昨日の「内田樹の研究室」エントリーに「不快という貨幣」と題し、「なぜ若者たちは学びから、労働から逃走するのか」という問題の考察があった。こうまとめると違うような気もするが、ニートと総称される若者たちが出現してくるメカニズムに対する大胆な分析である。内田氏は「現代日本の家庭内で貨幣の代わりに流通させているもの、そして子どもたちが生涯の最初に貨幣として認知するのは『他人が存在することの不快に耐えること』」だと喝破する。そして、自分が感じる不快との等価交換となる不快を家族メンバーに提供するという「労働」を通じて、「深い達成感と自己有能感を感じることができる」のだ、とされるのである。
したがって、そんな若者たちに古典的な価値、将来に備えて学業に励み、労働を通じた社会参加で自己の達成感を得るなどと言うようなおためごかしを問うことなど、まったく無意味なのである。彼らは困りものとして他者に不快感を振りまいているその瞬間に、充分な自己達成感を得ているのだし、そうでないにせよ、少なくとも不快感の帳尻あわせというリアルな「経済活動」に忙殺されているのである。
最近、論説系のブログをみていると内田氏にイチャモンをつけて叩くのが流行であるかのような印象すらある。そういう批判者たちの業界内博識披瀝言説の中には決してみられない霊感が、彼の議論にあるのは間違いないところなのだけれど。私も以前、「狂気の見返り」論で疑問を呈したことはあるが、あれなどは、ヒステリーレベルと精神病レベルの混同という問題である。あれをもって精神医学一般にどうこう言われるとちょっと困るが、ブログは発想ノートなんだろうから、そうカリカリ言うべきことでもなかったかなと今は思っている。
定義という点ではいささか怪しいニートであるが、これは私などが医療の対象にしている引きこもりや家庭内暴力例のこととして、狭い範疇で考えると内田氏の「不快交換価値説」はより正当性を増すと思う。実は私も昔それに似た「引きこもり家庭内暴力=ネガティブサービス提供説」というのを主張していたことがあるのだが、それを妙に機能論的に捉えてしまっていたものだから、それ以上の展開が出来ずにいた。ではこの内田説をもとにすれば、引きこもり者たちの閉じられた世界の中だけで通用する合理性を打ち破り、何らかの治療的方法論を得られるかと言えば、それは同じことではあるのだが。
まあ、彼の業界ではそんなことは別に目的にもならないので、現実への適用というのは我々の課題である。取り立てて確立された治療手順というものもないこうした例にたいして、様々な接近法を発想する一手段として意識しておくべきことであろう。もちろん、こういう例に「世のため親のため、コンジョ入れ替えて生まれ変われ」なんて説教が無駄であることなど、誰もが熟知していることなのだけれども。
内田説を援用して、本格的な病気でもなく、精神医学的には人格障害と言っておくしかないようなケースが「回復」していく過程を傍観者として見ていくなら、彼らは精神病院という人に不快を与えるという機能に特化した施設の背後に、社会国家そのものの卓越した不快提供機能を発見していくようである。その圧倒的ネガティブパワーを悟り、自身の閉じた勤勉労働生活を切り上げることで見かけの改善が得られるといえようか。したがって、このレベルでいいならば治療方針はじつに明快。具体的に書くと炎上につながりそうなので書かないけれど。
投稿者 webmaster : 2006年02月24日 23:55
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でも切れ味の良いナイフは商品価値ありますよね。
投稿者 鳴子 : 2006年03月07日 20:52
簡単にいえば、「あんたの不快は商品にはならんよ」と言う態度を周囲が徹底する、というだけのことです。
彼らは今現在の価値交換の偏りだけを問題にしているので、その枠組みはいただき、交換価値として認められるようなモノを提示するまでサラ金催促テクで対応すると言うことですな。
投稿者 Webmaster : 2006年03月02日 00:10
うーん・・・・とりあえずその「治療方針」はお伺いしたいです。
炎上するのは確かにいやですけど。
投稿者 天婦羅★三杯酢 : 2006年03月01日 16:17