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2006年02月04日  「日本語教育」論議(?) [ウェブサイト]

アルファブロガーの矜恃高いfinalvent氏による、「極東ブログ」の2月4日の記事に、「日本人が日本語など学ぶ必要はない」というエントリーがあった。どこかのブログに「英語を学ぶ前にしっかりとした日本語を学べ」というマヌケな主張があって、くだらないのを承知の上で反論したのだという。

母国語というのは、学習とは無関係に、少なくとも話し言葉のレベルでは、「語彙」ということさえ別にすれば、完璧な能力を手に入れることが出来るのは、チョムスキーを引くまでもなく常識的な事である。文体なんてものはほとんど自己満足みたいなものだし、今現在、日本語運用に困っている連中がどこかにいるかといわれたら、どこにもいないのは明らかなのだから。ロスやマイアミのレストランで、英語で注文も出来ずに困っている日本人は山ほどいますがね。

さすがに天下のアルファブロガーfinalvent氏、鋭いコトいうわいと思ったのだが、ここで触れるまでもないマヌケな意見とされている「日本語学習必要論」をつい最近読んだような気がするので、必死に記憶をたどれば、それは内田樹氏のこちらの主張に間違いないと思われる。まあ、昔からある陳腐な主張の一つとはいえるので、リンクも示していない極東ブログの批判がこれに向けられているとも決めつけられないが、ここまで時間的な近接性があれば、まずこれを対象にしたと思って間違いないだろう。いままでだってfinalvent氏は、内田氏の主張を否定的ネタにした経過はあるのだし。

そして、その内田氏の主張を読んだ時は、そうだそうだその通りだと、まことに欣快の意でもって納得したような気がしたのが私みたいな見識のない人間の特徴である。まともに日本語も書けないような連中に、英語教育もクソもなかろうとうのは全くその通りであるからだ。英語が必要といったって、ナイスチューミーチュー、ディスワンプリーズで済む人がほとんどのわけで、実際ちっとやそっと頑張ってみたって、向こうの頑迷なインテリ相手に「天皇制の普遍性と共和制理念の架橋可能制について」なんて内容を語り合えるようにならないのは、どう見ても明らかなのである。

そうならちゃんと母国語で論理的主張を出来るようにしよう、文体のほうもブラッシュアップしていこうというのは当然の主張だろう。もし毛唐とその手の問題で話し合わなければならなくなれば、そういうことが得意な職人さんを連れて来ればいいだけのこと。もちろん、その職人の手腕を評価できるだけの、一般的知識を持っておくに越したことはなけれど。

内田氏は明らかに書き言葉、それも自分が糧を得ているような学術的レベルの論述を念頭に置いた発言をしているのに(違ってるかも知れんけど)、finalvent氏はあえて日常言語の話として自説を進めておられるようなのだ。相手をおとしめるテクの一つとして、論述レベルをずらすというのは常套手段なのだが、ウェブでやっても意味はなさそう。少なくとも論説を売りにしている相手にたいして、リンクなしで陰口的にやるのも、にちゃんねる名無しさんを相手にしているわけでもなし、あんまり見ていて気持ちのいいものではない、ってそういえば自分でも何回かやったことあったなぁと思い出してしまったり。

私の意見をといわれれば、古今の文章群なんて読む奴は放っておいても読むし、読まない奴は首根っこ捕まえても読まないわけで、最低限度の読み書き(少なくとも古文漢文現代文)を教えておけばいいのでは。英語は"sentenced to prison for 25 years to life"が訳せるレベルということで。つまらん授業の代わりに、本だけ読んでりゃいいような時間があれば、それは素適なコトだとは思うけど。ネットを見てりゃいいことにすりゃ、それでいいんじゃないかなぁ。

投稿者 webmaster : 2006年02月04日 23:44

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コメント

> 名文を一杯読んだからといって、
> 身に付くものかというのは疑問です。
そうですね。
何が言いたいのか訳わからん毎朝新聞を読む方が、
読解力が身に付くかも知れません。
私はそれで鍛えました(笑)

投稿者 スポック : 2006年02月07日 02:07

それがね、
プラモデルが組み立てられない人もいるの。
図面と文章から特定の作業を導き出す、というのがさっぱりなのですな。
もちろん私もごく幼い頃に年齢不相応な大物キットに挑戦して涙を飲んだことも多々ありますが。
というわけで自閉症児の改善プログラムにプラモデルが用いられたりしますね。

