« I Don't Like Mondays | メイン | 歌う小便器 »
職場の突発性宴会(といって、忘れていただけ)に出ることになり、ネタを用意するヒマがないので他人の記事に小判鮫。それもかの内田樹氏が格調高くE.レヴィナスなどを引用した文章を使わせていただく。
内田氏はまず養老孟司を引用し、こう論点を設定する。「目が覚める、つまり意識が戻ると、たちまち『同じ自分』が戻ってくる。一生のあいだ何回目を覚ますか、面倒だから計算はしない。しかしだれでも数万回目を覚ますはずである。ところがそのつど、『私は誰でしょう』と思うことはいささかもないはずである。つまりそのつど『同じ自分』が戻ってくる。それなら『同じ自分』なんて面倒な表現をせず、『自分』でいいということになり、いつの間にか『自分』という概念に『同じ=変わらない』が忍び込んでしまう。」(養老孟司、『無思想の発見』、ちくま新書、2005年、39頁)
生物学的にみても我々は常にリニューアルというか、リビルドされていて、同じものではないはずなのに、それを同じ自分として恥じない怠惰を我々は引きずっているということらしい。正直言ってそれがどうしたといいたくなる話でもあるのだが、養老氏と内田氏はそこに我々の知性の危機をみておられるらしい。
「面倒な表現をせずに」、「そのつど自己同定された自分」と「永遠不変の自分」をまとめて同一名称で「自分」と呼んでしまう人間の「怠惰」のことをレヴィナス老師は「同一者」と呼んだ。私にはレヴィナス=内田連合軍の高邁な哲学理論にたいして、ギャグのレベルでも論究する能力はないが、これを読んである自分の体験を紹介する意義はあるかと思ったのである。
レヴィナス老師が私たちに求めたのは、いわば、目が覚めるたびに「私は誰でしょう?」と問いかけるような「知性の次数」の繰り上げである。
目覚めるごとに「私は誰でしょう?」という自問を行う人は、「そう問いかけている人」と「そう問われている人」のあいだの「ずれ」に引き裂かれる。
その「引き裂かれてある」という事況そのものを「主体性」と呼びませんか、というのが老師からのご提言だったのである。
というのは、我々は電気けいれん療法(ECT)というのを治療行為として行うことがあって、こいつがかなりの確率で健忘を来す。タップリやりすぎた場合には、「自分が誰だかわからない」というような重症の健忘症状を来すこともある。ECTは自殺念慮の激しいうつ病には著効を示し、その妥当性という問題はありつつも、なかなか棄てがたい治療法であるのだが、手技上でかなりの配慮をしていたつもりなのに、「俺、誰だっけ」という発言を聞くと、さすがにこれはまずいと思うものだ。
しかし、考えてみればその場合だって言語能力までは失われてはいない。その事実からすればレヴィナスのいう主体性なるものは、言語能力の下位に来るものといえよう。しかも、こういう一時的侵襲による自己意識障害は、放っておけば自然に元に戻るのである。その回復過程では、「『そう問いかけている人』と『そう問われている人』のあいだの『ずれ』に引き裂かれ」つつも、努力などとは無関係に、そのズレは勝手に回復していくのである。
そういうことからすれば、人はその生物学的作りからして、変らぬ自己というものを常に自律的に再構成する機能をもっているということが出来よう。老師は難しいことをいってくれるのだが、生物学的仕様を乗り越えろといわれてもちょっとな、と思わざるを得ない。もちろん、「俺、誰だっけ」と問うとき、それは自分の日常的立ち位置とは全く離れたところから問うているわけで、現象学的還元の極にいるといえる。そして、それはやがて全く「知性」をへることなく全体性を回復するのである、
引き裂かれてありつつも、ごく自然にそれは日常的自己意識に回収され、変らぬ自分というものが再び再構成されるわけであるが、そうしたしぶとい日常意識を、ご立派な哲学理論はどことなく「下郎の自己」として低く見ているのではないかな、それでは多くのものを見逃すのではないかななどと、まるっきり訳もわからぬままに心配してしまうのだった。
