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2006年1月 4日  「青春の終焉」・「青春という亡霊」 [本とか映画とかTVとか舞台とか]

三浦雅士の「青春の終焉」という本を読みかけていて、これがまた大部な本なのだが、世代的には著者に数年おくれるだけの私には、はしがきの数ページで引き込まれてしまう内容で、同時に、こんなこと言っちゃ不遜ながら、たぶんこの後はこう続くのだろう、とほぼ展開が予想されてしまうものでもある。

三浦によれば、「青春」もしくは「青年」という概念は18世紀ヨーロッパを起源とし、日本では江戸中期にその萌芽形態がみられつつ、定着するのは "Youth"の訳語としてそれらの言葉がもたらされた以後である。そして、それは「かって、疑いもなく、異様なまでの輝きをおびていたのである」が、1968年というはっきり指摘できる年を最後に、消えて行ったのだと。

三浦は、「青春」は産業資本主義と軌を一にして世界に浸透していったとする。それが無効になったのは、脱産業化と大衆消費社会の出現のためだとする。そして鬱屈した自意識をかかえこんで高揚する「青年」は消え去り、成熟していないというだけの意味である「若者」がそれにとってかわったのだと。

まだそこまで読みこんでいないのでなんともいえないが、このあと、三浦は文学作品の中に出てくる青春を論考し、青春という言葉が最後の輝きをしめした時代として60年代を考証していくようなのだ。しかし、やはり最初に示される「青春」一般がすでに死滅した、という提示以上のインパクトにはかけるといわざるを得ない。

この関連で「青春という亡霊―近代文学の中の青年」というのも平行して読んでいて、こちらも同じく「青春」という言葉の歴史を論考したものだが、文学作品の読み込み方が、三浦よりていねいな印象がある。その分、なぜ「青春」が生まれ、そして消え去ってしまったのか、というのがよく判らない。そうなってしまったんだ、と指摘するだけ。その点、三浦の主張は彼の世代的体験を軸にしているので、こちらにも了解しやすいのであろう。単に古屋と目線が違うだけのことなのだけれど。(古屋氏はかの福田哲也サンの師匠なんだそうな。福田サンなんかみてると、いまだ青春真っ盛り、とおもいますがね)

思いつきとしては、彼らが言っていることは、分裂病の軽症化とか、境界例の出現とその関連状態の増殖といった精神医学上の現象と、パラレルに語れる部分があるのではないかな、なんて考えたりするのだが、私の能力ではあまり実りのあるものにはならないような。

(2002/02/27の旧日記記事より転載)

投稿者 webmaster : 2006年1月 4日 21:09

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