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内田樹氏のブログにこんな記載があった。元の記事は能の「安達原」に関してのもので、私は無粋な人間なのでその内容にはまるで関心も理解も欠いており、記述の一部を文脈を外して取り出すのはまずいような気もするが、やはりあえてそうせずにはいられないのである。内田氏は、知り合いらしい方が「安達原」を新解釈で演出(能にそんなのあるのか)したものを見に行かれて、「『鬼であることは婆であることよりも気持ちがいい』という『疾病利得』をふまえたものだ」という理解によるものだと見抜かれるのである。
どうして、人間が鬼になるのか。これは内田氏自ら、精神科医の春日武彦氏から伝授された教えなのだという。「鬼婆の疾病利得は『フィジカルな快感』である」とまで言い切られるのだから、それは単なる耳学問ではなく、彼自身の世界観の一部になっているものなのだろう。
「鬼になって人を食らう」というのはあきらかに深く精神を病んでいるということである。
しかし、人間は決してただ精神を病むのではない。
「見返り」がある場合しか人間は狂わない。
実際、そういう印象を与える患者たちは数多い。ほとんど理不尽ともいえるような抑圧的環境で、ただお仕着せがましい介護をうけて暮らしているような慢性患者が、急性症状を示し始めると見違えるような雄弁とはつらつとした行動力を示して、昨日までの秩序を攻撃しはじめるようなことは、この業界で暮らしているとしょっちゅう経験する。これはいわゆる精神病の範疇だけでなく、老人性痴呆などでも見られることである。ヨボヨボの老婆の腰が突然すっくと伸び、考えられぬスピードで「夜嵐の音に失せ」んとばかりに堂々たる徘徊行動を見せたりする。
精神疾患をある種の実存のあり方として分析する立場というのは、近代的な意味では精神分析にその起源があるといえるが、悪霊とか悪魔などの、反理性でありながら一つの論理に導かれたものがその背景にあるという見方がやはりその根源になるのだろう。狂気に捕らわれる人は、魔に捕われているのであって、おそらくそれは日常的な倫理からみれば、かなり許し難く気持ちE原則に従っているに違いないと思われていた時代もある。
私自身、この商売を始めた頃は狂気を一種の自足した砦のようなものだと理解しようとしていて、そこに籠もる論理を解明していき、ノーマルとされる世界に対して有効な対応に置き換えていくことが出来ると信じていたこともあった。しかし、さすがにそういう素人が考えつくようなことではないらしいと反省するようになるだけの落ち着きは取り戻せたし、そうなって初めて理解できた病者の現実の方が多かったともいえる。
正直いって、精神医学という領域では、「狂気の創造性」(バリエーション多数)を称揚するド素人と、「狂気の破壊性と悲惨」からいかに病者を守るかと苦悩するプロの闘争が、けっこうイーブンで進行しているのである。それはプロの側に、つまらぬパターナリズムに基づいた管理主義ぐらいしかないという、決定的弱点がいつもついて回ったからでもある。
内田氏のいう狂気にともなう「フィジカルな快感」というのは、この「狂気の創造性」というアホな思い入れとは少々スタンスが違うのだが、それが何か永続的な実体をもたらすようなものだと誤解させるところで、「創造性」論と同根だといわざるを得ない。狂気はどんなものであれ、やはり生の全否定、すべてが虚無に呑み込まれる恐怖と戦慄に彩られた危機である。それに襲われた人々が、一時の「フィジカルな快感」のなかでその恐怖を少しでも癒そうとしようとも、それはやはり「見返り」とはいえないのである。
投稿者 webmaster : 2006年01月16日 23:46
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まさか。
狂気がそんな安直なヒステリーみたいなもの(それだって、誤解の上に成り立つ俗説ですが)ばっかりだったら、誰も苦労しませんわ。
誰も見ていなくたって狂気は存在しえます。神様が見ているなんて言い出すなら別だけど。
投稿者 Webmaster : 2006年01月22日 21:06
「見返り」というのは隠喩だと思いますよ。他者から見られているという。
投稿者 Shuji : 2006年01月22日 15:14
本物の狂気に打ち震えるひとを目の当たりにしたことのある精神科医なら、見返りなんて決して言えないと思う。それは、恐怖と戦慄の中に身を置き、おし潰されそうになり、どこにも逃れられない状態です。
春日氏の文章は、数点しか読んだことがないが、他者と距離を取りすぎていて、あまりにも冷静、評論家的態度でおっしゃる方で、眼前にいる人の戦慄が、全く伝わらない技を身につけた、精神修養のできたかたのようですね。
統合失調症の診療では、実際、ひどく困らされることも多いのだが、この戦慄と恐怖を少しでも共感できると、何とかしてあげたいという治療者としての心が湧き起こります。もちろん、うまく行かない場合も多いのですが。
狂気に見返りがあると春日氏が言っているのは、数十年も狂気に苦しんだ結果、完全に精神が荒廃し、守られた閉ざされた世界で、お花畑にいる状態のひとのことを指して言っているのでしょう。でも、それが狂気の唯一の見返りなら、あまりにも悲しすぎるという感性すらないのでしょうか、春日さん。
そんな狂気の現実を、少しでも知って頂けたらと、日頃そのような方達と接している専門医として、書かざるをえませんでした。
投稿者 同業者 : 2006年01月20日 02:50
性善説/性悪説についてよくわからないけれども、性悪説が正しいとするならば、狂気ってのは特に問題にする事ではないような気がする。
投稿者 uhyo : 2006年01月17日 21:08
狂気の見返り:運がよければ「天才」と言ってもらえる。昔は死んだあとだったが、最近は生きているうちに言ってもらえますね。
いわゆる「失敗利得」もとい「疾病利得」に関しては、メンヘルさんのサイトなどで見かけることはあります。それ自体、「助けて!」って叫びなのかもしれませんが。
こちらは車の試運転ができそうなくらい雪が解けました。勤務の方、どうもお疲れ様です。ご自愛下さいませ。
投稿者 Hiroko_Y : 2006年01月17日 07:31
今日の記事を読みながら何かのイメージがちらちらと頭を掠める。
「尼僧ヨアンナ」だ!
投稿者 小狸工房 : 2006年01月17日 03:33