投稿者 webmaster : 2006年01月30日 23:43
このエントリーのトラックバックURL:
http://med-legend.com/mt/mt-tbcba.cgi/695
生物(動物)としての人間にとって、自己意識は精神神経機能の中でとりわけ脆弱です。
侵襲に会えば、脆くもバランスを崩しますが、しかし、生物学的自己意識は、意識と無意識の総体的なバランスが自律的に再構成する機能により、比較的容易に回復することも確かな事実です。
生物学的に自我を侵襲、混乱させられた急性期統合失調症のひとが、生物学的急性期を脱して、実存的(動物ではなく人間としての)な自己も回復していくと、
再び実存的自己と世界との対決をしなければならず、この過程における治療(と呼ぶのが妥当かどうかは別にして)が、いかに重要であるかは、議論の余地のないところです。治療の実情はともかくとして。
近年、ボーダーラインと呼ばれる人たちが急増しており、ボーダーラインという概念が作られていった数十年前の診断概念から、はみ出してしまうような、プチボーダーの人たちが増加しています。
実存などと言う言葉がほとんど死語になってしまった現在、自己存在感を確認するために、リストカットをし、自己から逃れるために、過食嘔吐を繰り返し、常に誰かと一緒に居ることを求めて自己を埋め合わせていくことで、実存的自己と世界との直面あるいは対決を避けています。
何故この様な事態になったのか、いろいろな仮説が頭に浮かびますが、原因を徒に究明しても仕方ありません。
一精神科医として、どうしていけばよいのか、自問自答の日々で仕事をしています。
結局、彼女、彼らに、適当な距離感で付き合っていき、そこそこの信頼を得た上で、大人の道をたまーに説くしかない、それがベストだと分かってはいるのですが、
何とも歯がゆい思いにさせられる事も多いのです…
投稿者 同業者 : 2006年02月03日 07:32
自己意識というものは、生物としての人間存在にとっては、それほど高い階梯に位置するものではないのではないか、というのが私の考えです。
もっと日常的なところ、例えばライブドア事件にたいして、堀江氏をあるときは旧体制打破のヒーローとしてとらえ、ひとたび地に落ちるや全存在否定するような「見識」のあり方にたいする批判として、「私は何者か?」という問いは意味があるでしょうね。そんなセコいレベルじゃないよ、といわれるんだろうけど。
レヴィナスの哲学はナチの強制収容所という、最低限の安全保障感すら許されない場所で熟成されたもので、しかも、ナチを支える哲学を作ったハイデッガーには、レヴィナス自身、一番弟子として師事していたという皮肉もある。自分を規定していたあらゆる前提が無力になる状況の前で、自己というものを維持していこうとする必死の努力として、その主体性哲学(といえるのかどうか知らんが)を見るべきなんでしょう。
投稿者 Webmaster : 2006年02月01日 07:16
「私は何者か」という「哲学」的な問は、生体としての人間にとっては、ノイズにしか過ぎないでしょう。ノイズも時として重要な警告であったりするという意味でだけ貴重なので、哲学する人はそれをわきまえて欲しいですね。生体にとっては「安全保障感」は何よりも重要なことで、既知に安住して未知のものを恐れたり、警戒するのは全然おかしいことじゃない。だいたい、安全保障感を喪失することがどれだけ大変なことかは、精神的な疾患をわずらった人を一度でも見たことがあれば、わかるはずだと思うんですが。。。。
投稿者 遅れてきた少年 : 2006年02月01日 05:55
「昨日までとは違う私」を自認するのもまた良かろうかと。
日々是成長、日々是変化。
時には自分に言い聞かせ。
投稿者 小狸工房 : 2006年01月31日 21:57