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2006年05月19日  桶狭間の合戦 [今日は何の日]

446年前の今日、2万5000強の大軍をひきいる今川義元の本陣に、その数4000という、圧倒的劣勢であった織田信長の軍勢が奇襲をかける。戦国の世に決定的な方向性を定めることになる、いわゆる桶狭間の合戦が戦われたのが1560年5月19日のことであった。

いままで何回この合戦をテーマにしたドラマを見たか数え切れないほどなのだが、それらに共通していたのは織田信長の情報力の勝利というものである。いわく、前もって諜報員を展開していた信長は、義元の軍列が前後に伸びきっていて、本陣は少数の側近だけに守られて山間の狭隘地で休息していると知り、ただ義元の首を取ることだけを目的にして電光石火の奇襲をかけた。なかには、奇襲直前の驟雨さえ信長は予測していた、というものまであった。

様々な歴史サイトを読んでみると、こうした桶狭間戦の筋立てはどうも後世の創作らしい。もっぱらWikipediaの記述に基づいてこの合戦についての諸説を読む限り、この戦いは義元軍侵攻になすすべがなかった信長が小児的退行に陥り、後先なしにせめて一太刀を浴びせようとしたヤケクソの自爆攻撃であったようだ。

歴史ドラマでは、前日に義元軍接近の知らせを聞いた信長が、部下になんの指示も出さずにさっさと寝てしまったことを、「敵を欺くにはまず味方を欺け」という戦術であったかのような描き方がされるのだが、これは単にうろたえた信長が判断停止に陥ったということらしい。現に次の日には早朝覚醒して、少数の側近だけを引き連れ現地に向かうのである。一体、それのどこが戦術だったということになるのか。なんの足しにもなっていない。

熱田神宮で戦勝祈願をしつつ軍勢を整えたといわれるものの、清洲城から熱田神社までは10㎞強である。それに4時間もかけたことになっているので、本当なら昨夜のうちにやっておくべきだった軍への組織命令を出しながらの、ドロナワ行程であったと思われる。そこからは仕方なく腹を決めたのか、残りの10kmの道筋を、4000の軍勢を引き連れながらも2時間で到着している。

そこで有名な奇襲にいたるのだが、情報を得ていたにせよ、地形などから予測していたにせよ、本陣の孤立に乗じた一点突破戦術を仕掛けるなら、信長自慢の鉄砲部隊でも動員しておけばよかったのではないか。数百丁で打ちかければ、少数の近衛部隊なんか、あっという間に粉砕できたはずだ。Wikipediaの記述を信じるなら、信長は単に目の前に現れた部隊に対して、局面的勝利だけを目的にした攻撃をかけただけのことらしい。たまたまそれが義元の本陣で、しかもたまたまラッキーな勝利に終わったため、歴史は大きく動くことになるのである。

運も実力のうちとは言われるけれど、やはり運だけでは最終的な勝利をえるには充分でないらしいという教訓を、我々は信長の故事から得るべきなのかも知れない。

投稿者 webmaster : 2006年05月19日 23:50

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トラックバック時刻: 2006年06月12日 14:33

コメント

今まで、「桶狭間=伝説の場所 田楽狭間=史実の場所」みたいに単純に理解してたんですが、いまだ名古屋市(緑区)と豊明市(栄町)との間で、決着はついていないんですね。

百科事典(平凡社)の「尾張国桶狭間村(現,名古屋市緑区有松町)・大脇村(豊明市)一帯の起伏の激しい丘陵地帯で迂回奇襲し」という記述も、よく考えると苦労してますね。名古屋だか豊明だか、山なのか谷なのか……。

投稿者 風鈴’ : 2006年05月22日 19:32

まぁこの手の歴史に関する流布された話は、後世のフィクションの白髪三千丈的誇張と、当時の軍事状況を近現代の常識と違うことに留意しないところに、誤解してしまう原因があるのではないかと思うです。長篠合戦や武田騎馬軍団みたいなヤツの通説(俗説)は正にこの類でしょう。

