て、病状の悪化と判断されて鎮圧されることを繰り返して、本来の疾患からは考えられないような慢性化を呈する人も実際にはいるのである。
最近の精神科医療はそのあたりの患者側の権利には結構敏感になっていて、昔ほど無意味な権利侵害は起こらなくなってはいるものの、それを保証するはずの法整備は勘所をついているとは言いがたく、くだらん書類のやり取りばかりを義務化した実質のないものに終わっていて、見当はずれの「親切」の真綿で、患者の首をしめあげるような精神科病棟の実態を改善していくものにはなっていない。もちろん、法律なんかはじめから関係はありはしないのだけれど。
基本的には外来治療をメインにして、前回私が述べたような原則で運営されるような救急対応を前提とした、やむを得ぬ一過性の入院を組み合わせたような体制が精神科医療の基本となるべきだというのには、私も基本的に同意するし、厚生労働省もどうも出来ればそういう方向に持っていきたいようでもある。そこには、こういった善意で運営されながら患者の人間性など考える視点のない、現状に対する反省というものが一般化されているからだと私は思いたい。
でも、それだけではすまないのがこれまた精神科医療が抱える宿痾なのである。それを某地方で精神科救急センターを作り上げることにそのキャリアの大半を費やした、ある精神科医の苦闘とその結果についてなぞることで説明してみたい。というところで、長くなったので以下は明日。
*自由奔放なのはいいが、その影で患者ボスが収奪体制を作っているような「進歩的運営病院」もあったりする。管理する側のアホという意味では同じようなものだ。
あけましておめでとうございます。本年も当サイトに変わらぬご愛顧をいただけければ幸いです。
なんて書き始めつつ、あまり面白くもない話題からはじめないといけない。私はメインの職場のほかに、自宅近くの救急系総合病院でも週二回の外来を持っているのだが、ここでしばしば依頼されるのが精神科救急への対応である。もちろん、自分がそこに行っているときはできる限りの対応はするが、パート医ができることはしれている。
それに、私が行っているところは妙に律儀に救急を受け入れるものだから、近隣の大学病院などではまず拒否されるような行き倒れ系とか、常習自殺未遂がどんどん運び込まれ、その中には精神科対応が必要な人がやたらに多いのである。単科精神病院というところはたいがい身体管理が充分できないので、念入りに手首を三枚に下ろしているような人とか、呼吸状態もあやしくなるまでたっぷり薬を飲んでくれたような人だと、自分のところで経過を診ていた人であってもまず受け入れない。「身体状態が落ち着いたら連絡ください」といわれるばかりである。
最近増えた精神科・心療内科のクリニックで治療を受けていた人の場合はさらにどうしようもなく、「困りましたね」といわれるのがオチ。確かに、向こうだって対応のしようもない。また、そういうところに限って妙にたくさん自殺企図常習のプロが集まっているのですわ、これが。そういう人は日常生活でちょっとした困難にぶつかると、一種のお払い行事として死のタッチラインを駆け抜けるのを習いとしているらしい。
リストカット常習の人は、ああした行為で自分の生命体としての感覚を取り戻すようなところがあるらしいが、それがもっと派手になってしまったような状態と考えるべきなのだろう。そうした患者さんがICUに収容され、何とか意識を回復してきた状態で面接しても、あまり深刻味のある対応をする人はいない。「別にー。死ねたら死ねたでよかったんだけどねー」というのが、自殺企図プロ患者の代表的な自分の行為への感想である。
つまらん説教しても始まらんし、その人が受けている投薬内容のまとまらなさ(そういう人はまず抗精神病薬と抗うつ剤、抗不安剤の大量多種投薬をうけていて、薬袋の中身はあたかも『日本の精神科治療薬一覧』といった趣をかもしだしている)にため息ついてもさらに始まらない。せいぜい家族に対して、もう少しちゃんとした見通しと治療計画を示してくれる主治医を見つけたほうがいいと説明するぐらいしかすることがないのである。
いわゆる精神運動興奮が激しい人の場合は、外科系救急をメインにしている病院でもさしあたっての対応はそう難しくない。数人がかりで押さえ込み、麻酔をかけて寝させてしまえばいいからである。これなら麻酔に慣れて、呼吸管理もお手の物の身体科医のほうが、トロイ精神科医が下手な向精神薬のヘビー投薬をするよりよっぽど安全といえるだろう。この対応さえしておいてくれれば、週二回しか行かない私でも十分その後の処置は可能なのだが、問題なのは中途半端な愁嘆場を呈して、素人目には言語的介入が必要なのではと思わせてしまうような症例である。
私に言わせれば、精神科医療が言語的な介入をメインにすると思うのはまったくの素人の勘違いであるのだが、このあたりの誤解は一部の精神科医にとってはむしろ利権として機能しているようなところがあり(何の役にも立たんことしか出来んくせに、専門家面が可能ということですな)、なかなか払拭するのは難しい。あえて私がこういう場合の原則だと信じ、実際実践している対応を示すなら以下のようになる。
(1)適切な薬剤を充分な量使用し、さしあたっての急性症状を緩和する。
(2)その患者の人的ハード的環境を把握し、介護介助の限界点を評価する。その上で人的な再配置や補助的手段をアレンジする。
(3)患者の生活環境に当面戻せないと判断し、家族や本人もその判断を受け入れた場合に限り、入院治療を検討する。
家族内の軋轢がさしあたっての危機状況の原因と思われる場合、(2)の作業はちょっと昔によく喧伝された精神科的危機介入("Psychiatric Crisis Intervention")というものとほとんど同じになるのだが、それをちゃんとやるのはなかなか難しい。というのは、例えばぐうたらで無能なオヤジを一目で見抜くのは簡単なようで、世間的常識に惑わされてしまうことのほうが多いからである。
形式的な建前を理由に、そういうクソオヤジにキーパーソンの役割を振ってしまうことはよくあることで、子供は大狂乱、オヤジは「子供のことは任せた」と子供と一緒になって混乱している母親に責任を押し付け、自分は会社に逃亡するなんて図はしょっちゅうみられるが、それはそうなることがうすうす判っているくせに建前だけの指示をする側の責任といってもいい。
ここで私が述べている対象は、もっぱら一過性の精神病反応を示す症例であって、いわゆる分裂病の中核群ではない。しかし、実際の救急場面では、こういう例のほうが派手な登場の仕方をすることが多いのである。こういう例をあまり考えもせずに無理やり精神科病棟に入院させると、言うならば「実存をかけて」不当な扱いに対抗するような反応を引き起こし、治療現場は大混乱ということがよくある。うまくやれば外来で対応可能なのに、わざわざ治療を困難にして予後を悪くさせてしまうわけだ。その点、分裂病は治療に反応しにくいけれど、こんな風にエネルギッシュな自己表現を示すことはそう多くない。
なんだかえらく長くなってしまったので、以下は翌日以降に。