« 「青春の終焉」・「青春という亡霊」 | メイン | 煙突のいらない暖炉 »

2006年1月 4日  グロテスクな教養 [本とか映画とかTVとか舞台とか]

グロテスクな教養年末読書紹介その2。

以前、「青春の終焉」という三浦雅士の本についてちょっと触れたことがある。1960年代末に「青春」というものが「実体として」消滅したという、その時代を「青春」の当事者として過ごした人間からすれば、まさしく実感そのものを論証したものである。もっとも、文学作品や社会事象の中で「青春の終焉」を切り出して来る三浦の手腕にくらべ、その原因分析の手並みはそう冴えているとは言い難く、「脱産業化と大衆消費社会の出現のため」という説明を根拠抜きにするだけであった。

そこで書いたように、「青春という亡霊」という、やはり同じことについて取り上げた本も当時読んだのだが、そちらは文学作品の読み込みがより精緻である印象はあったものの、その原因の分析にはほとんど興味がなさそうだった。(このときの旧日記の記事を、再アップしたので参考に。)

この「出来事(といえるのかどうか)」については色々な人が関心を持ったようで、青春とは切り離せぬものといってよい、「教養」および「教養主義」という視点から切り込んだのがこの本である。そのものズバリの名を持つ「教養主義の没落」という本も読んではみたが、こちらは古典的インテリが書いただけに、教養主義への愛惜とそれを無効にした大衆社会への怒りが充ち満ちていて、あまり刺激的な内容とは言い難かった。60年代末の学園紛争は、大学生の権威失墜への怒りをエネルギーにしていたなんて、いまさらのように言われてもちょっとね、という感じ。アカデミズムなんて無効じゃないかょ、どうしてくれるんだょ!というのは、あの時代、学生たちのほぼ共通認識だったはず。

ここで「グロテスクな教養」の著者から、大雑把な「教養」の定義を借りておこう。それは「ドイツ語のBildungの訳語であり」、bildenという動詞が示すように、「自分自身を作り上げる」ということで、なにより、それは自分が属する家とか身分といったものをから解放されて、自分自身によってなされる「解放の思想」なのだという。そのように、いかに生くべきかと自覚的になることが、「青春」というものの属性との離れがたい特性を生むことになるだと。

著者はこういうドイツ語から説明するやり口を、人様々な「教養」定義からひとまず離れる意図の元に採用しているのだが、それもまた一つのごもっともな説明にすぎないことを強調する。この本全体がこういう調子で、あれこれと博覧強記の引用をして、そこに皮肉なツッコミを入れるという繰り返しで、結局何が言いたいのかよくわからないという欠点はある物の、教養とか知識のあり方を大上段に論じることにまつろう気恥ずかしさがよく表現されていると思う。

そんなわけで、この本で紹介される様々な言説を要約しようとすると、ほとんど元の本と同じ長さになってしまうため、ここで大胆にまとめてしまうしかない。ドイツの学校制度を模倣して、ついでにその「教養」という概念も輸入した我が国では、その内容はいささか変質した。それはまず、明治的「立身出世」主義に対する批判として始まり、それに対する批判がまた次の世代の本流となるという、パイの生地の重ね練りのようなものとしてこの国では展開してきた。それがもっともはっきりと現れたのが、マルクス主義による既成「教養」批判であった。そんな風に時代と多少の意匠の違いはありつつ、練られたパイは結局のところ、階級を越えて立身出世を得ようとする受験エリートたちの自己韜晦として機能したのである。

そんな真面目で頭がよく、そしてビンボーな若い田舎者たちに階級上昇の機会を与えてくれた大学の権威が黄昏れていく中、そこが提供していた「教養」が意味を失い、いかに生くべきかと思い悩む青春というものも終焉するのは当然の理であろう。著者は後半、若い女性にとっての「教養」という視点を展開するのだが、私には余りよくわからなかった。要は、男の選択という文脈で意味を持っていた女性の教養もまた力を失うということだろうか。

階級上昇への野望と、使える男探しのためのツールという出自からして、やがてはこのように黄昏れるしかない運命をもっていた教養を身も蓋もなく描いていて実におもしろいのだが、著者の単なるイケズ趣味に終わっているような気がしないでもない読後感にとらわれた一編であった。完全にはずしているかもしれないが、こういうのが学問における「ツンデレ」の具体的表現なのかもしれない。

投稿者 webmaster : 2006年1月 4日 21:11

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://med-legend.com/mt/mt-tbcba.cgi/3048

コメント

かくして当家のジジーは大正期の大学で共産主義の洗礼を受け「農地は全て小作に解放すべきだ」と曾爺さんに詰め寄り力一杯どつき倒されるに到るのであった。
「父は斯くも無理解である」と告げれば
「君、君が他者に与えても良いのは君が得たものだけだよ」
と、真に大人的示唆を得るのであったのであった。

そのジジーも日中戦争を経て止せば良いのに軍部に荷担するものだからビンボの声を聞き始めた頃マッカーサーの農地改革により全てを失う結果になるとは実に皮肉としか言い様も無かろうと。

僕らの世代は学生運動の時代への反省を込め再構築された愚民主義的受験競争の申し子ですから。
自己構築の機会を奪われたまま闇雲に邁進せねばならない同胞達に何らの価値観を示せるものか。
もちろんとりあえずほっときますが。

投稿者 小狸工房 : 2006年1月 4日 22:00