意識的に学ぶ必要も(本来はね)無いでしょうけど、理想的なのは日常のレベルで示唆に富む環境が良かろうかと。
我が子に善い本を読み聞かせる、子供の話を丁寧に聞いて真面目に応える、などなど、幼子に真剣に向き合う生活ですね。
念のため申し上げますが、ここで問われているのは子供さんの能力ではなく大人の側の資質であります。
近頃つくづくと思うのが、文化の伝播というのは常にプラス方向にばかり働くものでは無いのだなと(脱力笑)。大人の側がナニだとナニの資質も子供に伝染するものなのだなーと。

投稿者 小狸工房 : 2006年02月07日 01:52

>後半まで読ませていただくと、ちょっと違うかも

最後のあたりは完全にネタ志向ですからなぁ。そういうところが実にいいですけどね。「日本語学習なんぞいらん」といっておいて、破甕救児(青空球児の親戚かい?)の故事来歴をひけらかす人よりよっぽど好ましい。

私もちょっと教師体験があるけれど、ホント、まともな日本語を書けない奴というのは数多い。だから内田センセーがああいうのはよく判るんだけれど、名文を一杯読んだからといって、身に付くものかというのは疑問です。

投稿者 Webmaster : 2006年02月06日 22:00

小学生の頃、悪知恵を働かせて、悪ガキ仲間と宿題を分散処理していました。算数の宿題では(テストでも)およそ単純計算問題10問と、応用問題(文章から式を立てて解く)1問が同じくらいの配点でした。私は七面倒臭い計算問題は大嫌いだったので応用問題担当だったのですが、この「文章から式を立てて解く」ということを全く出来ない悪ガキが結構いたのです。そしてそれと同じようなことは、大学生になってからも多々ありました。大学の講義中に教授から「君はもっと日本語を勉強したまえ」と嫌味を言われた友人を何人も目撃しています。内田樹先生が仰せになられた「ときには世間さまに向かって直訴したいことだってある。せっかくの機会であるので、ひとつだけ直訴することにした。日本語教育をちゃんとやってください、というお願いである。」という一節は、このことを言いたかったのではないか?と私は思えるのですが、後半まで読ませていただくと、ちょっと違うかも。

投稿者 スポック : 2006年02月06日 20:11

>この人、境界例の典型を見せている

ご指摘のサイトはざっと読ませて頂きましたが、嫌みったらしい自慢話が延々と続くのが退屈なだけで、別に境界例とは思いませんね。大体、エリート街道まっしぐらの境界例なんてあり得ません。

人には不得手なこともあるということを素直に認められない傲慢さを、修正する機会がなかっただけなのではないでしょうかね。

彼の枝葉末節の勘違いを指摘して、なにか彼のキャリアを貶めたつもりになっているらしき投稿者の方に、よっぽど「境界例」っぽさを感じるのは一言余計かな。

投稿者 Webmaster : 2006年02月05日 23:43

はじめまして、極東ブログを見てからやってきました。
いま↓の掲示板が半炎上状態になっています。
http://www.ohtan.net/cgi-bin/bbs/ohta_bbs.cgi
この人、境界例の典型を見せているというのが私の見立てです。
専門の精神科医の方はどう診断しますか。

エントリーの「日本語教育問題」ですが、
大脳皮質内の、言語野と思考・推理をつかさどる部位とは近接したところにあるので、私は、言語能力と思考能力は相互補完的に発展・熟成するものだと理解します。つまり思考能力が未熟の状態で「日本語がうまくなれ」とだけ教育しても、その効果は乏しいといえるでしょう。

投稿者 根良2号 : 2006年02月05日 16:00

日本語教育論は、国民全エリート化の教育論の発展であると思われます。
昔は、読み書き出来れば十分なやつと、もっと高いレベルの教育を施すやつを分けていました。でも今は全ての子供は平等だという(私としては幻想としか思えない)前提の元に教育論が展開されているので、日本語教育論が妥当性を持つのでしょう。