桶狭間の信長の行動にしても、「単なるヤケクソ」だけであるとは言い難いのやろうと思います。今川軍は他国への侵攻軍ですから2~3万の大軍とはいえ、戦況が進めば拠点防衛に在る程度分散せざるを得ず、そのウチの小勢を選んで相手にすれば、嫌がらせ程度は出来るので、時間稼ぎになると思てたんではないでしょうか。

しかも、兵農分離が成される前で、かつ侵攻軍ですから、どうせ農繁期になれば自分の国に帰らざるを得ないと言うことは自明で、勝てなくとも時間切れに持ち込むことを考えてたと推測するです。

当時は領主(とはいえ当時は、信長はまだ終わりの国主ですら無かったと思いますが)は、絶対権力者と違て武士という武装地主の連合体の親玉ですから、「この親分は頼りにならん」と思われたら終わりなので、とりあえず抵抗してるぞと言うとこは見せないと、たとえ生き残っても次がないことを知ってたはずですしね。

もちろん、これを巧くやり抜くのは、とっても難しいことだったと思いますが、ソコをやり抜けたのが運であり、ある種の才能やったんでしょう。

投稿者 温泉カワセミ : 2006年05月21日 22:48

よくドラマで使われる、信長が多数の鉄砲を護衛に装備させ正装で斎藤道三を訪れたというエピソードと、数年後の桶狭間戦の経緯は矛盾しているではないかということなんですが、そもそも初めの話がまったくの創作(とはいえ『信長公記』由来)らしいので、矛盾もクソもありませんわなぁ。

それと、確かに雨の中では一定の制約があるとはいえ、専門家に言わせると「火縄銃は雨に弱いと思われがちですが、意外と平気です」とのことですよ。
http://www.rmc.ne.jp/hino-net/190.htm

投稿者 Webmaster : 2006年05月21日 10:00

>信長自慢の鉄砲部隊でも動員しておけば
>よかったのではないか
雨が降っていたらしいので火縄の保持が出来ず、
無理ですね。あと、この頃、信長の経済力は
あまり無かったはずですから、鉄砲隊というように
鉄砲を戦力として集団化できたか疑問です。
なんせ高価な兵器でしたから。

地形も鉄砲向きではありませんし、
ワーテルローのマスケット銃隊のような活躍は
少なくともありえなかった展開でしょうね。

雨が降ったのがすべてを決したんでしょう。
美濃は和傘の名産地、もしかしたら信長軍は
雨の事前予報は出来たかもしれません・・・。
私のトンデモ説ですが。

投稿者 : 2006年05月21日 04:20

血判だか血痕だかの分析からそうだと言われるそうですが、根拠には乏しいようですね。
私としては信長に西洋型合理主義を伝授した宣教師の本意を知りたい。

時に歴史が人を選ぶこともあろうと。

投稿者 小狸工房 : 2006年05月20日 21:07

確か、桶狭間の日って雨が降ってたんじゃなかったでしたっけ。

投稿者 ちりん : 2006年05月20日 16:26

 いつも、貴ブログを興味深く拝見させて頂いています。
 確かに信長は幼児退行的な行動で、単に運が良かったのみで桶狭間で勝利したと見るのが常識的な判断かも知れませんね。
 しかし、天才の極限状態での判断とか行動とかというのは、第三者から見ていると信長の桶狭間戦での行動のように非理性的なだけに見えるのかも知れないと思います。桶狭間では、天が信長を助けたのでしょう。
 信長が真に軍事的に有能だった事は、桶狭間以降の合戦では、一度も奇襲攻撃というイチかバチの戦法を採用せず、常に敵より多数を構成して正攻法で勝ちを取りに行っていることだそうです。
 金箔漆塗りにした浅井長政父子のシャレコウベで酒盛りをするなど、信長には気違い染みた性格を感じますが、本願寺で光秀に討たれるまでは、天が味方し、軍事的才能に支えられた異色の戦国武将であった事は間違いないのでは、ないでしょうか。

投稿者 屋根の上のミケ  : 2006年05月20日 08:41

Wikipediaで信長の血液型がA型となっていましたが、何故分かるのですか?

投稿者 サクラ君 : 2006年05月20日 00:51