結局、英語教育が必要なレベルの“エリート”であれば、その前に日本語教育が必要なのは当たり前なんだろうな、と思う次第。

投稿者 Tim : 2006年02月05日 15:01

こうなりゃ「卵が先か鶏が先か」になりますね。
先ずは母国語による思考と表現を確立してから外国語に取り掛かれと。
これも学ぶ、習うというレベルでなら有効でしょうけど、いっそ平行して身につけるとなればまた話は変わります。ハーフの子供さんなど日本語と英語で同時に思考してたりしてこちらがびっくりします。アメリカアニメは英語音声で大笑いしているものでこちらがついていけません(笑)。けど日本のロボットアニメもワクワクしながら見てますし。

ジョン・万もジョゼフ彦も英語に堪能なのに変わりは無けれども、二人とも日本語は仮名と方言しか使えなかったのであった。
日本語で何か書き表すときには助手を必要としたのでありました。
少年期に異国に渡り、みっちりと異国で学んだ二人にとっては高次の思考は英語で行ったほうが便利が良かったでありましょう。

何をもって自己を確立するかという命題に言語がどう係わってくるかでしょうか。

投稿者 小狸工房 : 2006年02月05日 11:33

>最低限度の読み書き(少なくとも古文漢文現代文)

「古文漢文なんてやるヒマがあったら、英語をやれ」という主張はいかがでしょう?

投稿者 Satoshi Tanabe : 2006年02月05日 06:57

はじめまして、nadmirerと申します。
内田センセイのブログからやってきて、しばらくヲチしておりました。ということで、この記事にコメントさせていただきます。内田センセイは、英語の前に日本語だろ、と述べた上で、「ロジカルで音韻の美しい日本語の名文をとにかく大量に繰り返し音読し、暗誦し、筆写するという訓練を幼児期から行うこと」を提言されるわけですが、名文とされているものをひたすら暗誦するといえば、英才教育を思い出してしまいます(『論語』とかを児童に暗誦させている幼稚園があったような…)。でも、『反社会学講座』(著者はどうやら、社会統計調査の専門家らしい…)という社会学のパロディ本では、英才教育に明白な効果があるとすれば、英才教育に関する出版物に、宣伝効果を考えると「わたしはこれで成功しました」的な体験談が載っているはずだろうが、そんなの見たことがねえよ、といって、これに疑義を呈していたりします。
「極東ブログ」のfinalvent氏は、2月4日の記事で、生活実感に根づいた言葉によってこそ人は育まれるべきだと主張されているように見えたのですが(当方、古典文法の知識が皆無に等しいので、当該記事の後半の主張がきちんと押さえられていないかもしれません…)、どっちもどっちなのではないのかな…と思いました。
言葉は、実生活における(物理的な意味でも情緒的な意味でもの)営みを通して、その運用がわたしたちに身についていく側面が大きいことは確かでしょうが、書物などを通して様々な語彙や使用法に触れることで、実生活において、わたしたちの表現力が生活実感を超えたところにまで広がっていくことを可能にする側面もあるような気がします。
「使える日本語」を身につけるためには、そのどちらも必要なわけですから、もしかすると、(「しっかりと日本語教育しる!」と主張する)内田センセイも、(「しっかりとした日本語などは必要なときに身につければいいお!」と主張する)finalvent氏も、「言葉を愛すべし」という点では意外と同じなのかもしれないですね。
と考えると、Webmasterさんが、陰口的な言いがかりでは、と仰るのもなんとなく納得できてしまうような。。

投稿者 nadmirer : 2006年02月05日 06:49

となるといずれはまたもや「何をどう学ぶか」の問題になりますね。
一口に英語と言っても、もちろん新聞や機械の操作マニュアルなら専門用語は別にして、文法そのものはごく単純なものに収まりますから。論旨を展開するのに難解な言い回しは逆に邪魔にしかなりません。
主体と客体、時系列の組み立てなどの基本的な文法さえ理解できていれば意思疎通にはさほど不自由しません。
それ以前に、母国語に不自由するというのはそもそもそうした思考が成り立っていない状態を指すわけで。ものを考える以前の段階の若者が多いのでしょうね。
獅子丸ちゃんが部下に報告書を書かせるのにテニヲハから教えてやらなきゃならんと嘆いておりました。
言語として自身の内に大系付けることで思考を整理するのであります。だからこそ近年改めて読む、書く、話す、の国語教育が叫ばれているわけで。
主語を省略して話す癖のある人にSVOCとか説明してもなかなか飲み込んではもらえません。

というわけで基本に返って
「俺、ターザン」(笑)。

投稿者 小狸工房 : 2006年02月05日 02:48